英雄たちの選択「武田信玄 幻の西上作戦 ~対信長最終決戦~」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択「武田信玄 幻の西上作戦 ~対信長最終決戦~」[字]

今年は、戦国最強といわれた武田信玄の生誕500年。信玄が、死の直前、生涯最大の敵・織田信長・徳川家康と激突すべく西へ侵攻した「幻の西上作戦」を徹底分析する。

詳細情報
番組内容
戦国最強の猛将といわれた信玄のイメージは、ここ10年あまり、周到で緻密な戦略家という姿が、浮き彫りになってきたという。中でも、信玄最晩年の「幻の西上作戦」は、その最高傑作と言われる。怒とうの快進撃で、西を目指した信玄軍は、突如、家康の浜松城の近くに現れ、三方ヶ原の戦いで、家康軍に徹底的な打撃を与えた。徳川領にとどまり、家康を討つのか?西へ向かい信長を討つのか?信玄の最終決戦の選択に迫る。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】平山優,飯田泰之,伊東潤,【語り】松重豊

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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戦国時代「甲斐の虎」と
恐れられた英雄がいた。

言わずと知れた
戦国最強の猛将である。

山梨県立博物館では

今年
生誕500年を迎える

武田信玄の ゆかりの品々が公開された。

中でも ひときわ目立つのが

信玄を描いた肖像画である。

こちらはですね…

…と書かれております。

柔和な表情を浮かべた その姿は

従来のイメージとは 全く異なる。

今 信玄の実像は
大きく変わり始めている。

そんな信玄が
生涯最大の敵と向き合ったのが

元亀3年10月
2万5, 000の大軍勢を率いて

西へと侵攻した…

信玄を前に
後の天下人

徳川家康は
大惨敗を喫した。

怒とうの快進撃で 西を目指す信玄。

信玄の目的とは 何か?

それは 「天下布武」
を掲げ

畿内に勢力を
拡大していた…

…を討つことにあった。

信玄は いかにして
信長との最終決戦を目指したのか?

武田氏の歴史に造詣の深い…

…が 謎多き信玄の
足取りを追った。

…というふうに考えられています。

信玄の西上作戦を巡り

スタジオに集う専門家たちが
戦国の英雄を語り尽くす。

私も史料を読んでて…

本当にね。

天下の覇権を巡る
幻の最終決戦とは?

戦国最強 武田信玄
生涯最大の選択に迫る!

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

さあ 今回の主人公はこちら。

戦国時代 最強と
うたわれた英雄

皆さん ご存じの…

今年 生誕500年を迎えた
信玄の生涯の中で

信玄が上洛を目指した
いわゆる 西上作戦。

「さいじょう」ともいう
場合がありますが

信玄の晩年に起こした作戦について
見ていきます。

磯田さんにとって信玄というのは
どういう武将でしょうか。

杉浦さんは 岡崎出身。
はい。

僕も浜松の大学 勤めてたから
両方とも 徳川家康目線に

なりがちなんですけど。
ええ。 フフ… はい。

徳川家康からしたら
恐ろしいですよねえ。

そうですよねえ。
だから 信玄生誕500年っていわれると…

はあ~。
そういう感じがしますよねえ。

本当に 戦国最強という名に
ふさわしい武将で。

強いんですよ…

で まさに
そんな信玄が起こした 西上作戦が

今回のテーマなんですけれど

この西上作戦って
どういう作戦だったんでしょうか?

まあ しかし…

…っていうのは
やっぱり ちょっと この番組で

考えてもみたいですね。
う~ん。

この先 信玄が何をしようとしてたかは

信玄の死によって中断されたので
分かんないので

今なお
その議論が尽きないんですけれども。

…とかね そういうとこを
深く考えていきたいですよ。

さあ それでは なぜ
信玄が西へ向かったのか。

その謎から ひもといていきます。

武田信玄の名が天下にとどろいたのが

上杉謙信との
死闘…

5度にわたる
国境を巡る謙信との戦いは

およそ12年に及んだ。

だが
信玄最大の敵は 実は謙信ではない。

後の天下人 徳川家康と織田信長である。

事の発端は
桶狭間の戦いで 今川家の当主

義元が討たれてから 8年後のこと。

弱体化した今川領に
隣国の信玄と家康が

密約を結び 侵攻。

それぞれ今川領を割譲した。

ところが これが対立の火種となる。

信玄が家康との密約を破り

国境である大井川を越え

家康の遠江へと
侵攻したからである。

なぜ信玄は
密約を破ったのか?

歴史家 柴 裕之さんは

戦国大名の同盟関係の
曖昧さを指摘する。

どうやら…

…みたいなんですが ただし

状況次第によって
というふうに どうやら

両者は
考えていたようなんですね。

従って 武田からすれば
どうせ家康は

ここまで 遠江の東まで
来れないだろうと。

遠江も押さえたい
と思っていた武田と

遠江を ちゃんと押さえるんだ
という家康ですね

その両者の間のズレが
出来てしまった。

まあ これが
衝突を生んだと思うんですね。

それが一点と もう一つは…

つまり 信長という人物を挟んで
交渉されているわけですので…

…そういったところも
考えてみなければならないかと思います。

このころ 信玄は
信長と同盟関係にある。

一方 信長は 信玄だけでなく

家康とも同盟を結び

両者の仲介を果たした。

ところが
信玄が徳川領へ攻め込むことで

家康と敵対。

更に今川家の当主を庇護した 北条

積年のライバル 上杉謙信と

信玄は 周囲を敵に囲まれ

絶体絶命の危機に陥ったのである。

その起死回生の秘策として

信玄は とんでもない手に打って出る。

信玄は なんと
10年以上抗争を繰り広げた

宿敵…

…を結ぼうと試みた。

川中島の戦いから 5年後のことである。

だが 同じころ
家康も謙信との同盟締結を進めていた。

家康は
武田家と織田家の婚礼を妨害するなど

信玄と信長の
同盟をも

破綻
させようと

画策していた
のである。

これを知った信玄も黙っていない。

家康は口先ばかりの嘘つきだと非難。

信長に
家康との同盟関係を解消するよう迫った。

更に信玄は それまで敵対関係にあった

北条とも同盟を締結。

信玄にとって…

こうして 信玄の西上作戦の下準備は

着々と整えられていく。

信玄が
傘下の武将に宛てた書状に こうある。

3年にわたる
鬱憤を

晴らさなければ
ならない。

3年にわたる
家康との抗争。

しかし 実は
信玄の恨みは

一人 家康のみに
向けられたものではなかった。

また このころ 東美濃

現在の岐阜県の東部
の状況でですね

信長との関係が
ぎくしゃくしだすんですけども

そのことを含めた中で

信玄はですね
織田信長との関係も

悪化してくことに
なるわけです。

信玄の恨みは 家康ばかりでなく

その背後で糸引く
信長にも向けられていく。

一方 信長は
このころ 窮地に立たされていた。

浅井 朝倉 本願寺や一向一揆の宗教勢力

そして 松永久秀など

周囲を 反信長勢力に
囲まれていたのである。

信玄にとって ついに
3年の鬱憤を晴らす機会が訪れた。

この年 52歳となる信玄は

家康 そして信長打倒の兵を挙げた。

総勢2万5, 000の大遠征軍。

信玄の その後の命運を左右する
西上作戦が 今 始まろうとしていた。

さあ 今年
生誕500年を迎えるということで

武田信玄に注目が集まっていますが

伊東さんは 数多くの
戦国武将を描いていますけど

信玄に対しては どのようなことを
お考えですか? そうですねえ。

やっぱり…

僕なんか子供の頃は
まあ 英雄豪傑の一人として

まあ 確かに周到で慎重というところの
そういった性格的な面っていうのは

以前からありましたけど
やっぱり

戦国大名の象徴のようなね
強さっていうのが

かなり強調されたような
イメージだったと

思うんですけど。
本当 ここ10年の間に

そのイメージが…

…みたいな そういった形に
変わってきてるんではないかなと

いうふうに思いますね。
うん エリートの参謀型タイプ。

あと 飯田さんは ちょっと聞きましたら

ゆかりがある というふうに
伺っているんですけれど。

もともと
飯田本家は甲州にありますけれども。

甲州の旧家というのは

大体 全部
武田に ゆかりがある。

そして
何軒かに1軒は

信玄公ゆかりの
何かを持ってる。

ただ真偽は
もちろん不明ですと。

飯田さんご自身は
どのようなイメージをお持ちですか?

毛並み? はい。

まあ 例えば
織田家にしても 松平家にしても

まあ 守護代か 何だったら
守護代の家の分家みたいな出自

なのに対して…

…ですから
その意味で ちょっと突出してる。

このぐらい古い家柄で
大大名っていったら

伊達 島津ぐらいなんじゃないですかね。

だからこそ あの新しく出てきた肖像画
ありますけれども。

もしかしたら
当時の人たちのイメージであったり

その 甲州の
まあ みんなにとっての武田信玄に

近いのかもなあと
思ったりもするんですよね。

非常に穏やかな表情を
されていましたよねえ。

平山さんは
もう ご専門でいらっしゃいますけれど

どのようなイメージを
平山さん自身は お持ちですか?

とにかく…

…というような傾向があるんです。

むしろ 準備をせずに動くと

さしもの信玄も負けると
いうようなことで。

例えば 2度 敗戦が
記録されてますけど

この2度の戦いの
前後を見ると

敵方に対する
切り崩しを行わずに

そのまま攻めにいって
負けてるっていうところがあるんです。

ですから信玄は
それ以後ですね

相手の陣営に調略を加え
情報をとにかく取ってですね…

…っていうのを的確に読み込んで

そして もう…

磯田さん 皆さんの武田信玄へのイメージ
聞いていかがですか?

私も史料を読んでて
信玄と戦うのなんて もう

ストレスで 参っちゃいますよ
本当にね。 ハハハハ。

軍師 磯田も 参るレベルだと。

うん。
はあ~。

磯田さん この西上作戦の目的
信玄の目的は 何だったと思いますか?

うん やっぱりね…。

信玄 持ってないもんがあるんですよ。
はあ~ 持ってないもの?

地図で見たら 赤い武田領って
結構 大きく見えるでしょう?

ええ。
だけど あれ ほとんどが山岳ですよね。

そういう経済的に弱い国っていうのが

軍事技術 持ってる場合っていうのは

チャンスに乗じて
相手をたたかないといけないんですよ。

やっぱり 穀倉地帯 握っているのは
信長 家康で。

で 信長が 今 ちょっと困った状態に
なってるわけですよ。

今ならやれる ということで

西へ向かったんでしょうね。
ああ~。 穀倉地帯 欲しいなと。

これは あの~
ちなみに この時点で

武田信玄は やはり 勝機があると
思ってるんですよね?

きっと。 そうですね 今 非常に畿内が
混乱しているということで

ここが 勝負どころっていう…

ああ~。

…っていうのが で後々これはですね

この 勝負どころ
見極める力っていうのは

例えば その信玄をよく
教師として学んだ家康なんかは

関ヶ原で グイと前に出ますよね。
ああ~。

どんだけ慎重で
石橋をたたいても渡らない人でも

勝負どころ
っていうとこでは勝負すると。

ああ~。
それが やはり できたのが信玄。

で そして
それから学んだ家康なんでしょうね。

う~ん。 さあ では
信玄が どんなルートで西へ向かい

どのように行軍したのか。

今回は 平山さんに
現地に行っていただきました。

信玄が実際に攻略して歩いた
お城の跡を見ながら

彼の考えた作戦をですね

ちょっと 復元してみようかと
いうふうに思った次第です。

さあ それでは ついに動き出した信玄。

いよいよ 西上作戦が始まります。

信玄は 2万5, 000の大軍勢を率いて

甲府を出陣した。

これまで
信玄率いる武田軍の侵攻ルートは

甲府から北上し 険しい峠道を越え

徳川領の遠江を目指したとされてきた。

しかし 柴 裕之さんの研究により

それまでとは全く異なる…

新説のルートでは
信玄は そのまま南下し

東海道を
西へと進軍した。

つまり 信玄は
険しい山道での行軍を選ばず

徳川領まで最も近い

平たんなルートを
選択したこととなる。

更に 新説を裏付ける
信玄の言葉が残されている。

高天神城を降し

明日 陣を進め
天竜川を越え

家康の居城
浜松へ向け出馬する。

その日付は
10月21日。

書状にある高天神城は

信玄と家康の国境近くに築かれた

徳川方の城である。

つまり 甲府を10月3日に
出陣した信玄は

その18日後
徳川領の高天神城辺りに

出現したこととなる。

従来のルートでは
ありえない道行きである。

ほかに何か史料はないかと
いうふうに探っていきますと

徳川家で作られた「当代記」という
史料があります。

で その史料の中で
この時の武田軍のルートがですね

遠江に向かうにあたって 信玄は

高天神表を通って
というふうに出てくるわけです。

やはり高天神を通ってきた。

まあ そういうふうな視点で見ますと

駿河方面から高天神を通って

静岡県中央部に行って
二俣の方へ向かってったと

そういうふうに読み解いた方が
いいんじゃないか

というふうに思います。

信玄は 2万5, 000もの大軍勢を率いて

徳川領までの100km以上に及ぶ道行きを
いかに行軍したのか?

およそ450年前の信玄の痕跡を

歴史家 平山 優さんが追跡した。

山梨県北杜市には

信玄が整備したと伝わる

戦国時代の軍事道路が残されていた。

今 私が歩いてるのは…

…といわれる所になります。

大体 まあ…

当時としては
非常に大きいものだったというふうに

考えることができるでしょう。

ものすごく速いです。

そういったところが

行軍の迅速さというものの

差につながったんだろうと思っています。

これまで信玄本隊が
行軍したルートとされたのは

実は別動隊の道行きであった。

信玄は 敵の目を欺くために

さまざまな策を弄して

進軍していたのである。

信玄のこうした陽動作戦に翻弄され

謙信や家康 そして信長は…

…把握することが
できなかったと見られる。

かくして信玄は 突如 姿を現し
高天神を降伏させ

遠江の国衆を降して
更に西へと向かった。

既に家康の居城 浜松城は
目と鼻の先にある。

しかし信玄は 急に北へと進路変更し

二俣城を目指した。

信玄はなぜ 家康の居城 浜松城ではなく

二俣城を目指したのか?

そこには 信玄ならではの戦略があった。

あれが二俣城になります。

戦国時代の当時はですね この天竜川と
そして 二俣川を

大きな天然の堀にした
非常に要害堅固な城でした。

そして 何よりも この二俣城は
浜松と非常に距離が近いと。

つまり 武田にとっては
この二俣城を攻略して

で ここを
ずっと押さえることによってですね…

ここが 二俣城の本丸跡になります。

要害堅固な二俣城。

しかし 思わぬ弱点があった。

城内には井戸がなく

直接 川から水をくみ上げる
井戸櫓を築き

水の手を
確保していたのである。

そこに目をつけた武田軍は…

その後 信玄は二俣城付近に滞陣。

用意周到な信玄は 次なる目標…

このころになって ようやく信長は
信玄の狙いが

同盟者 家康の
領国にあったことに気付き

烈火のごとく怒った。

信長が
上杉謙信に宛てた書状に こうある。

信玄の所行

まことに前代未聞の

無道なり。

未来永劫にわたり

信玄と二度と
交わることなどない。

そして…。

万全の体制を整えた信玄は

家康の本拠地 浜松城を目指した。

信玄 対 家康。

ついに 両者の決戦…

…の幕開けとなる。

飯田さんは この新説のルートを
ご覧になっていかがですか?

まさに合理的だと思っていまして。
信玄の作戦目標というのは

最終的なものが
どこにあったかはともかく

やはりあの 遠江を押さえたい
そこを占領して

そのあと統治したい
っていうふうに考えた場合に…

例えば その地区地区の国人の中で…

…してみたり。 または その周りの

寺社とか有力者っていうのに対して

まあ大丈夫だよと。 武田家が占領しても
しっかり領地安堵するよ

みたいなのを出しながら…

…するという意味では

当然 こっちから攻めるべきなんですよね。
ええ ええ。

そうそう 雪だるま行軍って
効率がいいのよ。

雪だるまみたいに
こう 大きくなりながらやってくんで。

ああ~。

平山さんには 今回 初めて
ロケに行っていただきましたけれど。

やっぱり…

彼 当時ね…

そこで 武田軍の姿を見たとか
信玄が攻めてくるぞっていうような

うわさがね ずっと飛び交って
急いで手配りしてるんですよ。

へえ~。
で とにかく部下に対して

信玄が今どこにいるのか直ちに探れ
っていうふうに言ってる。

つまり もう あの時点で…

ええ~。

そんなに かわせるものですか?

まあ 今みたいに衛星もないですし

ですから…
まあ しかし あれだけの人数をね

率いて動くっていうのは
そう簡単なことではないので。

だけど…

それは…

で 比較的身軽な形で…

ええ~。
で 恐らく

駿河に入ってから
少し時間がかかってるのは

そこから先には
補給の場所が 味方の地がないので

なので できるだけ
まとまったものを準備して

そして 満を持して
遠江に入ったんだろうと

いうことを考えると
信玄のスピードの秘密ってのはですね

やはり 周到な準備と
そのために つくり上げた

お城とかですね 砦のネットワーク。

これが有効に機能しているんだろうと
思いますね。 すごい…。

何か 今 シビれました。 ハハハハ。
信玄 すごいですね 伊東さん。

やはり 国人衆を
こっちに寝返ってくれるんだったら

そのまま受け入れる。 で 寝返らないで
どうしても徳川方というところは

攻めるっていうことを
非常にうまくやってますよね。

硬軟 取り混ぜた形で遠江国を
制していきながら…

…っていうのは やはり
非常に慎重な 信玄らしい進み方ですね。

私 浜松に住んで
地元に

例えば この
信玄に攻められた時の家康が

どういう 兵站作戦
ロジスティクスの作戦をやってるか

っていうので 中村家っていうところの
史料が載ってたりして。

これ家康の言葉として
伝わってるんです。

心もとないと。

信長と家康の
同盟の

しっかりしているところは…

…という記録もあって。

長篠の戦いの直前の時も

信長が兵糧を送ってるから…

ふ~ん。

私も 岡崎市出身としては ちょっと

家康を応援したいところですが
負けそうな感じがしちゃいますもん。

今の時点では。 フフフ…。

平山さん あの
信玄は 実際 水軍については

どうだったんでしょうか?
はい。

あの有名な武田海賊衆
いわゆる武田水軍というのを

編成しています。
もともとは 今川がつくっていた水軍を

そのまま接収し 更に
伊勢の水軍をヘッドハンティングして

で 新たに再編成したのが
武田水軍になるわけですけど

実際に武田水軍が
渥美半島に攻撃を仕掛けて

で 放火している
という史料があるんですよ。

ですから
間違いなく武田水軍は

武田軍の本隊と併せてですね

太平洋の制海権を
奪いに来てるということは

これは
間違いないと思いますね。 ほう~。

さあ 信玄 対 家康の決戦。
三方ヶ原の戦いが いよいよ始まります。

静岡県浜松市。

信玄と家康の決戦は

東西10km 南北15kmに及ぶ
三方原台地の上で行われた。

決戦の地は
広大な台地の上のどこであったのか。

具体的なことは 明らかになっていない。

だが 地元では 信玄率いる大軍勢が
台地をのぼり進軍した道が

「信玄街道」という名で
言い伝えられているという。

平山さんは かつて
信玄街道を踏破した経験を持つ。

えっと これが新しい道なんですけど
この先… あっ まだ残ってました。

これです。
(スタッフ)これですか? はい。

まだ舗装されてない道ですね。

本当は もうちょっと…

もう 向こう 一面住宅になっちゃってて

舗装がかなりね されてますよね。

でも…

この辺なんか 旧道の趣が
あるんじゃないかと思いますね。

浜松城を素通りした信玄軍2万5, 000。

そのあとを 家康軍1万余りが追撃。

…の火蓋が
切られた。

ところが…

夕刻に始まった戦いは
既に夜半には勝敗が決していたという。

信長打倒というのは

信玄にとっては
重要な路線でしたので とにかく…

まずは 各個撃破ということで

家康をたたき で 家康が
そう簡単に動けないような状況にする。

これがですね…

…になるだろうと
想定してたと思いますけれども

そのためにもですね…

これが信玄の最大の目的だったと
いうふうに思います。

浜松城に逃げ帰った
家康を横目に

信玄は西へと軍を進めた。
ところが

浜松城からおよそ10km先の
刑部で

行軍を急停止したのである。

信玄に 一体何が起こったのか?

それをひもとく 信玄の書状がある。

日付は12月28日。

信玄が
この地に滞陣していた時期と重なる。

信玄は言う。

今こそ
信長滅亡の時期が

到来したというのに

兵を払って
帰国したとは

なんとも
驚くべき話である。

信玄が兵を払って帰国したと
非難した相手こそ

越前の…

信玄の信長に対する作戦は
浅井 朝倉 本願寺など

畿内周辺の反信長勢力と連携し
信長を包囲することにある。

だが 朝倉勢が兵を引き揚げたことで
信長包囲網の一角が崩れた。

ところが 信玄には 更なる秘策があった。

これはですね 武田信玄が

将軍 足利義昭に対して

信長の これまでの行い
罪にあたるものを まあ 列挙して

自分が信長を討つので 将軍にも
それを命じてほしいということを

訴えかけた書状になります。

信玄の言葉に
こうある。

早く 信長 家康以下の
凶徒を

誅戮すべき旨
お下知を賜りたい。

三方ヶ原の戦いで

徳川家康を
破るんですけども

その段階では…

…と見なされていました。

それを…

…そういう狙いが
あったんだと思います。

信玄の秘策とは
将軍 足利義昭を味方につけ

反信長勢力を まとめることである。

このあと
いかに信長と決戦を行うべきか

慎重に戦略を立てる信玄。

その心の内に分け入ってみよう。

このまま
西へ進軍するのは得策であろうか。

畿内各地の反信長勢力との連携も

悪くない手ではあるが…。

朝倉のように勝手な行動をとる者が
いつ出てくるとも限らぬ。

緊密な連携がなければ
包囲網など意味をなさぬ。

まずは
目の前にいる浜松城の家康を討ち

その後 西へ向かい
信長と決戦するというのが

常道であろう。

事実 信玄が

10日にわたり
刑部に滞陣したのは

浜松城を
攻めるかどうか

迷ったためだと
記録にはある。

いや 待て。

わしも年を重ね
体の不調も目立つようになってきた。

この機を逃せば 信長を討つことなど

未来永劫 かなわぬかもしれぬ。

やはり ここは 西へ向かい

行軍を続けるべきではないか?

わが軍が快進撃を続けることで

様子見をしている武将たちも
反信長の兵を挙げる きっかけとなろう。

更には 将軍家が挙兵すれば

それに呼応する武将は
雲霞の如く現れるであろう。

されば このまま兵を進め

そこで… 信長をたたく!

3年の鬱憤を晴らす機会は

今この時にある。

家康を討つことを優先すべきか

それとも
作戦を続行し 信長を討つべきか。

信玄に 選択の時が近づいていた。

信玄が企てた西上作戦
選択の時が訪れました。

選択1は
徳川領にとどまり 家康を討つべきか。

それとも 選択2
西へ進軍し 信長を討つべきなのか。

皆さんが信玄の立場だったら
どちらを選択するでしょうか。

まず飯田さん どちらを選択しますか?

はい 私は…

…を選択したいと思います。
はい。

あまり 物成…

ですから 今だったら

信長包囲網 朝倉が撤退したとはいえ

完全に
解散してしまっているわけではない。

そして 更には…

その意味で 何らかの形では…

それが ちょっと長い目で見た時の

武田家の生存戦略に
なるんじゃないかなあと

思うんですよね。
う~ん。

伊東さんは どちらを選択しますか?

これを選択しますね。

やはり これまでの非常に慎重な

信玄の戦い方からしても…

…のではないのかなと。

三方ヶ原で 家康 徳川方をね

討ったとはいうものの
そのダメージっていうのは

なかなか測り難いものがある。

恐らく時が経てば 浜松城から出て

例えば…

それで 浜松城を やはり

制しておくというか
家康を討っておくっていうのが

ここでの得策ではないかなあ
というふうに 私は思うんですけどね。

平山さん どちらを選択しますか?
はい。

私は…

…というのを
選択したいと思います。

まあ 信玄にとって

信長と家康が合流するというのが

最も最悪の状況になりますので。

だから その家康をですね
ダメージを与えたとはいえ

そのまま放っておいて
美濃に進むってのは

かなりの冒険であるというふうに
思うんですね。

…っていうのが どれほど畿内を席巻し

情勢を有利に持っていけるか。

そうすれば 信長はですね

畿内の政局に
目を向けざるをえなくてですね…

あるいは援軍を出したとしても

さほど大きな勢力を割けない
というようなこと であるならば

まず家康を屈服させて
しかる後に美濃に進む というのが

慎重に慎重を重ねる信玄の

本来のやり方なんだろうなあ
というふうに考えています。

さあ 皆さんの意見が出そろいました。

磯田さんは どちらを選択しますか?

私は…

…にせざるをえないかなと
思うんですよ。

もし1にして 家康を討つ場合

浜松城を落城させるまでに

どのくらいの時間がかかるか。
うん。

「官本三河記」っていう本では

20日間 武田軍の中では

かかるだろうと 浜松城を落とすのに。
はあ~。

で一方 「甲陽軍鑑」の方では
30日間かかるだろう

というふうに いってるんですね。

朝倉が本来だったらですよ

岐阜城の西側に
西部戦線を

形成してくれて

西側から信長
攻めてくれると

信長は
絶対 家康を

助けに
来れないんですよ。

ところが 朝倉が
いないから…

ほう。
信長が 自分の持ってる国

「甲陽軍鑑」によれば…

ああ~。
そうするとね

いかに 信玄
それなりの大軍とはいいながら

苦しいですね。
う~ん。 それで

一方 そのまま ず~っと 信長を討ちに
西の方へ進んでいったとすると

家康は もう
手ひどい負けを食らってるから

あとをしたって追撃しようにも1, 000人…
2, 000人は行けないでしょうね 多分ね。

その上 家康の子供の信康は
あんな強いおやじがですよ

もう 徹底的に目の前でやられて
士気 落ち切ってますから。

え~っと 恐らく…

…とかってね あの~。

ハハハハ。 なっちゃ困るから
出てこないかもしれない。

ああ なるほど!
そうすると

相当な所まで
岐阜に接近して

武田軍が
やって来ると

今度は 浅井 朝倉が
おおっ! 勝ちに乗じた

行こう 行こう!
とかいって 本当に越前から

西部戦線を形成しに

出てきてくれる
可能性が出てくると。

これを考えると
やっぱり

じ~っとしてるより
三方ヶ原で もう 大勝ちに勝った

っていう空気があるうちにですね

1か月ぐらいは
信長の岐阜城へ向かって進んで

もうちょっと領土を広げた方が
得なんじゃないか

というのが僕の考えですね。
ああ~。

さあ では 武田信玄は
どちらを選択したのか

見てまいりましょう。

家康と信長を討つべく
信玄が企てた西上作戦。

信玄は 刑部に滞陣したあと
三河への侵攻を開始。

信玄は 信長との決戦を視野に入れ

西へ向かうことを 決断したのである。

こうした信玄の行動に対し

宿敵 上杉謙信は
不吉な予言を語っている。

信玄が 信長 家康に
手を出したのは

まさに 蜂の巣に手を
さし入れたようなもの

今後 無用なことを招くであろうと。

しかし 謙信の予言に反し
信玄が西へ行軍を続けることで

戦局は大きく変わり始めた。

東美濃や近江の国衆

伊勢長島
三河の一向一揆も次々と信長と敵対。

そして ついに
将軍 足利義昭も挙兵した。

信長に反する全ての者たちが

信玄の西上を
心より待ち望んでいたのである。

そのやさきのことであった…。

信玄は病のため 亡くなった。

享年 53。

あまりに突然の死であった。

病床にあった信玄は 重臣を呼び寄せ
うわごとを繰り返したという。

明日には
わが武田の旗を

瀬田に立てよと。

琵琶湖の南に位置する
瀬田は

古来 東国から京へ向かう
玄関口である。

信玄が最期に夢みたのは

信長軍を倒したあと
武田の軍勢が瀬田を渡り

華々しく上洛を果たした姿で
あったのかもしれない。

信玄の死により 反信長勢力は瓦解した。

信玄の死から3か月後 将軍 足利義昭は

信長軍の猛攻を前に敗れ…

反信長勢力の筆頭である浅井 朝倉も

戦いに敗れ去った。

武田信玄の突然の死は

反信長陣営の武将たちの命運を
ことごとく左右し

そして 信玄最期の敵となった
信長や家康が 天下の覇権を握り

新しい時代を切り開いていくのである。

西上作戦の途中
信玄は残念ながら病に倒れ

信長との決戦は幻となってしまいました。

が ここで せっかくですので

歴史のIF 「もしも」を
考えてみたいと思います。

もし信玄が病に倒れることなく

順調に作戦が進んでいたら
どうなっていたのか。

伊東さん どう考えますか?

まあ 僕はですね やはり…

…のではないかなあというふうに
思ってますね。

それまでの やはり
信玄の戦い方からしたら

無謀な戦い 挑むことはないと思うんで
勝算は十分にあったと思うんですよね。

ですから 岐阜城を巡る戦いで
岐阜城を落として…

…っていうことも一つ
考えられたんではないかなと

思いますね。
一気に天下 京都を突かずに

少しずつ こう
領土を広げていくことによって

最終的に京都も制圧するという
そういうことも

考えられたのではないかなと思いますね。
勝算はあったと?

十分あったと思います。
はい。 飯田さんは いかがでしょう?

そうですね。 僕も やはり…

…と思うんですね。

織田家って ちょっと
そのあとの長篠の戦い等があるので

戦に強いイメージあるんですけれども

あんまり
戦に強いお家柄じゃないんですよね。

いろんなところで 結構 ちょいちょい
自分より小さい軍勢に負けてますから。

それで…

そうすると そのあと

本当に面で 京都まで占領して
押さえるかどうかは ともかく

まあ 場合によっては
もう 本当に想像をしていくと…

…っていうものが
出来てくるかもしれない。

平山さん いかがですか?
私はね 武田信玄は

織田信長に 勝ちきれないと思っています。
あれっ!? そうですか。

はい。 で 信玄が
まあ 病気もあったんでしょうけど

三河で ず~っと
モタモタしているっていうのは

加勢を待っているんだと
私は思ってるんです。

やっぱり 信玄は 武田軍単独で
信長と決戦をするということには

やっぱり慎重だったんですよね。

やはり 浅井 朝倉の その いわゆる
西部戦線が形成されて

美濃に姿を現す その時に
美濃の郡上の両遠藤とかですね

そして 伊勢長島の一向一揆とか
そういった人たちが

一気に立ち上がって
美濃の岐阜に向かって侵攻を始める。

そうすることで 信長は もう
兵力を分散せざるをえないか

もしくは 岐阜城に籠城するか。

私は 信玄が狙ってたのは

信長を 岐阜城に
追い込むことだろうと思ってます。

野戦をしたらですね 信玄は
負けはしなかったでしょうけれども

いや 負けたかもしれません。
あるいは 勝ったかもしれない。

しかし お互いに…

…というふうに私は思っています。

あ~ なるほど。
あの 磯田さんはいかがでしょうか?

はい。 僕ね やっぱり
平山先生に考え近いです。

あ そうですか。

信玄が やっぱり 奥深く
信長の岐阜城へ向かって こう

侵攻するのは さっきの西部戦線
つまり 浅井 朝倉が

南下してきて
岐阜の西側へ迫ってくる事態ですよね。

…と思います。 ほいで

金持ちですから 織田軍は
あらゆる鉄砲をですね その要塞線

羽柴がつくる
要塞線に沿って

銃器を配列して
浅井 朝倉軍が

関ヶ原よりこっち側へ
入ってこないように

徹底した物資戦を
やるはずですよね。

ええ ええ。
それで 守っといて

武田正面
武田に対して まあ

信長が どんな戦を
やったかなんですよ。

ほう~。
私は 恐らくね

信長軍の当時の配置っていうのは
岡崎から浜松まで

結構 たくさんの兵士を
分散配置している形跡がある。

なるべく要塞の中にいて
武田軍を引き付けて

ものすごい大軍で
城の中から鉄砲を発射する

というやり方で抵抗して。
ええ。

で 何日も城攻め
やっているうちに

外に配置していた
例えば

信康だとかね
徳川家の家康の

岡崎城からの
援軍だとか

あの辺りが
武田軍の後ろで

もう さんざんに
かく乱すると。

徳川の
岡崎の人たちや

織田の軍勢が暴れ回る
っていうので

やっぱりね 信長をね

岐阜城を落として殺すってことは
できなかったと思うんですよ。

はあ~ そうですか。
伊東さん いかがですか?

そうですね まあ平山さんと磯田さん
苦戦した末に

まあ 武田が撤退するんじゃないか
っていうとこですけど。

僕はね もう少し善戦するというか。

京都まで行く可能性も
ゼロじゃないと思うんですよね。

ただ じゃあ それが…

もう 仮につながったとしても…

…と思うんですよね。

というのも
武田家 武田軍団の構造自体が

カリスマで
神格化された信玄が中央にいて

それを 本当に憧憬というか
まあ 崇拝している宿老たちが

周囲を取り巻いている
という構造ですから。

その頭の部分が
すげ替わっちゃうと

何て言うんですかね もう 神様が
いなくなっちゃうわけですから

求心力を急速に失うわけですよね。
ああ~。

ですから そういった意味でいうと
もう 2代将軍というのは

武田幕府の場合はありえないなと。
それを つくってしまったのは

強力な軍団にするために
そういう構造にした

信玄自身なんですね。
そっか~。

そういう皮肉があると
僕は思うんですよね。

そのカリスマ性がゆえに
ちょっと その

ほかの まあ後続がないといいますか
後継者がいなくなってしまうと。

まあ 要するに
もっと分かりやすくいうと…

ああ~。
全部 周辺装置は

自分だけが操縦できる。
ああ~。

別の人が
その操縦席に座っても操縦できない。

これは 謙信もそうなんですね。

ですから…

確かに。

何か あの また
全然違う話ですけれど

もし その
信長とか家康の立場だったら

やっぱり この武田信玄と
ガッツリ 戦いたかっただろうなあって

私なんかは ちょっと思いますね。

いや~ 信玄と戦いたくないよ~!
あ そうですか!? 駄目かあ。

あれは強い!
ハハハ! あれは強い。

いやいや
何か こう 今… 現代からすると

この戦い 見ておきたかったなというか。

この戦いが実現していたら
面白かっただろうなあと

ちょっと 思ってしまいますが。

平山さん いかがでしょう。

…だと思ってます。

まず…

更に…

で まあ あの大国を
つくっていったわけですよね。

そして 今こそ 信長と戦える
たたける 最大のチャンス

というとこまで来て
ここまでは運がよかったんですけど

最後が ああいう形で
直前で亡くなってしまう。

まあ 彼は…

…と 私はそう思っています。

それでは最後に 磯田さん。
今回は

武田信玄を
西上作戦を通して

見てきました。 いかがでしたか?

信玄って強いですよ。

ただ…

軍事技術が非常に優れている。

ところが やっぱり
資源大国じゃないですよね。

だから そういう国っていうのは
戦術レベルで何回か勝てても

ず~っと 勝ちを続けるっていうのは
やっぱり 難しいっていうことですよね。

うんうん。
これ 武田の戦いって

近代の我々の
日本全体の歴史にするとね…

…みたいな 華々しい勝利っていうのは

やっぱり
日露戦争だったと思うんですよね。

はあ~。
で その次にやって来るのは…

ちょっと
考えられないような戦いぶりで負ける。

ミッドウェーですよ これは

昭和の歴史でいえばね。
ええ ええ ええ。

やっぱり…

…という教訓なのかもなあ

というふうには思いますよね。
う~ん。

ところが これ
信玄が開発した軍事技術は

徳川家康が召し抱えてね 滅びたあとに。
はい。

で 家康 それまで
そんなに強い武将じゃなかったのに

武田軍団 召し抱えたあとから

野戦では本当に強くなるわけですよ。
ええ。

だから ひょっとしたら 信玄の軍事が

家康に天下を取らせたのかなあ
とも思うんで

歴史ってのは 複雑ですよね。
本当ですねえ。

いや~ 家康も
うまくそこを取り入れて

結果的には あの
天下を成し遂げるという。

いやいやいや。 何か最後は

岡崎びいきな話になっちゃいましたが
ハハハ! よかったねえ。

本当 杉浦さん。
ハハハハ! いやいや…。

皆さん
本日は ありがとうございました。

♬~

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