こころの時代~宗教・人生~ 瞑想(めいそう)でたどる仏教~心と身体を観察する4[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

こころの時代~宗教・人生~ 瞑想(めいそう)でたどる仏教~心と身体を観察する4[字]

インドで始まった「心身を観察する」仏教の瞑想は1世紀ごろ中国へ。異文化との積極的な交わりは、中国で「仏像」や「禅宗」を生み、東アジア世界での仏教拡大につながる。

詳細情報
番組内容
ブッダを悟りへと導き仏教の原点となった「心身を観察する」瞑想は、苦しみから逃れる道を多くの人に伝えたいと願う僧たちの奮闘の末、インドから中国へ渡る。言語も価値観も異なる中国で小集団から始まった仏教は、なぜ現地の人々をひきつけ、国を動かすまでに広まったのか。「仏像」や「禅宗」など、今の私たちがイメージする仏教の原型を築いた中国仏教の瞑想を、宗教学者・蓑輪顕量さん、スポーツ指導者・為末大さんとひもとく
出演者
【出演】東京大学大学院教授…箕輪顕量,為末大,【司会】中條誠子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉

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  17. 呼吸
  18. 実践
  19. 大変
  20. 翻訳

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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群馬県渋川市の山あいにある
佛光山法水寺。

台湾に総本山のある 臨済宗の寺院です。

ここでは 中国で育まれた
仏教の様式に触れることができます。

僧たちは 仏の名を繰り返しています。

中国仏教では 木魚や かねに合わせて
歌うように念じます。

念仏の調子を ゆるやかに変化させながら
心を静めていく。

中国仏教の瞑想です。

ブッダを悟りに導いた瞑想は

中国に伝わり 多様な文化と
混じり合うことで 大きく展開します。

それは やがて日本に伝来し
「日本仏教」の原型を築きました。

今回は 中国の人々の心をとらえ広まった
仏教瞑想の歩みをたどります。

「こころの時代」では 毎月1回

「瞑想でたどる仏教
心と身体を観察する」と題しまして

仏教瞑想の世界を ご紹介しています。

教えて下さいますのは
仏教学が ご専門 蓑輪顕量先生です。

よろしくお願いいたします。
はい よろしくお願いいたします。

仏教と聞くと お二方は
どのようなものを考えられますか?

お葬式とか あとは 念仏っていうか
南無阿弥陀仏っていうのとかですかね

ああいうのとか。
大仏とか。

大仏とかですか… はい。

じゃあ それより前は なかったんですね?

全部が なかったというわけでは
ないんですけども

やはり あの中国に入ってきますと…

2, 500年前 インドで生まれた仏教は
1世紀半ば頃 中国へ もたらされます。

仏教の瞑想は
インドとは異なる文化を持つ中国で

大きく変容します。

もともと 仏教の瞑想は

ブッダが 生きるうえでの
悩みや苦しみから逃れる道を探して

たどりついたものでした。

ブッダの瞑想は 初期の仏典では

「念処」という言葉で
表わされています。

「念処」とは…

例えば 呼吸する時の 身体の動きや

五感に刺激を受けた時の
心の働きなどに気づき観察します。

自らの認識の仕組みを把握し

心が 勝手に苦しみを生み出したり
増幅させたりしないようにするのが

仏教の瞑想です。

仏教が インドで興った初期には

瞑想は…

それが 中国に入って
どのように変わったかというと…。

何かこう 歌うようですね。
そうですね。

経典の文章を 歌うように読むというのが
中国で始まってきます。

これは 最初期にですね
やはり 教えの中身そのものを

理解するのが 大変だったみたいでして

それで 経典を歌うように読むというのが
行われていたというふうに

推測されていますので それが現在にまで
部分的に継承されてるんだと思います。

読みやすいようにってことですね。
そうですね。

あと 歌うような感じで 心の働きを

一つのものに 結び付けていくっていう
ような意味もあるんだと思います。

これも 瞑想の一部分といっても
いいんですか?

この みんなで一緒に歌うってことは。

はい。 実際にやってることは
一つのことに 専心していますので

瞑想のうちの一つと
考えていいと思います。

だいぶ華やかになりましたね。
ねえ。

基本的には シルクロードを通じて
インドに成立した仏教が

中国に入ってきます。

この仏教が
中国の社会の中に根づいていって

大きな影響を与えていきます。

実際にですね 中国で
大きなお寺さんが造られていきます。

今 私たちは 「お寺」っていう言葉を
使っていますけれども

この言葉自体も 中国でできたと
考えられていまして

一説なんですけれども 後漢の時代に
外交をつかさどる役所が

鴻臚寺という名前で 呼ばれるんです。

そこに 外国から いらっしゃった
お坊さんが 留め置かれたと。

そこから お坊さんのいる所が
「寺」と呼ばれるようになったという

まあ 一説なんですけど
そういうのがあります。

なるほど。

「苦しみから逃れる道」である
仏教の瞑想が

中国に入り 姿を変えたのは なぜなのか。

仏教を 最初に中国に伝えたのは
インドや西域で 出家した僧たちです。

彼らの布教活動は
一筋縄ではいきませんでした。

あれ 仏教が入ってくる前は
中国には 宗教はなかったんですか?

実際には 中国に
既に いろいろな思想が存在していました。

宗教ではなくて思想ですか。
宗教といってもいいと思いますが

紀元前にですね もう皆さん

「諸子百家」という言葉を
聞いたことあると思いますけども

さまざまなことを主張される方が
存在していました。

その中で 儒教が
一つ 大きな流れを作っていくと。

儒教の中に伝わっている
資料ですけれども

「四書五経」というのを
聞いたことあると思うんですが

そのうちの「詩経」といわれるものの中に
出てくる お話にですね…

…っていうようなですね
言い方が出てきまして

それは もうまさに…。
生きてるうちに 楽しんじゃえっていう。

楽しみましょうというですね そういう
感覚が 結構強かったんではないかなと

推定されています。

とっても 現世的っていうか
生きてる間が 人生華だよ みたいな

そんな感じだったんですか?
はい。

何か でも あれですね 苦しみを
解決するために生まれた宗教ですって

持ってったら 楽しく生きるのが
大事だよって言ってる人に

説明するのが 難しいですね。
そうですね。

苦しみなんて ないからって言われると
う~ん…。

ですから これは
南北朝時代の資料なんですけれども

「理惑論」っていう名前で呼ばれてる
資料の中に 異国の地の仏教者

お坊さんたちはですね
衣一枚の着物をまとって

そうして 日に1回だけ食事をしていると。

それで 戒律を守ってですね
禁欲的な生活をしているけれども

それが 一体 何になるんだ というですね
非常に厳しい批判がですね…。

中国側から?
中国側から出されていますので

まあ 恐らく 受け入れられるまでには
大変な苦労があったと思います。

なおさら でも興味湧きますね。
どうやって…。

そこからですね 現在では

中国の三大宗教の一つという
言い方が されるようなところまで

展開していきますので…

これからですね 見ていければ
というふうに思っております。

異国で 仏教が
どのように広まっていったのか

その謎を解くために 今回は
中国で この瞑想を広めていった

3人のキーパーソンを
ご紹介したいと思います。

こちらです。

何か 特徴的ですね
こちらのシルエットの方だけね。

こちらの方ですよね。

蓑輪先生
この3人は とても大事なんですね。

はい。 この人たちがいなければ

仏教は 今 中国で
ここまで広まっていないと思います。

それくらい 大切な人物というふうに
考えていいと思います。

では 早速 見ていきたいと思います。

1人目は こちらです。

安世高 2世紀ごろの方ですね。
初めて 聞いた名前です。

この方は
中国の後漢の時代に入ってきた 安息国。

今の言うところの パルティアと
考えられているんですけども

そちらから いらっしゃった方です。

この方は 安息国の王位継承権を持たれた
太子であったと

考えられているんですけども

お父さんの王様が 亡くなられたあと

その位をですね おじさんに譲られて
出家してしまうと。

じゃあ 外国人だったんですか?
中国に伝えた方は。

仏教をですね
中国に伝えた方たちというのは

中央アジアとか
この安息国のようなですね

ちょっと インドから離れた所からの
方たちが 多かったと考えられています。

この安世高さんは
一体 何をした人なんですか?

あの大変に
語学に 達者だったとみえまして

そのインドに伝わった仏教の教えを
中国語に翻訳された 最初期の方です。

瞑想に関するものを 安世高さんは
かなり訳してらっしゃいます。

瞑想修行に関係する経典を

後漢の 仏教が伝わってきた初期の段階で
翻訳されているという点で

安世高さんは
とても重要な人物だと思います。

具体的には 何を翻訳したんですか?

安世高さんの翻訳した資料の中では

「安般守意経」という
資料があるんですけれども。

こちらですね。
はい そうです。

「安般守意経」というふうに
出てくるんですけれども

「安般」は その入る息 出る息を
翻訳したと考えられています。

恐らく その次の「守意」というのがですね
これは 念処というふうに

他のところでは訳されていますけれども

心を対象に振り向けて そして しっかりと
把握していくというですね

それの翻訳語だと考えられます。

この「守意」という言葉が 実は
大変に興味深いところでありまして

「老荘思想」と言われるんですけども

老子や荘子の考え方というのが
存在してたといいます。

老荘の言葉の中に
実は「守一」という言葉が出てまいります。

「守意」というのがですね

その「守一」という言葉を
連想させるものではないかと思います。

こちらですね。
はい。

こういうことをしたというのがですね
恐らく 仏教を当時の人たちに

受け入れやすくする ある意味で
ハードルを下げたというふうに

言うことができるのではないかと
思います。

安世高が 最初期に翻訳した
「安般守意経」。

つまり 「安般守意経」とは

呼吸などを しっかりと把握する
瞑想の経典という意味になり

まずは ブッダの瞑想を
伝えようとしていたことが分かります。

更に 注目すべきは
仏教に欠かせない念処を

「守意」と訳したことです。

この「守意」 中国の人々には

「守一」という老荘思想の言葉を
連想させました。

中国伝統の老荘思想。

その根幹には 「道」。
道と呼ばれる理念があります。

「道」は 世界が始まる前の状態。

姿かたちはなく
絶対的で 普遍的なものとされます。

「道」から世界が生まれる時
最初に生じるのが 「一」。

万物の礎です。

一を守ること
すなわち「守一」を

中国の人々は 重んじていました。

安世高は
仏教に欠かせない瞑想を伝える際

この尊い言葉「守一」を 音や見た目で
連想させる「守意」を使いました。

最初に用いた訳語が 人々に敬意や
親しみをもって受け入れられたことが

のちに 中国で仏教が広まっていく
確かな足がかりとなりました。

これ 老荘思想を選んだのは
何でなんですか?

そこに 何か 儒教とか
そういうのもあったと思うんですけど。

…教えとして 展開していきますので。

処世術のような。
処世術ですね。

政治思想だと言ってもいいと思います。

でも その政治の思想というのは
時と場合によっては 争いが起きて

例えば 敵に攻められてきて
町全体が 焼かれてしまえば

もう 何も残らなくなってしまうと。

そういう考え方に対して…

老荘思想の方に
仏教の言葉を翻訳する時にですね

そこから借りたんだと思います。

それにしましても
この どうして瞑想を訳そうと

安世高さん 思ったんでしょうか?

恐らく 安世高さんの出自みたいなものも
王様の家に生まれて

でも 若くして 王様 亡くなってしまって。
お父さんですね。

ええ。 そこで感じたものが
あるんだと思うんです。

そういう その悩みや苦しみを
超えていくための道というのを

故郷にいる時に
既に学んでいたんだと思うんです。

恐らく それは地域を超えて 時代を超えて
共通するものではないかと思いますので

それを やっぱり
中国の世界に伝えようということを

考えたのではないかなあと思います。

ですので仏教にとって重要な瞑想のですね
具体的なノウハウを 最初に伝え

中国の人たちにとって
身近なものとしてですね

受け止めてもらえるようにした
ということではないかと思います。

でも いくら自分の悩みや苦しみが
深くても

この異国でですね この苦労は
並々ならぬものかと思うんですけれども。

それは やはり…

皆さん 当時 インドから中国へという
距離を考えますと

大変なところを ましてや 今のように
電車があるわけでもありませんので

徒歩で 大体 皆さん
いらっしゃってたんですね。

ですから 本当に命懸けで
何か伝えようという気持ちで

いらっしゃってるんだと
思いますので

そう思わせるものが 仏教の中にはあった
と言っていいのではないかと思います。

そもそも仏教自体が
苦しみに向いてるわけじゃないですか。

苦しくないなら それが一番いいけども

でも まあ生きてると
苦しいことは起きるから

その ある意味 カウンターというか

その世の中の 救いのためにできたのが
仏教だと思うんですけど

お話伺ってると 儒教っていうのが
現実的に 出世の道だとしたら

やっぱ それだけじゃ 人の苦しみを
受け止めきれないところに

目に見えてるもんじゃない
何か まあ また別のこう 何ていうかな

真実があるんだっていうことで
救いを提供してた 老荘思想があって

仏教と こうくっついて それが何か
融合していくみたいなところが

すごい面白いなというのを
伺ってて思ってたとこですね。

西域から シルクロードを通じて
中国へと伝来したのは 「大乗仏教」です。

紀元前1世紀頃
インドで興った大乗仏教では

ブッダが至った悟りの境地は
すべての人に開かれていると教えます。

大乗の教えを
広く伝えようとした僧たちは

多様な文化が行き交うシルクロードで
数多くの仏像を作りました。

インドと中央アジアを結ぶ 交通の要衝
ギルギットの断崖に彫られた

仏の立ち姿。

仏の姿が 言葉や文字だけでなく
彫刻や絵で表現されたことで

仏教は 人々にとって
親しみやすいものになりました。

仏像など 目に見える仏の姿は
瞑想の対象でした。

天井を埋め尽くすのは 仏たち。

仏画や仏像をもとに
僧たちは 仏の姿を脳裏に焼き付け

それが 目の前に
立ち現れるさまを 観察します。

「観想念仏」と呼ばれる瞑想です。

シルクロードのオアシス都市 敦煌。

西域からの文物は
この町を通って中国に入りました。

敦煌郊外の断崖には

仏教の僧たちが 寝起きし
修行した石窟が残されています。

内部を彩るのは
極彩色で描かれた「悟り」の世界。

僧たちが 瞑想の対象とした仏の造形は

中国に至って より写実的で
色鮮やかなものとなります。

華麗に 視覚化された仏の世界は

言語や文化の違いを超えて
人々を仏教へと惹きつけました。

長い旅路を経て
仏教は 新たな瞑想や美術を生み出し

異なる他者にも受け入れられる形へと
しなやかに 変容していきました。

2人目のキーパーソン ご紹介します。
この方です。

智さん。
智さん。

天台宗の祖とされています方です。

天台山というですね 山をよりどころ
といいますか 拠点にしますので

のちに 「天台大師 智」という名前で
呼ばれるようになる方なんです。

智さんはですね 仏教の瞑想が
東アジア世界に伝わってきて

そして いろいろなパターンが

やはり 実践されるように
なっていくんだと思うんですけども

そういうのを…

インドから伝わってきたものに対して
整理のしかたをですね 少し変えまして…

それが まあ一つ 理由なんだろうと
思うんですけども

多くの人たちにとって
実践しやすいものとして

受け止められていくのではないか
と思います。

編集者って 思うといいですかね。

教科書を作った 仏教の編集者みたいな
イメージですかね。

あ そうですね。
そういう側面もあると思います。

一番 流布したのはですね 「天台小止観」
という名前で呼ばれるんですけれども

この「天台小止観」は 伝承では
在家の信者さんのリクエストに応えて

一般向けに 仏教の瞑想を
解説したものだと言われていまして

とても分かりやすいんです。

いわば エッセンス版を作ったのでは
ないかと言われているんですけども

実際に その後 いろいろな宗の人たちに

瞑想修行のための指南書として
使われていくものになっています。

智が活躍したのは 6世紀。

インドから 多種多様な瞑想の手法が
中国に流入していた時期でした。

そこで 力を入れたのは
さまざまな瞑想を整理し

一般の人々にも 実践しやすいものとして
伝えることでした。

「天台小止観」は いわば
初心者向けの 瞑想のガイドブック。

そもそも 瞑想とは何か。

どんな順序で進めれば 効果的かなどを
分かりやすく解説しました。

中でも 革新的だったのが

ブッダの時代には 四つに分けられていた
「念処」の観察対象を

中国の人々の ものの見方に合わせて
とらえ直したことでした。

為末さん これ第一回目の時に

「四念処」というお話をしたんですけれども
覚えていらっしゃいますでしょうか?

はい。 言葉は覚えてるんですけども
四つ 何かでしたよね。 確かね。

四念処というのはですね
初期仏教のところで

ブッダの観察の対象に応じて
分けたものなんです。

身 受 心 法でしたね。
はい そうですね。

観察対象に注意を振り向け
しっかりと把握する 「念処」。

四つの分類が
どんなものだったかというと…。

(鳥の鳴き声)

例えば 何か聞こえてきたとして…。

音自体や それを知覚する体の部位を
意識するのが 「身念処」。

その音が 心地よいか 不快かなど

刺激を受けて 最初に生ずる感覚を
観察するのが 「受念処」。

更に そこから 心に生まれた
喜怒哀楽などの感情を把握するのが

「心念処」。

そして 瞑想をしていて そわそわしたり
眠気や疑念に さいなまれたりする

心の働きなどを観察するのが
「法念処」です。

でも この4つ
ちょっと複雑で分かりにくいような…。

これ 今の私たちの感覚でいいますと…

そう考えると
なぜ 受 心 法というふうに

分けなければならなかったのか
というのが

あまり納得がいかないような気がします。

これをですね 天台大師 智さんは

新たな分類法を 発案いたしまして
それが とても分かりやすいんです。

こちらですね。
はい。

智さんは その 歴縁と対境という言葉を
用いるんですけれども

私たちの身体による動きですね

これを 縁という言葉で表現するんだと
思うんですけども

それを通してというのを
歴縁というふうに表現いたしました。

何か… 呼吸みたいなものは歴縁?

あっ そちらも入ってきますね。

何か 体で起きてることが歴縁で。
ええ はい。

対境というのは
これ 心の働きなんですけども

これ 実は 私たちが感覚器官を通じて
受け止めているものが

対境という名前で表現されました。

2つに分けられたんですね。
う~ん。

まあ でも
とっても分かりやすくなった感じですね。

そう思います。

やはり 今の私たちにとっては

例えば もう これは西洋の考え方の
影響もあるのかもしれませんけれども

精神と肉体とかっていう分け方は
なじみになってると思いますので

恐らく
分かりやすいんだろうなと思います。

そうか 心身 だから二元論というか
心と体っていうふうに。 はい。

新たに整理し直したというところが

大変に優れていたのではないかと
思います。

本質が分かってないと
こんなふうに分けられないなと思って。

理屈だけで分かってても分からない。

実際にやってみて
うん これは こことここの境目が

一番 2つに分けたら
分かりやすいんじゃないか

そういうことですもんね。

それは ご自身が よく知っていなければ
そういうこと できないと思いますので

非常によく
何を伝えるべきなのかというのを

やはり きちんと認識していて

そのために まあ
どの部分を省いていくのかというのを

しっかりと把握することができていたと
考えていいと思います。 はい。

だから 陸上理論も ほんとに正確に語ると
複雑で膨大になっていって。

まあ だって 手の指の関節だって
無数にありますから

それを どう動かすと
速く走れるかというのは

もう 説明すると たくさんあるんだけど

でも やっぱり いいコーチというのは
その選手の様子を見て

何か いろんな動きはあるんだけど

ハードルの上に まるで
サーカスの火の輪っかがあるように

くぐってごらんって言うと
きれいに動くという

そういう 何か ある一点とか
ある すごい…

それを伺いながら こう

正確なんでしょうけどね 上の方が

でも 私たちが実践するには
とっても腑に落ちるというか

やりやすい分け方をされたのかなと思って
今 聞いてました。

智は もう一つ 瞑想に大きな変化を
もたらしたそうですね。 はい。

とても中国的だなあと
思っているんですけども

伝統的な
「気」という考え方といいますか

それを 瞑想の中に取り込んでいきます。

気は 中国の人でも言いますよね。
あっ 言いますね。 ええ。

もともとは 医学的な考え方のところで
見つけられたと考えられていまして

気は イメージではないと。
実際に存在するものですと。

そういうふうに
ちゃんと捉えてるんですね。

私たちの身体の内部も 私たちの外側も

流れのようにして存在している
何かであって

それは 訓練をしていけば
きちんと つかまえられるようになると。

呼吸と連動して 確認していくものだ
というふうに

説明されているんですけども。

実際に 仏教が持っている呼吸の観察

これ 入る息と出る息を見るというのが
一番 基本だと思うんですけども

気の練習の時には
その 呼吸を 吸う時にですね

足元から
何かが上がってくるのを感じながら

そうして 上の方まで こう上げていくと。

そして今度は 息を吐いていく。

吐いていく時に 上の方に上がった何かを
下の方に下げていくと。

こういう呼吸のしかたを
するんだそうです。

心の働き 落ち着いていく感じがします。

これも 中国の人にとっては
こう 受け入れやすくなっていった

一つの方法だったということ。
と考えていいと思います。 はい。

どうして そこまでしたんでしょうかね。

智の活躍した時代というのも
南北朝の時代が終わりかけて

隋が統一していく時ですので

やはり 大きな戦乱が続いていた
時期だと思うんです。

身近な人が亡くなっていくとかですね
いろいろと やっぱり 悩み 苦しみを

目の当たりにしていた
時代ではないかと思います。

そこで苦しんでる人たちを
いかに救っていくのかということを

考えていらっしゃったのではないかな
というふうに思います。

まあ いろんな方が苦しまれてる
時代だったと思うんですけど

やっぱり その人たちに
伝えやすくするために

行った工夫というのが

この分かりやすさだった
ということでいいんですかね。

ええ
恐らく そうなのではないかと思います。

その分かりやすさは
実は 今の私たちにとっても

同じようなものなのではないかなと
思います。

特に 「天台小止観」のような

エッセンスを 分かりやすく
説いて下さったものというのは

私たちが読んでも 納得のしやすい
ものではないかなと思います。

そのエッセンスは 天台の伝統を
継承した人たちだけではなくて

禅宗とかですね
他の宗の人たちの間でも

この「天台小止観」というのは
大事なものとして使われていきます。

なるほど。

♬~

え~ 中国に仏教を伝えた
3人のキーパーソン。

3人目。 為末さん シルエットが
大変気になる この方ですね。 はい。

その名も… 菩提達磨。
菩提達磨。 ああ。

さすがに この方の名前は
聞いたことがありますね。
はい。

禅宗をつくられた方なんですか。
ええ。

禅宗の祖というふうにいわれます。

先ほど 菩提達磨さんが隠れていた時の
シルエットがありますが

あの形は
何だか分かりましたですよね?

だるまの形ですよね。
はい そうですね。

菩提達磨さんは 洛陽の郊外の
嵩山少林寺というところに入られて

9年間 壁に向かって
座禅をしてらっしゃったというふうに

いわれる方なんです。

その
あまりにも ず~っと座禅をしていて

手と足がなくなっちゃったというような
そういうお話ができてきまして

今のような だるまさんが
出来上がるんです。
なるほど。

そういう意味で 非常に
なじみの深い方ではないかと思います。

「禅」は サンスクリット語の
「ディヤーナ」からきた言葉で

「心が静まった状態」を指します。

インド出身とされる菩提達磨は
禅を中国で発展させ

座禅などを重視する新たな集団
「禅宗」を打ち立てます。

禅宗の最大の特徴は 瞑想を実践する際

中国の文化を
積極的に取り入れたことでした。

一番最初に 中国の人たちの中に
現実を大事にする そういう傾向が

見てとれるのではないか
という話をいたしましたけれども。

今を楽しむ。
ええ そうですね。

まさに 現実を肯定的に捉えていく
というような発想が

初期の禅宗の文献から
感じられるところがあります。

その感覚を取り入れていった
ということですね。 あ そうですね。

その現世肯定の まあ
一つの表れだと思うんですけども

達磨さんを祖と仰ぐ集団の中に
まあ 唐の時代からなんですけども

「見性成仏」という
オリジナルな考え方が出てきます。

何ですか? それは。

見性成仏というのはですね
これは…

…というようなことも
考えていたのではないかと。

これは 時代によって ちょっと
解釈 変わったりもするんですけれども。

「本性を見てとる」
どういうことですか?

本性というのはですね 私たち自身が
実は 仏にほかならないということに

気が付くことだと。

本性というのは 実は私たち 己自身が

仏に ほかならないということだ
というふうにいわれています。

え~と 見性…。
成仏。

成仏ですかね。
はい。 ええ。

「性」っていうのが そのまま。
で 「見」っていうのが あらわす。

で 「成仏」っていうのが…。

仏になる。
仏になる。

だから そのままが
仏として あらわれるという

そんな感じですか?
あ そうですね。

私たち 日常生活の中では 自分自身が
仏であるなんてことは考えもしませんし

でも…

…というようなことを
意識してるのではないかと思います。

「もともと仏である」という
考え方から出発していきますので

自分自身が もう そのまんまで
仏でいいんだよっていうですね

そこのところを きちんと踏まえたうえで
修行もしていきましょうと。

実際に修行をしながら それに気が付く
ということも考えてはいるんですけども…

もともと インドでは 僧たちは瞑想し
コツコツと修行を積み重ねながら

先が見えない悟りへの道を
手探りで進んでいました。

一方 見性成仏を説く禅宗では
この過程が がらりと変わります。

初めに 「自分は必ず悟りを得られる。

なぜならば 仏たる性質が
備わっているから」と 自らを肯定します。

瞑想は
悟りを得られることを自覚したうえで

その道筋を 確認するように
実践していくものと捉えられたのです。

厳しい修行を経て
いろいろな俗世の こう雑念を捨てて

仏になるというイメージが
あるんですけれども

もう仏なんですか?
はい。 ええ。

それが多分 中国的な発想と重なってる
部分なのではないかと思うんです。

先ほど
老荘の話を 少しいたしましたけれども…

その世界の中に
実は 私たちも含まれてるわけです。

ですから 私たちも ある意味で

「道」が変化した存在であるというふうに
考えていきますと…

何か あの 私たちはですね
コツコツ努力した暁に

達成したいものがあると思いがちだとは
思うんですけども

最初から オリンピックで
メダル取れるよって言われてるような。

あの まあ 伺ってて

「何々になる」って話と
「何々である」っていう

後者の方の立場をとるという話だと
思うんですね。

僕らの世界では
よく コーチが言うことがあって

それは 「馬に生まれたのに
木に登ろうとするな」という

言葉があるんですけど

それは 要するに…

今のお話を伺っていくと
努力っていうのが

何かの克服というイメージで
選手も スタートするんですけど

まあ でも
やっぱり 高いレベルに行ってくると

克服では ちょっと通用しないので

むしろ
本来 持ってる力を伸ばすというふうに

発想が変わっていくんですけど

まあ それは
「私は そもそも何々であった」っていう

その存在を認めてから なる。

だけど この時に ややこしいのがですね
自分が憧れる姿と

本来 自分が何々であるが
ずれてることがあるんですね。

そうすると ここに葛藤が生まれて
自分は ああなりたい。

だけど
自分は本来 こういう生き物であると。

こっちを受け入れるというプロセスが
出てくるんですけど

すごく そのことに
今 話を聞きながら 似ていて。

まあ だから ある意味の
誰が抵抗してるというのは 実は…

ちなみに そのコーチも
中国人のコーチだったんですけど

まあ 多分に この中国っていうか

アジア文化の
考え方なのかもしれないですけどね。

その見性成仏を 実際に どのようにして

まあ 体得していくのか
というところですけれども

そのために 禅宗の人たちは
座禅とかを よくなさってますけども

よく 臨済宗さんで使われているのは

「公案」といわれる…

それに参究しなさいと。

有名なのがですね…

「麻三斤」っていうのがあるんです。

麻三斤というのは 麻。

三斤というのは 重さの単位ですので
大体2kgだといわれます。

ですので 仏とは何かと聞かれて
麻三斤というふうに答える。

これもですね 気が付くような内容は

あっ 自分自身が仏なんだっていうふうに
気付くことなんです。

どんな論理関係があるのかというのは

恐らく 唐の時代ぐらいまでは
お坊さんたちが出家する時には

衣を 自分で
作らなければいけなかったんだそうです。

その衣を作るための布の量が 大体 三斤。

ですから 質問に対して
仏とは何かと言われて

麻布2kgっていうふうに答える文章。

何でだろうと考えていくうちに

麻布2kgは 出家をした時に作る
衣を作るために必要な量だと。

そうすると これは その麻三斤で作られた
衣を着てる人が仏なのかと。

あっ 私も その衣を着ている。

あっ なんだ
自分自身のことじゃないかと

こういうふうに気付いてもらうために
作られた

工夫の問題だったんじゃないかと
いわれるんです。 なるほど。

これ 実際には 答えを探して
一生懸命 考えていくわけですから…

そういう状況に入っていくんだと
思うんです。

ですから とても面白い工夫だと思います。

自分自身を肯定したうえで悟りへと向かう
見性成仏の理念は

中国の人々を 禅宗へと引き寄せ
仏教の急拡大をもたらしました。

信者や寺院が増える中
瞑想の実践に欠かせない「戒律」も

中国の文化を 積極的に
取り込んだものとなっていきます。

仏教者も 集団で維持していくというのが
原則になりますので

基本的なものは インド伝来の戒律を
用いるんですけども…

それを 「清規」という名前で呼んでいます。

清規の中でも 実は 儀礼的なものを
結構 規定しています。

この儀礼というのは
東アジア世界の特徴でして

先ほど
儒教が主流だって申しましたけども…

例えば
作務と言ったりするんですけども

日常のお掃除だとか これが…

私たちの身近なところでは
食事をする時に 話をしてはいけないと。

そういう 細かいところまで

規定されていくようなものが
できるんです。

実際に その…

たくさんのお坊さんたちが 一緒になって
礼拝をしているというのを

見たと思うんですけども
あのようなこともですね 実は…

これが今 私たち 日本で仏教に接する時に
さまざまな行事

お正月の修正会から 修二会とかですね

あるいは お盆だとか お葬式とか
いろんなものが

かなり儀礼的に行われてるのを
見ることあると思いますけど

これは やっぱり 中国で出来上がった
仏教の影響なんだと思います。

本当に あの すごく仏教が

私が知ってる仏教に近くなってきてるな
って印象がありますけど。

これは 現在の東アジア世界の仏教を
見てみましても

確かに そのとおりでありまして…

圧倒的多数の方は 禅宗のお坊さんとして
今 存在しています。

本当に 社会の中に
浸透させることができたのは

やっぱり 菩提達磨さんの流れが

現在 生き延びているというふうに
いうことができると思います。

基本的な 社会を支える理念として
仏教が位置づけられて

大変に栄えたというふうに
考えられています。

為末さん ここまで 中国に根づく仏教
ということで見てきましたけど

いかがでしたか?
まあ 今日 3人の方 紹介して頂いて

仏教を紹介した人 仏教をまとめた人

仏教を浸透させた人という

何か そういう 今日は印象で。

何か ぐ~っと 中国世界というか
まあ アジアの世界に

仏教が染み込んでいったというのが
今日 伺った印象ですね。

そうですね。

私たちが 人間である以上
この世界を生きていく時に

必ず 悩みや苦しみというのを
持つんだと思うんですけども

それに対する解決策というのを
仏教は 確かに提供していました。

本質は変わらずにって
今 簡単に おっしゃいましたけど

本質を どこにするかっていうところは
多分 いろんな議論があって

これを変えたら
仏教じゃなくなるんじゃないか。

まあ でも ほんとに これまでの
ず~っと プロセスを見ていくと

より明らかに…

どんどん どんどん
浮き出てきてる感じがして

そこが仏教の本質なのかなというのは
すごく…。

逆に分かりやすかったな
という感じがしますね。

中国にというか
東アジア世界に入ってきて

仏教が直面したことではなかったかなと
思います。

それは まあ恐らく
柔軟性みたいなものを

身につけたのではないかなという
気がいたします。

これが残っていれば仏教だというのは

それ以外の部分は まあ 変えてもよい
というふうに考えることができますので

非常に柔軟な姿勢というのを

仏教は 身につけることが
できたのではないかと思います。

中国の仏教を今に伝える…

禅宗の寺として 日々
自分を見つめる瞑想を行っています。

だから 仏教の教えでは やっぱり仏性。

インドで生まれた仏教は
シルクロードを経て

目に見える仏の姿を瞑想の対象とし

中国では 伝統文化と融合しながら
人々の暮らしに根を張っていきました。

苦しみから逃れる道を示し続けてきた
仏教が たどりついた姿です。

だから もう…

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