英雄たちの選択「先見の明か 山師か 田沼意次の真実」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択「先見の明か 山師か 田沼意次の真実」[字]

江戸時代中期、将軍側近から老中に出世して政権を握った田沼意次。近年評価の高い経済政策は「山師」と呼ばれる人々の発案だった。そしてすべてが天明の大飢饉で覆される。

詳細情報
番組内容
賄賂政治家として名高い江戸中期の老中田沼意次。近年は財政危機の幕府を立て直すべく、先進的な経済政策を打ち出した政治家として評価が高い。東西で分かれていた金銀通貨の統合、印旛沼の干拓等々。実はその政策の多くが、「山師」と呼ばれたベンチャー起業家たちのアイデアを採用したもの。しかし、得意の絶頂で起きた天明大飢饉が田沼の運命を暗転させる。磯田氏発掘の新史料も登場、田沼が大出世を遂げた秘密にも迫る。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】萱野稔人,高木久史,山口真由,【語り】松重豊

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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  17. 飢饉
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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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おめでとうございま~す!

今年5月 静岡県牧之原市に
新たなシンボルがお目見えした。

地元の英雄とされる
江戸中期の老中

田沼意次の銅像だ。

意次は ここ
遠江国相良を領地とする大名だった。

銅像が建つのは

意次が築いた
相良城の本丸跡。

三層の櫓を持つ 豪壮な城だったが

意次の失脚後
破却された。

こちらがですね…

…というふうに考えられています。

田沼意次公の力の強さというか

そういったものが反映されて
こういった石垣を

寄進されたのではないかな
というふうに思います。

意次は 1代で蔵米300俵の身分から
5万7, 000石の大名にのし上がり

老中として権勢を振るった。

近年 意次が行った数々の経済政策が

非常に
進んだものだったとされ

開明的なリーダーとして
再評価されている。

それを支えたのが
当時

「山師」と呼ばれた
人々の存在。

彼らが持ち込む さまざまなアイデアを
意次は実行していったのだ。

しかし 天明の大飢饉が起きると

有効な対策を打てずに 批判が噴出。

窮地に陥った意次の前に

起死回生の壮大な一手が 浮かび上がった。

スタジオでは
さまざまな分野の専門家が

意次が推し進めた経済改革と
失脚の理由を徹底分析。

田沼が
やろうとしてることっていうのは…

果たして 田沼意次は
未来を見据えた政治家だったのか

それとも 山師たちに
踊らされただけだったのか。

その真実が浮かび上がる。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今日は 江戸時代の中頃
大胆な経済改革を行った

田沼意次を取り上げます。

磯田さん。 田沼意次ということですが
見どころは どこにあるんでしょうか?

そうですね
田沼意次といいますと 古くは

賄賂政治家 なんて言われましてね
批判されました。

ええ。 ところが 近年 学問の世界で
180度 評価が変わってきて

新しい政策を次々に打ち出してった

開明的な政治家という評価まで
なされるようになっています。

しかし!
田沼意次の時代の政権というのは

後半にはですね 天明の大飢饉。

まあ 火山が噴火したりして
大災害が起こるわけですね。

はい。
ほいで 途端に全てが

うまくいかなくなって
それで 崩壊してしまうと。

これは一体 どういうわけなのかと。

それと もう一つですね。
はい。

なぜ 田沼が大出世できたのか。
ええ。

まあ いろんな史料を
私も掘り出してきてですね

まあ あの まだ
学会発表前の史料とかも出してですね。

あらっ!
あの~ 最新のお話。

田沼の特徴 ねえ
お話ししたいと思いますね。

あ~ 貴重な話も じゃあ
出てくるということですね。

そうですね。
さあ まずは 田沼意次が

どういう課題がある中で登場し
どのような改革をしたのか

見ていきましょう。

岐阜県郡上市の南宮神社。

およそ270年前 周辺の村々
120余りの代表者たちが ここに集結した。

宝暦4年から 4年にわたって続いた

郡上一揆の始まりである。

騒動のきっかけは 財政難の郡上藩が

強引な年貢の引き上げを
図ったことだった。

実は郡上藩に限らず
当時 全国で一揆が頻発していた。

8代将軍 徳川吉宗が行った…

この郡上一揆は
郡上藩の領内で収まらず

幕府中枢をも巻き込んでゆく。

農民たちの反抗に業を煮やした
郡上藩主は

幕府老中らに助けを求め
幕府の命令として

年貢を引き上げさせようとした。

だが 各藩の内政に幕府が命令を下すのは
重大なルール違反だった。

事態を重く見た9代将軍 家重は

信頼する側近を
真相究明の吟味に参加させる。

それが 田沼意次である。

意次は手加減のない取り調べを行い

不正を行った老中たちは
厳しく処罰された。

この働きをきっかけに 意次は幕政に
大きな発言力を持つようになる。

このころ 幕府の最重要課題は
収入増加であった。

吉宗の時代に増えた年貢収入は
頭打ちとなり

再び財政難に陥りつつあった。

このままでは いずれ幕府財政は破綻する。

だが 年貢に頼る今までのやり方には
限界が来ている。

そこで 意次が注目したのが…

当時
大きく発展していたにもかかわらず

税を課されていなかったのだ。

意次は 商工業者に
同業者の組合 株仲間を結成させた。

これは 株仲間の鑑札。

幕府は これを持つ者に
仕入れや販売の独占権を保証した。

対象となったのは

廻船問屋 両替 茶屋 湯屋 髪結床など。

更には 鋳物や塗物など
職人たちにまで及んだ。

そして 独占権の見返りに

運上・冥加と呼ばれる

営業税を納めさせたのだ。

これは 幕府の収入の新たな柱となった。

意次の経済・財政政策を支えたのが
勘定奉行をトップとする 勘定所。

勘定所は 200人以上のスタッフが
政策を立案し実行する

幕府の最重要機関となっていた。

それだけに 家柄に関わりなく
業績次第で出世できる特別な組織だった。

江戸時代の政治経済を研究する
深井雅海さん。

深井さんが注目するのが

田沼のもとで勘定奉行を務めた
松本秀持である。

それが 出世をして 勘定奉行にまで
取り立てられたということで

やっぱり そういった
人材を登用するといいますか

能力主義といいますか
そういう面が やっぱり

勘定所は強かったんではないかと
思いますね。

勘定所のスタッフたちは
さまざまな増収策を立案した。

そうした政策の一つが
新貨幣の発行だった。

こちらになります。

明和9年に発行を開始した銀貨…

…ということが書いてあります。

この新貨幣の発行には
大きな意味があった。

通貨の東西統一である。

江戸時代 流通する通貨に
東西で違いがあった。

関東では金貨を 関西では銀貨を
主に使っていたのだ。

金と銀を交換する際は 両替商に持ち込み
手数料を払って交換する必要があった。

しかも 両替相場は日々変動するため

経済の発展とともに
不便さが目立っていた。

幕府は南鐐二朱銀の発行によって

金銀交換の相場を固定しようとしたのだ。

これは
江戸時代始まって以来の大改革だった。

…というようなものが
ございますが

経済が発展する中で
そこの交流 経済的な行き来も

非常に激しくなってきまして
そこで 大坂の方での両替商を中心に

相場をいろいろ動かしていましたので…

更に 長崎で行われていた

オランダ 中国・清との貿易の拡大を図る。

輸出産業を育成したのである。

輸出品の主力となったのは 銅。

そして 干しアワビやフカヒレなど

俵物と呼ばれる水産加工品。

俵物100キロが 銀 およそ2キロになった。

商工業への課税 新貨幣の発行

輸出産業の育成。

これらの増収策により 明和7年

幕府の御金蔵には

300万両を超える蓄えが
出来ていたという。

将軍の厚い信頼を後ろ盾に

幕政の実権を名実ともに握ったのである。

今回も さまざまな分野の
ゲストの皆さんに

お越しいただいています。
よろしくお願いいたします。

(一同)よろしくお願いします。

さあ 当時 幕府の最大の課題が

悪化する財政の立て直しという
ことなんですけれど

新たな収入源として 商業に課税した。
そこに見いだすわけですけど。

これ 山口さん。 この商業に そもそも

課税していなかったことについては
どのように思いますか?

私 これが 今回
田沼を勉強した時の一番の驚きで。

江戸時代を通して ついぞ

商業に対して 農業と同じような

システマチックな課税というのが
行われなかった。

その あまりにも 課税が

不公平だったんじゃないかなと思います。

その背後に あったのって…

…っていうことが
あるんじゃないかなあと思ってるんです。

田沼意次っていう人は 必ずしも総論的な
おっきなビジョンを持って

こっちだっていうふうに
思ったというよりは

非常に柔軟で
かつ限界に直面したからこそ…

う~ん 萱野さん いかがでしょう。

封建制っていう観点から見ると

私は その
商業に課税してないっていうのは

ある意味 当然というか
自然のことだろうなと思うんですよね。

やはり 戦の結果 土地を与えられて

その土地を支配して
そこでの食料を確保すると

いうのが 封建制の基本ですから。

その点で言うと…

う~ん。
で 武士からは見えない形で

お金が どんどん生まれていくのが
商業ですよね。

そこから 税金取るためには

新しい
その仕組みが分からなきゃいけない。

それから
お金の流れも捕捉できなきゃいけない。

相当 実は大変なことだったと思います。

ず~っと その
商業に税金かけられなかったのは

やっぱり それ 難しかったからなんじゃ
ないかなと思うんですよね。

江戸時代で「エイホッ!」って
駕籠をかいてる おじさんから

税金取るの難しいですよ。
何回 この人から…

この人が 客 乗せたかな
どこの距離を…。

タクシーメーターが
あるわけじゃないんで。

確かに!
ですので 私からすると

田沼が むしろ商業に課税したことの

この 先見性っていうんですか?
時代を先取りしてる部分が

ものすごいなって思うんですよ。
よく これを思いついたなと。

はい。

まあ そんな中で その
新貨幣の発行についても

ちょっと触れましたけれど
これ いくつもの効果が

あったようですね?
そうですね。 東と西日本における

基軸通貨の交換相場を
安定させるっていう話

っていうのはあったと思います。
で もう一つ

これは VTRにはなかった
話なんですけれども。

今 言うた話は もしかすると
結果論かもしれない。

ああ~。
というのは この

南鐐二朱銀でございますけれども
これ まあ 額面としては

金二朱と等価であると
定義されてるわけですけれども

もの そのものの…

ああ~。
っていうことは発行した

政府側からすれば その差額が収入。

まあ いわゆる
貨幣発行益っていいますけれども

になるっていう話。 で むしろ これが

メインなんじゃないか。
はあ~。

新手の 金属そのものとしては…

私 でも
今 すごい腑に落ちました。

金貨経済圏と銀貨経済圏を統一した
なんてことを

果たして その大局観を
持てたんだろうかと思って

今 先生からお伺いした
実はその時 田沼の頭にあったのは

この細かい歳入増だった可能性が
高いっていうので

すごく腑に落ちた感じがありました。
うん うん。

一つ ポイントなのが
勘定所だと思うんですけれど。

優れた業績を上げれば
家柄に関係なく出世できるという場所。

で まあ 幕府においては珍しい役所
だったということですけど。

改革が求められる時代っていうのは
やはり 能力主義が重視されるんですよね。

これまででは 高い役職に
就けなかった人間を

でも その才能を見いだしていく。
で そうすると

今までのやり方にとらわれない
新しい発想も出てきます。

将軍のそば 味方を離れずに

一緒に あの世まで行ってくれる
討ち死にしてくれる人たちを

譜代で雇ってるんですよ。
ああ~。

これは 将軍様のために

いかに お米年貢を集めてきたり

お金を集めてくるかの 人たちなんですよ。
う~ん。

これは
戦場での活躍は期待されてないので

1代でも取り立てていいと
こうなってるんですよね。

うん。
う~ん。

さあ その田沼意次のもとには
勘定所の役人だけではなくて

さまざまな人々から
幕府の収益を増やすアイデアが

寄せられていくようになります。

次々に出される 意次の新政策。

それは 必ずしも
好意的に受け取られたわけではない。

「蘭学事始」で知られる
杉田玄白は

次のような
狂歌を詠んでいる。

「世にあうは
道楽者に おごり者

ころび芸者に 山師運上」。

「山師」とは
怪しげな金もうけ話を

勘定所に持ち込む人々を
揶揄した言葉である。

批判したのは 玄白だけではない。

これは 幕府御庭番が
将軍に提出した報告書。

世間の評判として

「近頃 山師のような人物が
あふれている」とある。

確かに 意次のもとには
金を生むアイデアを持った

山師たちが続々と集まっていた。

その一人が 蘭学者 博物学者
として知られる

平賀源内である。

意次は 源内の能力に期待し

パトロンとなって
新事業への挑戦を後押しした。

源内が エレキテルを開発した時には

意次の嫡男 意知が見学に訪れている。

幕府の期待を背負った源内は
この川をさかのぼり…

ここはですね…

かなり日本でも 希少な
そういった鉱山になってますね。

意次は 源内の豊富な鉱山知識を買い

その力を活用しようとしたのである。

しかし 鉱山開発は
もくろみどおりにはいかず

失敗に終わった。

千葉県北部に位置する 印旛沼。

ここも 山師の活躍の舞台となった。

安永9年 幕府勘定所に

印旛沼を干拓し
新田開発する計画が提出された。

提出したのは 蔵米200俵の小身から

この地の代官になった
宮村高豊。

宮村は用意周到にも
大坂 江戸の商人から

工事資金出資の約束も取り付けていた。

計画は 印旛沼の沿岸部を埋め立てて

新田を開発するというもの。

見積もられた面積は
3, 900町歩。

しかし 乗り越えなければならない
問題があった。

利根川は 増水すると印旛沼に流れ込み
沼の周囲を水浸しにする。

埋め立ての成功は この利根川からの水を
いかに制御するかにかかっていた。

意次は この干拓計画に期待し

天明2年 工事が開始された。

長年 印旛沼の干拓事業を
研究してきた

鏑木行廣さん。

案内してくれたのは

利根川と印旛沼を
つなぐ川。

沼の北側の工事と同時に
南側でも大工事が行われた。

印旛沼の水を江戸湾に流す
堀割を造る工事である。

これで
利根川が増水しても

流れ込んだ水は
あふれることなく
江戸湾へ流れ

印旛沼は
水はけのよい

新田に適した土地
となるのだ。

大変な工事だったと思いますよ。

堀割工事の現場に
事業の困難さを伝えるものが残っている。

ここに 川ホリ人足のお墓があります。

ここに 「川ホリ人足」と書いてあります。

工事は難航し 印旛沼と江戸湾を結ぶ
水路が完成するのは

昭和になってからのことだった。

なぜ 意次は 成功が危ぶまれるような
政策に踏み出すことができたのか?

その秘密は 幕府の中での
人脈づくりにあった。

意次は 娘たちを各地の大名家に嫁がせ

息子たちを養子に送り込んだ。

血縁で結ばれた田沼派を
つくり上げていたのだ。

更に 嫡男である意知を
若年寄に引き上げ

自分の政策を受け継ぐ体制まで
用意する。

最盛期には
なんと 老中全員が

田沼家の親戚という
状態だった。

当時の随筆には 諸侯が

意次に気に入られようと
我も我もと

縁結びを望んだことが
書かれている。

更に 大奥の実力者とも つながりを持ち

大奥の支持を得ることにも成功していた。

意次は 有力な味方を集めることで
新たな政策を推し進めていったのである。

田沼意次のもとに
山師と呼ばれる人たちが

集まってきたわけですけれど。
萱野さん この山師が

意次に集まっていくのは
なぜだと思いますか?

山師って すごく悪いイメージ
あるじゃないですか。

私 果たして そういう悪いイメージの
存在だったのかなっていう気は

少し しますよね。
ええ。

やはり当時の
封建制の価値観からすれば

確かに 怪しい人間だったとは
思いますけれども…

で 新しいビジネス 立ち上がる時って

大体 こう… まあ 今でもそうですけど

何か 若造で生きがよくて でも何か
ちょっと怪しくてっていうような

そんな感じするじゃないですか。
ですので まあ

社会的に その当時 見れば
山師で

怪しい金もうけ話を持ってくるような
人間だったのかもしれませんけれども。

田沼の政治という観点で言えば
封建制の壁を 限界を超えるために

いってみれば資本主義的な
まあ ビジネススタイルというものを

少しずつ こう…
今から見れば 開拓したことになるわけで。

それでいうと やっぱり そこに

いろんなアイデアを持った人間が
集まってきてたんだろうなと

そんなふうなイメージを
私は持ってますね。

山口さんは どう考えますか?

この人は…

…だろうというふうに
思っています。

あの まず 腰が低い。 で そつがない。

だけどね
カリスマ性も 多分 ないんですよ。

ああ~。
で だから 誰も彼に心酔しない

利で結ばれているところがあって。

…と私は思ってます。 好き嫌いとか

イデオロギーとか
そういうものに引っ張られずに

ステレオタイプなく 是々非々で

目の前にあるプロジェクトを
決済することができる。

だからこそ 彼は
ある種 変わった人たちを

うまく使いこなすことが
できたんじゃないでしょうか。 う~ん。

結局のところ 田沼自身には
天才的な独創はない。

むしろ 世の中に たくさん存在する
アイデアだとか

もっと言ったら
民間の起業マインドと言ってもいい。

で そういったものは 恐らく
超時代的に存在するんだと思うんです。

ただ それを…

まあ でも とはいえ
その 採用された企画の中には

ちょっと こう
実現不可能な 実現困難な

企画もあったと思うんですけれど。

これに着手する 意次のねらいって
どこにあったんでしょうね?

私は 田沼意次のことを…

…だと考えてまして。

官製ファンドのベンチャー投資家だと
思っていただくと。

あのですね まず その
印旛沼なんていうのは別にすると

投資額自体が 一件一件
さほど大きくないプロジェクトが

多かったんだと思うんですね。
で かつベンチャーというのは

当たるも八卦で なかなか
その成功を 見極め難いところがある。

だからこそ…

さあ 一方で意次は 娘や息子を
幕府の有力者たちの家に送り込んで

親戚として結び付いた まあ 田沼派を
つくり上げていくわけですけれど。

かなり巧妙に しっかり こう
根回しできてるなっていう感じが

私は 印象としてあったんですが。

私は あの~ 理解できるんですよ。

ほう~。
この田沼の行動 というのもですね…

商業に課税して 商業を育成してく
なんていうようなことは

一つの例ですけれども
対立してしまうかもしれない。

それを 封建社会の中から
やろうとすれば

その体制の中で
いかに権力を集中させていくのか

自分の権力基盤を
強化していくのかっていうことを

やらざるをえないんですよね。
逆に言うと…

もう 田沼のおうちって
その 幕府内で出世しようと思ったら

ハンディだらけなんですよ。
はい。

田沼が権力を握ることができた
理由っていうのは

いろいろ 今 調べてんすけど
謎が多いんだけど

今 学会が 割と迫りつつあるのは

田沼親子が
和歌が上手だったんじゃないか。

お歌。
ほう~。

冷泉家の門人帳っていうのが
公表されて

それで そん中に
田沼のお父さんの名前がある

田沼意次もあるっつって
話題になって 論文が出たんですよ。

ええ ええ。 ほいでね 実際 だけど
田沼は

どんな和歌 詠んでたんだろうったら
僕… 見つけたんで

ちょっと 紹介するとね。
はい。

…と書いてあるんですけど
これがね

面白いシチュエーションで
詠まれてるんですよ。

部屋住みの無名時代に

奥さんと一緒に 春んなったからって
障子の張り替えをやったんですね。

そしたら 女中さんが誤って
張ってる障子を

破っちゃったんですよ。
ああ~。

ほったら 田沼が その女中さんの失敗を
とがめずに

奥庭の梅の香りが
こう 漂ってくるには

破れてる方が通るじゃないすか
梅の匂いは。 ああ~。

「春きぬうちに」 春が来ないうちに
綻びて破れちゃったっていう

ユーモアに転換してるんですよ。
はあ~

憎いですねえ。
これを 即座に詠んで

紙に書いて 女中にあげた。
あらま!

それで それが 千葉県の女中の
実家辺りに残ってるっていう

話として出てくる。
ええ~。

だから こういう細かい心遣いを
女性に対する

積み重ねてきたことが分かるんですよね。
うん うん。

んで~ 後に悪口になる「田沼実録」だとか
そういうのを見ると

女官っていうか その大奥の
幹部も含めてなんですけど… に

ものすごい取り入ってるって
書かれてるのね。

賄賂送りの名人っていう面も
恐らくあっただろうと。

和歌だとかに見られるような
人の情に食い込んでいくってことの

この人のすごさ 細かい心遣い。

だけど やっぱ こういう人って
自分たちのお仲間をつくっちゃって

その中で利益を回してると
っていうところに

少し問題があるっていう
この辺が見えてくるわけですよ。 ああ~。

さあ 着々と改革を進める意次でしたが
思わぬ落とし穴が待っていました。

順風満帆に見えた 意次の政治。

しかし 天明年間に入ると状況は一変する。

天明3年 浅間山が噴火。

大量の噴出物は 天候不順を呼び

飢饉を引き起こした。

大きな被害を受けたのが 東北地方。

30万人以上が命を落とし
住民が死に絶えた村もあった。

「家の中をうかがえば 犠牲者が

葬り弔う者もなく 放置され

道々には
餓死者の骸骨が

累々と
重なり合っていた」。

この未曽有の災害は
人災の要素もあったという。

人々の食料となるはずの米が

大名の借金返済のため
江戸や大坂に送られていたのだ。

意次は 大坂の奉行所が発案した
救済策を採用する。

大坂の両替商や大商人に
大名に貸し出す資金を用意させる…

返済が滞った場合に備え

借りた大名の年貢を担保にしたり
幕府が債務を保証したりした。

しかし この政策が
軌道に乗ることはなかった。

反発した商人たちが
貸し渋りを行ったからだ。

お上の無策に人々の不満は高まり
各地で打ち壊しが起こるようになる。

そんな時 意次の目に留まったのは
一冊の本だった。

仙台藩の医師
工藤平助が著した

「赤蝦夷風説考」である。

この中で工藤は 世界地図を示しながら

ロシアが蝦夷地を挟んで
日本の隣に位置し

清を超える巨大な帝国であることを紹介。

幕府が
率先して 蝦夷地の金銀鉱山を開発し

それを使って
ロシアと交易を行うべきであると説いた。

金銀がとれ 貿易ができれば
大きな資金源となる。

飢饉のさなかの 天明5年

意次は 幕府の調査団を蝦夷地に派遣する。

そして 翌 天明6年
いまだ飢饉が収まらない中

蝦夷地調査団の報告が もたらされた。

金銀鉱山は発見できず

ロシアとの交易も
利益は見込めないというものだった。

担当の勘定奉行
松本秀持が

代わりに
提案したのが

広大な未開地を切り開き
農地をつくる

蝦夷地開拓計画
だった。

開拓できるのは
およそ 116万町歩。

石高は少なく見積もって
583万石。

壮大な計画だった。

新たな計画を前に
意次は何を思ったのか。

心の中に分け入ってみよう。

蝦夷地開拓とは
なんと夢のごとき壮大な計画か!

見込まれる石高は 現在の幕府領
およそ440万を 大きく超える。

いまだ 飢饉は収まらぬが
幕府の将来を思えば

今 蝦夷地の開拓を
始めるべきではないか。

蝦夷地の発展は
飢饉の被害が著しい奥羽の諸藩にも

必ずや利益をもたらす。

人々に希望が生まれ
飢饉に無策という批判も

収まるのではないか。

問題は開拓にかかる金だが

それはまた別に 考えればよかろう。

いや 駄目だ!

この緊急事態にあたって

すぐに結果が出ないことに
力を注ぐわけにはいかない。

蝦夷地の開拓に どれだけ時間がかかるか
考えてもみよ。

今日 食べる物もなく
あふれ返る民の不満を抑えるためにも

今は飢饉対策に集中すべきだ。

大名たちも 幕府の援助を受けられず
不満を募らせている。

蝦夷地開拓より
今すぐ人々を救う策が先決である。

だが 一体どうすればいいのか…。

意次は選択に迫られていた。

さて 天明の大飢饉が発生。

日本中が
危機に陥っている最中に

意次は選択に迫られました。

皆さんが 田沼意次の立場だったら
どちらを選択するでしょうか。

萱野さん どちらを選択しますか?

はい。 私は 選択1の
「将来のため蝦夷地を開拓」

これを選択します。
はい。 どうしてでしょうか?

まずですね 状況を見ると
冷害があるわけですよ。

で 冷害っていうのは
一地域だけの問題ではなくて

かなり広域的な問題ですよね 東北の。
はい。

で そうなると 一部分の

特定の大名を助ければいいという
話ではないんですよね。

大噴火による この生産力の低下って
やはり目を覆うものがあって

東日本は もう 全部 農業

やられてしまうというような
状況ですから。

あの~ もう とにかく こうなると…

…っていうことでいえば

まずは その根本にある食糧生産を
増やさなければいけないということが

対策になってくるだろうなと
いうふうに思いますね。

それぞれの大名を越えて
飢饉対策をしようとすれば

幕府そのものの 米の収穫量。

米の年貢高を増やすしか
ないんじゃないかなというふうに

思うんですよね。
そうなると まあ もう

蝦夷地の開拓という選択になりますね。

1の「将来のため蝦夷地を開拓」。
はい。

私は もう 迷うことなく

2「蝦夷地より飢饉対策に注力」
にしたいと思います。

で まず その 蝦夷地ってのは

今までにない 大規模プロジェクトです。

でも…

ロシアとの交易を 初め夢みて
交易があんまりなかった。

金銀鉱山っていわれて
金銀鉱山もあまり どうも なさそうだ。

で 急に出てきた新田政策。

それも またね
その新田政策っていってもね

土地はあると 肥沃であると

なら 田んぼが出来るだろうぐらいの
雑さなんですね。

こんなんで 乗り出していいのかって
思うんですよ。

で また もっと言えば…

…だったんじゃないかと思うんですが

ここら辺から急に 広大な大地に
金の稲穂 みたいな夢を見始めるんですね。

で そこら辺から 彼の こう 若干
危うくなってくるっていうものを

私は 何となく予感…
ここに予感してしまうところがあります。

う~ん 確かに。

さあ 高木さんは
どちらを選択しますか?

選択肢の1「将来のための
蝦夷地開拓」を選びます。

といいますのは まず そもそもの
話なんですけれども

飢饉対策と蝦夷地開拓は
別問題であって 両立できる。

どういうことかというと
まず 飢饉対策につきましては

まあ 話の前提ですけれども…

ああ~。
で それは まあ

ただ 当時における
情報インフラだとか 流通インフラ。

今であれば
あそこで飢饉が起こってるから

トラックで すぐ運べっていう
対応が可能なんですけれども

当時は そういうものが
存在しないわけですから

そういった 柔軟というか弾力的な対応が
難しいという制限が 当時 あります。

で なので
そういった制限のある下で

できることをやるということが
求められる。

で 一方で
蝦夷地開発については 極端な話

民間企業に丸投げっていうことだって
可能なわけですよね。

はい。
その上で じゃあ その

蝦夷地開発という
プロジェクトに対して

何か積極性があるかという点で言うと

まずは やっぱり 食糧供給の拠点を
つくるということが求められる。

新田開発をやることによって
食糧の供給を増やす。

これは まず 一つ
有効な方法としてあろうと思います。

さあ こちらスタジオでも
割れましたけれど

磯田さんなら どちらを選択しますか?

私なら 選択2の

「飢饉対策に注力」ということにします。
はい。

で 理由は やっぱり
成果が出るまでの時間です。

蝦夷地の開発は 魅力的なものの

やっても やっぱり 5年やそこらで
どこまでの成果が出るか分かりません。

で 一方
今 飢饉は 焦眉の急であって。

何せ 飢饉って一回起きたら

気候の場合は
数年 波状的に襲ってきますし

これ 浅間山も
降った火山灰の取りよけだとか

いろいろやってると
やっぱり 5年はかかるので。

これ 蝦夷地の開発は やっぱり
人間でやらなきゃいけないので。

蝦夷地の開発のために 食料を送って
開発をしないといけないわけですね。

半年やそこらで 成果が出るんだったら
飢饉対策になるんですけど。

あの~ これ 蝦夷地開発をして
蝦夷に米を送ってるうちに

餓死者が増えるってことは
十分 考えられるので

やめた方がいいだろうと。
う~ん 分かりました。

さあ それでは
意次の決断を見ていきましょう。

意次は勘定奉行に こう言い渡した。

「伺いのとおり つかまつるべし」。

蝦夷地の将来性にかけ

開拓計画に ゴーサインを出したのだ。

その一方で 同じ年の6月

新たな飢饉対策を打ち出す。

桑名藩の藩士が出した策を採用。

それが…

全国の農民 町人などに

農地の石高や建物の間口に応じて
出資させる。

それに 幕府の資金も加えて
大坂に貸金会所を設立。

融資を希望する大名に
貸し付ける。

そして 得た利子を

出資した者と幕府で分け合う。

幕府 大名 民

皆に利益があるという 妙案だった。

しかし 新たな負担に
民は怒りの声を上げた。

それまで 全国的に幕府が税金を課すと
いうふうなことについては

まあ 基本的にはなかった。

大名領 要するに私領地ですので

そこに課税するということは
なかったですね。

それを だから 今回
やろうとしたわけで

そうすると まあ 領民にしてみますと
それぞれ 幕府領も大名領の農民たちも

それぞれ領主から
税金を課せられてるわけですね。

で 更に その上に
増税という形になりますので

それは やっぱり 農民たちにとっても

承服できないようなこと
じゃなかったかと思います。

その翌月
追い打ちをかける事態が発生する。

関東に大雨が降り 利根川が氾濫。

干拓工事中の印旛沼を襲ったのだ。

これは 押堀といいます。

で 押堀というのは 川が氾濫して

で その氾濫した水が
引いていったあとも

そのまま水が残って 沼となって
こういう形になってるわけで。

利根川から
ものすごい量の水が来ますから

水門は全部 壊れてしまいましたし

それが印旛沼を
ず~っと 襲っていきましたので。

堀割の方ですね。
沼から江戸湾へ流す堀割も

全部 潰されてしまいます 水で。

着工から4年

着々と進みつつあった
印旛沼の干拓事業は

たった一度の洪水で
文字どおり 水の泡となった。

そして3日後 意次は失脚。

原因は将軍 家治の病死だった。

後ろ盾を失った意次は
坂道を転がり落ちるように転落していく。

蝦夷地の調査は 中止となったばかりか

不埒の至りとされ
意次を断罪する理由の一つとなった。

領地の相良も召し上げられ
城は破却された。

代わりに 意次の孫に与えられたのは
1万石だけだった。

田沼派と呼ばれた人々も 離れていった。

老中 水野忠友は
養子に迎えていた意次の息子を追い出し

田沼家との縁を切った。

天明8年7月24日

意次は 失意のうちに死去。 70歳だった。

その後 政敵たちによって

賄賂政治家としての
悪評のみが伝わることになる。

意次は 選択1
「将来のため蝦夷地を開拓」を選びました。

この選択 どう考えますか?

田沼がね やっぱ 僕は
焦ってたと思うんです。

仕えてる主君が だんだん
年取ってきたりしますでしょう。

はい そうですね。
病気かもしれません。

そうすると 今 一番 力が強い時だと。

自分が政策できるのは
大きい政策できるのは 今だといって

飢饉対策より
そっちを選んだ可能性 ありますね。

ああ~。
ええ。

萱野さん いかがでしょう?
どうやって食料を移転するのか。

今のような福祉の概念って
ありませんから 当時は。

再分配っていう概念 ありませんから。

となると やはり大きな事業をやって
で 食うに困ってる人たちが

まあ そこに動員して
その労働力として動員して。

で そこに
事業をするからということで

食料を与えるということしか
ないんじゃないかなって

私は思うんですよ。
う~ん。

大きな その蝦夷地開拓という
事業を通じて

恐らく それが 飢饉対策にも
なってたんじゃないか。

田沼の頭の中では そこが

むしろ 結び付いてたんじゃないかなって
いうふうな気もしますよね。

一方で 全国の民から御用金を集める
政策を出しているわけなんですけれど

これは 猛反発されてしまいますよね。

高木さん
この点については いかがですか?

はい。 この御用金令なんですけれども
これ 一般的に

税というふうな 解釈のされ方
されることが多いんですけれども。

これ 厳密には国債なんですね。

利子付けて返してやるから
お前ら金を貸せっていうふうに

政府側が言っているのが この御用金です。

で そうだとして
じゃあ なぜ失敗するかっていうと

まあ 一つには そもそも
救済対象が大名であるっていう。

別に全国民っていうことではなくって
大名であるっていう点において

社会的合意が
得られるかどうかっていうのが

まず大きな前提としてある。
で もう一方

もうちょっと これは
現実的な話なんですけれども。

結局のところ
幕府に それだけの信用がない。

つまり 庶民からすれば 何か
お金 利子付けて返すから

貸せやっていうふうに
政府に言われるんだけれども

ホンマに返してくれるのか? っていう。

結局
事実上 増税やないかっていうふうに

庶民側には思われる
といった その信用の低さですね。

だから 今の日本国債っていえば

まあ 結構 格付け高いっていう
評価ではございますけれども。

当時の幕府は 全然そんなことはないと
いうことだと思います。 う~ん そうか。

失脚後の田沼の没落。

あの 映像にもありましたけど
すさまじいもので

5万7, 000石が たった1万石に
減らされてしまっています。

城も取り壊されてしまっている
ということで。

本当に こう 成功が跡形もなく
なくなってしまったという感じですね。

田沼意次は 実は分かってたんですよ
自分がこうなるってことを。

この時代 1代で
まあ 部屋住み300俵から ウワァ~ッと

大大名じゃないけど 中大名ぐらいには
してもらえたわけですよね。

それって すぐ取り上げられるんですよ。

で こういう いきなり出世する人のことを
当時の言葉で

「出る」「頭人」と書いて
出頭人っていうんですよ。

近習という 「近く」「習う」を付けて

近習出頭人という
言い方をすることもありますけど。

あの~ 出頭人っていうのは もう

かわいがってくれた主君が死んだら
もう数日で 徹底して

失脚するもんなんですよ。
う~ん。

田沼さんが
権力の階段を上ってきた過程が

もともと 側近の官僚が

勘定方の経済官僚を
政策ブレーンや政策の主体にして

で のし上がってきたわけですね。
で 彼らが得意なのは…

でも ここで大災害が起きるわけですね。
はい。

噴火は起きる 水害は起きるっていうと。

これは 将軍に
ものを集めるんじゃなくて

持続可能なように
民たちに配らなきゃいけない。

そうすると これは
厚生労働省だとか福祉の分野になるので。

ええ。
田沼にしてみると不得意な分野ですよね。

それで…

う~ん。

だから 満遍なく
みんなが納得するものではなかった。

敵も やっぱり つくりながらの
出世であったっていうことが

一気に出てきたということ
なんでしょうね。

じゃあ この 天明の大飢饉をきっかけに
全ての政策が

裏目に出てしまったという
ことなんですね。

あの~ もう 時代を先駆け過ぎたと。

ええ。 そういう人間だったと思います。

となると やっぱり 私たちも

いくら こう…
例えば 今 200年後から見れば

ああ これって市場経済の論理で
やろうとしてたんだよねって分かっても

さすがに当時の人は それは
受け入れられなかったわけですから。

中身がよくても やはり こう

時代とか その社会状況に合った
改革じゃないと

やっぱり なかなか
成功しないんだろうな。

社会に定着 その改革が
定着しないんだろうなというふうには

思いますよねえ。
う~ん。

彼が やろうとしていることは
実は ほかのところでもやっている。

いわゆる藩政改革ですね。

田沼と同じ時代である
1700年代後半から

田沼が亡くなったあと
19世紀にかけての話ですけれども。

さまざまな藩で
同じようなことやっとるわけですよ。

これまで課税していなかったような
部門に対して 税をかけるだとか。

あと まあ
専売制の取り組みだとかですね。

さまざまな政策を取ることによって
財政再建をしようとする という試みは

実は日本中で 同時代的に行われている。
う~ん。

例えば たまたま成功をした

例えば 以前
この番組でも取り上げられている

上杉鷹山とかは 名君と呼ばれる。
ああ ハハ 確かに。

一方で 同じようなことをやっていても

もう 歴史に ほぼ記録が
残らなかったようなケースもあれば

その後の時代 例えば松平定信による
ネガティブキャンペーンによって

もう ボロカス言われるような
田沼意次みたいな政治家も存在した

と我々は認識すべきなんじゃないかと
思います。 うん う~ん。

磯田さん 今日は いかがでしたか?

いや 本当 大事な点が
いくつも 話で出てきて。

上杉鷹山と田沼意次っていうのは
経済政策が似てるんですけど

褒められる人と 悪評を得るという点では
ちょっと違うわけですね。

で 鷹山は やっぱり経済政策は
まあ 例えば

蝋を作るとか
商売をやるとかと同時に

福祉政策をやったっていうことが
やっぱ 大きかったかもしれません。

まだ 田沼は過渡期なもんですから。
ええ。

まず民を豊かにして

商業にも力を入れると
国力が増すっていうふうにいかず

やっぱり将軍への忠義っていうのが
前に出てた段階だったんで

やっぱ 時代の子だったんだろうと
思います。

でも 僕 田沼がすごいと思うのは
工藤平助だとか何だとか

よい考えがあったら身分を問わず

やっぱり
ちゃんと 誰の意見も聞いてる点ですね。

ええ ええ。
それと あと 彼ほど

世界情勢を
よく分かってた政権担当者は

なかなか現れません。
ああ~。

ヨーロッパが どういうことをやって
重商主義を恐らくやってただとか

いろんな経済の意見を決めて やったと。

だから これほど知的な人でも
やっぱり 時代の子なんだってことは

やっぱ 今回 感じましたね。 ええ。
う~ん。

いや 結構 現代にも通じる
本当に お話でしたね。 そうですねえ。

うん。
皆さん 本日は ありがとうございました。

(一同)ありがとうございました。

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