出典:EPGの番組情報
こころの時代~宗教・人生~ 遠藤周作没後25年 遺作『深い河』をたどる 前編[字]
遠藤周作が自らの人生を投影した登場人物を交差させ、「日本人にとってのキリスト教」という生涯のテーマの集大成として書き上げた『深い河』。その魅力と思想を探る。
詳細情報
番組内容
遠藤周作が臨終に際し「自らの棺に入れてほしい」と願った遺作『深い河』。それは、彼が作家として終生追い求めた「日本人にとってのキリスト教」「宗教の本質とは何か」という最大のテーマへの最終回答となった。遠藤文学との出会いによって人生が変わったと語る山根道公さんと若松英輔さんの対話による読み解き、俳優・加瀬亮さんの朗読によって、遠藤周作が『深い河』に込めた現代の人々に向けたメッセージを探ってゆく。
出演者
【出演】ノートルダム清心女子大学教授…山根道公,批評家・随筆家…若松英輔,【朗読】加瀬亮ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉
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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
今年 2021年は 作家・遠藤周作が
この世を去って 25年になります。
ここ 新潟県にある
糸魚川教会でも
遠藤周作をしのぶ 追悼ミサが
行われていました。
私の人生というのは
遠藤周作さんによって
その出会いによって変えられた
というふうに思っています。
遠藤さんの著作に 「深い河」という
遺作がありますけれども
そういう ほんとに不思議な
「深い河」の流れに導かれて
今から 25年前に
カトリックの神父になりました。
わたくしが神父になった年と 遠藤さんが
亡くなった年が同じということにも
何か深い意味を感じます。
クリスチャンとして生きた遠藤周作が
最後に 自らのひつぎに入れてほしいと
願った作品が
長編小説「深い河」でした。
遺作となった 「深い河」…。
四半世紀が過ぎた今 そこには
現代を生きる私たちに向けられた
どんなメッセージが
込められているのでしょうか。
♬~
遠藤周作は 子供の頃
敬けんなクリスチャンの母に従い
キリスト教の洗礼を受けました。
以来 日本人の自分が
西洋から
もたらされた
キリスト教を
どう
受け入れるか
戸惑いながら
育ちました。
日本人にとってのキリスト教とは何か…。
長崎の潜伏キリシタンを描いた
「沈黙」など
遠藤周作は 自らの「大宿題」を前に
執筆を重ねました。
死を間近にし
その集大成として
書き上げたのが
「深い河」でした。
上智大学に隣接する
クルトゥルハイム聖堂。
「深い河」の重要な舞台の一つです。
没後25年の命日を前に
クルトゥルハイムを訪ねた人がいます。
遠藤周作の研究者 山根道公さん。
批評家 随筆家の若松英輔さんです。
まあ だからこそ 最後の…
…っていうのはね
あったのかもしれませんね。
山根さんと
若松さんは
遠藤周作が掲げた
日本人とキリスト教の
テーマを考えようと集まった
「風の家」という会のメンバーでした。
以来およそ30年
互いに 「深い河」を読み込んできました。
二人は それぞれの成果を著作として発表。
遠藤周作から何を引き継ぐべきなのか
自らに問い続けています。
山根さんは 遠藤周作の文学全集なんかも
解題を全部 ご担当なさって
山根さんにとって
「深い河」っていうのは
どういう位置にあるっていうような感じが
なさってらっしゃいますか?
そうですね
私にとっては 個人的にはですね
もう 大変 やはり
一番 思い入れがあるものですね。
それは 生前 遠藤先生が生きてた時に
これを私が読んで
自分なりに 受け取った思いをですね
それを書いて 遠藤先生のとこ送りました。
そしたら その~ 葉書で
こういう葉書で返事を頂いて。
で その中にですね
この言葉があったんですね。
「我々の世代が
人生を完了するのも
そう遠くありません。
あなたたちが
是非 今度は
頑張ってください」
っていう。
やっぱり 私が遠藤文学に
ずっと関わり続けてきたのは
この「深い河」が ほんとに
大きな意味があったなと思っています。
ほんとに遠藤さんっていうのは
生涯 10回入院して 8回手術をしたって
最後の頃は ほんとに あの
大変 病気をたくさん背負った中で
この作品を仕上げていきます。
ちょうど 70歳になる時ですね。
それで その時には もう遠藤さん自身が
やっぱ 死をすごく意識して
自分の人生を
いろんな主人公に それを全部投影して
これを伝えておきたいという思い
全てを込めて こう 書いた
自分の人生ほんとに再構成して作り上げた
その遺言のようなものではないかと。
私が若い頃
遠藤さんの この小説を読んだ時には
なんか 受け止めきれなかったって感じも
正直あったんですね。
何か とても大きなものを
預かったんだけども
20代の自分には
もう もう 手に余るというか。
逆にでも その分 生涯にわたって
読み続けてこられたっていう感じも
片方 あったんじゃないかと思うんですね。
僕は あの 今から振り返ってみますとね
亡くなって25年の この間に
わたくしの中で起こった
やっぱり変化っていうのがあって。
山根さんも きっと そうでらっしゃると
思いますけど
言葉が育っていくっていうことが
彼の仕事の大きさってものを
改めて感じさせてくれたなって感じも
してるんですよね。
今 私たちは あの~ コロナ禍っていう
とても大きな危機の中に もう長い時間
私たちは今 これからも
少し生きていかなきゃいけないと。
で この時期に 「深い河」っていう作品を
やっぱり読み直す意味っていうのは
そこら辺は 山根さん どういうふうに
お考えになってらっしゃるか。
そうですね。 二つ
大体 大きな意味があると思うんですね。
一つは もうほんとに どんどんと 人が
孤独になっていって こう苦しんでいる…。
もう ほんとに
個がバラバラになっていく中で
ほんとに苦しみを背負っている人が
多くなってる。 そこに宗教が…
こんなに求めている人がいるのに
宗教が応えれていない。 そういう中で
新しい宗教の形が生まれてこなくちゃ
いけないっていうようなことを
やっぱり ひとつ
そのテーマがあると思います。
それから もう一つは 同じく 20世紀って
いうのが ほんとに戦争の世紀として
まあ 宗教なんかも一つの原因… まあ
「深い河」にも それが出てきますけども
宗教が一つの原因となって 対立が起きて
分断が起きているっていうことですね。
争いが起きる。 それを…
宗教っていうのが 本来
そういう分断を起こすものではなくて
宗教が もっと寛容の精神を
逆に養っていく。
なんか そんな方向に向かうべき
宗教性っていうのを こう
私たちに示してくれようと
したんじゃないかという。
この二つのことは
今 コロナ禍にあって
どちらも すごく こう あぶり出されてる
すごい問題だと思います。
遠藤周作は 「深い河」に
世代や考え方 生きてきた環境が異なる
さまざまな人物を登場させます。
それぞれ
深い悩みを抱えた者たちが
インド・ガンジス河への団体ツアーで
巡り合い
道しるべを見いだしてゆく
物語です。
その一人一人に
遠藤周作は 自らの人生を重ねました。
「創作日記」。
「深い河」の執筆中 病魔と闘いながら
心に浮かんだ 「深い河」の構想や ねらいを
書き留めた日記です。
「八月十八日 (曇)
この小説が
私の代表作に
なるかどうか
自信が
薄くなってきた。
しかし
この小説のなかには
私の大部分が
挿入されている
ことは
確かだ」。
犬や鳥を愛する童話作家として登場する
「沼田」。
彼は 人生の
支えとなった
生き物たちの魂が
豊かな大自然に包まれることを願い
ガンジス河に向かいます。
沼田の過去は
遠藤周作の人生そのものです。
遠藤は 幼少期を 旧満州・大連で
過ごしました。
両親の離婚によって
自らの心の慰めであり 掛けがえのない
友だった 愛犬「クロ」と別れ
日本に
帰国しています。
遠藤は その時の心の痛みと思いを
「沼田」に託しました。
「二月九日。 動物と
人間との交流。
動物をイエスの
象徴として。
『神は 人間の
口を通して
語りかけると
言うが
時として 神は
鳥や犬や
人間がペットとして
愛する
生きものの
口を通しても
語りかけるのでは
ないだろうか』」。
「塚田」という老人は
アジア・太平洋戦争に出征した元兵士。
人には言えない
ビルマ戦線での壮絶な体験に苦しみ
戦後 酒浸りとなって死んでゆく人物です。
戦時中 肋膜炎を患ったため
徴兵されずに済んだ遠藤周作は
晩年まで
戦死していった同世代に思いをはせ
生き残った者としての負い目を
感じ続けていました。
「深い河」で 遠藤周作は
塚田の魂を救おうと 心を砕きました。
臨終間際の塚田の場面。
そこに遠藤周作は 患者の世話をする
ボランティアの外国人を寄り添わせます。
塚田が心を開いた
青年ガストン。
彼は 生き方は
不器用ですが
笑顔を絶やさず
皆に好かれる
クリスチャンでした。
ガストンは やがて 実際に起きた
飛行機事故について語りだします。
奇跡的に助かった生存者が 死者の肉を
食べて生き延びた事件でした。
ガストンは 「深い河」以前にも 遠藤周作が
さまざまな作品に登場させた人物です。
最初に 彼を主人公として
軽妙なタッチで描いたのは
「おバカさん」という新聞連載小説でした。
そのガストンがたどりついた最後の作品が
「深い河」となったのです。
ガストンは 自分のキリスト 投影したって
遠藤さんが言ってますけれども
このガストンは ほんとに あの
まあ 「おバカさん」っていうね
これは 初めて
ユーモア小説として書いた作品で。
遠藤先生は戦中派。 その戦中派として
戦後になっても 戦争の傷を ずっと
一人で孤独に背負い続けている人たち
その孤独の苦しみに
やはり寄り添ってほしいという
キリストに寄り添ってほしいっていう
思いが やっぱりあって
書かれた作品だと思うんですけど。
そして今度 最後 戦中のことで
傷ついている塚田という人物に
最後寄り添って 最後も死を迎える時
ずっと手を握っている存在として
ガストンが出てくるという。
まあ こういうところに
まあ 遠藤さんの中で そういう人物が
ずっと心の中に生きている。
ここに すごく意味があるのかなと
思います。
あの… 遠藤周作さんの
なんかその 作品っていうのはですね
いわゆる イデオロギーっていうものから
とても 自由なんだと思うんですよね。
「あの戦争は
どうだったのか」ってことを
あるイデオロギーの力を借りながら
反対する人っていうのが
たくさんいる中で
そういうことではないんだと。
もっと一人 自分の この人生における
苦しみと悲しみを背負って
沈黙してる人たちっていうのが
たくさんいて。
で 遠藤さんの言葉ってのは あの~
そういうとこに届いていったって感じが
するんだと思うんですよね。
そこに ガストンっていう人物が 今
山根さん おっしゃって下さったように
ほんとに寄り添ってるっていう。
遠藤さんの言葉ってのは
なんか 我々を励ますっていうよりも
なんか 寄り添ってくれてるっていう
感じですよね。
登場人物の さまざまな人生をちりばめて
交差させようとした 「深い河」。
それは 誰の どんな物語から
書き始めればよいか。
「創作日記」には 試行錯誤の末
遠藤周作が 最初の章に登場させようと
決めた ある人物のことが
こう記されています。
「『わたしは死んだら
どこに行くの』
と彼女は言った。
『死んでも
必ず会えるわ。
生れ変って
また あなたを
見るつもりだわ』
書き出しは 右のように
テーマに直接ふれること。
壮年の男。 磯辺
それを確認に
印度にやってくる」。
冒頭に登場する
「磯辺」という人物。
戦後の高度成長期 懸命に働いてきた
サラリーマンの磯辺は
定年退職間近にして
長年連れ添った妻を
癌で失うという
現実に立たされます。
妻の遺言が耳から離れない磯辺は
やがて ガンジス河の近くの村に
日本人の生まれ変わりだと話す少女が
いることを知り インドへと旅立ちます。
しかし 懸命に村々を訪ね歩いても
見つけだすことは できませんでした。
絶望した磯辺が たどりついたのは
ガンジス河のほとりでした。
あの わたくしは なんか あの
この作品との関係っていうの
なんか なんと言ったらいいのか
あの~ ひと言で言えないんですけども。
あの~ わたくしは その
伴侶を失った経験があるんですけど
その伴侶に 最初に渡した本だった。
で 何で この本じゃなくちゃ
ならなかったのかって理由は
いまだ分からないわけですけど。
まあ わたくしは その
全く磯辺と同じ経験をするんですよね。
ほぼ ほぼ同じだと言っていい。
で そのことを わたくしが 思い返すのは
伴侶が亡くなったあとなんですよ。
こういう苦しみと悲しみってのが
お前の人生に現れる可能性が
あるんだってことを
お前には
教えていたはずだっていうことを
自分の中で
何回も 反芻し直さなきゃいけない。
で その度に読み直さなきゃいけない
小説だったんですよね。
だから その なんて言うんでしょう
自分の人生に 何か 今まで経験したことの
ないような強い力で介入してきた物語が
私にとっての「深い河」なんですよね。
で それは だから わたくしは もう
この「深い河」っていう小説を
文学として 鑑賞するなんてことも
わたくしにとっては不可能で…。
この作品が 教えてくれたことは
あなたに必要なことは
これからの あなたに というよりも
今までの あなたにある
っていうことなんですよ。
見過ごしてきたものの中に
お前が お前であることの証しがあるし
お前が どこから来て どこへ行くのかって
いうことも 全部お前の中に既にあると。
お前の中を しっかり探せっていうことを
なんか教えてくれる小説なんですよね。
なんか
私たちは 苦しい時になってしまうと
ほとんど無意識に
未来を見ちゃうんだと思うんです。
それで
絶望したりするんだと思うんですけど。
なんかこう 希望の光っていうのは
むしろ私たちの 自分が生きてきた
確かな歴史の中にこそあって。
光は 自分の内側から さしてくると。
だから
外側からの光を探さずともよいっていう
なんか
もう一つの声が聞こえてくるっていう
そんなことを教えてくれる作品じゃ
ないかなと思ったりもしてんですよね。
遠藤さんが書いてる 「生活の次元」と
「人生の次元」っていうのが
これは やっぱり二つ分けて考えると
私たちはもう ほんとに今は
生活の次元だけで 全て 見てしまって
そこで こう 苦しんでしまっている。
孤独になってしまってる。
まあ 遠藤さんのあるエッセーでは
現代人は 生活の次元では
豊かな勝利者になっていったけども
人生の次元では
ほんとに貧しく敗者になっていったと。
ほんとに大事なものを失っていった。
で その時に 生活の次元では貧しくても
人生の次元で
ほんとに豊かなものを持っている
それに出会わしてくれる世界として
このガンジス河があったっていう。
生活の次元ってのは なんか いろんな形で
優劣がつくんだと思うんですよね。
あの~ あるいは 立場の違い 権力の違い
いろんなもので
とにかく差がつく世界だと思うんですよ。
人生というのは やっぱり
実は競争がない世界だって
いえるんじゃないかなと思っていて。
なぜ競争がないかというと 一人一人が
別な道を歩いているからだと。
でも 別な道を歩いているんだけども
我々は 時に声を掛け合ったりとか
励まし合ったりすることはできると。
それが なんか
私たちの人生なんだと思うんですよね。
この小説は どうしたら 本当の意味で
等しい世界に入っていくことができるのか
ってことだと思うんですね。
やっぱり 私たちは その なんか
秀でることが よいことだと。
自分が秀でるために何をするかっていう
生き方から
どうしたら
等しくなれるのかっていうところへ。
その時に なんか この
「深い河」っていう小説が
とても大事な道しるべになっていく
というか とても大事なことを
私たちに照らしだしてくれるような感じが
するんですね。
で この小説の中では
もう一個 大事なのが
やっぱ 生と死っていう問題だと
思うんですよね。
それが ほんとに 今
大体 生活と人生を分けるというのは
そこと結び付けないと ちょっと
意味が分かりにくいと思うんですね。
それで 生活っていうのは
もう死は排除して 生きている時間だけの
中で見ていくのが 生活の次元。
それに対して 人生の次元っていうのは
どこから生まれてきて
そして どこに迎えられていくか
迎えられていく世界も
ちゃんと意識している。
そして 今を生きている。
そして今 人と出会っていく っていうのが
人生の次元っていうことで。
ですから 死というのは 自分たちが
迎えられる世界ということを意識したら
ほんとに今の話でいくと
平等なわけですね。 そうなんですよね。
どんな人も
最後 迎えられるところは同じというか
誰も そこによって
差別があるわけではない。
それ 特に ガンジス河は
一番それを よく表していて
どんな人も みんな
ガンジス河は平等に迎えていく。
その死の世界 迎えられる世界の平等さ
っていうのは あって
その中で
今の自分の生を考えるということが
ここでは やっぱり
すごく大事なんじゃないでしょうかね。
「深い河」の中で
遠藤周作は 自らの「大宿題」としてきた
「日本人にとってのキリスト教」という
最大のテーマを
男女二人の主人公に背負わせました。
上智大学を思わせる大学の仏文科に通う
女学生
「成瀬美津子」。
関西の裕福な
家庭で育ち
数多くの男友達に
囲まれ
ぜいたくなマンションに
暮らす美津子は
同じ大学の哲学科に クルトル・ハイムに
毎日通って 神に祈りをささげる
「大津」という学生がいることを知ります。
神をとるか 自分をとるか
大津に選択を迫った美津子は
自分のマンションの部屋に
大津を誘います。
大津は その誘惑に負け
美津子への愛を選ぼうとします。
しかし 神との競争に勝ったと感じた
美津子は 大津への興味を失い
彼を棄ててゆきます。
数年後 二人が再会した場所は
フランスのリヨンでした。
美津子は
大学を出て消息を絶った大津が
リヨンの厳しい修道院に入り
神父を目指していると知ったのです。
裕福な事業家の男と
見合い結婚をしたばかりの美津子は
新婚旅行の合間に
一人 大津を訪ねてゆきます。
この美津子とかは
やっぱり 一番 例えば 私自身
大学で学生たちに この本ね 授業で
取り上げて読んでいくんですけれども。
やっぱり美津子に投影… 自分をね
こう 投影する学生も多いですけど。
美津子は 横の関係で いくら
ボーイフレンドができても何しても
どこかで心の深いとこで 満たされない
ものを ずっと背負い続けてる。
孤独を背負ったり
重荷を背負ってるものがあるんだけど
一番 外から見にくいですよね。
誰もそれを理解してくれる人はいない中で
こう 自分でも理解できていないような。
読んでいくと よく分かりますけど
美津子が一番その真の愛っていう
本当の愛というものを
すごく渇望しているっていうところが
やっぱりあって…。
でも その渇望っていうのが
単に 横の人間に求めていっても
満たされないというものを背負っている。
そういう やっぱり魂の渇望を持ってる
現代人を代表する孤独な…。
でも それを人には知られたくないし。
ですから すごい自我が強い自我で 殻で
守っているっていうような人物ですよね。
これ多かれ少なかれ やっぱり現代人の
私たちの 一つの典型なんだと思うんです。
大津も孤独な人間ですよね。
大津の方は 逆に言うと
縦軸の… 関係っていう
それは見えない世界と
そこにいるイエスと つながっている
っていうことが すごく強くあって。
逆に大津は 横の友達がいない。
でも大津は 見えないところと
つながるっていう軸を持っていて
現代人には ちょっと 逆に
一番 足りないものを持っていて。
それが 大津の姿で。
ですから この二人っていうのは
すごくこう 両極端にこう
ほんとに美津子が求めるものを
大津は それを 持っている人物として
美津子の前に現れたっていう感じに
なっていくのかなと。
僕は この小説を読んでいて
なんかこう…
美津子ってのは
どういう人だったのかってことを
ひと言で言ってくれって言われたら
僕は やっぱ その
心の鍵を落としてしまった人って感じが
したんですよね。
で 私たちは 自分の心の中に
入っていく時も 実は鍵が必要で
大津は やっぱ鍵を持ってる。
鍵を持っているから 一人 そこに
入っていって 神と言葉を交わすと。
美津子は いつも 扉越しに神を感じてる
って感じだと思うんですよね。
鍵を落としてしまったんだけども
なぜか 神と とても近い存在だって感じも
するんです。
とても強い言葉を
神に つぶやいたりするわけですけども。
それは やはり 近くに感じてないと
そういうことは言えないわけで。
実は つながりとしては 美津子の方が深い
って言いたくなるぐらいの場面も
時々 出てくるんだと思うんですよね。
で これ実は 私たちも やっぱり言えて
その まあ 大津っていうのは
信仰を持って生きてる人たちって。
で 美津子は
そうではない人たちっていう言い方も
できるんじゃないかと思うんですけども。
実際に 本当に神に近いとこにいるのは
誰なんだっていうことを
何か あの作品は なんか
私たちに問いかけてくれてるような感じも
するんですよね。
美津子は 大津が 自分とは 「隔絶した
次元の世界に入った」と感じながら
問いを重ねます。
大津との対話を続けようと
美津子は 場所をレストランに移し
自分が抱いてきた疑問を
ぶつけてゆきます。
あの~ この 「深い河」っていう小説の中で
とても印象的な言葉として
「玉ねぎ」っていう言葉が
出てくるわけですね
もう何度も 何度となく 大津の口から。
これ 山根さんなんか どういうふうに
お考えになってらっしゃるか?
これは すごく遠藤さんの
やっぱり 重い意味があると思うんですね。
大抵 日本語の「神」っていうのが
逆に誤解を与えてしまう。
一番 言われてるのは
超越的な神ということですね。
そこは 人間との間にも 自然との間にも
断絶が…
でも ほんとに超越しているんだというの。
でも 聖書の中を見ていくと
ほんとに命の源としての神は
生きとし生けるもの全てに
流れ込んで 内在していると。
そうなってくると キリスト教というのも
一神教とかっていうのも
日本人には
縁遠いものだっていうんではない
もっと実感できるものに
なるんじゃないか ということを。
神って
いうものを
もう他のものに
置き換えていこうっていう時に
「玉ねぎ」という。
愛の働きの塊りだ
っていうことで
玉ねぎは むいでも むいでも
何か 玉ねぎという中心が
あるわけではなくて
その一つ一つにも
愛が 働きとしてあるというような。
それを示すものとして
「玉ねぎ」っていうのが
こう ぴたっとくると
思ったんじゃないでしょうかね。
僕は なんか 若い頃読んで なんか
すごく違和感があったんです 実は。
で 何で遠藤さんは こんなことを
なさるんだろうと思っていたんですけど
やっぱ僕は もう年齢を重ねてきて
やっと 「玉ねぎ」の意味が
分かってきたっていうか。
あ これは 「玉ねぎ」で
なくちゃならなかったって。
…だし 遠藤さんが いかに その問題に
心を砕かれたのかってことを
なんか 最近は
とっても深く味わえるようになった。
で やっぱり その
私にとって その 「神」っていう言葉が
何か自分にとって なんか
分かった気になってたってことを
なんか年を経ると どうしても
痛感せざるをえない経験っていうのは
誰しもすると思うんですけども。
ほんとに
深い悲しみや苦しみを持った人たちに
「神とは何か」ってことを語りかける時に
「神」という言葉は弱いっていうこと。
ええ ねえ
日本語のね 「神」は。
で 私たちは なんか その言葉が
今 違った形で 新しく こう
新生するっていう このことを やっぱり
遠藤さんは やっぱり
とても必要なことだと お感じになってた。
そうですね。 それで遠藤さん
よく考えてるなと思うところは
美津子と玉ねぎの話を始めて
で その時に
オニオンスープ 大津が食べながら
「おいしいです」って言って この 食べてる
シーンを出してくるんですけれども。
この玉ねぎを スープを飲んで
「おいしいです」って言ってる大津は
この 「おいしい」っていうのを
人に伝えたいという
その それを すごくこう 表してるのかな。
これが今度
インドの方に行く場面になると
インドでは
酢漬けの玉ねぎの話が出てきたりして
やっぱり どこの文化に行っても
オニオンスープじゃなくちゃいけないんだ
玉ねぎの料理はって言ったら
これはまた押しつけになり
やっぱり その文化の違うところでは
また違う玉ねぎの料理が 一番おいしい
というものに なっていくでしょうから
その辺のところが
すごく大事なんじゃないかと。
それで そこの「玉ねぎが おいしいです」
と言ったあとですね
「ぼくは 玉ねぎを信頼しています」
と言って
そして 「日本人の心にあう
基督教を
考えたいんです」という。
だから 玉ねぎを ほんとに
日本人の心に届いて
「おいしい」と言って 日本人の人が
その玉ねぎの… 食べてくれてて
それを自分の心の糧にしてくれるような
なんか 救いにしてくれる。
それを ここで
やっぱり表現してるのかなと。
「玉ねぎ」って言葉は
なんか 私たちをこう
開いていってくれる役割が
とても印象的だと思うんですよね。
人の心を誰かに向かって開く
あるいは ひとつの宗教を
もっと広いところに
開いていくっていうような働きも
してくれてると思うんですけども。
とても なんか大事だなと思うのは
存在というものが人間をこえたものからの
働きであるということだと思うんですね。
やっぱり その 存在ほど
平等なものはないんだと思うんですよ。
だから 私たちは
その能力っていうことにおいては
もちろん平等だなんて言えないし
立場なんてことでは
平等なんては とても言えない。
だけど 存在ということは
ほんとに平等なんだと。
で そここそが
ほんとに宗教の次元になって。
平等という世界は やっぱり
調和があって 対決がない
ということだと思うんですよね。
いや そこが
ほんとに大事なとこだと思うんです。
その 「玉ねぎ」という言葉を通してでも
伝えようとしてたことも そこに…
最終的に 「深い河」というのは
そこにつながっていくと思うんですけど。
存在そのものを いとおしんで
それを抱きしめてくれる愛
というようなことを 玉ねぎというのを
その説明で出てきますね。
誰ひとり見捨てていかない。
それは まさに今 若松さんが言ったように
存在そのものの
その「being」の次元とかいう
存在そのものの
次元の平等なんだと思うんです。
それが 持っているものとか行いで
何ができるか。 何を持っているかという。
「having」 「doing」の その次元で
比べていくから そこにこう格差ができて。
やはり この世界は この
まさに 存在のそのもので見ていけば
ほんとに どの存在も
平等に尊いものとして
それを抱きしめるべき
いとおしいものに なってくるという。
そのことが ほんとに
ここで やっぱ伝えたいことなんですよね。
この「深い河」って作品は
なんか とても実は不思議な作品で
あの~ いわゆる信仰を持ってるってのは
大津だけ。
ああ そうですね。 ですよね。
で 他の人たちは
信仰を中心に生きてる人たちだけでは
ないんだけども
そういう人たちの生涯によって
かえって 宗教とは何かってことが
浮かび上がってくる。
で 遠藤さんの やっぱ
最後に たどりついた場所っていうのは
宗教と信仰ってものがですね
必ずしも 特定の信仰を持たなくても
人間っていうのは宗教的に生きている人は
たくさんいるし
で 私たちは 宗教とは何かってことを
そういう場でも 学び得るってことを
なんか 教えてくれた作品なんだと
思うんですね。
で コロナ危機っていうのは
私たちの そういう意味での
特定の宗教に属さない意味での信仰って
言ったらいいんですかね
あるいは信じるっていったことでも
いいと思うんですけども
そういう力ってものが 私たちに もう一度
光を投げかけてくれるんじゃないか。
で 次回も また もう少し
その糸口になる作品として
「深い河」って 読み解いていくことが
できればなと思ったりもしています。
♬~
「2回シリーズ 遠藤周作 没後25年
遺作『深い河』をたどる」。
次回は
ツアーで ガンジス河を訪れる美津子と
リヨンを出て ガンジス河にたどりつき
自らの命をささげてゆく大津の
最終章に入ります。
大津の支えとなったのは
マザー・テレサや
ガンジーの
思想でした。
実は その大津には
モデルがいることを
遠藤周作は
「深い河」刊行直後に
明かしました。
井上洋治神父。
その人は 山根さん 若松さんが
参加していた会
「風の家」の主宰者で
遠藤周作が終生「戦友」と呼んだ
掛けがえのない同志でした。
…っていうのが とても意味が
大きいんじゃないかなと思うんですよね。
次週の「後編」は
大津のモデルとなった井上洋治神父と
遠藤周作の交流をたどりながら
「深い河」のラスト・メッセージを
探ってゆきます。
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(ホリ)来た来た来た!
ほらほらほら 近い近い近い!
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