逆転人生「神様がくれた奇跡のバックホーム」[解][字] …の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

逆転人生「神様がくれた奇跡のバックホーム」[解][字]

主人公は元阪神の横田慎太郎さん。20歳で開幕スタメンも、脳腫瘍を宣告。復活を目指したが、回復せず。引退試合で見せた奇跡のプレー。人々の心を動かした逆転のドラマ。

番組内容
今回の主人公は、元阪神タイガースの横田慎太郎さん。20歳で開幕スタメンをつかむも、脳腫瘍を宣告されます。復活を目指し、誰よりも早くグランドに現れ、汗を流しました。しかし視力の回復はなく、3年間試合出場なし。それでも、彼は諦めませんでした。引退試合で見せた奇跡のラストプレー。監督、選手、そしてファンの心を動かした逆転のドラマです。
出演者
【司会】山里亮太,杉浦友紀,【ゲスト】元プロ野球選手…横田慎太郎,【出演】佐藤隆太,千秋

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
バラエティ – トークバラエティ

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  19. 阪神
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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

NHK
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エンスカイ(ENSKY)

プロ野球史に残る
伝説のプレーの数々。

ルーキー松坂大輔 イチローから…

常識を覆した 大谷翔平の…

ヘイ。

阪神ファンの間には それらと並ぶ…

…があるんです。

生っ粋の方たち。
(佐藤)生っ粋の。

阪神の選手たちは
そのプレー映像を何度も見て

気持ちを奮い立たせています。

伝説のプレー
それは 2軍のとある試合で生まれました。

バッターが放った鋭い打球はセンターへ。

2塁ランナーは3塁を回りホームへ。

タッチアウト。

この ファインプレーが
語り継がれている理由。

それは バックホームした選手は…

選手の名は…

大きなハンデを背負って
プレーをしていました。

あなたは大きな病気です。

えっ?

(医者)脳腫瘍です。

復活を信じて
懸命に練習を積み重ねましたが

目の後遺症を克服することは
できませんでした。

…と呼ばれる伝説のプレー。

その背景には 涙なくしては語れない

逆転のドラマがあったのです。

正直 僕は野球
あんまり詳しくないんですけども

その僕でも すごいプレーだなあ
っていうのは分かったんですけども

これ 阪神ファンの皆さんにとっては
相当 伝説のプレーなんですか?

はい。 阪神ファンのみんなが
心に残るプレーの中でもいろいろ

85年のバース・掛布・岡田の
バックスクリーン3連発とか

金本さんが骨折しながら
ヒットを打ったとか

そういうプレーがあるんですけど

それと匹敵するぐらいの
伝説のプレーです。

そうなんですね。
(千秋)はい。

今 見直しても ちょっとジーンと
きてしまうんですけど 思い出して

実際 僕もやっぱり仕事とか
いろんなことでちょっと落ち込んだ時に

今でも見返して
ちょっと刺激とか 力をもらったりする…

千秋さんも そういう時あるんすか?
(千秋)ありますよ。

普通に深夜とかに 何回も何回も
見たりとかもありますし。 へえ~。

もちろん当たり前ですけど
どうなるか知ってるわけじゃないですか。

そうですね。
でも毎回 驚くんです。

また もう一回見て 20秒前に感動したのに
もう一回感動する。 へぇ~。

さあ その「奇跡のバックホーム」と
いわれる伝説のプレーを見せた

元 阪神の横田慎太郎さん。

長くスポーツを取材してきた私も
驚きの野球少年でした。

(甲子園のサイレン)

アラーム設定が。

よっしゃ~! 今日も鍛えまくるぞ!

毎朝5時。

僕の少年時代のトレーニングは
甲子園のサイレンで始まりました。

うるさい! 毎朝 毎朝!
いいかげんにして! もう!

1分1秒を無駄にしたくない。

家族には無理をお願いして
練習を続けました。

お母さん 朝ごはん
6時までには用意しといて。

はいよ。
(横田)いってきま~す。

いってらっしゃい。

僕がプロ野球選手を目指したのは
物心が付いた時からでした。

父は元プロ野球選手。

ちょうど引退した年に僕が生まれたので
プレーする姿は覚えていませんが

父の影響で夢は大きくプロ野球選手。

映像があるんだ。

(拍手)

高校は地元 鹿児島実業に進学。

超名門。
(千秋)すごい。 名門。

甲子園常連校にもかかわらず

1年生の秋から
4番を任せてもらいました。

すごっ!

はい 次!

高校時代は厳しい練習を重ねました。

僕が教えてもらったことでした。

その結果
おかげさまで

プロからも注目される選手になりました。

(歓声)

(進行)第2巡 選択希望選手。
阪神。

阪神タイガースにドラフト2位で
入団することが決まりました。

これ覚えてる。

僕をスカウトしてくれた…

田中さんは元 阪神の選手。
大きな期待を寄せてくれました。

与えられた…

僕は驚きを隠せませんでした。

なぜなら
阪神で4番を打ったレジェンド

桧山進次郎さんの
背番号だったからです。

あまりの緊張で「ふさわしい」を間違えて
「ふがいない」と言ってしまいました。

真逆ですからね。

そして 入団3年目の開幕戦。

全力プレーで
チームの勝利に貢献しました。

僕のプレーを見て
専門家の皆さんは

次世代のスターと
褒めてくれました。

そして ファンからの期待も
強く感じていました。

しかし…。

翌年のシーズン前のキャンプで
信じられないことが起こりました。

お願いします。

あっ。
(コーチ)ヘイヘイ。

なぜか ボールが
二重に見えるようになっていたのです。

(コーチ)どこ見とんねん お前。

お前 ちょっと変やぞ。
どないした?

実は 目の調子が悪くて。

病院に行くと脳外科で
精密検査を受けることになりました。

どうなんですか 先生。
横田の具合は?

横田さん。 言いにくいのですが
あなたは大きな病気です。

えっ…?

脳腫瘍です。

僕の頭には ピンポン玉より少し小さい

直径3cmの
悪性の腫瘍ができていました。

僕は… 僕は野球はできるんですか?

(医師)つらいでしょうが
野球のことは一旦忘れて下さい。

野球を忘れる?

脳腫瘍について調べてみると
発症者の割合は年間…

何で俺が?

(ノック)

(横田)秀太さん…。

何で… 何で お前なんだよ。

一生懸命やってるお前がどうして…。

はあ… 秀太さん…。

(横田)俺…。

俺…。

人生の全てをささげてきた
野球ができなくなる。

まるで 死刑宣告を受けた気分でした。

ほんと つらかっただろうなと
思いますけども

いや今から 振り返って頂くのも
ほんと思い出させるようで

申し訳ないんですけども
ご本人もね 来て下さって。

元 阪神タイガースの
横田慎太郎さんです。

よろしくお願いします。
(一同)よろしくお願いします。

最初ね ちょっとこう
入団の時のね 映像なんか見た時は

何か ほんと みんなで
初々しい この映像を見ててね。

あれは覚えてます? あの時の。

もう ほんと恥ずかしくて
皆さんからもクレームがあって。

クレームきたんですか?
クレームもう…

…っていう。
(佐藤)ヤバい選手。

ちょっと大丈夫かっていう。

そうですよね。

「24の この背番号に恥じないような
ふがいない成績 残します」って言ったら

それは みんなね「おい どういうつもりだ」
ってなりますもんね。

ちょっと今 見ても
汗がすごかったです。

僕 忘れもしないですけど
きっと確か 横田選手が

3年目の開幕でね スタメンで
試合を… それも見てたんですけど

もう バッターボックスに立った時の
醸し出すオーラが

もう とにかく かっこいいんです。

ご本人は ほんとに…

もうずっと ほんと野球に全てを
ささげてきてたわけだから

僕らが言葉にできないような つらさが

あったんじゃないかなというふうには
思いますけどね。

病院では ああいうふうに

「もう野球は忘れて下さい」っていうふうに
言われたんですか?

はい。 昨日まで思い切って
グラウンドで野球してたのに

突然 「野球のことを忘れて下さい」って
言われて

もう 頭が真っ白になったのを
覚えています。

覚えてます? 当時のことって。

これからのスター候補生みたいな
感じだったので

途中から出なくなってきた時に

何だ 何だっていうのは
すっごい心配でした。

だんだん 阪神球団は
何で教えてくんないんだろうとか

そういうこともあるし
私 それで球団関係者に聞いたんですよ。

はい。
多分 球団社長だったか金本さんか
どちらかなんですけど。

すごい。
結構な関係者ですね。

横田選手は大丈夫なんですか?
出てきますか? みたいに聞いたら…

…ってはいうことを言ったから

「そこまで心配しないで」とは
言われたんですけど。

そう皆さんが心配していたっていうのは
横田さん ご存じでした?

たくさんのファンの方から
千羽鶴や手紙が届いて

まあ どういう状況であれ
もう一回…

また 球団の方にも問い合わせの電話が
きたというふうに聞きました。

そのうちの一つですよ。
(千秋)はい。

もう直接 私は「どうなってますか?」って。

すごい もうほんとに野球が好きなのが
伝わってくるから

それが奪われてるってことの苦しみって

多分 想像を絶するようなことだと
思うんですよね。

いかに じゃあ野球が好きだったか

鹿児島実業時代に
伝説を残しているんですね。

紹介したいと思います。 こちら…

まあ ほんとに常に
自分の体の近くにありましたし

寝る時も抱えて寝たりとか

ほんとに…

へぇ~。 何でそんな
だって寝る時とか持っといたりとか

いつも持っとくって
何の意味があるんですか?

まあ やっぱり いつでも振れますし
すごく安心感があったのを覚えています。

でも ちょっと抱き心地は ねえ?

抱き心地も…

(佐藤)フィットします? バット。

(千秋)ほんとに大好きなんだね。
大好きなんだ。

ただ それなれば なるほど
その横田さんが脳腫瘍と診断されて

こっからどうしていくのかなと。

まあ とにかく
不安でいっぱいでしたけど

まず自分の病気と
向き合っていくことに決めました。

脳腫瘍の摘出という
高度な手術を受けるため

大阪の総合病院に
入院することになりました。

母親は仕事を辞めて
鹿児島から駆けつけてくれました。

慎太郎!

明るくやってこうか。

強い気持ちでやってこうか。

えっ?

背筋伸ばして前を向く!

今日もいこうぜ! お~!

お母さんも一生懸命だったろうなあ
これ。

頑張ろうよ!

うん。

そして 迎えた手術の日。

予定していた7時間を超えても
終わりませんでした。

(父親)
あの 一体 どうなってるんでしょうか?

(まなみ)9時から始まって
もう10時間もたってますけど。

(看護師)まだ手術中です。
安心してお待ち下さい。

すごい大手術だ。

終わったのは…

腫瘍を取り除くことは成功しましたが

どれだけ元の状態に戻るかは…

意識が戻るまでには数日かかりました。

うっ… う~ん…。
慎太郎! 大丈夫かい?

母さん?
(まなみ)ん? どうしたんだい?

全然 見えない。

真っ暗闇だよ。

手術したのに何で?

どうしてなんだよ。

慎太郎 大丈夫。 大丈夫。

目が見えない理由

医師によると
長時間の手術による脳への負担が

原因ではないかということでした。

僕は母の助けなしには
どこに行くこともできませんでした。

トイレどこ?
もう少し先。 そのまま まっすぐ。

ごめんな 母さん。

こんなことになって。

何 言ってんの。 大丈夫 大丈夫。

手術から2か月すると 少しずつ目が
見えるようになってきました。

僕は復帰できることを信じて
治療を続けました。

しかし
ある不安が襲っていました。

阪神は来季も
僕を必要としてくれるのだろうか?

そうだよなあ…。

(ノック)

はい。

おう横田。 どうだ具合は?

大丈夫です。

そうか。

それで来季の契約なんだが。

はい。

とうとう その時が来たんだと思いました。

球団は 俺たちは お前を待ってるから。

えっ?

続けてもいいんですか?

完全復帰ができるか分からない。

そのリスクを負ってでも球団は
僕に賭ける決断をしてくれました。

やっぱ いい選手なんだ やっぱ。

入院してから7か月後の9月。

僕はチームに
合流することができました。

体力は想像以上に落ちていました。

病気前 100回できた腕立て伏せは
10回するのがやっと。

早く甲子園のグラウンドに立ちたい。

トレーナーのメニューを
僕は その一心でこなしていきました。

半年後 体は病気になる前の状態近くに
戻りましたが…。

(トレーナー)8。

目の状態は以前と変わらず
二重に見えていたのです。

脳腫瘍による圧迫で

異常を来した
脳と神経。

腫瘍を取り除いたことで
改善することを期待していたのですが

いまだ目の状態は
元には戻っていなかったのです。

僕は回復を信じるしかありませんでした。

試合に出ることは 夢のまた夢。

練習ですら ピッチャーが投げるボールを
打つことを禁じられていました。

それは 自分の方にボールがきても
よけられないという 配慮からでした。

不安を抱えながら練習する僕に

矢野監督が声をかけてくれました。

横。

頑張ってるなあ。

もう少しで
試合に出られるようになるから。

だから くさらずに頑張れ!

はい。

しかし 復帰から1年たっても
僕は試合に出ることはできませんでした。

よっしゃ~ いいぞいいぞ!
もうちょっといけ そうそうそう!

チームのためにできることは
ベンチで声を出して盛り上げることだけ。

いけいけ 回れ 回れ!
いけ~ いけいけいけ!

試合に出られない僕を支えてくれたのは
熱狂的なファンでした。

練習が終わるたびに「がんばりや」と
声をかけてくれました。

忘れられないファンとの
思い出があります。

(ファン)横田さん ちょっといいですか?
はい。

(ファン)せ~の。
♬「ハッピーバースデイ トゥーユー」

この日は…

♬「ハッピーバースデイ トゥーユー」

プレゼントは
これだけでは ありませんでした。

それは ファンの皆さんが作ってくれた
僕の応援歌。

アハッ。
(ファン)せ~の!

(ファン)はい 歌って!
(笛の音)

♬~

ありがとうございます。
皆さん すみません。

(ファンたち)頑張れ~。

(一同)かっとばせ~ 横田。

(一同)慎太郎さ~ん。

いつしか 復活する目的は
自分自身のためではなく

家族や球団スタッフ
ファンのためになりました。

頑張ろうよ。

くさらずに頑張れ!

♬「それいけ横田」

今日も一生懸命頑張ります。

だから… もう1回グラウンドで
プレーをさせて下さい!

しかし 復帰から2年。

目がよくなることはありませんでした。

このころ 自分自身の気持ちに
変化が出てきました。

シーズン終盤
僕はスカウトの田中さんに呼ばれました。

球団は来シーズンも契約を
結んでいいと言ってる。

でも もし苦しかったら…。

素直に言ってくれ。

はい…。

苦しいです。

(田中)俺も
分かってたよ。

はあ…。

俺 野球… 辞めます。

いや~ ねえ…。

引退をね 決意した時
その時の思いって聞いてもいいですか?

やっぱり体は
ある程度 戻ったんですけど

何といってもやっぱ
目の方がついていかず

そこが一番悔しかったですし

まあ いくら試合に
ベンチに入れてもらっても

声を出しても試合に出れないっていう

いくら練習をやっても試合に出れない
っていう状況が続いて

そういうことも夜考えて
変な汗が出てきたり

それで もう寝れなかったりして

ちょっと もう来シーズンこれを続けても
厳しいというふうに思い

ユニフォームを脱ぐことを決めました。

最後の「苦しいです」っていうのは

今まで一番 野球が大好きだったのに
それを辞めなきゃいけない

いろんなことを考えての
決断だと思うので

何て言っていいのか
分からないんですけど。

いや ほんとにそう。
想像できないですよね。

いや 佐藤さん いかかがです?
そこまで ほんとにくさらずに

必ずグラウンドに戻るんだっていう
強い意志を持ちながら

ひたすら野球とまた
向き合い直すというか

もう その姿勢に
もう 尊敬の気持ちしかないですよね。

ボールが見えないって
おっしゃったじゃないですか

どういう状態なんですか?
(横田)はい。

普通でしたら 1球でくるじゃないですか。
はいはい。

けど 自分の場合は2球に見えたり
物が ボールがブレて見えたりとか

フライとかでも
最初ボールが見えにくくて

落ちてくる時に2球で落ちてきて
最後に1球になるんですけど

そこで最初は
顔にぶつかりそうになったりとか

ライナーでしたら
打球スピードが速いので

もう二重のままバーンってきて。

だって プロのライナーとかって
相当なスピードですよね あれ。

ケガするぐらいの。
ですよね。
それでケガされる方もいますもんね。

どんな練習をされてたんですか?

最初もう 硬式ボールは危なかったので

軟らかいボール
ゴムボールとかで練習始めて

そっから軟式ボール
硬式ボールっていう

もうほんとプロ野球選手では考えられない
練習でしたけど

そういう絶対にできる目標を立てて

少しずつ 少しずつレベルを上げていって
大きい目標に近づいてました。

この状況じゃないですか。

今回は その「逆転人生」
「奇跡のバックホーム」。

さて これがもう あれですか
どんな展開が待ってたんですか?

もう自分でも ほんとに
信じられないことが起きました。

それは引退の意向を球団に伝えてから
2日後のことでした。

横田。

お前の引退試合やるからな。

えっ? 僕のですか?
うん。

引退試合とは ユニフォームを脱ぐことを
決めたスター選手が

最後にファンの前でプレーする機会を
与えられる試合のこと。

1軍で大活躍した選手に対して
行われることが多いんです。

そんだけ球団の中でも
大事な存在だったんですね。

この日 僕 横田慎太郎の引退試合が
行われました。

いっぱいいる。

めったに開放されない外野席にも

たくさんのファンが
詰めかけてくれました。

打席に立つことを禁じられていた僕は…

ところが 出番がきたのは8回ツーアウト。
1点リードの場面でした。

(平田)慎太郎。

いくぞ!
えっ?

(平田)うん!
いきます!

試合に出るのは4年ぶり。

以前のように全力疾走で
外野の守備位置に向かいました。

(拍手)
(アナウンス)1番 センター横田。 背番号124。

せめて この場で
ファンの皆さんに

何か心に残る
プレーを届けたい。

その初球。

僕は打球を見失い
ボールの処理が遅れてしまいしました。

なおランナー2塁。
ワンヒットで逆転されてしまいます。

やっぱりボールは見えない。

でも ここまで諦めず
練習をしてきたじゃないか。

僕はもう一度
自分を信じてみようと思いました。

うわ いった。

またしても僕の所に
打球が飛んできました。

いつもなら ボールを見失って
体を動かせないところが

この時は自然と前に出たんです。

自分の感覚を信じてグラブを前に出すと
ボールが飛び込んできました。

そこで僕は
今までの野球人生 全てをのせて

思いっきりキャッチャーに
投げ込みました。

(歓声)

自分でも信じられない
奇跡のバックホームでした。

最後に僕は 皆さんの期待に
応えることができました。

(拍手)

(拍手)

(拍手)
いやあ すごい。 すごいです ほんと。

もう何回見ても やっぱ感動しますし

取って ちゃんとアウトにできたのも

それは ちゃんと練習してたからだから

そこに球がきたのは運かもしれないけど

やっぱ練習してなかったら届かないし

今まで2年間ずっとくさらずに
強い意志でやってたことが

あれに あのプレーに
つながったと思うので。

(佐藤)よく ほんとに
頑張られたなっていうか

簡単な言葉になっちゃいますが

やっぱり すごいとしか
言いようがないですよね。 そうですね。

いやあ あのバックホームした時って
ボールは見えてたんですか?

ボールもはっきり見えてなくて

本当に自分のとこにきた瞬間に

誰かにほんとに
背中を押されたかのように

体がスムーズに前に行って
ボールをつかんで

キャッチャー目がけて
思い切って腕を振ったら

ついた瞬間に
ファンの皆さんがすごく喜んでいて

そこでアウトというふうに気付きました。

あの横田さんのバックホームが
生まれる背景には

実はいろんな想定外のことが起きていて

まず一つは横田さんの出場
9回の守備だけの予定だったんですね。

はあ~。
はい。 当時 2軍の平田監督は

8回 ツーアウトから 急きょ
出場させることに決めているんです。

急きょ言われたんですよね?
はい。 マジかよと思いましたね。

何でこれ
8回から交代ってなったんですか?

自分は結構 全力疾走でポジションまで
行くとこが監督が好きでして

最後ファンの皆さんに
9回みんなで行くのじゃなくて

自分だけ1人で行って

ファンの方々の目に
焼きつかせかったというふうに

試合が終わってから聞きました。

ちゃんとこの一人 あの姿を見てほしい
っていう監督の計らい…

粋な監督ですなあ。
ねえ…。

それで交代してから ボールが2者連続で
センター横田さんの元にくる。

これも だって
そんな ないことじゃないですか。

(佐藤)いや うん。
そうですよね。 ねえ。

更に…

うわ~。 でも あのバックホーム見たら

そりゃ士気が爆上がりでしょ
チームがもう。

(千秋)もう絶対 点入れようと
思いますよね。 ですよね。 勝たなきゃと。

あの バックホームを最高の形にするには
勝ちが必要だと。

奥深いですよね。
そう感じると

もう更に このバックホームが

いかにすばらしいプレーかが
分かるんです。

でも そんな状況が何 整うって

これもう何かの力を感じるよね 何か。

不思議な一日といいますか
何かもう

自分でも もう想像もしてなかったことが
起きたので

ほんとに神様がずっと最後の最後まで
見ていてくれてたかなというふうに

あの試合が終わってから思いました。

あのバックホームで 横田さんの人生を
変えたっていうのはありますか?

まあ やっぱりこう どういう状況であれ
目標を持って 目標から逃げずに戦えば

ああいうことが訪れたので

これから先も自信を持って生活して
いこうというふうに思ってます。

いや それは ほんと
僕らも思いましたね 何かね。

うわ ほんとに。
(千秋)頑張ろうって思いました。

で 士気上げる。
はい。

この方に取材しました。

いかがですか?
すごくうれしかったですし

やっと皆さんの ちょっと恩返しが
できたかなというふうに気付きました。

(佐藤)
僕たちファンにとってだけじゃなくて

ほんとに今もプレーされている
選手の皆さんにとっても

それだけ大きな存在になってる
っていうのは やっぱりうれしいですね。

めちゃくちゃ恩返し
続いてるじゃないですか。

いやいや そんなことはないです。
いやいや そうですよね。

ですよね?
そうですよ。

引退後 僕は ふるさと鹿児島へ戻り

新しい道を歩き始めました。

病気と闘う人たちに 自分の闘病生活や
引退までの道のりを

講演する活動を行っています。

野球以外は
何もできないと思っていましたが

今はその活動に
やりがいを感じています。

こんにちは。

僕と半年前から交流を続けている…

大学野球で活躍をしていた二十歳の時に
脳腫瘍と診断されました。

前向きに生きてほしい。
僕からメッセージを送りました。

引退してから3年。

僕は久しぶりにグラウンドに
立ってみようと思いました。

つらい時
諦めてしまうこともあると思います。

そんな時こそ 目の前のできることを
一つ一つ積み重ねていく。

(歓声)

そうすれば道は開けると
僕は信じています。

♬~

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