ハヤシソン![字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

ハヤシソン![字]

偉人の子孫を徹底リサーチ「ハヤシソン!」この番組は林修とシソンヌが偉人の子孫の人柄やその人生を調査する新感覚の歴史バラエティ。西郷隆盛と勝海舟の子孫を徹底調査

◇番組内容
偉人の子孫を徹底リサーチ「ハヤシソン!」この番組は、「ハヤシソン探偵社」林修所長のもと、シソン探偵・シソンヌが偉人の子孫の人柄や、その人生を調査する新感覚の歴史バラエティ。今回は、西郷隆盛と勝海舟の子孫を徹底調査。子孫だからこそ受け継いだ思いや、共通点に迫る!子孫を通じて教科書には載っていない、西郷隆盛と勝海舟の意外な人物像が次々と明らかに!
◇番組内容2
▽西郷隆盛の子孫がある食べ物を日本に広めていた!? ▽子孫であるがゆえの葛藤とは!? ▽勝海舟の超型破りな子孫!?その数奇な人生とは? ▽アメリカにも子孫発見!?今何をしている? ▽屋敷に○○部屋?勝海舟の意外な好物が発覚!
◇出演者
【ハヤシソン探偵社所長】林修
【シソン探偵】シソンヌ
【ゲスト】トラウデン直美

ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
バラエティ – お笑い・コメディ
バラエティ – その他

テキストマイニング結果

ワードクラウド

キーワード出現数ベスト20

  1. シソン
  2. 西郷隆盛
  3. 勝海舟
  4. 日本
  5. 隆盛
  6. 海舟
  7. クララ
  8. 本当
  9. 寅太郎
  10. トラウデン
  11. 当時
  12. 梅太郎
  13. ソーセージ
  14. 菊次郎
  15. アメリカ
  16. タンゴ
  17. 高山
  18. 紹介
  19. 所長
  20. ドイツ兵

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

〈突然ですが 問題です〉

〈西郷隆盛の長男が
日本に広めた

今では当たり前の食べ物とは
なんでしょう?〉

それが なんと こちら。 日本に…。

ジャン! ソーセージを広めた。
(トラウデン・林)ええー!

〈ずばり ソーセージ〉

〈実は 西郷隆盛の長男
シソンだからこそ受け継いだ

ある思いが
そうさせていたのです〉

西郷隆盛も
武士ではありましたけれども…。

つながってるとこありますよね。

〈そう…〉

♬~

〈こちらの

〈シソンヌの2人が調べた

驚きの事実を報告します〉

〈今回 西郷隆盛の
最新シソンの方に

取材を申し込むと…〉

そうなんですか?
なんでですか?

〈更に 勝海舟のシソンの方に
伺うと…〉

はい こんにちは。

〈いよいよ スタートです〉

トラウデンさんは 自分が
どんな方のシソンなのかって事は

おわかりなんですか?
たまたま 今 ちょうど…。

そしたら
いろんなものが出てきて…。

藍綬褒章っていうものが
出てきたりして。

結構 頑張っていたんだな
っていうのが出てきました。

ランジェリー賞ですか?
ランジェリー賞じゃない。

ランジェリー賞は あんまり…
ごめんなさい あんまり…。

胸張っていいのかな?

うるせえな!
すみません。 こういう…

こういう芸風で すみません。
いやいや…!

〈というわけで 今回は…〉

〈どちらが より意外な情報を

取材できたのか

そこにも注目して ご覧ください〉

〈まず最初の偉人は こちら〉

はい。
西郷隆盛が どんな人物だったか

簡単に ご説明いただいて
よろしいですか?

薩摩藩出身の
武士で

大久保利通とか
木戸孝允と並んでですね

本当に 江戸幕府の討幕の
中心的な働きをされた方ですよね。

好物は スイカ。
へえー!

有名ですね。
あっ そうなんですね。

それは はじめましてでした。

大丈夫です 大丈夫です
大丈夫です! スイカ…

好物とかは調べないで…。

なるほど。
もう こちらの探偵手帳にですね

全て もう
調査報告がございますので。

私は もう 本当に
これを読み上げる…。

調べてますよ 私も。
本当ですか?

みんなで調べたものを
集約してますので

大丈夫でございます。 では
まず こちらをご覧ください。

こちら 私が作成しました

西郷隆盛のシソン図でございます。

ご覧のようにですね
西郷隆盛はですね

シソンのラインが
2つございますね。

イトさんと愛加那さん。

実際に 3人の方と
ご結婚されてるんですけども。

今日は この2つのラインで
いきたいなと思います。

〈という事で

まず最初に紹介する
第1シソンは

西郷隆盛の長男

西郷寅太郎さん〉

〈実は この方

日本に
ある食べ物を広めたんです〉

〈早速
その調査報告を聞いてみよう〉

まず最初に注目するシソン
第1シソンは

西南戦争で
隆盛が亡くなったあと

西郷家を受け継いだ
西郷寅太郎さんでございます。

この寅太郎さん 実はですね

日本に あるものを広めたんです。

それが なんと こちら。
日本に…。

ジャン! ソーセージを広めた。
(トラウデン・林)ええー!

皆さんも大好きな
ソーセージでございますけども。

朝 ソーセージ食べないと
調子出ないなって人もいるぐらい

それぐらい 今
日本になじんでますけども。

そういう話 よく聞きますよね。

よかった…。 まさか
乗ってくれるとは思わなかった。

〈第1シソンは

日本に
ソーセージを広めた〉

〈この事から
知る事ができる

西郷隆盛との共通点〉

〈つまり

〈それは…〉

〈一体 何に対して優しいのか?〉

〈まずは なぜ
第1シソン 寅太郎さんが

ソーセージを広める事に
なったのか?〉

〈そこから
見ていこう〉

まず 寅太郎さんの経歴
紹介していきましょう。

1866年 慶応2年
薩摩藩で生まれます。

12歳の時にですね 父 隆盛を
西南戦争で亡くしてしまいます。

二十歳の時に 明治天皇の命により
ドイツに留学します。

留学されるんですね。

さあ そして 1915年

千葉県にあった…
はい こちら。 ジャン。

習志野俘虜収容所の
所長になります。

ここで ドイツ兵などの捕虜
約1000人を管理していたんですが

寅太郎さんは 戦争の敵である
ドイツ兵に対して

そんな事しちゃっていいの?
みたいな。

なんと ドイツ兵に対して…

自由な生活を許していたんです。

ただ その自由の度合いが
皆さん 多分…。

うん そこが…。
これ ビックリすると思います。

まず1つ 許していたのが こちら。

オーケストラ合唱団。
捕虜の方に はい。

更には なんと…。

ビールやワインを作って
飲む事も…。

あっ そこまで?
はい。 許していたんです。

さあ そして 最大の…
こちらですね。 はい きました。

ソーセージ作り。
おおー!

この頃 政府の役人の中にですね

日本で ソーセージを広めたいと
考えている人がいまして。

その方が
収容所のドイツの方にですね

作り方を聞いたんですけども。
そしたら

秘伝のレシピだから
教えられないと

断られちゃうんです。
そこで 寅太郎さんが

頭を下げて 説得して

ようやく レシピを
教えてもらう事ができたんですね。

この事がきっかけで 日本で

ソーセージが広まっていったと。
なるほど。

えっ そうなんですか?
そうなんです。

当時のソーセージも…

当時のレシピで作った
ソーセージも

いまだに販売されてるんです。
本当だ。

やっております はい。
習志野でね。

そして 1918年 ドイツが降伏し
第一次大戦は終結します。

終結を迎えて 捕虜を
ドイツへ帰す事になります。

しかし ここで

予想外の事態が起きてしまいます。
こちらですね。

スペイン風邪が
流行してしまいますね。

当時 流行していた
新型インフルエンザが

収容所内で蔓延。
そして なんと

寅太郎さんも
感染してしまうんですよ。

感染しちゃったんだ。
しかし 寅太郎さんは

敗戦に打ちひしがれる
ドイツ兵を励ますためにですね

肺炎をおして収容所に向かい
彼らに こう言うんです。

こう言ってくれるんですね。
非常に… 非常に…。

励まされますね。
こんな もう…

相当な徳を積んでないと
言えない言葉ですからね これ。

こういう広い視野で
物事を捉えている方が

もう この時代に
いらっしゃったんですね。

寅太郎さんは その日の夕方
病状が悪化しまして

そのまま
亡くなってしまったんですね。

今のように
医療も発達してないので。

じゃあ それで寅太郎さんが
亡くなってしまったとなると

そのドイツ兵たちは
どうなったんですか?

お目が高い!
そのとおりなんでございます。

そうですよね。

実際 クリスマスイブには
間に合わなかったんですが

クリスマス当日 12月の25日に

ドイツ兵の皆さんは
自分の国へ出発しました。

でも なんで こんなに

ドイツ兵に対して
優しかったんでしょうね?

これはですね 寅太郎さんは
幼い時 戦争で負けてですね

父 隆盛を亡くしました。

そして その後
ドイツに留学されてます。

この経験が 捕虜に対する温情に

つながったんじゃないかと
いわれてます。

さあ 所長 寅太郎さんの生き様
何か こう

西郷隆盛と通じるようなとこって
ありますか?

そうですね 戊辰戦争の時に
西郷隆盛が降伏した敵…。

例えば 庄内藩辺りに対して
非常に寛大な措置を取ったと。

降伏した相手に対しては
そこは もう 攻めない。

対等に扱うっていう精神は 本当に
父譲りかもしれないですね。

つながってるとこありますよね。

〈そう これこそが

第1シソン 寅太郎と
西郷隆盛の共通点〉

〈その証拠となるものが

鹿児島から遠く離れた
山形県にあります〉

〈それが こちらの南洲神社〉

〈南洲とは 西郷隆盛の事〉

〈こちらは
隆盛をまつった神社なのです〉

〈神社を管理する方に

隆盛との関わりを
聞いてみると…〉

(水野さん)
新政府軍と旧幕府軍との戦い。

〈隆盛は 部下に
こう指示したといいます〉

〈こうして 過酷な処罰を免れた
庄内藩士たち〉

〈以降は 隆盛と交流を深め

その思想を世に広めるべく

『南洲翁遺訓』という書物を出版〉

〈更に 隆盛をまつった…〉

〈今も
その功績を伝えています〉

〈敵に対しても深い情けをかける
西郷隆盛の心意気〉

〈それは 敵であるドイツ人捕虜を
励ました

息子 寅太郎に しっかりと
受け継がれていたのです〉

だから 本当に
庄内藩の人々は感動して。

のちに 西郷隆盛が
鹿児島で開いた学校に

庄内藩の藩士が
特別に入学が許可されて。

西南戦争の時に 庄内藩の兵士が

何人か亡くなってるんですよね。
ああ… なるほど…。

やっぱり 西郷隆盛に
ついていきたいっていう。

いやいや いやいや…。
いやいやいや あの… すみません。

更に奥までいくんで。
いやいや 我々 でも

はい ちょっと あの…。

(スタッフの笑い)

〈西郷隆盛の
シソン調査〉

〈続いて紹介する
第2シソンは

西郷吉之助さん〉

〈戦前は貴族院議員

戦後は参議院議員を務め

昭和43年の佐藤栄作内閣では

法務大臣にもなった方です〉

〈そして
第3シソンの方は

現在74歳〉

〈病院顧問を務められています〉

第2シソンの方が

これはですね… ちょっと
ちょびひげ いただけたら

多分 結構 意外と
いけるんじゃないかなっていう。

これ だから 第2と第5が
こうじゃないですか。

ここ 長谷川さん 入るとしか
思えないですよね。

いやいや… 俺 おかしいじゃん
時空 超えてるじゃん。

〈そして 4番目に
紹介するのが

愛加那さんとの
子ども〉

〈実は
この方…〉

〈この事から知る事ができる
西郷隆盛との共通点は

…に優しかった〉

〈そこには またもや優しさが〉

〈まずは なぜ
第4シソン 菊次郎さんが

海外で超有名人に
なったのか?〉

〈そこから
見ていこう〉

1861年 奄美大島で生まれます。

13歳の頃に
アメリカに もう 留学されます。

そして 24歳 明治政府の
外務省に入ります。

そして 1895年 明治28年
日清戦争 終結後

日本が統合した こちら。

台湾に赴任されます。

はい 台湾に行かれるんですね。

台湾では
さまざまなインフラ事業を

展開していきます。

中でも 農業を
発展させるため

あるものを
作った事で…。

台湾で超有名になりました。

さあ 菊次郎さんが
台湾で作ったものは こちらです。

ジャン。 堤防でございます。

堤防…。
堤防なんです。

こちらの宜蘭川はですね
よく氾濫を起こして

周辺で暮らす農民を
苦しめていたんですが

菊次郎さんがですね
この堤防を作った事で

氾濫しにくくなり

現地では
西郷堤防とも呼ばれております。

へえー!
名前が ちゃんと残ったんですか。

残ってるんです。
こちらに… 見てください。

現地には 堤防の記念碑も
建てられております。

ちょっと見づらいですけども
「西郷」と書いてありますね。

菊次郎さんの名前も
ちゃんと ここに記されてます。

本当だ。 面白い。

〈更に 菊次郎さん

日本に帰国してからも
大活躍していました〉

その後 日本に帰ってきた
菊次郎さんは

1904年
台湾での手腕が買われ

帰国後には こうなります。

京都市長に… へえー。
さあ 京都といえば

トラウデンさん 京都出身ですけども。
はい 京都出身です。

ご存じでしたか?
西郷菊次郎さん。

存じ上げませんでした。
ご存じない?

はい。
不勉強でしたね。

ちょっと 京都もぐりですね
それは。

違う! 違う! 違います!

18年のうちに
1回も聞かなかったですか?

授業で… 京都の。

(一同 笑い)

道路やですね 上下水道など
生活に関わる

インフラ設備にですね
注力します。

実は 今でも
関西の水源として使われている

こちらになります。

第2琵琶湖疏水 こちらも
菊次郎さんが建設しました。

そうなんだ。
すごい人なんです 本当に。

そうだったんですね。
さあ 所長。

菊次郎さんと隆盛
また 何か こう 通ずるもの

なんか 感じるもの ありますか?

西郷隆盛も
武士ではありましたけれども

農民を大変大切にする方だったと。
そうなんです。

〈そう これこそが

第4シソン 菊次郎と
西郷隆盛の共通点〉

〈その証拠に

〈それは 戊辰戦争が終わり

隆盛が
鹿児島で暮らしていた頃の事〉

〈ある日
犬の散歩をしていた隆盛〉

〈肥おけを運んでいた農民が

慌てて あいさつしようとした
その時…〉

〈勢いで
肥おけの中身が飛び散り

隆盛の着物に
かかってしまったのです〉

〈すると…〉

へへえ…!

〈隆盛は若い頃
年貢を管理する役職についており

農民の暮らしの厳しさを
よく知っていました〉

〈だからこそ
着物を汚された事をとがめず…〉

〈農民の暮らしが
少しでも良くなる世の中を

理想としていた隆盛〉

〈その志は

台湾で堤防を築いた
息子の菊次郎にも

しっかりと
受け継がれていたのです〉

〈続いて 5番目に
紹介するのが

こちら〉

〈でも
西郷隆盛には

複雑な気持ちを
持っていたようです〉

最後にお伝えしたい こちら
第5シソン この方

西郷隆太郎さんでございます。

現在39歳。
あっ 今の人?

へえー! でも…。

確かに そうなんですよ。
ちょっと やっぱ 遠からず…。

やっぱ 寄せちゃってる?
寄っていっちゃう…。

いやいや いやいや…。

やっぱ 自然と
引っ張られるのかもしれません。

都内のIT企業に
勤務されてるんです。

あっ そうなんですか。
そうなんです。

しかもですね この隆太郎さん
実はですね

西郷隆盛が…。

そうなんですか?
なんでですか?

〈そんな第5シソンが

西郷隆盛から受け継いだもの〉

〈それは

〈一体 どういう気持ちなのか?〉

〈早速
第5シソン 西郷隆太郎さんに

直接 お聞きする事に〉

あっ…!

本当だ 大きい!
大きいですね。

よろしくお願いします。

本日は
よろしくお願い申し上げます。

めちゃくちゃ ちゃんとしてる。

〈現在 都内で

奥様や息子さんたちと
4人暮らし〉

〈普段はIT企業に勤める

ごく普通の
サラリーマンですが…〉

(男性)この道は全てに通じ
幾多の辛酸を経て

近代日本の礎に身をていした
西郷隆盛の…。

本当 最近ですね。

〈仕事の傍ら シソンとして
隆盛のイベントに参加〉

〈講演会も行うなど

隆盛の教えを今に伝える活動を

精力的に行っています〉

やっぱ 大きいですね。

(調査員)結構 細身ですね。

私は…。

〈そんな隆太郎さん

西郷隆盛のシソンである事に

かつては
複雑な思いがあったそう〉

昔から 教科書に 隆盛の事が
明治維新で出る時に…。

(隆太郎さん)…って言って
過去はですね すごく

コンプレックスで。
その当時…。

それは まあ イヤか…。

〈小学生の頃 事あるごとに
からかわれた事で

西郷隆盛の話をする事さえ
イヤになったといいます〉

〈しかし
19歳になった隆太郎さんは

ある場所を訪れた事で
考えが 180度 変わります〉

さあ…。
どこだ?

〈更に

〈シソンが語る
偉人の意外な事実とは?〉

こちらです。

何? それ。
お菓子部屋?

〈シソンを通して

偉人の驚きの素顔が
見えてくる…〉

〈西郷隆盛の事が
大嫌いだったという

最新シソン 西郷隆太郎さん〉

〈でも 19歳の時
ある場所を訪れた事で

考えが180度変わります〉

どこだと思いますか?
皆さん これ。

〈その場所こそ

〈西郷隆盛が眠る…〉

〈このお墓でした〉

(かしわ手)

この南洲墓地を見て
先祖と一緒に

私も この当時だったら
戦ったのだなと

強く思いをはせまして。

「隆太郎 気張れ」と
言われた気がしたので…。

一生懸命 明治維新で
戦った人たちのとおりに

僕自身も
二十歳を超えたら 一生懸命

この国に貢献する活動を
しなきゃいけないっていう事を

お墓参りで学びました。

〈以来 西郷隆盛の教えを
伝える事に心を砕き

鹿児島のお墓にも
多い時は 月に2回ほど

東京から
足を運ぶようにしています〉

「泣こかい 飛ぼかい
泣こよか ひっ飛べ」

っていう言葉がありまして。

悔しい思いをして
泣くぐらいなんだったら

やってしまえ
やっちまえっていうのが

実は 鹿児島の郷中教育で
いわれてる言葉でございまして。

100回負けても

もし 101回目 戦ったら
勝てるかもしれない。

だからこそ…。

〈その志は

玄孫 隆太郎さんに しっかりと
受け継がれているのです〉

〈続いて シソン探偵
シソンヌ じろうが調査したのは

こちらの偉人〉

まずは 所長 勝海舟が
どんな人物だったか

簡単に ご説明いただいても
よろしいでしょうか?

江戸 本所生まれの武士で

咸臨丸の艦長だったって事が

一番 有名なんじゃないですかね。

日本人で初めて 太平洋を横断した
日本人の1人で

そして アメリカを視察して
戻ってきたと。

西郷隆盛と幕府側の代表として

江戸城の明け渡しの際に
会談をして

無血開城を実現した。

合格!
ありがとうございます。

おかしい… 何? 「合格」って。
ただ 所長 勝海舟の…。

きましたね これ 楽しみですね。
まずは 私が制作した…。

こちらね
勝海舟には

民さんという 奥さんが
いたんですが

民さんの他に
少なくとも

5人のお妾さんが
いました。

そういう時代
だったんですね。

今回は その中で

糸さんと玖磨さんの
シソンを

調査いたしました。

まず
最初に注目する第1シソンは

こちらの逸さん。

(トラウデン)女性ですね。
女性ですか。

この逸さんが
実は 超型破りな…。

教育ママだったと。
はあ… 知らないね。

〈勝海舟と糸さんの
娘 逸さんは

超型破りな
教育ママだった〉

〈この事から
わかる

海舟と逸さんの
共通点〉

〈それは…〉

逸さんは 1860年生まれ。

東京 赤坂にあった
勝海舟の自宅で育ちます。

赤坂なんだ。
当時はね 一般的に

お妾さんは 別宅で暮らす事が
多かったんですが

海舟は お妾さんと
その子どもたちも

家族同様に 自宅に
住まわせていたんですね。

そして 21歳の時

男爵 目賀田種太郎と結婚します。

あのハーバード大学を卒業した
法律家でありまして

なんと 専修大学や東京藝術大学の
創立者の1人でもあります。

貴族の家に嫁いだ逸さん
その夫人として

何不自由なく おしとやかに
暮らしましたとさとは

ならなかったんですね。
ならない… ならない?

とても…。

「逸話」っていう言葉は
ここからきたそうですよ。

嘘つけ!
嘘の情報をさらっと やめて。

言ったもん勝ちじゃないよ。
まず じゃあ いきましょうか。

1つ目 こちらです。

おおー!

意外と でも 富士山には
登れるんじゃないんですか?

これね 普通じゃんと
思うかもしれないですけど

なんと 実は 明治5年まで

富士山は 女性の入山が
禁止されてたんですよ。

そうなんですか?
そうか。

そんな時代に いち早く
富士山に登った逸さんは

女性の富士登山のパイオニアと
いわれてるんです。

へえー! それは 知らなかった。
そうでしょ?

じゃあ 2つ目が
こちらでございます。

貴族の奥様ともなれば

当然 高価な着物で着飾る人が
多かったんですが…。

…と言って 当時から よく旅行に
行っていたそうなんですよ。

山登るの好きだし 旅行行くのが
好きな方なんですね。

そうです。
すごくアクティブな方なんですね。

そして 3つ目。
所長 これ なんだと思いますか?

いや これ わかんない…。

ああー!
当たりました?

ブーッ!
こいつ 急に お調子野郎。

これ 非常に面白い答えですよ。

少年漫画でよく見る。
少年漫画でよく見る?

ブーッ!
なんだ? それ。 やめろ!

答え いきますよ。
少年漫画? なんだろう?

木登りの名人。
ああー…。

わかんない… わかんない それは。
少年漫画で木登りって

『プロゴルファー猿』ぐらいじゃ
ないですか?

「木登り名人」って書いてある…。
本当だ。

これね 内容を要約しますと

ある時
目賀田家を訪ねてきた人が

「ごめんください」と
声を掛けると

「はーい!」と
上から返事がした。

見上げてみると なぜか
逸さんが木に登っていたという。

気になるでしょ? なんと…

それは判明してません。

〈そんな逸さん

7人の子どもに恵まれたのですが

やはり子育ても 逸さん流!〉

〈例えば 雪の日でも通学は徒歩〉

〈着るものは高価な絹ではなく
丈夫な木綿など

貴族だからといって
甘やかす事なく

厳しく育てたのです〉

〈逸さんが 日々 子どもたちに
言い聞かせていた事〉

〈それは…〉

こういうのを小さい頃に
子どもに言ってたんですね。

はい。 逸さんは
こんな事も言ってます。

今 言われても すごく
グッとくる言葉ですもんね。

昨年から実施された共通テストも
やっぱり

主体的 対話的な学びっていう事を
試験に表現するっていう

そういう方向に
試験 変わりましたからね。

それをすでに もう 100年以上…

100年ぐらい前ですかね
やってたと。

勝海舟自身が
非常に貧しい家でしたからね。

その中で 自分の力で
人生を切り開いたので

それを
子どもたちにもっていう風に

考えたのかもしれないですね。

〈貧しい武士の家で生まれ育った
勝海舟は

当時 まだ珍しかった

〈そして 1853年

開国を迫って
アメリカからペリーが来航〉

〈この時
海舟が書いた意見書が

幕府の目に留まり

海軍創設メンバーに
大抜擢されたのです〉

〈貧しい中から

学問を身に付けて名を上げた
勝海舟〉

〈その精神は

貴族の家に嫁いでも
自分の生き方を貫いた

娘 逸さんに
受け継がれていました〉

〈続いて 紹介する
第2シソンは

逸さんの教育を受けて
育った

目賀田綱美さん〉

実は この方がね
すごい人だったんです。

日本に初めて…。
何?

タンゴを…。
タンゴ?

…伝えたっていう。

〈日本に 初めて

タンゴを伝えたと
いわれる

第2シソンの
目賀田綱美さんが

勝海舟から
受け継いだもの〉

〈それは…〉

綱美さんは
1896年 明治29年生まれ

東京生まれですね。
母親譲りの活発な性格で

若い頃は
当時 日本では珍しかった

ハーレーを乗り回していました。
格好いい!

24歳 国際連盟の会議に出席する
父親の付き添いで

パリを訪れます。

そこで見たのが
当時 流行していたタンゴでした。

タンゴというのはね 19世紀後半

アルゼンチンを中心に発展した
ダンスです。

激しい感じですね 情熱的な。
そんなタンゴに

一瞬で魅了されてしまった
綱美さんは なんと

そのままパリに残り
タンゴを学ぶ事を決意しますね。

来る日も来る日も
ダンスに打ち込み

やがて パリの社交界で
右に出る者がいないほどの

実力になりました。
そんなに? すごいな。

いや 当たんねえだろ! 無理よ。

あっ! 違う?
違います。

おっ!
どうでしょう?

「目賀田」っていうのは
でも 入るんですよ。

入るんだ。

バロン・メガタ。
バロンか!

〈「バロン・メガタ」と
呼ばれ

パリの社交界で名をはせた
綱美さん〉

〈帰国後は タンゴのレコードの
国内での発売に尽力するなど

人生を懸けて 日本での
タンゴ普及に取り組みました〉

そんな綱美さんに感謝を込めて

なんと 彼の死後
タンゴ発展の地 アルゼンチンで

綱美の人生をモチーフにした曲
『A lo Megata』…。

曲まで できちゃったんですね。
作られたんです。

ちょっとね この曲…。
あるんですか?

はい。 曲の中に
名前も出てくるそうなので

ちょっと そこに注目して

聴いていただいても
よろしいですか? こちらです。

♬~

いいですね タンゴですね。

♬~

もう 早速…。

ちょっと すみません ちょっと…
ちょっと すみません。

えっ 俺?
(スタッフの笑い)

♬~

お前 胸で俺を
つついてきただけだろ。

そういう事もありますよ。
満員電車じゃないんだ…。

パリであだ名が付いて

そして アルゼンチンで
曲名に名を残してって…。

ねえ。
本当 もう。

〈幕末 蒸気船に乗って

日本人の手で
初めてアメリカに渡った

勝海舟の超グローバルな感覚は

ダンスで世界に名を残した
孫 綱美さんに

受け継がれていたのです〉

〈そして もう1人

海舟のグローバルな感覚を
受け継ぐシソンが〉

〈それが 続いて紹介する
第3シソン〉

〈海舟と玖磨さんの間に生まれた

梅太郎さん〉

アメリカ人と結婚していたという。

〈明治の時代に
国際結婚を果たしていた

勝海舟のシソン〉

♬~

〈勝海舟の息子 梅太郎さんは

明治時代に国際結婚していた〉

〈一体 どんな女性と

出会ったのでしょうか?〉

梅太郎さんが
運命的に出会った女性

それが…。

クララ・ホイットニー。
(トラウデン)クララさん。

クララといえばね

それでは
梅太郎さんとクララさんの

なれそめをご紹介しましょう。
気になる 確かに。

幕末から明治にかけて
近代化を進めていた日本は

海外の進んだ文化を
取り入れるため

欧米からお雇い外国人を
たくさん呼んでいました。

クララの父
ウィリアム・ホイットニーさんも

商業学校の教師として
アメリカから家族を連れて

来日しました。 しかし
いろいろな手違いがあって…。

手違いでね。
約束の仕事も住む場所も

用意されていなかったんです。

大変な手違いですね。
これは困る。

その事を知って
ホイットニー家を援助したのが

勝海舟なんですね。

あっ! そこでつながるのね。
はい。

一家が生活できるように
寄付金を募り

更に 自宅の敷地内に
家を建ててあげた。

寛大ですね。

そこで 当時12歳になる
梅太郎少年と

15歳だったクララは
出会うんですね。

あらー…。
なるほど。

梅太郎少年は
クララの家で開かれた

さまざまなイベントに
参加。

例えば
クリスマスパーティーだとか。

新鮮ですね これは。
英語教室だとか。

キリスト教の勉強会にも
出席しました。

実は 梅太郎は 洗礼を受けて
クリスチャンになってるんですね。

へえー…。
そうなんだ。

そして なんと…。

しの太郎じゃないんだよ!
恥ずかしいんだよ…。

すみません ちょっと
資料 間違えてました。

明治通りで渡して
「ここ?」って言われたんだよ。

(一同 笑い)

私の話はいいですから。
ああー… おかしい。

そんな梅太郎のアタックもあり

梅太郎 22歳
クララ 26歳の年に

2人は結婚しますね。

1男5女
6人の子どもに恵まれます。

多いんだよな。 おおー!

丸1がウォルター。

2がアデライン。

3 ウィニフレッド。

4 メーベル。 5 エルサ。

6 ヒルダ。

ハイジは…。
違う ハイジはいないよ。

ペーターも
いねえよ!

漢字で書いてあるのは
日本名で

海舟が付けた

名前なんだそうですね。

ただね 残念な事に…。

ええー!
あら あら。

子育てに不安を感じたクララは
離婚を申し出て

子どもたちを連れて
アメリカに帰ってしまいます。

強いですね。
さすがですね。

所長 これ 梅太郎と
クララのシソン

どうなってるか
気になりませんか?

気になりますよ。 これ…。

今回 なんと 2人のシソンと
コンタクトを取る事に

成功したんです。
おおー 素晴らしい。

〈調査員は アメリカに住む

梅太郎とクララのシソンへの
取材に成功しました〉

すげえ!
玄孫って言えるの すごいですよ。

〈勝海舟から数えて

5代目のシソンに当たる彼は…〉

〈梅太郎とクララの間の
末っ子

ヒルダの孫です〉

なるほど なるほど。

〈さすがはシソン!〉

〈梅太郎さんの面影
ありますよね〉

〈現在は
ペンシルベニア州在住〉

〈大学の教員として
働いています〉

〈6人の子どもとアメリカに
帰国したクララは

一体 どんな生活を
送っていたのでしょうか?〉

(ダグラスさん)でも…。

〈そんなクララが
日本から持ち帰った

勝海舟ゆかりの品を

ダグラスさんは
大切に保管しています〉

これは

すごい。
(トラウデン)すごい。

〈和歌をしたためた書には

アルファベットで
サインもしてあります〉

アルファベットになってる。

〈では ダグラスさん

自分が
勝海舟のシソンだと知った時は

どんな気持ち
だったのでしょうか?〉

小さい頃 母から

「あなたの祖先は
日本で偉業を成した

勝海舟っていう人なのよ」って
言われました。

「海舟は
アメリカでいうと

ジョージ・ワシントン
みたいな人よ」って

母は言うんです。
ビックリしました。

〈これを期に 海舟の事を調べ

その人柄にほれ込んだ
ダグラスさん〉

〈現在は大学で

勝海舟や明治維新の研究に
取り組んでいるのだそう〉

〈そんなダグラスさんは

中国出身の奥様との間に
2人の息子さんがいます〉

イケメンだな。
(トラウデン)イケメン。

めちゃくちゃイケメンだな
2人とも。

ああ やっぱり そういう

〈海を渡ったシソンにも
受け継がれる

勝海舟の志とは?〉

〈勝海舟のシソン
ダグラスさんの息子さんには

こんな目標が〉

ああ やっぱり そういう

〈海軍を作り
国を守ろうとした勝海舟〉

〈その思いは
海を越えたシソンにも

脈々と受け継がれていたのです〉

〈最後に紹介する
第5シソンは…〉

〈今回 高山さんに
直接お話を伺ったところ

勝海舟の
意外な事実が判明〉

〈調査員が向かったのは…〉

江ノ電。

あっ いいな。
(トラウデン)素敵。

へえー。

はい。
(調査員)あっ こんにちは。

すみません 『ハヤシソン!』
という番組ですけども。

はい こんにちは。

〈早速 高山さんの家に伝わる
あるものを見せてもらう事に〉

何が残ってるんだろう。

なんでしょう?

明治5年になって 海舟が

赤坂へ 静岡から
戻ってくるんですけれども

それから死ぬまで住んでいた
家の見取り図 図面です。

〈明治時代に海舟が住んでいた
屋敷の見取り図〉

〈このお屋敷

全部で18もの
部屋があるんです〉

うわ… まあ そうか。
でも みんなで住んでたから。

確かに そうですね。
大勢いらっしゃいましたから。

〈屋敷は
今の港区赤坂の

この辺りに
ありました〉

〈敷地面積は
なんと

およそ2500坪〉

今 坪 いくらだ? ここ。
本当ですよね。

〈実は こちらの図面

建築士だった高山さんの
お父さんが作成したもの〉

〈当時 この家で
海舟と暮らしていた

高山さんの祖母
正代さんの記憶をもとに

描き起こしました〉

(高山さん)
こちらが 海舟書屋です。

だから
ここで書き物をしたりとか

あと 書を頼まれたりすると
ここで書いて。

まあ 気が向いたら ここで
ゆっくりお風呂へ入ると。

ここは 海舟専用です。

(トラウデン)へえー!
専用風呂がある。

〈なんと 勝海舟の屋敷には
お風呂が2つ〉

〈海舟専用と
家族用があったんだとか〉

はあー…。

〈そして

〈この図面の中に
記されているといいます〉

〈それが…〉

こちらの

何? それ。
お菓子部屋?

〈勝海舟の自宅にあった
お菓子部屋〉

〈一体 なんのための
部屋かというと…〉

遠いな お菓子部屋。
確かに。

で まあ 海舟が書き物したりして

「誰々さんの持ってきた
ナントカ最中を

持ってきなさい」とかって。

〈お菓子部屋とは

お客が手土産に持参した
菓子を

保管しておくための部屋〉

〈海舟は 好きな時に

そこから お菓子を
運ばせていたといいます〉

よりによって。
(トラウデン)遠いです。

〈意外にもスイーツ男子だった
勝海舟〉

〈では
どんなお菓子が

好きだったのでしょうか?〉

(高山さん)銀座木村家のあんぱん。
それも大好きだった。

(トラウデン)いいですね。

っていうか そんな昔からあるんだ
銀座木村家。

(高山さん)で 海舟ね
パンみたいなので ああいう

ふわふわっとしたもの
好きだった… カステラとか。

〈そして 高山さんは

勝海舟と西郷隆盛による

江戸城無血開城の交渉についても

こんな想像をしています〉

海舟も西郷さんも あの…

下戸でしたから
お酒が並ぶっていうよりは

お茶とお菓子で

桜餅 江戸時代の
大ヒットお菓子だったって

伺ってるんですけど…。

私は思うんですけどね。

所長 いかがでしたか?

まあ 考えてみると
西郷隆盛と勝海舟が

あの無血開城を実現して

江戸の町を
火から守ってくれたと。

まあ そのおかげで
シソンの方々も

こうやって
いらっしゃるわけですから

第1回のチョイスとしては

本当に素晴らしいお二人を
選んだと。

実際 なんと 西郷隆盛のシソン
隆太郎さんと

勝海舟のシソン
高山みな子さんは

イベントなどで会ったりする事も
あるそうです。

すごい! これは…。

ここで 2人が
こう つながるんですね。

パッと見…。

鬼奴さんと大さんに
見えなくも… 見えなくもない。

旦那のグランジの大さん。
確かに似てるんですよ。

ちょっと似てます。
そうですね。

Source: https://dnptxt.com/feed/

powered by Auto Youtube Summarize

おすすめの記事