こころの時代~宗教・人生~「山谷に生きる~僧侶 親子三代の戦後~」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

こころの時代~宗教・人生~「山谷に生きる~僧侶 親子三代の戦後~」[字]

昔から困窮する人々を受け止めてきた東京・山谷と呼ばれる街。吉水岳彦さんの寺では、代々の僧侶が苦難にある人とどう歩むのか模索してきた。激動の山谷と親子三代の戦後。

詳細情報
番組内容
僧侶の吉水岳彦さんは、昔から寄る辺なき人々がたどりついてきた東京・山谷と呼ばれる街で、路上生活を送る人に食事や寝袋などを配る活動をしている。古くから山谷に根づく吉水さんの寺では、代々の僧侶が苦難にある人との関わりを模索してきた。祖父は戦後の焼け野原、父は高度成長期、現住職の吉水さんはバブル崩壊後の街で、時代の潮流に翻弄された人々の苦しみと向き合ってきた。時に大きな葛藤も抱えてきた三代の僧侶の歩み。
出演者
【出演】光照院住職・ひとさじの会事務局長…吉水岳彦,【語り】濱中博久

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉

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  19. お金
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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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(吉水岳彦)もう あそこ
皆さん いるのかもしれない。

あ こんばんは~。
こんばんは。

寝袋 お待たせしました。

はい どうぞ。

東京。 「山谷」と呼ばれる街の夜。

寒いので お気を付けて。

≪こんばんは。
すごい量ですね 缶。

昔から 寄る辺をなくした人たちを
受け止めてきた この街で

路上生活を送る人に
寝袋や食事を届ける僧侶がいます。

おやすみなさい。
おやすみなさい。

吉水岳彦さん。

山谷に古くから根づく寺の住職です。

江戸時代から およそ400年続く 光照院。

山谷が激動の時代を迎えた戦後

吉水さんたち親子三代で
寺を守ってきました。

先々代住職の祖父の時代は
戦後 東京が焼け野原になった頃。

山谷には 親を亡くし浮浪児と呼ばれた
子どもたちの収容所がつくられ

また 貧しさから売春をせざるをえない
女性たちが集まる街でした。

先代住職の父の時代は
戦後の復興から高度成長期に突入。

日本の建設ラッシュを支えたのが

山谷に集った
日雇い労働者の人たちでした。

そして
現住職の吉水岳彦さんが育ったのは

バブル経済の崩壊後。

それまで日雇い労働で生きてきた人たちが
職を失い

路上生活者が急増した時代でした。

激動の山谷を生きる人との関わりを
模索し続けた 代々の住職。

時に葛藤も抱えてきました。

(裕光)暴動は もう
とにかく よくありましたし

街頭で火炎瓶の投げ合いだとか
そういうこともあったんですよね 実際に。

だから怖かったですね。

なんか それを見ると
嫌だな 怖いなっていう印象の方が

一番強かったですね。

確かね
あの辺だった気がするんですけれども。

朝 小学校 行く時に
ここに まだ 人が寝てて。

もともと 路上の方々に対して

すごく気持ちを寄せていた
というわけでは全くなく

むしろ逆だったんだと思うんですね。

困ってる人や つらい人たちに
少しでも近づいていって

手を差し伸べることを
教わってきてるはずなのに

私は それを彼らに対して
一切 行おうともしないし

そうした感情も湧いてこないんです。

この写真も すてきですね。

仏教者として
苦難にある人と どう歩むのか。

問い続けた親子三代の歩みです。

♬~

東京の下町。

かつては江戸の外れにあった
通称 山谷地区です。

高度成長期には
日本三大寄せ場の一つと呼ばれ

全国から日雇い労働者が集まる街として
知られました。

現在は 街全体の高齢化が進み

頼れる身寄りも仕事もなく
路上生活を余儀なくされる人や

ドヤと呼ばれる簡易宿泊所で
暮らす人などが混在する街です。

山谷の外れに 小さな寺があります。

「南無阿弥陀仏」と唱えれば

どんな人でも極楽浄土に救われると
説いた法然。

その教えを受け継ぐ浄土宗の寺です。

3月。 寺の前に
人々が集まっていました。

どうも おはようございます。

住職の吉水さんが迎えたのは
かつて路上生活をしていた人と

その支援を続けてきた人たちです。

なんか1年 間が空いたので
すごく久しぶりな感じがするんですが

なんか ちょっと
同窓会みたいな空気ですね。

でも こうやって
いい日になって

天気のいい日になって
本当によかったです。

あの 今日は
お参り よろしくお願いします。

忘れちゃったの?
忘れたの。

あら 忘れちゃうな…。

あら いっぱい花が飾ってあるね。
わ~ きれい。

吉水さんの寺は 代々

身寄りのない人の供養を
引き受けてきました。

(読経)

13年前に建てられた この墓には

元路上生活者の人や 家族の墓に入れない
事情のある人たちが

20人 眠っています。

吉水さんは こうした墓を
これまで5つ建ててきました。

(読経)

寺の仕事のかたわら
12年前から続けている活動があります。

こんばんは。

いつもありがとうございます。

月曜の夕方
向かったのは 近所の弁当店。

荷台いっぱいに積み込むのは

路上生活を送る人などに配るための
弁当です。

(取材者)これは何食分あるんですか?
220食あります。

でも ね… ちょっと人数が増えてれば
足りなくもなってしまう。

(店員)
これで最後です。 ありがとうございます。
ありがとうございます。

僧侶仲間や さまざまな縁でつながった
ボランティアの人たちと運営する

「ひとさじの会」です。

食べ物や 市販の薬
手作りの防寒具などを

路上で暮らす人などに届けます。

茶色とか こういうグリーンとか。
これが長いもので

これよりは
この方がいいかなということで

ビフォー アフター。
(笑い声)

愛を込めて編みました。
(笑い声)

夜8時。

200食以上の弁当を持ち
4つのコースに分かれて夜回りします。

じゃあ お願いしま~す。

はい。 多分 長いと思うんですけど。

どうも。

いつも すみません。

大丈夫。 よかった。

失礼します。

風邪薬とか
必要なもの ありますか? 何か。

この日
初めて出会う男性の姿がありました。

(男性)どこなんですか?

(男性)ふ~ん。

ええ ええ。

う~ん…

あ そうなんですか。

苦労の多かった身の上話から
体調の不安まで

40分 じっくりと話を聞きました。

39度だか それぐらい。
結構な高熱ですね。

はい。

こんばんは。

どうですか?
あれから数日たちましたけど

ちょっと休めました?

あ 動いてたんですか。

夜回りが終わっても
出会った人たちのフォローは続きます。

この日は 新型コロナウイルスの影響で
失業した人の身を案じ

電話をかけました。

でも なんか やっぱり ちょっと
立場的に弱いわけですよね… うん。

まあ多少はね こちらの方で援助するので
遠慮しないで下さい。

で あの それよりも まずね
次の そのステップへのことで

できる限りのことしましょう。

昼夜を問わず 持てる時間を

生活に困窮する人のために使う 吉水さん。

しかし これまで 一人の僧侶として

この街に生きる人々と
どう向き合えばいいのか

迷いや葛藤も抱えてきました。

これが
ちょっと前に調べた時に出てきた

祖父の履歴に関する資料ですね。

進むべき道の手がかりを求め

活動の一方で 寺の代々の住職の足跡を
たどるようになりました。

もともと お寺自体
光照院自体の住職たちが

どんなことしてたのかっていうのが
あの… よく分かってなかったので

それを調べたいという気持ちが
漠然と前からありました。

でも きっかけになったのは
今から6年ほど前に

山谷で活動する団体って

どうもキリスト教の方たち
ばっかりだなと思って。

でも この地域って ものすごく
たくさんのお寺がある地域で

お寺の人たちは何もしてなかったのかな
っていう素朴な疑問。

仏教者は何もやってなかったのかなあ
と思って。

それで ちょっと
地域のことを調べ始めたんです。

で 調べていったら
なんと 先代 先々代住職が

活動をいろいろやっていたことが
だんだん分かってきて。

山谷の人々のために働いたという

先々代住職の 祖父 現祐さん。

その活動を身近で見てきたのが

祖父と共に
寺を守ってきた

父の裕光さんです。

吉水さんは 僧侶としての
師でもある

父への聞き取りを
続けてきました。

こんな形で聞くのは
なんか変な感じがするんですけど。

でも ちょっと やっぱり
今のうちに聞いておきたいなと

思ってることがありまして。
うん。

例えば おじいちゃんの若い時って
どんな感じだったんですかね?

前にも ちょっと話したけど
馬の上に ねぇ

お猿さんが乗ってるような人だ
っていう話をよく聞いたんで。

とにかく何をやるか分かんないっていう
ぐらいのことを言われてたんだよね。

だから年中 その
あっ!というようなことをやってたと。

とにかく 体を動かすこと好き。

で 精力的だね。 いろんなことをやる。

活発な人だね。 とにかくね。

だから いいことも悪いことも含めて…
まあ 悪いことは あまり聞いてないけど

人のために尽くすとか
何かを援助するとかっていうことは

ものすごい一生懸命やる人だよね。

だから 街の人から
ものすごい好かれてもいた。

まあ その分 家族はちょっと
母は大変だったかもしれないけどね。

祖父の現祐さんは 山梨の農家の生まれ。

幼くして母を亡くし 5歳で
寺に養子として迎えられた人でした。

子ども好きな青年として知られた
現祐さんは

大学卒業後 文部省に入省します。

しかし 第2次世界大戦が始まると
陸軍に召集され

中国などに送られました。

終戦後 敗戦処理に携わった後
現祐さんは東京に帰ってきました。

地元 山谷で目にしたのは
浮浪児と呼ばれた孤児たちや

売春をして生きていかざるをえない
女性たちの姿でした。

とにかく 全くの焼け野原で
帰ってきたんですが

まず 目についたのは
子どもたちのことであろうかと思います。

幸いに… まあ
親は亡くなってしまったけれども

命を取り留めた子どもたちが

生きるすべがないので
悪いこともしたり

いろいろなことをしていた。

まあ テレビなんか
よく出てきますけれどもね

そういう終戦後の子どもたちを見て
「何とかしなきゃいかん」。

というのは 自分の生まれたことが

自分の母が病気になって

産後の肥立ちが悪くて亡くなってしまう
という悲劇もあって

非常に母恋しい子どもで
育ってきたんじゃないかなと

想像するんですけれども。

その子どもたちも どんなにか
さみしい思いをしてたのかという

そんなところで 子どもたちに
まず目が行ったんじゃないかなと

想像できるわけですけれど。

で その子どもたちを集めて始めたのが

このお寺の焼け跡の瓦に 焼けくぎで
絵を描いて遊んだというのが

この子ども会の始まり
ということになるわけであります。

現祐さんは 子ども会で
親を亡くした子どもの世話をし

売春をしていた女性が
その生活から抜け出せるよう

転居の後押しや
仕事のあっせんをしました。

更に 貧しさから
犯罪に手を染めてしまった若者たちを

寺に住まわせ
家族同然で暮らすこともありました。

若い犯罪者が 要するに
出所して それから生活できないんで

要するに預かるわけだよね。

出所したばかりの方を
お寺に預かって生活させてた?
そうそう。

だから 「えっ いつの間に
こんな人がいたんだろう」って。

あんまり言わないからさ そういうこと。
まあ 母には言ったのかもしれないけど。

今度 こんな子が来るよとは
言ったかもしれないけれども

僕には そんな話 してくれないから。
いつの間にかいるわけだよね 男性がね。

大人の人が。 23~24?

で 一緒に生活するわけだから。
「え? え?」って。

うちで生活をしてた方は随分いた。
えっ 1人 2人じゃないんですね。

うん。 だから
そんな人たちと野球したよ。

キャッチボールだね。 あのころは
あんまり うるさくなかったから 道路。

結構 だから先代は
貧乏なくせに ちゃんとやるんだね。

大盤振る舞いしたりするんだよ。

そういう意味で みんな借金…
借金じゃないけど

お金なくなってったんじゃないかな。
それは だから

貧しい人のためにも
随分それは使ってると思う。

それは なんか しかたがないというか
そういうものなんだなっていうのを

父も見てて納得してたんですかね。

やっぱり だから それは
ふだんから困った人とかに

寄り添いなさいっていうことは
ふだんから こう言われてたからね。

そういうのは こう 耳の中に
頭に入ってるんだろうね。

その後 現祐さんは
寺での活動に限界を感じ

政治の世界へ進出します。

48歳で 台東区の区議会議員に当選。

以後18年 政治の舞台で
山谷の問題に取り組みました。

外の仕事で
出ずっぱりになった
現祐さんに代わって

寺を守ったのが
息子の裕光さんでした。

裕光さんは 中学生の頃から
子ども会の世話役を引き継ぎ

若くして寺の仕事を
任されるようになりました。

そのころ 日本は高度成長期に突入。

建設ラッシュに沸きます。

山谷には 安く泊まれるドヤという
簡易宿泊所が立ち並び

引く手あまたの日雇いの仕事を求めて
全国から労働者が集まってきました。

裕光さんは ドヤに身を寄せる
労働者の人たちの葬儀を

頼まれるようになります。

ほんとに
この話だけ聞いてもらいたいと思うよね。

とにかく 山谷の旅館っていうのは
3畳ぐらいなんです 一間。 ええ ええ。

で 間に廊下が… 半間の廊下があって。

で 亡くなった人のうちのところに
祭壇を まあ簡単なものをつくって

そこへ ご遺体を ご安置して。

それで そこでお経をあげる。

で その廊下のところの後ろが あいてて。

で ここの廊下に みんな並んで
お焼香するわけですよ 廊下で。

で こっちで まあ ご供養のお酒を
飲ませてもらうんだろうなぁ 多分。

後ろ向いてっから分かんないけど。
それで 私がお経をあげてたら

チャリチャリ チャリンチャリン。

チャチャラン チャチャラン!ってね
音がね にぎやかな音がするもんだから

何だろうなぁと思いながら
変な音がするなぁと思って。

でもね
後ろ振り向くわけにもいかないから。

まあ とにかく 一とおり終わって。

そしたら
「ありがとうございました!」と言って。

「どうぞ こちらの部屋へ」って
その反対側の部屋へ呼ばれて。

そうすると 何人か並んで
ゴロゴロと取り囲まれてさ。

で お盆のところに…
ほんとに欠けた茶碗だよ。

こういうふうに
欠けた湯飲み茶碗。

そこに焼酎 バーッと入ってて。

「もう こいつ いいヤツだったんだぁ!
本当に いいヤツだったんだぁ!」って。

泣いてらっしゃるのよ。

で みんなが声を合わせて
「本当に こいつは いいヤツだ!」って

みんなで もう その良かったことをさ
どんどん しゃべるわけだよ。

僕に聞かせるわけよ。

「お寺さん 飲んで下さい!
飲んで下さい!」って言ってね。

どんどん ついでくれるんだけど。

そしたら カタッて
「ありがとう 今日は!」って言って。

そのジャラジャラしたのを
ズズッと持ってきたのが 金だらい。

そこに こういうふうにお金が…。

もちろん一円だったか 五円だったか
十円だったか 百円ぐらいのが

ウワーッと こうね 山になって。
それが あのチャラチャランの音で。

それをビニールの袋に入れてくれて。

「悪いけど
むき出しで悪いけど持ってって!」って。

重いのなんのってね。

お経の ねえ あの
衣や何かは持ってるから。

「さあ 私たちが送ります」って言って。
「お金だけ持って下さい」って。

こうやって持って
それで うちまで帰ってきた。

それは みんな
その血縁では全くないけれど?

ない。 全く知らない。
そこに住んでる仲間…?

仲間でしょう。
だから旅館仲間であったり その仕事仲間。

そういう人たちが あの 全くお他人さん。

やっぱり よく私のね
寺のお檀家のところに行っても

お通夜なんかで 財産の話だとかねぇ
物がどうだとか

あしたの料理が どうだとかって
ワイワイやってるわけ。

そういうのから比べたら もうはるかに

あの人たちが本当に
その人のことを思って

一緒にお念仏してくれてるんだなぁと
思うとね うれしかった 逆にね。

しかし そうした結び付きに
影が差す時代がやって来ます。

賃金の搾取や 理不尽な待遇が
蔓延していた山谷。

労働者や支援者たちの抗議が
時に暴動にまで発展し

地域住民との間に
溝が広がっていきました。

昔の都電通りを境にして
火がついたりしたこともありますしね。

火炎瓶みたいなのを投げたんですかね。

石を投げたり 材木投げたり
いうようなことで もう通れないんですね。

本当に みんな びくびくして

あまり あそこの周りには近寄らない
というようなことが

たくさん 何度も何度もありました。

お寺も大きさだけは 貧乏な寺ですけど
大きさだけはありますので。

そのころ まだ 木の大きな扉でしたから
そこへ向かって うわ~っと集まって

歓声が上がって。

ちょうど門の前に そうですね
100人ぐらい いたのかなぁ?

数えてもいないから分かりませんけど。

それで 若い人が先導に立って 「やれ~」
っていうようなことを言っていたら

後ろから年配の 山谷のおじさんって
僕ら言うんですけど

山谷のおじさんが
「おい ここはやめてくれよ。

俺たちがいつも仲間が葬儀してもらってる
とこなんだから やめてくれ。

ここはやんないでくれ」って言って
スッと引き揚げてくれたんで

ホッとしたんですけど
横から のぞいていて

火でもつけられたら 木の扉ですから
大変なことになるなと思ったんですけど。

山谷に集う労働者の人たちに
自分はどこまで 何ができるのか。

裕光さんは難しさを
感じるようになります。

随分 寺はお見えになるんですよ。
お金を下さいとか。

多いのは 家へ帰る電車賃がないという
ような方が多かったですけどね。

そうすると 「そんなのはアレだよ

交番に行って
頼まなきゃダメじゃない」って言うと

「いや
交番でくれないんだよね」って言うから。

「そう。 じゃあね どのぐらいかかるの?」。

「うんと
あれがいくらで これがいくらで」って。

うそですね 多分ね。

「う~ん
480円かかるんです」とかって言うんです。

「分かった。 じゃあ 500円あげるから
これで おうちに帰りなさい」って。

「でも 500円じゃ
足りないかもしれないな」って言ったら

「うん じゃあ 600円あげるから
おにぎり1つ買って食べなさい」とか

そういう話ですね。 だけど
「僕は君の顔 よ~く覚えてるからね。

1回しか お助けしないよ。
僕は あなたの言葉を信じてないよ。

電車賃がないなんてね 僕は うそだと
思ってるよ。 でも1回は助けるよ。

でも 2度来たらダメだよ」。

あとは もう助けないというか

もう頑張ってもらいたいということで
突きはねました。

まあ 大きく考えればね 何とかならないか
この人たちはとは思うけども

その現場では やっぱり…

肩抱いて「頑張れよ」とは
なかなか言いにくい。

気持ちはあっても なかなか手は出ない。

街に分断の空気が残る中
バブル景気を経験した山谷は

また様変わりしていきます。

1990年代 バブル経済が崩壊すると

職を得られなくなった
日雇い労働者たちが住まいを失い

路上にあふれるようになっていきました。

建物は随分 やっぱり変わりましたね。

そのころ 山谷地区の小学校に
通っていたのが

現住職の吉水岳彦さんでした。

確かね
あの辺だった気がするんですけれども。

あの 小学校 朝行く時に
ここに まだ人が寝てて

そう こんな寒い中で
大丈夫なんだろうかと思ってたら

救急車が すぐ横から来て

で 寝ているおじさんを担架で
運んでいったのを すごく記憶していて…。

こんにちは。
こんにちは。

これ まっすぐ行くと小学校ですね。

吉水さんが通った小学校。

その隣には 路上生活を送る人が
暮らす公園がありました。

私たちが校庭で遊んでると
こっちの公園側の方から

たくさんの路上で暮らしてる男性たちが
集まってきて

みんな この金網の方に集まってきて
そのフェンスに指をかけてですね

こう指をかけて こうやって じ~っと
私たちの方を見てたわけですよね。

だから
見られてる自分たちの方からすると

なんかこう
なんでジロジロ見てるんだろう。

で たくさんの人が見てたので
気持ち悪いなぁと思っていました。

まあ正直 その時は それこそ
大人たちが言ってたとおり あの

「勝手気ままをしたいから
外で暮らしている人たちで

それに汚れていて
お風呂に入るのもしないような人たちで

あまり近づいちゃいけない」
っていうふうに言われていたので

私も そんなふうに思っていました。

父の裕光さんは 子ども会を続けながら
街頭で よろず相談などもしていました。

その背中を見て育った吉水さんは
自然と僧侶になる道へ進みます。

幼稚園のアルバムを見返してみても

「お父さんのお手伝いがしたい」って
書いてあるんですね。

つまり 僧侶だった父の姿が

自分にとっての僧侶のモデルだったと
思うんです。

何よりも よく言われていたのは

困ってる人がいたら
できるだけのことをしようと。

完全に それは助けられるかどうかは
分からなくても

でも 見て見ぬふりはしないというか
できるかぎり困ってる人がいたら

力になれることを考えろというような
ことは言われてきたとも思いますし

父自体が
そうやって背中を見せてくれました。

私は極端なので
じゃあ僧侶になるんだったら

徹底的に しっかり修行しようと思って
厳しいお寺に入りたいと。

そして 戒律をしっかり守って 外界とも
接しないようなところがあるならば

そういったところに行くから
大学には行かないって 父に言いました。

すると父は困って 何言ってるんだと。

世間のことを全く知らない人が

どうやって人の苦しみに
向き合うことができるだろうか。

引きこもって修行することが悪いとは
思わないけれど

でもやっぱり まだ若いうちには
いろんな世間のことも学ぶべきだし

かけがえのない学生時代も
しっかりと経験しながら

ちゃんと僧侶になる道を選んでほしいと
言われて

それで大正大学という大学の
仏教を学ぶコースに入学したんです。

ところが 大学入学後。

吉水さんは
誰のために何をすればいいのか

向かう先を見つけられない時期を
長く過ごします。

大学3年生 4年生の時に
海外で布教するような

そういうお坊さんになりたいと思った
時期もあるんです。

でも 伝えようと思った時に
まず語学ができていなかったこと。

それから じゃあ語学を勉強して
伝えるっていった時に

伝える内容を
ちゃんと勉強してきていなかったこと。

で やれと言われたことを
やろうと思っても

なかなか ちゃんと それが手に付かないし
思うように勉強も進まなくて

くさっちゃったんですよね。

私自身 これは
ほんとに恥ずかしいことなんですが

お酒に とっても弱くて
ひどく酒に飲まれやすくて。

酔い潰れて帰れなくなることも
しばしばあって

時には本当に恥ずかしいことですけれど

警察に保護されて 父に
迎えに来てもらったこともありました。

私が お酒に飲まれてグズグズになって
勉強も ちゃんとできていなかった時期

何に迷ってたのかといえば

恐らく自分が
どういうふうに生きていったらいいのか

自分は
どんな僧侶になっていったらいいかが

もう
分からなくなってたのかもしれません。

手がかりを求め 仏道の先人たちの記録を
貪るように読んでいた 28歳の冬。

転機となる 一件の依頼が舞い込みます。

新宿で路上生活者支援を行う
団体からの相談でした。

それは 元路上生活者や
路上生活をしている人たちのための

貧しい方々のためのお墓が欲しいという
相談だったんです。

当時 私 その話を聞いた時には
ちょっと驚きました。

だって 私の中では 彼らは その

着るものも食べるものも
住むところも気にしないし

そして
自分の思うままに暮らしたいから

路上で暮らしてるんだろうと思っていたし
そんな彼らが一足飛びに

お墓が必要だって思うんだろうかって
考えてしまったんですね。

なぜ墓が必要なのか
話を聞きにいくことにした吉水さん。

そこで これまでの考えを覆される

一人の元路上生活者の男性と
出会いました。

その方が幼い時に父親が亡くなって

他の人の家に
兄だった自分が預けられることになり

苦しい中 勉強も学校も
そんなに ちゃんと行かせてもらえず

食事も その家の子と同じようには
食べさせてもらえない中で

苦労しながら そこで生活をし

そして ようやく そこを抜け出して
東京にやって来て仕事をした。

でも いい仕事に
決して就けるわけでもなくて

でも 精いっぱい定年まで働いた。

で 第二の人生と思ってる時に
友人にお金をだまし取られて

一体 何を信じて生きていいか
分からなくなって

路上に 気が付いたら出ていた
というような方です。

その方が
こういう話をしてくれたんですよね。

「俺は路上に出るまでの間に 縁という縁を
切らざるをえなかったんだ。

お墓なんて俺たちには
もったいないかもしれない。

ぜいたくなものかもしれない。

でも このNPOの支援のおかげで
再びできた友人たち 仲間たちと

もしも死んだあとまで
一緒にいられるって思えたら

僕は残りの人生を

もっと一生懸命に生きていける」って
話をして下さったんですね。

私 その時に これは自分たちの
信仰の問題ですけれど なるほど。

死んだあと極楽浄土に
生まれるっていうことは死後の救いで

生きてる人には
関係ないと言われることが時折あります。

でも 私は彼の話を聞いて…。

自分の死後の行き先を明確にすることが
生きている今の時間

生きている今の
力に変わることがあるんだということを

路上の方々に
教えてもらったんだろうなと思うんです。

そんなふうに言われて
初めて はっとして

ああ このお墓をつくることは

自分こそ やらなきゃいけないことなんだ
って そう思えて。

当時の住職だった父に事情を話し

父も 「それなら いいんじゃないか。

場所は空いてるところを
使いなさい」って言ってもらって

それで「結の墓」というお墓を
つくることになったんです。

吉水さんは 墓の相談がきっかけで

各地の路上生活者支援の現場に
通うようになりました。

翌年には
大学時代の僧侶仲間たちと話し合い

山谷で活動する「ひとさじの会」を
つくりました。

仏教って 本当は苦しみに向き合うために
生まれてきた宗教です。

苦に どうやって向き合ったらいいか。

でも 私たち僧侶は 儀式や儀礼
基本的な教理のことは

もちろん知っているし
学んではいるけれど

肌で感じるような本当の苦しみや
人生の不条理というものを

学ばないんだなっていうこと

学んできてなかったんだな
っていうことを

彼らに出会って気付かされたし

私は そういう意味では本当に
この世が苦しみが多いということを

それを ちゃんと目の当たり
自分で学んでいきたいと思って

それで ひとさじの会という
グループをつくったんです。

吉水さんは自ら活動する中で

路上生活を送る人の現実と
深く向き合い始めます。

しかし 相手の苦しみを通して
気付かされたのは

自分自身の愚かしさだったといいます。

ひとさじの会を始めて
しばらくしてのことでしたね。

いつも路上で会う すっごい
にこやかな おじさんがいるんですよ。

我々が来ると ちょっと腰が低くですね
「先生 先生」って言ってくるんですね。

「何だろう この人」と
思っていたんですけれども

この人 仮に
Mさんとさせてもらいますが

この方
だんだん親しくなっていきながら

やっぱり路上で暮らすのしんどいから
生活保護を受けて

生活をもう一度 再建するっていうことに
チャレンジしたんですよ。

でも 悲しいかな 親しくなって

いろいろ気持ちも打ち解けてきてると
思っていたやさきに Mさんがある日

生活保護のお金を持って
失踪してしまったんですね。

でも またしばらくしたら
ふらっと帰ってきて

結局 そのあとの生活費が難しくなるので
私の方が少し補填したり

簡易宿泊所を紹介してくれた団体が
補填したり

掃除を手伝ってくれたりなんかして
また生活を再開する。

こんなことを
彼が繰り返すようになったんですね。

私は そのつど
お願いだから やめてほしいと。

どうして こういう当たり前のことが
分からないのか

どうして こういう簡単な仕組みが
分からないのかっていうふうな

もしかしたら すごい怖い顔をして
彼に接していたのかもしれません。

そして ある日突然 またお金を持って
いなくなってしまって

そのまま彼は帰ってきませんでした。

彼自身が私と一緒にいる時に
いろいろ話してくれたことを思い返すと

小さな頃から自分は
他のきょうだいよりも出来が悪かった。

だから ちゃんと
構ってもらえなかったこと。

それから 何か言うと すぐ殴られるから

それが嫌で何度も家出たとかってこと
とかを聞いたのを思い返して

そんな彼の心の痛みを 本当に自分が
分かっていたかどうかっていうと

恐らく分かっていなかったと思います。

その上に 親とまた違う私が
親とは違った形であったとしても

お前は何でこんなことも
できないのかっていうことを

無言で責めていたことに
なるんじゃなかったかなって。

私は私の物差しでもって
彼を測ってしまったし

そこには きっと私は こんなことぐらい
分かれよっていうような

そういう おごりというか
なんか 私の気持ちの押しつけとか

傲慢さみたいなものが
きっと あったんだろうと思うんです。

活動を始めて2年。

更に 自身が
深く問われる出来事が起きます。

川沿いに暮らす男性が
血を吐いて倒れているのを見つけ

救急車を呼んだ時のことでした。

命に関わることなので
まずお願いだから

救急車に乗りませんかって
お話をしたんですね。

でも いざ救急車が到着して
「この人ですか?」って言った次の瞬間に

「誰がこんなやつ呼んだんだ」って
怒り始めて

「俺は救急車なんて頼んでないぞ」って
怒り始めて

その救急隊員の方も 「ご本人の同意が
得られないならしかたないですね」って

血を吐いてる状態なのに
帰ってしまったんです。

そこからは彼は ものすごい怒って

怒りとともに
どんどん口から血を吐くんです。

で 私たちも困ってしまって

近づくと 余計 興奮して
余計 血を吐いてしまう。

それは よくないことだろうと思って
困ったあげくに

朝方に もう一回来ますからって言って
その場を離れてしまったんですね。

でも 結局 翌朝
本当に早朝に行ったんですけれども

彼の姿は既になくて

近くで寝てた人に聞いたら

私たちが去った ほんとに1~2時間後

倒れて 警察が来て遺体を運んでいった。

彼がいた場所には 彼が履いてた靴と

吐いた血が
散らばっているだけだったんですね。

しんどい人たちに関わりたいって
言っていながら

本当に しんどい人の手を
離してしまったんです。

本当に謝っても謝りきらないけれども
深い 本当に心の奥底から

本当に何も言葉が出ないんですよね。

ひたすらお念仏申すしかなかったんです。

よりよく誰かのために
力を尽くしたいって言いながら

いざ本当に困った人の前に行った時に
逃げ出してしまうような

そういう私がいるんです。

身にしみて思ったことは
人間は皆 凡夫にすぎない。

凡夫っていう言葉は

ただの人というふうに
辞書では出てきますし

いろんな意味をつけることも
できるかもしれないけれど

でも 自分の存在というのが
至らないということに

気付けっていう時に
法然上人が使う言葉が この凡夫です。

恐らく 法然上人ご自身のご実感
だったんじゃないかなと思うんです。

修行をすればするほどに
清らかになって尊くなるって

どこか自分が尊大になっていくような
そんな気持ちっていうのが

もしかしたら法然上人にも
おありだったのかもしれないし

どの人たちも結局は 仏とは呼べぬ
そうした至らない愚かしさを抱えた

凡夫にすぎないということに。

そして それは仏の御前から見れば
皆 等しく

右往左往しながら生きている凡夫に
すぎないということに気付かれて

お伝えになったんじゃないかなと
思うんです。

「人は皆 凡夫にすぎない」と説いた法然。

その凡夫を誰一人漏らさず救うと
約束したのが

阿弥陀如来だといわれています。

念仏は その阿弥陀如来に
身を委ねますという言葉。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏…。

吉水さんは 自分の無力さや
受け止めきれない困難に出会う度

阿弥陀如来に向き合う時間を
多く取るようになりました。

出会った人。 自分の手が届かなかった人。

全ての人が せめて仏の縁につながるよう
念じ続けてきました。

如来様は それこそ平等の慈悲でもって

一切の人を 一人も嫌うことなく
受け止めるって約束をして下さっていて

どうしようもない自分なんだけど
そんな自分でも そのままでいいって

受け止めてくれるわけですね。

そんな如来様に対して
喜んで頂けることって何かって思えば

つらいって
うずくまってる人がいたら

その人のそばにいて 「助けて」っていう
声を一緒に上げながら

その人にとって必要なものが何かを
一緒に悩みながら考え

そして 本当に必要だというところの
人たちに結び付けていくような

その人に必要な縁を
新たに結んでいくようなことが

唯一 今 できることかなと。

いや させて頂けることかなと
思っています。

(読経)

10月。 吉水さんの寺では
法要が営まれていました。

(読経)

かつて路上生活をしていた
身寄りのない男性が

がんで亡くなり 納骨される日です。

男性を支えてきた支援団体の人たちや
元路上生活者の仲間たちが集まり

故人の思い出を語り合います。

すごい こう 人の話にかぶせたいっていう
体質の持ち主だったんですけど。
(笑い声)

その時に反撃すると 「ええっ!?」みたいに
なるところも ちょっとあって

かわいかったんですよね。
ありがとうございます。

男性の遺骨は 仲間たちが共に眠る墓
「結の墓」に納められました。

(読経)

後日 吉水さんは 法要に参列した
一人の男性の家を訪ねました。

では お邪魔します。

仲間から「長老」の愛称で親しまれる…

はい どうぞ。
久しぶりですよね きっとね。

段ボールで手作りした仏壇で
毎日 仲間のことを祈る勇さん。

今日は 吉水さんと一緒に手を合わせます。

「一切の諸精霊と追福得楽 増進菩提
願わくは

如来の光明をもって
必ずや極楽浄土にゆき生まれて

かの国の菩薩と生まれ変わりて
皆 再会を果たしともどもに

小林 勇氏のことを
見守り 導きたまわらんことを…」。

勇さんは 自分がどのように
生を全うしたいのか

「縁の手帖」というノートに記しています。

「光照院内の結の墓に納骨をして
仲間と共に永眠したい」。

うちの寺に ちゃんと
指定して下さったんですね。

私の…

でも ちょっとうれしいです
自分のお墓だと思って下さってるなら

それは とっても。

それは 向こうにいくの
やっぱり怖くない感じがします?

それは何でですか?

あっ みんな待ってるから。
うん。

身寄りがない方々のためのお墓
ということで つくられましたけれども

私は すっごく
豊かなものを見せてもらって

豊かなことに気付かせてもらいました。

この町は どんな生き方をしてきたにせよ
全て受け入れて

身寄りがなかろうと あろうと
関係なく

この場で新たな縁を紡いでくれて。

すごいですよ。 キリスト教であろうが
仏教であろうが関係なく

お金を持っていようが持っていまいが
関係なく

みんな いっしょくたに
ここで縁を結んで親しくなるんです。

誰しも同じ凡夫であるのだから
自分も他人も五十歩百歩なんです。

どこか私たちは
欠けたところがあるからこそ

自分の有限性や自分の小ささや
弱さというものを知るからこそ

誰かと補い合うことができるんです。

縁は本当に不思議なものだなと思います。
不可思議なものだと思います。

寒い時期が来ると思い返すんですけれど
本当に寒い2月の寒さの中

段ボールで寝起きをしている
高齢の男性が

私たちが おにぎりを
持っていこうと思った時に

「こっちだよ」って うれしそうに
手を振ってくれて 迎えてくれて

「遅くなってごめんなさい。
これ 作ったおにぎりです。

どうぞ」って言って
おにぎりを手渡させてもらいました。

その時に おじさん
うれしそうな顔をして

「ありがとうな ありがとうな」って。

「あんたたち すっごい寒い中に
よく来てくれた。

寒かっただろう 寒かっただろう」って
言って 私の この両手を…。

遅くなってごめんなさいって
私が合掌していました。

そしたら その両手を周りから
包むようにして重ねてくれて

「ああ こんなに手を冷やして
寒かったろうに ありがとうな」って。

ぬくもりが伝わってくる時に
本当に人と縁を結ぶっていうことは

幸せなことを感じます。

私は… 私は相手に何か おにぎりだとか
物を差し上げてるようだけれど

実際には こうやって
彼らの方から温めてもらって

気持ちをたくさん支えてもらってることに
そんな時に気付くんです。

あったかいんです 人の手は。

あったかいんです そういうご縁。

好きなもの ボタン押して…。
え~?

いや いいんです 高くてもいいですからね
お茶でも何でもいいですから

何でも好きなの ちょっと押して下さい。

じゃ お言葉に甘えます。
ありがとうございます。

ありがとうございます。
なんか思いがけず うれしいです。

いや 全然平気ですよ。

ありがとうございます。
ほんと 俺も助かるんですから。

なんか あったかいから
とってもうれしいです。

さっきまで隅田川にいたので。
本当ですか。

だから とっても あったかいです。

寒いけど 頑張って。
すいません
ありがとうございます。

皆様もお気を付けて。

おやすみなさい。

どうも。

とてもありがたい。

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