出典:EPGの番組情報
英雄たちの選択「信長最大の敵・大坂本願寺 ~歴史を変えた11年戦争~」[字]
信長を最も苦しめた大坂本願寺。本願寺を支援する毛利水軍と織田水軍が激突した木津川口の戦いの真相、そして信長・本願寺11年戦争が歴史に残した驚くべき結末に迫る。
詳細情報
番組内容
戦国の覇者・織田信長を最も苦しめた敵とされる大坂本願寺。顕如率いる各地の門徒たちと信長との戦いは泥沼化し、11年の長期に及んだ。最大の分岐点となったのが、二度にわたる「木津川口の戦い」だ。本願寺を支援し、兵糧を送っていた毛利水軍と織田水軍が激突した海戦である。信長の鉄甲船は実在したのか?新発見の絵図から読み解く両軍の海の戦略とは?そして信長と本願寺の戦いが歴史に残した驚くべき結末とは?
出演者
【ゲスト】千田嘉博,堀新,萱野稔人,【キャスター】磯田道史,杉浦友紀,【語り】松重豊ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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- 一向一揆
- 海戦
- 顕如
- 荒木村重
- 場所
- 今回
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
愛知県半田市にある浄顕寺。
ここに 戦国時代に描かれた
珍しい仏画が残されている。
こちらが 浄顕寺に伝わる
血判阿弥陀如来絵像になります。
仏画の裏に記された名前と 生々しい血判。
その数 342人。
農民や武士 僧侶など
さまざまな階層の人々は
当時
一向宗と呼ばれた宗派の門徒たちである。
人々の血判は ある人物に対して
徹底的に戦う決意の証しだった。
彼らが激しい怒りを向けた者とは…。
戦国の覇者 織田信長。
そして
この一向宗の門徒たちを率いたのは
大坂に本拠を構えた本願寺の第11代門主
顕如だった。
信長 生涯最大の敵ともいわれている。
この顕如の呼びかけのもと
全国各地で反信長の兵を挙げた一向一揆。
戦いは泥沼化し
信長が制圧するまで11年もかかった。
なぜ信長は これほど長きにわたり
苦戦を強いられたのか?
本願寺の強さの秘密を徹底検証する。
そこを なんとかしなければ…
信長 対 本願寺。
勝敗の分岐点となったのが
2度にわたって行われた海戦…
信長は
本願寺を支援する毛利水軍に翻弄され
1度目の戦いで
まさかの大敗北を喫した。
戦国史上まれに見る海戦の実態は
どのようなものだったのか?
2019年
この戦いを描いた絵図が公開された。
これをもとに
両軍の海の戦略を徹底分析する。
更に 本願寺との戦いが
信長に与えた影響とは?
専門家たちが熱く議論。
ひたすら…
信長も まあ 天才というか…
本願寺は信長と戦い
あそこの大坂の地から退いたことで…
今日のテーマは 本当に…
信長を苦しめた強敵 大坂本願寺。
11年にも及び その後の天下の行方を
左右した戦いの真相に迫る!
♬~
皆さん こんばんは。
こんばんは。
歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。
その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。
今回の主人公は こちらです。
皆さん ご存じ
戦国時代の英雄 織田信長です。
これまで「英雄たちの選択」では
何度も取り上げてきた信長ですけれど
今回は 信長と本願寺との戦いを
初めて特集するんです。
これは 信長の生涯でも…
何せ 10年以上も戦い続けたわけです。
本能寺の変で殺されるまで
信長は戦闘でケガをしたということは
まあ めったにないというか
ちょっと ほかに私は知らないので
やっぱり…
そんな戦いの分岐点となるのが
本願寺と同盟を結んだ
毛利水軍との海の死闘
木津川口の戦いなんですけれど。
海の死闘って 珍しいですね。
そうなんです。 海の戦いなんです。
戦いのほとんどは陸の戦
陸戦ですよね 戦国時代。
海の戦いは
結構ね 歴史家泣かせなんですよ。
史料が残りにくい。
今回 新しく発見された史料が
あるんですよ。
おっ。
これをご紹介しながら
史実に迫りたいということになります。
はい。
戦国の覇者 織田信長。
その名を天下に広く知らしめたのは
永禄11年
足利義昭を奉じて
上洛に成功したことに始まる。
信長は 征夷大将軍となった義昭や
朝廷の権威を背景に
次々と近隣の武将たちを攻略。
姉川の戦いでは
越前の大名 朝倉と
北近江の浅井を破り
その武威をとどろかせた。
そんな信長が
次に狙いを定めたのが大坂の地だった。
信長の一代記「信長公記」に こうある。
境地とは 交通 経済 防御に秀でた
優れた土地のことを指す。
信長は 大坂こそが日本一だと称賛した。
周囲を多くの河川に囲まれた大坂は
水陸交通の要衝だった。
都が置かれた京や奈良
貿易が盛んな堺を結ぶ
経済の拠点であり…。
更に 西に面した
瀬戸内海を通じて
朝鮮 中国 南蛮などの
異国とも通じる
まさに富貴の湊であった。
信長の野望に危機感を募らせていたのが
大坂本願寺である。
後に名付けられた 石山という地名から
石山本願寺とも呼ばれている。
当時 一向宗と呼ばれた
仏教宗派の一大拠点だった本願寺は
大坂を中心に
越前 伊勢
近江 紀伊など
日本各地で勢力を拡大。
西方極楽浄土の仏
阿弥陀如来を信仰する門徒たちは
一向 すなわち ひたすら念仏を唱え
来世に救いを求めた。
こうした門徒は
全国 数十万に及んだという。
この一大宗教勢力を
率いたのが
本願寺 第11代門主
顕如であった。
顕如が使ったと伝わる兜。
実戦向きに作られたことが分かる。
勇ましい武者姿の肖像画も
残されている。
顕如率いる一向宗は
巨大な宗教勢力というだけではなかった。
本願寺は 当時 最新の鉄砲に習熟した
紀州和歌山の雑賀衆を
傭兵として雇用するなど…
顕如は 大坂に狙いを定めた信長から
最後通告ともいうべき要求を
突きつけられた。
顕如が門徒に宛てた書状に こうある。
「信長が上洛を果たして以来
さまざまな難題を持ちかけられた。
これまで信長の要求に
応じてきたにもかかわらず
今度は
本願寺を破却するとの意向を告げてきた」。
信長は 顕如に対し
大坂からの退去を求めたのである。
9月。
ついに本願寺は 反信長の兵を挙げた。
足かけ11年に及ぶ
長き戦いの幕開けであった。
挙兵した本願寺勢は
大坂周辺の織田軍を一気に攻勢。
精強を誇る織田軍を
僅か一日で退けることに成功した。
本願寺の強さの秘密は
どこにあったのか?
後の天下人 豊臣秀吉によって
築城された大阪城。
それ以前は
本願寺が本拠を置いた場所とされている。
大阪城へ やって来ました。
行きます!
城郭考古学者の千田嘉博さんが訪ねた。
ありました。
いや~。
ここにですね 石山本願寺推定地
というふうな石碑がありますけど。
まさにですね
今 大阪城がある この一帯がですね
その前には
大坂本願寺があった場所ということで
それを記念する石碑であります。
織田軍を寄せつけなかった本願寺の強さ。
千田さんは その立地に注目している。
2019年に設立された
北御堂ミュージアム。
ここに 最新研究をもとに復元された
当時の本願寺の模型がある。
あの大坂本願寺と
その周辺の精密な復元模型です。
当時の記録を見ましても…
そういったものを…
そういった形を整えていたということが
分かっています。
河川を天然の要害となし
海抜30メートルに及ぶ
上町台地の先端に築かれた本願寺。
堅固な防御施設に囲まれた
戦国大名の城下町を彷彿とさせる。
本願寺が築かれた
この上町台地の自然地形にも
強さの秘密があると千田さんは指摘する。
いや~ これ 高低差 随分ありますね。
いや 見事ですね これ。
これは すごいな。
あの この場所はですね
本願寺のあった場所からですね
南側へ少し移動した所ですが
たとえ包囲したとしてもですね…
包囲はしたけれども
さあ どう攻めるかということで
これは まさに天然の要害だったという
当時の様子というのが
実感できるなあというふうに思います。
更に本願寺を難攻不落の要塞としたのが
台地上でも豊富に得られた
湧き水であった。
あの… 水って大事なんですが
こんなに… こんなに水が湧いてきている
というのは すごいですよね。
強敵 本願寺と戦端を開いた信長。
間もなく 思いも寄らない勢力に
取り囲まれることとなる。
元亀3年。
当時
最強とうたわれた
武田信玄が
反信長を掲げて参戦。
翌年 信長が擁立した
将軍 足利義昭も
本願寺に与し
反旗を翻した。
築かれた敵の包囲網。
信長は その中心となった
本願寺を攻略するため
各個撃破の作戦で臨んだ。
敵勢力が分散しているうちに
それぞれ個別に打ち破るというものだ。
元亀4年7月。
将軍 足利義昭を
降伏させたことを皮切りに
宿敵 朝倉 浅井を一気呵成に
滅亡にまで追い込んだ。
これにより 信長にとって
畿内周辺の強敵は
一人 本願寺を残すのみとなった…。
さあ いよいよ 信長 対 本願寺
戦いの火蓋が切られました。
もう絶好の場所だなという感じが
見てても分かりました。
堀さんから見て この本願寺の強さって
どういうところに
秘密があると思いますか。
軍事的な面で
もう一つ付け加えさせていただくと
全国各地にある
この末寺から
人であったり
まあ 要は軍勢ですよね。
あの番衆という形で
集めてましたけれども
いざ戦いとなれば
それが兵力として
集めてきますので。
武器や弾薬や食料や
そういったものが集まってきますから
非常に もう 質・量ともにですね
戦い続けることができるという意味で
軍事的には
本当に そういう強さがあると思います。
経済面で言いますと
寺内町 寺内町っていうようなものが
本願寺の所にありまして。
いろんな形で 経済的な特権を
その地域の領主から
手に入れているわけですよね。
本願寺だけの ちょっと特殊性っていうと
大坂並っていう言葉が史料でありまして。
そういう意味で
軍事にも経済にも両方つながるような
そういう強さが 本願寺にはあったのかな
というふうに考えています。
本願寺の都市っていうのは
国の中の国と言っていいようなものが
あるわけですね 寺内町といって。
自分の町の周りに堀を掘って
真ん中に本願寺系の寺院があって
さっきの大坂並っていう特権をもらうと。
警察権も。
まあ 非課税地とは言わないけど…
そうしたら そこへいればですよ
豊かになれますよ~ これは。
税金を取られないわけですから。
それで 本願寺に寄進をする。
末寺や門徒が こうやって寄進をする。
そうすると…
こんないいこと ないじゃない。
確かに。 何か
既に こう城下町のような風情というか
あの周りも。
例えば お城から見てみますと
やっぱり普通ですと
お城をつくったっていえば
大名の方が先進的で
より 戦いに強いお城をつくるのが
武士だろうというイメージが
あると思うんですが。
もう同時代の戦国大名では
もう全く太刀打ちできないような
もう超最新のお城。
しかも 規模も すごい。
ですから 本願寺をつくった寺内町
寺内町ではあるんですけど
お城ということで見ると
もうちょっと
時代を何十年も先取りしている
というぐらい 圧倒的に先進でした。
へえ~!
例えば…
これ もともと
大名が押さえていたわけではなくて…
個々の その 何て言うのか
すごいお城をつくるっていうのも
これ もともと お城をつくるではなくて
お堂をつくったりという
お寺のための技術だったんですけども。
それは たちまち…
そこでも かなわないと。
僕 杉浦さんが さっき
本願寺って城下町みたいって言ったのは
大正解だと思うんですよ。
本当ですか。 実はね 僕ね
こっそり思ってたことあって。
モデルなんじゃないかと思うんですよ。
で あれ本願寺のやってるものに
何か2つさえ加えれば
江戸時代の町になる 城下町になるんです。
信長が 発明した天守閣と高石垣を
本願寺のところへ チョンとつければ
もう これで あれですよ。
僕はね 信長や秀吉たちは
ひょっとしたらよ
あれ本願寺 敵なんだけど 見て
あれを まねたんじゃないかというね。
考えたいね。
萱野さん いかがでしょうか?
あの その力の源泉が
それこそ大名たちと
ちょっと仕組みが違うっていうところが
一番 ポイントなのかなと
思うんですよね。
大名っていうのは
支配した地域の人間を
臣下にしていく
っていう形なんですけども。
ですので 土地に縛られない関係を
門徒と作ることができるから
そこは もう 本当に…
で 当初は やはり 自分たちの
その門徒の安全を 保障するために
各大名と交渉していくんですけれども
だんだん だんだん これ
立場が逆になっていくというかですね
ある大名と 関係がよくなって
別のところとも 関係がよくなれば…
フィクサーのような。 いろんな人と
こう通じてることによって
権力を持つというような。 そんなような
存在になっていったのかな。
信長の前に大きく立ちはだかった
強敵 本願寺
いよいよ 木津川口の戦いの始まりです。
大坂本願寺の挙兵以降
各地で 織田軍に抵抗を続けた
一向宗の門徒たち。
この一向一揆に対し
信長は 強硬な作戦に打って出る。
「この時 男女2万人を
焼き殺した」という。
かかれ~!
更に その翌年。
「総勢4万を超える大軍勢で
越前一向一揆を攻めたて…
一揆に参加した人々を
皆殺しにした」。
各地の一向一揆を容赦なく弾圧し
本願寺の孤立を図った信長。
天正4年5月。
ついに本格的に
本願寺の攻略に取りかかった。
織田軍は 大軍勢で本願寺を囲んだ。
ところが…。
(銃声)
「本願寺は
数百挺もの鉄砲を駆使し
攻め寄せる織田軍を
ことごとく蹴散らした」。
更に…。
「前線に向かった信長は
足を撃たれ 負傷」。
信長が戦場で負傷したという記録は
本能寺の変を除けば
この時だけである。
戦線は こう着した。
信長は 力攻めを諦め
敵の武器や
兵糧の輸送を断つ 持久戦に転じる。
本願寺の南に
堅固な天王寺砦を築き
西は 荒木村重
東は 明智光秀と
織田軍精鋭の武将に
本願寺を包囲させた。
だが 本願寺を完全に包囲するためには
海に面した木津川口を
封鎖しなければならない。
信長は 急きょ水軍を編成。
木津川口の封鎖を試みた。
この織田軍の包囲作戦に対し
本願寺が救援を求めたのは
信長と敵対し始めていた
西国の大大名 毛利輝元だった。
本願寺は 毛利と同盟を結び
兵糧の輸送を依頼した。
当時 瀬戸内海を制した
毛利水軍の中核を担ったのが
村上海賊であった。
村上海賊ミュージアムには
2019年に公開されたばかりの絵図が
保管されている。
難波船軍図というふうに
呼んでる史料になりまして
戦国時代のですね
木津川口の合戦といわれる合戦を
示した絵図になります。
右側には 木津川口を封鎖する
織田の軍船が並び
左には それを突破しようとする
毛利の大船団が描かれている。
毛利軍の前線には
村上海賊の軍船が配置されている。
もう この絵図を見ていただいたら
分かるように
沿岸びっしり取り囲むように
織田方の船がですね
守っているというのが
よく分かると思うんです。
で それを突破しようとする
村上っていうのが
接近しているという
そういう構図になりますね。
本願寺への兵糧輸送を阻止すべく
木津川口を封鎖しようとする織田水軍。
対する毛利水軍は 淡路島に集結後
対岸に移動
鉄砲に熟達した傭兵集団 雑賀衆と合流。
その数 800艘に上った。
天正4年7月13日。
毛利水軍は 300艘から成る
織田水軍の防衛線を突破すべく
攻撃を開始した。
この時 勝敗を決したのが
村上海賊が使用した ほうろく火矢。
球体の鉄や鉛などの内部に
黒色火薬を詰めた新兵器である。
「信長公記」は こう伝える。
「毛利方は ほうろく火矢を作り
味方の船を取り囲み
繰り返し投げ入れて
織田方の船を焼き崩した」。
木津川口の戦いに呼応して
籠城していた本願寺勢も出撃。
陸上で包囲する織田軍を攻めたてた。
本願寺勢勝利の勝ちどきは
大坂の地に轟いたという。
信長は 本願寺勢の猛攻を前に
またも大敗北を喫したのである。
第一次木津川口の戦いは
本願寺方の勝利となり
信長は まさかの大敗北を
喫してしまいました。
千田さんは どうでしょうか。
この第一次木津川口の戦い。
本願寺の側に
救援物資を入れるぞという側でいけば
それは どこでも着くことができる
っていうのに対して
守る方は 実は
この大坂の西側の木津川口といっても
どこへ来るかっていうのが
分かりませんから
広く 何て言うんでしょうか
薄く展開せざるを
えなくなるわけですよね。
で あそこに来た!
っていうことになれば
それは 守りに行くんですけど
まあ それは よほど船を
うまく巧みに操って
しかも 組織的に
っていうことになりますから。
そういったことでいっても…
これは なかなか ちょっと勝てないな
っていうふうに思いますね。
いや でも それにしてもですよ
萱野さん
この信長は 越前や長島の一向一揆で
大虐殺をしているじゃないですか。
あそこまでする必要があるのかなって
やはり 思ってしまうんですけれど…。
海を封じようとした
水路を封じようとした
その動機に やっぱり こういった
それ以前の
一向一揆に手を焼いたってことは
経験としてあったのかもしれませんね。
で 私は ここで やっぱり…
虐殺したのは
よく あの信長が無神論者で
宗教弾圧のためにやったっていうことも
言われますけども
必ずしも そうじゃないんだろうな
というふうには思うんですよ。
むしろ…
っていうのが
実態なんだろうなと思うんですよね。
とにかく この死んだあとまで
保証してくれるのが 宗教ですよ。
だから いわゆる…
で 死ぬこと自体が 殉教としての
位置づけにもなるということで。
それは 相当やっかいだと思います。
うん。 でも それほど…
堀さん これは
大名との戦いとは違うっていう認識が
やはり あったんですね。
ちょっと恐怖心というか。
一向一揆に対する
恐怖心のようなものもあって
虐殺する時って やっぱり攻める側に
敵に対する恐怖心があるんですよね。
そういう人間心理を遡らせて
どこまでっていうのは
あるかもしれませんけど。 でも やはり
そういうものがあるからこそ
信長もそうだし
兵士も やはりそういうふうに
動いたんではないかなというふうに
思いますね。
そういえば 陸地の戦いで
一向一揆の人々を もう皆殺しにする。
何万人も殺してしまうっていうのも
普通の大名との戦いであれば
敵のその戦闘部隊さえ倒してしまえば
あとは そこを治めればいいのが
もう その地域の人ぐるみで
立ち向かってくるということになると
大名との戦い方とは
全く違う理屈の戦い方を
信長は迫られて
この第一次の木津川口の戦いでも
例えば 村上の海賊たちというのは
必ずしも 毛利の家臣というわけでは
ないんだけれども
そういった 立場を超えた人たちが
連携をして
一斉に 襲いかかってくるというのか
戦ってくると。
これは 戦い方を変えないと
考え方 変えないと
本願寺との戦いに勝つということは
できないんだというのを
つくづく痛感した
戦いではなかったかと思いました。
信長の窮地は
木津川口の戦い 敗北のあとも続いた。
天正5年
信長に追い打ちをかけたのが
家臣 松永久秀の反逆だった。
久秀は 本願寺包囲戦の要となる
天王寺砦を守っていた。
ところが それを放棄し 軍を撤退。
本願寺と内通した裏切りだった。
更に 天正6年10月。
同じく 本願寺包囲戦を担った
摂津の国主 荒木村重が謀反を起こす。
村重もまた 本願寺と通じていた。
信長の痛手は大きかった。
村重の謀反は
大坂湾の制海権を左右する
一大事だったと
大澤研一さんは指摘する。
で しかも 海に面しているエリアも
もちろんありますので
そこがですね 本願寺方に渡るとですね…
これは 信長が
それまで 一生懸命ですね
摂津を掌握していたということから
しますとですね
すっかり形勢が逆転してしまう
ということになろうかなと思います。
この機を逃さず
毛利水軍も動き始めていた。
本願寺に 兵糧を輸送するため
織田水軍の倍以上にあたる
600艘もの軍船が 淡路島に集結していた。
度重なる家臣の反逆
そして 迫りくる敵の大船団。
本願寺との戦いに苦闘する信長
その心の内に 分け入ってみよう。
荒木村重が 本願寺に くみした
今となっては
大坂湾周辺は
既に 敵の手中にあるも同然。
やはり 毛利水軍との決戦は
避けるべきか…。
こたびもまた 負け戦となれば
目も当てられぬ…。
ここはひとまず 朝廷を介して
本願寺と和議を結び
万全の態勢を整えた上で
毛利との海戦に臨むのが上策であるか…。
いや待て。
たとえ和議を結んだところで
またぞろ 本願寺に
兵糧を運び込まれてしまえば
戦いは いたずらに長引くばかり…。
本願寺と早く決着をつけるためにも
何としても 毛利水軍を
一挙に たたいておくべきか…。
こたびの戦では
我が方にも 秘策があるではないか。
奈良 興福寺の僧侶が記した
「多聞院日記」に こうある。
「信長の大船は
鉄の船である。
鉄砲の弾を通さぬ工夫が
施されていた」。
この伝聞に基づく記録をもとに
これまで信長は
鉄で覆った鉄甲船を準備したと
考えられてきた。
ところが ほかの史料には
鉄甲船の記述は 一切ない。
しかも
信長の船を 実際に見学した宣教師は
こう記している。
こうしたことから
信長が 新たに建造したのは
船体を鉄で覆った鉄甲船ではなく
大砲と長銃を備えた
南蛮船のような大船だと
近年では考えられている。
この大船に備えた大砲があれば
さすがの敵も
木津川口に近づくことすらできまい…。
う~ん だが…
手だれの毛利水軍 この策
果たして うまくいくかどうか…。
毛利水軍との海戦を避けて
本願寺と和議を結ぶべきか。
それとも 再び海戦に挑み
本願寺との戦いを継続すべきか。
信長に 選択の時が近づいていた。
うん。 堀さん これまでは
ドラマや小説などで
この 鉄に覆われた鉄甲船が
登場してきましたけれど
実は これは
なかったということなんですか。
そうですね 結局 鉄で覆われたというか
鉄甲船と書いている人物は
見てないのに書いてるわけですから。
実際に見た人間は
そう書いてないとなりますと…
もし信長 これで
うまく鉄甲船をつくって
成功していれば
このあとも やると思うんですよね。
だけど このあと
続かないところを見ると
やはり なかったのかな
というふうには思いますね。
だけど その多聞院のお坊さんも
全く うそを言ってるのかというと
あの記録には
船の寸法が細かく書いてあるから
伝聞とは言いながら
全く 根も葉もない話ではないから
何らかの鉄板の装甲は
やってた可能性がある。
だけど やっぱり 全面鉄張りで
っていうようなものではなくて
ひょっとしたら 取り外しできるような
ものであったかもしれない。
さあ それでは 本願寺と対決する
信長の選択を見ていきましょう。
1つ目の選択は
「本願寺と和議を結ぶ」というもの。
そして 2つ目の選択は
「本願寺との戦いを継続する」。
皆さんが織田信長だったら
どちらを選択しますか。
当時の信長になった気持ちで
是非お答えください。
さあ 千田さん。 はい。
千田信長は どうしますか?
(笑い声)
はい 千田信長としてはですね
私は「和議を結ぶ」を
選択したいと思います。
和議を結ぶ。
はい。 これはですね やはり
第一次の木津川口の戦いの大敗から
まだ2年というところで
じゃあ その間
情勢 よくなってるかというと
荒木村重がですね
かえって 本願寺側というのか
まあ 毛利側についていて
大坂湾のもともと確保できそうだと
思っていた制海権すら
信長は失っていると。
で そういった状況で言うと
一旦 ここは 和議を まあ 結びまして。
信長は やっぱり 陸の戦いでは
非常に有利な戦いを進めていましたから
まあ 各個撃破作戦を進めて
和議を結ぶわけですからね
それを破る前提というのは
まあ いかがなものかとは思いますが。
まあ しかし その いい状況になったら
そこで もう一回 開戦するんだ
というのがですね 一番いい選択
ではなかったかというふうに思います。
堀さんは どちらを選択しますか。
私は 本願寺と和議を結ぶを選びます。
信長も秀吉も 何度も
いろんなものと講和を結びますけど
本当に…
あとは もう 浅井との戦いも
斎藤との戦いから 全部そうですけど
必ずそのあと また すぐ戦うんですよね。
本願寺の場合も すぐ戦いますよね。
2回 講和を本願寺と 実は結んでますけど
すぐ やりますよね。
永久に平和を求めるとか あるいは
本願寺と完全に戦いをやめるとか
そういうのは
ちょっと考えにくいかなと。
では 萱野さんは どちらを選びますか。
私は 本願寺との戦いを継続を選びますね。
本願寺は 少なくとも この段階以前にも
和睦を信長と結んどいて
状況が悪くなると結んで…
信用できないんですよ! 本願寺は。
本願寺と和睦を結んだって
何の意味もないんですよ!
向こうから和睦をしてくださいと言って
じゃあ 受け入れますよと。
逆説的かもしれませんけど…
本願寺が
いろんな大名と結び合っていて
で それが まあ 一つの集約となって
大きく反信長という勢力が
出来ているんですよね。
やはり まずは…
…ということが 一番大事になってくる
だろうなと思うんですね。
そこを倒すことによって
無理やり 本願寺が
和睦せざるをえない状況に持っていく
というのが
ここでの正しい戦略かなと思いますね。
うん なるほど。
皆さんの意見
いろいろ出そろいましたけれど
磯田さんは どちらを選びますか?
私は 本願寺と和議を結ぶ
ということにしたいと思います!
はい。
前線が裏切っちゃうと。
信長は もう
敵中に囲まれる状態になってしまって。
そうですね。
これ困りますよ。
う~ん… 信長が近畿地方の南を
こう攻めていこうと思うと
4階建てのビルを制圧していって 登って
っていうのと同じだと思うんですよ。
でね 1階は京都で
これは もう安全で
自分たちのテリトリー。
で 2階は摂津国で
まあ 荒木村重とか
こんなのがいる所。
で 2階が取れたら
今度 本願寺がいる
河内・和泉に行ける。
で 更に 本願寺が取れたら
紀州 和歌山 行ける。
それで 雑賀衆とか
まあ 高野山とか
こういう人たちがいる所まで
行けると。
これで 畿内統一 万歳~!
こうなるわけですけど
これねえ 2階が裏切った状態で
3階にいるわけですよ。
ですから 安全に信長がね
本願寺を攻められる保証は
まず ないんですよ。
あの荒木村重が裏切れば。
一旦 ちょっと
やっぱり 仕切り直した方が いいですよ。
でも いずれにしろ あの講和を結ぶ
和議を結ぶと言っている先生方は
まず 一度は! っていうのが
まず入りますね。
決して ここで諦めるとか
やめるじゃなくて
一度は ちょっと置いときましょう
というのが入るんですね。 分かりました。
天皇の命令による
いわゆる勅命講和を申し入れた。
信長は ひとまず 本願寺と
和議を結ぶことを選択したのである。
ところが…。
信長は 本願寺と和議を結ぶと見せつつ
新たに建造した大船を木津川口に配置。
和戦両様の構えを見せていた。
そんな信長に対し
戦況を有利に進めていた本願寺が
和議を結ぶいわれはなかった。
その2日後 大坂湾で 戦端が開かれた。
戦いは どのように展開したのか?
難波船軍図を使い
海戦の経緯を見てみよう。
11月6日。
淡路島に拠点を置いた毛利水軍600艘が
大坂湾を進み 木津川口に船を進めた。
織田水軍は 巨大軍船を軸に船を並べ
それを待ち受けた。
両軍の船が近づいた時…。
織田の巨大軍船の大砲が
一斉に火を噴いた。
この攻撃で毛利水軍の大将が乗った大船を
大破させたという。
織田水軍は
大砲などの重火器による集中砲火で
敵に大打撃を与えていった。
しかし 織田方の 一方的な勝利
というわけではなかった。
本願寺から
毛利へ宛てた書状に
こうある。
「兵糧船は
無事に着岸した」。
海戦のあとも 本願寺に
兵糧を運び入れていたというのである。
第二次木津川口の戦いに
勝利したとはいえ
海の搬入路の完全封鎖は 不可能だった。
そこで信長は 外交策へと方針を転換する。
まず…
村重を孤立させることに力を注いだ。
また
本願寺への兵糧輸送を阻止するべく
豊後の大友や備前の宇喜多と同盟を結び
東西から毛利本国に圧力を加えていった。
これにより
毛利は 自衛の戦いを余儀なくされ
本願寺の兵糧輸送にまで
手が回らなくなってしまう。
天正7年。 信長の離反工作が功を奏し
荒木村重は逃亡。
その居城 有岡城は陥落した。
信長は 大坂湾周辺の制海権を
取り戻すことに成功した。
そして 翌…
深刻な兵糧不足に陥った本願寺は
朝廷を介し 信長に和議を申し入れた。
信長も それを受け入れ
両者の間に 最終的な和睦が成立した。
その結果…
門徒たちも命を奪われることなく…
当時の信長にとって
大坂の地を手に入れることこそが
最も重要な目的だったのである。
こうして信長は 足かけ11年に及んだ
本願寺との戦いに幕を閉じ
ようやく畿内統一を果たした。
ところが その僅か2年後。
信長は本能寺で
家臣 明智光秀に討たれることとなる。
信長が日本一の境地とたたえた大坂は
後継者の秀吉に受け継がれた。
秀吉は ここに
当時 日本最大の大坂城を築城し
天下統一を成し遂げたのである。
はい ということで
第二次木津川口の戦いでは
信長は 大砲などを有効活用し
毛利水軍に勝利したということなんですね
磯田さん。
これね やっぱり 私 思うんですけど…
あと やっぱり 載ってるのが
大砲が三門も載ってて 大きいのが。
無数の長銃。
弾道の安定した遠くを撃つのに
便利な銃が
ものすごい搭載されてたと 大きな船に。
だから 近づけば
恐らく 舵取りのね 毛利の水軍たちは
恐らく 舵を切っている男が
優先して射殺されたはずですけど。
それと毛利側も たけてるというのは
ほうろく火矢とか…
火船を流すって よくやりますよね。
しばをたいた
火災を起こした船をつないで
それを絡みつけて焼くと。
ああ~。
で これをね 恐らくね
私は避けることができたんではないかと。
…という戦法でもって
大坂湾での優位を 多分 確立したと。
これは まあ まず前提にあって。
で 違うスタイルというのが
先ほど 磯田さんが説明された
大砲を持ってきて
近場で戦わないで 遠くからやって。
近寄られたら ちょっと かなわないので
っていう。
そういう戦い方を変えたというのが
大きいところで。
その大砲にせよ 鉄砲にせよ
数をそろえるのも大変なんですけど
火薬が国産化してませんので
あれを大量に輸入して しかも それを
たくさん撃ち続けるって
長篠の戦いも
あの鉄砲の数だけ言われますけど
それよりも…
武田からすると
ずるい戦いだと思うんですけど
これは 毛利の水軍も
恐らく ちょっとずるいなというか
全然近寄らないで もう ボンボンボンと
やって終わり という勝ち方だから
この戦い方を変えたというのが
すごいところで。
それは 信長は 最近は軍事的な天才って
言わないんですけど
やっぱり ちょっと そういう要素は
私としてはですね
信長も まあ 天才と言うか
ちょっと ずるい戦い方でっていうのが
信長の この戦い
この毛利との戦いだろうと 思うんですね。
でも それにしても
信長が和議っていうのは
ちょっと こう 信長の
今 私たちが持っているイメージと
ちょっと違うかな
っていう感じがするんですが。
そこで その最後の条件の中で
大坂を退出するとか
そういうようなものが出てきたのかな。
いろいろ信長も やってて ねえ…
比叡山 焼き打ちしたり。
それで ちょっと これ 本当に…
で 一方 天皇を通じて講和をすると
ある程度 交渉可能な相手にしていく
っていう方が
今後の戦後世界っていうか
その大坂へ移ってからの 世界の
コントロールができるんじゃないか
っていうことになっていったんじゃ
ないんですかね。
戦略的な和議なんですね。
そうだと思うんですよね。
そして あの信長はですね
この大坂という場所に
すごく執着していたのかなという
感じがするんですけれど。
そうですね。 やはり あの…
これは なぜ講和をしたか
っていうこととも関わっていて
恐らく 当時で言えば
京都と並んで…
で それは あまりにも惜しい
というところっていうのが
やっぱり 信長の最後の選択に
関わったんじゃないかと思うんですね。
さあ 今回は 本願寺との11年戦争に
ようやく勝利した信長について
話してきましたけれど
磯田さん いかがでしょう。
この本願寺 11年戦争は
どんな影響 信長に与えたかって。
これは 実は ひょっとしたら…
例えば…
それで
信長のもとに現れた状況というのは…
おっ これは行けるぞ! と。
はい。
…と思い始めちゃったわけですよね。
そうすると 四国を
もう全部 織田の島にしちゃえば
いいじゃないかっていう発想が
彼の中に 急速に
本願寺から 退いた辺りから出てきて。
そうすると えらく長宗我部に
肩入れしてた自分の家来が
一人いるわけですよね。
はい。 明智さんですよ。
はい 光秀。
光秀 何やってるんだよ? お前は。
あんな どうしようもないなって。
羽柴を見てみろ!
あんなに遠くまで前線を伸ばして
海賊衆を もう いっぱい
こっちの味方にして。 岡山 香川の方まで。
これはまずい! このまま行ってたら
俺 信長に やられるかもしらん
と思った光秀が
信長を殺しに行っちゃったわけですよね。
そうするとね…
だから 本願寺って 大坂 退去して
負けたように見えましたけど
最後 勝っちゃったわけですよね
信長を破って。
本願寺は 残るわけですからね。
萱野さん
皆さんのお話 聞いて いかがですか。
この本願寺と信長の戦いを見ていると
必ずしも 宗教を弾圧しようとして
そうなったわけではないんだ
っていうことが分かりますよね。
刃向かわなければ
別に宗教は そのままにしておきますよ。
単に 政治に口を出さないでほしい。
で 変なフィクサーのような行動も
しないでほしい。
そういったところで 政治と宗教の分離が
行われてきたんだろうな
というのが分かりますよね。
で ということを考えると…
そういう時代プロセスが
ちょうど同じ時期にあって。
本当に 同時期に この政教分離の動き
宗教的権力対世俗権力の戦いが起きて
その後 こう武家社会に
完全になっていきますから
宗教が政治から切り離されていくという
そういうプロセスが
起こってるんですよね。
だから 私は 今日の このテーマは
世界中の歴史の研究者が見るべきだと
思いますね。 おおっと!
日本史愛好家だけではなくて。
さあ それでは 最後に磯田さん
今回 信長と本願寺 11年戦争を
初めて 実は特集して…。
そうですね。
これ 本当の…
今回のはね。 大坂って
東アジアの中でも すっごい恵まれた
場の力の強いとこだと思うんですよね。
で 秀吉は 信長に学んで
ここに本拠を置いて
短命政権に終わるわけですよね。
みんなが望むような
こんな いい場所というと
社会移動も激しいので
長期政権をつくるのに
ひょっとすると向かない面も
あるのかもしれませんよね。
家康は わざと大坂を外すということで
割と長期政権を維持した
っていうことも あるかもしれません。
まあ とにかく このアジアの経済重心が
だんだん だんだん西の方へ
移ってく中で
また この大坂の場というのが
この我々の歴史 世界史に
どんな動きをもたらすのかっていう。
今日 萱野先生によると 本当
世界史的な意義のある回だそうですから。
ちょっと大坂っていうことも
実は考えてみたいなと思いました。
皆さん 今日は ありがとうございました。
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