こころの時代~宗教・人生~アーカイブス▽衆縁に生かされて~民藝(げい)100年[字] …の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

こころの時代~宗教・人生~アーカイブス▽衆縁に生かされて~民藝(げい)100年[字]

民藝(げい)という言葉が生まれて100年。戦後まもなく山陰地方の若者が開いたやきものの窯は、柳宗悦や河井寛次郎ら民藝運動の先達たちに教えを受けた。2008年放送

詳細情報
番組内容
島根県出雲にある出西窯。戦後まもなく、多々納弘光さんら5人の若者が新しい時代を夢見てやきものの窯を開いた。彼らは当時、民藝(みんげい)運動を推進していた柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司、バーナード・リーチらから直接教えを受けた。繰り返し繰り返し鍛錬した技。土、水、火など自然の恵みによって自ずから生まれる美にひれ伏すように日常の器を作り続けた日々。民藝運動が目指した真ずいとは、大いなるいのちの世界とは。
出演者
【出演】出西窯陶工…多々納弘光,【きき手】山田誠浩

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉

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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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神話の里 出雲平野。

中国山地から流れ下る斐伊川の清流が

肥沃な平野を潤しています。

豊かな水に恵まれたこの土地に

やきものの窯 出西窯が築かれて
およそ60年になります。

地元の土や水にこだわって

食器などの日用品が作られています。

原料の精製や窯まわりの仕事など

あわせて15人が共同で
やきものを作っています。

今は 窯の現役を退いた
陶工の多々納弘光さんは

出西窯創立者の一人です。

農家の三男として生まれた
多々納さんが

仲間と共に やきもの作りの
共同体を志したのは

1947年のことでした。

集まったのは 戦後の混乱の中
新しい生き方を求めていた

農家の次男 三男 5人。

誰も陶芸の経験はありませんでした。

地元で たまたま
やきものの土が見つかったこと以外

手がかりのない出発でした。

(桂子)藍染めも終わりましたし
お茶にしましょうか。

煮しめや漬け物が並ぶ
出雲のお茶の時間。

多々納さんたちが作ってきたのは

こうした ふだんの食卓で使われる
実用品です。

(多々納)にんじんと 昆布と…。

これ うちの畑のにんじんでしょ?
にんじんも。

にんじん まだ ちいちゃいですけどね
抜きました。

使い勝手が良く 丈夫で洗いやすい。

生活に喜びと美しさをもたらす器をと
願ってきました。

あ~ おいしい。

(桂子)おいしいですか? よかった。

多々納さんたちが
高価な装飾品ではなく

日常の雑器を
手がけるようになったのは

柳 宗悦の民藝運動との出会いが
きっかけでした。

これは 我が家の?
(桂子)我が家の。 出西しょうがです。

ちょっと黄色みの…
だけど 濃いのね。

無名の職人が作った
かつての実用品に宿る美しさを

現代によみがえらせたい。

その願いに共鳴し 暮らしに役立つ器を
作り続けてきました。

出西はですね
民藝運動が示したことを

志してこられたのかな
ということなんですけれども。

多々納さんが その民藝というものとの
出会いをされるのは

何がきっかけだったんですか?
え~ そうですね。

私 昭和2年生まれでございますから
終戦の時 19でございました。

たまたま私は 長崎の

経済の関係の専門学校に
行っておりまして

昭和20年の原爆の時

一緒に動員になっておりました
同郷の格別な親友が病気になりまして

「君 もうこれ
長崎におったんじゃ

なかなか健康回復も
おぼつかないから

ふるさとに一緒に帰れ」と。

私は 動員をちょっと
お休みをもらって 出雲に帰りました。

そこへ原爆が落ちました。

ですから たくさんの教授やら友人やらが
ほんとに亡くなったし

また いまだになお やっぱり後遺症を
抱えてる友人がいっぱいあります。

それでまあ また その自分の信ずるものが
なくなっておりました時に

ちょうどね 出雲にも
小さい本屋さんに行きましたら

ほんと わら半紙のような

ほんとに ちり紙のような紙に
印刷した

戦後間もなく出版された
河合栄治郎先生の

「自由主義の擁護」という本を
手にしました。

ああ なんか今までは
皇国史観というか

戦争のためにということ
考えていましたけど

自由主義というものが一体何なのか
大変興味ありましてね。

なんか あの
不思議なほどの集中をしました。

そして その河合栄治郎先生の本を
もうほんと読みふけりました。

で それがね なんか

ああ そうなのかぁ 人間っていうのは
お金に恵まれて 地位が高くなって

大きい仕事をしてっていうふうなことが
生きがい…

それが無意味とは言いません。

でも もっと大事なことは ほんとに
薄紙を一枚ずつ積み重ねるように

少しずつ自分の中のものを
なんかこう深めていく

あるいは磨いていく そのこと自体に
この世に生まれた価値があるんだと。

その まあ戦時中 戦前 富めるものは
富みすぎて かえって自らが磨けない。

貧しい者は貧しすぎて
自分を深めることができない。

だから これは やはり経済の制度に
問題があると。

搾取する者と
搾取される者とがあると。

言うなれば
労使というようなものの

もう一つこう 超えられる
経営形態というものもあるはずだ。

そして共同というものを 非常に強く
栄治郎先生 説いておられました。

だから 私ね
それぞれがそれぞれの中にあるものを

限りなく伸ばしていくような
そういう経済と

それから 社会的なその使命といいますか
生活が合一するような

そういうシステムの集団をつくりたい
ということを 夢のように思いました。

熱病のようにかかりました。

毎日毎晩
私の父の家には離れがありまして

河合栄治郎先生の
理想社会をつくろうよと。

共同体をつくろうよというようなことを
夢のように みんなに説き…

まあ 説いたというよりも
強引に引っ張りつけて

それでまあ じゃあ やるかと
お前が言うこと面白そうだと。

初めは だから
やきものじゃなかったんです。

農村で成立する
どんな仕事でもよかった。

でもその時は別にやきものに対する知識が
おありだったわけじゃないですよね?

全くありません。
はあ~!

全くありません。 よく だけど土が出る
っていうことだけで

やきものをやろうって
決断ができましたね。

それが若い日の なんか
どういうんでしょう。

でも なんか
ほんとに不思議なことですわ。

だから やきものの修業が
どんなことか

やきもので飯を食うってことが
どんなことか全く分かりませんでした。

多々納さんは 仲間と共に
生家の牛小屋を改造し

1年がかりで仕事場をつくりました。

基礎的な技術は
工業試験場の技師から学びました。

お手本にしたのは

多々納さんの父 重成さんが集めた
美術品。

最初は 出雲で尊敬を集める
高級な茶道具の陶工を目指していました。

転機をもたらしたのは
柳 宗悦の「私の念願」との出会い。

そこには
芸術的才能に恵まれない者でも

美しいものを生む道があると
説かれていました。

実用に徹するほど 美しさに恵まれる
という考えに動かされ

日常雑器への転換を提案しますが
仲間の合意は なかなか得られません。

多々納さんは
民藝運動に加わっていた

地元 出雲出身の陶芸家 河井寛次郎に
助言を求めました。

先生と ほんとに今日
山田様とお話しするように

ほんとに先生と私と
ほんとにこう向かい合って

お話をさせてもらいました。
黙って聞いて下さいました。

こうこうこうで
共同体をつくりました。

それから現状はこうです
というような話も。

でも なかなか柳先生の本を読んでも
実用に徹するということに

なかなか仲間内の
合意形成できませんと。

黙って聞いて下さいましてね。

先生は ずっと終生
出雲弁をお使いでした。

「よっしゃ ほんならな わしも
お前たちのその船に乗ってやらぁ」

と言って下さいました。

分かったと。 じゃ お前たちの船に
わしも乗るからと おしゃって。

いや~ 涙が出ました。
ほんとにうれしかったですわ。

それはもう暑い暑いお盆前の

ほんとにカンカン照りの日でございまして
私たちは出雲の駅へお出迎えをしました。

麻の 生成りの麻のね 上着とお洋服を
お召しでございました。

で 駅へ 先生 ちょうネクタイで
降り立たれまして

いや~ かっこいいなぁと思いました。

それで その電車いつも
踏切を通り過ぎましてね

50メーターぐらい通り過ぎたところで
急にね

「止まってくれ」と
おっしゃったんですよ 先生が。

あれ 何だろう? と思ったら
自分でドアをお開けになりましてね

で もう小走りに 後下がりをして
行かれたのが…

そしたら そこに
もう この真っ黒いやきものがね

軒先に累々と積んでありました。

先生がこれを持ってね

はあ~ すごいすごい すごいすごいって
ほんとに大変な喜びようで。

河井さんは これのどこが
そんなにすばらしい 美しいと…。

全部なんですよ。

もうね その時の話はもう思い出しても
なんか… 詰まりますけども。

考えてみろと。

お前たちもやってるように
船の上で使うんだから

それで 底が広くないと
ひっくり返るだろうと。

で つぼでもご覧になりますように
ほんとは 陶工が作りますのには

底は小さいほどいいんです。

これ「底切れ」といいましてね

底が広いと非常に
これが割れる確率多いんです。

それがあえて これが広いのは

そういう危険を考えながらも
底が広いのは

これは ひっくり返らん 船の上で
ということが これだけの形の広さだと。

そして ここに ぽっちが3つありますのは
船板が焼けんように。

あっ ぴったりだと焦げてしまうから。
焼けますからね。 船板が焼けんように。

そして この大きさは 人間が炭を
カッカ熾った炭火を入れて

出したり入れたりする
最大最小の大きさが これだと。

で この形もそうだと。
恐らくこういう形になったのは

炭を出し入れしやすいようなことから
生まれた形だと。

そして ここに
ひさしがありますよね?

雨水が入らんように
ひさし付けてくれということで

恐らく
このひさしが付いたであろうと。

それで裏に3つ穴がありますよね?

これは いわゆる
装飾のためでも何でもない。

いわゆる熾が小さくなりましたら
風の吹く方向に こう持っていけば

中へ す~っと潮風が入りますと
中の熾が またふぁ~っと熾ってくる。

それで熾りすぎたら
横にすりゃいいんだと 風に向かって。

そういうこの3つの穴は だから
ここの辺が炭火のある場所ですから

この位置も ただ勝手に
穴を3つあけたんじゃないと。

そのいわゆる機能の上から
どうしてもこれが ギリギリの寸法。

だから この形というものは
もう何もかもが

作りやすいうえで
また使ううえで

どうしても
それほどの条件が整わないと

船の上で使う火鉢としての
機能が果たせん。

だから どこから見ても これは
機能 つまり働き あるいは用

そのものからしか生まれてない。

ああ 見とったら こうつけたら
かっこいいだろうな なんて

みじんもそういう 一つの造形的な
いわゆる なんか思いはないんだと。

だからもう 万事が
用途から生まれていると。

これは先生 生涯 大変お好きでした。

河井家には ず~っと玄関のところに 終生
今もあると思います。

大事にしてらっしゃいました。

まあ とにかくお前たちは
こうして仕事を始めたんだから

迷わずに 皆さんが
お前のとこの湯飲みでお茶を飲むと

なんか気分がいいっていうような
とにかく ふだん使いのものを

せっせと作れと。
何も考えずに せっせと作れと。

ちょうどこのように美しさが ちゃんと
抱き抱えて離さん世界があるから

柳の説いてるのは そのことなんだと
だから 用に徹しろということが

その晩の先生の繰り返しの話でもあり
結論でもありました。

えらいもんでねえ 私がこの本を
一緒に輪読したりして 言ったって

「何言っちょるか お前。 お前 やれ」
とかいう程度のことでしたけれども

寛次郎がおっしゃいますとね 一発
もうそれで決まりました。

みんな それ以来ね もう
かれこれ65年ぐらいになりますよね。

昭和25年ですから。

だけど今の若者たちに至るまで

これはもう出西の作陶の憲法になりまして
とにかく用に徹しようと。

仕事の方向は定まったものの
陶工の道は険しいものでした。

鉄分が多い出西の土には
収縮が強く 扱いにくい性質があります。

焼くと亀裂が入ってしまったり

食器に不可欠な白い化粧土をかけても
剥がれ落ちてしまったり

仕事をしても仕事をしても
収入にならず

薪代にも事欠くような
困窮の日々が続きました。

そんな多々納さんたちに手を差し伸べ
窯の存続を支えてくれたのは

鳥取や松江などで民藝運動に関わっていた
先達たちでした。

自分が収集した古き良きものを
制作のヒントにと提供し

できた製品を引き取って
窯の経営を助けてくれました。

多々納さんたちは
互いに作ったものを批評し合い

仲間で分担して

土や釉薬 焼き方などの研究を
続けました。

順番に日本各地の窯場に出かけては
技術を学び

その成果を分け合いました。

まあ 熱心に入り始めましたものの

どうしていいのか
さっぱり分かりませんでした。

特にね 食器類というのは
白い食器が欲しいわけで

白いものが どうしても
欲しゅうございますよね。

つまり私たちの粘土というのは
こういうふうに

少し色がついてます。
鉄分があります。

それを白くしようと思いますと
上にお化粧をしてやらなきゃいけません。

ところが この赤土は
とっても収縮 強いんです。

どうかすると出西は
18%ぐらい収縮率があります。

ところが この白い土には そんな
収縮の強い白い材料ってないんですわ。

収縮率が違うと。
違います。

どうなりますか そうすると。
こんなに剥がれてしまいます。

あっ こういうふうに 剥がれてしまう。
つまり焼く途中で

白い土は収縮しません

この土の方は収縮しますと
剥離します。

ああ できたと思って
窯出して見ると

なんか持ってるうちに 次々…
例えば こういうふうにありますよね?

白の厚さが厚ければ厚いほど
ポロポロ ポロポロ みんな落ちてしまう。

泣くような思いです。

だから随分これには時間がかかりました。
この白が合うのに。

民藝やってらっしゃる
いろんな先生方にも

いろんな教えを
受けられたと思いますが。

限りなく しつこいほど
おすがりしましたから。

柳 宗悦は 河井寛次郎 濱田庄司
バーナード・リーチなどの作り手と共に

各地の手仕事を発掘し
守り育てることに力を注ぎました。

宗教哲学を専門とした柳は

自然に従い
無心に作られた実用品の美しさに

宗教的世界と通ずるものを
見いだしていました。

多々納さんたちは 自分たちが作るものを
柳らに批評してもらいながら

技術だけでなく 作り手の心のありように
目を開かれていきました。

その中で でも濱田先生のは
一番厳しかったですけどね。

でも一番 あの… 何ていうか

厳しかったほど
やっぱよかったですよ 結局。

河井先生はね あんまり「これはダメだよ」
ってことは絶対おっしゃいませんでした。

まあ例えば この湯飲みですと
「う~ん 口づくりいいな」とかね

部分をとてもお褒めになりました。

ああ 部分だけおっしゃる時は これは
まだダメだなと こっちが見当をつけます。

「これはダメだよ」ってことは
おっしゃいにくい方でしたね。

とにかく少しでもいいとこがあれば
それを うんと褒めて 元気づけて

というような励まし。
濱田先生はもう こてんぱん。

ちゃんと こういうふうにしょげますとね
よく心得ていらっしゃいましてね

「まあ 帰りにな 五条坂に寄って
あめ玉しゃぶらせてもらえ」って言って

にやっとお笑いになるのが いつもでした。

どうしろっていうふうに
濱田さんは おっしゃるんですか?

濱田先生は もう だから
美しさが分からなきゃいけんと。

その時 私たち 大変な自信で

とてもいい湯飲みができたな
と思いましてね

何点か持っていきました。

そしたらまず 真っ先に出会い頭に
こうなさいましてね

「お前 この湯飲みが
何ミリこれを削って取れば

形がさまになるか分かるか」と。

この高台のですか。
ええ 高台の高さ。

「何ミリ削れば これ
バランスの取れた形になるか

分からんか」と おっしゃいましてね。
「え~ これでよくありませんか」。

「高いよ。 4ミリほど落として…」
こういうふうになさいましてね

これで当たり前の湯飲みになる。

それぐらいなことは…

だから どこが醜くて
どこが美しいっていうことが

どういうふうな仕事であるべきか

それぐらいはもう お前たち分からないと
甘ったれるなと

もう かつての民藝品が
例えば こういうものが

生まれた時代じゃないんだぞと。

この人たちは
非常に厳しい社会環境の背後の中で

また自然に
今よりみんながほんとに敬けんな

自然と合一するような
暮らしをしとったから

こういうものが生まれたと。

だけど今はもう
そういう背後の一切は崩壊して

現代は 言うなれば その
非民藝の時代。

母や父も毎朝 神様に御仏飯を供え
御灯明をともし

ほんとにあの ほんとに神様仏様の
ましますことを信じ切った暮らしを

そんな宗教の講座なんかを聞かなくても
敬けんでございました ほんとに。

だけど今は そういう背後のもの一切が
失われていると思わなきゃならんと。

だからといって
芸術家になれということじゃないと。

でも 古いものの美しさを
しっかり見届けろと。

なんともいえぬバランスがあると。
調和があると。

そんなあの… やっぱり
ちゃんと さまになってると。

昔 人々の生活が
ちゃんと自然の中にあった時に

…用に向けて作られたものには。

まあ 例えば
自然に生えております草花なんかで

それは そのままで もう
美しいように。

その美しさが分からなきゃいけんと。

同時に 技術はとことん訓練しろと。

技術は。 は~。
もう だから

この湯飲みを作れば
恐らくこれは まだ30か50か

たかだか100まで作ってないだろうと。

これを1, 000
できりゃ10, 000 繰り返すと

こんな無駄なものは出てこんよと。

繰り返すうちに 真実 無駄なものは全部
繰り返しの中で 洗い流されて

ちゃんとした形にまとまっていくもんだ
というふうにおっしゃいました。

それは分かります 今
ほんとそうだと思います。

私は 特に
取っ手屋さんでございましたので

この取っ手付けを随分いたしました。

繰り返しますとね
第一 無駄な手つきがなくなります。

ほんとになくなります。

ほんとに繰り返し繰り返し
しますうちにね

河井先生の
「仕事のうた」というのがありますが

「仕事が仕事をしています」
というような

そういう世界にたどりつけます。

俺が作ってんじゃなくて
仕事が仕事をするような

なんか抽象的な言葉になって
キザな言葉ですけれども

河井先生がおっしゃるとキザじゃないけど
ほんとにそう思いますよ。

ああ 今日は 今まで何百作ったとか
思わんようになります。

ほんとに一つ一つが初めてのような
ほんとそんな気になるもんですわ。

イギリスの陶芸家 バーナード・リーチは
何度も出西窯を訪れ

後に窯の定番となった
洋食器の基本を教えてくれました。

祖国 イギリスの思想家 ウィリアム・モリスの
工芸運動にもつながる

多々納さんたちの共同体に心を寄せ

しばしば 海を越えた手紙を
送ってくれました。

イギリスの方はね なんか
私たちは作業着というと

もうボロボロでも一向にいいんですけど
先生は 毎日 白いカッターに着替えて

ネクタイを締めて
そして ブレザーをお召しになって

そのかわりエプロンをなされて
工房に こう… ジェントルマンです。

現れます。
まず それ びっくりしました。

特に私たちのために
取っ手を付けることを教わりました。

この 土を伸ばして手を付ける。

つまりこれ「ウェットハンドル」という
手法だそうですけども。

土の塊を棒状にしまして
で 手に水をいっぱいつけまして

それでこう引っ張り出しますとね
そうすると土のこういう棒ができます。

それをちょうど整えまして
ぐっと取っつけて

それで ぐ~っと曲げれば なります。

昭和39年の10月
リーチ先生がおいでになる時は

3日ほど 君のところでひとつ
新しいものを作る

相談に乗ろうと
言って下さいまして

大喜びで お迎えをしました。

ほんとに今 思いますと
まあ 極楽のような勉強会でした。

これからは まあ
コーヒー茶碗や紅茶茶碗も

とても日本の暮らしも
どうしても なきゃならんもんだから

コーヒー茶碗は こういう形の
コーヒー茶碗 あした試みてみよう。

そしてまあ これは紅茶茶碗のための
デザインでございますね。

それから これはまあ ピッチャー。
水やら…。

ヨーロッパの方 随分
牛乳をたくさんお飲みになるみたいで

食卓の上に
こういうものが どうしてもいる。

それから これも何種類かの
ピッチャーでございますが

今ここに この形のものがあります。

これは リーチさんが
お描きになったものですか?

ええ。 リーチ先生が
こういうものをお描きに… ただ

原本は焼失しました。

これはそれの写しでございます。

残念ながら
ほんとに申し訳ないことしましたが

でも やや その時の先生の
ペン描きのデザインは

ほぼ これで推し量れます。

君は エッグベーカーをやれ

僕は ほんならピッチャーを作ろうとか
いうふうにして

みんなが 仲間がみんなそれぞれ
手分けをしまして 始めました。

ところが なんかこのスケッチを見ながら
なんか要領がとれなくて。

どうも先生も そんなに

晴れ晴れとしたお顔におなりになれる
ようなところまでいきませんでした。

う~ん… もう少しだ まだだな
という感じです。

ところが午後になりましたらね

ちょうど布志名の舩木研兒様が
おいで下さって

この方 さすがにまとめがうまかった。

ほんとに あの~ なんかこれを見て
すっす すっす やられるんですよ。

それで私は 「わあ 研兒さん
やっぱすごいな」って言って

そうする私たちも なんかほんとに
なんか まとまってきましたんです。

みんなが。 どういうことだったのか
分かりませんけどね

私たちもうれしかったし
リーチ先生も とってもそれ喜ばれました。

「君たちも
すごく仕事が生き生きしてきたのが

よく分かるもんだな」と言ってね
喜んで下さいました。

でも これなんか その時のもので
リーチ先生の このデザインですね。

あ~ はあ はあ。
これが これになります。

ただね その後
大火をいたしまして 出西は。

で これは炎の中で
でも割れずに助かりましたのは

何点かしかありませんが

真っ黒のなりましたのは
すすを食らってます。 あ~ すす。

ですが よく見ますとね やっぱり
リーチ先生のものには無理がない。

私たちが作ると なんかどっかに
やっぱりまだ無理がありますが

先生のは もうほんとに
すばらしいですわ。

これは リーチさんの作ですか?
ええ 先生ご自身です。

特にこの取っ手にね 爪の跡があります。

これは リーチ先生の爪の跡です。

先生の爪の跡ですけど これ。

大変な記念でございます。

でも そういうことがあって
みんなが とてもうれしかったですわ。

そうする夕方 午後 お帰りになる時は
小雨が降りだしましてね

なんか傘さして
小雨の中で先生を見送る時は

なんかみんなが 何となく もったいなくて
またお別れをするのが とてもつらい…

つらいというか なんか
思いが迫りまして。

なんかみんながほんとに
あの時は みんながおしなべて

なんか少し感涙をもちながらお見送りした
日のことは よく覚えております。

リーチ先生は 非常に
たどたどしいけれども

よく分かる日本語で

「いいか そうだな お前たちな
自分の作ったカップで こう飲んでみて

唇に ほっとぬくもりがくるか
温かみがあるか

喜びがあるか」って言われるんです。

え~ 口に喜びがくるかって言われても
大変難しいご質問でしたけど。

「取っ手を持って手にぬくもりが伝わるか」
って言ってね 言われましたわ。

そういったことで 自分の仕事の今後を
判断しろというようなことを

仰せになったことはね なんかほんとに
今でも よ~く覚えております。 はい。

「私たちはそんな才能がないもんですから」
って言うと

あのいっぺんも
お叱りになったことのない先生がね

その質問の時だけは
本気に怒られました。

何をお前は言っとるかと。

お前 お父さんと おっかさんが

そのお父さん おっかさんそれぞれに
お父さん おっかさんがあって

十代遡ってみろと。

何千人の自分たちの遠いおじいさん
おばあさんが 遡ればあるか

百代遡ると もう数えきれんほどの
無数の人になるそうだと。

そうすると お前の血の1滴の中には
もうありとあらゆるものが内在している。

つまり恵まれていると。

才能がないなんて そんなお前
そういうね 生きている自分に対する

そんなことは 絶対いけんと。

お前 口を開けろと。
俺がお前のおなかの中から

才能とやらを引っ張り出して
やろうじゃないかって言って。

ほんとその時の先生は怖かった。

そのことは 柳先生はまた
非常に言葉をかえて厳しかったですわ。

それは
昭和28年のことでございまして。

鳥取の図書館で
柳先生は記念講演をなさいました。

それは「こころの場」という題の
記念講演でして。

鳥取には
大変有名な話になりますけども

因幡の源左という妙好人

つまり市井の中で
ひたすらにお念仏を唱え続けることで

ほんとに泥土の中から
ハスの花が咲くように

大きな如来様といいますか 仏様の
知恵と慈悲の光が見事に花が咲く。

それを妙好人と申しますね。

で 因幡の源左という念仏をとてもよく
なさったお年寄りの話をなさいました。

自らのいわゆる凡夫 至らなさかげんを
ほんとにいつも振り返りながら

お念仏の暮らしを深めたり
喜んだりしておったと。

で 民藝が
いわゆる才能のない者でも

美しいものを かつて生んだ
ということを信じて

私たちも才能がございませんが

そういう美しいものが
生まれるでしょうかということを

真剣に求めてる若者たちがいると。

それは 出雲の出西という窯の
若者たちだと。

彼らは
大変念仏を喜んでいるそうだと。

はてさて 彼らが
才能がないと言いながら

ほんとに自分の才能のなさを
知ってんだろうかと。

自らの小ささを知ってるだろうかと。

これはね もうほんとに震え上がるほど
恐ろしい言葉でした。

濱田先生が 民藝という言葉に甘えるなと
言われたのもそうだと思いますし

河井先生が才能とやらを
口の中から引っ張り出してやろうかと

おっしゃったことも
そうだと思いますし

ほんとにあの 大いなるものに生かされて
今 生きてるということに

真実 気付いたり それがほんとに
自分の身につけば それは励みますよ。

それは2階からぼた餅がおりるのを待って
寝込んだりはしませんわね。

そこんところをね 厳しく… 随分厳しく
教えを授かったと思いますよ。 はい。

出西窯は 地元の土や木の灰など

自分たちに与えられた自然の恵みを頼りに
器を作ってきました。

粘土や釉薬になる灰を精製するには

根気強く
何度も水でこさなければなりません。

斐伊川の豊富な水に
助けられての仕事です。

あのね あそこに
積んでおりましょ 赤土が。

あれは山から掘って運び込んだ土を
何年も寝かせます。

そしてそれを そこんところで
水を入れながら 水でこしていきます。

だから いっぺん これは
粗いものやら石を取り除いた

こした土が「おろ」と申します。

ここに これはもう
仕上がり寸前でございますね。

あ ここで
更にそれを練り上げます。

これは練ってるところですか。
はい。

これは こういうふうに
熟成させます。

あ 熟成させる。
はい。 じゃ ここで…。

バクテリアが非常に大きい
おかげを受けます。

昔の人たちは 酒の飲み残しとか
酢の物の残りとかは

全部 土にぶっかけたといいます。

それは非常に理にかなってることで。
それによってバクテリアが…。

バクテリアが喜んで繁殖しますと
非常に粘りの少ない土が

こうして ここで
備蓄させます間に

非常に使いやすい 粘りのある
癖のない土に変わってくれます。

この辺りは その 灰を…
釉薬を作ってらっしゃるところですか?

はい そうです。

これ全部 広葉樹の灰を
この中に灰を入れます。

ちょっとこれ取りましょうか。

すいません。
いえいえ。

そうしますとね この中には ほら…。

こうして灰が…。
これも灰ですか?

灰です。
私の家で 藍を建てるのに使いました

一番灰汁はないけど
まだ強いアルカリがありまして

それを アルカリをほとんどもう
なくしきらんといけませんので

それで ここへ灰を入れて
毎朝 水を替えて…。

その水は この前を流れてる水ですか?
そうです。

この斐伊川のね これは斐伊川から来る
おかげさまの水で

ほんとに大量にいい水が毎日ありますので
ここから水をくんで入れまして

それで今は かくはん機がございますので
ざ~っと かくはんしまして。

何か月もいたします。 何か月も?
はい。

ほんとに長いこといたします。
そうすることによってどうなるんですか?

そうするとアルカリのない灰になります。

それが釉薬になります。

その灰をずっと乾燥させます。

あ~ この鉢に入れて
乾燥させるわけですか。
そうです。

そうすると こういうふうな ほら
これはもう釉薬そのものです。 これが。

超微粒で そして ほんとにこういう
粒子の小さい灰でございますね。

自然のままの材料を
そのまま 使わしてもらいますとね

なんか ほんとに
私たちの力をはるかに超えて

それほどで
美しさが恵まれるような気がします。

何度も剥がれ落ちて泣かされた
白の化粧土。

鉄分の多い土に合う化粧土を
求めたことで

ぬくもりのある白に恵まれました。

代々の陶工が力を合わせ
釉薬の調合や焼き方の研究を続けた青。

30年以上かかって
澄んだ青にたどりつきました。

私たちのやきものの仕事というのは

自然のそういう大きい営みの中の

ある一部分を背負ってるわけで。

だから やきものを焼く
土が固まる

あるいは 表面にかけた釉薬が
ガラスになる。

これは まさにその
地球の営みそのものの なんか

その中から出てくることで

だから私としては
それを 素直に素直に

そのいわゆる 恵まれた材料を
やっぱり生かすということ。

だからまあ 今 なんか
偉そうなこと申し上げましたね。

その大きな自然の恵みとか
自然の救いとかって申しましたが

そういう恵みが 本来あるんですわ。

そういう地球の営みそのものの中に。

なんかそんな気が
だんだんするようになりました。

年とりすぎたせいかも
分かりませんけども。

出西窯は 共同体という形に
こだわってきました。

共に出資し 同等の議決権を持つ
企業組合として運営されています。

多々納さんの時代には
給料も平等に分け合っていました。

しかし その理念が
暗礁に乗り上げることが

何度もありました。

その時 支えとなったのが

窯の草創期から教えを受けていた
念仏者 山本空外の存在でした。

広島の大学で哲学を教えていた山本は
学生と共に被爆。

出家して
出雲の寺で住職を務めていました。

あ~ これは こんな寄り合いで
みんなが無責任になって

なんか あいつが悪い あいつが悪い
っていうようなことばっかり

言っているようなことでは
これは ダメだぞと。

共同体もここまでだと。

むしろ みんなが自分で責任を負って
損得をかけて

また 造形の世界においても
その人のそれこそ

今の話とは矛盾しますけれども
その人の才覚の限りを

やっぱり自分で結果を受ける方が
本来じゃないだろうか。

共同っていうのは ひょっとすると
みんなをそれぞれを伸ばすどころか

ひょっとするとダメにしやせんか
というような思いが

だんだんだんだん大きく膨らみましてね
そうだそうだという仲間もいたし

はあ もう俺やめようと。
共同も解散していこうというふうな

ほんと そう思ったことがあります。
はあ~。

それは ただいっぺんきりな
思いつきじゃございません。

なんか だんだん
そんなふうなところへ

自分自身を追い込んで
いかざるをえんことがありました。

その時にね 大きな救いを得ました。

もう空外上人に
随分お導きを頂きましたけれども

私 到底もう 共同体をみんなと一緒に
運営していく自信がなくなりましたと。

もう幕 閉めようと思います
ということを言いましたらね

ほんとに海の潮さいが聞こえるような
静かなお部屋でしたけど

う~ん… 多々納くん
それは大変だねと。

だけど 君 ちょっと質問したいけど
君は 朝から晩まで

ああ もう日暮れかと思うほど
仕事に集中したことってあるでしょ?

はい。 ございますと。

本を読んでも
そういうことありましたか?って。

はい それはございますと。

時を忘れ 周囲に誰がおるかも思わずに
集中したことってございますと。

それですよ。 人のことが気になるほど
暇な人の言うことは

誰も聞きませんよって言われた。

その論理 お分かりでございましょ?

つまり 人の そのいわゆる

立ち居振る舞いや言動が
気になるほど暇

つまり自分の仕事に
もう集中しておれば

外の人が何をしようと
雨が降ろうと風が吹こうと

そんなことは関わりなく 日々の自分の
今なすべきことに集中できる日暮らし。

空外は 私は広大で

学生たちに ただの一度も
勉強しろと言ったことはないと。

それはやっぱり指導教官の私が
もうほんとに集中して

ひたすらに
研究に打ち込んでいる姿を見れば

学生は黙って勉強してくれますと。

本来 教育はそういうものだと
私は思ってると。

だから君も 出西窯に
波風があろうと どうであろうと

あなたが今 なすべきことを懸命に
ほんとに懸命に

ああ もう夜が来たのかと思うほど
集中してごらんなさい。

人のことなんか一切気にならんほど
集中してごらん。

それは おのずと答え出るから

もうちょっと待ちたまえと
おっしゃいました。

これはなんかね 大変な
あの~ 何というか

山上の垂訓に匹敵するような
お言葉でございましてね

その日の夕方 帰りましたけど

日本海のその日の夏
日没の美しかったことも忘れませんし

なんか思えば 涙が込み上げるような
感動に満たされました。

そしたら その秋の遅く
今度 お正月3日に出西窯行くから

その時に土のタイルを 土のままで
人数分 作っておいてくれと。

君のところの仲間が
10人おれば10枚

とにかくみんな一人一人
書いてあげたいからって

おっしゃいました。

その時 お書き下さったのが
これでございます。

…という文言を
みんなに

同じように
書いて下さいまして。

空外上人様 大変難しい言葉で
何のことかさっぱり分かりませんが

これ どういうことですか?
と言いましたら

何もかも衆縁
何もかも おかげさんだから

衆縁による故… 何もかも ありとあらゆる
ことの縁によって生ずるんだから

自分がこれをやりました
というような手柄なんてないんだと。

だって今 あなたたちが…。

みんなが集まっておりますけど
十数名おりました。

あなたたちが吸っている空気
考えてごらんよと。

これは 今 そこあたりの
松の木やら草やらからも酸素は頂ける。

だけど 成層圏を流れる
大気の流れで

アマゾンの大森林の酸素もあれば
シベリアの森林の酸素もある。

海の海そうから生まれる酸素もある。

そういうありとあらゆる
宇宙の営みの中で

その恵まれた酸素を
誰も金も払わずに

胸いっぱい吸い続けて
今 いのちが恵まれてる。

指一つ動くのも 酸素が吸えるのも

何もかも大いなる
いのちのおかげなんだから

だから自分の手柄なんて ありようもない。
あるはずもない。

そこへ 君たち共同体は
腰を落ち着けなさいよと。

しっかり そこに
そのことわりをわきまえて

みんながそれぞれがそれぞれに
頑張りなさいと。

「己己圓成」とも書いて下さいました。

それぞれが それぞれなりに
それぞれが全うされていく。

だから対句になりますよね。

おかげさまを生きる。

そして それぞれが それぞれを
実らしていく。

それしかないんだと。

(念仏を唱える声)

(鳴き声)

多様な手仕事の共同体を夢みていた
多々納さんは

結婚する時 妻の桂子さんに
「機織りを学んでほしい」と頼みました。

桂子さんは
自分で育てた綿を紡ぎ

藍で染めた糸を織り上げています。

桂子さんの織物は

食うや食わずだった時代の
一家の生活を助けました。

(桂子)これがもう一絞りできないんです
力が弱くなって。

まあ いたって
こういうふうに染まりゃあ。

多々納さんは
出雲のさまざまな職人たちと手を携え

手仕事を守るつながりを
築いてきました。

藍を建てる時に使う木の灰。

水に溶かし 上澄みの
強いアルカリ分だけを利用します。

残った灰は 出西窯に運ばれ

更に精製されて
やきものの釉薬になります。

ものを作る時っていうのは 何か作り手が
こういうものを作りたいとか

意図するっていうことが
ありますでしょうね。
あります。

時によっちゃ ほんとに夜中にね
ハッと気付くこともあるんです。

寝とって… そういうこと言うと
変な言い方ですけど。

ありゃ こうだ そんなやり方あった。

例えばね
なんか少し無駄な道に入りますが

バター入れをたくさん
よく頼まれて

半ポンドぐらい入るバター入れ
作って下さいって

よく頼まれることがあって。

黒無地では
なんかちょっとさみしいな。

なんかあんまり邪魔っ気でない

それでいて嫌みのない模様のつけ方
ないかしらと思った時に

友人に井谷さんという
和紙を作る仲間がいますから

そうだわ 井谷さんが あの紙を使って
なんか幾何学模様なら

シンプルな模様で
いいのかも分からんと思って。

随分これも工夫しましたけど。

これは いっぺんね ここに
柿薬というのをかけます。

全面に。 そして その柿薬の上に
三角形にした和紙を のりで貼ります。

これも貼ります。

そして ざぶ~んと
黒釉を上にかけます。

それで 乾いた頃に 針でもって
その和紙をピュッピュッと外しますと

ここは 柿薬の上に並薬がのって

それ 重なりますと黒になります。

で ここは 上に並薬が
のっかりませんから 柿になる。

そうだと思って 随分これ
この方法 やり始めて面白くて

そうしましたら たまたま
濱田庄司先生がおいでになりましてね

「これは 君 面白いことやったな。
これ いいよ。 これは成功だ。

和紙で蝋抜きをする代わりにする
ってことは極めて間接性があって…」。

間接性?
間接性があって。

つまり生々しい模様の
直接の嫌らしさはないと。

だから こういう間接な方法で
模様をつけるのは

かしこい方法だぞと おっしゃって。

河井寛次郎なんかは
今 歴史の真っ先にいるんだぞと。

何もかもし尽くされたように
思うだろうけれども

まだ無限に
新しい道が開けているから

前に向かって まっすぐに
見つめながら進めって

おっしゃったことと

じゃあ わがままをなくせということとは
決して矛盾はしません。

繰り返しであれ 新しい仕事であれ
やっぱり自分のわがままだけは

自慢の心っていいますか まあリーチ先生
よくそうおっしゃっていました。

君たちは 私どもよりも鼻は低いけれども
でも どこでも鼻が高いということは

ものを作る者にとっては
一番邪魔なもんだと。

だから てんぐにはなるなと。

自慢の心を 私もいつも用心してるから
鼻たかだかな自慢は

美しいものを作る一番の邪魔ものだから
鼻たかだかは いけんよと。

ここにございます
このリーチ先生のエッセー集が

昭和55年かな?
…に出版されておりまして。

で ず~っといきますとね 何ページだったか
ちょっと分かりかねますけども

「日本の陶工への別れの手紙」という。

「日本の陶工への別れの手紙」。

はい。 なんか一章がございます。

これは読んでみて びっくりしました。

柳 宗悦は
しょっちゅう リーチ先生に対して

現代の美術工芸の作家たちは
みんな 自我 自己の 自らの

「自我の桎梏」という言葉
書いておりました。

なんか がんじがらめに
自分を縛りつけるもの

というような意味のようですけども
めったに日常語には使いませんよね。

「自我の桎梏」の中で一歩も出れずに

ほんとに美から遠ざかってしまってると。
現代の美術工芸は。

かつて中世においては 非常に神に対する
敬けんな思いで ものを作っていたと。

ところが どういうわけか
現代は自我の主張の中で

美しさからは遠ざかってると。

だけども 柳は どうすれば
それから乗り越えられるかは

その手法については
一切言ってくれなかったと。

だけど 私は
「Shussai Brotherhood」とありましてね

「兄弟窯」というような
意味のようですけど

「Shussai Brotherhood」で
大変な体験をしたと。

彼らは私を
ほんとに信頼してくれてると。

私も出西の陶工たちを
深く信頼していると。

そのお互いの信頼の中で
ものを作り始めた。

初めは そうでもなかったけれども

だんだん生き生きしたものが
生まれだした。

で その生き生きしたものの良さを
彼らも認識して とても喜んでくれたと。

そのことも とてもうれしかったと。

一体何が そういうものを
生ましめたであろうか。

で それは その作品というのは
リーチ自身のものでもなければ

出西のものでもない。
双方の信頼の中で

私のデザインに まあ 忠実にというか
…を作ったものは

非常に生き生きして
それはもうお互いのものであったと。

だけど何が それを美しくしたであろうか
というところに

その何がそういう美しさを損なうものから
桎梏ですね そういうものから

解き放つ力は何だったであろうか
ということがあります。

それで それは まさに
「Life Itself」という言葉がございます。

「Life Itself」に対して
いろんなお言葉がありますけれども

私はやっぱりリーチ先生の
長いお導きの中で思いますことは

やっぱりそれは いのちそのものであった
というお言葉が

あるいは いのちそのものの力であった
ということが

一番なんか 私どもには納得できる

今までのリーチ先生の
もろもろのお言葉から推し量りましてね

で ああ そうなんだと思って。

柳先生が日本民藝館に
あれほどお集めになって

大変な喜びでもって
お集めになったものっていうのは

おしなべて なんかそういう
ほんとに生き生きした

自然のいのちの輝きのようなものが
みんな あると思います。

それで その「Life Itself」という言葉を
お聞きしましてからはね

なんか私 出西窯へ行きます道すがらは
ほんとに川沿いの道でございまして

四季折々 ついこの間まで
曼珠沙華が咲いておりましたし

それから今は 嫁菜菊のような花が
咲いております。

その時 「ああ Life Itselfだな」って
ほんとになんか ふっとそういう言葉が

心に浮いてくるような思いを
ほんとにいたします。

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