100分de名著 日蓮の手紙 [新](1)「人間・日蓮の実像」[解][字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

100分de名著 日蓮の手紙 [新](1)「人間・日蓮の実像」[解][字]

法華経こそ苦悩にあえぐ民衆を救う最高の経典だと確信した日蓮は二度の流罪をはじめとする迫害にも屈せず「法華経の行者」としての生涯を貫く。その背景には何があったのか

番組内容
日蓮の手紙を読むと、彼が法華経の中に見出した神髄がにじみ出ている。一人ひとりの生命の絶対的平等性と尊厳性を徹底的に擁護し、その可能性を引き出すことを教えた法華経の人間観。それは権力にとっては都合が悪く危険なものだった。日蓮は、経文の通り迫害を受ければ受けるほど自身の正しさが証明されると感じ使命感を深めてた第一回は、日蓮の生涯や人となりを紹介しながら、法華経を根幹にした彼の深い人生観に迫っていく。
出演者
【講師】仏教思想研究家…植木雅俊,【司会】伊集院光,安部みちこ,【朗読】山内圭哉,【語り】目黒泉

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格

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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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(読経)

日蓮が生まれてから 800年。

各地で 記念行事が行われました。

鎌倉時代を生きた日蓮は
他の宗派を強く批判したため

攻撃的なイメージが
定着しています。

しかし 「日蓮の手紙」を読み解くと

強い信念を持ちながらも
人情味にあふれ

人々を優しく思いやる姿が
浮かび上がってきます。

残された 340通に上る手紙から
日蓮の人間像に迫ります。

♬~
(テーマ音楽)

♬~

「100分de名著」 司会の安部みちこです。
伊集院 光です。

さあ
今月 ご紹介する名著は こちらです。

「日蓮の手紙」という本ですが
伊集院さん ご存じでしたでしょうか?

もう既に 「ご存じないでしょ?」と
思ってるでしょう?

いや でも
日蓮の名前は ご存じですもんね。
はい。

もちろん 日蓮という名前は
聞いたことありますけど

だから どういう考え方で
どういうことをしたかは

あんまり分かってない。 ウフフフ。
はい。

鎌倉時代の人で 法華宗

後の日蓮宗の
開祖である人なんですけれども

結構 筆まめだった人で 今でも 300通を
超える手紙が残っているんですね。

ですので 今回は その「日蓮の手紙」から
日蓮の教えと実像に迫っていきます。

では 指南役 ご紹介します。

仏教思想研究家で作家の
植木雅俊さんです。

どうも。 よろしくお願いいたします。
お願いします。

植木雅俊さんは 学生時代に
物理学を専攻したものの

東京大学名誉教授の中村 元さんとの
出会いをきっかけに

原始仏教に惹かれ 研究を始めました。

その後 「法華経」の平等思想に感銘を受け
自ら翻訳。

「法華経」を至高の教えと説いた
日蓮の研究をはじめ

「日蓮の手紙」を現代語訳して 解説。

その魅力を伝え続けています。

日蓮は
どんな内容の手紙を書いたんですか?

内容的にはですね…

そういう手紙から成ってます。

宗教の開祖 しかも 誰もが知っている
名前の方の残された文章といわれると

教えとか 法典 経典みたいなものだと
やっぱ ちょっと 堅すぎて。

お手紙って言われると ちょっとだけ
肩の力が 僕なんかは抜けます。

では まずは日蓮が どういった人生を
歩んだのか 見ていきましょう。

こんばんは 日蓮です。

ちょっと怖いイメージありました?

でも 私の生まれた鎌倉時代
いろいろあって 大変だったんですよ。

平安時代末期 武士の力が大きくなり

源平合戦を経て
鎌倉幕府が成立。

しかし その後も
幕府内での権力争いは続き

政治は安定しませんでした。

その上 大地震 飢饉などが次々と起こり
多くの命が失われ

民衆は 苦しい状況にありました。

そんな中
新しい宗教者が続々と登場します。

彼らは皆
民衆のための仏教を目指していました。

鎌倉新仏教の開祖のほとんどが
名家の出であった中

日蓮は 安房国 現在の千葉県鴨川市辺りの
漁業を営む家に生まれました。

幼い頃から聡明だった日蓮は

その土地の領主の目に留まり
援助を受けます。

12歳になると 地元の清澄寺に入り…

その後 比叡山を中心に 高野山
四天王寺など 多くの寺院で修学します。

時は 末法の世。

当時 世の中が乱れているのは…

日蓮は お釈迦さまの教えの
原点に返ろうとし

あらゆる差別を超えて 誰もが仏陀
目覚めた人になれると主張する

「法華経」を
よりどころとしました。

そして 1253年 法華宗を開いたのです。

…と 唱え始めました。

この時 日蓮32歳でした。

鎌倉で
本格的な布教を始めた日蓮は

災害で苦しむ民衆を前に
嘆いていました。

幕府が 具体的な対策をせず

ただ 諸国の寺社に
祈祷を命ずるばかりだったからです。

そこで 日蓮は幕府に進言します。

1260年 「立正安国論」を
時の権力者 北条時頼に送ったのです。

「立正安国論」は 旅人と主人の問答という
形式をとっています。

旅人は 北条時頼
主人は 日蓮を想定しています。

主人は…

このまま いけば 災いは増し

他国から侵略される 「他国侵」の難

内輪もめによる内乱
「自界叛逆の難」が起こると

旅人に警告します。

そして 瞑想にふけったり
祈祷を行うだけでは

嘆き悲しむ民衆は救えない。

正しい教え 「正法」に基づき
具体的な政策を実行し

人々に手を差し伸べるべきだと
主張したのです。

しかし 幕府は 「立正安国論」を黙殺。

日蓮は疎まれるようになり

幕府とつながりの深い 他の宗派からは
憎まれることになりました。

そんな状況でも 日蓮は 「法華経」の教えを
広めることを精力的に行い

信奉者も増えていきます。

しかし その後 日蓮には
数多くの試練が降りかかっていくのです。

「末法の世」という言葉がありましたよね。

植木さん これは
どういう世の中を表しているんですか?

お釈迦さんが亡くなってですね…

その 3段階を言ってるわけですね。

上から 正法 像法 末法と。

末法というのは その正しい教えが
もう絶滅してしまうという意味なんです。

こういう まあ衰え方というか
退化のしかた みたいなことは

もう必然ですか?
必然でしょうね。

あらゆる思想が そうだと思いますね。
なるほど。

そのことを 仏教は 危機意識を持って
こういう言葉をつくったんだと思います。

なるほど。

それに対して 日蓮はですね

今こそですね 正しい教えが
起こるべきだということでですね

積極的に 命をかけて
頑張ったわけですね。

これは
「法華経」に戻ろうっていうことですか?

あ だと思いますね。

この「法華経」は
原点に戻れといったんです。

お釈迦さんの もともとの本来の仏教に
返れということ。

だから この原始仏教と「法華経」と
日蓮とは 一貫してると思います。

あの 日蓮が唱え始めたという
この「南無妙法蓮華経」

これを唱えることの意味は
どういうことなんでしょうか?

まずですね 「南無」という字を
見ると 「南」が無い

これ 当て字なんです。

もともとは
サンスクリット語の「namo」

あるいは 「namas」

「namaste」と
向こうは 言ってくれるんですね。

「namas」は 「敬礼する」なんです。
「te」は 「あなた」なんです。

だから 「私は あなたに敬礼します」
というのが 挨拶になってるわけです。

「妙法蓮華経」というのは
「法華経」の正式名称です。

だから
「南無妙法蓮華経」ということは…

その「法華経」は 何かというと…

…が説かれている。

…ということが説かれてます。

そこに立ち返っていく
ということが

「南無妙法蓮華経」ということに
込められた意味ですね。

そして もう一つ 出てきました
この「立正安国論」 こちらを書いて

当時の実質的な権力者であった
北条時頼に出したと ありましたよね。

世の中をですね
平和に 安穏にするためには

「立正」 正しい教えを打ち立てる
正しい教えに基づくことが

国を安んずる 根本的な この
対処方法なんだということをですね

日蓮は主張するわけです。

それは それだけ 当時の政治は
やってない? やれてない?

大体がですね 何かこう…

それは 日蓮からすると
そういうもんじゃないぞっていう。

もっと具体的に 政治家とは
その やるべきことは…

…が正義なんだという考えがあったと
思いますね。

さあ その後 日蓮には
多くの苦難が襲いかかります。

苦難の始まりは 「立正安国論」を上呈した
翌月のことでした。

批判されて怒った…

日蓮は 辛くも難を逃れましたが

翌年 幕府を批判したことで罪に問われ…

2年後 許されて 鎌倉へ帰還しますが
さらなる災難が襲います。

久しぶりに 故郷の安房へ
病気の母の見舞いに訪れた時

武装した暴徒に襲われるのです。

この時の様子を

門弟の 南条兵衛七郎宛ての手紙に
したためています。

こうした多くの苦難を経て
私は こう考えるに至りました。

「日蓮は 『日本第一の法華経の行者』で
あります」と言い切っているんですが

これは
どういうことを言っているんですか?

「法華経」をですね
文字どおりに実践した人は

日蓮一人であるというような
自負があるかと思いますね。

先ほど 伊豆に流罪された
ということがありました。

それから 鎌倉に戻って
1年半後に また ふるさとに戻ります。

そこで 先ほど言ったように
襲撃されるわけですね。
はい。

あ~ すごい。 はい。
へえ~。

それで
その「法華経」を広めていくためには

私は 身命を惜しみませんと。

…という この言葉なんです。

何か 最初に聞いた時は
その 最後の1行が効いてるから

何 これ 自慢?
って ちょっと思ったんですけど

ちょっと ニュアンス違いますね。
そうですね。

これ 宛てた相手は弟子?
そうなんです。

信者ですね。

南条兵衛七郎という人なんですけれども
この人は門弟なんですよね。 はい。

この人がですね 重病になったと。

それを聞いて
日蓮は書いた手紙なんです これ。

え~ 自分も襲われたりとかして
大変なのに? はい。

もう まさに死の間際にある人に対して

私は ここまでね 我が身を惜しまないで
「法華経」のために闘ってきた。

だから 私は
「日本第一の法華経の行者」であると。

あなたは その…

…が籠もった ひと言だった
というふうに思いますね。

うわ~ しびれるな しびれるなぁ。

俺 大変だけど
全然 屁でもねえよって。

だって これは
俺が すごい証拠じゃんっていう。

で その弟子だぜ お前はっていう
この感じと

もっと言えば その師匠に仕えてて

それだけ 「法華経」を大事に思ってたら
ある程度…

さあ こうして 「法華経の行者」だといって
決意を固めてきた日蓮ですけれども

更に大きな苦難が襲います。

1268年 世間を揺るがす大事が起こります。

蒙古から 日本に 服従を迫る
国書が届いたのです。

遡ること8年前
日蓮が 「立正安国論」で予言していた

「他国侵の難」が
現実のものとなった。

日蓮は 世間の人々の
注目を浴びることになります。

日蓮は ようやく
自分の言葉が報われる日が来たと

再び 幕府に「立正安国論」を提出。

更に 多くの宗派に対し
どの仏法が正しいのか

公の場での討論で白黒つけようと
対決を挑みます。

しかし この日蓮の訴えは再び黙殺され
逆風は強まりました。

幕府の権力者とつながりの深い僧侶から
あらぬ罪を着せられてしまいます。

日蓮たちが 仏像を壊したり
暴動をたくらむ仲間や

武器を集めているという
デマを流されたのです。

これによって
日蓮は 正規の裁判を受けることなく

死刑を言い渡されてしまいます。

処刑場へ連行された日蓮ですが

どういうわけか
首をはねられることなく

結局 佐渡へ
流罪となりました。

この一件を受け 日蓮と その一門は
更に弾圧されます。

土地を没収されたり 牢に入れられたり

更には 信者であることを捨てるように
強要されたのです。

佐渡の厳しい環境で暮らす中

日蓮も
心が折れそうになることがありました。

その心情を
信徒の四条金吾に送っています。

自分が 本物の「法華経の行者」だったら
すぐに 天の神々の御加護があるはず。

それがないというのは…

このように 自らを厳しく問いました。

そして 次のように書いています。

日蓮は 3年間 佐渡で
流人生活を送った後 鎌倉へ戻ります。

その後も 弟子や信徒たちに対する
弾圧は続きましたが

日蓮は 身延に入山し
弟子たちの指導に 身を捧げたのです。

いや でも 日蓮は なぜ弾圧されて

こんなに 次々と
ひどい苦難にあったんでしょうか。

例えば 幕府の誰々が
何とか寺をつくってあげた。

何とか寺は 誰々がつくってあげた
というふうにですね

その 個人的なつながりが
強かったわけですね。

仏教はですね
そういう関係は あってはならないと

お釈迦さんの時代からですね
いう考えだったんです。

そこへ 日蓮が登場して
彼の言ってることを聞けば…

だから 余計なことを言うやつを
潰しちゃえとかいう

感じだっただろうと思いますね。

でも結局 死刑にならないんですよね。

処刑場まで連れていかれます。
はい。

で そのあとはね
何があったか分かりません。

どういうことがあったか分かんないけども
とにかく助かったと。 ほ~。

恐らくですね 処刑する人たちは
おびえてたと思いますね。

要するに 僧侶を斬るということは
たたりがあるんじゃないかとかね。

でも 流刑で許してやるって
いったところで

佐渡に流されるってことは
当時 大変なことですよね 恐らく。

そうですね。
このころの佐渡 旧暦の11月です。

今でいう 12月ですから。
寒いでしょうね。

もう 手を下さなくても
飢え死にするか 凍え死にするか

もう ほっときゃ 死ぬだろうと
考えたんですね。
なるほど。

ところがね 確かに
日蓮の悪口を聞いて

とんでもないやつが佐渡に流されてきたと
会いに来る人がいるわけです。

とっちめてやろうというんで。
ところが…

へ~。
へ~。 いや すごいな。

そうやって
3年間 流罪されるんですけれども

この間に
たくさんの手紙を書いてます。
は~。

VTRの最後に出てきた
手紙がありましたけど

日蓮の心の揺れが よく伝わってくる
あの手紙 見てみましょう。 弱気でしたね。

ここは非常にですね 自己反省的ですよね。

しかもですね
この「法華経の行者」という言葉をね

31回使って 私は にせものかいなと。

本当に 「法華経の行者」と
言えるのかということをですね

徹底的に反省してるんですね。

そこまで 自分を反省して
いろんな…

…ということを再確認して

次なる飛躍のバネにしていくんですよ。

そういう人ですね。

これをね
今のパソコンの時代だったら

一回 全部消して
いい格好にしちゃうんだけど

そういうことじゃないのも
多分 彼が ちゃんと

弟子は理解してくれるって
思ってたりとか

いろんな要素が 僕は
すごく詰まってる文章だと思って。

何か ほんとにこう 手紙を立体的に
きちんと受け止めると

人間味みたいなものまで伝わるんだ
ということが 今 とても楽しいです。

次回は 「日蓮の手紙」を
更に読み進めて

厳しい人生を生き抜くための方法を
学んでいきたいと思います。

植木さん 今日はありがとうございました。
どうもありがとうございました。

ありがとうございました。

♬~

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