英雄たちの選択「足利義満 人生最大の危機 ~発覚!大謀反計画~」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択「足利義満 人生最大の危機 ~発覚!大謀反計画~」[字]

室町時代、公武の最高権力者に上り詰めた足利義満。武力を持たず守護大名のわがままを抑えられない弱小将軍がいかに頂点に立ったのか?強力大名たちとの戦いをひも解く。

詳細情報
番組内容
征夷大将軍にして太政大臣、室町時代に権力の頂点に上り詰めた三代将軍・足利義満。そのスタートは守護大名たちの勝手放題を手をこまねいて受け入れるしかない弱体将軍だった。様々な策を弄して大名たちの弱体化を図る義満。そのやり方が人生最大のピンチを招くことになる。西国6か国の守護大名・大内義弘が義満追放を唱え謀反。東国を支配する鎌倉公方や没落させた大名の残党たちと大包囲網を築いていたのだ。義満の選択とは?
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】里中満智子,小谷賢,桃崎有一郎,【語り】松重豊

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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キーワード出現数ベスト20

  1. 義満
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  16. 鎌倉
  17. 時代
  18. 小谷
  19. 大内
  20. 幕府

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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京都の名刹 鹿苑寺 金閣。

2020年12月末 およそ20年ぶりに
大規模な改修工事を終えた。

創建したのは…

中世 動乱の日本で
絶大な権力を握った人物だ。

武家と公家
双方の社会で
トップの座に就き

更に 中国 明との貿易で
ばく大な富を
手中に収めた。

室町幕府の全盛期を築き上げた義満。

だが そんな男の前半生は
絶対的な権力者とは 程遠いものだった。

義満が生まれたのは
天皇家が2つに分裂した 南北朝動乱期。

日本史上まれに見る 混乱の時代だった。

いつ倒れても おかしくない
室町幕府を引き継いだのが

若き将軍 義満だったのだ。

将軍を将軍とも思わぬ
強力な大名たちを次々倒し

将軍の権威を
確かなものにしていく。

戦いを勝利に導いたのは
常識破りの戦略だった。

この京都を捨てずに
守り抜いたということによって…

だが 強引なやり方は 大きな反発を生む。

突如勃発した 全国規模の謀反計画。

その時 義満に迫られた選択とは。

スタジオには
さまざまな分野の専門家が集結。

将軍 義満の権力確立に 鋭く切り込む。

義満は どれほど逆風にさらされようが
やると決めたらやる。

中世最大の権力者は
いかにして その座を勝ち得たのか?

将軍 足利義満の真実に迫る!

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

今回 取り上げるのは こちらの方です。

はい 足利義満ですね。

磯田さん こちらは有名な肖像画ですよね。

本当ね。 すごい面構えですよね。

ちょっと 足利将軍って
垂れ目の方が多いんですけど

この眼光といい やっぱり 何か 権力を

自分の一手にっていう雰囲気のある感じの
肖像だというふうに

ずっと思ってきましたね。

まあ そんな義満なんですけど

今回は 実は ちょっと違った切り口で
見ていくんですよね。 そうなんです。

今日はね
もう 金閣でも 日明貿易でもないです。

今日はね なぜ義満は 日本史上屈指の
権力者になることができたのか。

さあ まず 義満が将軍になった頃から
見ていくことにしましょう。

足利将軍家の菩提寺として知られる
京都 等持院。

歴代の足利将軍の姿を
今に伝える木像が安置されている。

1358年
室町幕府2代将軍 足利義詮の子として

京都で生まれた義満。

しかし その地位は
決して盤石なものではなかった。

問題は 守護大名たちだった。

時は 南北朝。

義満の祖父 尊氏が京都にたてた北朝と

後醍醐天皇に始まる 南朝が敵対。

全国の武士たちを巻き込んだ戦いが
続いていた。

更に 幕府内では
尊氏と弟の直義が対立。

武士たちも
2つに分かれて合戦し

互いに敵の軍勢が迫ると
都を捨てて 逃げることが繰り返された。

幕府の安定を目指す足利尊氏は

有力武将たちを 各国の守護に任命し
武士たちを率いさせていた。

だが 混乱の中で 将軍の権威は失われ

守護大名たちは 勝手気ままな行動を
繰り返すようになっていた。

室町幕府の政治体制を研究する
桃崎有一郎さんは

その背景を このように指摘する。

そういう交渉のしかたが
南北朝時代には 一般的でした。

義満の父 2代将軍 義詮の時代には
更に 事態は深刻化していく。

幕府内で…

幕府を攻撃。

南朝方に都を奪われるという事態まで
発生した。

この時 幼い義満は
父 義詮と離れ離れになり

都に取り残された。

あわや南朝軍の手に落ちるという危機を
危うく脱し

僧侶の衣に隠されて
播磨に落ち延びたのだった。

1367年12月
父 義詮が 38歳という若さで急死。

翌年 義満は
僅か11歳で 征夷大将軍となる。

義満が 将軍に就任した頃

斯波 細川 山名 土岐
といった

強力な力を持つ守護大名たちが
各地を支配しており

将軍の力は
依然として弱いものだった。

その弱さを象徴する事件が起こる。

1379年 義満を支える管領
細川頼之に不満を持つ守護大名たちが

数万の兵で
義満の御所を取り囲み

細川頼之の罷免を求めた。

対抗する力のない義満は
彼らの要求に屈服。

細川頼之を
都から追放せざるをえなかった。

将軍には それを止める力がないんですね。

将軍であっても
結束した守護大名の前では

無力そのものだと思い知らされた義満。

だが この事件をきっかけに
将軍として 自立の道を歩みだしてゆく。

これ以降 義満が精力的に行ったのが
諸国遊覧だった。

天橋立や富士山 瀬戸内海などの
景勝地へと 足を運んでいる。

実は その道すがら
守護大名が支配する国々のありようを

自らの目で見

その内情を
探ろうとしていたとも 考えられている。

そして この旅路が 義満に得難い出会いを
もたらすことになる。

こちらが 大内義弘公の木像です。

現在の山口県にあたる周防 長門などを
拠点としていた…

南朝勢力が根強かった九州で
幕府方として奮戦し

その強さは 都でも知られていた。

大内義弘は
周防に滞在した 義満一行のために

海辺に豪華な館を建て
もてなしたといわれている。

そんな大内義弘を気に入った義満は
そのまま京の都へ連れて帰り

中央の政治に関わらせる。

地方の一勢力にすぎなかった大内義弘は

この後 義満を支える
心強い味方となってゆくのだ。

圧倒的な守護大名たちに対抗する布石を
将軍 義満は 静かに打ち始めていた。

今回も 多彩なゲストの皆さんに
お越しいただいています。

よろしくお願いいたします。
(一同)よろしくお願いします。

まずは 番組では おなじみの
軍事史がご専門の小谷 賢さんです。

小谷さんから見て この将軍就任時の
義満が置かれた状況は

どのように考えますか?
まあ 私の個人的な印象ですけれども

これは 現在の国連に近いんじゃないかと。

国連ですか。
はい。 いうふうに思います。

つまり 権威はあるけれども
常備軍というものがないので

結局 大国間で
何か紛争とか いざこざが起きた時に

それを抑えることができない
というものに近いのかなと思います。

結局 この時代の武家政権にとって
武力が弱いというのは

致命的であったということでありまして

一にも 二にも やっぱり
軍事力というものを持たないとですね

権力というものは握れないのかなという
印象を持っております。

そして 番組初登場の
足利義満を研究されている

中世史研究家の桃崎有一郎さんです。
よろしくお願いします。

室町幕府と江戸幕府の
最大の違いというのは

江戸幕府は
初代の家康が
もう関ヶ原や大坂の陣で

やるべきことを
全部やり終わって

俺とけんかして勝てるやつはいない
もう分かったよね

じゃあ はい これからは俺の時代
とやってから

死んでったので よかったんですが

おじいさんの尊氏と
お父さんの義詮は

やるだけやって 僕は ここまでやった
でも 全然駄目だ。

じゃあ あと よろしくといって
去ってったわけですね。

そして 漫画家の里中満智子さん。

諸国をね 将軍として

いろいろ視察に行った
っていう話が出てきましたが

あれはね 一生懸命 頑張って
自分の見せかけをね

私が将軍だぞっていうことを見せるために
うろうろしたんだと思うんですよ。

でないと 都にじっといたって

何の兵力も持ってない 実権もない

どっちかっていうと
なめられてるわけですよ。

自分は自分で 将軍ってものを
見せようじゃないかということで

諸国をうろうろしたら

あっ あれが将軍かって
認識する人も出てくるわけですよね。

だから 演出ですかね。

自分の姿を地方へ行って見せて
もう地方遊説ですから…

という作業に着手するということ
だったんじゃないかと思うんですよね。

ですから…

もう一つは まさに選挙の
地方遊説のお話が出ましたけれども

日本でそういうことした君主って
いないんですね。

それまで一人もいないんです。

じゃあ こういう発想
どこから来たんだろうと思ったら

秦の始皇帝が こういうことやったな
ということを思ったんですね。

中国の戦乱を収めて…

やっぱり 支配者の顔を見せることですね。

あと一つはですね やっぱり これ

情報収集の意味合いもあったんじゃないか
というふうに考えてましてですね

結局 義満としては
諸国大名の誰が敵になりそうか

誰が味方になりそうか
というのをですね

自分の目で確認しておくという必要性も
あったのかなというふうに思います。

あの 受ける側 自分が守護大名だとして

隣は どんな もてなしをしたのかって
すごく気になりますよ。

だから 守護大名たちが 力を合わせたら

将軍なんて
やっつけられるんだけれども…

うまいですね。
そっちにエネルギーをね そがせて

こっちに向かってこないようにする。
うまい上司なんて よく使いますよね。

忠誠の競争を始めさせるわけですよ。

あいつとあいつを競わせれば たくさん
俺のために 仕事をしてくれるという。

それに気付いて うまくやる人ってのが
中にいますよね。

確かに ちょっと したたかな感じが
見えてきましたけど…。

そして 守護大名たちの
横暴を抑えたい義満は

ついに守護たちとの対決に踏み出します。

そこには 義満ならではの
巧みな戦略がありました。

将軍として 守護大名たちを従える義満。

だが 彼らが いつ反旗を翻すか
分からない状況は 変わっていなかった。

そこで 義満は
守護大名に対抗する戦力を持つべく

積極的に守護たちの子弟を抱え始める。

これが 後に 馬廻衆と呼ばれる
将軍直轄の軍事組織だ。

馬廻衆の整備を進める中で

義満は 守護大名の力をそぐ
ある策を思いつく。

目をつけたのは
守護大名の庶子たち。

嫡子の家臣扱いされる
彼らを取り立てることで

一族内に
微妙な不和を起こさせ

結束力を弱めようとしたのだ。

1387年
美濃 尾張 伊勢の…

義満は 土岐頼康の跡継ぎの
土岐康行に

美濃と伊勢
2か国を受け継ぐことを許す。

だが 残る尾張は

義満のもとに出仕していた
康行の弟

土岐満貞に与えたのだ。

間もなく
義満の措置に不満を持つ 当主の康行と

その座を狙う
弟の満貞との間で争いが始まる。

義満は この土岐氏の内紛に介入。

一方的に
土岐康行を謀反人と断じて討伐させる。

鎮圧後
義満は 土岐一族から伊勢を召し上げる。

有力守護大名…

義満が次に狙いを定めたのが

山陰地方を中心に 勢力を誇っていた
有力守護大名 山名氏。

このころ 山名氏は

全国の6分の1にあたる
11か国の守護を一族で握り

その力は 幕府をも上回ると
いわれていた。

義満は 土岐氏と同じように

一族を分裂させる策を仕掛けようと
内情を探る。

すると 当主 山名時熙に対して

いとこの山名満幸が
不満を持っていることが判明した。

早速 義満は満幸に接近。

満幸を そそのかして
時熙に戦を仕掛けさせたのだ。

だが 時熙は敗れて 早々に逃亡。

山名一族の内紛は大きくならず
義満が介入する機会はできなかった。

そこで義満は 新たな手を打つ。

追討したはずの時熙を許し

今度は 満幸に難癖をつけて
守護であった出雲を取り上げたのだ。

このままでは 山名家が滅ぼされてしまう。

不満を爆発させた満幸は
一族の守護大名たちを糾合。

1391年12月 5, 000騎もの大軍勢を率いて
都に攻め上ってきた。

迫りくる山名勢。

義満は どのように立ち向かったのか?

南北朝時代の都で起こった
合戦を研究する

花田卓司さんと共に
舞台となった京都を歩いた。

足利尊氏の時代であったり

足利義詮の時代に 度々 京都で
戦いがあるんですけれども…

中世最大の消費都市である京の都は
街道を塞がれると すぐに食料が枯渇。

逃げ場も失われてしまう。

そのため 敵軍が迫ったら
捨ててしまうのが 常道だった。

この戦いを描いた
軍記物「明徳記」
によると

山名満幸は 義満が
京都を逃げ出すので

ほかの大名たちも
味方につくだろうと
もくろんでいた。

幕府軍の軍議でも 大名たちは
一度 都を捨てる 常道策を提案。

ところが義満は その策を突っぱね
都での正面対決を主張したのだ。

山名勢5, 000に対し
幕府軍は およそ1万4, 000。

数の上では優勢だが

都ならではの地理条件が
決戦を難しくしていた。

まあ 大体
こういう狭い道が

東西南北に入り組んでいるというのが

京都の市街地域の特徴になります。

南北朝時代の戦争では
相変わらず軍勢の主力というのは

騎馬武者 騎兵だったんですね。

市街地を主戦場にしては

騎馬武者の本来の能力を
発揮することができない。

市街地の多さも 都が守りづらい
といわれた理由の一つである。

実は 義満は
ある場所に目をつけていた。

こちらが 朱雀門跡というふうに
書いてありますけれども…

内野とは もともと
平安京の官庁街 大内裏があった場所。

鎌倉時代に大内裏が焼け
南北朝時代には

東西 およそ1.2キロ
南北 およそ1.4キロにわたり

広大な空き地となっていたという。

この場所に 陣を敷くことで
市街地の多い都でも 大軍勢を動かし

かつ 騎馬武者の能力を生かした戦闘が
可能になるのだ。

幕府軍は
内野を取り囲むように布陣した。

馬廻衆 およそ5, 000を率いる
義満をはじめ

細川や畠山といった
足利一門の軍勢

更に 大内義弘が
山名勢を待ち構えていた。

義満の本陣目がけて

内野に突入してくる山名勢を

取り囲んで
一気にせん滅しよう
という作戦だった。

思惑は 見事に的中。

内野一帯では 両軍入り乱れての大激戦が
繰り広げられた。

大内義弘は 最前線で奮闘。

重傷を負いながらも
山名の先ぽう部隊の大将を

自ら討ち取っている。

そして 大内や馬廻衆らの活躍により

僅か一日で 山名勢は敗れさった。

この北の辺りに 足利義満は
本陣を最終的に置いています。

戦いが たけなわになった頃に
軍勢を率いて ここまで

この すぐ北のところまで
出てきています。

山名との戦いというのは

あくまでも 自分の家来筋の人間を
懲らしめるための戦いであると。

その家来ごときに京都を明け渡して
それを奪い返すという

いわば 南北朝時代の常道ともいえる
戦略を

とりたくなかったのだろうと。

都での一大決戦に勝利した義満は

山名氏から8か国を取り上げ
勢力の大幅削減に成功する。

更に この乱の翌年
南朝と北朝の合一を成し遂げ

半世紀以上にわたっての戦乱の種を
解消した。

義満は 足利政権を悩ませ続けてきた
難題を 次々解決

将軍の立場を
確かなものにしていったのだ。

守護大名の本家と庶子を
あえて衝突させて

自滅へと導いていく この義満の戦略
小谷さん なかなか怖いものもありますね。

ワルですか はい。

まあ ただのワルじゃなくて
非常に知略が利くというふうに思います。

確かに状況として この本家と
庶子家の分裂があったというのは

事実だと思いますけれども

そこに やっぱり つけ込んだ
義満の手法というのは

非常に やっぱり
こうかつなものであったと。

これは もう…

まあ 当時 あの 家というのは
一子単独相続に 次第に傾いていく。

分割相続だと どんどん どんどん
財産が減っていくので

一族として きちっと集約して
力を持つように

ピラミッド構造にしていこうと
してるんだけど…

通常 まあ 嫡子が上に立つんですが
弟から見ると

僕にだって チャンスがあっていいよねと
考えるわけですね。

で いつも虎視眈々と狙っているんですが
やはり…

力のあるものが 正義になるしかないよね
という状況になった時

一気に これが燃え上がったんだなと
思っているわけです。

だからね…

そこを つつくと ワッと燃えるぞと。

何か嫌な人ですね。

戦い方が
自分に強い力を持ってないから…

だけど これ 考えてみますとね
いっときはね

義満の政権 これでね 俺に権力が集まって
守護の力を削減にと思いますけど

やってることって これ…

そういうことですよ やってることは。

う~ん。 そして あの
最大のライバルだった山名氏との戦いでは

幕府軍が逃げ出すと踏んでいた
山名勢の裏をかくように

義満は 都に陣を構えて
自ら最前線に立つんですけれど

これあの 小谷さん 何で 常道策を
義満は取らなかったんでしょう。

京都で勝利を収めるというのは

多分 絶対条件だった
というふうに思いますね。

ぎりぎり勝っても駄目なんですよ。
やっぱり圧勝なんですよ 圧勝が必要です。

要は 諸大名集めてますから

みんなの目の前で
勝たないといけないわけですよ。

この時 たまたま
内野は焼けて 何もないと。

要は 内野というリングがあった
ということでありましてですね

そこで あえて戦えば
なんとかなるんじゃないかという

多少の勝算はあったと思います。

リングの例えでいうと
内野という戦場があって

ここを戦場に使おうって考えついた人
これまでいないんですね。

そもそも なぜ空き地かというと それは

かつて天皇陛下が
お住まいになったところで

いつかお戻りになってくる。
帰ってこないとは

一度も宣言してないわけですね。

なので そこを馬のひづめで
蹂躙してはならないということを

鎌倉時代から
ず~っと幕府は言ってきたわけです。

みんなが遠慮する…

陸上戦の場合は 野っ原で戦うのが
一番 大軍が 自由に行動できるから

真っ昼間に 野原で 要するに内野でやれば
勝てるわけですよね。

ついた。 そしたら まず 子分の
300 500の大内とかに

まずストッパーにしといて

ゆっくり ゆっくり
内野の中で 戦闘させて

もたもたさせといて 行け~って。

この瞬間の判断っていうのが
指揮官 一番重要なんですけど

その段階に 5, 000の義満軍を投入すれば
一気に破壊できますから。

いやいやいや 面白い。

さあ その守護大名たちを
実力で圧倒した義満

しかし 思いも寄らない窮地に
追い詰められました。

南北朝合一から2年後の応永元年
義満は 武家でありながら

公家社会の最高位である 太政大臣に就任。

過去に例のない武家 公家を通じての
最高権力者となった。

だが そんな義満に対して
人知れず不満を募らせているものがいた。

義満の右腕として活躍してきた
あの大内義弘だ。

大内氏は 現在の山口県にあたる
周防 長門から支配地を広げてきた。

足利一門ではない 外様の守護大名である。

本拠地としていた山口では

大内義弘の時代 ほかの大名にはない
特徴を持っていたことを示すものが

発掘されている。

こうした瓦にですね 龍や鳳凰を
文様として使うということは

日本では 非常に珍しくて…

瓦の製作技術は 朝鮮半島

材料の土は 日本のものであることから

朝鮮から職人を招いて作らせたと
考えられている。

こちらは
大内一族の歴代の当主を描いた絵図。

遡ると 古代朝鮮の百済王朝の王子が
描かれている。

大内義弘は
大内氏が百済の王族の子孫だと唱え

朝鮮王朝と独自のパイプを
作り上げていた。

朝鮮との交易で 大きな富を
蓄えていたとも考えられている。

山名氏を討伐した
京都での合戦でも活躍。

彼らが持っていた
紀伊と和泉を与えられ

義満からは「足利一門として扱う」と

最高の栄誉を与えられている。

そんな大内義弘の心が

義満から離れていたことを示す
出来事がある。

義満は 出家から2年後の 応永4年

京都・北山に 金閣をはじめとする
壮麗な別荘を造営しようとしていた。

守護大名たちにも
造営のために人を出すように命じたが

大内義弘は ただ一人

「自分の家臣は
戦をなりわいとしているので

工事に使役されるいわれはない」
と拒否したのだ。

その理由として
軍記物「応永記」は

大内義弘が 九州で

幕府の敵対勢力と
戦っていた時

義満が その相手に
ひそかに

義弘討伐を命じた
という

うわさがあったことを
挙げている。

大内一族について研究する
平瀬直樹さんは

大内義弘の心が
義満から離れた原因は

義満の振る舞いにあったと
考えている。

応永6年 大内義弘は 突如

和泉国・堺に軍勢を送り込み
幕府に反旗を翻した。

堺は 京都から南西に
およそ60キロ。

陸海の交通の要衝として

都への攻撃拠点にもなり

戦況が厳しくなれば
本国の周防や長門へ

撤退もしやすいという
地の利がある。

「応永記」によると
大内勢は堺の町の要塞化を始める。

町を囲むように櫓を立て並べ
その数は 1, 700に及んだという。

義満は説得のため
政治顧問である禅僧を堺に派遣

大内義弘と面談させる。

しかし 説得は失敗。

それどころか
驚くべき計画が明らかになる。

なんと 鎌倉公方 足利満兼と結託し

義満の排除をねらっていたのだ。

鎌倉公方とは 足利尊氏が

東国を統治するために
設置した

もう一つの足利家。

血筋のよさだけでなく
関東 奥羽など

12か国を支配下に置く
一大勢力だ。

室町幕府の重臣の記録によると
鎌倉公方には

将軍が悪政を行った場合
その行いを

実力で是正させる
使命が

与えられていた
という。

その大軍勢が
鎌倉をたち 都へ向け進軍。

堺と東国からの軍勢で

義満を挟み撃ちにしようというのだ。

これに呼応して
義満が今まで没落させてきた

土岐や山名の残党が
各地で挙兵。

大内義弘は周到に

義満包囲網を作り上げていた。

突然
大包囲網の中にいる状況を知った義満。

その心の内に分け入ってみよう。

これは ゆゆしき事態だ。

大内義弘といえば
百戦錬磨のつわもの

今分かっているだけでなく
更に別の勢力とも結び付いて

何を仕掛けてくるか分からない。

何よりやっかいなのは
鎌倉公方の足利満兼だ。

最悪の場合 あやつに取って代わられ

私のこれまでの苦労が
水の泡になるかもしれない。

ここは少し譲っても
和睦の道を探るのが得策ではないか。

いや 待てよ。

私が一介の守護大名ごときに
妥協するというのは

かつての弱腰に逆戻りすることを
意味する。

謀反人は討つしかない。

戦いに勝てば 大内一族の勢力も
大幅にそぐことができるではないか。

しかし 足利満兼は 既に鎌倉を出発し
京に向かっていると聞く。

本当に勝てるのか?
挟み撃ちでもされたら

やっかいなことになる…。

義満は選択を迫られていた。

信頼していた大内義弘からの宣戦布告。

これ 桃崎さん
ただでさえ敵の多い義満にとっては

痛い展開だと思うんですが

どうして その 大内は心が
離れてしまったんでしょう 義満から。

義満の悪意を 明らかにはっきり
感じ取ってると思うんですね。

あんなに尽くしたのに
うちの家を潰そうとすると。

頑張った対価が いびりや いじめかと。

これはもう ひどい君主だなと。

彼が多分 どっかでプチッと
切れちゃった瞬間が

あったんだろうと思うんですね。

そういう時に…

…と気付いて 大内義弘は

鎌倉と連絡を取って起動した
そういうふうに考えられますね。

いやこれね 僕 義満はね
義弘を それなりに

処遇したつもりだったと思うんですよ。
新参者を破格の待遇にして

しかも 堺があるね
あの和泉の方まで あげてるんですよ。

そしたら言うことを聞いて いくらでも
自分に奉公してくれるかと思ったら

そうでもないと。

それどころか どうも大内の方は
すごくプライドの高いおうちで

俺 朝鮮王の子孫だもん
みたいなのあって。

…っていうことが見えてくるわけですよ。

まあ ですから結局
義満からすればですね

大内もほかの大名も変わらないと。

大きくなれば潰すという方針で
貫いているというふうに思います。

こういう芽は 早いうちに
潰しておいた方がいいから

あいつが謀反を起こすように
仕向けようとして

嫌がることを命じる。
そしたら案の定 あいつ切れたなと。

しかし 切れたにしても

まさか鎌倉にね
呼びかけるとは思わなかった。

ちょっとまずったかなとは
思ったかもしれませんが

人の心理を読んで ここまでやって来た
義満がですね

大内の気持ちを
全く分からないわけはないので…

…と 思いたくなっちゃいます。

さあ それでは選択にまいりましょう。

守護大名 大内義弘と
鎌倉公方 足利満兼に

取り囲まれていたことを
知った義満

和睦の道を探るのか 討伐か

皆さんが義満の立場だったら
どちらを選択しますか。

まずは小谷さん どちらを選択しますか。

はい 私は選択2の
義弘を討伐するを選びたいと思います。

もう この時点では
話し合いは平行線をたどるのが

目に見えております。

もう ビジネス上とか
軍事的な話を超えて もう 完全に…

これはやっぱり
見過ごしちゃうとですね

政権そのものを取られかねないという
話にもなりますので

やっぱりここは たたかないといけないと。

あの 私も討伐の方を選びたいです。

なぜならば 和睦をしても
どうせね 不満はくすぶってんですよ。

またね 何か起こる
火種は消えないわけです。

消えないんだったら
ここで討っとかないと

あとになれば なるほど
面倒くさいことになるわけですよね。

大きくなるし。
それに 今 討つということは

鎌倉と結び付こうとしたって
いうことで…

だからやっぱり もうここは
速やかに たたき潰す方がいいなと。

さあ桃崎さんは どちらを選択しますか。

私は和睦の道を探りますね。

というのは もちろん
実力差とか政治力の差

いろいろありますけれども
やはり大内義弘って

実際戦わせてみると
それなりには強い。

明徳の乱で勝利をもたらした一因が
義弘には違いないんですね。

これ正面戦争した時
本当に勝てるだろうか。

更に その後ろの 九州の大名が
もし大内に味方をし始めたら

いろんな状況の変転が考えられる中で
これは相当 危ない賭けだと思うんです。

私は こういう
でかいばくちを打つ度胸がないので

私だったら もう少し なあなあに。

室町南北朝社会って いろいろ
なあなあで 解決できる社会なので

戦をしないという道は
あったかと思うんです。

では 小谷さんと里中さんは 討伐

そして 桃崎さんが 和睦の道
ということになりました。

磯田さん どうしましょうか。
僕2番の 義弘を討伐するです。

はい。 大体 討伐ですよね 磯田さん。

これはね もたもたやってるとね

堺にいるうちに
もたもたやってると 怖いのはね

義弘よりは 東側からの
アッパーカットが怖いんですよ。

だから まだね 鎌倉公方が
関東 足柄山の向こうへ

箱根の関の向こうに
いるうちにですね

早々に 近い敵を
討っておかないとですね

これはまずい というふうに思いますね。
はい。

討伐するということですね。

さあ 義満の選択をご覧いただきましょう。

全国規模の包囲網を展開された
義満の選択…。

それが この乱のてんまつを記録した
軍記物

「応永記」に記されている。

「陰謀が露見したからには

何としても誅罰を下す」。

義満が選んだ選択は

大内義弘の討伐だった。

義満は 急ぎ討伐軍を組織。

細川や斯波
畠山といった足利一門を中心に

3万の大軍勢を整え 堺へと出陣した。

各地で挙兵した
土岐氏や山名氏の残党たちは

守護大名に命じて撃破。

包囲網を一つずつ破ってゆく。

孤立した堺の大内勢。

だが 頼みの綱
鎌倉公方 足利満兼の軍勢は

一向にやってこなかった。

堺に到着した幕府軍は
大内勢に総攻撃を仕掛ける。

海上からは細川氏が連れてきた
瀬戸内海の海賊が

100艘余りで攻め寄せ
大内勢の逃げ道を塞いだ。

更に陸上では
火攻めを敢行。

立て並べられた
1, 700の櫓も

焼き払ってしまった。

勇猛果敢で知られた大内義弘だが
1か月に及ぶ奮戦の末

最後は100騎余りの幕府軍を相手に
ただ一人で突撃。

壮絶な討ち死にを遂げた。

なぜ 鎌倉公方 足利満兼の軍勢は
堺に到着しなかったのか。

そこには
義満の巧みな策があった。

軍勢が鎌倉から出発したことを知った
義満は

鎌倉公方を支える重臣 上杉憲定に
足止め工作を命令。

これ以上 軍を進めないよう説得させた。

更に 義満は 奥州の武将たちにも根回し。

鎌倉公方が留守の鎌倉をうかがう態勢を
とらせることに成功した。

重臣からの説得と
奥州勢の けん制により

足利満兼は 関東から動くことが
できなくなってしまったのだ。

大内義弘が鎮圧されたあと
足利満兼は 全面降伏。

伊豆の三嶋大社に
謝罪の文書を納めている。

ここに 大内義弘が企てた謀反計画は
幕を閉じた。

もはや 日本国内に
義満の権威に刃向かう者は いなかった。

こうして 義満は 武家と公家
双方の社会のトップに君臨する

ただ一人の存在となっていったのである。

というわけで 義満は

反旗を翻した大内義弘を
討伐することを選択しました。

しかも 刃向かってきたから

もう完膚なきまでに たたくという選択を
したわけですけれど

桃崎さん いかがでしょう? この選択。

これは 大内義弘が
本気で戦う気だったのかって

実は よく分からなくて 本気でやるなら
さっさと京都に攻め込むべきだし

そうでなければ
自分の本拠地で がっちり固めて

持久戦に持ち込めばいい。

じゃあ 戦わないなら 何だろう
と思ったら

これは 南北朝 室町時代に時々ある
御所巻という行為でして

将軍の御所を軍勢で包囲して
こわ談判して

力ずくで あなたの悪政を改めなさいと
みんなで抗議する

これじゃないかという気がするんですね。

これに対して…

で これを謀反という形にしてしまい
謀反人なので 討伐しました。

はい 僕の勝ちというふうに
シンプルに決着つけた。

やっぱり 決断力に富む人だなと思います。
う~ん。

やっぱり 用意周到ですよね。

で ものすごい小心者の人って

もう 先手 先手 先手を打つから
すごく強い。

で 自分が安心するのが 一番大事。

自分が 一番好きだから

人のことを気にしないでいると
メンタルが強くいられるわけですよね。

…を ずばりと おっしゃってますね。

そして 義弘に勝利したあと 義満は

まさに 金閣に象徴される 唯一無二の
権力者への道を駆け上がりますが

桃崎さん 義満の権力を読み解く
面白い資料がある

と伺っているんですけれど。
はい。

長禄二年以来申次記という資料が
あるんですけれども

幕府の大名
あるいは 大名じゃない人間も含めて

ランクづけしていく。

こういうことが義満の努力の末に
達成されますね。

守護大名たちを有力な順に

三職 御相伴衆

国持衆と 3つに序列分け。

更に その下にも
大名に満たない武士たちの格付けが続く。

義満が整備していった この制度は

戦国時代 室町幕府の崩壊まで
維持され続けていく。

で こうした身分の階層を基にして

年中行事での
みんなの振る舞い方であるとか

将軍の振る舞い方が
決まっていくわけですね。

それによって…

その まあ 基礎表と
言って いいんじゃないでしょうか。

で 更に言うと これ 家柄によって
ある程度 固定しますので

世代交代しても 永続的に回っていく。

つまり
義満は これ 自分が退場したあと

自分抜きで
仕組みとして回っていかないといけない。

そのために こういうベースを
作っていったんだろうなと思いますね。

結局 彼がやってるというのは…

私は思うんですよ。
そうやって 武力が ない分

もう階段を作って 自分中心の
秩序のようなものを作り上げる

という ねらいがあったのかなと。

これね 日本人を安泰に治めるためのね
システムなんですよ。

格式の檻に入れると
僕 思ってるんですよ。

格式というのを やっといて 定めといて
その檻の中 入れるんですよ。

それでね
結構 世襲だということを聞くんで

家格が あなたは そのぐらいですよ
って言うと

俺は もう国持衆の格だから ちょっとな
三職には なれないけどな みたいな

1個上ぐらい ちょっと望みたいな
ぐらいで やめてくれるんですよ。

だから
一回 権力を固めた人間にとっては

格式の檻に日本人を入れていく
っていうことは

格式を外れたら 常識外れだ。
礼を外れてるって 攻撃して

みんなで 袋だたきにしてくれるんで

一回 作っちゃえばね
これは いいんですよ。

格式の檻に入れるっていう。
はい。

何か 義満の恐ろしさを感じますけれど。

今回 権力者として
日本の歴史に足跡を残した

室町幕府 足利義満を見てきましたけど
小谷さん いかがでしょう?

何か 七重塔を建てたりですね
何か 金閣寺 作ったりするのは

あれは 結局 自分の力を誇示するために
やってるのであって

特に それに対して
何か文化的な思い入れがあった

というわけじゃないということで…

あの… 昔からね 金閣って 金ぴかぴかで
もう権力の象徴みたいに

ちょっと思うんですけれども

金色というより
むしろ あの構造ですよね。

公家と武家と仏教と この世の
3つの世界を いっしょくたにして

これ 僕んちっつって
言ってるわけですよね。

だからね よくぞ徹頭徹尾

自分のためだけに
ここまで やり抜いたなという。

さんざんですね。
さんざんです。 すみません。

磯田さん どんなこと感じましたか?

やっぱり 本当に…

何か こうやって
こう 格式ごとにするとか されてるんで

僕らだってね 大学だってね 講師だとか
何か准教授だの 教授だのね

こんなのされてるのも きっと
操られてるんだろうなって 思うわけ。

今も現代に続く義満の魔力が
あるんですね。

いやいや そう思うと この面構えも
やはり より

権威 権力 あふれる面構えだな
という感じがしてきました。

皆さん 今日は ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。

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