出典:EPGの番組情報
こころの時代~宗教・人生~▽この一人からあの一人へ 災害ボランティア 村井雅清[字]
阪神・淡路大震災を機に災害ボランティアという生き方を選んだ村井雅清さん。70歳を過ぎた今も被災地に通い続ける。“たった一人に寄り添う”という支援の心に迫る。
詳細情報
番組内容
阪神・淡路大震災を機に災害ボランティアという生き方を選んだ村井雅清さん。70歳を過ぎた今も被災地に通い続けている。27年前の神戸、村井さんは全国から駆けつけた若者たちと目の前の被災者に向き合い、自分たちに出来ることをやった。その後、経験を積んだボランティアは被災地に欠かせない存在となった。毎年のように続く豪雨災害、そしてコロナ禍。そんな危機の時代に“たった一人に寄り添う”という支援の心に迫る。
出演者
【出演】被災地NGO協働センター顧問…村井雅清,ノンフィクション作家…柳田邦男,【語り】北郷三穂子ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉
テキストマイニング結果
ワードクラウド
キーワード出現数ベスト20
- 村井
- ボランティア
- 一人
- 支援
- 被災者
- 神戸
- 自分
- 活動
- 被災地
- 阪神
- 震災
- 足湯
- 保育園
- 意味
- 出会
- 年前
- 言葉
- 最初
- 仕事
- 自然
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
(読経)
ある男性の月命日の供養です。
(読経)
災害支援NGOの顧問 村井雅清さんは
毎月欠かさず 20年以上にわたり
執り行ってきました。
阪神・淡路大震災で被災した野元さんは
当時 仮設住宅で1人暮らし。
ボランティアが
生活を支援していました。
しかし 間もなく 病院で
たった一人で亡くなりました。
直前まで 「徹 徹」と
親しかったボランティアの名前を
呼び続けたといいます。
病院から そのまま葬儀屋に送られたと
聞いた村井さんは
なきがらを引き取り ボランティアたちと
知り合いの寺で葬儀を営みました。
(村井)
こんな不条理なことがあっていいのかと
いう思いがあったんですよね。
一人で亡くなるからといって
誰も家族がいないからといって
そういう対応しかできないっていう。
それはまあ 制度かもしれないけどね。
たまたま 僕らは
そういう出会いがあったのでって。
それなら こっちで やらしてよ という
それだけのことですけどね。 うん。
たくさん いたはずです そういう人は。
うん。 1人だけじゃなくてね。
だから 僕は 野元さんは
死んだ時は たった一人で死んだ
いわゆる孤独死かもしれないけど
こうして みんなが見送って 送ることが
できた 決して孤独じゃなかった。
たった一人に寄り添うというのは
きれい事じゃなくて
災害時になると ボランティアが
そんなふうにして
被災者に接したんだろうと
いつの時もね 思いますよ。 うん。
♬~
♬~
(京田)<神戸で生まれ育った私は
ドキュメンタリーからドラマまで
震災をテーマに番組を作り続けてきた>
<その柱の一つが
災害ボランティア。
通い続けてきたのが
神戸に拠点を置く
この小さな被災地支援のNGOだ>
(笑い声)
あ そうなんや。
もう ちょっと間に合わへんから もう…。
<村井雅清さん。 阪神・淡路大震災を
きっかけに団体を立ち上げ
ここを拠点に
国内外の被災地支援を行ってきた>
<7年前 若手に代表の座を譲り
顧問になったが
71歳になった今も 被災地に赴き
精力的に活動を続けている。
その原動力は何なのか。
私は 村井さんの人生に
改めて向き合いたいと思った>
(ヘリコプターの飛行音)
「神戸市長田区の上空です。
火災が続いています。
この高度まで この高さまで
火災の煙は どんどん上ってきています」。
「阪神高速が ひっくり返ってます」。
♬~
(男性)ばあちゃ~ん!
(女性)お母さ~ん!
♬~
当時 靴のまち・長田で
手作り靴の職人をしていた村井さん。
震災の日は 東京に出張中でした。
バスや電車を乗り継いで
地震翌日に神戸に戻った村井さんは
車に食料や水を積んで
長田に向かいました。
うん… いや まあ
よく言われる事例だけど
例の敗戦の時って
こんなんかって よく言うけど
いや ほんま そうかな
というふうに思うぐらいね。
長田は だいぶん焼けたし。
要は もう 長田で
15年ぐらい仕事してたので
ここの仕事どころじゃないわという。
できないし。
そっちが どうこう というところじゃ
ないわ というふうに思ったし。
ですよね やっぱり。
村井さんが 知り合いの保育園の近くを
通りかかった時です。
はっと その 保育園の園長が住んでる
教会の横を通ったんですよね 横の道を。
で あっと思って
で ちょっと寄ったんですよ。
そしたら 教会が半壊ぐらいの感じで
ちょっと少し傾いてて。
「あ いないなあ」と思って。
多分みんな 家族は 保育園に
行ったんだろうな ということで
戻って 保育園 寄って。
そしたら
いろんな人たちが集まっていて。
保母さんとか 親御さんとか
集まって いてて。
で 僕は ちょうど最後だから
お握り2個ぐらいかな。
で 水ちょっとと
持ってっただけだけど
「これ 要りますか?」とかいって言って。
「もし 何だったら 僕 この車あるので
仕事できないし しばらく手伝いますよ」と
言ったのが 第一歩。
それから 毎日 通って
なんか 炊き出しを運んだりとか
救援物資を運んだりとか してたわけ。
地震発生直後から
多くのボランティアが駆けつけました。
その数は 1年間で 137万人。
後に 「ボランティア元年」と
呼ばれました。
村井さんが手伝っていた保育園にも
たくさんのボランティアが
やって来ました。
もう僕は そこで 寝泊まりしだして。
ある日の朝に 熊本から
炊き出し 1, 000食分 持っていきます。
どっか できますかって言って
熊本から来た。
そしたら もう毎日
ほとんどこう 皆 寝てないし
保育園にいる まあ 事務方というか。
なので 朝8時 過ぎるまでは
起こさんといてくれと。
電話が来た時に 既に来ても
来ても 静かに待っといてくれと
8時過ぎてから声かけてくれと言った。
ところが まあ 気持ち分かりますわ。
遠いとこから走ってきてね
ちょっとでも早くね 現場行きたい
ちょっとでも早く なんかしたいって
思ってるからさ
6時ぐらいからね もう
ごちゃごちゃごちゃごちゃしだしたわけ。
鍋… 鍋の音がしたりね。
で 俺は頭にきて
「帰れ!」って言ったんですよ。
昨日 お前どない言うたか分かっとんか
いうて。
俺ら ほとんど寝てないって みんなね。
だから 8時まで起こすな
言うたやろうって言うて。
聞かれへんねやったら帰れって
言うたんですよ。
それを聞いて 保育園の人たちが…
本人たちが びっくりしたんじゃなくて
本人たちは
「あ すいません」って言って済むけど
保育園の感性からしたら
ありえないと思ったんでしょうね。
ある人が 「こんな時って やっぱ 村井
みたいなやつが おらな あかんねんな」
って言ったんですよ。 うん。
名前も言えへんけど。
それで その時から 一応 事務局的な…
事務局長的な役割をしてて。
あと2人 3人でやってたんです。
事務方と会計とか いて。 僕は現場。
ああ~。
うん。
自然に そういうこと
なっちゃったんですよ。
それ以前に そんな世界に
いたわけでも何でもないし
そういう経験も全くないし。
うん。 ほんとに。
自然に そうなっちゃったんですよ。
2週間後 近くの公園にテントを立て
村井さんを中心とした
ボランティア団体が作られました。
リーダーとなった村井さん。
決めたルールは 1つだけでした。
毎朝9時に ミーティングをしてたので。
もう それしか ルールはないんです。
あとは 一切 何もない。
朝9時に起きる。
で そこで
あしたは こういう仕事があるので
今日は こういう仕事があるので
誰か行きますかって言って
手 挙げてもらって 行くという。
不安だとか うまいこと いくか とか
考えなかったよ。
起きてこなかったら起きてこなかったで
いいじゃない とかいう発想だもん。
自分は朝早いから 小さい時から早いから
そら 5時でも4時でも起きて もう…。
僕より年配の人が1人いて
「何で 起きてけえへんのに
注意しないんですか」とか
僕に言うてましたよ。
別に起きてけえへんねやったら
起きてけえへんで ええやん 言うて
あんたも寝たいんやったら
寝とったらって言って。
村井さんのもとには さまざまな事情を
抱える若者が多く集まりました。
不登校の子供たちや
大学を中退した人もいました。
「ボランティアグループなんかな?
よう分からんなあ」とかみたいな。
素足で げた履いて 足の爪に
マニキュアみたいなの しててって。
「あんなもん ボランティアか?」とか。
夜 遅うまで 歌 歌て
どうのこうのとか言うて
そんなんばっかり言われてましたよ。
ただ 僕ら自分たちで
「ボラ捨て山」って言ってたんですよ。
ボランティア捨てる山。
自分たちでですよ。 誇りのように。
つまり あちこち回って
入れてくれなかった人たちが
回り回って ここへ来るんですよ。
それ どうぞ どうぞ言うて 受け入れて。
だから 自分たち…
誰が言うたんか知らんけど
自然に みんなで「ボラ捨て山 ボラ捨て山」
って言うてたんですよ。
そんなふうに人それぞれ なんかまあ
得意なとこというか あるじゃない。
それで ええやない
というふうに 思ってたので。
まさに こう みんな自由に
やってたんだろうけど。
近所の壊れたおうちの片づけ
手伝いに行ったりとか
自転車で 二人一組で
見回りに行ったりとか。
1人だけね あの~
9時には起きてこないのに
黙って その~ 寝たきりのリューマチの
患者さんところに
被災者のところに行ってた子がいるのね。
で お話し相手だとか
食事 作ってあげたりとかしてね。
何となく こう
支援が行ってない人たちを探して
そこに支援しようという
感じになってたね。
回ってて… 皆 それぞれが回ってて
今日は こういうこと あった
ああいうこと あった… まあ 毎日
こういうことがあった ああいうこと
あった いうミーティングはしてるので。
で それをもとに
朝の9時に上がってくるわけだから。
だから どっちかっていうと
まあ その時点で
支援が届きにくい… てか
届いていない人のところに皆行ってたね。
ボラ捨て山に集まった若者たちが
支援から こぼれ落ちる被災者を
救っていく。
その姿を見た村井さんは
いつしか自分たちを
「不良ボランティア」と
呼ぶようになりました。
だから 不良ボランティアが
社会を変えるんだって言ってるわけです。
「よくない人」という意味じゃなくて
「型に はまらない」意味の
不良という意味ですよね。
だから 私たちのボランティアグループに
いた若い人たちが
みんな ほんとに個性豊かで
さっき言うたように
それぞれが やっぱり
どっかで孤独な環境があって
だから 被災者の孤独に対しても
よく理解できる という。
「被災者」というふうに ひとくくりにして
物事を見れないですよと。
被災者でも
いろんな人がいるんだからと。
一人一人の被災者に 目を向けなければ
いけないということですよね。
で できれば 具体的に
「誰それ」っていうふうな個人名なりが
ある程度 イメージできる という つきあい方
とか 見方をしなければいけないという。
「てんと村だより」っていうのを
作ってたんだけど
5月の第6号に もう「最後の一人まで」
という言葉が出てるんですよね。
そういう意識が何となくあった。
「一人」っていうことに対しての 多分
こだわりが あったんちゃうかな 誰もに。
それ裏返せば 自分も ふだん独りぼっち
やった いうのが 多分 重なって
あると思うんですね。 うん。
だから そこへ目が行くっていう。
まあ そういうやり方に
正面から反発する人は いなかったし
そんなことしてたら 逆に たくさんの人
救えないじゃないですかって
そういうこと言う人もいなかったし。
だから 自然に そんな人たちで
構成されてたんじゃないかな。 うん。
中には おっても 不思議じゃないけどね。
ここのやり方 おかしいんちゃう?
とかいって。 いなかったね それは。
村井さんは 被災者一人一人の支援に没頭。
1年後 災害支援のNGOを立ち上げ
本格的に活動するようになったのです。
もう あのころって ほんとに
息つく暇もないぐらい
考えてる暇ないわ いうぐらい。
うん 当たり前のように。
やめるという選択肢がなかった
いうことやね。 続けるというよりも
やめるという選択肢が
なかったんだと思うね。 うん。
神戸に生まれ育った村井雅清さん。
進学した地元の高校では
生徒会長も務めました。
しかし 学生時代に
楽しい思い出は あまりないといいます。
生活保護はね 一時期もらってたりしてて
小学校の時にね もらってて。
なんか だからまあ そんな裕福な家庭では
なかったと思いますよ。 うん。
で 中学から新聞配達を始めて
高校になってから牛乳配達に変わって
働きだしてからも やってたので
8年ぐらい やってましたね。
で 中学の時は やっぱし
「何で僕だけ こんな しんどい思いせな
あかんのかな」とかいうようなことは
思ったりはしてましたけど。
で まあ 友達に会ってもええけど
バイク買ったり ギター買ったりって
好きなもん買えるけど
僕は違うんだもん 家に…。
家に入れるのは
抵抗は なかったけども
「何で しんどい思いせなあかん」
いうのは あったわね。
大学行きたいと思ったけど
別に… いや
行きたいと思ったけど
行けなかったからね。
家庭のことも あるけれども
成績が とにかく もう駄目なので。 うん。
だから もう途中から
働くの当たり前だったしな。
高校卒業後
小さな建材屋で働いていた村井さん。
20歳の時 大きな社会問題に向き合います。
たまたま テレビで見たニュースに
ショックを受けた村井さんは
熊本に向かいました。
当時 被害者と支援者が一丸となって
水俣病の原因を作り出した企業の責任を
問いただしているさなかでした。
村井さんは
被害者を支援する活動に加わり
休みの度に熊本に通うようになります。
ある水俣病の患者家族を訪ねた時
村井さんの支援活動の原点となる
出会いがありました。
そのおうちに行った時に
お母さんが だっこしながら話をしてて
裏から 誰かお客さんが来たんですよ。
その時に お母さんが
「あ ちょっと ごめんね」とか言って
僕の前に ばっと転がして
なんも言わないけど見といてね
とかいう感じですよね。
で 僕は もう
どうしていいか分かんない。
ただ なんか 野菜かなんか
持ってたんだろうと思うんだけど。
ものすごい長く時間
感じましたよ そら。
で 戻ってきはって その時に
僕は この問題から絶対に目を離したら
あかんというふうに思った。
この経験をした ということから
やっぱり逃げてはいけない… かなんか
そんなこと思ったんで。
水俣病の少女と ふたりきりの時間。
村井さんは
人の人生の重さに触れたのです。
その後 オーダーメイドの靴を作る
職人となった村井さん。
水俣病患者の支援活動に
関わっていたことが縁で
ある女性の手助けをすることになります。
水俣病の被害を訴えるために
不自由な足で 国内外を回っていました。
そんな彼女に
歩きやすい靴を作ってはどうかと
支援者仲間から勧められたのです。
え~ そんなん なんぼなんでも
しのぶちゃんの靴作るって
あ~… できるかな~っていう
感じやったんだけど
とにかく やりたかったから
もう とにかく まあ
駄目かもしれないけど やらしてほしい
って言って やったんですよ。
水俣病の一つの特徴として
「ヒョレア」といって
アヒルが歩くような感じで歩くんですよ。
それを 外側を上げて 少し上げて
こうすると こうなるので
広がるのが ちょっと変わるんですよ。
今も大切に持っている
しのぶさんのために作った靴の木型です。
試行錯誤しながらの靴作り。
それは 彼女の生き方に
向き合う時間でもありました。
どうしたら 少しでも
彼女が歩きやすくなるのか。
歩き方を変えたら ほんとに
歩きやすくなるか とかって
もう そんなことしか考えないですよ
やっぱり。 うん。
で しばらくして 本人が
神戸に来たんやったかな。
で どうですかって言ったら
いや 履きやすいですよ といって
言ってくれたので
ああ 大丈夫だったんだと。
人間の足って 右 左も違う 高さも違う
っていう。 皆 違うんですよね。
だから 考え方も感性も違うわけで。
だから 十人十色っていうでしょって。
ボランティアという
ひとくくりには できないし
被災者と ひとくくりもできないと
いうのが 靴からきてるのは確かです。
まあ 偶然なんだけれど
最初に靴やってて
こう 発見した 気付いたこと というのが
今も きっちし つながってる
という思いは あるわけで。
だから
「村井さん 人生変わったよね」って
言われるけど
僕は変わってないといって
いつも言うんで。 うん。
見事に重なってきてるんで。
阪神・淡路大震災には
海外から多くの支援がありました。
村井さんは その恩返しとして
神戸の人たちと共に
海外へも支援を始めました。
数々の支援を通して 村井さんは
ボランティアの在り方を
見つめ直していきます。
神戸の震災から4年後に
大きな地震が起きたトルコ。
神戸の市民から集まった義援金を持って
訪問しました。
同行したのは 神戸の
ボランティア団体を取りまとめ
復興のリーダー的存在だった
草地賢一さんです。
義援金の使いみちを決める住民会議。
そこで 村井さんは 大切なことを
草地さんから教わります。
お金で もめると
後々ややこしくなるので
僕が お金のことは
もう神戸が決めると。
神戸が持ち帰って神戸で決めると
言った時に 草地さんが
ものすごい大きな声で それは お前が
決めるんじゃない! って怒ったんですよ。
びっくりしたよ 声が大きいて。
中身より声が大きいから びっくりした。
で 帰る時に 途中のドライブインの
トイレの所で ごめんなと。
みんなの前で あんな怒って とか言って。
なんか気にしてる? とかって言うから
あまりにも びっくりしたから いや
別に気にしてないですよ とか言って。
実は こうこう こうでな という。
要するに 住民主体ということが
大事なんだよ ということで
極端に言うと まあ
血を見る争いになったとしても
介入してはいけないっていう…
介入っていうか まあ…
まあ 介入というのも難しいけど
なんか誘導したりね してはいけないんだ
ということを言われたわけです。
あ なるほどなあと。 その時に
ボランティアというのは
脇役であって主役じゃないと。
住民が あくまでも主体なんだと
いうことを
教えられたようなもんですよね。
ずっと それは いまだにも 残ってるわ。
住民主体という支援の原則。
その上で
ボランティアに何ができるのか。
もう一歩 踏み込んだ関係が大切だと
気付かされたのが インドネシアでした。
♬~
インドネシアでの支援で力を入れたのは
住宅の再建でした。
地域の文化を生かすことで知られる
建築家に協力を仰ぎ
竹など地元の木材を使った
耐震性のある家造りを
スタートさせました。
すると 住民たちが総出で
一軒一軒 造り始めました。
村に息づく 相互扶助の仕組み。
村井さんは 家の再建を
楽しんでいるかのような村人の姿に
驚きました。
日本とは全く違うなと。
この家を建てる文化というのは。
家の文化そのものが違うんだろうなあと
思いながらね。
これは しかし 逆に言うと
みんなで建てる ということは
みんなを信頼しなければいけないな
というようなことも思ったりして。
非常にこう 災害後の
コミュニティーの再建で
もう一度あの時のように
こう 力を合わせようみたいなね。
自然に そういうものが
あるんだなあと 文化が
というのを まあ 教えられたですね。
この日 村井さんは 食事に招かれました。
山盛りのお米の先端を取るように
勧められます。
本来なら村長が最初。
村井さんは 村人から 復興を一緒に
引っ張る仲間だと認められたのです。
地震の直後には みんな 諦めてしまって
いわば 生きる力が
なくなってしまったみたいでした。
いろんな支援や協力をもらうたびに
生きる力が湧いてきて
頑張ろうという気持ちになれたんです。
支援する側のボランティアが
被災者から新たな学びを得る。
インドネシアを去る直前
棟上げも無事に終わり
記念碑にサインを求められた村井さん。
迷わず ある一文字を記します。
絆。
(拍手)
村井さんは 支援する側と される側を
超えた関係を 感じ取ったのです。
(笑い声)
ああ 今度ね 今度…
そうだねえ 来年になっちゃうわね。
来年。
はい。
人とのつながり つながりっていうのが
やっぱ 大きかったと思う。
いわゆる ボランティアは 主役では
ないんだと。 あくまでも脇役だと。
でも 脇役と主役だから違うんだとか
距離を置くんだとかっていう
感覚じゃなくて
脇役と主役であっても つながり
っていうのは大事だ というのは
もう一方で学んでくる… きた
学んできたことなんですよ。
ボランティアと
被災者との関係っていう
そういう中で
こう 励まされたり
なんか元気をもらったり
っていう中で
自立心が芽生えるとか
そういうことだと思いますね。
それが全てですよ そういう意味では。
関係性としては。
神戸市兵庫区です。 このあたりも
震災直後はですね 住宅が潰れたり…。
<阪神・淡路大震災から12年を迎えた
震災の日
私は 村井さんの事務所から生中継で
災害ボランティアの活動を伝える番組を
放送した>
<神戸の震災をきっかけに
その後も 全国で ボランティア活動を
続ける若者たちがいることを
伝えたかったからだ>
<番組では 19歳で村井さんに
出会ったことが きっかけで
被災地に移り住み
仮設住宅に通い続けている
若者の姿も紹介した>
<番組の最後
村井さんが語り始めたのは
災害ボランティアという
生き方そのものだった>
まさに その 「もうひとつの生き方」と
私は言いたいんですが
ここにいる若い人たちも
みんな こう カツカツの生活の中で
高齢者や障害者に寄り添ってですね
今も活動をしてるんですね。
人間やっぱり一人で生きていかれない
ということを12年前に体感しましたし
お互い支え合って生きるんだということを
12年間ずっと思ってきてますから
そういうのが根底にあると思いますね。
そういう人たちが いるんだということを
是非 知っていただきたいし。
村井さんね あの~ まあ その
200万前後ぐらい 年間で
やっと食べるのが カツカツでも
人のために何かしてる
っていうことの意味ですね。
人間一人 一生にできることって
そう大してない。
で そういう中でね 一人の人が
先ほどの鈴木さんのように
ぽっと こういう仮設に
入っていくことによって
そこに新しい場や空気や あるいは
人が生きる力を こう引き出してくる
本来こう沈んでしまってる生きる力を
もう一度 引き出すという
これ大変なことだと思うんですね。
そういうふうに生きていきたいと
思ってるんですよね。
それで 改めて
まあ 12年っていうのは 一つの…
まあ 日本だと えとが
ワンサイクルするわけですけれど
もう一度ここにいる みんなと それぞれの
生き方を こう向き合いながらですね
一歩ずつ進んでいきたいなと
まあ こんなふうに思っています。
先ほど 柳田先生が
おっしゃっていただきました
まあ カツカツ カツカツというのは
あんまり言うと
テレビ見てる人が やめようか
というふうに なるかもしれないけれど
ここにいる若い人たちの笑顔を
見ていただいたら
こんなに生き生きしてる人たちが
いるんだ ということで
まあ 是非ですねえ 豊かさとは何か
というのを 改めて考えていただいて
決して いい会社だとか あるいは上を見て
生きるということだけじゃないよと
いうことを
感じていただければなと思います。
この活動の中で やはり ここで最後に
決定的に強調したいのは
もうひとつの生き方 これがね
被災者だけじゃなくて
今 日本人に問われてることでは
ないかなって思うんです。
どうも いろいろと
ありがとうございます。
<震災は 掛けがえのない
多くのものを奪った。
その中から生まれた災害ボランティア
という「もうひとつの生き方」は
私にとって希望だった。
ボランティアは
社会を変えることができるのか。
村井さんたちの生きざまを
見続けたいと思った>
どこの道路が走れてるのか
ということ 知りたいんですよね。
<東日本大震災が起きた時も
打ち合わせのために たまたま
私は村井さんの事務所にいた。
すぐさま スタッフにビデオカメラを
持ってきてもらい 撮影を始めた>
<一刻も早く被災者のもとへ。
地震発生から3時間余り。
午後6時には
第一陣が事務所を飛び出していった>
すいません。 お願いします。
≪はい どうも!
気をつけて。 行ってらっしゃい。
うわ~…。
村井さんも被災地に駆けつけます。
村井さんは ボランティアに
直接 伝えたことがありました。
足湯です。
自分の小指同士を
こういうふうに こう置いて
そして 指の腹をですね
こういうふうに してあげます。
だんだんですね
黙っとったら しゃべるんで
しゃべることに対して
相づちを打つぐらいの感じで
ああ そうですか 大変ですね~
みたいなことにしておいて
こっちからは しゃべらない。
基本的には こっちから しゃべらない。
足湯は 神戸の震災に駆けつけた
ボランティアが始め
その後
多くの被災地で行われてきました。
村井さんが
足湯の本当の力を知ったのは
2004年に起きた
新潟・中越地震の時でした。
宮崎からボランティアに来た人が
報告してくれたのね。
何を言ったかというと
私が担当した おじいちゃんがいて
そのおじいちゃんが
日本一のコイを死なせてしまったと。
何回 足湯やっても
毎日 同じことを言うと。
あ そうなんだって。
で ある日 ピタッと
止まったって言った それが。
え~ 何ででしょうね とか言って。
その人いわく 多分 死んだコイが
生き返ってくるなんて思ってないと。
でも 誰かに聞いてほしかった
ということじゃないかなあと。
そうだよな きっとって。
で 僕は その時に
つぶやきって そういう意味が
あるんだと。 ね?
できないことなんだけれども
聞いてほしいっていう
心のひだみたいなものが
あるんじゃないかなと。
村井さんは
ボランティアの若者に伝えました。
足湯によって 被災者の心はほぐされ
次第に本音を漏らしてくれる。
そのつぶやきを心に留め
被災者のそばにいてほしい。
どこ出身ですか?
≪出身は広島なんです。
あ~ そうですか。
津波で唯一残った
財布の中に入ってたね
母のお財布の中に入ってた
指輪なんだけど…。
みんな流されちゃった。
唯一残った指輪。 うん。
養殖… ワカメとかホタテとかで
今まで そうやってたの みんな流されて。
うん 津波でね。
ボランティアは
足湯でのつぶやきを書き留めていきます。
その被災者一人一人の言葉から
ボランティアに何ができるかを
考えるのです。
足湯やってて 目の前に現れた人が
なんか こう すごく親しくなって
で やっぱ次行ったら
そのおうちに行こうとか。
で やってるボランティアに対しても
その人は
「あ また来てくれたん」とか
「また来てね」とか。
こういう関係の中で 最後の一人…
たった一人に寄り添うという関係が
足湯というものを通して
成り立ってるわけでしょ。
で 一人にこだわるというところが
どれだけ この… 何ていうか
地に着くかどうかっていうかな。
で 変わってくるよね。
<阪神・淡路大震災から27年>
こんにちは。
<ボランティアを取り巻く環境は
大きく変わってきた>
こんにちは~。
<その変化を 一番強く感じているのが
村井さんだ>
何です? これ。
いや 原稿。
原稿 書いてんねん。
へ~。
「激減!」。
ん? うん。 激減。
どういう意味?
え? 減るんや。
ハハハッ 減る…。
読んで字のごとく減るんやん。
もう これからは。
え?
これからは減るんや。
ボランティアどんどん。
<この時 私は
かつて村井さんが言っていた
「もうひとつの生き方」という言葉を
思い返していた>
<災害支援の現場では
ボランティアを受け入れやすいよう
システム作りが進んできた>
<被災地には
必ずボランティアセンターが設置され
ボランティアを希望する
個人 団体は登録。
割りふられた支援先で
活動することが多い>
<東日本大震災以降 経験を積み重ね
被災地に欠かせない 災害支援の
エキスパートといえる存在になった人に
私は 何人も出会った>
大動脈 大静脈
私たち毛細血管。
<しかし その一方で
神戸の時のように
被災地に自由に入って活動することは
はばかられる空気も生まれている。
コロナ禍が それを更に加速させている>
<ボランティアという一人の人間と
被災者という一人の人間との出会い。
この一人から
目の前にいる あの一人へ。
そこから生まれたのが 型に はまらない
不良ボランティアであり
「もう一つの生き方」だった。
それは 今のシステムとは
相いれないものかもしれない>
もう一つの生き方を…
僕も最近チラチラ
もう一つの生き方
って言ったよなと
あれって どういうことやったんかなって
いうのを考え直させられてるんだけど。
自由に こうボランティアは
ボランティアでいたらいいわけで
そいつらの活動の場所も ちゃんと
邪魔せんと… 提供はせんでええから
邪魔せんと させたったら
ええやんかいという話でしょ。 そうだね。
勝手にするなとか 勝手に入るなとか
ちゃんと届けろとか
そんなんばっかしやもん
今までも。 うん。 なるほど。
多分そうなると思うよ。
自由に動ける人っていうのは少ないし
自由に動こうという発想すらが
もう どんどん なくなるわ。
災害って そうではあかんのやって
なっちゃってるもん 今も。 うん。
誰でも行って 勝手にやったら
ええやんって なってないもん。
もう一つの生き方から どんどん なんか
離れていっちゃってますね。
そうですね。
一人一人が
あの27年前を こう入り口として
一人一人の生き方とかが
変わったという
そんなふうには
なってないじゃないですか。
なってないですよね。
なってないと思うんですよ。
そこが ず~っと
何で? って思って。
じゃあ ボランティア元年って
称賛したのは 何だったの?
というのが
僕の中にあるわけですよ。
27年前の
普通の人たちが頑張ったの
その普通の人たちは
どこにも入られへんやん。
そしたら 違うもんになるやん。
もう一つの生き方でも何でもない。
うん…。
まあ でも残念ながら まあ… 難しい。
もう一つの…
27年前の もう一つの生き方を
こう 形にしていくというか…。
まあ もう難しいな 多分。 うん。
そんな…。
う~ん 難しいと思うな。
代表を退き
一度は現場から遠ざかった村井さんが
今 通い続けている被災地があります。
豪雨水害で甚大な被害を受けた
球磨川流域。
村井さんは 被災直後
支援物資を車に積んで
たった一人で現地に入ります。
コロナの感染拡大により 県外からの
ボランティアは制限されてきました。
人手が足りない中で
被災地の復興は進められてきました。
毎回 訪ねるのは
被災者の支援を自ら買って出た
地元の人たちです。
球磨村の区長 大原伸司さんも
仕事の合間を見て
仮設の見守り訪問をしています。
おはようございます。
あ どうも。
あ~ お世話になります いつも。
ありがとうございます。
あら あら あら まあ。
ありがとうございます。
ありがとうございます いつも。
あの~ 滑り台のあるとこ
ぐるっとして 一周回ります。
ボランティアがいなくても
自分たちの力で
日常生活を取り戻そうとする人たち。
村井さんは 「もう一つ」の
被災地支援の在り方を見たのです。
その中でも 村井さんが
特に強い関心を持っているのが
ある女性が行っている支援です。
お疲れさまです。
はい。 じゃあ すぐ配りますね。
園田さんとの出会いは
村井さんが 最初に人吉を訪れ
支援物資を渡す相手を
探していた時のことでした。
家の中に入れんといかん。
やっと入れたんですよ 丸2年ぶり。
ほんとは
入れてやらんといかんのに。
あの直後に入って
一人で あちこち回ってる中で
たまたま 車で走ってる時に
物資がありますという紙
貼ってあるのが チラッと見えたの。
それで あっと思って
そういうとこ探してたから
意識的に探してたから あっちこっち
うろうろ うろうろ車で回ってる時に
パッと それが目に入ったので
それが最初の出会い。
で 「何やってんですか?」って言ったら
いや 救援物資をね ここで集めてて
言うから。
村井さんの目に留まったのは
園田さんの自宅のガレージ。
被災直後に急ごしらえし
支援物資を 誰もが自由に受け取れる
場所をつくっていたのです。
結構 救援物資で集めてるとこ
いうのは それまでも見てきてるけど
熊本の水害以後
それまでの団体のあれも見てきてるけど
雑然としてるのが普通なんですよね
直後の救援物資を集めるとこ。
結構 リサイクルショップかな いうぐらい
きれいにしてはってね。
全然違うなあっていう感じで。
で まあ 2回目の時に
え~と 被災者が来て
なんか こう物色してるのも見て
なんか いろいろ話をしてはるんやけど
いや 非常に丁寧な…
まあ 接客といったら変だけど
寄り添ってて。 うん。
やっぱ 感性がすごいよね この人は
っていうふうに思い始めたね。
ある時に あの~ まあ女の人が来て
なんか 服をね 探しに来たんだけどね。
こんな帽子もいいよ とか
あ こういう こうショール
ちょっと巻いたら とか言って
コーディネートしてるわけですよね。
そしたら 「いやいや そんなん」とかいって
おばちゃん言うんだけど。
「もう そろそろ たまには
外へ出かけていく時に
こういう格好したら どう?」
って言うんですよ。
はあ~ これは すごいと思ったね。
それで その人が あの
「そうかなあ こんな恥ずかしいなあ
したことないのに」
「いやいや よく似てるよ」とか言って
姿見も ちゃんと置いてあって うん。
いや すごいと。 ただ 救援物資を
提供してるだけじゃないって。
まさに こう… 何ていうのかな?
きざな言い方すると
園田さんは もう心を提供してる。
被災者の心のひだに寄り添ってる
確実にね。
やっぱ行って しばらく行って
すぐ思ったのは もう
阪神・淡路の時も こうだったと。
これが 俺の原点やったはずやのに
っていう感じだね。 うん。
彼女の仲間
メンバーがやってることって
別に みんな ボランティアと意識して
やってるわけじゃないし
支援という言葉を 別に出さないし
あ ここは基本的に違うなと。
そうそう それで 阪神・淡路の時も
最初は 皆 そうなんだと。
自分が ボランティアやってるなんて
いうふうに思ってない 当事者は特に。
「普段着の支え合い」だというふうに
僕は そういう言葉 使ってるんだけど。
ボランティアって 別に意識してない。
多くの人が意識してない。
外側の人が 「あんた ボランティア
行ってきたの?」っていうのには
「まあ…」とかいう感じで
返事してるだけで
行ってる人間は 「俺 今から
ボランティア行くねん」なんて
あんまり
そういうこと言わないですよね。 うん。
外側の人が言うだけやもん。
でも 行こう なんかしたい なんか
役に立てば ということで行くわけですよ。
それって いわゆる ボランティアという
言葉に出ない手前の話やん。
でも その手前の第一歩が大事なんだと
いうふうに思えてきたわけよ。 うん。
たった一人で
被災地支援に動きだした村井さん。
一人での活動は
神戸の震災以来 初めてのことでした。
まあ一人で行って 一人で見て
見たままを それなりに受け止めて
さあ どうしようかと
いうふうに考えていくと。
だって
その最初の自然な動きっていうか
僕自身の動きだけじゃなくて
被災地の動き
これが もっと大事なんじゃないか
ということを思い出したんですよ。
27年前も そうだったと。 うん。
だから ああ これ
一人だから できたんだよなあって。
♬~
何かしたい。 何か役に立ちたい。
その思いに突き動かされ
村井さんが
支援に乗り出した国があります。
アフガニスタン。
紛争地の支援は
それまで行っていませんでした。
しかし 村井さんは 現地に向かいます。
目に留まったのは
戦火で焼け焦げた ぶどうの木。
震災から7年たった神戸の
ある風景と重なりました。
というのは 偶然 行く直前の日に
電話があって
地震で あの~ 火災が起きた時に
ここにあった 近所の人の
庭にあった柿の木が焼けたんだと。
だけど これ7年たって
芽が出てきたって言ったんですよ。
ええ!? とか言って そんなん…。
もう炭化してたんですよね
もう真っ黒になって。
そんなの芽が出るのん? って思ったね。
よく分かんないけど
専門家じゃないから。
でも7年もたって 芽が出たいうのが
ちょっと びっくりしたね。
そういう話を聞いたもんだから
アフガニスタンで見た
焦げた ぶどうの苗 見た時に
あ これは絶対 育つと。
よみがえるというふうに こう
何となく直感… 直感で そう思った。
村井さんは 寄付金を元に
新たな苗を買うための融資制度を作り
農家を支援。
この20年で
550世帯が 再び畑に戻ってきました。
よみがえった ぶどう畑。
村井さんは
加工された干しぶどうを 日本でも販売。
今も アフガニスタンの人たちの暮らしを
手助けしています。
片っぽ人的災害で 片っぽ自然災害で
それ 違うでしょうなんて言う
簡単に言う人おるかもしれないけれど
それは違うでしょって
そこで あれだけ困ってる人が増えて
どんどん どんどん
泣き叫んでるのにね
それを見て見ぬふりするっていうのは
それほど おかしいよって そんなのは。
なんかやろうよって
なんかしよう 声出そうよとか
そういうの考えるん違うん? って。
う~ん。
それは やっぱ一人一人が
どう向き合うか というとこなので
あの27年前も 一人一人の人間が
あの阪神の悲惨さを見てきたわけだから。
向き合ってんだよ 自分とね。
自分と向き合ってるんですよ。 うん。
一緒なんですよ。
僕の中では一緒なんです。 うん。
♬~
≪はいはい。
一緒に乗ってくれる? 一周 回って。
はいはい。
僕 向こうで待っとくから。 は~い。
向こう回って行きま~す。
♬~
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