100分de名著 ハイデガー“存在と時間” [新](1)「“存在”とは何か?」[解][字] …の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

100分de名著 ハイデガー“存在と時間” [新](1)「“存在”とは何か?」[解][字]

「存在とは何か」。古代ギリシャ以来続く根源的な問題を問うためにハイデガーは「存在と時間」を執筆した。彼が「存在とは何か」を明らかにするためにとった方法とは?

番組内容
ハイデガーは「存在とは何か」を解明するために、まず「存在の意味」を問わずにはいられない人間に着目する必要があると考えた。世界の中に存在し自分以外の存在者と関係をもち自分自身の存在の仕方を自ら決めていかざるをえない存在者が人間であるという意味を込めて人間を「現存在」と呼ぶことにしたハイデガーは、この「現存在」の在り方を徹底的に分析することを始める。第一回は「存在とは何か」という根源的な問いに迫る。
出演者
【講師】関西外国語大学准教授…戸谷洋志,【司会】伊集院光,安部みちこ,【朗読】野間口徹,【語り】加藤有生子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格

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  17. 非本来性
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  19. 伊集院
  20. 学問

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

古代ギリシャ以来の
哲学における問い…

20世紀のドイツで その問いに挑んだのが
マルティン・ハイデガーです。

「存在と時間」で
彼が 手がかりにしたのは…

第1回は 執筆の背景を紹介しながら
「存在とは何か」を問う意味

そして それを問わずにはいられない
「人間」について考えます。

♬~
(テーマ音楽)

♬~

「100分de名著」
司会の安部みちこです。
伊集院 光です。

伊集院さん
久々に哲学の時間ですよ。
ほほう。

しかもですね 以前学んだ
カントの「純粋理性批判」と並ぶ

三大難解哲学書のうちの一つ。

難しいっていうことが分かって
難しい分には

まあ 何とか立ち向かえると
思いますんで。 はいっ。

まあまあ 心してはおります。
はい。

ということで 今月は
ハイデガーの「存在と時間」ですね。

実は 今を生きる私たちの身近な問題に
ヒントをくれる本なんですね。

では 指南役 ご紹介しましょう。
哲学者の戸谷洋志さんです。

よろしくお願いします。

Jポップを題材にした著書や

対話型のワークショップ
「哲学カフェ」で

分かりやすく
哲学を広めています。

ドイツでは ヒトラー率いるナチスが
台頭した時代でした。

ハイデガーが生きた100年前に 現代を重ね
「存在と時間」を 今読む意義に迫ります。

100分で その膨大な内容を全て読むのは
ちょっと難しいということなので

今回は 戸谷さんに
そのエッセンスを読み解くための

キーワードを最初に頂きます。

キーワードは ズバリ「責任」です。

私が この問題に
関心を持つようになった きっかけが

2011年の いわゆる 3.11の時でした。

当時 SNS上で
放射性廃棄物の影響を恐れる人々と

それを楽観視する人々がですね
攻撃的に罵倒し合うような光景を

目の当たりにしまして
大変 疑問に思ったんですね。

…と思っております。

こうした問題を考えていく時に
「存在と時間」は

大きな手がかりになると
思っておりまして

私たちの日常に結び付けて
読み解いていきたいと思っております。

この本 同時にですね 反面教師として
読むべき本とも言えるんですよね。 はい。

というのも この「存在と時間」の著者…

いきなり ちょっとショッキングな。
そうなんです。

こちらの年表で見てみましょうか。

1927年の この「存在と時間」の刊行で

一躍 時代の寵児になった
ハイデガーなんですけれども

1933年に ナチス政権が成立すると
入党するんですね。

人間の あるべき姿を追究していたはずの
ハイデガーが

何で ナチスに加担してしまったのか。

これは 当時の哲学界に 非常に
大きな衝撃を与えることになりました。

ただ 「存在と時間」をよく読んでみると…

今回は 両義的な視点を持って
この本に迫っていきたいと思っています。

さあ では まず ハイデガーの人生から
振り返っていきましょう。

マルティン・ハイデガーは

南ドイツの静かな田舎町
メスキルヒで生まれました。

二十歳の時に故郷を離れ
名門 フライブルク大学に入学。

当初の専攻は キリスト教神学でしたが

フッサールの著作から 哲学にのめり込み
哲学部に編入します。

卒業後は 郵便局で仕事をするかたわら

固定給の支払われない講師として
大学で教えていました。

不安定な講師職を脱したのは
マールブルク大学に移った 34歳の時。

しかし ここでのポジションも
員外教授という

教授会のメンバーと見なされない
不遇なものでした。

昇進を阻んでいたのは およそ10年間
著作がないということでした。

焦りを抱きつつ

37歳の時 短期間で書き上げたのが
「存在と時間」です。

当初は
上下二巻の著作になる予定でしたが

とりあえず
前半部分を 単行本として出版します。

発表直後から高い評価を得たハイデガーは
マールブルク大学正教授の地位を獲得。

更に翌年 母校フライブルク大学に

正教授として
凱旋することになったのです。

のっけから ちょっと面白いですね。

本も出してないようなやつは
教授になれない。

じゃあ出しますで 書いたやつが

世界を震撼させちゃう感じって
すごいですね。

時間がなかったハイデガーは
書けたところから 印刷に回していって

印刷が進んでる間に
続きを書くというような

非常に タイトなスケジュールで
「存在と時間」を書いています。

で こうした無理がたたったためか…

その理由のところは
どういうことなんですか?

ハイデガーが…

実は…

それなのに
哲学の歴史の中では まるで この問題は

もう解決されたものであるかのように
語られているという

問題提起をしたんですね。

哲学を取り上げる時に 僕の中で うわっ
出ました 「存在」という感じなんです。

そもそも 何で この「存在」というのは

哲学 イコール 「存在」みたいに
なっちゃうんですか?

はい あの~
それは すごく重要なご指摘で

存在をめぐる問いというのは
哲学だけではなくて

あらゆる学問の基礎なんだというふうに
彼は考えていたんですね。 はい。

例えば 数学という学問は

数という概念を 最も基礎的な概念と
しているかもしれませんし

物理学という学問がですね
物体とか 物だと思うんですね。

じゃあ この 数とか物体というのが
そもそも何かと考えていくと

「存在」の一つのあり方であるという
説明になると思うんです。

じゃあ そもそも 存在が何かが
分かっていなかったら

それを前提にしている
数とか物体の概念も

よく分からないままに
なってしまうじゃないかと。

従って
あらゆる学問の基礎を考える上で

最も重要な問題なんだと
彼は考えていたんですね。

では 「存在」という概念は
何かというところから

入っていこうと思うんですけれども

ハイデガーによりますと
私たちは 「存在」という概念を

「いま この瞬間に モノが目の前にある」
ということとして

理解しているんだと言っているんですね。

当たり前なんじゃないか
という気がしますけれども

ハイデガーは
ここに疑問を持ったわけですよね。

はい そのとおりです。

この考え方では
説明することができないような

存在のあり方もあるんだと
彼は考えていたんですね。

例えば 人間。

人間というのは 誰しも 過去の思い出とか
記憶を持っていますし

未来への展望を持って
生きていると思います。

つまり 人間とは単に 今 この瞬間だけに
生きてるわけではなくて…

…と ハイデガーは考えていました。

え リンゴで言うと
どういうことですか?

リンゴが目の前にあるから存在する は
まあ 分かるじゃないですか。

物体として
私たちが認識しているものは

基本的には 「いま この瞬間にある」
という形でしか存在しません。

ただ 例えば 縄文時代に作られた土器が
ここにあるとして

この土器は 現在にあるわけですよ。

でも…

じゃあ 縄文時代って
そもそも どうやって存在するのと。

これは こういった
目の前にあるというモデルでは

説明のできない
存在のあり方なのではないかと思います。

うん 何となく。

入り口には
手が かかってる感じはしました。 はい。

では
冒頭の言葉から 読んでいきましょう。

朗読は 俳優の野間口 徹さんです。

なぜでしょうか?

それは 「存在している」という言葉が
一体 何を指しているのかが

そもそも 分からなくなっているからだと
ハイデガーは言います。

例えば 今 皆さんが
番組をご覧になっているテレビ。

それは 「存在」でしょうか?

ハイデガーによると それは あくまで
「存在しているもの」であって

「存在」そのものではないそうです。

こんがらがってきましたね?
ちょっと整理しましょう。

例えば 「テレビがある」
という文章において

テレビは
あくまで 「存在しているもの」であって

「存在」そのものではないと
ハイデガーは言います。

「存在」の概念として
考えられるべきなのは

「存在しているもの」ではなく
「がある」の方なのです。

ところが これまでの哲学では
「存在」の意味を解き明かすために

「テレビ」にあたるものにばかり
考えを巡らせていたと

ハイデガーは指摘しました。

「○○がある」という文のうち

「○○」に当てはまるものを

存在しているもの
つまり 「存在者 ザイエント」。

「がある」に相当するものを

「存在 ザイン」と呼んで

ハイデガーは 両者を区別しました。

そして 「存在者」よりも 「存在」について
考えるべきだと主張したのです。

哲学史において
ハイデガーが成し遂げたのは

「存在とは何か」という問いを洗練させ
刷新することでした。

つまり 問いに対する
「答え」を出したのではなく

より望ましい答え方に迫るための
「問い方」を提示したのです。

では 一体 どのようにして

「存在とは何か」を
問えばいいのでしょうか?

ハイデガーが注目したのが 「人間」。

人間という「存在者」が持つ

他の「存在者」とは違う特徴を
分析していきます。

存在しているものを ハイデガーは
「存在者」という言葉で まず呼んでいます。

そうした存在者の中で 存在の意味を
問うことができる存在者に

ハイデガーは 「現存在」という
特別な名前を与えています。

まず この問題について考える
人間の存在から

考えていこうということなんですね。

何で 「人間」って言わないのかな
と思いますよね。
そうだね。

人間という言葉を使ってしまうと

偏見や先入観を
呼び込んでしまうからなんですね。

例えば 人間は動物の一種であるとか
人間は自由な意志を持っているとか

こうした…

ですので あえて専門用語
「現存在」という言葉を作っています。

いや
何か 新しい ものの考え方をする時に

新しい言葉が要るのは
すごく よく分かりました。

難解にするために作ったわけじゃなくて

ある意味 フラットにするために
作ったんでしょうね。

そう そのとおりですね。

ハイデガーが こうした言葉遣いを
使ってる意図だと思います。

じゃあ さまざまある存在者と比較して

「現存在」というのには
どのような特徴があるんですか?

ここからですね じゃあ 人間はどうやって
自分を理解しているのかという問いが

新たに浮上してくることになります。

人間 現存在の特徴とは
自分自身を理解しているということ。

しかし それは 自分自身を熟知し

明確に説明できるという
意味ではありません。

例えば スキップができる人が

そのやり方の全てを
言葉にできるでしょうか?

たとえ 説明できなくても
やり方は理解しているはずです。

むしろ 説明なしでスキップできる方が
理解している可能性もあります。

ハイデガーは 自分自身への「理解」を
このような意味で捉えています。

それは ひたすら自分の内面と向き合い
説明を求めることではないのです。

更に 人間は どんな時でも同じように
存在しているわけではありません。

例えば 絶好調な時と
機嫌が悪い時の自分は

まるで 別人のように思えます。

しかし
別の存在になったわけではありません。

人間の存在には 多様な現れ方
「様態」があり

理解するためには
さまざまな様態への分析が必要です。

しかし 人間のあり方は
あまりにも多様です。

そこで ハイデガーは
大きく2つに分類しました。

ハイデガーは 大きく
現存在による この自己自身の理解は

2つのタイプがあると言っていて
「本来性」と「非本来性」なんですね。

平たく言えば 「本来性」というのは

自分らしさに従って
自分を理解するタイプ。

「非本来性」というのは

世間や みんなが求めるものに従って
自分を理解しているタイプのことです。

この違いというのは 例えばですね

「あなたは何者ですか?」と
いきなり聞かれた時に

自分自身のあり方から説明されるのか

それとも 世間の尺度に従ったものとして
語られるのかということの

違いでもあります。

例えば お二人は
何と お答えになりますか?

いや 間違いなく タレントだって
伊集院 光は…

今のは?
2ですね。

あ でも どう考えても

2以外のものを持ってない…。

え で 安部さんは? 安部さん 「私」は?

もう絶対 2ですよね?
絶対 2ですね。

絶対 2ですって。
え~ そうですかね?

これ不思議なのはさ
俺たち 何で 2なのが嫌なのかね?

何か 2になることが恥ずかしい。
そりゃ 2よりは1の…。

この非本来性から 人間の無責任さ
責任の問題というのが

深く関係してくることになるんですが

それについては
次回 詳しくお話ししたいと思います。

なるほど。 うわ~ やっと
オープニングに出してもらった

その 「責任」っていうテーマと
非本来性で…。

他人に分かるやつは 「タレントです」しか
ないじゃんっていうことだから

そうすると 自分が
自分で担保できるものが 何もないのに

無責任に 他者の意見と迎合していくって
最初の話につながってく…。

はい おっしゃるとおりです。
伊集院さんが 本当に自分の意思で

「タレントです」と言ってるかどうか
ということですね。

非本来性に陥っていると

そうとは言えないかもしれない
という話になっていくわけです。

ここから ハイデガーは どのように
まあ人間 現存在に迫っていくんですか?

ハイデガーが重視したのは
現存在を あくまでも

ありのままの姿で洞察して
そのあり方を解明することでした。

そもそも この存在という言葉 ドイツ語で
「ザイン」というふうに言うんですが

ハイデガーによればですね 語源的には

「何かの傍らに とどまるもの」という
意味を持っていたそうなんですね。

ですので 人間が存在するということは
何かの傍らに生きていること。

こうした 人間が置かれてる
日常を抜きにして

存在を考えることもできないと
ハイデガーは考えていたんですね。

日常を重んじる
ハイデガーのアプローチは

花について 理解を深めようとする
姿勢にも似ています。

例えば
チューリップで考えてみましょう。

チューリップという花を理解するために
球根を解剖することは無意味です。

まずは 芽を出し 茎が伸び
それから花が咲くのだということを

理解して 待たねばなりません。

その過程で どのように土に根づくのか

水を必要とするのかを
知ることになります。

こうした 環境への理解が
チューリップへの理解を深めるのです。

同じように 周囲の環境を無視して
人間を理解することはできません。

ハイデガーは 人間が置かれている
環境のことを 「世界」と呼びます。

そして どんな時でも こうした環境の中で
生きているという意味で

現存在を <ある世界の内に存在するもの>
「世界内存在」と呼びました。

この 「世界」という言葉なんですが
彼が念頭に置いているのは

人間の暮らしの場であると
言うことができると思います。

…と 彼は考えていたのだと思います。

ここにもハイデガーの旧来の哲学に対する
批判があらわれています。

例えば…

まあ この カントの問いかけ自体は
非常に重要なんですが

世界と人間の間にはですね
こう ちょっと距離というか

分断が生じてしまうわけですね。

…というのが ハイデガーの訴えです。

何か ちょっと想像して 思ったのは

僕は ゲームが大好きだから
昔のゲームって 自分だけです。

やるプレーヤーは 自分だけ。

今のゲームは
ネットワークで つながってますので

その人たちも 僕を探そうとしたり
僕を見つけたりとか

もしくは 僕から逃げようとしたりを
ずっと してるっていうのの差みたいな。

私も よく ゲームをするんですけど

同じゲームで 1人で閉じ籠もって
AIを相手にしている時と

他のプレーヤーが
世界から参加してる時で

少し 立ち居振る舞いが
変わったりするんですよね。
はい。

それが ハイデガーに
ちょっと重なる つながるんですか?

そうですね。 「世界」と言う時に これは
単に 私だけの閉ざされた場ではなくて

他の人も その世界の中に入ってくる。

で こう
世界が重なりあっていくわけですね。

そのように
世界が重なりあっていく中から

世間であるとか
空気のような場が作り出されていく。

次回は この問題について
彼の洞察に迫っていきたいと思います。

何か… 入り口にも たどりつけなかったら
どうしようって思ってたんですけど

僕は 2回目に進みたいです。
ワクワクしてます。

戸谷さん ありがとうございました。

ありがとうございました。
ありがとうございました。

♬~

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