出典:EPGの番組情報
100分de名著 ハイデガー“存在と時間”(2)「“不安”からの逃避」[解][字]
ハイデガーによれば、どんな人間でも、その人生はさまざまな可能性に開かれている。しかしそのことは人間に対して「不安」をもたらしもする。「不安」は人間の条件なのだ。
番組内容
人間は、「不安」から逃れるために「世間」に従属しようとする。その中に安住していれば、自分自身の根拠のなさから目を背けることができるからだ。ハイデガーはこのような生き方を「非本来的」であると指摘し、むしろ「不安」をきっかけにして「本来的な生き方」に覚醒できるのだと説く。第二回は、最重要概念「不安」の意味を深掘りし、私たちはなぜ「不安」から目を背けようとするのかを明らかにする。
出演者
【講師】関西外国語大学准教授…戸谷洋志,【司会】伊集院光,安部みちこ,【朗読】野間口徹,【語り】加藤有生子ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
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- 日常
- 加担
- 状態
- 世間
- 特徴
- 理解
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
人間に 無責任な生き方をもたらす
「世人」という概念。
それは 私たちに
かりそめの安らぎを与える代わりに
自分で考える力を捨てさせます。
第2回は 「世人」という概念と
「不安」の正体を考察し
私たちが無責任となるメカニズムを
探ります。
♬~
(テーマ音楽)
♬~
「100分de名著」
司会の安部みちこです。
伊集院 光です。
さあ 今月は
20世紀の哲学を代表する名著である
「存在と時間」を読んでいます。
すごく難しい本なんだっていうことを
分かった上で
理解できればなと思って
取り組んでいます。 はい。
では 指南役 ご紹介しましょう。
哲学者の戸谷洋志さんです。
よろしくお願いします。
お願いします。
よろしくお願いします。
前回までで 「存在」を考えるためには
まず人間について考えなければいけない。
その人間は 日常の中にいるものとして
考えなきゃいけないというところまで
学んできましたね。
では 人間は日常の中で
どんなふうに存在していると
ハイデガーは言ってるんですか?
…と考えていました。
まあ 前回登場した
ハイデガーの用語でいうと
「非本来性」の中で生きている
ということになります。
自分ではないものによって
自分を理解するということは
誰かから あるいは
どこかから借りてきた言葉で
自分を規定しているということを
意味しています。
で こうしたですね 自分ではないものを
私たちに もたらすものを
ハイデガーは
「世人」という言葉で呼んでいます。
こういう字なんですね。
ほう。
今回 使用している日本語訳では
「ひと」という振り仮名が
振られているんですが
音読での分かりやすさを優先して
「せじん」と読みたいと思います。
これ もうちょっと 今の私たちに
分かりやすい言葉で言うと
どうなりますか?
いわゆる 世間であるとか
その場の空気のようなものに近いと
思います。
ハイデガーは この世人という概念から
私たちが陥っている 無責任な状態や
同調圧力の問題を分析していくんですね。
この辺りの議論というのは
現代人の私たちにとっても
少し 耳の痛いものになるかもしれません。
では 世人について
「存在と時間」から読んでいきましょう。
朗読は 俳優の野間口 徹さんです。
ハイデガー独特の言葉 「世人」。
何となく 「みんなも こうしている」
「こうしたほうがいい」という
規範をもたらす「空気」のようなもの。
それが「世人」です。
日常において 現存在 人間は
世人に従って 生きています。
言いかえるなら
人間は どんな時でも空気を読み
「みんな」が正しいと思うものに
照らし合わせて
自分を理解しているのです。
自らを世人に引き渡してしまった
現存在は
自然に 世人が考えるように考え
行動します。
その影響は 日常の隅々にまで及びます。
例えば 読書や絵画鑑賞を
楽しんでいる時すら
私たちは 空気を読んでいるのです。
で ここ 最後の部分なんですけれども
「世人が 日常性の存在様式を
定めているのである」ということは
私たちの感動ですとか 行動に
主体性がないということを
言っているのでしょうか?
例えば 美術展に行って 絵がかかっていて
何か 絵だけを見てると
すごい へんてこだなと思うんだけど
その横に解説が書いてあって
例えば それが
ピカソの こういうことを表現した絵で
ここが 歴史的に画期的なんです
みたいなことを読むとですね
「ああ すごい絵なんだ」というふうに
見方が
ころっと変わってしまったりすると。
で まあ これも
ハイデガー風に言えばですね
作品そのものを見ているんではなくて
みんなが 作品をどう評価してるのかを
気にしているにすぎないと。
あと まあ
お笑いなんか 分かりやすくて
若手が言うのと 大御所が言うので
やっぱり 面白さって変わっちゃうし
もっと言えば
周りが笑ってる 笑ってないで
やっぱり
面白さ 変わってしまいますからね。
ただ 注意するべきことは…
まあ ですので 意志が弱い人が
特別 非本来的になってるんだとか
そうしたことを
彼が考えていたわけではないんですね。
この 世人という概念は
特定の誰かと呼ぶことができない
こう ふわふわとした
捉えどころのない雲のような
そういう不気味な存在として
この本の中では描かれています。
もう一つ 見ておきたいのが ここですね。
…と言っているんですけれども
「いや 私は 空気読んでなくて
自分の意思で こう決めました」と
いう人もいますよね?
え~ これは 大変皮肉な話なんですが
そうやって 自分だけは空気を読まないで
自由に生きてるんだと
思っている人の方が 実は すごく深く
世人に飲み込まれているんだと
ハイデガーは考えるんですね。
いや ほんと そこですよね。
僕ね 「はやり物とか ベストセラーとか
俺は 手 出さないようにしてるんだ」
という話をした時に
「それこそが
基準が はやってるということや
ベストセラーだっていうことだよ」
っていうことを人に言われて。 なるほど。
あと 何かその
「この方は 型破り芸人です!」って
紹介されちゃうことの型破らなさ。
ああ~。
型破りっていう言葉って
すごく面白くて
型破りなことができるっていうのは
型が何であるかを すごい分かってないと
できないように思うんですよね。
まあ だから そういった意味では
型破り芸人も
まあ全然 実は すごく
常識的な方だったりとかだと思いますね。
そして ハイデガーはですね
その世人の生き方を こう言っています。
「頽落」と呼んでいるんですけれども
これ 難しい言葉ですが
どういう意味が
込められているんでしょうか? はい。
別の言葉でいうと 退廃している
ということに近いと思います。
私たちは 日常生活において…
…と ハイデガーは考えていました。
この頽落した人間の特徴を
ハイデガーは 3つ挙げています。
この第1の特徴 「世間話」というのは
みんなが理解できること
え~ まあ 言ってしまえば 内容が薄くて
表面的なことしか話されなくて
次々と関心が移り変わってしまう
という特徴が
この第2の「好奇心」とも
つながってきます。
世間に迎合してですね コロコロ
自分の関心があることも変わってしまう。
そういう落ち着きのなさを
「好奇心」という言葉で表現しています。
最後に 「曖昧さ」というのは
頽落してる人間というのは コロコロ
自分の関心が変わってしまいますので
「何か 世間では こういうのが
はやってるらしいよ。
知らんけど」 みたいなですね
どういう意見なの? みたいなことが
分からないようなことが
語られてしまうと。
世人に飲み込まれてる人間には
こういう特徴があると
ハイデガーは考えています。
ハイデガーは
これを いけないっつってんですか?
そういうもんだっつってるんですか?
そういうもんだというのが
ハイデガーの考え方ですね。
人間というのは 日常において
常に 非本来的にしか
生きることができないんだ。
そういう現状を分析しているのが
この概念であるということですね。
私なんかは でも この3つ
完全に当てはまりますね 日常生活。
いや っていうか 変な話
我々の仕事って こういう仕事ですよ。
この3つの要素が
優れて 入ってるものこそ
人気なコンテンツだったりはするので。
ただ 問題点も当然
たくさん はらんでる。 はい そうです。
どんなことが考えられますか?
世人としての生き方が
まあ いわば悪い方に作用していくと
自分の頭で考えて 判断する機会が
失われてしまいます。
ここから立ち現れてくる深刻な問題が
責任の不在という問題ですね。
いじめに加担してる人の多くはですね
ただ その場の空気を読んで
何となく 一緒になって
いじめてしまっているケースが
まあ 多いのではないかと思うんですね。
みんなと一緒になって
誰かをいじめてる時に
現存在は 「みんな こうしてるんだから
自分も そうしないといけないんだ」。
こうやって 人間は
無責任な状態に陥ってしまうんだと
ハイデガーは考えていました。
これが戸谷先生の言う分かりやすい感じに
実は なってないのが怖くて
ほんとは その空気を読んで
いじめに加担してるんだけれども
この人にも悪いところがあるを探して
ああ なるほど これが見っかった
だから いじめていい みたいのって
結果的に いじめ的な行動は
僕は他と違うんだという
意識がある人も多いと思ってて。
すごく興味深い ご指摘で
もし ハイデガーが この場にいたらですね
どう答えるのかなというのを想像して
お答えしてみると 「いじめられている子に
いじめられる理由があるということも
みんなが そう思ってるから
成り立つんだ」と言うと思います。
じゃあ 何で いじめられる子には
いじめられるに足る理由があると
自分は思ったのか。
心の底から説明できる人が
一体 どれだけ いるのかと。
だから 空気を読んで
こういうことをしてるのでも
同調圧力でも やってるんでもないんだと
言ってる人が このことを考えないと
ああ 何か とても危険なところに
行くなって思いますね。
私たちが漠然と 「みんな」と呼ぶ世人。
「みんな」に合わせて生きている現存在は
「みんなも こうしている」という
規範に従っているため
自分で責任を引き受けることを
免除されています。
しかし 「私」の代わりに
責任を引き受けているはずの
「みんな」とは 一体 誰でしょうか?
結局のところ
それは 誰でもない誰かなのです。
「みんな」に責任があるから
誰も責任を引き受けようとしない。
それは 誰にも責任がない
ということと同じです。
誰もが 透明人間のようになって
引き受けるべき責任から
するりと逃れているのです。
こうした無責任さの
究極の例が
第二次世界大戦中に
ナチスドイツにおいて
ユダヤ人迫害に加担した
アドルフ・アイヒマンの弁明です。
ナチス親衛隊の中佐だった
アイヒマンは
ユダヤ人を強制収容所に移送する部門で
実務を取りしきっていました。
戦後 アルゼンチンに逃げ延びますが
イスラエルの諜報機関によって
拘束・強制連行され
エルサレムの法廷で 裁判にかけられます。
この裁判で 彼は自身の無罪を主張。
ユダヤ人大量虐殺の責任は
その実行に加担した自分ではなく
命令したナチスという組織にあると
強弁しました。
世人に支配された人間が陥る
最も極端な姿。
それが アイヒマンの無責任なのです。
アイヒマンに関しては この番組で
「全体主義の起原」という本を
取り上げた時に出てきて
やっぱり みんな
アイヒマンという人が
とんでもない悪魔だって
思いたいんだけれども
実情は 思考停止した役人にすぎないって
いうことは やっぱり ぞっとしましたね。
ハイデガーは でも みんな
世人だって言ってるとすると
怖いことになってきますよね。
そうですね。
アイヒマンを批判するならですね
自分もまた そうした無責任さで 誰かを
傷つけているかもしれないということを
深く内省する必要があると思います。
例えば…
実際に SNS上で ひぼう中傷によって
自分の命を絶ってしまう人も
いるわけですね。
まあ いない人が
ほとんどではないかなと思います。
それは すごく思いますね。
いや だって この人が
だって 言ってたから
それに基づいて 自分の意見を
書いたんだよって なってるうちに
どんどん
ナイフは とがっていくっていう。
少し強い言い方をすると…
…ということを 深く自覚するべき
なのではないかなと思います。
でも なぜ その 私たちは 自分の頭で
ちゃんと考えることをやめて
みんなに合わせた
世人になってしまうんですか?
ハイデガーの答えは 極めてシンプルです。
それは…
本来の自分らしく生きる
チャンスから逃げて
みんなの中で得られる安らぎ…。
でも それって
本当の安らぎなんですかね?
最後の あの問いに対する答えとしては
どうなんですか 先生。
え~ 世人に同調することの安らぎは
本当の安らぎなのか。
残念ながら 真の安らぎではない
ということになると思います。
もちろん 一時ですね…
さっきの いじめの理屈で言うと
人の悪口 言ってる時って
絶対 みんな 一体化しますもんね。
でも 言ってる時に ふと
これ 自分に この矢が向いてきたら
どうなるんだろうっていう気持ちには
みんな なるんだと思いますからねぇ。
だから いじめが支配してる
教室の中というのは
実際には みんなが
今 誰をいじめようとしてるのかを
とても敏感に察知しないといけなくて
すごく消耗するというような状態に
みんなが置かれるのかなと思います。
でも あの 私たちは不安になりたくない
安心していたいから そっちに流れると
いうようなニュアンスだと思うんですが
「不安」についての方は
ハイデガーは どう言ってるんですか?
ハイデガーは
「恐怖」と比較して 説明しています。
「恐怖」には 明確な対象があるんだ
というふうに言うんですね。
例えば 雷が怖いという時には
雷という明確な対象がある。
明確な対象があるから それに対して
働きかけをすることができるわけです。
例えば 避雷針をたててみたりとか
安全な家に
家の中に逃げ込んでしまえばですね
雷の恐怖は和らぐわけですね。
ところが ハイデガーによると…
そうだとすると それに対して…
…と 彼は考えています。
うわ~ すごい分かる気がするなぁ…。
ええ ええ 本当に。
何か テレビに 一歩も出てない頃も
今も
別に そんなに不安の量
変わってないような気がするっていう。
世人の中で 完全に同調していても
それが 不安を打ち消すことには
ならない。
…と ハイデガーは考えていました。
ほんとの。
ほんとですね。
あの すごく難しい ご質問なんですが
ハイデガーであれば こう答えるかな
という形で お答えすると
ハイデガーが 安らぎの対義語…
うわ~ すごいですね。
はいはいはい。
ですので 不安の中に
踏みとどまることができるのであれば
それを 安らぎと見なすことも
できるかもしれないです。
うわ~。
深い。
何か 不安だな…。
ちゃんと読めてるはずなのに
何で不安なんだろう。
教えて下さい ハイデガー先生。
つまり この世に
自分が生きていること自体が
不安の源ってこと?
更に不安だ…。
自分が世界内存在であるということ。
つまり…
だから そうした不安から
目をそらすために
人間は 自分自身の生き方を
考えるのをやめて…
…と 彼は言っています。
例えば ちょっと こういう学生のことを
想像してみて頂きたいんですが
学校へ行くのが とても つらくて
まあ 学校へ行けなくなっていると。
学生は本来 学校へ行くべきだという
世間の常識を 自分に課すことで
自分を
苦しめていることになるわけですね。
でも じゃあ この常識を捨ててしまったら
この学生が救われるかというと
そうではないわけです。
自分自身の生き方を 自分で考えなければ
ならなくなってしまうからですね。
そうすると 何も…
ゾンビ映画とか
見てるじゃないですか。 はい。
俺 もう 過半数 ゾンビになった時点で
ゾンビでいいやって思うの。
世人って その感じかな。
フフフ…。
じゃあ 世人になって こう
そっちの道に行った方が楽だと
選ぶということは
逃げられない道ということですよね?
でも そっちに行くと
無責任なんですよね?
これは どうしたらいいというふうに
考えたらいいんですか?
ハイデガーは 人間は どんな時でも
世人に飲み込まれているというんですが
ただ この状態を乗り越えることができる
瞬間もあるというふうに言うんですね。
じゃあ 一体どうすれば 現存在が本来性を
取り戻して 生きていくことができるのか。
それは
次の第3回で お話ししたいと思います。
はぁ…。
ほう… そうですか。
いや でも いろんなことを
考えさせられてますね。
戸谷さん
次回も よろしくお願いいたします。
(伊集院 安部)ありがとうございました。
ありがとうございます。
♬~
アイドルになりた~い!
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