出典:EPGの番組情報
ファミリーヒストリー「安田顕~辛抱強く前向きに 困難を越えて~」[解][字]
先祖が北海道に渡った経緯が初めて明らかに。「鉄の町」室蘭と「炭鉱の町」夕張で激動の時代を生き抜いていた。貧しい境遇で育った父と母。互いを気遣い明るい家庭を築く。
番組内容
安田顕は室蘭市の出身。今回の取材で先祖たちが北海道に渡った経緯が明らかになる。父方の祖父は秋田県生まれ。豊かな生活を夢見て室蘭の製鉄所で働くが、太平洋戦争など次々と苦難に見舞われる。母方の祖父は夕張で商売をしていたが、炭鉱の斜陽などで破産を余儀なくされる。ともに貧しい境遇で育った顕の父と母。前向きに生きる姿にひかれあったという。二人で必死に働き、必死に子育て。明るい家庭で息子たちの個性が育まれる。
出演者
【ゲスト】安田顕,【司会】今田耕司,浅野里香,【語り】余貴美子ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
とんびが鷹を生んだんじゃね。
親子鷹じゃい…。
今日のゲストは 俳優の安田 顕さん。
日本も平和になったいうこっちゃ。
人間味あふれる役から
個性的なキャラクターまで
幅広い役柄を演じ分けます。
まさに カメレオン俳優。
その魅力のルーツに迫ります。
「ファミリーヒストリー」
司会の今田耕司です。
新年度から司会を担当します
浅野里香です。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今日のゲストは 安田 顕さんです。
どうぞ!
(拍手)
どうぞ。
(浅野)よろしくお願いします。
さあ 今日は
どんな心境で来られましたか。
すごい楽しみな部分と やっぱり怖さと。
何が出てくるんだろう?っていうね。
と 緊張と
なんか 入り交じってます。
さあ これからご覧頂きますけども。
はい。
絶対に泣きません!
(笑い)
はい 分かりました。
♬~
安田 顕さんは 昭和48年
北海道 室蘭市で生まれました。
父方の先祖について
気になっていることがあると言います。
安田家に
婿養子に入った
祖父 定吉の旧姓が
「薩摩」。
そのルーツに迫ります。
古い戸籍によると 4代前の高祖父は
薩摩長吉。
明治初期には 秋田県石川村
現在の八峰町で暮らしていたことが
分かりました。
ここですね。 こちらに明治の初期
薩摩家があったと思われます。
現在は 薩摩家とは関係のない方が
住んでいます。
しかし 同じ集落には
今も薩摩姓のお宅が 10軒以上ありました。
マジか。
更に取材を進めると…。
こちらに 石川集落の
開祖についての記載があります。
「一説には 今の嶋津家
薩摩家の先祖を以て
これとなし。
徳川以前に
遠く九州より来りて
開拓」。
「之等の先祖は
兄弟にして
一は嶋津を
一つは薩摩を
名のりたる」。
江戸時代以前に 九州から来た兄弟が
嶋津 薩摩と名乗ったという言い伝え。
それ以上のことは 取材をしても
分かりませんでした。
一方で 顕さんの祖父 定吉を知る人物を
たどることができました。 マジで!?
似てる。
定吉の おいにあたります。
それで…
昭和初期
秋田は たびたび凶作に見舞われ
定吉も 食うにも困る状況でした。
定吉は 北海道にいた姉夫婦を頼って
室蘭に渡ります。
働いたのは 輪西製鉄所。
明治42年の創業以来
鉄の町 室蘭の発展を支えていました。
農村を抜け出し
活気づく街での暮らしが始まったのです。
そこで定吉は 安田サキと結婚。
4男だったこともあり
安田家の婿養子に入りました。
その安田家の意外なルーツが
今回の取材で明らかになりました。
明治初期の
土地の所有を記録した資料です。
安田源七。
安田源七とは
顕さんの5代前の先祖です。
明治の初期
安田家の田んぼがあったのは
現在の秋田県 三種町。
なんと 薩摩家があった
八峰町の近くでした。
定吉とサキには
数奇な縁があったのです。
昭和17年 室蘭で暮らす2人の間に
次男の弘史が誕生。
後の顕さんの父です。
安田家が 当時暮らしていた場所が
分かりました。
こちらが…
(太田)
今は サッカー場になってますけど
その前にあったのが
輪西製鉄所の柏木社宅。
入居していたのは
製鉄所の平屋建ての社宅。
ピーク時には
およそ 5, 000戸あったといいます。
日本が鉱業を興していくという
右肩上がりの時代ですので
天候に左右されず つくればつくるだけ
工場が大きくなっていくということで
みんな一致団結で頑張ろうという
意識があったんではないでしょうかね。
念願の安定した生活を手にした定吉。
おいには 高価な贈り物もしていました。
しかし 太平洋戦争に突入。
戦況が悪化すると
室蘭も戦禍に巻き込まれます。
これは 当時のアメリカ軍の機密文書です。
定吉が働く
輪西製鉄所と
日本製鋼所は
軍需工場として 標的になりました。
室蘭は
昭和20年の7月14日には空襲を受け
翌15日には 艦砲射撃に襲われます。
わっ 船から。
室蘭市教育委員会の学芸員
谷中聖治さんです。
市民 およそ400名が
亡くなったと言われています。
めちゃくちゃや。
安田家は 運良く無事でしたが
定吉が働く製鉄所は
甚大な被害を受けました。
うわ~。
職を失った定吉は 一家でふるさとの
秋田県八峰町へと戻ります。
土地を間借りして小屋を建て
炭焼きの収入で しのぐ日々。
質素な暮らしが 再び始まったのです。
定吉の次男 弘史
後の顕さんの父に関する資料が
見つかりました。
昭和23年度入学の 塙川小学校の
学籍簿になっております。
で この中に
安田弘史様のお名前がございます。
そこには 欠席のおもな理由として
「衣類無」と書かれています。
学校に着ていく服が用意できないほど
秋田での生活は 困窮していたのです。
う~ん… いかがでしょうか。
(笑い)
もう ちょっといろいろと
5代前も 1回 遡りましたけど。
いやあ ありがたいですね
もう 5代前。
いやあ しかもなんか その北海道で
出会ったのは間違いないんですけど
あの おじいちゃんと おばあちゃんが。
はい。
まさか その…。
秋田でね。 秋田で
そのご先祖が
すごく近かったっていうのは。
はい。 不思議な…。
ちょっと分からなかった。
なんか 子どもの頃
おやじから聞いてた話が
全部 結び付いてくるっていうか。
あの艦砲射撃の時に
多分 3歳ぐらいだったと思うんですよ。
その時の 幼い時の一番最初の
記憶っていうのが その時みたいで。
で 400人
亡くなってるってことですから
もしかしたら そこでルーツが
途絶えてた可能性もあったわけですよね。
そうですね。
生まれてないっていうことですよね。
昭和24年。 定吉は家族を連れ
復興が進みつつあった
室蘭へ戻ります。
翌年 朝鮮戦争が勃発。
その特需で 鉄鋼業界は
息を吹き返しました。
定吉は 日本製鋼所の下請け会社に就職。
苦しい生活を抜け出そうと
懸命に働きました。
同じ会社で働いていた…
すみません。 失礼しま~す。
室蘭で暮らす顕さんの母 和江さんと
父 弘史さんを訪ねました。
弘史さんは 当時の生活を
こう振り返ります。
大家族だったため 生活はギリギリ。
それでも弘史は
ちゃめっ気たっぷりの少年に育ちます。
うわ~。
うん。
昭和29年。 安田家を窮地に追い込む
出来事が起こります。
(アナウンサー)煙突の煙も途絶えた
日本製鋼 室蘭工場では
900人のクビキリに端を発した
戦後最大の長期ストが
6月17日以来 130日にわたって
続いています。
鉄鋼業界は不況に転じ 日本製鋼所が
社員の大量解雇を発表。
労働争議の混乱で
定吉は仕事を失ったのです。
すごい時代だな。
おやじがストライキだった時は
お米のごはんって なかなか買えなくて
そして すいとんですか
麦粉でもって だんご作って。
定吉は 海産物を入れる
木箱作りのアルバイトに出ます。
愚痴もこぼさず 家族のために
必死で働きました。
当時 中学生だった弘史は
やるせない現実をかみしめていました。
キャンプに みんなで行くっていうのが
ありましてね
そこに 僕行けなくて
あの… これがなくてね。
お金がないから
それで行けないって言ったら
今度ホームルームでね それに行けない人をね
どうするかって考えたんですよ。
ありがた迷惑だって感じさ
こっちの方にしてみればね。
そして もうほんとに嫌で嫌で
しょうがなかったですね。
なんか悔しいっていうか
なんちゅうかね
泣いたんですよ 俺 嫌で。 うん。
弘史は家計を助けるため
高校進学を諦めます。
日本製鋼所の下請け会社に入社。
そこで 厳しい現実を目の当たりにします。
戦後 格差の中で もがき続けて数年
弘史は 同僚に声をかけられます。
それはクラシックコンサートを鑑賞したり
合唱などを楽しむ
音楽サークルへの誘いでした。
音楽を通して
初めて垣根のない交流を体験した弘史。
それまでとは
心持ちが大きく変わったと言います。
弘史は 本来の明るさや個性を
思う存分に発揮するようになります。
失礼しま~す。
サークル仲間の山本和好さんに
当時の弘史の印象を聞きました。
ある時 音楽サークルに
一人の女性が入会します。
その女性こそが 後に妻となる
佐藤和江でした。
いやぁ~。
でも なんかやっぱり
すごい その時代も
あるかも分かんないですけど
苦労されてますよね でもね。
そうですね。
その戦後で 朝鮮戦争があって
まあ 特需があって。
そうですね。
で そのあとの
リストラがあってっていう
その時代の流れの中で
翻弄された方々って
父だったり 僕の祖父だけじゃなく。
そうですね。
時代として そういう方々が
いっぱいいたような気がするんです。
なかなか
忘れてしまいそうなんですけど。
それの1つの例として
安田家の そのヒストリーがあるのかなぁ
って気も感じました。
顕さんの母 和江さんの旧姓は佐藤。
北海道 夕張市で生まれました。
ホッキ貝を混ぜごはんにして
ホッキ飯。
(取材者)佐藤家のルーツといいますか
どこから北海道にやって来たかとか。
母方 佐藤家には
どんなルーツがあるのか?
古い戸籍によると 明治初期の先祖は
新潟県 下河根川村
現在の長岡市で暮らしていたことが
分かりました。
近隣の地域は 江戸末期からの
のこぎりの産地として知られています。
戸籍の住所には 今も佐藤家がありました。
(取材者)すみませ~ん。 失礼します。
当主の…
かつて 北海道に渡った先祖がいると
言います。
これが 傳吉。
傳吉とは 顕さんの曽祖父で
亘さんの祖父の弟にあたる人物です。
その傳吉のひ孫が
安田 顕さんだと伝えました。
知らないだろ 俺。
この前 テレビで
正月終わってから見ました。
(取材者)あ そうですか。
はい。
分かります。 うん。
テレビで よく拝見してます。
今初めて聞きました。 驚いてます。
近いうちに 新潟まで訪ねてきてもらえば
幸いなんですけど
私が元気なうちに。
明治44年 顕さんの曽祖父
傳吉が渡ったのは 北海道夕張市。
夕張では 既に複数の炭鉱の開発が始まり
全国から 人が集まっていました。
取材を進めると
傅吉のことを知る人が見つかりました。
すみません こんにちは。
(瀬尾)はい。
瀬尾武義さん 92歳です。
(取材者)
傳吉さんは どんな方でしたですか?
学のあるね 立派な人だよ。
明治の生まれの人だけどね。
すごい真面目だよ。
ノコギリの産地がある
長岡市で育った 傳吉。
炭鉱労働者用の住宅需要を見込んで
木びきとして働きました。
そして 大正7年には
5男の寅吉
後の顕さんの祖父が誕生します。
その後 佐藤家は 木びきの経験を生かし
ある商売を始めました。
「夕張商工名鑑」です。
こちらを見ますと
「佐藤柾店」が記載されております。
そこには 「柾製造」と書かれています。
「柾」とは 何か?
学芸員の村上孝一さんに尋ねました。
柾というのはですね 北海道で一般的に
使われていた屋根葺き材なんですね。
エゾマツとか トドマツを
薄く割った板で
柾目に割っているので
「柾」というふうに呼ばれています。
あちらの屋根の断面を見てもらうと
分かるんですけれども
薄い板が 重なっているの
見えますでしょうか? (取材者)はい。
柾と呼ばれる板を
ずらしながら重ねていくことで
雨漏りしない屋根ができます。
寅吉は 兄が始めた店で
柾職人として働き始めます。
昭和22年には 妻 モモとの間に
長女の和江
後の顕さんの母が誕生しました。
寅吉は 柾職人をしながら
駅から 程近い場所で商店も始めます。
ちょうど この坂を 緩やかな坂を
まっすぐ上っていって
この角の付近に 佐藤食料品店
というふうに 書いてますね。
ちょうど 中心街といいますか
こちらの奥の方にも ずっと飲食店等
含めて 商店が広がっていましたし
立地条件としては よかったのかな
というふうに 思いますけどね。
商売は順調で 長女 和江は
裕福な生活を送ります。
幼い頃は 日本舞踊を
習ったりなんかしたことは
ちょっと覚えていますね。
一応 お嬢様だったんじゃないですかね
自営業ですから。
しかし そんな生活は
長くは続きませんでした。
昭和30年代 高度成長期になると
トタン屋根が普及。
柾の需要は 激減します。
更に エネルギーの主役が
石炭から石油に転換。
夕張でも
採算の悪い炭鉱は 閉山していきます。
結局 客のツケを回収できずに破産。
寅吉は 酒に溺れるようになります。
昭和38年に 寅吉とモモは離婚。
15歳だった和江は 4歳の弟
2歳の妹とともに モモに引き取られます。
高校進学を諦め 昼間は 映画館
夕方からは すし屋で働きました。
数年後 母のモモは
室蘭で 住み込みの仕事が決まります。
和江も 室蘭に移り
幼いきょうだいの面倒を見ながら
母の職場近くのアパートで
暮らし始めました。
ごめんください。
当時のことを知る
友人の笹原 薫さんです。
見知らぬ土地で 一からの生活。
和江は 必死に働き口を探します。
しかし…。
本屋さんに 面接へ行ったら
母子家庭の人は 泥棒をするから
使えませんって言われて
すごい悔しい思いしましたね。
何とか 人形などを扱う雑貨店に
就職できた和江。
しばらく働くと 思わぬ誘いを受けます。
音楽サークルに行ってる方が
店員さんの中にいたんですよ。
その人が 行かないかい? ということで
行ったんですけど
すごい楽しい感じで
歌が好きだったから 私もね
みんなで 歌を歌ったり
フォークダンスを踊ったり。
そこで出会ったのが
みんなの人気者だった 安田弘史。
ある日 用事があった弘史は
和江の家を訪ねます。
行った時は
洗濯してましたね。 たらいで。
洗濯してました。
そして こうやって手を上げて
ああって言ったけど
すごい家だったですよ。
江戸時代の長屋みたいなものでした。
ちょっと ひどいなと思ったけども
ああ 大変なところで
生活してんだなと思いましたよ。
弘史は 貧しい境遇の中でも
前向きに生きる
和江の姿に 惹かれていきます。
やっぱり貧乏に強いなと
俺と結婚しても 大丈夫だなと。
私も 何にもないながらも
一緒に やっていけばいいかな
というような気持ちも持ちましたね。
本当に 何にもなくて
おとうさんの布団も ネズミが食ったような
布団を持ってきて
その布団に パッチあてして
縫ってあったんですよね。
ああ 本当に…
相当 貧乏なんだなと思ったら
ほんとに お互いに貧乏同士で。
こうして 昭和44年 2人は結婚。
お金がない2人のために
サークル仲間たちが
手作りの結婚式を挙げてくれました。
いや~ いかがですか。
いや~
これは… これは
しかたないんじゃないですか。
それは しかたがないですね。
これは しかたがないですね。
いや~
ほんとに ご苦労された お二人が…。
そうっすね やっぱり う~ん 確かに
母っていうのは 強かったですよ。
泣いてるとこも
見たことなくて 今 見ましたけど。
今のお母さん…。
年取って見ましたけど
若い時の母は もう絶対
ほんと芯が強かったし 泣かなかったし
僕の目の前で 夕食のカレーの鍋を
こぼした瞬間に
「あたしじゃない!」って言ったんです。
(笑い)
認めませんね。
芯が強いですねぇ。
芯が強いっていうんですか? それ。
結婚から4年。
安田家に 長男 史生に続いて
次男の顕が誕生します。
弘史は 収入を増やすため
溶接の会社へ転職。
29歳からの再出発でしたが
人一倍 努力し
メキメキと腕を上げました。
当時 同じ現場で働いていた
久保成司さんです。
和江は 家計を支えるため
保険のセールスを始めます。
時には 顕をおんぶして
営業に回りました。
保険会社で一緒に働いていた
工藤京子さん 92歳です。
共働きで忙しい中でも
2人は 精いっぱいの子育てをします。
たくさんの本を買い
子ども向けの演劇にも
連れて行きました。
友人の久保さんは 弘史流の
絵本の読み聞かせを
今でも覚えています。
ヤスさんはね 平読みしないんですよ。
すごい こう
声のイントネーションだとか
そういうのを 大きくしたり
小さくしたり
感情を入れ込んで
話すんですね。
2人に 絵本なんかを
読んでも。
寝かしつけのために
物語を読んでくれるんですよ。
当時 「ねしょんべんものがたり」
というのがあって
エピソードとして
全員 ねしょんべんしちゃうんですよね。
で 文字 読めるようになるじゃないですか
それ 読むんですよ 中身
全然 中身違うんですよ。
頭しか合っていないんですよ あの人
最初の3行ぐらいは
昔 昔のことじゃった なになにがいてな
ほにゃららしてよっていう
3行ぐらいは 合ってるんですよ。
そっから 全部オリジナルで
話してるんですね 無限ですよ だから。
すごいなぁ 才能豊かだなぁと
振り返って思いますけど。
さすが タレント性。
弘史と和江は
同じ思いを大事にしながら
家庭を築いていきました。
現在 音楽プロデューサーとして活躍する
顕さんの兄 史生さんです。
♬~
テレビアニメ「ONE PIECE」の作曲も
手がけました。
幼少期を こう振り返ります。
お金もない家だったと
思うんですけど
もう 僕も多分
弟も そうだと思うんですけど
お金がないなぁ うち大変だなぁって
思ったことが 1回もないんですよ。
そういうふうに 思わすことが
まず なかった2人なので
それは 本当 尊敬できる
すごいなぁって思いましたし。
貧しく 何もないところから
互いを思いやり
人生を歩んできた 弘史と和江。
仲ええね 写真が。
ねっ 距離が近いんです 全部。
今回の取材で あるものが見つかりました。
あっ お誕生カードですね。
「お誕生日 おめでとう!」。
おとうさ~ん!
(弘史)は~い! は~い!
ちょっと!
(弘史)はい。
34歳の時にね お誕生カードくれてる?
(弘史)誕生カード?
よその おじさんじゃないよね?
「愛するカズちゃんへ」って。
へぇ~ どれどれ どれどれ?
「君と知り合ってから
もう14年 過ぎましたね。
この14年の間 どんな事にもくじけず
いつも前を見て 君は生きてきましたね」。
いやぁ すごい いい文章だね
まいったな おい。
ちょっと グッときたよ 俺。
ありがとうございます。
いいえ どういたしまして。
改めて。
うん よかったね。
仲いいですね~!
めちゃくちゃ いいご夫婦ですね~。
いやぁ… ねえ びっくりした。
何も贈ったことがないって
言ってましたけどね。
いや~ もう最高の
メッセージじゃないですか。
いかがですか? 今日は ご自身の
「ファミリーヒストリー」 ご覧になって。
今 ずっと 水前寺清子さんの
「三百六十五歩のマーチ」を最近 聴いてる。
いい歌詞があって そのことが
すごく 今 浮かんだんですけど…
歌詞が すごく浮かんで
何か こう自分の世代では
ただの足あとであって
その時に 花開くことは
ないかもしれませんよと。
だから そのあとの人たちが
そこの足あとに…
あなたはタネで いいんじゃないのって。
そのあとの 誰かが その靴の足あとに
花を咲かすかもしれないねとか。
僕も 今 49だったりするんですけど
これから まだまだ ずっと
足跡をつけていかなきゃいけないし
で 後ろの人が 自分の血を継いだものか
誰か分からないけれど
そこに 花を咲けば それでいいじゃないか
っていうような感覚ですかね。
更に 今回の取材で
あるものが見つかりました。
♬~
顕さんが 保育園に通っていた時
保育士と和江さんが
やり取りした連絡帳です。
昭和51年11月17日 2歳の時。
ふだんは おとなしい顕さんが
劇になると 途端に張り切る様子が
随所に記されています。
平成4年 顕さんは 北海学園大学に進学。
そこで 演劇研究会に入ります。
卒業の直前 サークルの同士で
演劇ユニット TEAM NACSを結成。
それが きっかけとなり
役者の道を歩み始めました。
所属事務所社長 伊藤亜由美さんです。
辛抱強く 努力を続けた結果
30代から 味のある演技が評判を呼び
映画やテレビで
欠かせない存在になったのです。
♬「どんなに困難で」
バカ!
安田 顕さんの
「ファミリーヒストリー」。
困難を乗り越え 前向きに生きた
家族の歳月がありました。
もう感謝というか…。
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