出典:EPGの番組情報
先人たちの底力 知恵泉「徳川家康の“子育て術” 子は若木のように育てよ」[解][字]
徳川家康の子育ては苦労の連続?長男・信康に悩まされた家康は、二代将軍となる秀忠の子育てには慎重だった。家康が記した「17条の教訓」から、その子育て術を読み解く!
詳細情報
番組内容
江戸幕府を開いた天下人・徳川家康。その子育ては、苦労の連続だった!?わがままに育った長男・信康に大いに悩まされた家康は、二代将軍となる秀忠の子育てには、ことのほか慎重だった。晩年の家康が秀忠夫人・お江に宛てた貴重な手紙に記された「子育てにおける17条の教訓」をひもときながら、家康がどのようなことを大切に考えてわが子を育てたのか、その“子育て術”に迫る。現代の子育てにも通じるヒントが満載!
出演者
【出演】尾上菊之助,渡辺満里奈,静岡大学教育学部教授…小和田哲男,【司会】高井正智ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
テキストマイニング結果
ワードクラウド
キーワード出現数ベスト20
- 家康
- 秀忠
- 子育
- 自分
- 知恵
- 神君御文
- お父さん
- 信康
- 大切
- 舞台
- 関ヶ原
- 教育係
- 時代
- 丁寧
- 二代目
- 意見
- 一体
- 歌舞伎
- 女性
- 将軍
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
応仁の乱に始まったとされる戦国時代。
100年以上に及ぶ戦いの
覇者となった徳川家康。
それだけでも すごいことですが
家康は 更に
自分の子孫が およそ260年にわたり
日本の統治者として君臨する
江戸幕府を作り上げたのです。
…とはいえ その仕組みは
家康の時代には完成できず
次の代に引き継ぐものもありました。
徳川政権の命運は二代目にかかっている。
家康は自分の世継ぎを
仕事のできるやつにすべく
子育てに奮闘します。
その成果が2代将軍 秀忠。
家康の期待どおり
幕府の力を強くするために
せっせと働きます。
幕府に反抗する力を持ちそうな藩は
今のうちに潰しておかなきゃとばかりに
福島正則 最上義俊などの
有力大名はもちろん
親族の者も厳しく改易。
家康の補佐役まで務めた重臣
本多正純も粛清してしまいます。
また キリシタンを厳しく取り締まり
外国との行き来を制限します。
江戸幕府以外に権威が
存在することは許しません。
参勤交代や老中の合議制も
秀忠が進めた制度です。
諸藩の力を抑えて
幕府の立場を盤石なものにするため
次々と強権を発動していきました。
家康は どのようにして
我が子を期待どおりの
辣腕後継者に育て上げたのでしょうか。
家康の知られざる子育て術に迫るのは…
人間国宝 尾上菊五郎さんを父に持ち
6歳で初舞台。
19歳で
五代目 尾上菊之助を襲名しました。
(拍手)
モモケン!
やあ。
歌舞伎はもちろん
映画やテレビドラマなどに
現在 活躍の場を広げています。
映画村でしか見られぬショーがある。
私生活では3人の子を持つ父親である
菊之助さん。
家康の子育ての知恵を
どう読み解くのでしょうか。
皆様ようこそ。
本日もご来店ありがとうございます。
歌舞伎俳優の尾上菊之助さん
よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
お子さんが3人?
3人おります。
…で ご長男が?
8歳で。
5歳で襲名をいたしました
尾上丑之助といいまして
今 歌舞伎の道を進んでおります。
会見で「お父さんのような歌舞伎役者に
なりたいです」って言ってましたね。
恥ずかしいです。
さあ 渡辺満里奈さん。
お子さん お二人?
そうですね。
14歳の息子と11歳の娘がいます。
思春期。
思春期? はい。
徳川家康の子育て
どんなイメージ持たれますか?
どうなんでしょう…。
「鳴かぬなら鳴くまで待とう」と
詠んだ将軍なので
どっしりと構えたみたいな感じなのかな。
小和田さん 織田信長は
子だくさんということですけど
家康は どうだったんですか?
家康も男の子が11人
女の子が5人ですから16人。
子だくさんですね。
家康の子育てって
どういう感じなんですか?
結構 子育てには苦労した
武将じゃないかなという感じはしますね。
急にグッと親近感が何か湧きますね。
ちょっと遠い存在から近くなった。
親近感が…。
さあ 今日はですね 家康の子育て術から
知恵を読み解いていけたらなと
思うんですが
当店名物の本日のおすすめ まいります。
こちらです。
いやいやいや…。
「イェ!」って何ですか。
「イェ! 安!」。
(笑い声)
簡単。
これがね ちょっと
実物 用意してみたんですけど
丁寧に
作ってあるでしょう?
徳川親子丼
丁寧仕込みなんです。
丁寧っていうのがポイントなんですかね?
そう。 その丁寧なんですけども
何を どう手をかけるか。
だんだん ほら
子育てと親子丼が重なって…。
う~ん まあ…。
(笑い声)
見えてきたところで
これが どう家康の知恵と結び付くのか。
こちらからいきましょう。
時は慶長16年。
将軍職を息子の秀忠に譲り
駿府に移った家康のもとに
江戸から1人の女性が訪ねてきました。
女性の名は斎藤 福。
まだ子どもだった 後の3代将軍
家光の乳母です。
彼女は
家康に訴えました。
秀忠と妻のお江が
次の将軍を嫡男 家光から
弟の忠長に変更しようとしていると。
家康は驚きました。
そうなれば最悪 徳川家は分裂。
内戦が起きて
幕府は
崩壊してしまうかもしれません。
家康は いてもたってもいられず
江戸に出向き 秀忠とお江に
厳重な注意を与えました。
それでも まだ心配だったと見えて
翌年 お江に宛てて手紙を書いたのです。
一体 どんなことが書かれていたのか。
それが分かるものが残されていました。
なんと 家康の教育方針が
書かれていました。
一体 子育てを
どのように考えていたのでしょうか。
子育てのことを
真剣に考えていた様子の家康。
一体 なぜなのか。
その理由が
「神君御文」に書かれていました。
なんと 家康は若い頃
子育てで大失敗していたのです。
長男 松平信康。
生まれたのは桶狭間の戦いの前年。
父親の家康は まだ17歳でした。
信康は武勇にすぐれた若者へと育ち
戦場で
数々の手柄をたてるようになります。
そんな信康が
なぜ跡継ぎにならなかったのか。
戦死しちゃったのか?
それとも病気になったとか?
いえ。 切腹させられたというのです。
父 家康の命令で。
これは子育て失敗と言われても
しかたがないかもしれませんね。
でも 一体
何があったんでしょうか?
家康は この事件について
「神君御文」に
自戒の念を込めて書いています。
家康の失敗は
わがままに育ててしまったこと。
元亀元年。 家康は浜松に城を建てて
新しい拠点にしました。
そして僅か12歳の信康を
岡崎城の城主にして
自由に
させておいたのです。
若い城主を利用しようとする
さまざまな思惑があったかもしれません。
武力に自信のある信康は
やがて家康を追い出して
自分の仲間たちと新しい政権を作ろうと
考えるようになったようです。
今風に言えばクーデターです。
また信康の母親 築山殿は
今川家の血を引く女性です。
織田信長を仇と恨む考えを
植え付けられたのかもしれません。
長男のためと思えばこそ
自由にさせた結果
こんなことになるとは…。
家康の心中は複雑です。
しかし
このままでは分裂して
一族で
争うことになるでしょう。
もし信長を裏切る
企みがあったとすれば
家康自身の身も危ない。
信康に死を命じる以外
選択肢はなかったというのです。
くしくも信康が切腹させられた
その年に秀忠は誕生しました。
家康は今度こそ失敗せずに
しっかりとした後継者を育てなければと
心に誓ったに違いありません。
そこから「植木のように
育てる」という
知恵が生まれたのです。
植木の手入れをする時は…
人間も それと同じだというのです。
…とはいえ 家康が常に
秀忠に手取り足取り教えるのは不可能。
目を離した隙に
また悪い方向に育っては大変。
そこで…。
信頼できる教育係をつけよう。
子どもが まだ若い芽のうちに接する
教育係の人選は重要です。
家康の目にかなったのは
大姥局という気の強い乳母でした。
今川家の家臣の娘で
家康が まだ駿府で人質だった頃
世話をしてくれたというのが
縁だったようです。
家康が認めただけあって
この女性は ただ者ではありませんでした。
こんなエピソードがあります。
大姥局は食事の世話をするのが好きで
目下の者に対しても
自分が ごはんをよそうことが
多かったのですが…。
ある日 それを見た家康の側近の1人
本多正信が冷やかしたのです。
大姥局は正信に向かって
「私は三河の頃の
苦しかった生活を忘れたことはない。
食べるのに困らない 今の暮らしの
ありがたさが分かるからこそ
お給仕をする」。
言い返された本多正信は
ぐうの音も出なかったそうです。
これが 大姥局の
教えのポイントでした。
秀忠が15歳になると教育係が交代。
ここからは大久保忠隣が
担当になりました。
忠隣は忠誠心の塊です。
家康の生涯における
3大危機ともいわれる
三河一向一揆 三方ヶ原の戦い
そして 伊賀越えの時
決して 家康のそばを
離れることのなかった
忠義の人物です。
忠隣の指導によって
秀忠は父を尊敬し
逆らうことのない人間に
育っていきます。
優秀な教育係の力を借りて
家康は秀忠を 若木のように
管理して育てることに成功しました。
悪い兆候が出てきたら すぐに取り除き
力不足を感じたら
すぐに補うという丁寧な子育て。
これにより秀忠は
親の言うことをよく聞き
間違いをおかさない
いい子へと育っていったのです。
家康さんならではなのかなと思って
見てました。
小さい頃 人質でいらっしゃって
いつ死ぬか分からないっていうことと
あと やっぱり
人質にいるっていうことは
お父さんへの思いっていうのが
非常に強かったんじゃないのかなと
思っていて。
逆に子どもに対して
愛情をとても 必要以上に
かけていったのではないのかな
っていうふうに思って見てました。
もう とにかく その…
木も曲げずに まっすぐ育てて
とにかく自分の哲学を
徹底的に たたき込むんだっていう
教育方針なんだなと思って
今 拝見してました。
確かに すごく愛情が
すごい過剰なんじゃないか
っていうぐらい
多かった人なんじゃないかって
おっしゃったのは
すごい よく分かる気がしますけれども
ちょっと極端かなと。
何かこう 曲がってたら
まっすぐに矯正するとか
もう これは余計だからチョキンって
切っちゃうとかっていうのって
それが もしかしたら… すごく
今だったらですよ
いい芽になるかもしれない
すごく いい個性に
なるかもしれないところを
それを全部
立派なリーダーを育てるために
まっすぐにしてしまうっていうのは
私は ちょっと
そういうことを決めつけないように
子育てはしたいなと思っているので。
ちょっと極端に
手をかけすぎなんじゃないか。
過保護なんじゃないかなって。
「神君御文」。
「神君御文」とも言いますけれども
こちらですね 私ね
古書店で1冊買ってきたんですよ。
これ江戸中期の写本だということです。
ちょっとね 中を見てみますとね
こういう感じになってます。
一つも読めないわけなんですが…。
(笑い声)
十七か条あるということで
こちらに ちょっと抜粋してみました。
「堪忍は第一のこと」なんて
怒りたくなることなんていうのは
しょっちゅうあることですけれども
それも第一として 心身ともに
各種それぞれの
堪忍をするところがあるという
広く心を持てということだと
思うんですけれども
結構 大事なことなんだなっていうのは
聞いてて思いますね。
生活上の道徳的な それを言ってますよね。
江戸時代 大名たちの間では
やっぱり好まれて よく読んでますね。
え~っとね こんな例があるんですよ。
人に いろんなね 得手不得手があると。
…で しかも好き嫌いがある。
だけど そういったものは
偏っちゃいけないよ
っていうようなことを
言ってるんですよ。
無用と思われるものでも
何か役に立つものが
あるんだって
いうようなことを言ってますね。
私は その植木の話を聞いた時は
矯正しないと まっすぐに
矯正してやらないとみたいな思いを
すごく感じたんですけども。
でも これだと 本当に何か普通の
今でいう子育て書みたいな。
「若木のうちに添え木をし
悪い枝を切り取れ」という
知恵ですけれども
菊之助さん どうお聞きになりました?
悪い木を とにかく剪定して
若いうちから
まっすぐなことを教え込むっていうのは
私も とにかく徹底的に
礼儀は教え込まれたので。
何よりも歌舞伎の技術とか型とかよりも
とにかく先輩たちに
礼儀を払わないといけない
っていうことを教えられたので。
それは 若木のうちに礼儀という
徹底的な添え木をしてもらって
育てられたのかなと思って。
ちょっと自分の
失敗談になっちゃうんですけど…。
一時期 若手の公演があって
そういう時って
先輩たちもいらっしゃらない中で
責任のある役を与えてもらった時に
やっぱり皆さんから声援も頂くし
応援して頂けるので
何か自分が 独り立ちしたような気に
なっちゃうんですよね。
若手公演 任されると。
いざ 本公演に戻って
父との一緒の舞台があったんですよ。
…で その時に父より遅れて舞台に
いつも遅れて行ってたんです。
千秋楽まで
ずっと口を利いてくれなかったんですね。
自分では
精いっぱい やってるつもりなのに
どうしてかなと思って。
そしたら千秋楽
うちに帰ってきたら
「お前 どういうつもりなんだ」と。
「先輩より舞台に遅れて
板に上がるっていうことが
どれだけ失礼なことか
お前分かってるのか」っていうふうに
言われた時に 鼻がパンッて折られて
あっ 天狗になってた。
これは とっても失礼なことを
してしまったんだっていうことを
身をもって教えられて。
枝をへし折られて
まっすぐ伸びろっていうことを
教えられたような 一場面でしたね。
そういう枝は 切っといてよかったですね。
はい。
若い時に いろんなことを
補ってもらうっていうのは
すごく大切かもしれないですね。
その土を作って ちゃんと水を
毎日毎日与えてもらってってしないと
個性とかも伸びないとは思うので。
そういう時に
大切なことなのかなとは思いましたね。
さあ こうして育った秀忠。
いよいよ武将として
そして 家康の後継者として
世に問われるようになっていきます。
言うなれば 箱入り息子として
大切に育てられた秀忠。
その甲斐あって
親の言うことをよく聞く
素直で真面目な若者に育ちました。
ところが 皮肉にも
これが秀忠の評価を下げてしまいます。
…というイメージが
定着してしまったのです。
世は戦国ですから
わんぱくだったり常識外れなくらいが
評価されたのかもしれません。
そこで家康は 秀忠が戦場で
立派に通用することを示そうと
関ヶ原に向かう
徳川本隊の大将に抜擢しました。
秀忠は それまで
ほとんど実戦経験がありません。
しかし 家康は
3万8, 000の兵を率いて
上田城を攻め落としたあと
中山道を通って
関ヶ原まで来るよう命じたのです。
上田城を守るのは
老練な真田昌幸。
これは 悪い予感がします…。
案の定 秀忠は苦戦し
上田で足止めを食ってしまいました。
ようやく家康に追いついたのは
関ヶ原の戦いの なんと5日後。
父親の一世一代の大勝負に
間に合わないという
大ポカをやらかしてしまったのです。
まあ 勝ったから
よかったようなものの…。
「それ見ろ!
やっぱりお坊ちゃんはダメだな」と
ひそひそ声が聞こえてきます。
秀忠の箔付けプランは裏目に。
しかし それでも最後には
やっぱり後継者は秀忠だと
皆が納得することになります。
それは 家康の
こんな子育て術のおかげでした。
実は この時 家康の後継者候補は
秀忠のほかに2人いました。
結城家の養子になっていた
家康の次男 秀康。
母親の身分が低いという理由で
冷遇されていましたが
優れた武勇の持ち主で
数々の手柄を立てていました。
そして 四男 忠吉も また
優れた武勇の持ち主。
関ヶ原では 一番槍を
つけています。
この状況で秀忠をゴリ押ししても
将来 しこりが残ると考えた家康。
危惧したとおり
最初は意見が割れていたといいます。
戦において
実績を残している2人に対して
関ヶ原遅刻の秀忠は
見劣りします。
それでも 秀忠を強く推す人物がいました。
若い頃から 最も近くで見てきた
大久保忠隣です。
忠隣は「自分が秀忠の教育係だから
言うのではない」と前置きして
秀忠は謙虚な性格であり
親孝行の気持ちが強いこと
また 学があり
人を説得するすべも心得ているなど
知恵と勇気を兼ね備えていると
訴えました。
秀忠が きょうだいたちと違って
知性あふれる人物に育ったのは
まさに家康の子育ての知恵によるもの。
どんな相手からでも
話をちゃんと聞くよう
教えられたからだというのです。
「神君御文」を読むと 家康が
いかに人の話を聞くことを
大切だと考えていたかが見えてきます。
合戦においては
筋肉を頼みに勝負することも
直感を頼りに賭けに出ることも
必要かもしれません。
でも 天下を治めるには
それではダメです。
相手の主張にも
耳を傾け
言葉を尽くして
相手を説得する。
大久保忠隣が秀忠を評価したのは
まさに そうした点だったのです。
もはや戦国の世は終わり これからは…
徳川のトップにふさわしいのは
秀忠しかいない。
家康の腹心たちは
皆 納得。
秀忠が跡継ぎになることに
賛成したのです。
さあ 二代目も決まって
「これで安心!」と思うところですが
家康は あくまで慎重です。
2代将軍に就任した際に
秀忠のために
御伽衆という制度を設けました。
これは将軍直属の ご意見番の組織で
メンバーには
関ヶ原で家康と戦った大名もいました。
さまざまな経験談から
先輩としての諫言まで。
家康は
秀忠が将軍になってからも
人の話を聞くことを
忘れないように
こうした場を作ったのです。
とはいえ さすがの秀忠も
いつも懐が深い
というわけにはいかなかったようで…。
その額を見た太田は怒りだし
紙を丸めて秀忠に投げ返すと
そのまま出ていってしまったのです。
秀忠は思わず カッとなり
「あの者を捕らえて死罪にせよ!」と
いきまいたのですが
お付きの者がなだめて
「まずは駿府の大御所様に ご報告を」と
家康にお伺いを立てたそうです。
家康は…。
こんな時も…
結局 三千石で
召し抱えることにしたということです。
このように秀忠は 戦国大名としては
家康に及ばない
器だったかもしれませんが
丁寧な
子育てによって
江戸幕府260年の
基礎を確立する
二代目の役割を
立派に果たす存在になったのでした。
さて 家康の子育て論を記載した
「神君御文」は
その後 大名 旗本を中心に
子育ての指針として
数多くの写本が作られます。
幕末になると 寺子屋などで使われた
「往来物」と呼ばれる教科書を通じ
庶民の間でも
広く親しまれるようになりました。
文政10年に出版された
「民家育草」も その一つ。
「尊き御方」というのが
徳川家康。
「書給ひし 子の育てやうを
示せし文」は
「神君御文」のことです。
千の蔵より子は宝。
いつの時代も人々は
子どもを育てるのに一生懸命でした。
家康の子育ての知恵は
太平の世にあって
人々の子育ての
指針となっていったのです。
いや すごいなって すごい思いました。
今ね ちょっと家康すごいなっていう
空気に ここがなってますけども
小和田さん これ秀忠の方からしたら
うるさいおやじだな… ないですか?
それはあったでしょうね やっぱりね。
でも やっぱ秀忠は
お父さんのことを尊敬してますんでね。
お父さんの言うことは
間違いないだろうというね。
しかも 周りの声を
よく聞けよっていうことは
家康も やっぱりそういうことで
例えば 本多正信だとかね
そういった腹心の意見を
しょっちゅう よく聞いてますんで。
その辺は 秀忠も見て育ってるから
お父さんのようにやれば
間違いないなということと
もう一つは やっぱり時代が
これからは武力ではなくて
文化だとか そういった
それで治めていくっていう時代なんで
家康は やっぱり その辺ちゃんと見切って
内政重視ということで
秀忠を跡継ぎにしたというふうに
思いますけどね。
さあ ここでの知恵が
「どんな相手でも聞く姿勢を持て」。
そう育てろということでしたけれども。
子どもと接する時って
やっぱり自分が忙しかったりとか
子どもと話す時間って
意外と持てないんです 私。
でも「聞く」っていうのって
門構えに「耳」から
耳偏に「徳」も「聴く」じゃないですか。
その門構えに「耳」っていうよりも
耳偏に
「徳」というふうになっていくと
それは やっぱり子どもの話を聴くことも
そうなんですけれども
その周りからの
意見を聴くっていうことも
聴くということが
徳につながっていくと思うんですよね。
私たちの家業の話になって
しまうんですけれども
先人たちの偉大さとか
先人たちは こういうことを
されていたっていうことを
聴くことによって
それは 利益ではなくて
自分の徳につながっていくんだ
っていうふうに思っていて。
子どもに対しても
聞く耳を持ってあげること
それから話すことで
自分の徳にもなるし
子どもにも その話をしてあげることで
子どもにも徳を積ませることが
できるのではないかっていうふうに
私は感じてるんですけれど
その 聴くということに
関していうとですね。
いや すごいなと。 深いですね。
すばらしい考え方だなって思います。
すごい 私 うっとうしがられるんです
子どもに。
何かを子どもたちが言った時に
いちいち「それは どういう考えから
そういうこと言ったの?」とか
「どういうところで見て
そういうふうに言ったの?」って
掘り下げたくなっちゃって言うと
「ああ… また始まったよ」とか言われて。
(笑い声)
「ママ その話 長くなるかな?」とか。
すごい言われるんです。
でも やっぱり人の話を聞いて
あの… 自分の中で
いろいろ考えて深めるっていうのが
すごく大切だなって思うので
めげずに対話は続けていこうと
思ってるんですけど。
その 聞く子に育てる上で何が大切なのか。
このお店の常連の
教育に詳しい方に聞いてまいりました。
高井さん それにしても
全然 お店に呼んでくれないじゃないの!
そのうちね きっと行くわよ!
申し訳ございません。
自分が聞いてもらった
受け入れてもらった経験が
今度 子どもが ほかの人の話を
聞くようになるというアドバイスでした。
何気ない会話でも
いいということですよね。
例えば お散歩していた時とか
「花が きれいだね」とか
「今日の月は きれいだね」でも
いいんですけれども
そっから 子どもの その話を
聞いてあげることとかっていうのも
大事だと思うし また何か子どもが
何かトラブルに遭った時でも
何かその これこれ こう思ったから
こういうことをしてしまったんだとか
まず聞く耳を
親が持たないといけないということを
今 改めて教えて頂きました。
最近 お話聞けてます?
舞台を一緒に出ることが多いので
その お芝居のことについてとか…。
そういう話を ふだんからされてる?
はい。 ただ子どもが思ってること
もしかしたら
歌舞伎をさせてるっていうことも
子どもからすると
何で これをさせられてるのかなとか
有無を言わさずに
親は言ってるんですけれども。
この間も子どもに
逆に教えられたことがあって。
次の舞台は 「これこれ
こういう役だからね」って言ったら
突然 子どもが話を途中で切り上げて
部屋に籠もったんですよ。
…で どうしたのか分かんなくって
母親に「何で そんな引きこもったのか
聞きにいって」っていうふうに言ったら
「お父さんが役の説明を
ちゃんとしてくれなかった」と。
「こういう役だから
一緒に出る出ないっていうのも
ちゃんと僕に聞いてくれなかった」。
僕らの頃って「お前 これこれ
こういう役だからな」って言われたら
「はい 分かりました」って
「やります」っていう…。
質問は なかった?
質問は なかったんです。
それも やっぱり親の傲慢というか
ちゃんと子どもにも考えがあって
舞台にも立つことだし
きちんと その説明をして
やるやらないの選択肢も
ちゃんと提示してあげないと
子どもっていうのも
しっかり考えを持ってるんだ
そういえば自分も
そうだったなっていうことを
子どもを通して
勉強することがありました。
ものすごく反省しました。
反省?
私も本当 口うるさく言って
「それは どういうことだ」とか
ああだ こうだとかっていうふうに
問い詰めてたんだなと思って。
深く その物事を
掘り下げるというよりは
何か子どもに しゃべる隙を与えないで
こっちが全部
何かこう「どうなの? ああなの?
それは どういうことなの?」
とかっていうのを
聞いちゃってたんだなっていうので
すごく反省しました。
最後まで聞くことっていうのが
まず大切なんだなって すごく思いました。
小和田さん
この「神君御文」ですけれども
当時 かなり広く読まれてた。
これは どうしてなんですか?
徳川将軍家 初代ということで
まさに「神君」ですので
東照大権現になって やっぱり
敬われていたというところがあって
武士たちっていうのは 将軍の家臣たち
大名たち いろいろいますので
そういった人たちが
知恵として知識として
質素倹約だとかね 当たり前
今にしてみりゃ 当たり前なんだけど。
それ やっぱ当時の人としては
ちゃんと言わなければ
みんな守らないみたいな
そういう側面は あったと思います。
一種の人間として いかに生きるべきかを
説いてるわけですから
その辺は 現代 我々が持っている
人間としての生き方みたいなものに
結構 影響与えてますよ。
この時代にできたものが
今も脈々と私たちのどこかに…。
遺伝子として残ってるんでしょうね。
さあ今回は 家康の子育て術について
見てきましたけれども
いかがだったでしょうか?
盆栽って樹齢1, 000年とか何百年っていう
盆栽ってありますけれども
野放しの原木って やっぱりこう
立ち枯れちゃったりとか
環境に負けて
折れちゃったりとかしますよね。
家康さんは その260年続く盆栽を
自分の哲学を とにかく伝えて
秀忠さんに偉大なる二代目として
作り上げたんだなって。
私のうちも父が七代目
私が もしなるんだったら
八代目ですけれども
もう そうなってくると
歴史となってますから
父の背中を見て育つ
…で 後に伝えていくっていうことを
当たり前のようにしていますけれども
初代さんとか その次の二代目さんは
もう とんでもない苦労をして
この 私どものうちを続くように
作り上げて下さったんだなというふうに
感じたのと
やはり 秀忠さんからすると
お父さんっていうのは
とてつもない偉大な存在で
いつまでたっても
お父さんには至ってない。
どうしたら お父さんに
なれるんだろうっていう気持ちが
すごいあったと思うんですけれども
それは私もあるんですよね。
だけど ある方に
その父とか祖先を敬って…
…っていうことを
教えて頂いたことが
あるんですよ。
それが 代々続いていく
方法だなっていうことを
この秀忠さんを見ても思いますし
家康さんから いろいろ教えて頂きました。
武将の子育てというので どんなね
強いものなのかって思ったんですけど
ものすごく やっぱり身近に感じられる
子育てだなって思って。
とても悩んで悩んで悩み抜いた
子育てだったんだなっていうのを
すごく感じましたし
やはり人の話を聞くとか
人の意見を取り入れるとか
その上で どのように
生きていくのかというのを考える
考えさせるっていうのは
とても参考になるというか
教えられたなっていうふうに
思いました。
本日は どうもありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
♬~
まあね 家康も悩むわけですから
子育てっていうのは
悩みがつきものですよね。
さあ こんな感じかな?
私も十七か条 考えてみますかね。
十七あるかな…。
Source: https://dnptxt.com/feed/
powered by Auto Youtube Summarize