英雄たちの選択「激突!秀吉vs.島津兄弟 ~九州平定・白熱の攻防戦~」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択「激突!秀吉vs.島津兄弟 ~九州平定・白熱の攻防戦~」[字]

天正15年(1587)3月、20万の大軍勢を率いた秀吉は、圧倒的な軍事力を背景に、九州の雄・島津氏を攻めた。秀吉の「九州平定」の知られざる攻防戦を明らかにする。

詳細情報
番組内容
秀吉の「九州平定」は、結果として、大軍を擁した秀吉軍の力攻めで終わる。しかし、子細に見ると、秀吉は、島津を降伏させたにもかかわらず、本拠地・鹿児島に入ることもかなわなかった。城攻めのノウハウを総動員して緒戦の勝利にこぎつけた秀吉方と、恭順の姿勢をとりながら根強い抵抗力を温存する島津四兄弟。秀吉の「九州平定」の白熱の戦いの真相を徹底分析する。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【語り】松重豊,【出演】小和田哲男,千田嘉博,安部龍太郎

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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  1. 秀吉
  2. 島津
  3. 豊臣軍
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  10. 選択
  11. 降伏
  12. 薩摩一国
  13. 結果
  14. 今回
  15. 千田
  16. 島津家
  17. 島津軍
  18. 本当
  19. 虎居城
  20. 高城合戦

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

鹿児島県にある
姶良市歴史民俗資料館には

戦国時代の九州を描いた
貴重な地図が残されている。

これは あの…

当時 鹿児島を拠点とした島津氏が

九州のほとんど全てを
手中に収めていたことが よく分かる。

ところが!

僅か2か月という短期間で

この状況を
ひっくり返したのが

豊臣秀吉による天下統一の戦い
九州平定である。

日本各地40か国から
20万を超える兵が動員され

前代未聞の
大軍勢で

九州に侵攻した
豊臣軍。

それを迎え撃ったのが
勇猛さで知られる

当主 義久を
筆頭にした
島津四兄弟。

圧倒的な兵力差の中…

その戦いの舞台となったのが

島津方の城 高城を巡る攻防戦。

豊臣軍10万 対 島津軍2万の
激突である。

この知られざる戦いに
城郭考古学者の千田嘉博さんが挑んだ。

いや~。 これ見てくださいよ これ。

なんとですね 山の斜面にも 竪堀を
こういうふうに何本も掘っていて

斜面を横移動して
お城の方に近づいていくというのを

徹底的に防御するっていうですね

鉄壁の守りを固めていた
というのが分かります。

一方の豊臣軍。

城攻めの集大成とも言える…

そして
九州平定を成し遂げた秀吉が抱いた

新たな野望とは?

秀吉 対 島津四兄弟。

専門家たちが それぞれの立場から
白熱の攻防戦を論じ合う。

可能性としては…

その後の歴史を揺るがした
豊臣秀吉の九州平定。

知られざる戦い その舞台裏に迫る。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今回の主人公は こちらです。

皆さん ご存じ
戦国時代の英雄 豊臣秀吉です。

秀吉が 天下統一戦争の過程で

九州へ大軍勢で侵攻した
九州平定を取り上げます。

そして秀吉に対抗したのが
こちらです。

島津家当主 島津義久。

そして
武勇に優れた弟たち

いわゆる
島津四兄弟ですね。

なんとも強そうな
感じですけれど。

島津軍は 自分たちの
生き残りの戦略のためにですね

九州全土の制覇を目指そうとします。

一方で秀吉は 圧倒的な軍事力と
まあ もちろん経済力も持っています。

それを背景にして
天下統一の戦争を進めていくと。

まるで さまざまなね 戦争を
今でも 悲しいことにありますけど

まあ 似たような構図もあるわけです。

大陸で戦うと。
あっちも侵略しちゃうと。

そっちに目を向けてるわけですから

背後の九州の島津を滅ぼすか
なんとかしとかないと あるいは…

そういうことなんですね。

さあ それでは
その豊臣秀吉 対 島津四兄弟の戦い。

まずは 九州平定の経緯から
見ていきましょう。

放て~!
(銃声)

その日 京の都で
歴史を揺るがす大事件が勃発した。

戦国の覇者 織田信長が
明智光秀の襲撃を受け自刃。

本能寺の変である。

信長亡きあと
いち早く
後継者として

名乗りを上げたのが
羽柴秀吉。

秀吉は 並み居る強敵たちを退け
畿内統一を果たし

天下人への階段を上り始めていた。

一方 畿内から遠く離れた九州では…。

薩摩 大隅 日向の
三州統一を果たした
島津が

急速に領土を拡大。

九州6か国の
守護職を兼ねた大友と

二大勢力に
分かれていた。

この時 鎌倉以来の名門
島津家を率いたのが

16代当主 義久。

政をよくする深謀遠慮の名将と知られる
戦国大名である。

その兄を支えたのが 義弘 歳久

そして家久の3人の弟たち。

いずれも 武略に秀でた猛将である。

この島津兄弟の名が
天下に轟いたのが

現在の宮崎県北部で行われた
耳川の戦い。

大友と雌雄を決した一大合戦である。

両軍合わせて7万の大激突。

戦いは…

結果 大友軍は総崩れとなった。

こうした島津の勝利を決定づけたのが

鉄砲を活用した戦術だと
原口 泉さんは考えている。

そうするとね…

こうした四兄弟の活躍で
劣勢に立たされた大友は

起死回生の一手に打って出た。

秀吉に助けを求めたのである。

そして その結果…。

関白に就任し
羽柴から豊臣となった秀吉は

九州に停戦命令を発令。

「もし勅命に従わなければ
必ずや成敗する」と

島津を牽制したのである。

この一方的な停戦命令に
どう対処すべきか?

当主 義久は重臣を集め 軍議を開いた。

この時 大勢を占めたのが
秀吉 恐るるにたらずという意見である。

「島津家は
源 頼朝以来の名門。

それに比べ 秀吉は
由来の分からぬ人物にすぎない。

そんな人物を
関白と認めるなど
笑止である」。

軍議の結果 静観することに決した。

これが覆ったのが

大坂から戻った使者がもたらした
報告である。

秀吉は停戦令に加え
九州の国分け案を提示した。

国分けとは
領土を各大名に
分け与えることである。

大友には 北九州の国々を。

島津には 薩摩など三州に加え

いくつかの国を分け与えるというもの。

秀吉は 九州を思うがままに
分割しようとしたのだ。

九州全土の制覇を
目標にしていた島津にとって…

島津勢は 秀吉の停戦令を破り
ついに大友領へ進軍。

たとえ秀吉が襲来しようと

島津には 実は この時
勝算があったという。

これは え~ 相当な…

…というのが
恐らく交渉の切り札でしょう。

更に秀吉には この時期
畿内を留守にできない事情があった。

徳川家康との対立である。

小牧長久手の戦いでは
秀吉は 家康に思わぬ敗北を喫した。

そして そんなさなか…。

マグニチュード8近くの
超大型地震が発生。

中部地方と近畿を襲った天正地震によって
秀吉方の多くの城が倒壊した。

長期化する家康との対立。

そして 大地震で倒壊した
城の復興など

秀吉が九州に攻め入る いとまはなかった。

当時 来日していた宣教師も
こう断言している。

関白の背後には
信用の置けぬ
大勢の大敵が控えている。

島津軍が大友領に攻め入ってから
3か月後。

畿内を留守にできない
秀吉に代わり

仙石秀久や長宗我部元親など

四国の軍勢が九州に派遣された。

そして末弟 島津家久が豊臣軍と激突。

現在の大分県大分市で行われた

戸次川の戦いである。

川を渡り進軍する豊臣軍に対し
島津の伏兵による鉄砲が火を噴いた。

この攻撃で 豊臣軍の
名のある武将たちが戦死。

史料には
「豊臣方の負けっぷりは

もはや
表現のしようがない」
と記されている。

この大勝利により
島津軍は 大友の拠点 府内の占領に成功。

九州全土の制覇は もはや目前にあった。

ところが!

九州から遠く離れた畿内では
不測の事態が生じていた。

戦いのおよそ2か月前

なんと 徳川家康が秀吉に謁見。

秀吉に家康が屈したのだ。

これで 秀吉に後顧の憂いはなくなった。

次の狙いは島津。

今度は 秀吉自ら
九州へ向かうことに決したのである。

今回も
さまざまな分野の専門家の皆さんに

お越しいただいています。
よろしくお願いいたします。

いや まあ あの島津軍の強さの前に

豊臣軍の先陣は
ボロ負けとなってしまいましたけれど。

小和田さん
どのように この戦い見ましたか。

はい。 これ もう
完全に島津家

要するに
末弟の島津家久が

この時
大将ですけれども

もう完全に
そちらの勝ちに
なりますので。

まあ これも
いろんな史料に
残ってますけれども

仙石秀久は
淡路島まで
逃げたとかね。

あるいは
長宗我部元親も

伊予の島まで逃げた。
この時 実は…

ですから もう本当に
これは もう どっちかっていうと

豊臣方は もうボロ負け。
ですから これによって恐らく

まあ 要するに 島津側も

「あっ 秀吉軍といっても
寄せ集めの軍隊だね」っていうふうに

感づいちゃったのかなあ
という気がしますね。

安部さん ご出身が九州だと
伺っているんですけれど

島津の強さについては
どのように考えますか。

この島津の強さの秘密というのはですね

やっぱり
鉄砲の装備率の高さだと思いますね。

で 島津っていうのは
領国内の種子島に

最初に鉄砲が伝わって

そこで鉄砲の一大生産拠点になった。

そうですね。
それから もう一つはですね

島津の領内から 硫黄島とかがあって
硫黄が いっぱい採れるんです。

良質な硫黄が。

この硝石は
輸入しなくちゃいけなかったんですね。

だから ほかの大名たちと違ってですね…

う~ん なるほど。

千田さんは その お城の研究家として

この島津の強さは
どのように感じてますか。

以前 一緒に
薩摩川内市にある

清色城というお城を

訪ねさせて
いただいて

全国の「英雄たちの選択」ファンに
羨ましがられましたけれども。

すごいお城ですよね。
そうですねえ。

もう だって シラス台地の

あの 垂直に城壁をつくると
安定するという

もう お城をつくるために
あるような地形で。

深い堀を掘って。
ああいうお城がですね

島津の領国中 もう
本当に星の数ほどあって

守りを固めていると。

あれほどの…

う~ん。
いろんな強さが出てきましたけど

磯田さんは じゃあ 島津の強さ

ほかの大名に比べると
どういうところが強いと感じますか。

その 文字を読まなくても
生活のリアルな戦い方だとかを

小さい頃から
しっかり教え込むという教育…

それで あと お金
経済社会が発達してないから…

戦争なんて 損得でいったら
早く逃げるのが

命が惜しくて逃げるのが一番いいので。
その経済性という

損得勘定じゃないところで動く人たちが
いっぱいいるというのも

彼らの強さになっている。
へえ~。

こう マインドというか
メンタリティーみたいなところが

もう既に強いんですね。
まあ とはいってもですよ

あの 豊臣軍との兵力差は
明らかということなんですけれど。

なぜ じゃあ
島津は秀吉に戦いを挑んだのか。

安部さんは
この点について どう思いますか。

あの 読み誤ったってことですよね。

秀吉は攻めてこない
攻めてこられる状態ではないと思ってた。

あの 島津も 南蛮貿易とかを
たくさんしてますから

恐らく 宣教師たちの情報も
島津義久のもとに

入ってきてたはずなんですね。

ところが…

当時の常識ではね…

島津にとっても 逆に予想外だったと?
そうそう そうそう。

あの 今回ですね
千田さんに現地に行っていただきました。

はい。 豊臣と島津
激戦の現場を歩いてまいりました。

秀吉は 40か国に動員を命じ
20万以上の大軍勢で九州へと出陣した。

当時の記録に こうある。

「本願寺の僧侶
京や堺の豪商まで
お供に加え…」。

「まるで大唐まで切り従えるかと
思われるほどの

前代未聞の大軍勢である」。

九州に上陸した秀吉は

高山右近や蒲生氏郷 前田利長など

畿内周辺の大名を率いて肥後方面を南下。

一方 弟の秀長は

毛利輝元や宇喜多秀家
長宗我部元親など

中国 四国勢を率いて
日向方面を進軍した。

この日向方面で 両軍が激突したのが

九州平定の分岐点となった
高城合戦である。

宮崎県日南市に
この高城合戦の布陣図が残されている。

城郭考古学者の千田嘉博さんが訪ねた。

ああ だんだん見えてきました。

お~。 ああ これは すごい。

こちらはですね…

島津方の城 高城は
小丸川を自然の障壁となし

東に日向灘 南北を台地に覆われた
堅固な要塞である。

あの 歴史が好きな人だったら
一度は聞いたことがある

著名な武将の名前が
あちらこちらに見ることができます。

あっ 本当だ。
あっ 黒田とかあるし。

あっ 藤堂。
秀吉の家臣ですよね。

こちらが太平洋になりまして…。 海。
海ですね。

これが 小丸川という川が…。

はいはい あの高城の麓を流れていってる
ずっと下っていく川ですね。

脇坂 加藤 長宗我部。

はは~。 長宗我部 ここだ。

はい 水軍を引き連れて
ここに来ている様子が分かります。

いや~…

宮崎県木城町にある高城は

大分や熊本
鹿児島を結ぶ交通の要衝。

標高60mの台地の上に
築かれた山城だ。

千田さんは 高城の本丸に向かった。

いや~ これ すごいですね。

これ高城の本丸なんですけれども
まさにですね…

ちょうど あの手前の所に小丸川ですよね。

あの川が流れているんですが
向こう側の山の上に

豊臣の大軍勢が
陣を置いた場所ですから。

この距離感で
この両者が対峙していたという

その様子っていうのが
まさに よく分かります。

4月6日。

秀吉の弟 秀長率いる10万の豊臣軍が
高城を包囲。

それに対し 籠城した島津方の兵は

僅か1, 300余りだという。

ところが 高城は

三方を
断崖絶壁に囲まれた
難攻不落の要塞。

更に 西に続く
尾根には

堅固な防御施設が
施されていた。

いや~ ここ堀があったとこですよね。
あっ こっちにもある。

これ見てくださいよ これ。

なんとですね…

鉄壁の守りを固めていたというのが
分かります。

そして この尾根筋の先に 竪堀を連続して
ずっと何本も つくっていまして

そして
残りの三方というのは

自然地形で
守られていましたから

これは どれだけ大軍に
周りを囲まれていても

一気に攻め落とす
っていうことは

とてもできない
というですね

大変強いお城だったというのが
やっぱり 現地だと よく分かります。

こうした鉄壁の高城を攻めあぐむ豊臣軍。

この城を いかに攻略すべきか?

豊臣軍が目をつけたのが

城の南側にある
根白坂と呼ばれる場所である。

豊臣軍は 高城から2km離れた
この根白坂周辺にも陣を築いたという。

昭和37年に撮影された航空写真。

長さ数百mに及ぶ

巨大な堀跡の輪郭が読み取れると
千田さんは考えている。

それは 布陣図に描かれた
豊臣軍の陣跡にも一致する。

広大な陣には
最先端の防御の工夫が施されていた。

今回 特別な許可を得て

400年以上前の豊臣軍の痕跡を
藪に分け入り 現地で探した。

もう既に陣の跡なんですけども…

ああ これ…。

いや~ これは いい所です。

更に奥へと進んでいくと…。

この場所なんですけど…
見ていただきますと

土塁の跡が残っているというのが
分かります。

この土塁なんですけど
それほど高いものではありませんが

盾にして この上に柵などをつくれば

ちょうど 反撃するのには
いい高さですよね。

そして 実は 面白いのはですね…

だから まさに 囲んでいるお城というのは
あっちにあるんですが…

つまり 豊臣軍というのは

この高城を
こういうふうに周りに陣地をつくって

囲んでいたというだけではなくて
その高城を救援するために

島津の軍勢が
背後から来るに違いない
ということを

あらかじめ予想して
高城と反対側の方向にも

この守りの施設を
しっかりと整えていたんだ
というのが

こういうふうに実際に
現地で見ることができるわけです。

島津軍本隊の襲撃に備え

豊臣軍は僅か10日ほどで
巨大な堀や土塁を築き

堅固な陣を急造したと考えられる。

4月17日 夜。

豊臣軍の思惑どおり

高城救援のため
島津家当主 義久自らが出陣。

弟 義弘や家久も前線へ向かい

根白坂の豊臣軍に夜討ちをかけた。

高城を救援するためには

根白坂に築かれた
豊臣軍陣地を突破するほかない。

突撃する島津勢は
豊臣軍が築いた長大な堀の突破を試みた。

ところが…。

堀は深く
なかなか越えることすらできない。

更に…。

「豊臣軍は
数千丁の鉄砲をそろえ

雨あられの降るがごとく
これを一斉に掃射。

これにより 島津の兵は
皆 堀底で討ち取られた」という。

豊臣軍の巨大な防御施設を前に
突撃した島津勢のほとんどが戦死。

その結果
島津勢は撤退するほかなかった。

あっという間に 短期間に
これほど鉄壁の陣をつくり上げて

島津が反撃しようと思っても
義久が そこの陣の背後から迫って

つけ込もうとしても
ちゃんと守りを固めていて

島津としては
本当に これは どうしたらいいんだと。

ここに やっぱり…

こういったもので…

義久は この敗戦から僅か4日後
豊臣軍に降伏を申し入れた。

高城が開城したのは
その8日後のことであった。

九州平定の分岐点となった戦い
高城合戦を見ていただきました。

千田さんには 今回も
現地に行っていただきましたけれど

改めて
この高城合戦の解説をお願いします。

はい 承りました。
はい。

こちらが あの高城です。

この周りにですね 豊臣軍が攻めてきた
ということになるんですが…

こうなりますと 島津義久でありますが
このお城の対岸側ですね

この台地の端を こう囲っていた
豊臣軍の陣の背後を

夜襲をかけたということに
なります。

ところが この絵図にも
描かれておりますようにですね

実は豊臣方の陣というのは
単に堀や土塁で囲むのではなくて

こういうふうに…

豊臣方がですね 島津の攻撃を退けた
といったことになりました。

やっぱり 豊臣家というのは
城攻め得意な やっぱ 土木技術とか

もう お金 どんどん どんどん
つぎ込んでやって

それで勝ったっていう感じですね。
いや 本当そうですよね。

まさに その 宮部継潤もそうですが

横にいる藤堂高虎とかね

その横にいる黒田官兵衛は
築城の名手ですからね。

そういう人間を集めて
そこに城をつくって

恐らく あの ほら
後詰め決戦っていうじゃないですか。

あの 城を… 高城を囲んで

敵が後詰めに出てきたところを
たたこうというね。

恐らく 最初から
そういう意図だったんじゃないですかね。

そうすると 非常に複雑な あの陣を
臨時なものなんですけども

本格的なものとして つくったというのも
そういう理由があったからですかねえ。

なるほど!
だと思いますね。

磯田さん どうですか。
いや これね…

この時 伝わってる話だと

島津軍は青竹の先に
鹿の角をつけて引き倒そうとした。

それで さんざん みんなでやった。

ところが
やってもやっても 塀が倒れない。

なぜだ?
これは もう 秀吉たちですよ。

なんと 180cm 埋まってたっていう。

それで その上に
180cmの棒があったから

3m60の棒でつくってた。

で 土に突き刺してるのが90cm。

土塁で固めているのが90cm。

その上に180cmの塀だから
おかしい おかしい。

でも 彼らは真面目だから 勇敢だから

これでやめたら 島津…
隼人の名が廃る 島津の名が廃るで。

メンタリティーが そこで。
どんどんやって どんどん銃撃されて

数を減らしていったんですよね。
ああ~。

私 思うんですけどね こう来ますよね。

それで簡単に敗れて逃げる。

それで もう終わりだろうと。

それで 更に このころ夜が明ける。

こう来ると
「うわっ やられた!」っていって

「もう いかんぞ いかんぞ!」っていって
この辺が移動し始めるわけですよ。

はいはいはい 集まってくるんですね?
それで恐らく こう来ます 来ます。

そしたら ここで釣り野伏ですよ。

「うわあ~!」っていって
「やめた~!」っていって
今度 山 上がり始める。

そしたら この坂を もう 絶対
こういうふうに あれしたのが来る。

そしたら いきなり
くるっと反転して これをやっつけて

もう一回 壊滅するという。
恐らく これを考えてたはずなんですよ。

だけど あの城は抜けないんです。
はあ~。

例えば 先ほど シラス台地の城
っていうのが ありましたけど…

島津が?
うん。 しかも もう一つは…

つまり…

それがね…

あとね 僕ね…

一晩中 銃弾を撃ち続けることが
できないから

まだやれば
あいつらの弾切れが来ると思った。

ところが…

この情報を
きちっと覚えておかなきゃいけなかった。

プロは 本当に その補給を見るんですよ。
なるほど。

鹿児島県薩摩川内市にある
泰平寺。

泰平寺に滞陣していた秀吉の前に

頭を丸め 出家した島津家当主
義久が出頭した。

義久は 正式に降伏を申し出たのである。

ところが 実は まだ
戦いは終わったわけではなかった。

降伏に異を唱えた弟の歳久が
居城 虎居城に籠城。

あくまでも秀吉に抵抗する姿勢を
見せていたのである。

いや~ すごいですね。
虎居城 やって来ました。

もう当時の要害堅固な様子というのが
実感できるお城ですよね。

実はですね 虎居城 もう 今 見えている
大体 もう範囲全部お城ですよね。

川内川。 この川がですね まるで
このお城のために流れているように

お城をぐる~っとですね
周りを囲んで流れていまして

もう近づくことが
とてもできないっていう。

もう お城としては最強ですね これ。

三方を河川に囲まれた虎居城。

高城同様
断崖の台地上に築かれた山城である。

現在は 木々に覆われた城の中には

堅固な防御施設が築かれていた。

その一端が かいま見える場所に向かった。

分かりますかね
あの木が生えている下の所に

斜面を覆っている
切岸といっている人工の急斜面が

ず~っと こう
森の中に続いていってるという様子も

ここからだと とってもよく見えます。

いや~ 改めてですね 立地といい

そして こういった
丁寧なお城のつくりといいですね…

こうした難攻不落の城に籠城したのは
虎居城の歳久だけでない。

兄の義弘もまた
徹底抗戦を辞さない構えをとっていた。

更に各地に居城を持つ島津の重臣たちも
秀吉に抵抗する構えを崩さない。

当主 義久が
降伏を表明したにもかかわらず

あくまでも抵抗を続ける島津の武将たち。

島津を 一体 どう処分すべきか?

苦悩する秀吉の心の内に
分け入ってみよう。

既に島津家の当主 義久は降伏している。

そうとなれば もはや九州全土は
我が手中にあるも同然。

そもそも
停戦命令に背いた非は 島津にある。

ここは いっそのこと
島津家を滅亡させるという手もあるか。

だが そうとなれば
ほかの弟たちは抵抗をやめず

戦は更に長引くことになるであろう…。

戦に勝利した秀吉。

しかし 秀吉を取り巻く状況は
実は厳しいものであった。

この時 九州は梅雨入りのただ中にある。

長引く大雨で
崖崩れなどが頻発していた。

外国人宣教師の記録に こうある。

兵の中には病人が続出。

餓死者が 連日 後を絶たない
ありさまとなった。

このまま戦が長引けば
何が起こるか分からぬ…。

やはり ここは
薩摩一国を安堵するというのはどうか。

そうであれば 島津家の面目は立ち

ほかの弟たちも納得するであろう。

だが
停戦命令を無視した島津を優遇しては

参陣した諸侯に示しがつかぬ。

島津を滅亡にまで追い込むか
それとも薩摩一国のみ許すべきか。

苦悩する秀吉に
選択の時が近づいていた。

高城合戦の結果
島津軍は戦いに敗れ

その後 すぐ
当主 義久は降伏を決めました。

小和田さん まだ戦えそうな気も
しなくはないんですけれど…。

そうですね
まだ兵力は温存されてますので

戦おうと思えば戦えたと思うんですが。

ただ 周りですね。
家臣たち あるいは弟たち。

これは まだ戦えるぞというふうに
言ってるわけで。

多分 それを考えたんじゃないかなあと
思いますね。

やっぱり ここで もう頭を下げて
ある程度 島津を残すというふうに

まあ 考えを変えていった。
これが やっぱり この高城合戦

まあ 根白坂の戦いが持つ意味ですね。
う~ん。

降伏した島津を どう扱うべきか。
苦悩する秀吉に 選択の時が訪れました。

1つ目は 「島津を滅亡させる」。

そして 2つ目の選択は
「薩摩一国を安堵する」。

皆さんが当時の秀吉の立場だったら
どちらを選択するでしょうか。

まずは 安部さん
どちらを選択しますか。

え~ 私は
「薩摩一国を安堵する」ですね。

あの島津勢は
余力を持って撤退して

何かあれば 最後まで抵抗するっていう
構えを見せてますから…

そうすると 補給が続かない。

それから そうなれば…

そういう危険もありますから なるべく
早く ここは収束させるべきであって。

では 「薩摩一国を安堵する」
ということですね。 そうなんです。

千田さんは どちらを選びますか。

はい 私はですね
「薩摩一国を安堵する」を選びます。

同じですね。
はい。

やはりですね これは
島津氏を滅亡させるというのは

まあ 無敵と言っていいお城が
もう たくさんありますから

それを…

あまりにも これは…

まあ そういうことになってしまう
ということを考えれば

秀吉としては
これは もう 島津を許してですね

和平を結んで
一国を与えるんだというですね

そういった形で臨まざるをえなかった
というふうに思います。

小和田さん どうでしょうか。

まあ 私も2の「薩摩一国を安堵する」
という方を選びますね。

これ もう
だいぶあとの話なんですけど…

で 本当ならば…

もう ほとんど…

まさに この時に ちょっと近いのかなと
思ってるんです。

やはり それだけ島津を
何て言うのかなあ

軍事力で圧倒するのは
ちょっと難しいというね。

皆さん 島津を滅亡させるのは
不可能ではないかという意見が

多いようですけど
磯田さんは どちらを選択しますか。

僕はね…

ただ 問題は そのあとですよ。

島津を もし滅ぼしちゃったら

薩摩を占領して
領有化しなきゃいけないんですよ。

でね これのコストっていうのは
ものすごいもんです。

なのでね 私は 「薩摩を安堵する」。

はい 一緒ですね。
一国を安堵する。

何が起きるというと 島津を滅ぼす。

で そのあと そこから
ものすごい収奪をやって

朝鮮半島を攻める。
はい。

不満がわき起こる。 そうしたら…

南九州って そういう土地柄ですよ。

そうしたら
ガラ空きになってるところで 国が。

もう弱ったところで
もう一揆が連発するわで

もう大変なことになって。

だから どう損得勘定を考えても

島津一国を安堵した方がいいと
思いますね。

う~ん なるほど。

さあ では 秀吉は
どんな選択をしたのか。

九州平定 そこには
秀吉の更なる野望が秘められていました。

秀吉が 降伏を申し出た
当主 島津義久に与えた赦免状が

残されている。

日付は 天正15年5月9日。

泰平寺での対面の翌日のことである。

「この度 関白 秀吉様が
薩摩まで出陣し

島津を
討ち果たす目前に

義久が一命を捨てて
出頭したので

赦免する。

しかる上は 薩摩一国を与える」。

秀吉は 義久に
薩摩一国を安堵することを選択した。

更に 秀吉は 義久と同じく

降伏した末弟 家久の領地も安堵。

後に恭順した義弘も
大隅一国を安堵された。

島津家は 兄弟の領地を合わせ

3か国を安堵された結果となった。

だが…。

島津四兄弟のうち 虎居城の歳久だけ
秀吉との対面を拒絶。

そればかりか…。

歳久は 秀吉の帰り道を狙い
輿に矢を放ったという。

秀吉にとって 九州平定は
凱旋の帰還とは程遠いものであった。

秀吉の正妻 北政所に漏らした
思わぬ本音が書状に記されている。

「今回の九州出陣では
非常に苦労が多く

そのせいか
白髪ばかりが
多くなり

抜いても
追いつかないほどに
なってしまった」。

なぜ秀吉は島津に対し
3か国もの領地を安堵したのか?

真っ先に やらなきゃならないのは
唐入りの準備だと。

唐入りする時に…

博多へ戻った秀吉は

国際貿易港
博多の復興に着手した。

唐入り
つまり 大陸進出のための布石であった。

更に 北政所宛ての書状からは

秀吉の大陸侵攻の強い決意が読み取れる。

「高麗王に 天皇のもとへ
出仕せよと命じた。

これを高麗が拒否すれば

来年 軍勢をもって成敗する。

ゆくゆくは

唐国まで
手に入れる
つもりだ」。

秀吉が その夢を実行に移すのは
九州平定から5年後のこと。

文禄・慶長の役である。

だが 7年に及んだ無謀な対外戦争は
泥沼化の一途をたどり…。

そして 秀吉の死により
ようやく戦いは幕を閉じたのである。

秀吉は 島津に3か国を安堵したという
結果になりました。

磯田さん。 秀吉は 島津に気を遣った
ということなんでしょうか。

いや~ 遣ってますねえ。
義久一人でね 謝りに来たけど

お白州で こう 1人でっていうのは
すごい恥ずかしいことなんですよ。

あっ そうなんですか。
ところが 「おお 近う近う」って言って

縁側にあげた上に
刀まで こう あげるっていう…

「腰が さみしいな」とか言って
くれると 危ないですよ。

それを聞いて島津は もう この人
ものすごく僕に気ぃ遣ってくれてると。

それで もう…

はあ~。
あと その…

打ち負かすと いい子分になるんですよ。

さあ ここで
皆さんに伺いたいんですけれど

まあ 歴史のifを
ちょっと伺えればと思っていて。

もし 秀吉が
島津を滅亡させようとした場合

島津に逆転の可能性はあったのか?

安部さんは どうですか。
逆転の可能性って あったんでしょうか。

あのね 一つは…

だから…

秀吉が あそこで死んだらですね
もう全員 逃げ帰りますよ あの豊臣勢は。

そこを狙ったというのが 一つですね。

小和田さんは どう考えますか?
はい あの

戦国の軍事同盟のパターンとして
遠交近攻っていうのがあるんですよね。

遠くの敵と交わって近くを攻める。

この時も 島津の場合 可能性としては
それこそ…

だから 関東 東北の連中と
連絡を取り合って

間に挟まってる秀吉軍を
まあ 両方から攻める。

それは 可能性としては 戦略ありえた。

やはり 巻き込むということが
大事なんですね。

さあ 今回は 秀吉の九州平定を
見てまいりましたけれど

その後の歴史に
どんな影響を及ぼしたのか

どんな意義があったのか。
千田さん いかがでしょうか。

はい。 この九州平定なんですけれども

これは秀吉にとってですね
確かに よかったのではありますが

その後っていうことで言うと

非常に大きな影を投げかけていくことに
なったというふうに思います。

つまり…

戦った側を許してしまえば

その土地を与えることは
できないわけですね 家臣たちに。

そして 全国を統一してしまったら

豊臣政権 どうやって大名たちを
つなぎ止めたらいいだろうかっていう…

そのことが 結果として
その次のですね

文禄・慶長の役にも つながっていく
ということになったと思いますし…

…ということではなかったか
というふうに思います。

磯田さんは 九州平定 どう思いますか。
この戦い 深いねえ。

深い?
やっぱりね 秀吉…

最盛期の50代前半の秀吉と島津側が
結構 丁々発止にやり合うわけですよ。

それで…

島津に あんまり恥をかかせてしまうと
反抗は いつまでも続きますよ。

使うということを考えたと。

だから やっぱ これ見ると 秀吉は…

それをやってさえあげれば
いい子分になるんだと あれは。

いい道具に 俺の道具になると思ったと。

だから これ やっぱり…

その出口イメージをしっかり持って
相手側の本質。

島津は あの国で生きてきた人たちで
武の威力を ほかに見せたい人たちだと。

だから 相手の心情だとか
文化っていうんですかね。

習慣や生活を見ながら この戦争の出口の
イメージをつくっていくというのが

まあ できた人は勝者になるんですけど

できなかった人は
攻めて自滅するんですよね。

深いですね 結構。

さあ 今日は 九州平定について
皆さんと見てきました。

皆さん 今日は ありがとうございました。

(一同)ありがとうございました。

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