英雄たちの選択「“日本第一の大天狗(てんぐ)”後白河法皇」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択「“日本第一の大天狗(てんぐ)”後白河法皇」[字]

貴族の世から武士の世へ、過渡期に生き残りをかけ権謀術数の限りを尽くした権力者がいた。後白河法皇である。終生、今様歌を愛し続けるというユニークな存在でもあった。

詳細情報
番組内容
平清盛の後押しによって院政を敷いた後白河法皇は、平清盛、木曽義仲、源義経と次々に武士の力を利用して、権力の座にとどまり続けた。頼朝は、法皇を「日本第一の大天狗(てんぐ)」と罵倒したが、その後、法皇と和解する。後白河法皇は、なぜ平清盛・源頼朝と渡り合いながら、院政を維持することができたのか?その実像に迫る。
出演者
【キャスター】磯田道史,杉浦友紀,【出演】歴史学者…本郷和人,脳科学者…中野信子,【語り】松重豊

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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キーワード出現数ベスト20

  1. 後白河院
  2. 平家
  3. 清盛
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  16. 当時
  17. 文字
  18. 法住寺殿
  19. 言葉
  20. 大天狗

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

貴族の世から武士の世へと
移り変わりゆく時代。

次々に台頭する 平 清盛
木曽義仲 源 義経など

時代の寵児たちと
権謀術数の限りを尽くして
渡り合った人物がいる。

後白河法皇 すなわち後白河院だ。

機を見るに敏。

悪く言えば
手のひら返しの常習犯。

かつて 京都 東山には

後白河院の威光を象徴する
広大な院の御所が築かれた。

平 清盛をはじめとする
平家一門の援助も受けて建てられた

法住寺殿だ。

しかし 後白河院は
清盛の死後 豹変し 平家を見限る。

源氏の力を利用して
平家を滅亡へと追いやったのだ。

ところが 後白河院は

義仲や義経ら源氏の武将を
利用するだけ利用した後に

謀反人として追討令を出す。

まさに 朝令暮改。

そんな後白河院を 頼朝は

日本第一の大天狗と
ののしった。

大天狗とは
一体 何者なのか。

その正体を探るため
スタジオに

歴史と脳科学の
専門家が集結。

天才ですよ。

「英雄たちの選択」。

源氏と平家の
運命の鍵を握った後白河院。

その実像に迫る。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今回 取り上げるのは こちら。

平 清盛 木曽義仲 源 義経 源 頼朝など

源平合戦の名だたる英雄たちと渡り合った
後白河院です。

頼朝からは 日本第一の大天狗と
ののしられたようですけれど

磯田さん 今回の見どころは
どういうところでしょう?

「大河ドラマ」のね 「鎌倉殿の13人」で

頼朝の したたかさがね
注目されてますけど

その ずっと上を行くのが
後白河院ですよね。

ずっと上ですか?
あの清盛や頼朝をですよ

手の上で転がすわけですから
ただ者じゃないですよね。

日本一の大天狗なんて
言われたりしてですね

さまざまに悪く言われるんですね。
フフフ。

はい。 でも この後白河院に
あしらわれた者たち。

僕は 悔し紛れに言った言葉だと
思ってるんです。

そうですか。 はい。
まずは その後白河院が

治天の君として権力を握るまでの
紆余曲折をご覧いただきましょう。

後白河院の側近中の側近が
院を評し こんな言葉を残している。

「和漢の間 比類少なき暗主」

「愚かな主」と そしりながら一方で

「人の制法にこだわらず」。

つまり
一旦 決心したことは

人の世のルールに縛られず
成し遂げたという。

一体 どのような
人物だったのか?

世の常として 皇位を継ぐ者は

幼い頃から 天皇にふさわしい能力を
身につけるために 帝王学を学ぶ。

儒学の経典や漢詩

更には 和歌や管弦楽器の演奏などである。

後白河院の兄で
後に骨肉の争いを繰り広げる崇徳天皇は

5歳で即位して帝王学を学んでいる。

崇徳天皇の8歳年下の弟が 雅仁。

のちの後白河院だった。

雅仁は 母親の待賢門院のもとで育つ。

しかし 評判になるほど
ある遊芸に耽っていた。

そのため 父親である
鳥羽院からは

「即位の器量にはあらず」

つまり 天皇になるには

ふさわしくない息子だ
と見られていた。

〽 よくよく

雅仁が没頭した遊芸とは

当時の流行り歌で
母親の待賢門院が愛した今様だった。

〽 歌枕

今様は 遊女の芸能として始まり
七五調を基本とする。

歌の内容は
恋心から仏教思想までと幅広い。

雅仁の今様熱は
天皇 上皇になっても冷めることはなく

元遊女 乙前を師匠にして
その道を極めようとした。

後白河院が自らの半生を振り返った
「梁塵秘抄口伝集」。

今様への異様なまでの傾倒ぶりが
うかがえる。

〽 遊びを

「十余歳の時より
今日に至るまで

今様を愛唱し
稽古をし続けてきた」。

「千日間通しての
歌の修業も行った。

昼は歌わぬ時もあったが

夜は歌って明かさぬことは
なかった」。

平安 鎌倉時代の芸能や文学を研究する
菅野扶美さんは

当時の人で 後白河院ほど キャラクターが
明確に分かる人物はいないという。

後白河が打ち込んだ今様というものは

大体 こう 遊女によって歌われてきた
歌謡なんですけれども。

それを この後白河が
10代の頃から もう のめり込んで。

どうやったら
声が思うように出せるか 伸ばせるか。

…っていうようなほどの執着を見せる。

しかも それを 院となっても
その 年を取っても離そうとしない。

まだまだ究められるっていうところまで
いったところが

後白河の特異にして
独特なものだったと思います。

後白河院が生涯をかけて愛した 今様。

その音階 節回し テンポが
どんなものだったのかは

明らかになっていない。

しかし 彼の生きざまは

「梁塵秘抄」の中で最も有名な
この歌と重なる。

〽

しかし 後白河院の生涯は
決して平たんなものではなかった。

29歳の時 大きな転機が訪れた。

腹違いの弟である近衛天皇が崩御。

次の天皇を巡り
父の鳥羽院と兄の崇徳院とが対立した。

兄の崇徳院は
自分の息子である

重仁の即位を望んだ。

それに対して
父の鳥羽院は

雅仁の子である
守仁に

皇位を
継がせたいと
考えていた。

しかし 守仁の父である雅仁の存在を
無視することはできなかったと

京都大学名誉教授
元木泰雄さんは指摘する。

久寿2年 雅仁は

息子の守仁が成人するまでの
中継ぎの天皇として即位。

後白河天皇が誕生した。

後に 源平合戦の英雄たちと渡り合い
30年以上も君臨することになるとは

当時 誰も考える由もなかった。

後白河天皇が即位した翌年の
保元元年7月2日。

父の鳥羽院が崩御した。

その僅か9日後。

後白河天皇と 兄 崇徳上皇の間で
戦闘が勃発する。

鳥羽院亡きあとの主導権を巡って
双方が武士を集めてぶつかり合うという

前代未聞の戦い
保元の乱である。

後白河天皇は
平家の棟梁 平 清盛と

それに継ぐ有力者の 源 義朝を
味方につけて 勝利を収める。

保元3年 後白河院は 天皇の位を
息子である守仁に譲り 上皇となる。

上皇となった後白河院の運命を
大きく開かせたのは 一人の美女だった。

平 清盛の正室 時子の妹 平 滋子。

彼女を見初めた後白河院は
滋子を女御として寵愛するようになる。

滋子に仕えていた女官の日記が
残っているんですけれども

その中で 彼女が初めて
滋子に会った時に あな美しい。

この世には こんな美しい方が
いらっしゃるのかっていう

一文を残しています。

ただ単に寵愛された美女
っていうだけではなくて

その当時の貴族の日記や記録などを
全部 詳しく読んでみると

ちゃんと…

後白河が不在の時には きちっと この

滋子の方に
話が回ってくるようになっていて

いわば
後白河の代行を務めることができる。

そういうような立場を遂行できる
能力のある女性であったっていうことが

いわれています。

滋子を通じて
後白河院は 清盛を大いに取り立て

かくして
平家の全盛の時代がもたらされた。

承安2年には
清盛の娘の徳子が

後白河院と滋子の子である

高倉天皇の中宮となる。

藤原氏に取って代わって
平家が天皇家と結び付き

新たな時代を築こうとしていた。

京都 東山。

後白河院は
この地に 自らの権威の象徴となる

院の御所を
築き上げた。

南北1キロ。

東西500メートルに及ぶ
法住寺殿である。

その北側には
平家一門が住む六波羅がある。

その立地からも 後白河院と平家の
強い結び付きが うかがえる。

遺構や文献をもとに
最近 再現された法住寺殿のCG画像。

北側には 今も残る三十三間堂。

池の北には 政治的儀式を執り行う 南殿。

そして 西には

ひときわ目を引く
最勝光院と呼ばれる阿弥陀堂が。

宇治の平等院鳳凰堂を模し

滋子の発願で 承安3年に建立された。

藤原定家も 「明月記」で

「荘厳の華美
天下第一の仏閣」と
たたえている。

間口は およそ80メートル。

平等院鳳凰堂の47メートルを
大きく上回る。

ここを舞台に
四季折々の儀礼が行われたという。

最勝光院が完成した翌年の2月に

修二会という春を祝う
その仏教儀礼があるんですけれども。

当代の貴族や それから宗派を問わず
大寺院の僧侶たち 多くの者が詰めて

もう 大変盛大に行われまして。

水を渡った向こうに
浄土があるというのは

仏教の方では常識なわけです。

その常識を現実に映し出してみせる。

びっくりするような演出をしています。

また最勝光院の御堂には

後白河院自分自身が 全部 考えた絵画で
彩られていました。

昔で言うと
法隆寺の金堂の壁画みたいな

どこを見ても びっくりするような
絵画的要素に取り囲まれた

その空間だったといわれています。

平家の後押しによって 政務の実権を握る
治天の君となった後白河院。

彼は この法住寺殿を拠点に
院政を執り行っていくことになる。

今日も さまざまな分野の専門家を
お招きしています。

よろしくお願いいたします。

父の鳥羽院から 天皇としての器量が
ないと思われていたにもかかわらず

後白河院は 30年にわたって

治天の君として
君臨することができました。

本郷さん これは なぜなんでしょうか。

やっぱり
何と言っても 平家との結び付き。

平家と非常に連携を取って

動き出したということなので

そこから先は
慣性の法則で
ずっと行けるっていう

そういう感じだったのかもしれませんね。

中野さんは どのように思いますか。

そうですね これ パラメーターが
ちょっと多すぎるので

一元的な説明が
難しいんだと思うんですけれども。

人間には2種類いて
ルールを守る人っていうのと

ルールを作っちゃう
人っていうのが
いるんですよね。

この人は ルールを守る
ということを
あんまりしないので

器量がないと
思われたけれども

でも ルールを作っちゃったんだと
思うんですよ。

実は…

ルールが走りだしてさえしまえば。

でね 大抵 文字の世界だけでね
政治をやる人がいて。

平和な時代はいいんですけど…

さっき 今様の話が出てましたけど
あれは聴覚ですけど 視覚もそうで

絵巻物を ものすごい作ってるわけですよ。

だから 何かね…

幅が広いっていうのは
人脈も多分そうだったはずで。

そりゃあ 白拍子の人とか
今様を歌ってる おねえさんたちは

きっとね 政局の裏情報も
知ってるはずなんですよ。

全員 くノ一にできるわけです
はっきり言うと。

まあ
この人脈の広さっていうんだったら

現代の選挙戦でもやらせるとですね
すさまじい強さだったと思いますよ。

「後白河さん 知ってる 知ってる!
会ったことある!」とか。

「食べるものを食べさせてもらった」とか
「私は今様を教えた」とか

通常の普通の身の回りの秀才貴族たちが
持ってない魅力と威力を

恐らく 同時代の都で持ってたのかな
ということを思いますね。

だから 今で言うとね 多分 今様って
アイドルだと思うんですよ。

ほう。
今様が好きだったということは

AKB48に のめり込んでいた
ということだと思う。

幅が広い!
大体 2年か3年で

大体 まあ やめとこうかなと
思うんですが

彼の場合は ず~っと亡くなるまで
それに没頭してたということですので。

ええ まあ ちょっと変わった方ですね
やっぱね。

これ 中野さん 入れ込む先が
今様だったっていうところから

どんなこと感じますか。
これは 大変興味深いんですけれども

人間が書き言葉を駆使するっていうのは
結構 異常なことで。

というのは…

そもそも
別の機能のために作られたところを

無理やり文字を読む用に
使っているので

私たちは 書き文字で
そんなに説得させられないんです。

一方で
じゃあ 歌と踊りは どうかというと

これは もう
非常に多くの人が聴くわけですね。

「紅白」も
本当に たくさんの人が見ますよね。

人間の歴史からすると…

書き言葉の一番最古のものって
5, 000年とかっていわれてますけど

言語が生じたのは7万年ぐらいだから

もう歌と踊りは
それぐらいの頃からあったはずで。

何なら踊りは
直立二足歩行できれば やれますので

もっと長い可能性がある。

そうすると
どっちの方が集団をまとめられて

無意識的に みんなで仲間だというふうに
感じさせられたかというと

これは もう 歌と踊りの方が
全然上なわけですよね。

例えば さっき
選挙戦の話 出ましたけど

どういう人を 私たちは支持してるか。
もう一目瞭然ですね。

書き言葉だったら
学者が支持されるはずです。

私も この番組 始めたのは
実は そうなんです。

文字で書いてても
多くの人たちは反応しないだろう。

あの 歴史観を訴えるなら もう はっきり
話し言葉で言うのが一番いい。

でも 書き言葉が中心であったはずの
恐らく和歌よりも

その今様を後白河院が好んだというのは
非常に興味深いと思うんですね。

やっぱり 大衆の支持を得るのに これほど
当時は いいものはなかったでしょうから。

そっちを自然に選び取るセンスの人
っていう意味では すごいと思う。

感性みたいなところですよね。
そっちの方へ行くと

それ 民衆が何考えてるかとか

どういう欲望や欲求や感情で
人間が生きているかの

理解に通じるのは当たり前であって。

最高位にいる…

天才か。
天才ですよ。

まあ あの そして もう一つは
CGで再現した院の御所

法住寺殿をご覧いただきましたけれど。

平等院鳳凰堂を超える
立派な建物もありましたが

本郷さん これ 立地としても
平家との結び付きが強いと考えて

いいんでしょうか。
そうですね。 やっぱり東山っていうのは

当時で言うと
イケてる地域だったんですね。

どんどん どんどん 要するに…

それで もうちょっと南 行くと
彼のお父さんである鳥羽上皇が

離宮を つくってたり。
なので やっぱり

こうした建造物っていうのは
本当 もったいねえなあ。

何か 残ってたら どんなによかったのかな
と思うけどね。 本当ね。

あの 清盛との結び付きから考えると
どうですか。

それはね
互いに のし上がっていく者同士の…

大体 院の時代って
親子 仲が悪いことの方が多くて

それで 父に愛されない後白河院。

それで その状況を横目で見ていて
自分が のし上がるのに

これは使えるなと思ってる
したたかな清盛。

それで やっぱり清盛は
お金 持ってますから

日宋貿易とか そういうので。
そこに 一番 清盛にしてみると

「『僕 中国の人に会いたいんで
港まで行きたいんだあ』

みたいな皇子は どいつだ?」って
この人ですよ!

気が合ったはずですね 最初はね。

それを つないでたのが
あの女性ですよね。

奥さん同士が姉妹という。
滋子さんね。

だけど
あれは 僕は ちょっと違うと思うね。

どこが?
つまり 結局

平 清盛の奥さんが 平 時子さん。

平 時子さんの妹さんに
そんな 何て言うのかな

都合よく
絶世の美人がいるわけないじゃん。

ハハハハハ あっ そこですか!
そこですか。

そう記録に書いてあるからって
すごいかわいいほどじゃない…。

それは そんなにね。
だから まあ やっぱり 滋子さんは

清盛が 結局 後白河に紹介した
っていうことなんだと思う。

やっぱり どんなにね
内面がすばらしい すてきな女性だとさ

そんな絶世の美人じゃなくたって
それは惚れ込むじゃないですか。

そういうことなんだと思いますよ。

歴史上のね
歴史美人抹殺博士なんですよ。

えっ そうなんですか!
中野さんは どう考えますか。

滋子が どういう人なのかっていうのは
大変興味深いと思うんですけども

後白河院って 結構 型破りな人ですよね。

ちょっと行き当たりばったりなところも
見られるような感じで

全く優等生的ではない。

でも
この全く優等生的ではないところに

自分の存在意義を生かしてもらえる
みたいなものを見ちゃう

女性だったのかもしれないですよね。

結構 政務に関わってたっていうことは
能力のある人だったんでしょう。

能力のある人 女性っていうのは

容姿よりも 能力を褒められることに
喜びを感じますので。

それは 「ああ 私は ここに生きがいを
見いだせる」と思ったんじゃないですかね。

あのね 僕 思い出したんですけれども
明智光秀と信長の関係ね。

明智光秀の奥さんの
恐らく妹になる方が

あの信長の愛を
寵愛を受けてたわけですよ。

はい はい はい。
で その方が亡くなった時に

光秀と信長の破局が
生まれるわけですね。

だから やっぱりね
それ すごく似てるなあと思って。

2人をつなげる役割が?
そういう役割をしてたんじゃないかなあ。

その平家の後押しによって
治天の君となった後白河院は

源平合戦の英雄たちと
次々にバトルを繰り広げていきます。

滋子の発願で 極楽浄土の世界を
この世に映し出した最勝光院。

完成の僅か3年後 悲劇が訪れる。

後白河院と清盛の間を
取り持っていた滋子が

35歳で この世を去ったのだ。

死の直後から
後白河院と清盛の関係が悪化していく。

急速に台頭する平家に貴族たちが反発。

反清盛を掲げる院の近臣たちが
京の鹿ヶ谷に ひそかに集結した。

清盛を暗殺して 後白河院中心の
政治体制を築こうと企てる。

世に言う 鹿ヶ谷の陰謀である。

この陰謀は 密告により露呈。

清盛は 陰謀に加わった院の近臣たちを
斬首や島流しなど厳罰に処した。

後白河院も陰謀への関与が疑われたが
とがめは受けなかった。

しかし 近臣を排除されたことで
政治基盤を失い 孤立していく。

鹿ヶ谷の陰謀の翌年

徳子が高倉天皇の皇子を出産する。

のちの安徳天皇だ。

しかし 孫の誕生は
後白河院を 一層 窮地に追い詰めた。

治承3年7月。

清盛の後継者となることが決まっていた

息子の重盛が病で亡くなる。

すると 後白河院が反撃に出た。

しかし これは
後白河院自らの首を絞めることとなる。

平家との決定的な破局が訪れた。

11月15日。

清盛は 兵を挙げて後白河院を幽閉し
院政を停止させた。

治承3年の政変である。

翌年 平家を打倒し 幽閉された
後白河院を救うという大義を掲げ

8月に 源 頼朝が伊豆で挙兵。

更に翌月には
木曽義仲が
信濃で挙兵する。

ここで事態は思わぬ展開を見せた。

源平合戦のさなか 平家の棟梁 清盛は

突如 熱病に侵され 亡くなったのである。

清盛の葬儀の日
後白河院のいる最勝光院から

今様を歌う声が聞こえたという。

清盛の死の2日後。

平家の棟梁となった息子の宗盛から

政権を後白河院に返したいとの
申し入れがあった。

清盛によって院政を停止された後白河院は
よみがえったのだ。

次に後白河院の前に立ちはだかったのは
木曽義仲だった。

寿永2年5月。

義仲は倶利伽羅峠で平家の大軍に勝利。

義仲軍は 京を目指す。

もはや防ぎ切れないと見た 平 宗盛は

三種の神器 安徳天皇
そして 後白河院を連れて

都を離れ 西国へと向かう決意を固める。

治天の君として君臨し続けるために
どのように立ち回るべきか?

後白河院に迷いが生じる。

その心の中に分け入ってみよう。

東国では源氏優勢だが

西国は平家に与する武士たちが多い。

平家の手の内は分かっており 御しやすい。

一方 東国の武士たちが
自分をどのように扱うかは未知数だ。

幼き帝 三種の神器
そして 治天の君である私。

この3つがそろえば
たとえ都を離れても

帝の正当性と我が権威を
守ることができるだろう。

まさに このタイミングは

歴史上の大きな転換点だったと
元木さんは指摘する。

う~ん しかし…

落ち目の平家とともに都を離れて
未来はあるのか…。

それに
清盛の跡を継いだ宗盛は信用がならん。

あの時も…。

実は 清盛の死去の年

後白河院には
源 頼朝から和平提案が届いていた。

それは 東国の治安は
源氏が担い

西国の治安は
平家が担う
というものだった。

後白河院は
頼朝の和平提案を受けようと考えたが

宗盛は 頼朝との徹底抗戦を命ずる
清盛の遺言を理由に 和平を拒絶。

後白河院の平家への不信感が募っていた。

そもそも頼朝は 平家から私を救済する
という旗印の下 挙兵している。

京にとどまって源氏を迎えれば

我が軍勢として飼い馴らすことが
できるのではないか?

平家を見捨て 京にとどまるべきか?

平家とともに西国に移るべきか?

後白河院は 究極の選択を迫られた。

滋子の死をきっかけに
後白河院は清盛とバトルを繰り広げます。

重盛の所領を取り上げるなど
挑発を行っていましたけれど

これ 本郷さん
どうして挑発を行ったんでしょうか。

とりあえず できるところから
ということなんでしょうね。

だから 僕は 実は後白河という人を

個人としては
ものすごく高く評価してるんですが

政治家としては
それほど評価してないんですね。

それは何かというと やっぱ…

後白河院の その鹿ヶ谷の
近臣たちっていうのを見てみると

本当に 何て言うのかな
個人レベルで 「こいつは かわいい。

こいつは役に立つ」っていって
集めてるんです。

それってね ほとんど
このあとの朝廷では ないんですね。

あ~。
だから 本当に お気に入りっていっても

一人一人じゃなくて システムなんです。

それには 後白河院は
あんまり興味を持たなかったんですね。

あんまり
合理的な人でない面もあるのは事実で。

これはね 多感情であり 多動性…。

まあ よく旅もしたいし
どこか行っちゃうの好きですし

あと 多衝動なところはあると思いますね。

非常に行き当たりばったりな印象を
受けますよね。

こう その手を打つと
こうなるっていうことを

あんまり計算してないような。
ええ ええ。

こういう
その2手3手先 読む領域っていうのは

やっぱり 脳にはあるにはあって

前頭前野っていうとこに
あるんですけども。

この部分
相当 その思春期ぐらいに育つので

自分は こういうことをすると
ちょっと痛い目に遭うなとか

こういうことをすると
悲しい思いをする人がいるということを

学習しながら育っていくんですけども

あんまり そういう環境には
恵まれてなかったんですかねえ。

イエスマンしかいないとか

「あなたは そういうことを考えなくて
いいのよ」っていうふうに言ってくれる

優しい人ばかりがいたとか
どうなんでしょうかね。

その全盛を誇った平家は 清盛の死後
木曽義仲に倶利伽羅峠で大敗を喫して

平 宗盛は都落ちします。
西国へ逃げる決心を固めますけれど。

平家とともに西国へ移るか

平家を見捨てて
京にとどまるか

どちらを選択しますか?
ということで。

中野さんは どちらを選択しますか。

はい 中野は選択2ですね。

平家を見捨てて京にとどまります。
うん。

この人は
そもそもは 永遠の友もいなけりゃ

永遠の敵もいないという性格の人で。

誰も あんまり信用してない。
どちらか 達観性というより

どちらかというと…

なので う~ん…

平家と一緒に一蓮托生という考えには
なんなかっただろうなと思います。

で まあ こう
源氏が寄ってくるわけですけど

どうにかなるだろうと
思っているんじゃないでしょうか。

本郷さんは どちらを選択しますか。
あの 僕は1番です。

1番。
ええ。 平家とともに西国へ移る。

僕 京都の研究者の皆さんと
意見を交換してる中で

だいぶ変わってきたことがあるんですよ。
それは何かっていうと

やっぱり 日本列島っていうのは
一つとして見てはいけないなと。

つまり 東国っていうものと
西国っていうものを

やっぱり
きちんと分けて考えないといけない。

東国っていうのは 残念ながら
当時にあっては 田舎なんですね。

だから やっぱり
文化の薫りがする西国に

後白河は やっぱり まあ
行きたいんじゃないのかな。

西国へ移ること自体には

それほど抵抗はなかったんじゃないのかな
という気はしますね。

う~ん。 「西国へ移る」を選択する。
磯田さん どちらを選択しますか。

僕はね… 選択2!
おっ。

平氏を見捨てて京にとどまる。
はい。

「見捨てる」なんて書いてありますけど

「ラッキー!」って 内心 僕なんか こう
後白河院は思ったんじゃないかと。

そうですか。
思いますね。

平家 一緒についていこうにもですね
清盛クラスのすごいやつ いないですよ。

宗盛じゃ やっぱり役不足ですよ。

それで 関東武士 確かに
何か心配なところもあるんですが

割と単純なところもあるんじゃないかと。

義仲なんか うまいこと手なずけると

いいガードマンになるんじゃないか
というふうにね。

武力で かみついてきたら まあ 実際は
そうなったかもしれませんけど。

怖い面もあるでしょうけど。
う~ん。

一つ伺いたいんですが
この時 もう 後白河院自身は

もう 60手前ぐらいですよね。

健康状態とか 体力的な面というのは
どうなんでしょう。

ああ そうかもしれないですね。
自分が あんまり健康に自信ないと

ちょっと… ちょっと ねえ…。
移動が…。

京都から動けないですよね。
それはあるか。

当時の移動は
戦いながらになるかもしれませんし

そうなると ちょっと どういう判断に
なるのかなっていうのは考え…。

もう一つ考えたかったのは 当時の京都が
どういう状況にあったかなんですよね。

養和の大飢饉っていうのが
この前にありますね。

京都自体が 相当 餓死者があふれてる
疫病が流行ってる。

そういう状態に
まだまだ あったわけですから。

そうすると
思い切って ここで京都を捨てて

違う新天地をっていうふうに考えても
よかったのかなと思うんですね。

でも これね 予告された飢饉なんで。

多分 平家側には
不利だったと思うんですよ。

西国 あれ 日照りですよ 確か。
そうね。

水害だったら すごい とれるかも

明日まで とれるかもと思ってた穀物が
やられるんだけど。

日照りっていうのは
もう実ってないのが目に見えてるんで

これから何か月後
今持ってる穀物を食べ尽くせば

飢えが始まるってことが分かってる中で
兵糧米の調達が難しい。

要するに
平家の主力の領地であった西国部分で

それが起きてるわけですから
もう兵站において

補給がうまくいかない この人たちは
っていうふうになってるから。

ついていくと
こいつら弱いなっていうのも

予告されてしまっている面もあって。
で 気の毒なとこもあるんですよ。

やっぱり 京都にとどまりたいのは
とどまりたいでしょうね 間違いなくね。

ハハハハハハ!
だけど あそこで…

あ~。
あ~ なるほど。

私 平家びいきでございます。
平家びいき!

それでは
後白河院の選択を見てみましょう。

平家の都落ちは
極秘裏に進められようとしていた。

後白河院の逃亡を恐れたためである。

しかし 後白河院は 近臣を通して
いち早く その計画を知った。

すると 後白河院は
ひそかに 院の御所 法住寺殿を脱出。

比叡山への逃亡を図ったのである。

後白河院は 都落ちする平家を見捨てて
京にとどまる選択をした。

平家都落ちの 3日後
木曽義仲が入京する。

義仲は 後白河院に難題を突きつける。

安徳天皇に代わる天皇として
義仲は 北陸宮を推挙したのである。

一介の武士が
皇位継承に口を挟むなど

前代未聞のこと。

後白河院は これに猛反対。

義仲と決定的に対立した。

寿永2年11月19日。

義仲は 院の御所 法住寺殿に攻め入り
火をかける。

院の権力の拠点
法住寺殿は炎上した。

後白河院は
再び幽閉されることになる。

そこに現れた救いの神が
源 義経だった。

翌年の正月20日
宇治川で義仲軍を破り 入京。

義仲を追い詰め 近江国粟津で討ち果たす。

更に義経は
壇の浦の戦いで平家も滅ぼした。

義経の名声は高まったが
悲運に見舞われる。

兄 頼朝と激しく対立し
刺客を送られ 命を狙われたのだ。

身に危険が迫った義経は

後白河院に
頼朝追討の宣旨を出すよう迫る。

ここで後白河院は 義経の求めに応じ
頼朝追討の宣旨を出した。

これが 後に 後白河院と頼朝との
大きなわだかまりを生むことになった。

結局 義経のもとに集まる兵はなく
義経は西国へ逃亡した。

一方 頼朝は 朝敵である義仲や
平家を討伐した自分を

なぜ後白河院は裏切るのかと激怒。

後白河院こそ
日本第一の大天狗だと
罵倒した。

これを聞いた
後白河院の動揺は
大きかったと

元木さんは 指摘する。

怖いというのが 一つ。

まあ そういう思いもあったと思います。

追討の宣旨を出された頼朝が
どんな反撃を見せるのか?

後白河院の周囲は
不安に包まれたという。

頼朝は 義経にまつわる
一連の問題の交渉を行うため

北条時政を上洛させる。

しかし
後白河院を幽閉することはなかった。

そのかわり…

その一方で…

頼朝のねらいは
どこにあったのだろうか?

建久元年10月 頼朝は京へ向かった。

およそ30年ぶりに
後白河院に謁見するためだ。

頼朝は 前年に 奥州藤原氏を滅ぼし

朝廷を守る
唯一の武家の大将としての地位を確立。

後白河院を支える武士は
もはや 頼朝以外いなかった。

上洛中…

上洛後 頼朝は
義仲に焼き打ちにされた院の御所

法住寺殿の再建修復に当たっている。

頼朝が鎌倉へ戻った2年後の…

享年66。

死の1か月前 病床に伏しても
なお 天皇の笛の演奏のもと

今様を歌い続けていたという。

源平の戦い
そして 新たな武士の世の始まり。

権力の座に30年余り座り続けた
波乱の生涯だった。

ということで 後白河院は
平家を見捨てて京にとどまり

京に入った木曽義仲に
幽閉されてしまいました。

磯田さんは この後白河院が なぜ 京都に
こだわりを持っていたのかと思いますか。

やっぱりね
なぜ 京都に こだわるのかっていうと

やっぱり 天皇が行うような
朝廷が行う国家安寧の儀式って

京都の場所に結びついてるものも
結構 多いじゃないですか。

はあ~。
大極殿で お正月 何かやるとかね。

京都にいる方が
強い力を発揮できるという思いは

あったんじゃないかと思いますね。

まあ そういう意味で言うと
伝統的な あ~ 何て言うかな

そういう天皇観 あるいは その
トップのやるべきことというのに

こだわっちゃったっていうのが
あったのかもしれませんね。

型破りを標榜するんですから
最後まで型破りでいてくれたら

よかったのになあっていう気は
ちょっとしますけれどもね。

さあ その後白河院に
追討令を出された頼朝が放った

日本第一の大天狗
という言葉
なんですけれど。

まあ
後白河院に対する
強い怒りが

籠もっていると
思うんですが。

なぜ それなのに頼朝は
清盛や義仲のように

後白河院を幽閉しなかったのか。

この点については
本郷さん いかがでしょうか。

日本第一の大天狗っていうのは
あれは公式の見解ではないので

面と向かった時には
ペコペコ 頭を下げるって

そういう人は いっぱいいるわけでね。
だから それと おんなじです。

こういうのを政治っていうんだろうな
というふうに

頼朝の振る舞い見てて 思いますよね。

自分の感情とか そういうものは
まあ あるんでしょうけど

そんなものは捨てておけるっていうか。

むしろ…

そっちの方を優先して
振る舞っているように思います。

僕は もう この8度の
頼朝 後白河会談っていうのは

その会話の内容というのは
後世の何百年っていう

あるいは ひょっとすると
現代に至るまでの日本史を

決定づける会話だったと思うんですよ
2人の交渉というのは。

所領の保証と 全国にわたる軍事警察権の
後ろからの正当化をやってくれれば

きっちり守ってやると。
だから 結局 「愚管抄」のね

慈円が書いてるわけだけど。

結局 頼朝は 後白河上皇に対して

私は あなたに忠節を誓います
ということを言うわけですよね。

権力の立ち上げの時から
大きな力を振るってくれていた

上総広常という男がいましたと。

だけど この上総広常は

俺たちは 俺たちのやり方で

関東で生きていけばいいじゃないか
ということを くどくど言ったと。

それは 結局
後白河上皇に忠節を尽くすっていう

自分の立場とは異なるんだと。

だから 自分は 残念ながら
上総広常を殺すという

誅殺するという そういう選択をするしか
なかったということを言うわけですよね。

だから そこにあるのは
結局 関東の武士が 要するに

平 将門のようになるということは
私はしませんし 許しませんと。

2人は 腹の内は分からないけど
一応 握手をして

「じゃあ またね」っつって
別れたんだと思うんだよね。

う~ん。
しびれる交渉ですね それは。

さあ 日本第一の大天狗と呼ばれた
後白河院 どんな性格の人物なのか

手がかりとなる史料を用意しました。

こちら 京都 神護寺に伝わる起請文です。

後白河院の手形と その左に5行

直筆の文字が見て取れますよね。

ここから皆さんは何を読み取るのか。

中野さんは どんなことを感じますか?

う~ん 起請文の割には 何か
字は あんまり うまくない。

こんなもんですか?

こんなもんです。
こんなもんなんですね。

あの 文字の大きさが
あんまり一定してない…
ですよね。

まっすぐのように見えるけど
ちょっと曲がってもいる…。

文字を練習する努力は
好きじゃない人
なんでしょうね。

(笑い声)
少なくとも。

それは すげえなあ。
フフフフ。

今様に 非常に
才能を発揮した人にしては

文字の美意識は
あんまりないですよね。

何かこう… う~ん まあ
木を見るのは得意でも

森を見るのは
あんまり得意じゃない人
なんじゃないですか。

あ~。
あ~ なるほどね。

磯田さん どう見ますか。

割とね…

あと あんまり こう
几帳面さとかいうの

あんま
こだわらないんでしょうね。
先ほどもありましたけど

だんだん
上がっていきますよね。

面白いですね。
でも こうやって
文字が残ってると

いろんな性格を読まれちゃうという
推理されちゃうという。

だけど
本当 我々 やっぱり文献屋からすると

後白河院の字が残ってるなんて
それは もう 涙ものですよ!

本当ねえ! うん。

さあ 今回は
源平合戦の英雄たちと渡り合った

後白河院の生きざまを見てきました。

そこから
何を 皆さん くみ取ることができたのか。

ともかく その…

その意味で言うと 例えば まあ
現在でも天皇家っていうのは

つながっているわけなんですが。

ここで結構危なかったのかなあっていう
気もしないではないんですね。

朝廷のリーダーが 今までの伝統とか
それから四角四面なというか

そういう対応をする人だったら

何か本当に 大変な騒乱が
そこに起きてたような気がするんですね。

だから ある意味 その
後白河院の いい加減さみたいなものは

日本の歴史を穏やかにする方に

何か作用してたんじゃないのかなあ
っていう気はしますね。

あ~。

磯田さん どんなこと感じましたか。
いや 面白かったですね。

やっぱり 後白河院っていうのは
さほどの独自武力を持ってない。

その中で なんとか生き残らなきゃ
いけないと こう やるわけですよね。

何で生き残れてるのだと。

やっぱ 先ほど来 出てきてた

幅広く ものを見るだとか
いろんな人と会ったり 話をあれしたり

いろんな価値観があることを
見ているとか。

あとね 都合のいいものばかり
見ないっていうのが

僕 どうもあるような気がするんです。
あんまり ちょっと言い忘れたんですが。

地獄の絵とか 病草紙とか
病気になった状態だとか。

本当だったら 普通 見たくない
考えたくないものまで絵にして

しっかり見たことが分かる。

だから そういう人なんで

きっと幅広く
自己都合で あんまり考えずに

ある種 何か諦めの境地で暮らしてた
処世の男だったんではないかな

というふうに思いますよね。

もう これ 本当に 今も
戦乱の世の中になっちゃってますけど。

もう疫病は来るわ 戦乱は来るわ
この生きざまというのは

参考になるところも
あるんじゃないでしょうかねえ。

う~ん。

いや~ また 最期まで
今様を歌っていたとされているところも

後白河院っぽいなというか あくまで
自分は通し続けるっていうところが

また魅力なのかもしれないなと
思いました。

皆さん 今日は ありがとうございました。
ありがとうございました。

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