英雄たちの選択「流転!足利義満が愛した秘宝」[字] …の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択「流転!足利義満が愛した秘宝」[字]

今回の番組の主人公は、歴史上の人物ではなく、水墨画の最高傑作といわれる「瀟湘(しょうしょう)八景図」。室町将軍足利義満が愛した秘宝の数奇な運命をたどる。

詳細情報
番組内容
絵巻は、その後切断され、流転していく。信長や秀吉、家康といった天下人の手に渡り、茶道の大名物(おおめいぶつ)として珍重された。江戸期にはいると、将軍吉宗が、江戸ルネサンスの文化の象徴として、各藩に分散しているこの絵巻を一堂に集めようとした。絵巻の流転の歴史から見えてくるのは、一枚の絵巻に託された権力者の飽くなき欲望とそれに振り回された悲喜こもごもの物語である。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】茶人…千宗屋,美術史家・学習院大学教授…島尾新,思想史研究家・東京大学教授…小島毅,【語り】松重豊

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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1408年3月 京都・北山で

それまで例を見ない
一大イベントが開催された!

室町幕府の最高権力者 足利義満が
時の天皇を迎え

唐物と呼ばれる中国美術の秘宝の数々を
披露したのである。

その頂点に輝く名品

それが 中国の禅僧 牧谿が描いた
「瀟湘八景図」だった。

南宋の山深い水辺の
8つの風景を描いた水墨画の最高傑作!

この義満の秘宝は その後
そうそうたる権力者たちのもとを流転!

彼らの運命を左右することになる。

絵の不思議な力に翻弄される
英雄たちとは…。

人々を驚がくさせる
大胆な行動に走った織田信長!

まさかの お家取り潰しに見舞われた
徳川家の一門!

ちりぢりの「八景図」を
復活させることに

執念を燃やした徳川吉宗!

「瀟湘八景図」は なぜ これほどまでに
権力者たちを振り回すのか。

スタジオでは
さまざまな分野の専門家たちが

秘宝のドラマに
鋭く切り込む!

言ってみれば 義満ワールドに

文化的な価値のところへ
取り込んでしまうっていう。

信長 秀吉とか 利休さんも
そうだったかもしれませんけど

床の間の向こうに
何か窓があってですね

異世界を かいま見てるようなですね。

数百年にわたり
波乱と激動の時代を見つめ続けた

「瀟湘八景図」!

流転の秘宝が
今 英雄たちの心を映し出す!

♬~

皆さん こんばんは。 こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

今回はですね 英雄ではなくて
いつもと趣向を変えまして

主人公が人物ではありません。
フフフ。 こちらです。 おっ。

はい 後ろに並んでいます絵画ですね。

中国南宋の画家
牧谿が描いた「瀟湘八景図」。

初めてご覧になるという方も
いるかもしれませんが

磯田さんは
実際に見たことはあるんでしょうか。

見ました。 いくつか見ましたけど
こんなたくさん見たことないですね。

昔 美術館なんかで見たけど やっぱり
こうやって一堂にそろうと 感動ですね。

よくね 「○○八景」ってありますよね。
「近江八景」とかね 「金沢八景」とか。

これは やっぱり
「瀟湘八景」から来てるわけですから。

やっぱり こう
空気中の水分を描くような

水墨画ならではのね 美しさ感じますね。

今回 この 絵画を通して
どんな歴史を見ていくんですか?

名品名物と呼ばれた
多くの美術品は そうだったように

いろんな人の手を渡って
動いていくわけですね。

流転の名画とか
流転の秘宝と言うこともある。

いいものほど やっぱり
いろんな人の手を渡り歩きますから。

しかも これを手にした人物が

足利義満 織田信長 豊臣秀吉

徳川家康といったようなですね

そうそうたる まあ 権力者。

今回は 絵が見た日本の歴史なんで

絵鏡っていうか
手鏡じゃなくて絵鏡ですね。

ええ まあ そういう権力者の姿を
発見してみたいと思います。

まず
牧谿の「瀟湘八景図」の最初の所有者

足利義満の登場です。
義満によって どのようにして

天下の秘宝となったのか
ご覧いただきます。

室町幕府第三代将軍
足利義満が

政治の中心を移した
京都・北山。

記録によると
豪壮な金閣の隣には

天鏡閣という2階建ての建物が
造られていたという。

天鏡閣は
数多くの美術品で飾りつけられた会所。

皇族 将軍 公家 武家 僧侶が
身分差を超えて集い

名品を見ることができた。

実は
こうした一大美術館を作った裏には

義満のある思惑があった。

1392年
念願の南北朝統一を果たした義満は

更なる権力を追い求めようとする。

将軍の座を譲り
太政大臣となって公家の頂点に立ち

出家して
まるで法皇のように振る舞った。

しかし 義満が目指す本当の高みには
たどりついていなかった。

日本の王として
その地位を盤石とし

誰もが敬服する最高の輝きを
身につけなければならない!

その輝きの源となったのが
唐物と呼ばれる中国からの美術品だった。

義満は 多くの唐物を集め 天皇や公家に
大々的に披露しようとした。

学習院大学教授の島尾 新さんは

中国伝来の美術品の持つ意味を

次のように語っている。

天下人となって そして

自分の権力の形というものを
作っていくわけですけれども

公家的な教養 つまり
和のイメージでやったのでは

どうやったって
公家 天皇を超えられない

後追いになりますよね。

つまり 中国風のイメージです。

義満の唐物の中でも
最も大事にされた画家がいた。

義満のコレクションを列記した
「御物御画目録」。

290ある絵画のうち
4割近くを占めた牧谿である。

牧谿は 中国の南宋末から元初期に
活躍した禅僧。

禅の教義や精神を表現した禅画を
数多く描いていた。

南宋の都だった
杭州の西湖湖畔の寺に住み

日本の留学僧との交流も
深かったという。

そんな牧谿の傑作が「瀟湘八景図」。

義満が
生涯 手元に置いたとされる秘宝だ。

中国 洞庭湖近郊の
8つの景勝地が画題である。

その一つ「漁村夕照」。

険しい山の麓 夕日に染まる小さな漁村。

水の上には 網を投げる漁師の姿が見える。

沈みかけた太陽。

雲間からさす 2筋の光。

淡い墨の濃淡で表された
静かな景色の中

自然に抱かれた
人々の営みが描かれている。

こちらは「遠浦帰帆」。

風を受けて
遠方から2そうの舟が帰ってくる。

薄い墨が 斜めに引かれ 次第に
風が強くなっていく様が描かれている。

入り江の木々も
ざわめいているようだ。

遠い煙のような霞に浮かぶ 木々と寺。

次第に 夜の闇に包まれていき
鐘の音が響いてくる。

空間の深い奥行きを
感じさせる情景である。

描かれているのは
自然と人が一つになった

禅の心の中の世界である。

東京大学 東洋文化研究所の
塚本麿充さんは

描かれている理想の境地こそが

権力者 義満を
魅了したのだと考えている。

この「瀟湘八景図」は
鳥が描いてあるんですが

今 鳥が そこに
影のように見えてるわけですが

恐らく 2秒後3秒後に
その影は なくなって

大きな暗闇の中に
また消えていくんだと思います。

やっぱり人間の存在も そうで

どんどん変化して
変わっていくわけなんですが

変化するから
駄目だということではなくて

変化していくということを
そのまま受け入れるというか

そこに永遠を求めないというか

禅的な世界の見方というものを
表したかったから

ああいう水墨で
描かれているんだと思います。

そういう世界観を
手に入れることによって…

義満は「瀟湘八景図」に 心を奪われる。

これこそ 帝や公家ども 大名たちに
見せる絵にふさわしい。

しかし そこには一つ 問題があった。

実は 牧谿の「瀟湘八景図」は
4枚ずつ 2巻の巻物に描かれたもの。

狭い部屋で
個人的に鑑賞する作品だったのだ。

巻物では 天鏡閣に集まる多くの人々が
目にすることができない。

「瀟湘八景図」は 我が宝として
最もふさわしい形にしなければ!

そのためには…。

義満は 巻物だった「瀟湘八景図」を
バラバラに切断する。

それぞれの絵に
自らの所有物である証拠として

自分の法名である「道有」の印を押した。

そして 豪華な金襴の表具で飾り立て
掛け軸にしたのである。

1408年
義満の威信を高める集大成として

晴れて 後小松天皇を迎えた北山殿行幸。

そこで「瀟湘八景図」の掛け軸は

天鏡閣の15間 30畳ほどの部屋に
並べられたと考えられている。

その様子は こう書き残されている。

「中国においてさえも貴重なものを
ここぞと集められたので

見る人の目は輝き
心も言葉も及ばなかった」。

北山殿行幸を成功させた2か月後
義満は病で この世を去る。

その絶対的権威の象徴として
残された「瀟湘八景図」。

それは 足利家の秘宝 東山御物として
代々の将軍に引き継がれていった。

しかし 義満の死後
再び 動乱の時代となり

「瀟湘八景図」が 平穏な道のりを
たどることは許されなかった。

応仁の乱で 室町幕府は弱体化。

金に困った八代将軍 義政は

「道有」の印が押された秘宝の数々を
売ってしまったという。

「瀟湘八景図」は こうして

数奇な流転の道を
歩み始めることになった。

というわけで 牧谿の「瀟湘八景図」が
足利義満の絶対的権威の象徴となり

その後 流転の道を歩むことになるまでを
ご覧いただきました。

やっぱり いい絵ですね。

見てれば やっぱり これ
中に吸い込まれるような感じの

絵の世界の中に入ってみる
っていうような感じで

どこでもドアか何かで
向こうの世界へ行けたような気持ちに

みんな させたんじゃないかな
というふうにも思いますよね。

さあ今回も 多彩なゲストの皆さんに
お越しいただいています。

皆さん よろしくお願いいたします。

まず茶人の千 宗屋さんです。
よろしくお願いいたします。

よろしくお願いいたします。
牧谿の「瀟湘八景図」は

実際にご覧になったことは…。

はい。 何度かございますし

私自身 実は
大好きな絵でございまして

というのが 平成2年ですね
私 当時 まだ

中学2年から3年に上がる時に

京都の国立博物館であって
ちょうど今 私の後ろに

設置いただいてます この牧谿
「瀟湘八景図」のうちの「煙寺晩鐘図」が

1点 こう展示されていて
目が くぎづけになって

何よりも
鐘の音が聞こえた気がしたんですね。

何か そういう感覚に
しばらく立ち尽くしてしまってですね

とても感動した記憶があります。

千さん 中学生なのに
すごい感性だったんですね。

渋いですよね。
(笑い声)

続いて 美術史を研究されてる
島尾 新さんです。

よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。

牧谿の この「瀟湘八景図」は

日本の美術史では
どういう存在なんでしょうか。

そうですね まず
牧谿という画家は

日本の中では
断トツの一番人気っていいますか

要するに
中国人画家としては

もう室町以来 ず~っと
第1位だったというような人なんですね。

言ってみれば
一昔前のセザンヌとかゴッホとか

そんな感じで
ず~っと あり続けた人なんですよ。

その中で「瀟湘八景図」っていうのは
言ってみれば

画家たち みんなの山水画のお手本。

美の規範とまで言っていいかどうか
分かりませんけれども

何か そういうのになってた絵なんです。

何が そんなに そうさせるんですか。

その絵が すばらしい。

というのは これ ちょっと
明るすぎるんですね 実は。

へえ~。
これ 暗くしていきますとね

ク~ッと 空間が深まっていって

何となく 夕霧が漂ってくる。
へえ~。

横に一筋ある ス~ッという光の中に
お寺と木が…。

ですから すごく象徴的な表現

簡単に ササッと
描いてあるんですけれども

実際に そうやって見ると
本当にリアルっていうか

淡い世界が見えてくるんですよ。

で それを作り出しているのが
牧谿の筆遣いと

それから墨の表情なんですね。

その感じが それこそ
千さんのご専門のお茶室っていうのは

そういう空間ですよね。
そうですね。

この「瀟湘八景図」の掛けられた
お茶席にも

何度か呼ばれたことがあるんですが
その度に やはり床の間の向こうに

何か 窓があってですね
異世界をかいま見てるようなですね

恐らく
そのいにしえの義満もそうですし

そのあとの信長 秀吉とか 利休さんも
そうだったかもしれませんけど

皆 その人たちは
実際の憧れの地の景色を目の前に

お茶を一服飲んで
心を遊ばせたんじゃないかな

というふうに思って
いつも見ております。

そして 中国思想史を
専門とされている小島 毅さんです。

よろしくお願いします。
小島さんは どんな印象を持ちましたか?

ごめんなさい。
私には 牧谿の絵のよさというのが

よく分かりません。
ですので そのよさというのを

私 今日 勉強したいなと思っています。

なので 私はむしろ
この「瀟湘八景」という画題に

興味がありますね。

瀟湘というのは今の湖南省ですね。

牧谿の生きた
南宋になりますと

南宋は領地の北半分を
喪失していますので

南宋の人たちにとっては

北の方の景色
見ることができないので

つまり 今 中国の
象徴のように語られている

泰山も あるいは黄河も

南宋の人たちは
見られないんです。

そうしますと こうした
江南の風景というのが

彼ら南宋の人たちの
心の風景になっていたのかなと思います。

そうした中で この絵が じゃあ 日本で
どう受け取られたのかなということに

興味を持っています。

島尾さん あの
義満は「瀟湘八景図」を手にすることで

どんな思惑があったんでしょうか。

先ほども出た…

そのために用意されたのが北山殿

ここに 義満は自分の欲しかったものを
いろいろ詰め込んできます。

歩いてくるところを
ちょっと考えてみると

金閣は複道という 2階建ての
2階の回廊がつながっていて

今でいえば スカイウォーク
まあ 2階ですからね

スカイというには
ちょっと低すぎるんですけれど

そこで ちょっと お池が見えて
それで その会所

天鏡閣の2階につながっていく。

そして 入ると 今度は
もう唐物だらけという世界になって

「おお~」と なるわけですけれども
そこのところでも

やっぱり独自のアレンジをしていて
一つは やはり

中国皇帝の権力みたいなものを
象徴するような 中国のもの

そして 日本独特の禅文化っていうのを
ここに まぶしてるんですね。

ですから 天鏡閣と
「瀟湘八景図」の世界っていうのは

言ってみれば 義満ワールドに

後小松天皇 そして
公家たちを引き入れて

これを自分たちのところへ
文化的な価値のところへ

取り込んでしまうっていう。
そういう装置だったんだと思います。

義満の周りの唐物というのは 宋のもの

まあ その意味では 宋物なんですね。

で これによって
天皇に対抗しようとしたというのも

私はそのとおりだと
私もそのとおりだと思います。

その じゃあ 和の寄ってきたるところは
何かというと

これは 唐というか 本物の唐ですね。

正倉院御物を思い浮かべて
いただければと思いますが

まさに あれは
天皇のところに伝わってきた

唐からの それこそ世界中の

西は ペルシャの方からもやって来た
ものでありますね。

で これに対して 義満は 宋
新しい中国のもので

対抗しようとしたということなんだと
私も思います。

義満が 多くの
その自分の権威を見せるために

多くの人々に見せるために
「瀟湘八景図」を

バラバラにしてしまうんですよね。

これ あの 現代の感覚で言うと
あんまり考えにくいんですけれど。

要するに この オリジナルのままじゃないと
嫌っていう考え方って

割と新しくって。
あ そうなんですか。

ほとんど
近代のものじゃないかと思うんですね。

中国では
絵の中に ベタベタ 自分のはんこ

俺が持ってんだっていう
はんこを押すのは平気だし

それから
私はこんなふうに思いましたって

詩を書いちゃう 人の絵の中に。

その絵にですか?
絵にです。

大事なものとされるものを
切ることができる…。

まあ それを見た人たちは

ああ この絵を切ることが
できる人なんだと

思うという面もあるのかなと
想像してみたりします。

同じものを同時に見ると
同じ心で見られるっていう

この行為自体が
多分 固めの儀式のように重要で

中世ってね 私ね 同じ心って
「同心の時代」と呼びたいんですよ。

その 例えば
連歌だとかお茶だとか

みんなが同時に同じ行為をして
一味同心する

戦乱の時代で みんなバラバラで
同心できなきゃ死んじゃうから。

要するに 義満にしてみりゃあ ここで
みんなで この絵を 同時に見たっていう。

やっぱり それ目指してた気がしますよね。

同心の時代ですね。 う~ん。

次に登場する人物がこちらです。

織田信長です。

「瀟湘八景図」は
天下人を目指す信長によって

どのように利用されたのか ご覧ください。

戦国時代
日本中が戦いに明け暮れる激動の世。

「瀟湘八景図」は
流転の道を歩むことになる。

秘宝は
突如として 歴史の表舞台に現れた!

新たな持ち主は
戦乱の世に天下取りを目指した

織田信長だった!

天正元年11月23日 京都 妙覚寺。

信長によって催された茶会に

堺の名だたる豪商たちが招かれた。

その床の間に 1枚の絵が掛けられた。

牧谿の瀟湘八景図の一つ「洞庭秋月」だ。

淡くかすむような湖面に浮かぶ満月を
描いた

足利将軍家の秘宝。

茶会に招かれた人々は
この絵に 強烈な印象を受ける!

そこには
信長のある戦略が潜んでいたのだ。

永禄11年 将軍 足利義昭を奉じて
念願の上洛を果たした信長は

熱心に茶の名品の収集を始めた。

戦国時代 茶の名品は

領地に匹敵するほどの価値を持っていた。

当時
堺の商人や戦国武将たちが開く茶会は

大切な交渉 交流の場。

そこで 茶器や掛け軸などの名品が

持ち主の格と力を示すものとして
利用された。

そんな信長が集めた名品の中に

あの「瀟湘八景図」があったのだ。

信長は 上洛の5年後に開いた茶会で
この足利将軍家の秘宝を披露する。

堺きっての豪商 津田宗及が

そこで起こった印象的な出来事を
記録に残していた。

「最初の茶が終わると
舟が帰ってくる絵を

月の絵の上にお掛けなされた。

大軸を二幅のまま
初めて拝見した」。

社会学と美術の視点から
お茶と権力の本を執筆した

研究者の田中仙堂さんは

この文章に着目。

信長が行った絵の掛け方は

とんでもない
型破りな方法だったのではないかと

推理する。

どのような掛け方だったのか
田中さんが説明してくれた。

本当に掛けるとですね このあと
私が活動しにくくなってしまいます。

まあ その… 今日はちょっと
イメージが分かるように 少しこう

わざと ちょっと
触れないようにしながら こう

ずっと広げていただくと
イメージとしては

こんなふうに 重なった形で 見えた。

見た人は
あっと こう 驚いたんだと思います。

実は 茶会に掛けられた
2枚の「瀟湘八景図」は

3か月前 信長が滅ぼした

越前 朝倉家が
持っていたものだと

知られていた。

信長は 朝倉家との戦いの様子を

越後の上杉謙信を はじめとした

各地の大名たちに
手紙で伝えている。

しかし 大名たちは
手紙だけでは

信長の言うことを信じない。

そこで 信長はある工夫をしたのだと
田中さんは考える。

信長は
実際に茶会を行ってくるようになると

茶会がメディアであるっていう
役割を発見してですね

茶会で政治的メッセージを乗せて
発信するようになってくる。

招かれた商人たちは 多分
信長が軸を重ねて掛けたということを

周りの人に
話さざるをえなかったんではないか。

そうすると 自然にですね
うわさで広まってですね

言ってみると…

そんなふうに つながっていったんだと
思います。

田中さんは
「瀟湘八景図」を重ねた順番にも

意味があったのではないかと
推察している。

このころ 信長は

堺とつながりが深い本願寺と
緊迫した関係にあり

堺の豪商たちに
どちらにつくか
判断を迫る必要があった。

最初に掛かっていた「洞庭秋月」は

湖面にかかる月を描いた静かな絵です。

後に掛けた「遠浦帰帆」は

強く風の吹いている様子が
うかがえる絵です。

最初に静かな絵を掛けてあったあとに

ぐっと印象も強い激しい絵を掛けた方が

俺は これからも
この絵の激しさのように

敵対する者に対して容赦をしないぞ
というようなですね

信長の決意というものを感じ取ってみても
面白いかなと思います。

信長は 有能であれば どんな家臣も
出自にかかわらず引き立てた。

その忠誠と奮起を促すためには
名品を手放すことも いとわなかった。

2枚の絵を重ねた茶会のあと

「瀟湘八景図」は
家臣たちに分け与えられていった。

「洞庭秋月」は
活躍が著しい羽柴秀吉に。

「遠浦帰帆」は
本願寺のある摂津国を任せる荒木村重に。

更に 柴田勝家と並ぶ重臣 丹羽長秀

美濃国支配に重要な稲葉一鉄に
「八景図」が与えられた。

こうして
義満の「道有」の印が押された名品は

信長に見込まれた武将たちの手に
渡っていった。

天正10年
信長は 本能寺で壮絶な最期を遂げる。

そして 「瀟湘八景図」は再び

流転の運命を繰り返すことに
なるのだった。

足利将軍の秘宝を
床の間に2枚重ねて掛けてしまう。

これは 磯田さんから見ると
織田信長の どういうところが…。

フリーダム 自由。
アハハハ!

あれね 本当 擦れたら困るから

あまり二重に掛けたりはしない
大事なものは。

大抵 書画屋さんに行って
何か見せてもらう時に 二重に掛けたら

それは 大体 偽物か安物なんですよ。

信長のことだから 「俺 強えぞ」
ということは示せたと思いますが

堺の教養のある人たちからすると

困ったお人やなあとも思ったと
思うんです。

(笑い声)

この2枚の絵の掛け方なんですけれども
私は 解釈は どうかなと思います。

思いますが そういう解釈をさせる
振る舞いであるってことは

重要かなと思うんですね。

権力者が なぜ そうしたのかを
周りの人々に考えさせるというのも

権力や権威を見せつける
大事な振る舞い方ではないかと思います。

まあ 信長って人は
そこまで計算してやったのか

それとも 天性 そういう振る舞い方をする
うつけ者だったのか。

これは そういう意味で
非常に意味のある振る舞い方だったかな

というふうに思います。

これ 信長には失礼ですけど
あの人たちって成り上がりなので

基本的には…

実は お茶っていうのは
旧来の基本的な教養人に必須だった

和歌とか漢詩とか要らないんですよ。
文学的な素養は要らないんです。

そうすると 何が便利かっていうと
これ名物って モノじゃないですか。

モノって 持ってりゃ自分の所有物なので
見せるのも 私のだと こう見せればいい。

あの ですから まさしく
その「モノ」としての価値っていうのが

重要だったんだと思うんですよね。
「モノ」としての価値。

お茶会を開くと
インスタントに文化人になれるんです。

牧谿 「瀟湘八景」 知らなくても
「平沙落雁」とりあえず掛けておけば

俺は「瀟湘八景」 中国の漢詩も
全部知ってるんだぐらいの雰囲気は

出せたと思うんですよね。
ああ~。

ただ やっぱり重要なポイントは これが
足利将軍家の秘宝であったっていう

その いわば将軍家の
権威の分身・象徴であったということは

すごく関心が強かったと思います。
というのが

この茶会が開かれたのは 1573年ですよね。

この2つの絵は
朝倉からの戦利品ですけど

1573年って
室町幕府も滅亡した年ですよね。

つまり やっぱり
室町幕府を俺は制したということも

ここで示したかったんじゃないかな
というふうに思いますね。 はい。

数ある多くの東山御物の中の
牧谿の「瀟湘八景図」の

その一部を持っているということが
意味を持つということを

彼らが分かっていた。

彼らも私同様 審美眼がなくてですね

牧谿の絵が すばらしいとは
分からなかったのでしょうけれども

それが価値のあるものであり
先ほど… お話しになったように

持っているということ自体が

自分を権威づけるということを
分かっていたがゆえに

そういうように使った
ということなんですかね。

これ バラバラになるわけですよね。
そうです。

一つしかないと 誰かが持ってて
終わりなわけですけれども

これ分配できるわけですよね。

ああ~ 確かに。
持っていると。

そして それが そのうち だんだん
だんだん 一部なくなっちゃったり

グチャグチャになっては
いくのですけれども

この初期段階では
これが分配されているっていう この状態。

私も持ってるけど 彼も持っている。

あっちも持っている。
そうですね。

そこに ある種の同格性みたいなものが
生まれるわけでしょう。

天下人の
天下取りの参加賞みたいなもんですよ。

共有してるっていう 信長衆として。
はあはあ はあはあ。

もう この段階になると 見せてた…

見せる義満からね
分ける信長になっているんですよ。

でね ここはね 学者としては
あんまり言いにくいんですけどね。

あの~ 僕 うがった見方するんですよ。
はい。

えっとね 信長ってね 義満の宝なんて

うちの家来クラスが持ってるものって
思ってなかっただろうかって。

義満より 俺は もう 上へ行くんだと。

だから 義満 乗り越えたんですよ。

それで 義満クラスが持ってたのなんて

俺の家来クラスが
まあ 秀吉とか長秀が持っときゃいいやと。

だって何せ もう この辺りの信長ってのは
俺は唐天竺まで攻め取って

中国の中華皇帝になるんだもん
あっち行くんだから 要らねえよと。

もう小説家だけど ここまで来りゃ。
(笑い声)

だけど 僕 疑うんで。

やっぱ そのぐらいの勢いを
信長が持ってなかっただろうかっていう。

すごいですね。

ただ面白いのが この時代に一人だけ

この「瀟湘八景」の価値に
異を唱えた人物がいたんですよ。

そうそう いたいた。
山上宗二という人でして。

これは 利休の愛弟子だった人なんですね。

その人が
「山上宗二記」という名物茶道具

当時 珍重された名物茶道具のリストを
残してるんですね。

そこに 牧谿の軸
特に「瀟湘八景」に関しては

「当世は如何 用いず」って書くんですね。

「侘びを立てる数寄者には無用のものなり」
っていうふうに書くんですね。

今の利休さんが主導の佗茶を標榜する
最先端の茶人にとっては

こんなものは無用なものだっていうふうに
切り捨てるっていうことがあるんですね。

それは だから逆に言うと
物の価値よりも 物の魅力よりも

そういう権威的な部分で
価値が先行してしまったことに対する

何か一つのアンチテーゼというか
批判であったんじゃないかなと。

一石を投じた言葉なんじゃないかな
というふうにも私は思いますけれども。

そして「瀟湘八景図」は江戸時代になると

2人の人物と
大きく関わることになります。

一体 何が起こったのか ご覧ください。

戦国の世も治まり
時代は 徳川家康の世へ。

「瀟湘八景図」も
多くが徳川家の手に渡り

新たな物語が始まる。

徳川幕府は 豊臣家を滅ぼし
その権力を確実なものとする。

この戦いで 真田信繁を討ち取り
戦場で最も多くの首をあげるという

随一の手柄を立てたのが

若き越前藩主
松平忠直の軍勢だった。

忠直は
二代将軍 徳川秀忠の兄の子にあたる。

高い家格を誇り
越前藩75万石を与えられていた。

忠直は 目覚ましい武功を立て
大きな恩賞を期待していた。

大坂落城の3日後
京都 二条城で 家康 秀忠と謁見。

恩賞として
名物「初花の茶入れ」 そして

牧谿の 瀟湘八景図「平沙落雁」を
賜ったのである。

義満の道有の印が押された
あの足利将軍家の秘宝。

暗闇の中に
消えていこうとするかのような雁の群れ。

「平沙落雁」は
義満から 豊臣秀吉 上杉景勝

徳川秀忠と そうそうたる持ち主に
受け継がれていた天下の名品。

しかし
忠直にとって この恩賞は不服だった。

忠直自身が どういうふうに
鑑賞してたのかとか

好きだったか 嫌いだったのか
というのは分からないんですが

まあ そこに…

それは恐らく 領地であり 地位であり
それから 多分 一番大きいのは

当時 自分の家臣が ものすごい
やっぱり死んでるわけですよね。

その時に やっぱり ちゃんとしたことを
してあげられなかった

という気持ちの方が
強かったんじゃないかなと。

数多くの将兵が犠牲になったのに

これでは家臣たちに
十分に報いることができない。

怒った忠直は
屋敷の玄関で

恩賞の茶つぼを割ってしまったと
言い伝えられている。

その後
不満を抱えた忠直は 数々の乱行に走る。

酒色に溺れ
病気を理由に参勤交代を拒否。

怒りに任せ 家臣を殺害してしまう。

元和9年 罪を問われた忠直は 改易。

豊後国に配流を命じられる。

皮肉にも 恩賞として賜った
「瀟湘八景図」によって運命を狂わされ

忠直は
没落の道を歩んでいったのだった。

時が移り 江戸時代も中期となった頃

再び 「瀟湘八景図」に
強い関心を持った人物が現れる。

徳川八代将軍 吉宗である。

紀州徳川家の四男として生まれた吉宗は

徳川宗家の家系が途絶えたことで

享保元年 予期せぬ形で将軍となる。

そして 江戸幕府の立て直しを図ろうと
さまざまな改革に着手する。

財政再建のため
まず 全国の農耕地や人口を調査。

政治に役立つ必要な情報を集めるため

幕府の書庫の書籍を徹底的に調べるなど
研究を進めた。

更に吉宗は
形骸化していた学問や文化を憂い

本来の形に戻そうとする。

そこで 絵画の手本とされたのが
牧谿の「瀟湘八景図」など

宋の時代の古い中国だった。

江戸期の絵画に詳しい
東北大学准教授の杉本欣久さんは

吉宗が 古い時代に倣って

文化の花を開かせようと
考えていたと言う。

それが その時代に
どう役に立つのかという中で…

そこから よりよいものを
作っていこうという意味では

まさに文芸復興 ルネサンスを
吉宗が果たそうとしたのではないか

ということは言えるかなと思います。

吉宗は「瀟湘八景図」が
傑作として伝わりながら

さまざまな大名家に
バラバラに散逸してしまったことを知る。

当時は 唐物の絵画が
将軍家や大名たちの間で

祝いの贈り物や
売買に使われていたのだ。

こうした風潮を憂いた吉宗は

中国絵画最高の名品を
自らの目で確かめたいと思うようになる。

そして 本来は一つの作品であったはずの
「瀟湘八景」を

元の形で鑑賞したいと
願うのだった。

この時の吉宗の心の内は
どんなものだっただろう?

「瀟湘八景図」は 本来は 一つのもの。
できれば 昔の形に戻したい…。

しかし 多くは 大名家にとって大切な宝。
自由にはできない。

中には 行方が分からない絵さえある。

一体 どうすれば…。

そこで 吉宗が行ったことが

徳川家の記録に残っている。

「御用絵師
狩野家に命じて

『八景図』を
ことごとく そっくりに写させ

巻物にし
永く愛玩された」。

吉宗は 大名家の持つ
「瀟湘八景図」を借りては模写をさせ

足らない絵は
狩野家に伝わる模本で補った。

そして 最後に
巻物の形にして 鑑賞したのである。

足利義満が 自らの権力を誇示するために
バラバラにした絵が

300年の時を超え 模写という形で
元の姿によみがえったのだった。

実は この時 松平忠直の没落を招いた
瀟湘八景図「平沙落雁」が

再び 脚光を浴びることになった。

このころ 「平沙落雁」を
継いでいた 美作国 津山松平家は

家督相続の問題から
取り潰しの危機にさらされていた。

そこで津山藩は
「平沙落雁」を吉宗に見せる時

先祖 忠直が大坂の陣の活躍によって
賜ったという由緒を

書き添えたという。

その絵の由来を知ると
吉宗は感激。

「永く家に秘蔵すべし」と伝える。

この言葉は
津山松平家の存続を

保証するものとなった。

こうして 津山松平家は
幕末まで長く続くことになる。

「瀟湘八景図」を
美術品として再発見した吉宗。

そこには 文化を尊重し
争いのない江戸の世を目指そうとした

吉宗の強い決意が
込められているようである。

ちりぢりになっていた「瀟湘八景図」は

江戸幕府八代将軍 徳川吉宗の手によって
一度 集められて

模写という形で 絵巻の姿に戻りました。

千さん 吉宗は なみなみならぬ思いで
この「瀟湘八景」を集めたんですね。

ようやく
初めて 文化としてといいますか…

すごく よくうかがえると思います。

牧谿の「瀟湘八景図」を…

だから ひとしお
思い入れは 強かったんじゃないかな

というふうに思いますね。
でも それだけ思いが強かったら

大名家から 例えば 買ったりとかして

本物をコレクションしたら
いいんじゃないですか?

そうですね。 ただ あくまで 多分…

そこです!
文化としてですから

例えば 吉宗公は
将軍に就任する前から将軍家の

いわば 江戸城の御文庫
書庫の整理を命じて

その中で 度々
中国の絵画に関する文献をですね

何回も やり取りさせて

その中に
牧谿に関する記述のあるものを

全部 抜き書きして持ってこい
みたいな指示もしたり。

元に復元するということを 恐らく
かなり早い時期から意識していた。

あくまで ものとしての…

もうね 吉宗の知識欲 すごいですよ。

僕は… しかも 世界知識欲が すごい。

例えば オランダ人に ヨーロッパで

どうやって宣戦布告するんだ
って聞いてるのを

僕 史料で見たことがあって
ビックリしたことありますけど…。

アーカイブを作ろうとしていた。
はい。

吉宗って 本当に
いろんなこと やっているので

例えば 人口統計とってみるとか
あるいは 日本中の絵図 作らせるとか。

ともかく データ きちんとそろえて
そこから判断して

何かを決めるってなこと やってますよね。

そこに絵が好きだっていうのが入ってきて
これ 今 千さん おっしゃったように

前の義満とか信長とは
これ 全然 違って

あえて言えば アーキビスト

あるいは もしかしたら研究者とも
言えるかもしれないんですよね。

吉宗自身が
非常に知的関心の広い人であったと。

中国についても 単に 宋だけではなくて
同時代のものまで

広く いろんなものを取り入れてます。

中国に「地方誌」という
それぞれの地方の さまざまな状況を

全部書き記した本があるわけですが

その中から 特に この部分を書き写せ
というようなことを

側近に命じて やらせています。

その出納帳が
今も 残っているわけですね。

これは 中国のことのみにとどまらずに
西洋のことについても

彼は 非常に 広く取り入れようとして

キリシタン関係でなければ

西洋の書物でも取り入れていい
ということを言う。

それによって
そのあと蘭学が興ってくる きっかけを

作ったりもしていますよね。

で 知の集積ってものに
あれほど こだわった人は いなくて。

でね 特に徹底して集めたのが
本草学の標本収集。

何か もう標本というのは
全部ないと駄目なんで

ものすごい勢いで集めるんですよね。
へえ~。

彼のすごさっていうのは やっぱ
知は力なりって

全部集めたら力を持つと思ってて
ヨーロッパでやってた啓蒙主義ね

もやもやを吹っ飛ばしたら
で スッキリさせたら

何か違うところへ行けるっていう
これを固く信じるって。

だから
ヨーロッパより 僕ね 半世紀早く

吉宗をもって 日本の啓蒙主義
っていうのは 開き始めてるというのは…。

吉宗は 面白いですよね。
そういう意味では すごく。

さあ そして 「瀟湘八景図」が
津山松平家を救ったエピソードも

出てきましたけれど
千さんは どのように感じてますか?

やっぱり その大名家にとっては

まあ 由緒の正しさを示す
その家の正しさの証明。

神君 家康公から拝領した家の名物です
ということを言う。

で 吉宗っていうのは また
家康フェチというかですね

まあ 家康マニア。 ひいおじいちゃん
大好きっていう人だったので

まあ そこに
ものすごく感動をするわけですね。

津山藩 残って よかったですよね。

磯田さんの故郷の すぐそばですけれど。

あの時 11歳ぐらいの
浅五郎か何かっていうのが あれして

普通なら取り潰されるんですよね。

だけど 末期養子っていうのを
もう特別に許してもらって

それで 「永く秘蔵せよ」…
永くってことは 俺たち続いていいんだ。

吉宗を… に対して
藩を残そうとか思うと

いかに 家康との近さをアピールするか
っていうのを家老が考え出して

そういう外交交渉をやると
有利に進められる。

よくやった
うまいことやったなあと思いますね。

まあ こうして
さまざまな権力者たちの手を

流転してきた「瀟湘八景図」ですけれど

今回
この牧谿の「瀟湘八景図」を見てきて

皆さんが どんなことを感じたのか
最後に伺いたいんですが

千さんは どんなことを感じてましたか?

はい。 裸の絵として見た時に

やはり 何か引き込まれる
魅力があるんだと思いますね。

あまり その 具体的なですね 何か その
お寺の この塔があるとかですね

何か そういうものが
あまり見受けられないので

いわば心象風景として普遍化しやすいから
みんなが受け入れやすい。

それでいて
こんな余白も たっぷりあって

モノクロームの絵であるにもかかわらず
色が感じられたり 光が感じられたり

イメージが抽象化されて 誰の心にも響く
心象風景に移っていった。

私が この牧谿の絵を見る時に
いつも思い出す 一つ言葉があって

それが
「静かなる絵」という言葉なんですね。

「静かなる絵」というものが日本人の
非常に まあ 心象に響くですね

こういう絵を見て 心を落ち着けて

そして まあ その前で
お茶を一服 頂いたりとかですね

その絵の前で心が落ち着くような
人の心を

引き付けてきたんじゃないかな
っていうふうに思いますね。

何か ずっと気になってたんですけど

義満も 織田信長も 何か感情としては
ギラギラした気持ちで

この絵を持ってるじゃないですか。

フフフ…
それが でも この絵は それに対して

この絵自体は 何か静かだし

本当は 落ち着いて見てた方が
いいんじゃないかなって

思ってたんです ずっと。

絵を持つ人の心と
絵自体が発しているメッセージが

何か ずっと矛盾してるなって
私は思ってたんですけど。

あるいは
吉宗なんかは それに気付いたから

やっぱり 宋の時代に
じゃあ この絵が生まれた時は

どういうふうに見てたんだろう
っていうところに

関心があったのかもしれませんね。
う~ん。

私自身は 牧谿の絵のよさが
よく分からないという

言い方をしましたけれども

牧谿の この「瀟湘八景図」が

なぜ その後 日本において 人気が
あったのかということについては

今日お話を伺って
分かったような気がいたしました。

やはり 日本人好みの絵。

あるいは 心の静けさを得るために見ると
いい絵っていうことのようですね。

で それが 日本人だから
この絵を受け入れたのか

この絵を
みんなが いいものとしているうちに

そういうメンタリティーに
日本人が なっていったのか

この問題は また私 一つ
宿題として考えたいと思いました。

今回は その 英雄たちの決断を
英雄じゃなくて 絵を主語にしてやる。

でも 結局 何か語っているうちに

全て見た人の 英雄たちの見方に
なっていたと思うんですが

あの~ 私は この700年 生き抜いてきた
「瀟湘八景図」の方から見たら

どう見えたんだろう。

信長の野郎 何 言ってんだ
みたいなことを…

八景君が 何を考えてきたか。
ハハハハ…。

というのを 何か想像してみたいな
という気になりました。

絵って 本来は ある時 ある場所の風景を
描いたものにすぎないわけだけれど

やっぱり これぐらいの名作になると

こう 人々の心を映しながら 時の中を
いろいろ流れていくわけですよね。

やっぱり 芸術は長く 人生は短し
なんていうことを よく言うけれども

さあ さて これからも人々の中を

これは 時間の中
この作品流れていきますけど

さあ 後世の どんな人の心を
これ 映していくんでしょうかね。

多分 今日 我々がしゃべったことも
「瀟湘八景」に関する歴史として

これ テープが残っていくから
令和の磯田たち 何言ってんだよと

後世の人が言うのかもしれず。

うん そういうことを考えましたね。

こうやって見ていくのも
面白かったですね。

今日は 皆さん ありがとうございました。

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