知恵泉「米騒動と大正デモクラシー 民衆の怒りと不安どう向き合う?」[解][字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

知恵泉「米騒動と大正デモクラシー 民衆の怒りと不安どう向き合う?」[解][字]

1918年の米騒動で浮かび上がった「民衆の声に政治はどう向き合うのか」という課題。また、背景にある「貧困問題」。大正時代のリーダーや民衆自身はどう対応したのか。

詳細情報
番組内容
民衆が政治参加を要求し自由の拡大を求めた「大正デモクラシー」。その過程で起こるさまざまな問題をどんな知恵で乗り越え、次の時代につなげていったのか。1918年に起こった米騒動で浮き彫りになったのが、「民衆の声に政治はどう向き合うのか」という課題、そして、背景にあった「貧困問題」だった。当時のリーダーや民衆自身はどのような知恵で対応したのか。民衆の怒りと不安が高まる現代、その解決へのヒントを探る。
出演者
【出演】元鳥取県知事・大正大学教授…片山善博,秋元才加,慶応義塾大学総合政策学部教授…清水唯一朗,【司会】高井正智

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸

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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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(シャッター音)

どうしたんですか 今日!
いつもと違って大盛況じゃないですか。

いつも大盛況なんですけど
今日は それにも増して大盛況。

というのもね 大正ロマンの雰囲気を
味わえる居酒屋ってね

SNSに出したら お客さんが止まらない。

(秋元)さすが そういうことね! 店長。
任せて下さいよ。

今 大正ブーム来てますもんね。
そうなんですよ。

大正ロマンでしたっけ?
そう。 ちょっと 皆さん コスプレして。

(秋元)私も着てくればよかった。
ねえ。 今度ぜひ お願いします。

皆さん どうぞSNSで
どんどん まいて下さい 情報を。

お願いします!
写真 お願いしますよ。

すてきな お客様。
ねえ~ いい雰囲気ですけどね。

こんばんは。

いらっしゃいませ。
2人ですけど よろしいですか?

どうぞ どうぞ。
ようこそお越し下さいました。

ありがとうございます。
ちょっとね お店の雰囲気もね

大正ロマン風なんですけどね。
大正といえば?

大正といえばですね 私 今
大正大学という大学にいるもんですから。

それは ともかくとして 大正といえば
やっぱりデモクラシーですかね。

デモクラシー!
いや~ 大正はデモクラシーですよ。

大正ロマンじゃなくって
デモクラシーですか?

およそ100年前の大正時代。

民衆が自ら政治に参加し
社会を変えようという運動が過熱します。

その背景には
第一次世界大戦がありました。

ヨーロッパが戦場となり
日本は アジア市場を独占。

更に軍事物資の輸出などで
日本経済は空前の好景気となります。

しかし 恩恵を受けたのは
主に資本家でした。

好景気は物価高を招き
米の値段は3年間で4倍にも上昇。

投機目的の
米の買い占めや売り惜しみも横行し

民衆の暮らしは 追い詰められていきます。

大正7年7月 富山県の沿岸地域。

女性たちが米屋に押しかけ
米の安売りを求める騒動が相次ぎます。

港で米の積み降ろしの仕事をしていた
女性たちが立ち上がったのです。

これを新聞が女一揆として報道。

センセーショナルな見出しにより
全国に知れ渡ります。

すると…。

8月10日 名古屋 京都で
数万人が集結し 暴徒化。

米屋などに押し寄せ
警官隊と衝突する騒ぎに。

更に大阪 神戸 東京に拡大。

最終的に
全国368か所 100万人が参加する

日本史上最大の民衆暴動となります。

いわゆる米騒動です。

この米騒動は
社会に大きな課題を突きつけました。

政治のリーダーは
民衆の声に どう向き合えばいいのか。

米騒動直後に首相になった原 敬。

彼が目指した
政治の在り方とは?

そして
米騒動の原因として浮かび上がった

深刻な貧困問題。

その打開策は 民衆自身の
ある組織の誕生にありました。

今日は 米騒動を巡るリーダーと民衆

それぞれの知恵に迫ります。

今回 知恵を読み解くのは
現在 大学で地方自治を研究している…

1999年から8年間
鳥取県知事を務め

公共事業の見直しや徹底した情報公開

根回しの慣習を断つなど

改革派の知事として話題に。

更に 2010年に民間から総務大臣に就任。

東日本大震災では

被災地に
全国の自治体の公務員を派遣する

支援制度を整えました。

不安と怒りが高まる時代に
民衆の力を どう社会に生かせばよいか。

現代へのヒントを探ります。

今日はですね 日本が大きく変わった
大正時代を見ていきたいと思います。

まず 大学で地方自治を研究されている
片山さん。

大正時代 どんな印象がございますか?

今と 時代背景
よく似てるなという印象を受けますね。

例えば 今 ウクライナで戦争をしてます。

日本が戦場ではないけど
当時も第一次大戦で戦争してた。

それから 価格の高騰
食料品とかエネルギーとかですね。

それから 今 出てきませんでしたけど
この もうちょっとあとには

大正時代の一番最後ですけど
地震もあるわけですね。

関東大震災。
災害ですね。

時代背景として よく似てるなっていう
印象を受けましたね。

俳優の秋元才加さん
どんな印象をお持ちですか?

何か つい最近… さっき 米が
値上がりしたって言ってたんですけど

スーパーに行っても 今まで
何か 200~300円とかで買えてたものが

どんどん値上がりして。
高いですよね。

何か 今後 私たちの生活って
どうなっていくんだろうっていう

不安っていうのも
すごくちょっと重なる部分がありました。

そして 日本の近代政治がご専門の
清水唯一朗さんです。

ちょうど新しい世の中をつくるといった
明治維新から

まさに この年が50年目だったんですよね。

そこまで みんな50年間

新しい いい国をつくろうと思って
頑張って やってきたけど

そうした中で
すごく格差が開いたりとか

不安と不満が渦巻いていく。

先ほど だから お話があったように

戦争も もう3年間続いてましたけど
いつ終わるか分からないし

物価は上がっていくし。

あと もう一つ この時 戦争の関係で

スペインインフルエンザ
スペイン風邪って呼ばれる

伝染病も来るんですよね。

そういう意味では 頑張ってるけど
なかなかうまくいかないっていうのは

今の時代と ちょっと重なるところが
大きいのかなというふうに。

今日は 米騒動が浮き彫りにした
問題を見ていくんですが

その前に 当店オススメの
メニューというのがございまして。

あっ 何だろう?
こちらです!

えっ どういうこと?

オススメですよね?
こちらです。 はい!

えっ!? いやいや こっちが困りますよ。

米騒動で お米がない時でも

おいしくいただける だし茶漬け。

どうなんですか これ!

まずはですね
民衆の怒りや不安が高まる中

こうした声にリーダーたちは
どう向き合ったらいいのか

そこから知恵を見ていきたいと思います。

米騒動がピークとなった8月13日。

寺内正毅首相は 官邸で
緊急の閣僚会議を開いていました。

逓信大臣 田 健治郎が

この時の様子を日記に
書き残しています。

「形勢急迫のため

緊急の対応策を講じる」。

この日 騒動を鎮圧するため

全国120か所に
およそ10万人の軍隊が派遣されました。

更に寺内は 米騒動が全国に拡大したのは
新聞が社会主義者をあおったためと

米騒動の報道を一切 禁止します。

2日後の新聞では
米騒動の記事が削り取られ 真っ白に。

寺内内閣は権力で
騒動を抑え込もうとしたのです。

しかし 民衆の怒りは 更に増幅。

9月29日 寺内内閣は
総辞職に追い込まれます。

そして 新たに首相に就任したのが
原 敬でした。

ちょっと笑って下さい。

何も面白くないのに
笑えないじゃないか。

原 敬は 薩摩や長州出身の元老が
牛耳る政界で

朝敵とされた盛岡藩出身の苦労人。

当時 62歳でした。

新聞記者や外交官 官僚などを経て

政治の道に進み

44歳の時
第4次伊藤博文内閣に初入閣します。

爵位を持たない
初めての平民出身の総理大臣。

平民宰相と呼ばれ
町では平民食堂が大ブームになるなど

民衆から大きな好意と期待をもって
迎えられます。

そんな原 敬の
民衆の声と向き合うための知恵とは?

こちらは 原 敬の日記です。

19歳から亡くなる直前まで
46年間 書き続けました。

この日記に多く登場する言葉が

「輿論」です。

「輿論」とは 社会的な問題について…

一方 同じ多数の人々の意見でも

大正時代に入って多くなるのが
こちらの漢字。

当時の読み方は「世論」。

いわば…

原 敬を研究している
伊藤之雄さんです。

原は 「輿論」と「世論」を
明確に区別していたといいます。

「輿論」と「世論」を
原が はっきり区別した形で

資料上 残ってるのは
1890年代ぐらいからなんですね。

日本に
議会政治が始まった頃ぐらいからで。

実体験に基づきながら 着実に…

…だというふうに
考えてるんだと思います。

それに対して 「世論」というのは

外国のことをちょっと聞きかじって
現実をあまり つかまえずに…

では 原は
米騒動をどう見ていたのでしょうか。

まずは 世論を見極めます。

米騒動 真っただ中の日記には
こう つづられています。

「凶作でもないのに
暴動が起こったのは

法の力を過信して

米の値段を
下げようとしたことである」。

当時の寺内内閣は 物価調整令を作り

市場をコントロールしようとするも失敗。

更に 米の買い占めに罰則規定を設けた

暴利取締令を発布するも
こちらも効果がなく

かえって 民衆の政治不信を
招いていました。

原は
米の値段を安定させることができれば

人々を安心させ

世論を落ち着かせることが
できると考えます。

そして 首相として初めて臨んだ
第41回議会で

米対策を提案します。

外国そのほかより輸入する方法によって

不足と思われる点を
補うにほかはありません。

このような見地よりいたしまして
政府は

米の自由な輸入を
希望いたすのであります。

米の輸入自由化を促進するため
関税を撤廃。

更に 新たな農地開墾の奨励も。

米の供給量を増加させる対策を
具体的に打ち出したのです。

ところが 与党議員から思わぬ反対が。

外国の米が大量に輸入されると

国内の米の値段が下がり
農家が困るというのです。

原は これは世論と考えたといいます。

何でも私は やりますけれども…

だから 現代に それを向けると
どんどんどんどん予算が膨らんでいって

国が赤字で崩壊してしまう
政治なんですね。

だから 政治っていうのは
どうあるべきかっていうことを

原は 本当によく考えていたんだと
思いますね。

関税撤廃と米の自由化は 議会を通過。

およそ15万トンの米が輸入され
米の値段は程なく落ち着きを見せました。

しかし 米騒動で政治への影響力を知った
民衆は次なる要求。

普通選挙の権利を求め 過熱します。

当時は制限選挙。
選挙権は25歳以上の男性で

10円以上 納税している人に
限られていました。

この制限を撤廃し

成人男性が全て投票できる普通選挙を

民衆は求めたのです。

大正8年3月には 東京で
およそ1万人がデモ行進に参加。

大阪 京都 名古屋など

全国の主要都市にも拡大します。

この事態に原の答えは…。

今 普通選挙を断行するのは
反対であります。

民衆の声に真っ向対立したのです。

普選運動なんかは世論ですね
原から見れば。

普選というのは イギリスなどでも
じっくり時間をかけて

国民が啓発されて
自分で考えるようになって

じわじわと時間かけて できたものを
日本では…

しかしながら いずれ 普選に
日本も持っていかなきゃいけないと

思っていたんだと思います。

原は議会政治が
まだ根づいていない日本では

時期尚早だと考えたのです。

更に米騒動と同じ年に 海外では
ロシア革命が起こっていました。

当時は ロシア革命の影響で…

こういう混乱に…

…のが 一番 日本にとって
大事なんじゃないかというふうに

考えていたんだと思います。

しかし 世論を
無視したわけではありません。

選挙資格を
納税額10円から 3円に引き下げる

現状に即した法改正を行いました。

それでも普通選挙を求める
民衆の声は収まらず 更に過熱。

すると野党議員から
新たな改正案が提出されます。

こちらは
25歳以上の男性で

独立の生計を営む者全てに

選挙権を与えるべきというもの。

階級制度の打破こそが
今 必要です!

(拍手)

我々も納税資格撤廃に賛成です!

こちらは選挙資格は20歳以上の男性全て。

普通選挙の即時断行こそが
輿論と訴えます。

欧州各国は 既に
普通選挙を実行しております。

国際社会に
確固たる地位を
築くことが急務なのです。

(拍手)

しかし 原は これらを
世論に流された政治であると譲りません。

民衆の怒りは原に向けられ

自宅前で民衆と警察が
衝突する事態にまで発展します。

何が輿論で 何が世論か。

原は選挙で
輿論に問うことを
決意します。

大正9年2月 衆議院を解散。

衆議院議員総選挙が行われます。

選挙の結果は 原率いる立憲政友会の大勝。

議論して 一歩ずつ着実に
普通選挙へ向かう道に

日本は進んでいきます。

民衆の声をどこまで聞き

どう反映させるか。

政治とは どうあるべきかを考え続けた

原 敬の知恵があったのです。

米騒動を収める 収め方を見てますとね

とても賢明だなと思いますよね。

上から価格統制を抑え込むとか
そういうことではなくって…

実際に何がしか不安があって高騰する。
足らなくなるんじゃないかって。

そういう時に 応急措置として
海外からお米を入れる。

とりあえずは だから賄えますよと。

もう一つは…

ものすごい時間 かかりますけどね。

長期的に米の供給を増やしていくと。

この2つで政策を出すと
やっぱり国民は

少し安心するんだろうなと
思うんですよね。

そういうところが すごくうまいです。

秋元さん いかがでした?

VTR中 何が輿論で
何が世論なのかって

自分なりに ずっとぐるぐる考えてたら

分からなくなってきちゃったんですけど。

ちょっと こんがらがってきたんで
世論と輿論 もう一回

ちょっと確認してみましょうかね。
お願いします。

世論 「セイロン」という専門家も
いますけれども

どちらも多数の意見という意味では
同じなんだけれども

清水さん 原は明確に区別をしていた
ということなんですか?

まあ 大体 区別をしてますよね。

でも やっぱり分かりにくいのは
今 僕たちが使う言葉だと

「世論調査」って言葉が
あったりしていますけど

「世論」の字を使って
「ヨロン」って読ませている。

そうですね
これで「ヨロン」って今は読みますもんね。

これ戦後
難しい漢字を少なくしようって

当用漢字っていう中に
輿論 「輿」の字が入らなかったので

両方 読み方と漢字が
グッチャになってしまったっていうのが

分かりにくくなってるところだとは
思うんだけど。

「輿論」の方は 英語で言うと

パブリック・オピニオンって
言うんですけれども

みんななんだけれども…

ちゃんと議論をしてる上で
出たものが輿論ってこと。 ですよね。

だから御神輿の輿の字で

みんなが担げるようになっている
ってところが とても大事なのかな。

みんなで担ぐ 神輿の輿。

それに対して世論の方は

これはポピュラー・センチメントって
言うんですけれども。

先ほど空気っていうふうに
おっしゃったけど どちらかというと

国民の感情が
割と そのまま 素で出てくるというか

こうしてほしいという気持ちが出てくる。

その2つのバランスを
とっていくっていうことが

とても重要になってきたんだろうな。

原は そこのバランスをとりながら
考えていたというのが

恐らく正しいんじゃないかな
っていうふうに思ってますね。

ちょっと改めて
知恵をね 見ていきたいと思うんですが

ここでの知恵が…

私はですね
鳥取県の知事になりました時にね。

議論を大切にしましょうと。
議論?

つまり この2つで言えば
輿論を大切にされた。

輿論を大切にしました。
1つ 例を言いますとね

私 大懸案事項だったのが…

それまでの県政はダム建設っていう方向で
動いてたんです。

その時にね 私 点検してみましたらね

情報公開ができてないんですよ。

ダムを造るのと…
何のために造るかっていうと

洪水を防ぐ 治水のためですよね。

ダムを造るという手法もあれば
河川改修っていうのもある。

流路を変えるとか
ちょっと底を削るとかですね。

その2つが ちゃんと
選択肢として提示されて

どちらが長所があるか
どちらがデメリットがあるかっていうの

比較しなきゃいけないですね。

ところがね
情報公開してなかったんですよ。

ダムの方が お安いっていう情報だけを
県は流してたんですね。

おかしいなと。
何でだろうかと思ったら

ダムが安いのは

もう30年以上前の
建設計画を作った時の価格で算定してる。

だから随分安くて。 今日に直せば
100億円以上 跳ね上がるんですけどね。

随分な違いですね 100億円。
それからね 情報公開をして

ちゃんと県議会で議論して

やっぱり これは河川改修だよね
っていうことに落ち着いた。

1年かかりましたけどね。

お役所側とかですね 政治の側だけが
情報を持ってて

国民とか住民は 情報に
あんまり接してないと。

議論になんないですよね。
情報持ってる方が勝ちですよね。

トップの人が集まって
たくさん議論して決まったものが

私たちに下りてくるみたいな
感覚だったので

何かちょっと ショックでした。

これはね… 自分の経験 見分から

全部そうだと言うつもりは
ありませんけど

大概のところはね
あらかじめ こっそり根回しをして

議会が始まった時は
もう すんなり決まるんですよ 賛成で。

ところが議論してないですから
あとで いろいろ噴出するんです。

おかしいじゃないかって。

でも いまだに
ずっと この問題が続いてるんだなって

今も大して変わらないことも
結構 起こったりしてるから

そういうのが全部
情報が開示されたりとかしたら

国民も ちょっと すっきりしたりとか。

何か 信頼できる点が すごい
もっと増えてくるのかなみたいなのを…。

そうですね。 そういう意味では…

世論は国民の声ですし
世論を潰してしまったら

国民が何考えてるか
分からなくなってしまうわけですよね。

彼 苦労人なんですよね。

若い頃に 子どもの頃に
戊辰戦争で朝敵になって

あの時っていうのは やっぱり

長州 薩摩っていうのが
正しいんだというのが出てくる

それの流れがあるわけですよね。
それはだから ある種の世論ですよね。

そういうものに流されて
つらい思いをして

でもそれによって
対立してるだけでは何も生まない。

原は薩長を嫌ってたっていうふうに
おっしゃる方も

よくいらっしゃるんですけど
そんなことはなくて

かなり早い段階で
克服しているんですよね。

それは自分自身がちゃんと意見を持って

自分の道を切り開いていくことで
実現をしていく。

そうしたところの…

対立から対話へ
というような構図というのは

原の中には ずっと彼の生い立ちとして

あったんだろうなと思いますね。

ちょっと改めて普通選挙の案
どういうものがあったのか。

まず 原内閣が通したのが
25歳以上で3円以上の納税者というもの。

それに対して 野党が

25歳以上で
独立の生計を営む者ですとか

20歳以上で無条件という案を

対案として
通ったあとに出したっていうことですか?

既に 前の年に
25歳以上 3円っていうので
決まってまして

この時に
有権者 3倍になってます。

その翌年に 野党が まだ選挙も
やってないんですけど

世の中で 男子普通選挙 やってほしい
っていう流れがあるので

それに乗る形で こういう案を
出してきたということになります。

これはね やっぱり
政治には 往々にしてあるんですね。

何か より大衆受けをするようなことを
提示して

人気を獲得しようと
支持を得ようとするのは

古今問わず あるんだろうと思いますね。

だから そこをね
きちっと冷静に議論して

先 どうするかを
また相談しましょうねっていうのが

輿論形成… 先ほどの輿論を作っていく
プロセスだと思うんですよね。

そうなんですよね。 そこが…

…ところかなと思うんですけど。

どうしても 彼は 弁が立つので

論破をしてしまうところが
あったんですよね。

やや 野党を低く見るというか

対等に議論をしていくというよりは

「君たちが言ってることっていうのは
間違ってるよね」

「君たち よく分かってないよね」

「国民の人気を
得ようとしてるよね」という

やや冷たい対応をするところが
あったというのは

原の一つの限界というか
及ばなかったところといえば

そういうふうには言えるんでしょうね。

そうですね。 ちゃんと向き合って…

上っ面だけじゃなくて
ちゃんと向き合って話をする。

お互い 多分 与党 野党で
違うことを思っていたとしても

ちゃんと お互いリスペクトして
話し合うっていう

最低限のことがないと

その議論は
成り立たないんだろうなって思います。

今のね 「リスペクトする」ってのは
とっても重要だと思うんですよ。

相手と対等な立場に立って
きちっと議論をする。

数で 最後は決めるんですけど
その 数で決めるに至るまでは

ちゃんと対等の立場で議論して

相手の言うところが なるほどなと思えば
それ 取り入れてあげると。

これが よく小学校で習うじゃないですか。

そういうことだと思うんですよね。

でも 何か シンプルだと思うけど

すごく難しくて 骨の折れる作業なんだな
というのを感じます。

さあ 米騒動ですけれど

大きな課題を
もう一つ 浮き彫りにしました。

それは 貧困であります。

民衆は それを
どう乗り越えようとしたのか

今度 そちらの知恵をご覧頂きます。

大正7年8月11日。

ここが大阪の米騒動の起点となりました。

市内各所で5日間 延べ23万人が参加する
大暴動になります。

8月14日
大阪府知事 林 市蔵は

戒厳令を発布します。

その緊迫した様子を商家のあるじが
日記に書き残しています。

「大阪戒厳令発布。

午後7時以降は
一切の外出中止。

5人以上同行の場合は
取り締まる。

市内の電車は全線運転中止。

在郷軍人を招集し 町内を警備する」。

騒動の鎮静化を図るとともに
大阪府と市が主体となり

米の安売り事業を始めます。

その時 配布された
米の安売りチケットです。

小学校などの安売り会場や
指定の米屋で

およそ半額ほどで米が購入できました。

米騒動で逮捕された人の大半が
生活に余裕がない 困窮した人たち。

貧困対策こそが
米騒動の再発を防ぐと考えたのです。

ところが 林は行きつけの理髪店で

窓の外にいるボロボロの着物をまとった
新聞売りの親子に目を留めます。

彼女は 米の安売りなどの救済事業を
知りませんでした。

「漏救の弊あるを見る」。

つまり 救われるべき人が
救われていない。

そこで林は ある民間組織を設立します。

そして 彼らの知恵が
民衆自身を救うことになるのです。

大阪歴史博物館。

ここに米騒動がきっかけで生まれた
民間組織の写真が残されています。

貧困世帯の調査 相談を行う
無償のボランティアで

地域ごとに20人ほどの住民が
任命されました。

最初の方面委員に任命された一人
田中半治郎です。

当時36歳。

古物商を営んでいました。

田中の担当は難波第一方面。

道頓堀の南 現在の大阪市中央区の一部が
調査エリアです。

こちらは 田中が調査に使っていた
方面委員手帳です。

貧困家庭の住所 家族構成
そして収入や支出など

生活状況を把握するための
家計調査を行っていたことが分かります。

調査方法っていうのは
方面委員制度が作られる前にですね

警察が行っていた調査方法でして。

しかし この調査方法では

実際に何に困り 何を必要としているのか
見えてきませんでした。

そこで田中は調査方法を変更します。

少しずつ めくっていきまして

大正9年の1月ごろの調査

これも ある世帯の生活状態を記した。

こちらの方になっていくと
自由記述式の記述になっていまして

要するに この世帯が…

「すぐに病院の無料診察券を交付し

診察にやった。

それから
少しの米を施した」。

息子が出兵したことにより
困窮していく女性の現状を知り

田中は調査するだけでなく
救いの手も差し伸べています。

こちらには 家主と交渉して
家賃を無料にしたという記述が。

この世帯では 軍隊に入っている長男の
除隊を求めるため

台湾にいる連隊長宛てに
手紙を書いて お願いしたとあります。

どうして彼は
ここまで熱心だったのでしょうか?

田中の場合は
日露戦争に従軍いたしまして

その間に家族が大変…
特に父親が大変 仕事に忙しくて

苦労したっていう経験がございます。

そういう…

そういう家族 世帯の救済に

熱心に取り組んだっていう形跡が
手帳からは うかがえます。

そういう世帯のことがですね
他人事では思えなかった。

第一次世界大戦以降
戦争特需による都市部の工業化も

貧困の原因の一つでした。

工場などの労働力として
地方から大阪に 多くの人が移住。

しかし 大半は…

米騒動は 社会問題としての貧困を
浮き彫りにしたのです。

誰もが同じ境遇になりうる時代。

共感の気持ちを持って
田中同様 方面委員たちは

調査にあたったのです。

その結果 多くの困窮した人々が
病院や救護施設 職業案内所など

公的な社会福祉が
受けられるようになりました。

この方面委員の制度は
全国に広がっていきます。

隣人への共感から
社会の改善をしていった方面委員。

戦後は民生委員と名称を変え
現在まで続いています。

あの… なるほどと思って
見てましたのは

さっき 大阪の例で
一人一人の事情を調べて

どう対応したらいいかっていうのを
やってるじゃないですか。

ともしますとね
災害復旧とか災害の支援っていうと

制度ができてますから。

制度を みんなに
適用しようとする。 一律に。

…いう弊害が今 あるんですよね。

それでは いけないので
一人一人の事情に着目して

どういう家庭か どういう事情にあるか。

それを見ながら…

それをね
当時 やってたんだなっていうので

ちょっと驚いてます。

清水さん
以前も 貧困はあったと思うんですが

なぜ このタイミングで注目され

そして 方面委員につながっていった
ということなんでしょう?

明治維新って
競争をしていく社会なんですよね。

みんなが頑張って みんなが勉強して
みんなが働いて 競争していって。

…で 国全体が豊かになっていく
っていうことをしていった時代だったと。

それ以前の江戸時代っていうのは

むしろ 村の中で みんなで助け合って
生きてたわけですよね。

それが さっきの話があったように

工業化で都市に出てきて
働き口があるからっていって 働くと

そうすると 今度
その会社がなくなった瞬間に

もしくは そこを解雇された瞬間に
貧困に陥ってしまう。

でも ここには 江戸時代の村のような
助けてくれる社会は ないわけですよね。

そうすると これは…

それを救ってかなきゃ
いけないっていう話に

ようやく なってきたっていうところだと
思います。

自分の努力だけだと
そこから抜け出せないわけですから。

ここでの知恵がですね…

秋元さん どういうふうに
お感じになりましたか?

貧困以外でも
今の 本当 コロナ禍だったり

本当 生活が大変な方
たくさんいらっしゃると思うんですけど

まず 聞いてもらえるだけでも

すごく 安心というか… そうですね…。

社会から
孤立してない感じがするんですかね。

聞いてもらえると。
そうですね。

何か まだ つながってるっていう感覚が
持てるのかなって。

心強い気がします。

ただね 共感力が大切だっていうことは
分かるんですけど

どうすれば
共感力を持てるんだろうかって。

どうすれば共感できるんだろうか
っていうことが大事ですよね。

私は 鳥取県の知事やってました時にね

糸賀一雄さんっていう…。

この人は
障害児教育 障害児福祉の

日本の草分けのような方で。

その方の本を読んだり
いろいろ勉強してみるとですね

「この子らを世の光りに」って言葉が
出てくるんですよ。

「この子らを世の光りに」。

最初ね それ 間違ってるんじゃないかと。
「この子らに世の光りを」。

障害のある子どもたちに
世の光を当てなきゃいけないと。

これが福祉であり
障害児教育だというふうに

何か 思うじゃないですか。

ところがね ちゃんと本を読んでみると
そうじゃなくって

「この子らを世の光りに」。
どういう意味かっていうとね

この子らを見て
この子らが どういう生活をしてるか

どういう毎日を送ってるか。

障害はあるけれども
自分の能力を最大限 出せるような

そういう環境の中で
教育を受けてるかどうか。

それが社会の指標になるんだと。

要は その子たちを見て

もし自分も… いずれ障害をもちますよね。
年を取りますとね。

「あっ これなら安心だ」と。
自分が障害をもっても。

…という意味で 「この子らを世の光りに」
ということなんだということを

教わりましてね。
なるほど これが一番大事なんだなと。

ついね 障害のある方とか
災害の被害に遭った方は かわいそうだと。

手を差し伸べなきゃっていう
こういう発想になりがちなんですけど

それを全く
否定するわけじゃありませんけどね。

もっと根本は 共感力。

すなわち もし 自分たちが
そういうことだったら

何が必要なのかなっていう

常にそういう発想を持って
接するっていうことが

とっても大事だなと思いましたね。

人ごとにしないっていう。

これ やっぱり 大阪だっていうのが
すごい面白いとこだと思うんですよね。

商人の町で
民衆が官に頼るんじゃなくて

民衆が自分たちの力でやっていくって

そもそもの
そういう文化があるっていうところが

まず あるんだと思いますし

何よりも やっぱり
今日 最初に 大正ロマン…

大正は デモクラシーじゃなくて
ロマンじゃない? っていう

話があったけれども…

競争じゃなくって ほかの人のことも
考えていくっていうのが

心の豊かさにつながるっていうことが
見えてきている。

だからこそ 民でやっていくところに
さまざまな ゆとりがあるし。

民でやっていくこと自体に また その次に
自分たちが新しい社会を…

社会を もっと
よくしていけるっていうところの

可能性を持ってたのが方面委員なんだな
というふうに思いますね。

民がやっていくっていう…。

余裕がないと 人に手を差し伸べたり
一緒に助け合おうって思うの

結構 苦しかったりするんですけど

何か 今 ちょっと大変な時期でも

そういう心は持っていたいなって
思いました。

♬~

米騒動の知恵から
いい川柳が浮かびましたよ。

「居酒屋も
共感力で花が咲く」。

居酒屋話っていうのも
花が咲くには

相手の話に共感するところから
始まりますからね。

コメったときは お互いさま。

このダジャレには
共感してもらえないかな…。

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