こころの時代~宗教・人生~ シリーズ「問われる宗教と“カルト”」 後編[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

こころの時代~宗教・人生~ シリーズ「問われる宗教と“カルト”」 後編[字]

安倍元首相銃撃事件を機に問われる“カルト”そして宗教のありかた。宗教問題の現場・最前線で活動してきた研究者・宗教者6人が一堂に会し2回シリーズで徹底討論する。

詳細情報
番組内容
後編は“カルト”問題で浮上してきた宗教そのものの現在地と問題点を考え、宗教とは何かをめぐって議論を交わす。僧侶である釈徹宗氏が既存宗教集団の“劣化”を問題提起、宗教と政治はどのような関係を持つべきかを論点に、カトリック信徒で批評家の若松英輔氏が宗教の本来のありかたを提言。市民のみならず宗教者やメディアが目指すべき「宗教リテラシー」の未来について徹底討論。後編の進行を務めるのは宗教学者・島薗進氏。
出演者
【出演】宗教学者…島薗進,北大大学院教授…櫻井義秀,批評家…若松英輔,牧師・同志社大教授…小原克博,僧侶・宗教学者…釈徹宗,日本脱カルト協会顧問…川島堅二

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉

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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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♬~

え~ 皆さん こんにちは。

「こころの時代」 2回のシリーズで
「問われる宗教とカルト」ということで

話し合いを行っております。

この第2回目 後半になるわけですが
「どう宗教と向き合うべきか」という

そもそも 宗教とは何かという

これ 前半でも そういう発言が
度々ありましたけども

より そこに焦点を合わせる。

それから また日本において
日本人と宗教という点から

どういうことを 考えなきゃならないのか。

また 更に
現代人にとっての宗教というようなね

これは 宗教の未来ということにも
つながりますけれども

この辺りに 焦点を当てて
話をしていきたいと まあ思っております。

現代というのは
宗教離れの時代ではないか。

日本人といえば 日本人は無宗教だと

そういうふうに
思っている方も多いと思うんですが

まあ それ 実際は どうなのと
今後は どうなるの

ほんとに 宗教離れということが
これからも進んでいくんでしょうか。

と同時に そういう状況の中で
宗教集団というのはですね

マスコミで報道される時は
まあ あの 困った存在

被害を及ぼす存在
何か問題を起こすものとして

現れてくるわけですけれども

これは 実際に
そういうことがあるのかどうか

今 ある宗教は 何か宗教集団
劣化しているんじゃないかと。

まあ そういうふうにも見えるかと
思います。

その辺りについて まず釈さんの方から
お話を頂ければと思います。

はい。 「宗教離れと宗教集団の劣化」という
お題を頂いたんですが

カルト宗教について
我々 議論を進めてきましたが

一方で 伝統宗教というものについても
考えてみようということだと思います。

伝統教団の方に 目を向けますと

例えば 神社神道にしても
伝統仏教教団にしても

う~ん まあ やはり こう 求心力は
落ちてるのは 間違いないと思いますし

形成している母集団だって
どんどん脆弱になっている。

そういう意味で 宗教離れと宗教集団の
劣化ということだと思いますし

キリスト教教団にしても 大変な高齢化が
進んでいるという状況です。

また 新宗教を考えてみても

近代化や高度成長で
大変 教勢を拡大した教団ですね。

例えば 天理教とか立正佼成会にしても
だんだんと 縮小傾向にあるようですし

高度成長の申し子というべき
創価学会だって

宗教教団としては まあ 縮小傾向にあると
え~ 言えるかと思います。

いずれも この社会の形態
あるいは 就業形態の変化

地域コミュニティーの解体
家族形態の変化というものが

大きく影響していると思います。

伝統教団に至っては
もう 旧来の地域コミュニティーや

家族形態の上に乗っかって
ず~っと やってきたので

ベースが 形が変われば

もう好むと好まざるとにかかわらず
転換期を迎えるという。

そもそも伝統教団って 図体が でかいので
フットワーク鈍いんですよね。

やっぱり 新しい教団というのは
すごく まあ 人々の思いに

ビビッドに こう 沿うことが
できるっていう面もあると思います。

現場の宗教者の意見で言わせて頂くと
やはり この宗教の住んでいる時間は

社会の時間と
ちょっと ずれるといいますか

かなり ゆっくりと
こう流れているところがあって

だから そういう意味では
社会の次々と起こる変化に対して

いちいち こう対応するっていうふうには
なってないと思います。

逆に言えば
変わらないから 安心できるとか

変わらないところが大切っていう面も
実感する時はあります。

ありますが まあ 先細りに
どんどん なっていってるのは

もう 間違いないというふうに
思うんですね。

はい あの~
後半といいますか 2回目は

島薗が 進行役みたいになってますので

1回目 小原さんが進行して下さって
自分が言いたいことが

あまり言えなかったんじゃないかなと
思うので いかがでしょうか。

はい そうですね
日本社会に限定して考えると

今 もう釈さんが言われたとおりだと
思うんですよね。

私たちは 日本社会が
無宗教的だというふうに言われても

まっ そうですよねというふうに
納得できるような 現実を持っています。

しかし あの 日本社会のフィルターで

世界も そうなってるんだというふうに
見てしまうと

これ 多分 間違えだと思うんですよ。

日本社会と 非常に似たような
状況になっている

地域とか国も たくさんあります。

例えば 一つは
ヨーロッパだと思うんですよね。

かつて もう キリスト教世界の
中心を担ったところで

今も 立派な教会 たくさんあります。

ところが 立派な教会 もう200人も300人も
入れるような教会に 日曜日 行くと

前の方に あの 本当に ご高齢の方が

20人か 30人だけ座ってるみたいなことも
全然 珍しくはないです。

これをですね よく学問の言葉では
「世俗化」というふうに言ったりしますが

ヨーロッパは 世俗化が やっぱり進んで

キリスト教の力が
ほんとに この落ちていってると

そういうふうに
一方で 言うこともできます。

ヨーロッパでは 今 あの 少し こう
停滞気味なんですけども

その宗教の成長点というのはですね

どんどん やっぱり
移動してると思うんですよ。

実際の かつて キリスト教というのは

西洋の宗教というふうに
よく言われました。

日本でも
そのように信じられてきたんですが

人口比だけでいうと
今のキリスト教人口全体でですね

世界人口の
大体3分の1強あるんですが

その3分の1強ある
キリスト教徒の半分以上はですね

もはや 西洋に住んでないんです。

ですから 人口の点だけでいうと

もはや キリスト教は
西洋の宗教ではないんですよね。

中心点 成長点が
移動してきてるからです。

じゃあ どこで成長してるのかというと
アジアとか アフリカなんですよ。

ですから ヨーロッパでは 何かこう

残骸のように
教会が見えるぐらいにですね

本当に この世俗化しているかも
しれませんけれども

しかし アジアとかアフリカ 更に言うと
最近のラテンアメリカではですね

形を変えながら やっぱり
急成長をしている部分もありますので

見る場所を変えると 確かに その一方では
衰えてるように見えるけれども

他方 まだまだ伸びてるところがあると。

そして 成長してるところでは
なぜ 成長しているのか。

多分ね 理由があると思うんですよ。

これ 実際 キリスト教の場合にも
地域社会のニーズに しっかりと応えて

そこでですね グーッと
やっぱり根を張っていく。

それによって 新しい教会が生まれたり

それから かつては カトリックであった
ラテンアメリカに

プロテスタントの教会が
どんどん増えていったりみたいなですね

カトリックからすると あまり
聞きたくないような状況なんですけど

それが 実際 起こってるんですよね。

ですから 決して固定的ではないと。

特に 現在はですね カルトも含め

その宗教活動というのは
グローバル化してるわけですよ。

ですから もう
国境を簡単に越えてですね

いろんなところで 活動してますので
国内の問題であったとしても

国内問題だけに
目を奪われるのではなくて

今 世界で何が起こっているのか
ということにですね

我々 やっぱり関心を向け続ける必要が
あるだろうというふうに思いますね。

(釈)日本でも 南米のキリスト教教会って
たくさん今 随所にできてて

月曜日から土曜日まで
一生懸命 日本社会で働いている

南米から やって来た人たちが
日曜日になると 教会に集まる。

そこに行けば 母国の言葉で
お説教が聞けて

母国の言葉で歌を歌って
母国の食事をして つながりを実感して

で 月曜日から
また一生懸命 働くっていう。

ああ 人間の暮らしには こういう
宗教的な場 必要なんだなっていうのを

実感させてくれるようなところが
たくさんできています。

今の例はですね
日本社会の今後を考えるうえでも

非常に 大事だと思うんですけども
あの~ コロナが明けてですね

移民 あっ 移民と言いませんけども
外国人労働者の受け入れがですね

これから こう もっともっと増えてくると
その人たちが日本社会で

どういう居場所を見つけるかって
すごく大事な課題なんですよね。

そこで やっぱり あの 一つ
まずデータとしてあるのは

日本人のカトリック信徒の数というのは
やっぱり 減ってきているんですよ。

ところが 総数としてはですね
一定してるんです。

何が補っているかというと
外国人のカトリック信者が

日本で やっぱり増えているので
一定になっているんですよね。

実際 あの カトリック教会 大きい教会は
もう 一日に数回ミサをしますが

外国人だけのミサもあります。

例えば フィリピン人だけのミサとか
ブラジル人だけというですね。

そこに行くと もうすごい なかなか
日常では考えられないぐらいの熱気で

フィリピンの方だったら 歌って踊って

場合によっては
太鼓をたたいて みたいなですね

そして そこでは 礼拝を
ミサを共にするというだけじゃなくて

情報交換の場になってるんですよ。

生きるのに必要な
まさに ハブになっている 教会が。

そういうですね 役割を
日本社会で 果たしているとするならば

もともと住んでいた
日本人にとってだけではなくて

新しく来ている
その外国人の方々にとってですね

やっぱり教会が 非常に重要な役割を
果たしているということをですね

私 やっぱり感じることが
やっぱ あるんですよね。

そこは ほんとに カトリックの
すぐれたところというか

世界統一規格的なところがあって

どこで暮らしても
カトリック教会に行けばいいという

大変 あの~ うらやましいものを
持っておられるんですが

でも 日本のカトリックの教会で
神父さんに お話を聞いたりすると

日本のカトリックの人たちは
だんだん高齢化して

やっぱり どっちかというと
アッパークラスというか

教養人的な人たちのクラスが多い。

ところが やって来ている カトリックの
人たちは 労働者階級の人が多くて

それが なかなか うまくこう
受け入れてもらえないっていう

齟齬が この溝を どう埋めるかって

大変 苦労しているというお話を
聞いたりもします。

まあ カトリック教会も
そうなんですけどね

今の問題で 僕 もう一つ ちょっと
別な角度から考えてみたいなと思うのは

その 宗教が力を持つっていう時に
その拡張ですよね

拡張の規模によって その勢力を図ると。

もちろん 一つの視座としてあると
思うんですけれども

やはり その宗教が
ほんとの意味で深くなっていく。

だから 宗教が
普通の社会的現象と同じではないのは

拡張そのものが その価値の深化とは
必ずしも一致しない。

だから その拡張することによって
その宗教が 実は

終わりの始まりを告げてきたというのは
いくらも事例があるんだと思うんですよ。

私たちは今 宗教というのが
こう 縮小していくように見える。

縮小していくように
見えるんだけども

今 我々が ここで深化 深まる方向に
舵を切れるかどうかということが

やっぱり
とっても重要なんだと思うんですね。

ですので 世界で いろんな拡張の現象
エクスパンションの現象が あるんですけども

それが 本当に 何でしょうか 意味深く
持続的なものかどうかというのは

やはり もう一回
考えてみなくてはならなくて

今 我々が 一見 縮小してるように
見えるんだけども

我々が こう縮小することによって
初めて見えてくる

自分たちの ある意味での至らなさ
拙さ あるいは もう一つ

ちょっと これテレビで見てる人に
あれですけど

傲慢というのも
見えてくるんだと思うんです。

自分たち やはり その
ある傲慢さを持ってたんじゃないか。

自分たちの価値観というものが
もう やっぱり唯一のもので

それに合う人たちに向けてだけ 言葉を
出してきたんじゃないかということも

やっぱり考えていくことができる。

もし 僕は 劣化という言葉が どういう
意味合いか ちょっと あれですけども

劣化という罠から
我々が こう脱していくためには

やっぱり そういう自分たちを もう少し
深いところから 捉え直すということが

どうしても不可欠だなというふうに
思うんですよね。

櫻井さん アジアの他の地域も
いろいろ見ておられるので

ちょっと 西洋と日本という観点に
どうしても 我々は

引きずられるところがあるんですが

櫻井さんの観点からは
いかがでしょうかね。

はい。 東アジアにしても
東南アジアにしてもですね

宗教団体 あるいは その宗教文化の活動
というのは 非常に活発ですね。

あの 一番顕著な例は
中国だと思うんですよね。

中国は その宗教団体に関しては
宗教事務条例という形で

行政的に もうガチガチに
その管理してるわけですよ。

しかし その中でですね キリスト教会の伸長率
というのは 目覚ましいものがあって

恐らく アジアの中での
キリスト教人口というのは

韓国を抜いて 中国が
一番多くなるんじゃないかという

こういう予想もあるわけですよね。

ですから その宗教というのは

非常に その信教の自由を
享受できるような日本社会だと弱くなり

すごく その統制下にあるような
ところだと強くなる。

これ チベット仏教も そうですよね。

ダライ・ラマ14世が その亡命してですね

世界中を まあ 経巡るしかなくなった
状況の中で

一民族宗教が 世界宗教化している
という現象があるので。

ですから そういう意味で
宗教運動というか 宗教文化というのは

地域とか あるいは もうちょっと
歴史的なスパンで見ていくとですね

まあ 面白い要素があるんじゃないかな
というふうに思っております。

私がですね
今年の3月で辞めたんですが

9年間 上智大学のグリーフケア研究所
というところで 所長してたんですがね

そこには 毎年 数十人 100人には
いかないけれども そのぐらいの人が

社会人なんですね 平均年齢は
40代後半から50代という感じなんですが

そういう方が 学びに来る。

グリーフケアというのは何かというと
まあ 喪失

大事なものを失った つらさから
何かを学んでいくということなので

そこには スピリチュアリティという
まあ 宗教に通じる何かが

必ず関わってくるわけなんですね。

そして その
ケアの仕事に就いている方が多い。

まあ 看護師とかですね
人の世話をする そういう方にとっては

そのスピリチュアリティ
宗教に通じる何かは

非常に身近だという そういうことが
あるように思うんですね。

ということは 宗教教団というところには
宗教性が見にくくなっていて

そういう そうでないところに
かえって宗教的なものを求める

そういう傾向もあるんじゃないかと
思うんですが

その辺りは いかがでしょうか。
(釈)例えばですね

NHK放送文化研究所が 5年に一度

日本人の意識構造という
データ結果を発表してて

45年間 ず~っと定点観測しているんです。

日本人の宗教意識調査を見ると
実は そんなに変わってないですよね。

これ 年代別にも あるいは性別にも

ず~っと分けて
データ解析しているんですが

この45年間 それほど日本人の宗教心
というのは 大きな差がない。

二度ほど 大きな変化があったのは

70年代の あの 精神世界ブームの時に
新宗教の人が バーッと上がって

90年代のカルト事件続発の時に
バーッと離れたという

2回 凸凹があるだけで
45年 ほとんど変わってないんですね。

むしろ 若年層の占いとか
生まれ変わりとか

こちらの方は 上がっているんです。

でも 一方で
今 島薗さん おっしゃったように

まあ 教団離れ 宗派離れというのは
一気に進んでまして

45年で ずっと急速に減っているのは
え~ 経典とか 聖典に関する親しみ。

あるいは こう 各宗教の教えに対する
親しみというのは

どんどん減ってるという
そういう状況あると思います。

(川島)多分 関連があると思うので
少し話してみたいんですが

先ほど え~と 宗教の劣化とか

そうすると まあ 数が減っていく
衰弱していく。

だけど あの 若松さんが

いや 数の問題 拡張…
その劣化の反対は 拡張ではなくて

まあ 深化というふうに言われました。

その深化は じゃあ具体的に どういう形が
あるんだろうかっていうところに

ちょっと つなげた話なんですけれども

え~と もう何年か前なんですが

私 ある… 仏教系の新宗教に
講師で招かれた。

その幹部たちに
え~ 実は これから 我が教団は

外国に すごい キリスト教世界に
打って出たいんだと。

ついては
キリスト教について学びたいと。

なので 5回 キリスト教とは何ぞや
という話をしてほしいというので

招かれたんです。
ほんと 驚いたんですね。

いや 逆の立場に立ってみて

これから 仏教の国へ
キリスト教を宣教するから

じゃあ 仏教の そういう専門家を招いて
仏教の僧侶を招いて

仏教を学ぶだけの元気が
日本基督教団にあるかといった場合に

いや 全く そういう機運ないなと
思ったんですよね。

ですから そこまで
実際 足運んでみて その教団に

本当に ちょっと あの
いい意味で怖いって 本当 思いました。

宗教が生きているって。

これ これから 今 大体 70万人
80万人ぐらいの信徒なんだけれども

恐らく 更に伸びるだろうなという
勢いを感じましたね。

ですから そういう
やはり劣化していない 逆の場合には

外に学ぶっていう
そういうことができるんですよ。

余裕… いい意味で余裕ですよね。

そういう
謙虚さと言ってもいいかもしれません。

同じ教団の中で 他宗教に詳しい専門家を
招くというのではなくて

もろ その人を呼んで
学ぼうというところ それが一点ですね。

もう一つは
そのあと調べて 分かったんだけれども

その教団に入るためには その以前に
持ってた宗教を捨てる必要がない。

これは キリスト教では
多分ありえないことで

洗礼を受けるからには 以前の団体とは
縁を切って下さいねっていう

仏教から キリスト教へとか
改心 改宗っていう儀式って

結構 厳格に
まあ 今でもあると思うんだけれども

いやいや そのままで いいですよと。
だから こっちも やって下さいっていう

そういう在り方と それから
脱会の規定が はっきりしてる。

脱会というのかな やめる規定が
はっきりしてるんですね。

我が教団を振り返ってみると
一回 洗礼を受けたら

これ もう一生もので まあ
カトリックも そうだとは思うんですが

取り消しが効かないんですよね
サクラメントというもの。

だけれども やめる場合には どうする
という規定が はっきりしていると。

だから まあ その辺りに
これからの何か新しい宗教の在り方の

つまり 他に学ぶ謙虚さ
それから あれかこれかではない

そういう二者択一を迫らない在り方

そして やめたい場合には やめる手続きが
明示されているっていう

すごく こう それを なかなか
伝統教団でやるのは

もう 長い神学の歴史がありますから
難しいんだけれども

何か ちょっとヒントになるものを
感じましたね。

今回の統一教会の問題は

その宗教集団が
異様な行動をとるということ。

そちらの問題と共に
政治家がですね これでいいのかと。

まあ 前回も
宗教を利用する政治ということが

話題になりましたけれども

そういうことが 政治家にとっては
何ら恥じることではないと。

当然のことでしょうと。

選挙の時に 協力してもらうのは
当たり前のことでしょうと。

こういうふうな
捉え方をしている人が多い。

それについて 有効な反論というのも
すぐに出てこない。

これは どういうことなんだろうかという。

その辺のことについてですね
小原さん 宗教と政治の関係が

相当に いびつになっているということが
あらわになったんじゃないか。

その辺りについて どういうふうに
考えているでしょうかね。

政治と宗教の関係を
まあ まず ここでは日本社会に即して

多分 考えていくことになると思います。

日本はですね まあ その 日本の中で

いわゆる信教の自由というものがですね
議論され始めたのは

明治期
明治になってからなんですけれども

明治の最初に 岩倉使節団などが
こうず~っと ヨーロッパ諸国を回って

アメリカも含めて
回っていくんですよね。

そこで 今後の日本の国づくりに

どこの国が
モデルになるんだろうかということで

ず~っと模索していく中で 最終的に
たどりついたのは ドイツなんですよ。

ですから 大日本帝国憲法なども
ドイツをモデルにしています。

ドイツを見ると 皇帝がいて
それで その皇帝をですね

ドイツですから ルター派教会が
ガチッとですね 下から支えてくれている。

そういうようなですね
いわば その政治体制と宗教界がですね

こう一体となっている。 あっ これは
使えるんではないかということを

岩倉使節団は 感じ取ったわけです。

ですから ドイツにおける
いわゆる政治神学というようなものを

日本に こう移植したのがですね
まあ 移植だけじゃないんですけど

もちろん 天皇を中心とした
国家づくりのためにですね

一つのモデルとなったのが
やっぱり ドイツなんですよね。

そして ちょっと 私たちが
ここで考えるべきことの一つは

国とは何なのか 特に 近代国家は
何なのかっていうことを考える時に

宗教という要素は 絶対抜けないんですよ。

近代国家になって
まず整備されたのは 徴兵制です。

常備軍をですね 作る。

そして 戦争があったらですね
たくさんの若者が死にます。

その若者を弔う国立墓地もですね
やっぱり できてくるんですよ。

そして 墓地を作るだけじゃなくって
追悼の儀礼をします。

国家が 追悼の儀礼をする。

そういう中で 国葬ということも
頻繁に行われるようになりました。

国家のために
命をなげうった英雄に対して

盛大なるですね
儀式を行うことによって

国威高揚っていうことをですね
してきたんですよね。

ですから かつてであれば
弔うっていうですね

これは極めて 宗教的な儀礼です。
これは教会が担っていたんですよ。

しかし それを国家が担うようになって

まさに それが近代国家の形成の中に
組み込まれていったんですよね。

その形態というのは
日本にも引き継がれてきます。

戦後 どうなったかっていうことです。

祭政一致とか 政教一致的な
日本のですね 政教関係っていうものが

一旦 戦争によって 終止符を打たれ

そして 日本国憲法で 二十条で
政教分離っていうことが うたわれました。

ですから 我々は かつての
政教一致から 政教分離へとですね

一夜に移行したみたいな感じで
戦前戦後の断絶っていうものが

非常に大きい変化がですね

非常に 大きいというふうに
感じがちなんですけども

私自身ですね ちょっと 今
こう いろいろ考えていくと

その それほどですね
断絶は大きくなくて

むしろ 連続性の方が
残っているんじゃないかと。

戦前 日本が持っていたものが
今もですね

日本社会に 引き継がれてきているんじゃ
ないかっていうことを

我々は やっぱり考えるべきではないか
っていうことをですね 思います。

今ですね 今っていうか これから
自民党が 憲法改正ということをですね

だんだんと声を上げていくと思いますが

かなり前に もう既に
憲法改正草案を作っています。

二十条を改正しているんですよ。

国家がですね 宗教的な行事
やってはいけないっていうふうに

確かに うたっているんですが
そこに ただし書きが付いていて

ただし この 習俗とかですね
それに関わるものは

その限りではないっていう形で
まあ 例外事項を設けているんですよね。

つまり そういったとこから
透けて見えるのは

宗教と政治っていうのは
結構 あの~ 何て言うかな

うま~く その通じ合うような関係を
残しておきたいっていうようなことです。

そういったものがですね 今に至ってるん
じゃないかなっていう気はしますので

はい そこを やはり我々は
考えるべきじゃないかなと思いますね。

統一教会問題で
政治が 宗教を利用するっていうことの

非常に醜い ひずんだものが
見えてきたんだけど

今のお話を聞くと 実は
近代国家の中にも それが宿っていて

まあ 日本の場合も そういう目で

近代史を見なくちゃならないのかな
というふうなことですが。

あの~ 宗教と政治の関係
まあ 切り離せないっていうのは

全く そのとおりですし

小原さんの お話を受けて
端的にですね その宗教団体が 政治に

戦後 どういうふうに
介入してくるのかっていうことは

私 あの 3つほど類型があると思います。

昭和20年代であればですね
伝統仏教教団とか 新宗教教団が

直接的にですね 宗教的な指導者を
政界に送り込むって

やってたわけですよね。

しかし あまりに少数なんで
会派を結成できないし

質問時間等々を 割り当てられない
っていうことでですね

今度は その自分たちの意をくんでくれる
政治家を支援する

後援するっていう やり方に
切り替えたんですね。

これ 第一の類型で 今も続いております。

第二の類型が その
直接 教団が拡大していけばですね

政治家を まあ 送り込めるだけのですね
そのパワーを持つという

これは あの創価学会 公明党の例です。

統一教会はですね
この2つの類型とは全く違っていて

それほど教団は もう拡張できない
これは まあ 非常に特異な教説とですね

宣教戦略を持ってるから
それは分かっているわけですね。

しかし その政治家の懐に
飛び込みながらですね

ある種 その 隠された形で
権力行為を行うという

こういうことを
まあ やってきたんですね。

ここは その 国民の目にですね

なかなか触れなかったっていう
ところがあって

長らくですね
政治と宗教の問題を考える際に

この第三の類型については
あの 私たちですね

十分 考慮してこなかったんじゃ
ないかなっていうふうに思っております。

あの~ 今 伺った話は

どれも あんまり明るくないなという
感じがするんですけれども

つまり 宗教と政治の関係というのは

結局 政治に従属するしか
道がないのかというと

恐らく 皆さんは そうではないと
考えていらっしゃると思うので。

いいですか?
ええ。

やっぱり その 政治ができることと
宗教ができることというものを

我々やっぱり もう一度 ちゃんと考え直す
必要があるんだと思うんですよね。

やはり 私たちが 宗教が政治化していく
ということの恐ろしさっていうのは

我々 何度か経験した。

あるいはですね
政治が宗教化していく

この恐ろしさというのは 我々は もう
とてつもない形で経験してる。

やっぱり その
ある緊張関係を持つということが

やっぱり 政治と宗教の間に
なくなってしまうと

私たちは とても悲劇的な出来事を

経験することになるんだろうと
思うんですよ。

やっぱり 政治の独特な…
ほんとに政治に託されていること

そして
宗教に託されているということを

政治家は やはり考えてほしいし
宗教者は考えてほしいんですよね。

宗教とは 本当に
やらなきゃいけないことは何なのか。

例えば 私たちは もう
東日本大震災という

とっても大きな危機を
やっぱり我々 経験した。

例えば 政治家はですね
物資を送ることができる。

ですけども 私たちが 誰か ほんとに
苦しんでいる人の心に寄り添うのが

行政の仕事かというと
それはないんですよ。

やっぱり宗教者 我々は ほんとは

苦しい者の心に
寄り添わなきゃいけなかったのに

もしかしたらですよ 我々宗教者もまた
物資を送ったのかもしれない。

そういう 何か もうちょっと
我々は 日常的なところから

宗教者独自の役割というものを
やっぱり考えないと

緊張関係を保つことができない。

政治のパワーというものと
やっぱり その宗教の力というものは

全然 違うんだと思うんですよ。

英語で パワーと フォースと
ストレングスって

何かね 英語では
ちゃんと使い分けてるんですけども

政治のパワーに いろんなものが
のみ込まれてるというのが

今 僕 日本の現状なんだって思うんです。

パワーに あらがうことができるのが

本当は宗教なんじゃないかって。
違う力で。

そこが何か 今 現代の宗教に
逆に見失われているっていう感じが

僕は とても強くするんですよね。

まさに 今 おっしゃったような
それと宗教利用

政治の宗教利用が 重なって
起こってるんじゃないかというふうに。

(釈)そうですよね そう思います。

今回 先ほど
島薗さんが おっしゃったように

応援してくれるなら
当然 応援してもらうよっていう

その程度の見識で
宗教を見てたのかっていうふうに

ちょっと驚きますよね。

政治家の 宗教への
この 認識の緩さといいますか

甘さっていうようなものですね。

もう 真面目な 旧統一教会の信者の
皆さんもね 見てたらいいと思いますね。

あの人たち 全く共感もなければ

自分たちのことを認識もせずに
利用してたわけです。

また 旧統一教会の方だって
利用しようとしてたわけですよね。

もう 保身のために近づいてるとしか
思えないですよね。

また 公明党を応援してる
創価学会の信仰を持ってる方も

自民党に投票する際に あんなふうに
宗教を考えてたんだっていう

どう思ってるのかなというふうに
思うぐらいですよね。

前にも お話ししましたけど

やっぱり 宗教っていうのは
大変 取り扱いの注意案件です。

ですから 宗教に対して 利用するとね
やっぱり どこかに ひずみが生まれ

痛い目に遭い
こう 問題が起こるっていう。

あの~ まあ 利益追求

政治家は 投票で たくさんの票をもらい
選挙活動を有効に行う。

そのために 宗教団体に近づくと。

宗教団体の方は そういうふうにして
政治家の よい覚えを得ればですね

それが いろんな形で自分たちが守られ
信徒を増やすのにも いい効果があると。

両方とも ほんとにね
宗教をなめてるというか 甘く見てる。

宗教がね ほんとに 大きな時計仕掛けの
機械みたいなもんで

一旦 動きだしたらね
止まらないんですから。

そういう危険性というか
危なさ 危うさみたいなものに対して

あまりにも無自覚じゃないか
というふうに思うんです。

ところがですね…
あ どうぞ どうぞ。
簡単にいいですか。

若松さんが言われた
2つのベクトルですね。

宗教の政治化と 政治の宗教化。

それで 政治の宗教化の部分は
非常に あってはならないといいますか

その… バツであるということは
もう全く そのとおりなんだけれども。

宗教の政治化という表現で
言えるのかどうか あれなんですが

宗教が政治に関わる 参与する
適切な しかたっていうのは

やはり あると思うんですね。

今回のことで 何か そこの部分が
すべて駄目であるかのように

ちょっと そういうふうに言ってしまうと
また違うのかな。

つまり 宗教というのは
それなりの世界観と倫理とか

社会改革とか そういう
いろんな理想を持ってるわけですよね。

それを 実際に実現しようと思えば
やはり政治に関わらざるをえないですし

その中で 自分たちの理想を 一番
実現してくれる議員を応援しようとか

まあ それは 適切なしかたであれば

認められるべきだし
当然だと思うんです。

だから今回 何か
いろいろな議論を聞いてると

いや この機会に 創価学会も
ちょっと問わなきゃとか

いろんな 何か声が
キリスト教の内部からも出ているのが

ちょっと危惧を持ってるところが
ございます。

今の とても大事なご指摘だと思うので
ちょっと言葉を整理すると

僕は やっぱり その政局化ということと
政治化ということを

もうちょっと分けた方がいいのかも
しれないんだと思うんですけど

今 現段階で 宗教が
不用意に政治に触れると

政局化してくんだと思うんですね。

政局に 直接的に参与することで

何か 自分たちが実現…
自分たちが やりたいことを

実現できるかのような空想の中に
のみ込まれていくんだと思うんですよ。

政治というものは
別に政治だけじゃなくて

もっと 市民と
もっと我々は ほんとに根深く

日常と 深く
つながり合うこともできるはずだ。

だけども 現代においては
その政局化することに

何か メリットを感じてるというところが
あったんじゃないだろうか。

あるいは…。 政局という言葉が
ちょっと あんまり…。

政局っていうのはですね
政治のパワーです。

政治のパワーの 戦いの中に
入っていっちゃう。

政治というのは 権力を奪取するとか
そういうこととは限らないわけですよね。

もっと 我々の日常世界の中で
いろんなことを是正していったり

変革させていったりというのが
政治なはずなのに

権力を取っていくっていうことが
あたかも 政治であるかのような

それは 政局にほかならない。

だから我々は 何か
政治と政局というものを

やっぱり ちゃんと感じ分けて
やっぱり 宗教が政局と結び付く

あるいは 政局的な動きと結び付く時に
我々の 本来 大事にしてたものが

自分の手から
こぼれ落ちていくっていうことは

やっぱり 考えなきゃいけないな
というふうには思うんですよね。

それから
先ほどは 震災… 東日本大震災の時に

宗教者が どういう働きをしたか
ということなんですが

決して それは利益追求にはならない。

しかし 被災者の痛み
心の痛みに寄り添って

その力になるというふうな形。

私は
宗教者災害支援連絡会というのでですね

そういう活動を つぶさに

たくさんの そういう活動があるんだ
ということを聞いてきました。

そういう面からすると まあ 決して
悲観的にだけは見なくてもいいのかなと。

いいですか 僕 一つだけ。

ちょっと 今の島薗先生のお話を受けて
何か思い出した話があって。

マザー・テレサ いるじゃないですか。

マザー・テレサが
亡くなりそうな人の手を握りながら

いろんな活動をすると。

それを見た ある人が いや あなたたちは
もっと行政に働きかけるべきだって。

行政に働きかければ
もっと大きく広がって

いろんなことが
是正されるんじゃないかと言った時の

マザー・テレサの返答というのが
僕は とっても印象深くて

私たちは 行政サービスの
代行をしてるのではありませんと。

行政が 決して与えることのできない
愛とは何かということが

私たちの問題なんですって
マザー・テレサ 言ってるんですよ。

僕 本当に そうだと思う。

行政サービスができることは
もちろん 行政サービスができる。

だけども宗教者 あるいは 宗教が
本来 担う役割というのがあるんだと。

そこが見えにくくなってるんだと
思うんですね。

そこは やっぱり我々が もう少し
繊細に表現し直さなければならないし

自分たちの やってることを
明確に語っていく。

あるいは 語るというよりも
体現してくということが

とても大事なように思うんですけどね。

宗教の持つ聖なる領域も
少し前にも お話ししたように

社会や日常から離れて
ポコッとあるわけじゃないわけですよね。

だからこそ 宗教は
独自の価値体系を持ちながらも

社会に着席せねばならないっていう
その態度は

やはり 社会問題に対して
関わるというのは

かなり大きな領域として
あると思いますね。

貧困や差別などの問題に
やっぱり 宗教として

社会に着席する際の課題として
取り組み方。

宗教なりのアプローチは
あるんでしょうけども

この点に関しては
社会と共に動くっていうのは

あるいは 場合によっては
政治と共に動くっていうのは

ありうると思いますね。

何か 宗教者が 宗教者でなくては見えない
視座というのがあると思うんですよ。

何か 宗教者の方からじゃないと
見えにくい

現代の 何か
苦しみでも 闇でもいいんですけども

何か そういうことを 宗教者は

もう少し 今 この時代にですね
語り直さなきゃいけなくて

世の中の人には
見えないかもしれないけども

信仰の目を持ってみると
こういう問題が

我々の根底にあるんですということを
もっと宗教者が 今 語る。

じゃないと いろんなものが
やっぱ社会化してく。

社会化するということと
宗教的であるということは

やっぱり 決して同じではない。

とても深く つながってるんだけども
同じではないというのが

釈さんも お話し下さったってことだと
思うんですけども

それを 何か我々 もう少し
表現することにおいても

エネルギーを使っていいのかなって
感じはいたしますね。

これがですね 実は最後の話題に まさに
つながってきているんですけども

宗教の社会性 公共性と
それは また 宗教リテラシーという

何度か話題に出てることとも
関わってます。

まあ 自分は宗教関係ないやと
思ってる人が たくさんいる。

そういう人にとって
この 統一教会の問題は

実は
あなた自身の問題でもありますよと。

そして 宗教について
あなたも 共に考えてほしいですねと

そういうメッセージを
この番組を通してですね

伝えていけたらいいと思うんですが

これについて
ちょっと 櫻井さんの方から

問題提起を お願いしたいと思います。

私 その統一教会関連のですね
いろんな問題に関して

カルト問題の研究者という形で
紹介されてるんですけども

私は 宗教とウェルビーイングの
研究というのをですね

この数年 やってまして。

ウェルビーイングというのは
その 幸せなんですよね。

幸せっていうのは 主観的な
その人なりの幸福感と

あと その幸福感を成立させる
社会的な その条件ですよね。

これが どういうバランスで
成立してるのかっていうことを

私は その社会意識調査を通してですね

まあ 実証的に研究を
この数年間 やっていて

国際調査なんかもですね
やろうとしているんです。

やはり 宗教はですね
個人としての その幸福感

これを支えると同時にですね
その人が幸福になるためには

その周囲の人も
幸福でなきゃいけないんだという

当たり前のことをですね
社会性っていうことで

まあ 教えていると思うんですよね。

このことは その宗教団体が
結局 個人の まあ 覚醒とかですね

解脱にとどまらず
その社会全体を救済してくという

こういう目的を持って
いろんな活動をしてるということに

つながっていきます。

その意味では その宗教団体がですね
公共的な領域に関わる

教育であるとか
まあ 医療であるとか 福祉であるとか

そういった その社会保障的なところが
十分でない時代・地域においては

宗教団体の果たした役割というのは
非常にあったと思うんですね。

これが発達してくると
いわば その宗教がですね

社会福祉の後景に隠れてしまって

あまり
表には出さなくなってくんですけども

今のようにですね まあ 社会保障
あるいは 福祉の財源の問題とか

難しくなってくる時代にはですね

私は 宗教の団体って言いますかね

その力っていうのは まあ 福祉的な資源
多数ある資源の一つとしてですね

表に現れるべき時代に来てるんじゃ
ないのかなっていうふうにも思ってます。

そして 宗教団体のですね
その公共性を

一体 誰が担保していくのか
ということに関しては

もちろん その宗教界
あるいは その団体自身がですね

いろんな意味で 自己批判的にですね
内省していくということが まあ大事です。

それが できない場合には

やはり その宗教研究の
アカデミズムであるとか

あるいは メディア報道であるとか

あるいは その宗教問題が
トラブルを起こした時に

その司法においてですね
裁判官が 適切に判断するっていう

そういう 第三者の視点が
私は必要じゃないかと思うんですね。

その第三者の視点と あと
宗教者が 適切に提供するですね

まあ 分かりやすい語りによって

私は 宗教リテラシーというものが
構築されてくるのではないかと。

これがですね ある程度
まあ 普及していけばですね

私は カルト問題っていうのは

縮小していくんじゃないかなというふうに
まあ 楽観視はしてるんですね。

こういうふうに考えていかないと

私自身 三十数年
この問題 ずっと やってきてですね

死ぬ時まで 何の問題も
解決しなかったというんじゃ

ちょっと 私自身がですね
ちょっと哀れになっちゃうんで。

ということであります。
以上です。

今の櫻井さんの議論にですね 関係づけて
ちょっと ヨーロッパの事例で

宗教リテラシーの視点から
ちょっと 整理し直してみたいんですよ。

フランスは ヨーロッパの中でも

カルトの犠牲者の数が
すごく多かったんです。

だから ああいう反セクト法を
作らざるをえないぐらいまで

追い込まれたんですよね。

他方ですね ドイツは
それほどではなかったんですよ。

どこに差があるかなんです。

フランスの場合には 厳格な政教分離
まあ ライシテと言いますけど

その下にですね 公教育からも
宗教教育を 徹底して排除していきます。

これ 戦後日本と非常に似た状況です。

いわば もう 宗教に対するアンテナが
全然働かないんですよね。

ですから スーッと
何かこう 入り込んできても

それが怪しいものだっていうことに
気付くことができない。

だから 簡単に だまされるんですよ。

他方 ドイツの場合には 基本法によって
宗教教育が命じられていて

かつてはですね カトリックか
プロテスタントか ちゃんと勉強しなさいと。

そのあと
どちらも嫌だという人にはですね

倫理という授業を教えて
最近では イスラムの授業もあります。

そういうことを
きちんと学ぶことによって

やはり その伝統宗教の基本が
まさにリテラシーとして身につくことが

カルト的なものに対する
防波堤になってるんですよ。

ですから もちろん
カルト対策を考えてですね

ドイツは
やったわけじゃないんですけども

結果として フランスとドイツの
犠牲者の数の差として

表れてきてるということを考えれば
櫻井さんが望んだように

宗教リテラシーというものを
ある程度 広げていくことによって

カルト問題は
解決するんではないかということの

一つのですね 事例として
見ることができます。

今回 大変痛ましい 悲しい事件が
きっかけではあったんですが

久しぶりに 宗教を学ぼうという機運が
あるんじゃないかなと思います。

思い返してみますと
90年代の カルト宗教問題続発

その後の 9.11のテロ事件以来かな
というふうに思うんですね。

中央教育審議会でも 公教育でも

宗教を ちゃんと教育して下さいという
答申は 3度ぐらい出てました。

理由は まあ 3つほどあるんですが
1つは やっぱり グローバル化。

我々 あまり なじみのないような
信仰を持った人たちと一緒に

これから
社会を運営していかねばならない。

だから 宗教についての知識は当然必要。

2つ目が カルト宗教問題。

宗教への知識がなく 免疫がない。

マインドコントロールや
勧誘の手法について

全然 知識がないというのは
やっぱり危ない。

3つ目が 宗教っていうのは
人類の知恵の結晶という面があるので

それを学ぼう あるいは 我々の社会とは
また別の価値体系を学ぼうという

まあ 3つぐらいの理由があるんですよね。

結局 何か スキャンダラスな
取り上げ方ばっかりして

今回も終わらないように
これを機に 宗教を学ぶっていう態度と

そして 教育についての議論へと
是非 つながってほしいというふうに

まあ 念願をします。

今まで 戦後の教育から
徹底して 宗教的要素を

アレルギー的に排除するという態度から

少し 宗教について
学ばなければいけないっていう

そういうものへとですね
転換期を迎えたんじゃないか。

これを機に そっちの方向に進むのは
どうかというふうに思います。

私は 20年以上
大学における カルト対策を通して

カルト教団のリーダーとか 信者とか

また 自分自身 宗教者として
教団内に身を置いてきたので

やっぱり リテラシーが本当に必要…
切実に感じるのは 内的な方なんですね。

先ほど 自己反省的内省が
必要だということは

まあ そのとおりなんだけれども

じゃあ それは具体的に
どうすることなのかっていうことを…。

私は まあ 3つぐらいあるんですが

1つは これ 先ほど
前のターンで言ったことなんですけど

宗教は やめられるんだっていうことを。

外の人は もう普通に
そんなの やめちゃえばって。

だけど 内部にいる人が
特に宗教指導者が

「もう この教会にはいたくない」と
言った時に 後追いしないで

すっぱり
一つの手続きを踏んで脱会 やめる

そういうプロセスを示せるかどうか。

それと 極めて強く
リンクしてるんだけれども

自分の宗教と 他の宗教の関係を
どう考えるかっていうことなんですね。

今 一番 宗教者の間で
とられてる立場は 包括主義的な立場。

ジョン・ヒックという
20世紀後半の宗教哲学者が

他の宗教に対して
どういう在り方があるかと

3類型 示して
排他主義 包括主義 多元主義と。

排他主義というのは自分たちだけが正しい
真理だという立場ですね。

包括主義というのは いや 他の宗教も
真理の断片は持っているけれども

自分たちの宗教こそが
究極の真理を持っているという。

それに対して 多元主義というのは
対等に すべてを等しく認めていくと。

ここが駄目なら
こっちでもいいよっていうことを

宗教者自身が言えるだけの
まあ 寛容さというか

そういう 神学を持てるかどうか
ということですね。

3番目は 宗教者ではなくて

やはり 宗教研究者の
宗教リテラシーの問題があると思います。

結局 まあ オウムの時もそうだし

今度の場合はどうか
また あれだけれども

宗教学者が
本当に批判的に 宗教を見れるために

その宗教が どういう時に
問題なのかっていう辺りを

やはり 学問として
方法論としてね 持っていく。

やっぱり宗教っていうのは 時に病む。

それを やはり アカデミックに
突き詰めていく方法論というものを

確立することが
まあ 宗教のアカデミー

宗教研究における一つのリテラシーとして
求められてるのかなと思っております。

僕は 宗教が
今 人々に向かって 語るべきことって

僕は 2つあると思っていて。

一つはですね やっぱり その尊さ。

人間の存在というものは 限りなく尊い。

それは
あなただけではなくて 横にいる人も。

あなたが 自分に敵対すると思ってる
人の中にも尊さがあるというのを

僕は 宗教は もう一度 語り直すべきだ。

今の 何か私たちが 今日 ずっと
考えてきた問題の根底にあるのは

私にだけ尊さがあるみたいな

あなたにだけ尊さがあるっていうような
言説がある時に あ そうかって。

自分だけにある 何か特別なものを
発見したいっていうことになってくると

我々は
とっても大きな迷いの中に入っていく。

ですんで その尊さというのが
万人に与えられていて

たとえ あなたと
意見を異にする人の中にも

その尊さがあるんだということを
やっぱり 照らし出していくのが

宗教だっていうふうに思うんですよね。

あと もう一つは
等しさって問題なんですけど。

私たちは
その世の中で 優れるということを

優れていくということが
何か 求められてるんだと思うんです。

学校なんかでは
成績優秀なのが すばらしいことで

何か 業績をもたらすことは
すばらしいことだ。

それはそれで いいんです。
それは社会的には それでいい。

だけど 宗教の現場というのは

いかにして 等しさということを
探究していくのか どこまでも。

人々というのは
秀でる秀でないよりも

もっと根底において 等しいとこに
立ちうるんだということを

やっぱり 宗教は語り続けていく
必要があるんだろうと思うんですよね。

その尊さと等しさっていうことが
何か まあ現代では

ちょっと見つけづらくなっていると
思いますし。

僕 明るさっていう問題はですね

何か 作り出していくっていうよりも

もともと あるものを
発見していくということに

つながってくるんだと思うんですよ。

だから 何か 無いものを作り出す
なんてことではなくて

人間の尊さというのは
我々の中に もともと あるし

人間の等しさってことは
もともと あるんだっていうのが

さっき申し上げた 宗教者だけが語りうる
地平なんだと思うんです。

ですので そこを何か
もう少し 力を込めてですね

さまざまな形で表現できていくといいかな
と思ったりはしています。 はい。

いずれにしても これから 我々の社会は
外国の方を 大幅に受け入れるという

そういう方針が進められるのは
どうも間違いありませんので。

あまり なじみのない信仰が
身近になってくる その人たちと一緒に

社会を運営していかなきゃいけないと
考えますと

宗教について学んだり
考えたりするというのは

もう ほんとに喫緊の課題というか
避けて通れない問題ですよね。

あと 今の宗教リテラシーの
問題なんですけどね

リテラシーというのが
何か もしかしたら テレビ ご覧の方に

少し 捉えづらいんじゃないかなと
思うんですけども。

こと
宗教リテラシーと言う時においては

何か やっぱり我々は
その非言語的文脈みたいなものを

やっぱり
くみ取っていく必要があるというのは

今の釈さんのお話で言うと

異なる文化の人たちが
明言しえない形で重んじているものを

我々が
理解しなくても 重んじるということが

大事なんだと思うんですよ。

理解しないと重んじられないんじゃなくて
理解する前に重んじるということが

やっぱり 宗教リテラシーという意味では
とっても大事だ。

だから 何か 理解を前提に
重んじていく以前に

重んじることを やっぱりですね
真ん中に置いた

宗教リテラシーというのがあるといいなと
思ったりするんですよね。

ちょっと その関係でいいですか はい。
今の点がですね

恐らく 日本の まさに未来に
つながっていくべきだと思うんですよ。

つまり 私たちは 理解したから

もちろん 尊ぶっていうこともね
できるかもしれませんけども。

宗教リテラシーの
やっぱり 勘どころというのはね

何か すべての宗教の知識を
マスターするということではなくって

その人が尊んでるものを
自分自身も尊ぶことができますと。

分からないけれども 私は尊びますよ
というところまで到達できれば

とりあえず それ
目的を果たしてると思うんですよ。

ですから 学者が研究するようにね
宗教の経典とかですね

歴史や 細部にわたって勉強することが
必要ではなくって

やはり 今 自分が隣にいる人

その人は
遠い外国から来たかもしれないけども

今 一緒に住んでいる 生きている
隣にいる人の尊んでるものを

私も尊ぶことができますよ
というですね

そういう やっぱり境地に
達することができるような

宗教リテラシーということを
きちんと 底上げすることができれば

これは 日本の まさに
その民主主義のですね

やはり 豊かさに
つながっていくと思うんですよね。

(釈)おっしゃるように その知識があれば
尊重できるものではなくて

知識があるからこそできる虐待だって
たくさんあるわけですよね。

どこまで… どこまで敬意を表し
受け入れて どこで折り合いをつけるか。

すべてを
お互いに受け入れることはできない。

先ほど 話があったように
理解できない領域というのは 必ず

共感できない領域だって生まれる。

どうやって 社会を一緒に運営するか
押したり引いたりするかっていうのは

ある意味 センスの問題というか。

成熟した宗教性みたいなものによって
公式ないわけですから。

ここまでは OKみたいな法則はないので
宗教についての こう 感性みたいな

成熟っていうのは
きっと課題になってくるんじゃないか。

哲学者の井筒俊彦が
興味深いことを言っていて

20世紀っていうのは
確かに 宗教の対話の時代だったと。

だけども 我々は 対話のかなたに

果たして 何かを
見いだしてこれたのかってことを

真剣に問い直さなきゃならないとこに
立ってると。

宗教という問題は もしかしたら
対話のかなたというよりも

かなたでの対話なんじゃないかって
言うんですよ。

かなたでの対話というと
抽象的に聞こえるかもしれないけど

それは やはり 沈黙ということを
一回 考えてみることなんだ。

その 語られざる何かということを
真剣に捉え直してみることを

我々は 言葉の中で忘れたんじゃないか
ということを 彼が言ってるんですけど

それはね ちょっと 痛いとこ突かれたな
という感じはしますよね。

何しろ 対話というのは
ほんとに むなしいと言いますか。
ええ。

誰もが できるものでありながら
成果が生まれないっていうような

宗教間対話って
そういうものなんですよ。

すご~く むなしいことですね。

でも それでも それしか道がないという
そういう性質のものですよね。

これから 3時間ぐらい
やりたいところなんですけれども

まあ そろそろ時間も来るので

ちょっと 私なりのまとめを
ちょっと言いたいと思うんですけどもね。

先ほど 人の尊さとか
人の等しさということを

まず 学ぶべきじゃないかということを
若松さんが おっしゃったんですね。

これを日本人に聞いたら
学校で どこで学んでますかと言ったら

道徳・倫理だと言うと思うんですね。

じゃあ 何で日本は
道徳と倫理の教育をしてるんですかと。

そこに宗教も入ってるけれども

それは 基本は道徳・倫理だと思ってる
ということなんですよね。

これは あの~
戦前の修身からきてるんですね。 ええ。

というのが 今 私の理解です。

ということは じゃあ なぜ修身が

人の生き方に関わる
科目になったかというと

これは 日本の宗教史と
深く関わってるわけですね。

だから 日本人が無宗教という場合は
いつの間にか そういう

文明の自己理解が入っていたりする
というようなこともあるわけですよね。

ということは そういう今 見てきたような
歴史的な 私たちの自己理解。

まあ 宗教という他者理解も
非常に大事なんだけれども

自己理解を深める これが やはり
かなり重要じゃないかと思うんですね。

非常に重い問題を この2回にわたって
議論してきましたけれども

視聴者の皆さんにもですね
この問いを共有して頂いて

更に さまざまな場所で

また 深めていくことができればな
というふうに思います。

どうも 皆さん ありがとうございました。

(一同)ありがとうございました。

♬~

♬~

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