ファミリーヒストリー西川貴教~エンターテイナーの原点 故郷への思いを引き継ぐ[解][字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

ファミリーヒストリー西川貴教~エンターテイナーの原点 故郷への思いを引き継ぐ[解][字]

西川貴教のバイタリティーと地元愛は先祖譲り!曽祖父は芝居や映画の興行で人々を楽しませたエンターテイナー。祖父と父は地域に尽くした公務員。父の大けがと苦悩知り涙。

番組内容
ミュージシャンや俳優など多彩な活躍を続ける西川貴教。地元滋賀でロックフェスティバルも主催。バイタリティーと郷土愛の原点は?曽祖父は私財を投じて芝居や映画の興行に奔走。人を楽しませるのが大好きだった。父方祖父は公務員として、母方祖父は警察官として地域に貢献。父は高校時代に大けが。後遺症に苦しみ死を意識した時期もあった。初めて知った貴教は涙。T.M.Revolutionとしてブレイクするまでの秘話も。
出演者
【ゲスト】西川貴教,【司会】今田耕司,浅野里香,【語り】余貴美子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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  20. 西川家

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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今日のゲストは この人。

先月 地元 滋賀県で 西日本最大級の
ロックフェスティバルを主催。

2日間で 6万人を動員しました。

♬~

デビューは 26年前。

T.M.Revolutionとして ミリオンセラーも
記録します。

♬~

その後 子ども番組の人気キャラクター。

筋肉を鍛える体操の
デモンストレーション。

さあ やるで!

俳優として
連続テレビ小説にも出演。

多彩な活躍を見せる
西川さん。

バイタリティーの
ルーツに迫ります。

今日のゲストは 西川貴教さんです。
どうぞ!

どうぞ!
(拍手)

よろしくお願いします。
よろしくお願いします。

いや~ さあ
「ファミリーヒストリー」。 緊張してます。

ねえ 違う緊張感が…。
はい。

いや でも 西川君のイメージって言うたら
アーティストっていう面はね もちろん

役者さんやって…。 で やっぱ
何と言っても あのロックフェスティバル。

もう来年で 15年になります。
15年になるっていう。 はい。

で 現在 滋賀県の知事もされてて…。
(笑い声)

そうですね あの…。
いやいや 「そうですね」じゃないでしょ

否定しないと。
すいません。

さあ今日は この バイタリティーの秘密なんかを
もしかしたら分かるかもしれません。

しっかり受け止めて帰りたいと思います。
よろしくお願いします。

♬~

昭和45年

西川家の長男として生まれた貴教さん。

父は県の職員 母は歯科衛生士でした。

貴教さんの期待に応えるべく取材を開始。
すいません もう。

すると母方の祖母が
出た 中川家に

面白い人物がいた
という情報を

つかみました。

中川家の戸籍にある住所
福井県三方郡十村。

現在の若狭町を訪ねます。

(取材者)ごめんくださ~い。
はいは~い。

この家に長男として生まれ育った…

お元気そう!
面白い先祖として紹介してくれたのは…。

祖父の捨蔵おじいさんが
こちらでございます。 (取材者)はい。

はい。 これが
捨蔵おじいさんで…。

中川捨蔵は 光宏さんの祖父。

はいはい。

(一同)
へ~!

明治二十二年に

中川家の4番目の
子どもとして
生まれた捨蔵は

幼い頃に
でっち奉公に
出されます。

場所は 京都の菓子屋。

芝居や伝統芸能 更に映画も芽吹いた街で
成長していきました。

わあ…。
昔の京都。 へ~!

その後 地元の福井県若狭町に戻った捨蔵。

でっち奉公の経験を生かし
あめや和菓子を作って売り始めます。

23歳の時には 幼なじみの…

みつの生前の貴重な映像を孫の光宏さんが
見せてくれました。 (2人)映像!

これ。 これなんですがね。

これ みつおばあちゃんの
私が VHSのカメラで撮影した 1980年の…。

「畑草取り ロングインタビュー」って
どういう意味…。

(光宏)これが みつおばあちゃん。

(取材者)みつおばあちゃん。
(光宏)はい。

当時 みつは
89歳。

元気…。
元気でした。

捨蔵と結婚し

菓子作りに精を出していた頃のことを
語っています。

これは 昭和9年の
全国の商工業者の名簿。

捨蔵の店も
掲載されています。

このころには
和菓子に加え

洋菓子も
製造するなど

商売を
広げていました。

その利益を元手に 捨蔵は意外な行動に
出ます。

ここが 捨蔵さんの 土地でして…

(浅野)ここに?
(一同)え~?

私財を投じて 町の人からも出資を募り
公会堂を建てたのです。 おお!

その目的は 旅芸人を呼び
芝居や漫才などの興行をすることでした。

かつて京都で暮らした捨蔵の大胆な発想。

娯楽の少なかった町では
大人気となります。

芝居の興行には 家族も巻き込まれました。

旅芸人を呼ぶのに出費がかさむうえ
到着すると寝食の世話もあったからです。

大体は 数名から10名以内でしょうね。

うちで一緒に寝泊まりするんですからね。
で 同じ お風呂 入るんですからね。

へ~!
ハハハハ!

捨蔵の興行を支えた菓子。

その一つが 今も受け継がれています。

(取材者)あ お邪魔します。

捨蔵の孫と結婚。

ここで 昔ながらの あめを
作っています。 へ~!

(取材者)ずっと代々
お菓子 作ってらっしゃる? そうですね。

へ~ 同じ あめ?

近くの神社で 一年中 売られていると聞き
訪ねてみました。

これが その あめで
ございます。

健康や また子どもが無事成長するように
願って 古くから伝わっておりまして…。

これ そうやったんや。
うちにありました!

長く親しまれてきたのも うなずける
自然な甘さです。

昭和20年代後半

朝鮮戦争の特需などもあり 日本は
復興から成長の時代へと向かいます。

戦中から厳しい状況が続いた捨蔵の商売も
上向きました。

このころは 神社の下に店を出し
あめや まんじゅうを販売。

さっきの あめですよね。
あめやね さっきの。 はい。

すると捨蔵は 再び
店をみつに任せ

公会堂で映画の
興行を始めます。

このころ 三船敏郎などのスターが登場。

「君の名は」などのヒット作も生まれ
日本映画が盛り上がりを見せていました。

うわ すごい時代や。

近所に住む
塚原利夫さんは

子どもの頃 映画の上映会を
よく のぞきに行きました。

にぎわいぶりを見た捨蔵は
更なる行動を起こします。

当時 記者に取材され
新聞記事にまでなっていました。

ちょっともう何してんのよ。
すご~い。

はい。
ええと こちらの記事ということで…

「二日に発起人打合せ」というふうな
見出しが出ておりまして…。

捨蔵は
発起人の一人となって

上中駅前に 新しい映画館を
造ろうとしていたのです。

当時で 資本金250万円。

その計画は 数年後に何とか実現。

え~!

ごめんください。
≪は~い。

すみません 突然。
あの~…。 はい どうも。

この辺に 映画館があったって
話を聞いてきたんですけども…。 ああ…。

あの~ 向こうにあったんですけど…。

あの 上中ガスさんありますね
その向こうに映画館あったんです。

(取材者)向こうに?
(澤本)はい。

映画館を写した写真が残っていました。

はい これなんですけど。 (取材者)
これが…。

これのどれが映画館ですか?
え これが。

あ それが そうなんですね。
へ~!

この一軒家のような建物が映画館。
あ ほんまや ポスター貼るところある!

一度に多くの人数が入らないため

採算は厳しかったといいます。

一方 併設した中川商店の方は

インスタント食品や雑貨も置き
にぎわっていました。 へ~!

祖父に 火の車だと
聞かされながら

25km離れた敦賀の配給会社に
何度もフィルムを借りに行きました。

へ~。
火の車…。

捨蔵は なぜ それほどの情熱を
傾けたのか。

捨蔵の思いは
地域の人たちに届いていました。

私が見たのは
ほとんど東映の映画でしたよね。

おばあちゃん そういうの好きで
一緒に行きました。

「この前に映画館があって懐かしいな」とか
言うて。 「よう来たな」とか言うて。

へ~!

生っ粋の「エンターテイナー」だった捨蔵。

晩年 こんなことを語っていたといいます。

ハハハ…!
ほんまかいな!

その夢は 図らずも ひ孫の貴教が
かなえることになるのです。

うそ~!
かなってる! フフッ。

え~ いかがでしたか? え~!
あら! ありましたね ルーツ。

やってること一緒っすね。
ねえ。 うそ~!

ロックフェスティバルが… 芝居と映画。
いやいや。 はい。 一緒っすね。

一緒や。 やってること。
捨蔵さん。

でも やっぱ町の人は
あの 映画館が1軒あるかないかで

全然 楽しみがちゃうかったみたいですね。
ねえ。

皆さん やっぱり よく行ってたっていう。
何か 思い出の中に そういう こう

うちの親戚が
皆さんのこう 町の皆さんの親戚として

何か 認めて頂いてる感じが すごいして
すごい うれしかったです。

でも最後に 有名人 歌手を

身内から エンターテイナー出したいな
っていう夢があったんですよ。 え~!

早急に福井に行きます。
(笑い声)

福井でもフェスが…。
いや 何かね

「これ やらなあかんわ」と思って
すごい 使命感出ました 何か すごい…。

続いて取材班が向かったのは…

あ~ おやじの方ですね。
父方 西川家のルーツをたどります。

古い戸籍にある 曽祖父
西川藤二郎の住所を訪ねました。

あ~ 変わってないっすわ。
本家です。
ごめんください。

本家。
はい。

現在 本家を守っているのは 貴教の伯父。

裕治さん どうも。

西川家は
代々この地を受け継いできたといいます。

まあ 農家であっただろう
というように思いますね。

藤二郎… 農業は やってました。

田んぼやら畑に使った くわとかね
そういったものは ありましたのでね。

先祖たちは
どのような暮らしぶりだったのか。

それが うかがい知れる古い資料が
公文書館に残されていました。

こちらが今回 ご提供さして頂く
資料群になってまいります。

これは 明治42年に
発生した

姉川地震の資料。
ふ~ん。

滋賀県と岐阜県に大きな被害が出ました。

こちらに 湯田村の半壊者の一覧に
なってまいります。

これは 西川藤二郎の
住宅が

半壊した
という記録。

上の数字は 納税額を表す等級です。

金額が最も多い順に
一から十八まであり

西川家は 十六でした。

平均が十二なので それよりかは
少し下がっておりますので

つつましい暮らしぶりであったのでは
ないかと いえるのではないかと思います。

姉川地震の前年に
生まれていたのが…

地震後の
厳しい暮らしの中で育った兵吉は

二十歳の時に両親を亡くし

家と田畑を受け継ぎます。

その後 隣村の たかをと結婚。

夫婦で懸命に働きますが

なかなか暮らしは変わりませんでした。

そこで…。

まあ
農業にプラスして 何かっていうことでね。

ちょうど
あの

郵便の配達をね してましたんでしょう。

冬は雪も降るため 重労働。 そうか。
それでも兵吉は 収入のために必死でした。

昔の郵便配達だ。

更に大阪に単身赴任し 警察官として
働いた時期もあるといいます。

いや 知らなかったですね。 へ~。

たかをは地域の人に手伝ってもらいながら
必死で田畑を守りました。

その後 兵吉は
30代前半に 地元の湯田村役場に転職。

公衆衛生や税務を担当します。

自身が苦労した分

住民の暮らしを
良くしようと

努力する人だった
といいます。

一生懸命 真面目な方ですので

あの~ 人がワーワー騒いどっても
そこは加わらずに

もういつも仕事 黙々としておられました。

非常に 西川さん 温厚な人でね

自分で もう体を動かして
あの~ こつこつ仕事をしておられました。

公務員との兼業農家で
ようやく暮らしが安定した西川家。

そんな中
昭和21年に

次男として
誕生したのが 康宏。

今回 康宏が 20代の頃に書いた
手記が見つかりました。

少年時代を こう振り返っています。

ところが 高校2年生に
なった ある日

大事件が起きます。

校庭で草むしりをしていた康宏の頭に

誰かが いたずらで投げた石が
当たってしまったのです。

貴教の父
康宏さん本人に 当時のことを聞きました。

おやじっす。
あら お父さん。

そんなことあったの。

入院は2か月に及び
康宏は留年。

更に苦しい出来事が
重なります。

え~。

家計のことも考えた康宏は浪人はせず

地元の工業系の
短大に入学します。

卒業後の職場を案内してくれたのは…

ここは あの 昔 康宏さんと私が勤めてた
今 あの 名前は変わってんですけどね。

康宏は 滋賀県の職員となり
現在の工業技術センターに勤務しました。

職員の使命は

機械金属の性質や加工技術を研究開発して
中小企業を支えること。

苦労人の康宏は いつも親身だったと
いいます。

機械と金属関係…
ですから

そういうものを
強くして

事故が起こらない
ようにとか。

そういうことを 企業の皆さんの
指導に当たるいうか 支援するとか。

更に康宏は
中山さんに誘われ

プライベートでの
楽しみもできます。

職場の垣根を越えて楽しむ
サークル活動です。

季節ごとのキャンプとか登山会とかね
そういうのやったり

他には レコード鑑賞とかね 彼とは
よくマージャンなんかもしましたですよ。

間もなく
一人の女性が

サークルに
加わります。

気遣いのできる
女性でした。

互いにひかれ つきあうようになった2人。

そのころ
康宏は こんな一文を残していました。

交際を始めて
半年後の昭和44年11月に

2人は結婚。

その1年後に
長男 貴教が誕生するのです。

さあ いかがでしたでしょうか?

いや そうっすね…。

お父さんの方のね…。

あの…
あ~。

もう何にも話さない人だったので 父親が。

いまだに
自分の仕事のことも 過去のことも

全く
ほんとに家族に言わない人だったので

そんな大けがしてたことも

僕ら 知りませんでした。
頭の 石のけが。 はい。

ご存じなかった。

四大に いわゆる
4年制の大学に行かなかったのは

その 何か 「受験の時に おなか
壊したからだ」なんて言ってたんですよ。

血圧が高すぎて…。
そうですね。

勉強が やっぱ集中できなかったっていう
話には しなかったんですね。

何か 今
初めて知って 何か… あの… う~ん…

何か
もっと優しく接してあげられたのに

何か そういう こう…。

そんなことが
あったって…。 ねえ 何かね。

くそ~っていう 何か ほんとに う~ん…。

貴教の母 一子は 後に
県の歯科衛生士会の理事になるなど

仕事ができる女性でした。

康宏も 公務員の仕事に まい進。

夫婦は 子供たちの世話を
一子の実家に頼ります。

一子の父は立井一嚴
母は スミ子。

ちなみに
スミ子は

映画の興行に
奔走した

中川捨蔵の娘です。

立井家に通ううち 貴教は

特に
祖父 一嚴を慕うようになります。

いや~ もう
じいちゃんとは 思い出しかないですね。

もう僕の
本当に 最初の頃の いろんな考え方や

ほとんど全てを
作ってくれた人だと思います。 はい。

貴教の土台を作ったという祖父は
どんな人物だったのか。

…を訪ねました。

仁子さんは まず 一嚴の父で
貴教の曽祖父となる

信蔵のことを教えてくれました。

西川さんの
あの大きな すかっと通る声ですね。

おじいさんが そうでした。
へ~!

どんと通る あの
スポーンとした声なんです。

「あ 貴教君の あの声は立井の声だな」
って 自分は そう思った。

炭焼きや農業などで生計を立てた
信蔵は 歌や演劇が大好きでした。

そんな
立井家に 三男として生まれたのが

祖父 一嚴。

尋常小学校を出ると 名古屋と尼崎の
繊維関係の工場で働きました。

そして昭和12年
17歳の時に日本統治下の台湾に渡ります。

一嚴を呼び寄せたのは 12歳上の兄 歳雄。

台湾に鉄道網を造る機関で
働いていました。

一嚴は 兄の口利きで
鉄道関連の下働きを始めます。

夜間は 付属の講習所で

一般教養や専門知識を
学んだのです。

台湾の歴史に詳しい
松葉 隼さんです。

この学校で勉強させることによって

将来性が広がるというのが
大きかったと思いますし

やっぱり勉強して
もっと上に… 上の

いろんな仕事に就ける
ような知識っていうのを

身につけなければいけないんだ
ということを感じられたんだろうな。

昭和17年 一嚴は 母 はるの
危篤の知らせを受けて 一旦 帰郷。

すると 戦況悪化のため台湾には戻れず
地元の工場に就職します。

ここで出会ったのが 中川スミ子。
後の貴教の祖母でした。

昭和23年
長女の一子が誕生。

しかし勤め先の経営が
悪化します。

家族のため
仕事を探す一嚴の様子を

めいの仁子さんは 伝え聞いています。

やっぱり家族 子供もいて妻もいたら

家族が確実に暮らしていけるような
堅実な職業に就いておくのがいい。

それで 滋賀県警の警察官募集を見て

滋賀県警の募集に応じて合格して。

台湾で 学歴をつけておいて
よかったねって言って。

へ~!
う~ん。

一嚴は どんな警察官だったのか?
滋賀県警を訪ねます。 うわ~。

貴重な資料が残っていました。

こちらになります。
これは 滋賀県警察の機関誌になります。

こちらに
立井一嚴さんの文章が載っています。

一嚴は
市民たちが

警察を
敬遠する風潮に

危機感を
感じていました。

「警察官の努力が
たらないためだと

深く反省する」。

昭和20年代っていうのは
非常に治安が悪い時代で

あの~…。
せやろうなぁ。

警察官自身が襲われるような事案も
結構 起きていましたから

その時に
権力を ある程度 力を振るわなければ

それは いけない場面 多々あったことは

これは間違いないんです。

職務執行において大変難しい時代だったな
というふうに思います。

これは 滋賀県警から聞き取った
一嚴の仕事の取材メモです。

犯罪捜査だけでなく

住民に溶け込み 生活を守ろうとした一嚴。

一躍 人気者になりました。

周りの人も やっぱり 何か…
警ら中ですよ。

警ら中なのに あの~
「立井さん飲んでって」みたいな。

絶対 今 駄目だけど。

でも 剣道の腕も
確かだったし

手先が
すごい器用で

よく夏休みの宿題とか手伝ってもらって。

子どもから見たら
憧れることばっかだったんですよ。

一嚴に褒められようと
習い事や勉強を頑張った貴教。

週末 泊まりに行くのが
何よりの楽しみでした。

ところが 昭和56年。

61歳だった
一嚴が

がんのため
他界します。

貴教は当時11歳。 ショックで しばらくは
何をする気力も湧きませんでした。

部屋で ラジオを聴いて
過ごすようになった貴教。

その時 流れてきたロックミュージックに
心をひかれます。

すると自然と 同じ趣味の仲間とつながり
中学 高校と バンド活動に熱中。

もう西川君や。
はい。

当時のメンバーの一人…

華奢な 風貌からは想像できないような
まあまあ 言うたら声量というか

パワフルな 歌声に 衝撃を受けて。

群をね 周りの人らとは ちょっと こう
違うような 群を抜いてたというか。 はい。

人に褒められる感覚っていうのは
じいちゃん以来だったんですよ。

しばらくぶり。 …っていうので
何かテンション上がっちゃって

もう がっつりバンドに
のめり込んでいったって感じでした。

高校2年の時 中退してミュージシャンを
目指したいと両親に告げた貴教。

反対され 父と激しく衝突。

実は以前から
親子の間に距離が生じていたのです。

康宏は 地域のための仕事に没頭し
帰宅が遅くなる毎日。

家でも資格を取るため勉強し
会話は少なかったといいます。 なるほど!

家族に見せてくれる顔は
いつも しかめっ面してて 難しい顔して。

うん… 趣味があるわけでもなく。

何すれば機嫌がよくなるのか分かんない。

決裂したまま大阪へ飛び出した貴教。

アルバイトで食いつなぎながら
プロを目指すも

なかなか芽は出ませんでした。

当時 母の一子は
どんな思いで息子を見ていたのか。

知り合いの2人が聞いていました。

最初の方はね
ちょっと心配されてたんですけれども

バンドを組まれたぐらいからは
もう すごく地道に応援して

他の人たちが
ちょっと反対とかしてる中でも。

貴教への姿勢をめぐって
ずれが生じた父と母。

夫婦の間にも溝ができ
ぎくしゃくする日が続いたのです。

そんな中 家を出てから8年後に
大きな転機が訪れます。

T.M.Revolutionとしての
ソロでの活動を開始。

♬~

「WHITE BREATH」は
ミリオンセラーの大ヒットとなり

「紅白歌合戦」にも出場しました。

会場に招かれ
2人そろって観覧した康宏と一子。

3人が家族として再生していく
一つのきっかけとなったのです。

う~ん。
危ないとこや 「紅白」出なぁ。 ハハハ!

じゃあ お父さんと お母さんが
進路について

お母さんは応援する でも
お父さんは大反対っていうところで

関係が ぎくしゃくしてたっていうのは
ご存じでした?

はい。 で その後
ほんとに お恥ずかしい話ですけど

しばらく別居もしてたみたいです。 はい。

でも そのあとに ブレークして。

やっと 何か
安心して見てもらえるように。

「紅白」に 2人 招待して。
そうですね~。

どうでした? その時のご両親は。

何か 気恥ずかしそうでした。
何か 夫婦で 2人で。

で そのあと 都内のホテルに
2人を泊めてたので

で 珍しく 正月 3人で ホテルで
おせちを食べたりとかして 過ごせて。

ほんとに その時に撮った母親の写真が
今の母親の遺影になってます。

西川貴教さんが主催する
ロックフェスティバルは 今年で14回目。

今や滋賀を盛り上げる名物です。

始まったのは 意外なきっかけからでした。

平成20年
母 一子さんに

進行性の
脳疾患が発覚。

地元に仕事があれば
帰って顔を見せられると思ったのです。

毎回 2人そろって見に来た父と母。
夫婦の距離は 元に戻っていきました。

そして平成29年

一子さんは 69歳の
生涯を閉じます。

歯科衛生士として交流があった
井上さんには

忘れられない 一子さんの姿が
あるといいます。

研修会の講師に
有名な先生方 いろいろ来て頂いて。

「滋賀県といえば」といったら
普通は 食べ物で 「ふなずし」とか

「琵琶湖」とか言われるんですけど
「滋賀県といえば

西川貴教 T.M.Revolutionだね」
っていうふうに こう言われて

すごく西川さんが 「ワー」って
喜んでおられたのを 覚えてます。

ロックフェスティバルを続け

地元との接点が
増えることで

貴教さんにも
思わぬ変化が起きました。

ずっと距離を感じていた
父への気持ちです。

父と一緒に仕事して頂いた方とか

「お父さんに
お世話になりました」とかって

言って下さる方が
結構いらっしゃるんですよ。

「何だよ
慕われてんじゃんかよ」って思って。

結局 父は う~ん… いい意味で

自分や家族を犠牲にしてでも 人のために
動く人だったと思うんですよね。

ないです。 うん…
今も認めてないんじゃないかな。

父の本心は どうなのか?

訪ねたのは…

貴教さんのデビュー前

初対面の康宏さんから
ある頼まれごとをされました。

実は息子が歌手やってるんだと。

御社でイベントで何か使えるようなことが
あったら 使たってぇなと

言わはったことが
あの~ 初めて会話をしたことですね。

へ~。

康宏さんにも 息子への本心を聞きました。

分かってますよ。

祖父の西川兵吉も 父 康宏さんも
苦労して安定した暮らしを手にしました。

そうやな。

その尊さが身にしみている故に
息子の行動に反対したのです。

しかし今は…。

地域のために働き続けた康宏さん。

その思いは
しっかりと息子に引き継がれています。

♬~

西川貴教さんの「ファミリーヒストリー」。

地元への愛を心に秘め 未来を
切り開いてきた家族の姿がありました。

こう… 思ってたよりも
こんなに たくさんのドラマが

こんな近くにあったんだなっていう。

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