映画「アンナプルナ南壁 7400mの男たち」を見た

2008年5月、ヒマラヤのアンナプルナ南壁に挑んでいたスペインの登山家が高山病をわずらってしまう。危機的な状況に同行者が「SOS」を発した。 
その緊急連絡に、世界10カ国12名の登山家たちが急遽集まり、彼らの救出に向かった。 
アンナプルナは救援する者たちにとっても、死と隣り合わせの場所であった。 
映画は救出劇の顛末と、それから数年後、救出に参加した12名の登山家が当時を振り返るモノローグで綴られていた。 
救出劇からは時間が経っている頃に撮影がなされている。 
そのため登山家たちの言葉には気負いがない。 
彼らの淡々と語る言葉が身にしみる。 
「僕は英雄なんかじゃない。友人と一緒にいただけだ。そうしない奴がいたら最低だと思う」 
「登山などバカげていると人は言う。山で誰かが命を落とすときその声は大きくなる。だが山に登るのは死ぬためじゃない。
今こうして生きていることを噛みしめるためだ・・・」 
軟弱ながら、今でも山歩きをしている身としては、さまざまな思いを駆り立てる映画だった。 
7,400mであろうが、たとえば高尾山のような1,000mにも満たない低山であろうが、山に足を踏み入れるということは、生死の境界線に我が身を置くことと同義であることを、肝に銘じた。 
そして、本作を見ながら、御嶽山の悲劇が否応なしに脳裏をよぎる。 
先週末、台風のためにあえなく撤退となってしまったが、友人たちと蓼科山を目指した。 
道中、どうしても話題が御嶽山になった。 
「スケジュール調整の結果、山行日が1週間早まり、蓼科山でなく『御嶽山へ行こう!』と言い出していたら、きっと噴火の日に御嶽山へ行っていたはずだ」誰かがぼそりとつぶやいたひと言に、全員が無言でうなずくしかなかった。 
生と死とは、いつも紙一重なのだ。 
御嶽山の犠牲者のひとりに、私の地元である愛知県在住の11歳になる少女がいた。 
彼女は噴火の直前、同行の女子高生と並んで楽しそうにおにぎりを頬ばっていたという。 
きっと、苦労の末にたどり着いた目の前の絶景に、少女は生きている喜びを噛みしめていたはずだ。 
彼女が発見されたとき、誰が着せてくれたのか、大人物のジャケットを羽織っていた。 
悲劇の瞬間、そばにいた大人が少女をかばうために、とっさにとった行動なのだろう。 
なにも、アンナプルナに向かった12人だけが気高いわけではない。 
大人物のジャケットが語る、生と死の極限に立たされたときに、ふつうの人が見せた勇気と優しさ! 
見習いたいものだ。 
本作のエンディングにとても陽気な楽隊の演奏が流れる。 
山で亡くなった人々へのレクイエムであり、それでも明日になれば再び山へと向かう人たちへの祝福の曲であった。

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