出典:EPGの番組情報
先人たちの底力 知恵泉▽金のなる布・メイドイン&オールジャパン 絹で生キヌけ[解][字]
古代より特別な生地として珍重された絹。優美さとゴージャス感は“金のなる布”として、この国の困難を救ってきた。絹を見つめると働き方や地域活性、今に繋がる知恵が!
番組内容
なめらかですべすべ、いつの時代もサイコーのぜいたく品として珍重された絹。身にまとうことで社会的な地位を無言で示し、金欠財政を立て直す切り札として名君にも愛された。献上品、納税物…古代から特別な存在だった絹はいつから“金のなる布”となったのか。スーパーモデル冨永愛が来店、世界に誇るジャパンシルクの魅力を語り尽くす!絹産業の歴史には地方の振興、働き方改革、女性の社会参加…現代に繋がるヒントが続々!
出演者
【出演】土井善晴,冨永愛,加来耕三,【朗読】金子有希,【司会】新井秀和ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
一度でいいから着てみたい。
大昔から人々の憧れ 美しい布のお話です。
平安時代中期。
中国・唐の影響が衰退し
日本独自の国風文化が花開いた
華麗な時代。
宮中で貴族たちが身にまとっていたのが…
清少納言による随筆「枕草子」には
絹の衣服の美しさが
随所に描写されています。
「三位の中将様が
あざやかな
白絹の単衣を
お召しになっていて
かっこいい!」。
「大納言様の
紫の絹のお召し物が
とってもすてき!」。
カイコガ科の昆虫 「蚕」が吐き出す
極細の糸を原料につくられる絹。
独特の風合いと光沢を持ち
古来 高級衣料として珍重されてきました。
邪馬台国の女王 卑弥呼は
古代中国・魏の王に
絹の布を献上したと
記録が残っています。
聖徳太子は 春から秋にかけての
養蚕の季節になると
農民たちに労役を課すことを
禁じました。
日本の歴史を語る上で切っても
切り離せない絹。
この美しい布と
日本人が いかにつきあってきたのか。
知られざるドラマから
知恵を読み解きます。
こよい 「知恵泉」の
のれんをくぐるのは…
料理番組でのソフトな語り口と
軽妙なジョークで大人気の食の達人です。
そして もう一方…
10代からニューヨークやパリなど
世界を股にかけ活動し
一流デザイナーによる
さまざまな衣装を紹介してきました。
衣と食 2人の達人が
奥深い日本の絹の世界に迫ります。
どうぞ どうぞ。 片手で失礼いたします。
これは これは。
今日の突き出し 絹ごし豆腐でございます。
冨永さん 絹ごし豆腐 どうですか?
豆腐 大好きですよ。 うちには
絶対1丁は冷蔵庫に入ってますね。
そうですか。 絹を使ってるわけではなくて
舌触りが絹のようになめらか
ということで
この絹ごし豆腐なんですけれども。
土井さん 絹って どんなイメージ
思いがありますか?
絹ですか? やっぱり上等ですよね。
私の…
それだけで気持ちがいいですよね。
何か着心地がね やっぱり
気持ちがいいじゃないですか。
絹のお召し物といえば
冨永さん いろいろと着られることも
あると思いますけれども。
いろんな織り方も 撚り方もあったりして
すごく…
加来さん その絹 歴史の中でも
存在感は大きかったってことですよね。
大きいですね。 我々は まず絹というと
シルクロードを思いますね。
ヨーロッパとアジアをつないで…
だから絹は そういう意味で言うと
非常に歴史的に重要であるとともに
いつの時代もそうですけども…
なるほどね。
今日は ちょっと その辺りもね
実際 見て頂こうと思いますので。
今日 ご用意したメニューはですね
こちらでございます。
フライドチキヌ。
フフフフフ。
絹で羽ばたけフライドチキヌ。 チキンヌ!
ちょっと…。
こういう外すシャレは 天才ですね
これをつくるのは。
逆の意味で褒めて頂きましたね 今ね。
なかなか できないですよね。
ありがとうございます。 頑張ります。
ということでですね 最初の知恵は
絹によって大きく羽ばたいた
江戸時代の ある藩のお話からなんです。
見て頂きましょう。
…という言葉 ご存じでしょうか?
飛鳥時代の後半
大宝律令によって確立した
律令制の下での税制度を表した言葉です。
「租」は
田んぼで収穫された米を納めます。
「庸」は 労役など。
「調」は
地方ごとの特産品を納めますが
このうち最も奨励されていたのが
絹織物だったんです。
弥生時代に大陸から伝来した養蚕は
蚕の餌となる桑の木が
日本の気候に合っていたこともあり
早い時期から全国で生産されていました。
国家に納められた絹織物は
貴族への給与となり
彼らの衣服となりました。
貴族は高貴な身分を人々に示すために
絹の着用を義務づけられていたのです。
奈良時代 朝廷には
大蔵省の機関として
絹織物を生産する工房
織部司もありました。
古代の日本では
絹は身分秩序を確立させるための
国家的大事業だったのです。
しかし 我が世の春を送っていた
貴族に代わり
武士の時代が始まると
国内の絹は 徐々に
存在感を失っていきます。
アクティブな武士たちにとって
繊細で美しい絹よりも
丈夫で安価な麻の方が
生活スタイルに合っていたのです。
大幅な需要の減少で絹織物の産業は
京の都の周辺などで
細々と命脈を保つことになります。
養蚕も 各地の農村が副収入のために
辛うじて続けてはいたものの
衰退の一途。
そんな絹が華麗に復活するのは
江戸時代の中期から後期にかけてのこと。
徳川幕府の治世の下
天下太平の日々が続いていた頃。
きっかけは いつの世も変わらない…
山形県南部
置賜地方の中心都市 米沢。
ここは
あの上杉謙信をルーツに持つ米沢藩が
江戸時代 治めた町です。
この殿様が 日本における
絹織物復活の立て役者の一人でした。
40歳の治憲 後の鷹山は
深い悩みの渦中にありました。
金じゃ。
悩みとは…
上杉家は かつて越後を中心に
広大な領地を持つ有力大名でしたが
戦国末期から江戸時代にかけて
紆余曲折が続き
鷹山の時代は
15万石にまで減っていました。
収入は激減。
それにもかかわらず
藩士のリストラを行わなかったことで
人件費がかさみ 米沢藩は
慢性的な赤字に悩まされていたのです。
鷹山は この状況を脱するため
かねてより倹約を奨励したり
農業に携わっていなかった武士たちにも
田畑の開墾に当たらせたりしましたが…。
守旧派の藩士たちから強い反発を
受けていました。
そこで鷹山 今度は藩士や領民に
広く意見を求めようと
城下に「上書箱」を設け
改革の方法を募ります。
集まったのは 340通の意見書。
その中の一つ…
「倹約は
よいことですが
ささいな損得の詮議に
陥りがちです」。
「新たに養蚕を始めて
米沢藩を繁盛させてはいかがでしょうか」。
養蚕か… ふむ。
養蚕と申しますと 今も百姓は
米づくりの片手間に行っておりますな。
うむ 養蚕はよいぞ。 なぜなら…。
(2人)なぜなら?
鷹山と響きが似ておる!
おっと こんなやり取りは
多分なかったはず。
鷹山の号を名乗り始めたのは
ずっとあとですから。
ともかく鷹山は「養蚕」という産業に
大きな可能性を感じます。
江戸時代。
天下太平の世の中で 武士の気風は変化し
また裕福な町人も出現。
絹の需要は 再び高まっていました。
そこで絹の原料となる生糸を
中国から輸入し
生産に充てていたものの…
「待った」がかかります。
当時の幕臣が記した史料です。
生糸を買うための代金としていたのが
金や銀などの貴金属。
その結果 生糸の値段は高騰。
国内に商品が不足する事態に
陥ったのです。
鷹山は行動を開始しました。
まずは領民に対して 桑の苗木を無料配布。
桑畑にかけていた税金も廃止し
藩を挙げて養蚕をバックアップします。
養蚕に不慣れな者に「養蚕手引」という
生産マニュアルまで作成し
生糸の生産を奨励しました。
しかし 生糸の産地は
米沢のほかにも たくさんありました。
そこで…。
米沢繊維協議会の近藤哲夫さん。
鷹山が編み出した
「ライバルに差をつける秘策」を
明かしてくれました。
これが…
こちらが…
そう 鷹山は白い生糸を草木染めによって
美しく染め上げ
米沢ならではの「絹」を
つくり出したのです。
世に出していったらいいんじゃないか
ということに
目をつけられたのが
鷹山公だったと思います。
更に更に
鷹山は染め上げた生糸を使って
絹織物の生産にも着手します。
このひらめきの背景には 冬の米沢の
過酷な気候があったといいます。
米沢ブランドの絹製品を生産するため
先進地域から職人をヘッドハンティング。
最新の技術も取り入れていきました。
機織り作業を担ったのは
主に武士の妻や娘でした。
藩の役に立てればと
皆が 不慣れな機織りに
懸命に取り組んだといいます。
こうして誕生したのが…
領民が生糸を生産し
武士が織物をつくり
藩が それを売る。
皆が一丸となって
新たな産業に取り組んだことで
米沢藩の財政も
やがて黒字に転じていきました。
日本における絹産業復活の立て役者
上杉鷹山!
…と言いたいところですが
鷹山一人だけの手柄にはできません。
実は江戸時代 同じように
絹に関係する産業を発展させた地域が
ほかにもたくさんありました。
それぞれ 財政などの難題に突き当たり
風土に合った独自の織物を開発。
その多くは 現代に至るまで
地域を支える産業となっています。
武士の時代に入り
長らく忘れ去られた存在だった絹。
こうして日本のあちらこちらで
地域経済を救う
救世主となっていたのです。
ということでですね 今日は
この店内に 江戸時代に大きく発展した
各地の絹織物をご用意いたしました。
どうですか? 皆さん。
まず あちらの奥にあるのが
先ほどVTRでも お伝えしました
米沢織ですよね。
色が とてもきれいですよね。
それから冨永さんの後ろにあるのが
結城紬ということなんですね。
そして その隣にあるのが
郡内織物ということで
これは 山梨県の富士吉田市周辺のもので。
そして 隣が丹後ちりめん。
そして加来さんの前にあるのが
伊勢崎絣と
群馬県伊勢崎市ですけれども。
そして土井さんの前のが
博多織ということなんですね。
どうぞ皆さん 目の前のものを
ちょっと手に取って頂いて 手触りとか。
気持ちいいですよ。 やっぱり
絹の織物っていうのはね とっても。
全然 肌合いが違いますしね。
越後のちりめん問屋の隠居っていうのが
いたじゃないですか。
時代劇でおなじみですね。
まさに ちりめんですよね これが。
縮緬は ねじった糸で凹凸を出していると。
撚りの強さが違うんですよね。
なるほど。
出ますけれどもね。
冨永さんも さっきね
いろんな織り方によって
いろいろ表情が違うって
おっしゃってましたけれども。
糸の太さの違いもありますし
糸の撚り方の強さの違いもありますし
織り方の違いもあるでしょうし
後染めなのか 先染めなのかとか
いろいろありますし 本当に…
でもね 今でこそ 各地に特産品として
残ってる絹ですけれども
加来さん 江戸時代までは 何て言いますか
低空飛行といいますか
そんなに注目されてなかったっていうのが
驚きました。
「わらしべ長者」の物語で
ありましたけれども
絹を交換のものとして使う
最上のものなんですね。
そういうふうに大事には
されてきたんですけれど
せいぜい自分たちが使う程度の領域から
出てなかったんですね。
ところが江戸時代に入って
無事 太平になって
江戸時代が開けてきますと 豪商たちが
商人たちがもうける時代が
やって来るわけですね。
物が どんどん豊かに広がっていく。
表だって着ると怒られるので
裏側に入れるんですね。
なるほど。 へえ~。
下着で使うわけです。
見えないところで おしゃれをするという
そういうやり方をして
くぐっていったんですけども。
なるほどね。
ここの知恵が…
土井さん 今でも 地方再生っていうような
言葉が聞かれますけれども
この辺り 土井さんは何が大切だと?
だから我々が行って
「こんなん出されへんわ お客さんに」。
「いえいえ おかあさん それ食べたいねん」
っていうようなものが ええんですよ。
えっ 例えば どんな食材?
例えば…
東京に売ってるのは ちょっと白くね
漂白したりしてるものが
多いじゃないですか。
でも 色が茶色くなってても
地元にあるものっていうのはね
天下一品ですよ。
大根1本でもね
土地のものが おいしいです。
ひきたてが おいしいんですよ。
摘みたて むきたてが おいしいんですよ。
だけども一番おいしいのに 安いんですわ。
だから 鷹山が目をつけたのも
そうなんですけども
もう終わったと 絹はもう終わったと
思っている産業だったんです。
しかし 地域創生 ここで何かを
しなければいけなくなった時に…
そのとおりですよ。 みんな
自分らが憧れてるものを
つくりたくなるんですよね。
魚のピザみたいなね。
(笑い声)
いや それは別にええねんて
そこで食べんでも みたいな。
それよりも あるじゃないですか。
分かります。
やっぱり くらしの中から
生まれるようなものやから
ず~っと 歴史的にも その土地の風土にも
合うたものが出来てくるから
それが おのずから独特なものが
出来てくるいうのは あるんでしょうね。
それに地域性 温度 湿度
いろんなものが重なって
出来たんじゃないかと思いますけどね。
自分の地元に
もっと誇りを持ちたいですね。
そうそうそう。 ほんでも ぜひ
そのとおりなんですけどね。
冨永さんなんか
いろんな世界をね 渡り歩いてて
その国や地域ごとの違いみたいな…。
そうですね もう全然違いますよ。
やっぱり
お料理から人柄から もう本当に
織物とかもそうですけど
布もそうですし
何から何まで 美意識まで全部違いますよ。
ただ 江戸時代は
三百諸侯といわれましたように
藩が1つの国家だったんですね。
江戸に住んでいる人は江戸人
現代の鹿児島県に住んでいる人は薩摩人
山口県の人は長州人。
なるほど。
そうですよね。
何かすごく多様性が豊かというか。
そうです そうです。
本当にイタリアも 絹の産地は
ありますけど 1つの都市だけですよ。
1つの国の中で。
こんなにいっぱい ないですから。
今回のね その絹も
全く新しい産業にいかずに
もともとあった伝統に目を向けて
こうやってね 成功しているわけで
いつの時代も 伝統と
あと 革新のバランスといいますか。
日本の伝統というのは 基本的には
クリエーションいうのは
何もないんですよね。
西洋的なクリエーションは。
「進化しろ」というじゃないですか。
進化っていったら 何か違うものを
つくることになるけども
日本のクリエーションというのは
さんずい偏の深い
見える方の深化を…。
深めていくと。
日本人のクリエーションなんですよ。
それを「進化しなさい。
進歩しなさい」って言ったら
何か西洋的に違うことをするっていう。
日本がそんなにダイナミックな発明って
できない国ですから
そもそも深めるっていうことが
大事ですね。
深化と進化。
まあ 音は一緒だけど
だいぶ違いますよね。 全然違いますよ。
でもね いっしょくたにね
何か我々は聞いて
何か どっちかいうたら 西洋風な考え方に
ちょっとなってますよね。
私は本当に ファッションという
ある意味 西洋の文化に
ずっと触れてきたんですけれども
日本にはないものでしたよね。
オートクチュールの世界も
レディ トゥ ウェアの世界も
もともと日本にはなく
西洋の方から
私は始まってるんですけれども
深化っていう言葉を聞くとね
日本は やっぱり深めていく方が
すごく得意な気がしますよね。
とっても手先が器用で
考えも思慮深いですし。
先ほどね 裏地っておっしゃったけども
見えないところまで きっちりしますよね。
してます。
そんな人間いないですからね 世界には。
舞台の裏をきれいにすることで
表からきれいに見える よくなるってね。
裏まで きれいにするんです。
はあ~。
本当に。 見えないところまで美しく
っていうのが やっぱり日本人の気質。
全くそうですよね。
それが私たちの得意技。
さあ 続いてはね
2つ目の知恵にいきたいんですけれども
今度は 舞台は明治時代に移ります。
武士の世が終わりを迎え
幕が開いた明治時代。
新政府は 「富国強兵」
すなわち 経済を発展させて
軍事力を蓄えようとします。
この政策を推し進める背景には
切実な事情がありました。
お隣 清国は
イギリスから2度にわたる侵略を受け
半植民地の状態に陥っています。
一刻も早く欧米列強に肩を並べ
国力を持たなければ
清国の二の舞になる。
そんな強い危機感を
新政府の人々は抱いていたのです。
この時 白羽の矢が立ったのが
何を隠そう「絹」でした。
当時 ヨーロッパでは 「微粒子病」と
呼ばれる蚕の病気がまん延し
世界的な生糸の不足に陥っていました。
これを千載一遇のチャンスと捉えた
新政府。
それまで
各家庭や小規模な工場に限られていた
国内の生糸生産を近代化させ
大量生産によって
外貨を稼ごうとします。
こうして明治5年 設立されたのが
富岡製糸場。
日本初の
本格的な機械製糸工場です。
周辺は かねてより養蚕が盛ん。
原料となる繭の調達に
とても都合がよい立地でした。
全国から新しい国家のために働きたいと
志を抱く少女を「工女」として募って
学んだ技術を
地元に持ち帰ってもらおうともしました。
江戸時代に 地方の財政危機を救った「絹」。
今度は 近代日本の浮沈をも
握ることになったのです。
富岡製糸場には
明治維新の理念を体現するかのように
あらゆる「最先端」が
詰め込まれていました。
(取材者)どうも こんにちは。
はい こんにちは。
(取材者)よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 高橋といいます。
高橋一美さんの案内で
富岡製糸場の最先端を探ります。
その一つが 建物の壁の至る所に
うずたかく積まれたレンガ。
富岡製糸場は
日本製のレンガによる建造物として
最も古い部類に入るんだとか。
レンガなんですが…
レンガの目地には 通常 セメントに
砂と水を混ぜたものを詰めますが
当時は まだ日本で
セメントがつくられておらず
代わりに…
工女として働くために
長野県から来た横田 英は
初めて製糸場の門前に立った時のことを
日記に記しています。
当時のほとんどの日本人が
見たこともないレンガの巨大な建物。
まずは ビジュアルで
シフトチェンジを示したのです。
レンガに圧倒されつつ入所した
工女たちは
「糸とり」と呼ばれる作業に
取り組みました。
糸とりとは 繭を煮て
やわらかくしてから糸を引き出し
撚り合わせる作業。
この撚り合わせた糸が
一般的に生糸と呼ばれます。
この時に使われるのが…
動力には 蒸気エンジンが使われました。
これらは全て
フランスから購入した最新鋭の機械。
ただ輸入したのは
機械だけではありませんでした。
富岡製糸場は 生糸先進国 フランスから
機械とノウハウを大胆に導入し
最先端の生産方法をとっていたのです。
でも フランス人たちの教え方には
英たち工女は
正直 ちょっと閉口していたよう。
英の記録には 仲間たちと
余暇を楽しむ様子もつづられています。
富岡製糸場では
1日およそ8時間労働と
定められていました。
週に1回の休みも与えられ
更に 年末年始と夏には
10日ずつの休暇がありました。
休憩も休日も 雇用主の気分次第が
当たり前だった当時
この労働環境は極めて画期的でした。
更には 頑張りを評価する制度も
設けられていました。
工女は4つの等級に分けられ
新人は見習い扱いで等外。
そこから
仕事のスピードによって昇進していき
1日に生糸を4束とれるようになると
一等工女と見なされました。
給与にも差がつけられます。
等外が9円なのに対し
一等工女は なんと3倍の25円。
努力をすれば
家柄によらず 誰もが高い給与を得られ
やる気も 当然アップ。
英も その一人でした。
真新しいレンガ造りの建物に
最先端の生産方法と労働環境を詰め込んだ
富岡製糸場。
質の高い生糸の大量生産に
成功していきました。
富岡製糸場が出品した生糸が…
すなわち メダルを獲得します。
品質の高さは もちろん
極東の島国が 短期間で
生糸生産の近代化に見事成功したことが
受賞の理由だったとも考えられています。
ヨーロッパの人々にも
富岡製糸場の急激なシフトチェンジは
強いインパクトを残したのです。
その後 富岡製糸場を手本に
全国に製糸場が
次々と開設されていきました。
それに伴い
日本の生糸は増産・ブランド化し
ヨーロッパやアメリカでの需要は
更に高まっていきます。
輸出は年々増え 明治の末には
日本は世界一の生糸輸出国となり
ばく大な富を国にもたらしました。
日本の…
そんな言葉が生まれるほどに
絹は 富国強兵を支える産業に
なっていったのです。
ということで 最先端ずくめの
富岡製糸場という感じでしたけれどもね
いかがでしたか?
いや すばらしいですね。
8時間労働で
夏の休暇 冬の休暇 ちゃんとあるって
すばらしいなと ねえ。
ねえ。
それは何か
一生懸命 仕事しよう思いますよね。
女の子たちって やっぱり
外の社会に出ていくっていうことすら
珍しいことだったと
思うんですよね。
そんな子たちが
やっぱり実力主義の社会で
頑張れば報われるっていう
そういう社会だったら
めちゃくちゃ頑張りますよね。
でもね 当時の人にとっては
まあ そのね
かなり その 価値観を
急激にシフトチェンジした
っていうことだと思うんですが
それまでの流儀とかに
引きずられずにね
大胆な流れに身を任せたから
成功したっていうところも
あるのかもしれませんよね。
やっぱり それを上手に取り込む
っていう力だと思いますよ。
それが その当時の日本人には
きちっとあったんですよね。
アヘン戦争に負けた清国みたいにですね
国の尊厳がなくなるのは困ると。
日本が なんとか独立国を守るためには
国力を増さなければいけない。
工女なんかもですね…
…という意識が やっぱりあるんですね。
それでも その土台というのは
江戸時代に培ったというか。
生活習慣みたいなんで
非常に秩序みたいなものを保つ力は
ありましたよね。
あると思いますね。
一気に広がるわけですね。
1900年代には
もう既に世界一ですから 日本は。
すごいと思いますよ。
そのあと どうなるんですか?
そこまでは よかったんだけれども
生糸で考えてみたら
生産すればするだけ
全部 利益になるわけですよ。
日本はお金が欲しいわけですよね。
国力を上げたい。
そうすると 8時間労働で
ゆっくり休んでという体制が
だんだん 1日に2つ入れてみたり
3つ入れてみたり
どんどん生産性を上げていく方向に
なってくるわけですね。
過酷な労働が
どんどん問題になってくると。
それはちょっと崩れていきますよね。
です。
質が落ちますよね もちろん 製品の。
余裕がないと駄目ですね。
もったいない。
なるほどね。
ちょっと
ふわふわしちゃったんでしょうね。
地に足がつかなくなっちゃって
お金を求めすぎて。
絹一本でやってくっていうのも
それも またちょっと
別の危険もあるんじゃないのかな
っていうふうに思うんですけれども。
確かにそうなんですけどね
どんどん アメリカからですね
一番の得意先で買ってくれるわけですね。
それはいいんですけども
そう任せて 絹 これだけで勝負だと
やってきたために
世界恐慌に ぶち当たったんですね。
瞬間に 全てひっくり返ったわけです。
アメリカに依存して どんどんアメリカに
輸出した生糸や絹織物がですね
世界恐慌で 一気に
ばたっと止まってしまったわけです。
もう あとは
軍国主義に走っていくしかない。
土井さんは 急激な近代化っていうものが
与える影響とかって?
そうですね
経済優先の社会になりますと
やっぱり…
管理…
人の幸せを奪うことになってますよね。
ファッションの世界でも
同じだと思いますね。
多くを求めると
やっぱり大量生産になっていく。
そうなってくると また本当…
その国々のよさも見えずに。
何かって 日本人の技術を生かすところが
なくなってしまうんですよね。
なるほど。
技術がいくらあっても。 そうですね。
やはり 歴史に学んで頂きたいところで
江戸時代というのは 無事太平
「二度と戦国乱世に戻さない」というのが
スローガンだったんですね。
そのために…
大井川に橋を架ける技術は
あったけれども
橋を架けると
また戦争になるかもしれない。
同じように
馬車があったら便利だってことは
みんな分かってたんだけれども
武器が大量に動くかもしれない。
そういう中で利便性を切って
やってきたのが 江戸時代だったんですね。
その中で 今までの歴史の中で
学ぶことを生かしながら
新たに考えていく必要というのは
あるんではないかな。
やっぱり 使い捨てじゃなくて
長く昔みたいにね
いつまでも着れる
生地の強いものとかね
いつまでも履けそうな
死ぬまで履けそうな靴とかね。
だから 一生懸命の方向をね
変えるといいですよね。
最近は
新型コロナウイルスの影響もあって
何て言うんですか
急激に世の中が変わろうとして
変わらざるをえないっていうところも
ありますけれども。
だから そういったふうに 自分が
どういうふうに今生きていくのか
これから どういうふうに生きていくのか
っていうふうに
考えさせられた時期でもあると
思うんですよ。
だから ある意味で
この機を得た私たちは
ここから先 うまくやれる機会がある
っていうことなんですよ。
機会を得たということだと思うんですよ。
だから ここで いま一度考えて
何を求めるのか
何を大事にするのかっていうことを
考えたらいいんじゃないかなって
思いますけどね。
歴史に学びたいですよね。
歴史居酒屋 知恵泉は
そういうお店ですので。
何か 今日そんな話を聞いてたら
私のこの作務衣も
ちょっと絹製に替えようかな。
(笑い声)
綿でいいですよ。
いいですか? 綿で。
<いにしえの音楽を記憶した
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