英雄たちの選択「“若君”北条時行の終わりなき戦い」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択「“若君”北条時行の終わりなき戦い」[字]

時代を動かした謎多き若武者・北条時行。幕府執権の父を裏切り、討幕に寝返った足利尊氏への復しゅうを果たすため、幾度も窮地を逃げ延び、不屈の戦いを続けた生涯を追う!

詳細情報
番組内容
鎌倉幕府の滅亡時、実権を握った北条高時をはじめとする一族、重臣は自害して果てた。しかしこの時、燃えさかる鎌倉から高時の遺児・北条時行が脱出していた!北条氏を裏切った足利尊氏への報復と、鎌倉幕府再興の夢を胸に、時行の終わりなき戦いが始まる。2年後、信濃で挙兵すると一気に鎌倉奪還へ!時行の戦いを契機に、歴史は動乱の南北朝時代へとなだれ込む。人気漫画の主人公としても話題を集める謎多き若武者の生涯に迫る。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】関幸彦,小林恭二,萱野稔人,【語り】松重豊

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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  1. 時行
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  20. 足利尊氏

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

NHK
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エンスカイ(ENSKY)

1333年5月

新田義貞の攻撃によって
鎌倉幕府は滅亡した。

この時 ここ東勝寺で
幕府の実権を100年以上も握ってきた

北条一族と重臣たちは 自害して果てた。

倒幕の最大の要因は
幕府から政権奪取をねらう

後醍醐天皇の呼びかけ。

これに応えた足利高氏が
北条氏を裏切り

後醍醐方に
寝返ったことだった。

だが 幕府滅亡に際し

燃えさかる鎌倉から脱出した
幼子がいた。

♬~

北条得宗家の息子 時行である。

生涯を通じ
北条家を裏切った尊氏と戦い続ける 時行。

現在 少年誌で時行を主人公にした
漫画が連載され

注目を集めている。

時行の魅力を作者に直撃!

あとは その~ 何ですか 自分から…

一回も
ほかの陣営についたりとか 鞍替えしたり。

結構 弱い立場なんで
鞍替えとか考えそうなもんだけど

しかも自分が
めちゃめちゃ裏切られたのに

しそうなもんだけど
それは絶対してないんですよ。

すごく
生き生きした 当時を生きた少年の

一人の少年武将の姿ってのが

浮かんでくるかなと思います。

今回は松井さんも選択に参加!

スタジオでも
復讐に燃える時行の選択を巡って

熱い議論が展開する。

尊氏は敵ですけど

後醍醐天皇も敵ですよ。

ええ。 時行からすれば。

そのうち
焦って 後醍醐天皇と足利尊氏は

ほっといても 喧嘩始めます。

これはもう
もう一回 北条幕府できますよ。

よく思いついたなと思いますね。 だから…

時行の反抗を契機に後醍醐政権は崩壊し

歴史は南北朝時代の動乱へと
なだれ込んでいく。

生涯を戦に明け暮れた 北条時行。

その謎多き生涯に迫る。

♬~

皆さん こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

今回は鎌倉幕府が滅亡した時

鎌倉から脱出した 北条時行が主人公です。

磯田さん
この幕府が滅んだ時に 北条氏は

全滅したわけではなかったという
ことなんですね。

ないですね。
受験なんかで鎌倉幕府の滅亡を

「イチミサンザン北条氏」とかって…。

1333年ですね イチミサンザン。
これ でも 北条氏

一味さんざんになっただけで
滅んだわけじゃない。

ああ~。
実は しぶとく生き残った

今日の主人公 北条時行とかがですね

足利幕府の誕生まで

まあ 歴史の変化の化学反応のね
触媒になったわけですね。

う~ん。
つまり 触媒っていうのは

化学反応を ものすごく起こすんだけど

その物質自体が あとのものとして
残っていくもんじゃないと。

…になっていくような
まあ要するに 反応促進剤ですね。

反応促進剤になったのが
実はこれは 滅んでなかった

北条氏の若様 時行だったと。

南北朝時代っていうのは
後醍醐天皇と足利尊氏

もう この2人だけで語られることが
多いわけですけど。

実際には負けて消えていった 北条時行。

この人の役割っていうのを見とかないと。
大体ね 10歳前後の子供が

歴史を動かすみたいなのって
あんまないですからね。

う~ん。
ここ見たいですよね う~ん。

さあ それでは
北条時行の戦いを ご覧ください。

鎌倉幕府滅亡時

北条得宗家当主 高時には
2人の息子がいた。

だが 嫡男は鎌倉からの逃亡中に
命を落とす。

ただ一人の息子となった
幼い次男 時行は

北条得宗家の被官 諏訪盛高に連れられ
炎上する鎌倉から脱出した。

かつて諏訪氏が治めた信濃国。

時行が かくまわれた場所は
定かではないが

その一つといわれている
山深い里

長野県の大鹿村 桶谷。

桶谷の由来は

「王家の谷」から転じたともいわれている。

大鹿村で生まれ育った 森上 武さん。

88歳になる森上さんは
北条姓の友人がいたという。

あの辺からね4軒ばか こう 4軒ぐらい

点々として住宅があったわけ。

今 ああいうふうに 出来ちゃったもんで
分からんけれども。

北条さんの住宅が4軒ばか あったわけ。

ほいで 僕の 私の同級生のうちも

4軒目にあったもんでね。

明治時代に作られた地図には
北条の名が記されていた。

越したんだ 昔は。
今 全然分からんけれども。

これ 急な所だもんで
こういうふうに上ってったんだな。

(スタッフ)峠にも名前付いてたんですか?

北条を名乗った人々は
この山の端で暮らしていた。

山の木を切ったりして出す。

ほいで 炭を焼く。

それが本職だったんだ。
ここらの衆は。

急斜面に残された石組みは
畑の跡だという。

田んぼは ないしな。

あれは 何かなあ? お墓かかな あれ。

お墓は
持っていっちゃったと思うんだけども。

かつて畑だった斜面の奥に

こけむした墓石が残されていた。

ここの4軒ばか あったという。

700年近く前 時行が
信濃の山深くに潜伏していた時…。

京都では
政治の実権を握った後醍醐天皇が

倒幕の功労者たちを
次々に取り立てていた。

幕府から寝返った足利高氏は

後醍醐天皇の諱
尊治の一字を拝領し

北条高時からの「高」の字を捨てた。

名実ともに 北条氏から後醍醐天皇へ
乗り換えたのだ。

倒幕の翌年
年号を建武に改めたことから

後醍醐の政治は
建武の新政と呼ばれている。

だが 日本各地で北条一族の残党や

北条氏に与する者たちの反乱が頻発した。

鎌倉幕府滅亡から2年後

信濃に身を隠していた時行も
諏訪氏と共に蜂起する。

世に言う 中先代の乱 勃発である。

鎌倉を目指す時行軍には
東国武士が次々に加わり

数万の軍勢になったという。

中には 後醍醐政権側から寝返った
武士たちもいた。

北条時行の研究から
中先代の乱を上梓した 鈴木由美さん。

鈴木さんは 時行軍が
大軍勢となった理由を こう考えている。

…っていうところが
一番大きいと思います。

で 彼らが…

で 彼らの不満で
一番大きいところというのは やはり

建武政権による武士たちの…

膨れ上がった時行軍は
鎌倉を守っていた足利尊氏の弟

直義も打ち破り 鎌倉奪還に成功した。

時行が信濃で蜂起する直前
京都でも事件が持ち上がっていた。

かつて 朝廷と鎌倉幕府の
取り次ぎ役を務めた

西園寺公宗が 後醍醐天皇の暗殺を
計画していたというのだ。

「太平記」によると 時行を
関東の大将とする計画だった。

彼らは 京都と鎌倉の同時占拠を
ねらっていたとも考えられている。

だが 京都の暗殺計画は事前に漏れ
公宗は捕らえられた。

公宗が処刑された その日 尊氏は

弟 直義救援に向かった。

京都を発つにあたり
尊氏は 後醍醐天皇に

征夷大将軍への任官を求めた。

この時に 足利尊氏が望んだものが
征夷大将軍と

もう一つ 諸国の惣追捕使っていうのを
望んでいまして

それは両方とも 鎌倉幕府を開いた…

その権威を付けなければ
時行を破ることができないと思っていた。

そういうことだと思います。

足利氏を中心に中世を研究する
谷口雄太さんは

鎌倉という土地に
深い意味があったと考えている。

これは 室町幕府の施政方針たる

「建武式目」っていう
史料に明確に書かれてありまして

まあ 武家においては
最も「吉土」と言うべきかと いうふうな

文言があるということは まあ 特別な
吉土であると 特別な土地なんだと。

まあ
武士にとっては 頼朝以来っていうのが

一つ 重要なところだったという
ことですね。

かくして
北条時行は 再び鎌倉を舞台にした

凄惨な戦いを見ることになる。

北条時行が決起して
鎌倉を奪還するまでを

ご覧いただきました。
今回もゲストの皆さんに

お話を伺っていきます。
よろしくお願いいたします。

まずは 作家の小林恭二さんです。

小林さんは 北条氏が
お好きと聞いているんですれけど。

実際それほど
彼らが悪に徹していたかどうかも

分からんなという
ふうな感じがしますけれども。

でも 実際
常に権力のそばにいて 権力を握るべく

それで
いつも 血刀振るってる感じで

それはまあ
恐ろしい一族で ちょっとやっぱり

この冷酷な魅力にやられるという
ところでありますね。

その中でも時行はどうですか?

時行の印象 全然違いますよね。
だから 時行 ノーマークだったですね。

あっ ノーマーク? フフフ。
時行ね やっぱり あの

それまでの北条氏の人々が
大人っていう感じで もう いかにも

秘密の部屋に入ってですね
会議してですね

次 誰を蹴落とすかって
考えているような感じがすると。

まあ もちろん 時行
子供だったこともあるんだろうけれども…

…な印象があります。

非常に新時代のタフの人。
タフな人だっていう印象があります。

続いては哲学者の萱野稔人さんに
お越しいただいています。

萱野さんは 北条時行に
どんな印象をお持ちですか?

ものすごく幼い時に もう歴史の激動に
巻き込まれてるわけですよ。

鎌倉幕府が崩壊して
南北朝の時代に

入っていくという。
ですので もちろん

近代以前の時代
っていうのは 誰もが

生まれた瞬間に ある程度
運命づけられた

社会ではあります
けども

この人ほど…

…人っていうのは
なかなか やっぱり歴史の中でも

少ないんじゃないかと思うんですよね。

それも もう 負けたところから
出発するわけですからね。

運命の儚さというかですね。

特に その…

…というものを
感じざるをえませんね。

やっぱり
私たちって もともとは血筋だとか

親族とか そういったものを
元にして ずっと存続してきたんだって

いうことを 体… もう 体現してるような
そんな存在だと思いますね。

源平の時代って
厳しいぞ やばくなったぞと

じゃあ 腹を切るか
という形で

まあ
武勇にあふれた。

まあ 最終的には
自己責任で

サクッと こう
自分自身を

終わらせる
というですね

その形を まあ ある意味では
よしとした

こういう時代からですね…

こういうことじゃないかと思うんですね。

信濃で蜂起した時行の乱を
中先代の乱といいますけれど

磯田さんは いかがですか?
中先代という言葉について。

これを
足利側の資料である「梅松論」でさえ

中先代と
代として数えてるっていうことには

私はやっぱり びっくりするんですね。

まあ要するに
この時行さんが鎌倉に入って

政権樹立したことの正統性は
ある程度 足利方だって

ありえるよねって認めて
代として勘定してるという。

だから いかに この…
血筋の重視もありますし

この乱っていうのが
インパクトが大きかったかっていう

ことがありますよね。
う~ん。

まだ 幕府が滅んで2年ですよね
たったの。

人間そんなに
変わるもんじゃないと思いますよね。

それで 北条に対する気持ちなんか
そう簡単に消えるはずもないと。

言葉の重みも違うだろうと。

北条っていう姓に対するイメージも

全然 今の…
今から こう 顧みる印象とは違う。

ものすごく大きな名前だったと思います。

で この場合の正統性って
何かっていうと

正統性って中身
実は いろいろあるんですよ。

法的な正しさとか
道徳的な正しさとか。

ただ この場合…

尊氏も 後醍醐天皇に対して

征夷大将軍の役職を
求めたわけじゃないですか。

そうじゃなければ…

ですので これ 武力による

もちろん 権力闘争ではありますが
そこの背後にあるのは

正統性を巡る戦いであり
その正統性っていうのは もう

それぞれの思惑の中で
いろんなものがあって

特に中心にあったのが
血を巡る正しさだったんだろうなと

いうふうに思いますね。

もう一つ 重要なことっていうのは

とにかく 150年続いた鎌倉幕府の体制
というものを考えた時に

それは 結局
一所懸命の土地 所領というか

これをとにかく
一義的に大切にしたのが大きくて

まずは その 時行が
蜂起するということについて

現状不満派はですね
とりあえず そこに乗っかるかという

この選択が やっぱり
あったんじゃないかなという

気がしますけれどもね。 はい。

これ だって 建武新政権 立てるために
みんな頑張ったわけだから

恩賞もらえると思ってたら
何にも保証が来ない。

どうしようと思っているところへ

前の北条の子供が
鎌倉 入ったわけですから。

あっ これ ついていけば 関東一帯に
その周辺国も

領地もらえるよと 思った人が

だんごが もう
どんどん雪だるまが膨れ上がるように

鎌倉 入る時には大きくなって
まあ「太平記」に書かれてるような

5万人とかいうような
5万余騎みたいな数字の人たちが

まあ 新政権樹立ですよね。
う~ん。

もう 中先代だと
先代に続いて中先代だと

こういうふうになると。
で しかもこれ 鎌倉だけの話じゃなくて

これは京都の天皇さんも
命 狙われてたっていうことで

もうこれは てんやわんやですね。

さあ 時行が起こした中先代の乱は

いよいよ鎌倉で
足利尊氏との戦いを迎えます。

鎌倉陥落を知った尊氏は
急ぎ東海道を東へ向かった。

攻め上る尊氏 迎え撃つ時行。

浜名湖畔で始まった合戦は その後

双方多くの戦死者を出す
熾烈な戦いが続いた。

だが 8月19日 時行軍は
ついに鎌倉を奪われてしまう。

諏訪氏はじめ時行の側近 43人は

源 頼朝が創建した勝長寿院で自害した。

「太平記」は
この時 彼ら全員

顔の皮を剥ぎ
それぞれの身元を

隠したと伝えている。

これは
大将の時行も

この場で
死んだように見せかける

偽装だった。

偽装工作は まんまと成功し

尊氏軍の手を逃れた時行は
またしても鎌倉を脱出

行方知れずとなる。

時行が鎌倉を奪還した 中先代の乱は
僅かひとつき足らずで終結した。

しかし 短かった時行の反乱は
後の歴史に長い影を落とすことになる。

時行軍を撃退した尊氏だったが
京都からの帰還命令に従わず

鎌倉を動こうとしなかった。

業を煮やした後醍醐天皇は
尊氏討伐軍を鎌倉に差し向ける。

しかし 尊氏の猛烈な反撃に遭い

攻め返されたあげくに
京都を奪われてしまう。

尊氏の軍事力に屈服した後醍醐は
一旦は和睦の姿勢を見せ

尊氏が擁立した天皇を容認した。

だが 数か月後には
奈良の山中 吉野に移り

南朝と呼ばれる独自の朝廷を開いた。

片や尊氏が立てた朝廷は 北朝と呼ばれ

後醍醐の南朝と対峙することになった。

倒幕の号令をかけた後醍醐天皇と
それを武力で実現した尊氏だったが

2人の溝は深まるばかりに見えた。

このころ
行方知れずとなっていた時行だが

北条氏と幕府の再興を
諦めてはいなかった。

打倒尊氏に執念を燃やし
機会をうかがう時行の

心の内に分け入ってみよう。

私が起こした乱がきっかけで
尊氏と帝は袂を分かつことになった。

憎き敵は

恩をかけてやった
我が北条得宗家を裏切った 尊氏。

決して許すものか。

尊氏が都での政や
帝の南朝勢に手を取られている今こそ

もう一度 決起する好機ではないか。

全国に数多いる 北条一族と
その配下の者を糾合すれば

再び鎌倉を取り返せるに違いない。

前回の乱よりも 一層多くの軍勢を集め

鎌倉を本拠に
今度こそ 尊氏を打ち倒すのだ。

だが 各地の者どもをまとめ
軍勢を動かすには 時がかかり過ぎるか。

先の乱の時
京都で公宗殿が仕損じたように

どこから足利の連中に
話が漏れるやもしれぬ。

ここはいっそ 敵の敵は味方と考え
帝の南朝に参じて 共に戦うのはどうか?

帝の軍勢と合力すれば
尊氏を倒せるに違いない。

しかし 帝が申し出を
受け入れてくださるだろうか。

鎌倉で 父 高時が自害したのは
元はと言えば 帝のご意見。

朝敵とされた 我ら北条を

帝が やすやすと
お許しになるはずはないか。

更に 私から動くことで
万が一 尊氏に私の居場所を悟られれば

今度こそ 危うい。

憎き尊氏を倒すため
時行は選択のふちに立たされた。

時行の中先代の乱は 足利尊氏に
鎌倉を奪い返されて終わりましたが

磯田さん あの~ 尊氏が鎌倉を短期間で
鎮圧できたのは なぜなんですか?

これね
容易なことじゃないと思いますよ。

京都と関東
東西で天下分け目の戦いが始まった時に

古代から まあ近世ぐらいまで
私 考えるんですよ。

あ… 本当は これ僕 自分の本で
書かなきゃいけないんでしょうけど。

フフフ… はい。

…ことに ある時 気付いたんですよ。

まあ 西からいくとね
川の方からいきましょうか。

瀬田川。
まあ 壬申の乱とか 瀬田川。

あと もう一つが その 木曽三川ね。

それとあと 富士川。 それと 相模川。

この4つは
戦場になりやすいんですよ 川でね。

で あとね 山の地形でいくとね
狭まっているところでね まず 関ケ原。

でね 関ケ原で決着がつかなかったら

山じゃないけど 浜名湖の所の

橋本って所あるんですよ。

浜名湖で分断されるんですね。

で 橋本。
橋本でも支え切れなかったら

小夜の中山っていうのがあるんですよ。

あの 静岡の真ん中の峠。

で これでも無理だったら
静岡 過ぎた所に

薩峠っていうのがある。

これも なかなか厳しいとこなんですよ。

ほいで これを抜けられたら
今度は箱根の山で止めるんですけど。

で まあ あれ? 4つか5つ
ちょっと 数増えてたらごめんなさい。

ハハハ はい。
徳川家康の場合は 戦場が

関ケ原まで
ワ~ッと 東側から延びたわけですけど。

そうですね ええ。
ええ。 あの~

時行の場合は 橋本までですから

浜松市の先まで
延びたわけですよ 浜名湖畔まで。

結構ですよ
これ 真ん中まで来てるわけですから。

まあ それ考えるとですね
なかなかの勢いですよ。 う~ん。

後ろ側の後醍醐天皇なんて

適当に 武士なんか
戦って衰退してくれりゃいいわって

本音 やっぱあると思うんですよ。
ああ~。

まあ だから大変な戦ですよ これ。
う~ん。

そんな必死の尊氏に破れ
鎌倉を脱出した時行は

打倒尊氏を諦めてはいませんでした。

時行は どうすれば
尊氏を討ち破れるのか 選択です。

選択1は
「北条氏を糾合する」というものです。

そして
選択2は「後醍醐天皇と手を結ぶ」です。

皆さんが北条時行の立場なら
どちらを選択されるでしょうか。

まず 萱野さん いかがでしょうか。

私は
1の「北条氏を糾合する」を選択します。

はい。 やはり 尊氏は敵ですけど
後醍醐天皇も敵ですよ。

ええ。 時行からすれば。

で ここはですね やっぱり武士の矜持で

曲げられないんじゃないかなと
思うんですよね。

で もしですね

後醍醐天皇に許しを請うて
その傘下に入ったとしたら

その後 どうなるんだろう?

その 武士としての…

…ことになるんじゃないかなって
いうふうには思うんですよね。

武家の間で
権力を取れたとしてもですね…

やはり 強ければ認めてもらえる
というところありますので。

まずは
自らを強くするということを考えますね。

小林さんは どちらを選びますか?

私も北条氏
1の「北条氏を糾合する」方を選びます。

というか 絶対2は思いつかない。
ほう。

それだったら…

同じ武士だし 同じ いわば同根ですよね。

それと 知らない 後醍醐天皇のとこに
行ってですね 頭下げて…。

まず大体…

では 関さんは いかがでしょうか?

私は 2を選択したいと思ってます。
はい。

先ほど言った
良将という言い方からすればね

幕府を もう一回
再興するとか云々とかというよりは

とりあえず当面の敵である尊氏との関係
尊氏憎しとの関係

ここを前提とすればですね
敵の敵は味方であるという

この余地は
多分 ありえただろうと思って 僕は

2を選択しました。 はい。

さあ 意見が分かれましたが
ちなみに 時行を主人公にした漫画

「逃げ上手の若君」の作者

松井優征さんにも
実は 選択していただきました。

僕は まあ 地道に近くの北条氏

手の届く範囲の北条氏を集めて
戦うと思います。

あの~
後醍醐天皇に降伏するっていうのは

もちろん敵の敵とか
そういうジレンマもあるんですけども。

やっぱり あの…

僕は すごく炎上しないように
生きてきた人間なので

そういう デリケートなものには触れず
近場の仲間

もう だいぶ減ってしまったけども…

…のが 多分
僕は精一杯じゃないかなと思います。

さあ 磯田さん
皆さんの選択 聞いていかがですか?

私はね 結論から言うとね
1の「北条を糾合する」なんですけど。

まだ 鉄砲ないですから 大丈夫ですよ。

で だんだん それを主要街道の方にまで

山城を こう 造っていってですね

相手側に対して
非常に圧迫を加えていくと。

で そのうち焦って…

アハハハハハ。
で まあ よく…

…とか言いますけど
「戦は十五になってから」って

私 よく言うんですけど。
そうなんですね ハハハ!

まず…

なるほど ドッキングしてきましたね。
だから1 2の順番で

やるのもいいかなと思ってるんです。
ハハハハハ。

さあ どちらを選択しても 厳しい現実が
待ち構えているようですが

時行の選択をご覧いただきます。

山深い要害の地 奈良県吉野。

ここに朝廷を開いた後醍醐天皇のもとに
一人の使者が現れた。

携えた文に したためられていたのは

行方知れずとなっていた時行の
切々たる思いだった。

「父 高時が帝からお咎めを受けたことを

この時行は
微塵も恨みに思っておりませぬ。

憎いのは
我が北条家の与えた厚い恩を忘れ

更には 帝にも背くという大逆非道を行う
尊氏でございます。

北条氏は 一族を挙げて尊氏を敵と定め
恨みを晴らしとうございます。

我らの真情をおくみ取りいただき
朝敵 尊氏誅伐のため

帝の軍勢に加わるお許しを
頂きとうございます」。

時行は 倒幕を命じ
父を自害に追い込んだ後醍醐と

手を結ぶことを選んだのだ。

後醍醐天皇はこの申し出を受け入れ
時行と北条氏を赦免した。

後醍醐にしては…

…ということは
当然思ってますから

北条一族
あるいは北条の得宗被官で

全国に
潜伏したり散ってたりするので

仲間を増やすっていうことが
求められていたことだと思います。

泥臭くても ちゃんと勝つという
ことが

至上命題 最大の目的なので

後醍醐も北条も…

まあ 北条時行にしてみれば
諸悪の根源は後醍醐だっていう

話になるとは思うんですけれども

時行としては やはり
足利氏が北条氏を裏切った

まあ 鎌倉幕府を
裏切ったっていうことが

何よりも
許せなかったんだと思います。

足利氏っていうのは
鎌倉時代を通して北条氏から

代々奥さんをもらったりですとか
ほかの御家人たちと比べて

だいぶ優遇されてきているんですね。

…っていう その思いが

何よりも強かったんだと思います。

南朝方となった時行は
奥州から上洛を目指す

南朝の雄
北畠顕家と合流して

再び鎌倉を陥れる。

中先代の乱から 2年後のことであった。

翌年 正月
時行は後醍醐天皇の求めに応じて

北畠軍と西へ進軍した。

しかし 北畠軍は和泉国の戦いで敗れ
時行も戦線を離脱する。

この1年後 劣勢を挽回するため

後醍醐天皇は
壮大な構想の実現に向け動いた。

後醍醐方 南朝方の構想っていうのは…

例えば
東北 関東であれば そこから上洛する。

時行は 後醍醐の皇子の一人を戴き
東へ向かうことになった。

9月 時行一行は
奥州へ向かう軍団と大船団を組んで

伊勢の港を出航したと
「太平記」は記している。

ところが 折あしく 遠州灘で大嵐に遭遇。

船団は散り散りになり 時行は その後
またしても行方不明となった。

時行は
後醍醐天皇と手を結ぶことを選びました。

萱野さん この選択には どんな考えが
時行にあったと思いますか?

実際のところは この選択肢しか

なかったのかな
というふうには思いますね。

中先代の乱という
武装蜂起を失敗してるわけですよ。

で その時に
重要な家臣を失ってるわけですよね。

それで 相当やっぱり 勢力は

縮小しちゃってるんじゃないかと
思うんですよね。

それで…

…この時点で というふうには思いますね。

とにかく…

…というふうに私は思いますね。

まあ 時行の場合…

全国の武家が
いろいろな系統があるにしても

北条って大看板であって。

尊氏 足利家という看板の大きさと
恐らく匹敵するか ひょっとしたら

深層心理の中では
もっと でかいかもしれない。

とすれば…

…というふうな気がします。

で 尊氏憎しの感情が 支えたというのは

まあ「太平記」にも書いてあるし
今の手紙もそうでしたけれども。

う~ん… やっぱり 分かりやすすぎる
ストーリーだなというふうな気はします。

実際さっきのですね
手紙のですね 冒頭部分のですね

「父 高時が帝からお咎めを受けたことを
微塵も恨みに思ってません」。

恨みに思ってるから書くんですよね
こういうことはね。 アハハハハハ。

あの 本当に思ってなきゃ
こんなこと書かないですよ。

こんな…。 確かに。
だからそれは 作家的に見ればですね

当然 これは 恨みに思っとるということ
だと 僕は思います。 ハハハハ。

で 一方の後醍醐天皇も
朝敵に指名した北条氏を

簡単に赦免したように見えたんですが。

…の状況は
覆い隠せない部分がありますから。

この選択は
まあ 決して悪い選択ではないだろうと。

少なくとも
後醍醐 それを信じてたと思います。

うん うん。

やっぱり
時行の選択がね これ究極の目標は

北条幕府を再興したいわけですよね
時行さんにしてみるとね。

はい はい。
まずは その 後醍醐天皇と組んで

尊氏をやっつけなきゃいけませんよね。
関東じゃ結構 暴れられる余地が

時行には
家柄からして あるわけですからね。

んで 後醍醐天皇の悩みっていうのは

この時代 独自の自前軍隊
持ってないわけですよね。

だからやっぱり
武家に頼まなきゃいけないわけですよね。

ですから まあ…

…みたいなさ。
なるほど。 そういうもんだと

時行が自覚しているならば
尊氏をやっつけたあとっていうのは…

…後醍醐天皇に。

やっぱり 今度は…

ほう ほう ほう。
まあ 北朝の天皇 立てるとか

自分の言うことを聞く皇子様を立てて

室町幕府じゃなくて
きっと 六波羅幕府だと思うんですよ

そん時は。
フフフ ええ。

六波羅探題があった場所に…

フフフフ。
そういう流れでしょうね。

そういう長期計画を この人
持ってたのかなとか 想像しますよね。

本当。
うんうん…。 うん。

遠州灘の嵐から2年後

時行の姿は
幼いころを過ごした 信濃にあった。

諏訪大社上社の神官を務めた

守矢家の記録を伝える 神長官守矢史料館。

ここに残された記録によると 時行は

尊氏方の信濃守護 小笠原氏と戦っていた。

こちらにですね 相模次郎殿
と書いてあるのが

北条時行のことですね。

相模次郎時行を支えたのは

中先代の乱を共に戦った

諏訪氏一族だった。

…というふうに考えられます。

ここに「父祖の忠節忘れ難く」と

書いてありますので 諏訪頼重以来の

忠節というのは残っていたということが

分かる史料だと
思います。

6月24日から10月の下旬まで…

…ということが書かれていますね。

よく持ちこたえたと思いますが ええ。

大徳王寺城の所在は
長らく不明だったが

長野県南部に位置する 伊那市

常福寺の
「寺院開基帳」という記録に

その名が
残されていた。

溝口松風峰大徳王寺と書いてありますね。

常福寺の裏には大徳王寺城と思われる
遺構が残されている。

今いる所が ここですので。

ここに沢が流れていて
こっちに沢が流れて

こっち側にも沢が流れて。

ちょうど これ全体が

大徳王寺城というふうに

考えていいと思います。

こちらが
大きな堀になってますけど これは多分

こんなに深くなかったと思うんですね。

これやっぱり 人が手入れて 深くして。

あちら側は沢ですので まさに

自然を
うまく利用した 山城の典型みたいな

感じですよね。

大雨になると
この谷幅いっぱいに水が流れますから。

本当 堀とすれば
もう相当に立派なもんです はい。

敵対する足利方の守護 小笠原勢も
向かいの山に砦を築き

時行の戦は長期戦となった。

4か月に及ぶ籠城の末
大徳王寺城は開城したが

その時 そこに時行の姿はなかった。

時行が再び歴史に現れるのは
籠城戦から はるか12年後のこと。

勢力挽回をかけた南朝方が
尊氏を破り鎌倉を奪還する。

1352年 閏
2月20日

時行は
3度目の

鎌倉入りを
果たした。

時を同じくして
奈良の南朝軍も京都に攻め込み

留守を預かる尊氏の息子
義詮を近江に逃亡させた。

遂に 南朝による
京都と鎌倉の同時占領が達成され

南朝政権が再興するかに思われた。

しかし…。

鎌倉の南朝方は尊氏の反撃に遭い

時行の鎌倉入りから
僅か2週間足らずで

鎌倉を離れた。

同じく
京都も義詮に奪い返され

南朝方は またしても
逼塞させられることになる。

時行が3度目の鎌倉入りを果たした
翌年の5月。

鶴岡八幡宮の記録に 「凶人」すなわち

幕府への反逆者が
捕縛されたことが残されている。

捕らわれたのは

北条家の家臣として
長く仕えた

長崎氏 工藤氏
そして

相模次郎こと
北条時行。

鎌倉幕府滅亡から20年。

1353年5月20日

時行は長年連れ添った
被官らと共に

鎌倉の西 龍口の刑場で
斬首された。

鎌倉にも 中先代 入れれば
3回攻め込んでいるわけですから

鎌倉幕府滅亡の時に…

足利尊氏打倒に生涯をささげた時行は

その最期を 鎌倉から僅かの場所で迎えた。

3度目の鎌倉入りを果たした
時行でしたが

その次の年 鎌倉の近くで
その生涯を終えることになりました。

名前が相模次郎ってのが
なんとも痛々しいんですよ。

…ですよ相模次郎というのは。

切ないですね。 何か うん お兄ちゃんが
生き残れなかったから

僕が北条家を再興するんだ みたいな。

それで それが鎌倉のそばで捕まって
龍口で首切られてくるっていうのは

かわいそうだよね うん。

すごく儚いなというかですね
彼の人生の その~ 辛さというものを

物語ってるんじゃないかなって
思うんですよね。

もう 拠点も奪われて
それこそゲリラ戦のように

いろんなところで
戦わざるをえなかった

南朝の一武士として
戦わざるをえなかった時行にとって

やっぱり…

で 自分の
ホームタウンでもありますからね。

そうですね。
確かにおっしゃられるとおり

ホームタウンなので 鎌倉は地盤だから
そこを狙わざるをえないんだけど

それも ばれてるわけですよね。
それで これがいかにも残念で…

でもさ さっきの
選択肢の問題じゃないけれども…

だから そこは 寄るすべとしては
一番大きかったかもしれないから

その辺りに逃げ込むのも
一つの方法だったかなと。 ああ~。

こういう方向も
あったかもしれないですね。

惜しかったな~と思うのは
一味さんざん 北条氏になって

かなり短期間で
北条の統治の優れた面という

こういう武器を失っちゃってるって
ことですね。

北条得宗家っていうのは これやっぱり

全国に大きな領地を持ってたことと
同時に ああいう まあ

最後まで一緒になってくれる
身内人っていうのは

まあ いるわけですけど
でもまあ これ…

…から もってたわけで。

で この…

…という気はしますよね。

さあ 今日は
北条時行の生涯を見てきましたけれど

尊氏に負けたとはいえ
歴史に大きな影響を残していたように

今日 皆さんのお話 聞きながら
思いました。

関さんは いかがですか?

時行の中先代の乱がなければ ですね

次なるステージというものがないわけで。

とにかく…

…だろうということは
まあ間違いないと思うんですね。

そうですねえ。

時行は まあ
いろいろ負けたとは言われてますけど

決して こう
それで撤退できないんですよね。

非常に こう 心に訴えるものはあるなとは
思うんですよね。

あの不利な状況から 3度 やっぱり
ホームタウンを奪回できるというのは

まあ 今の人々に対しても勇気を
与えるんじゃないかなというふうには

思いますよね。 ええ。

鎌倉武士っていうのは
一旦 事が破れたら みんなで一斉に

腹を切って しょうがないよねっていう
ふうな感じなんだけれども。

で 腹切る代表選手が
北条家みたいなものなんだけれども…

ある種 新しい人間の こう… 人間像の

先駆けになった人間じゃないかなと。

後世に与えた影響大の人間だと
私も思います。

さあ 磯田さん今日は
北条時行について見てきましたけれど

いかがでしたか?

やっぱりこれ
何で 時行 勝てなかったんだろうなあと。

逆 言うと
なぜ 足利は勝てたんだろうなっていう

ことを思いますね。
うん。

ものの本 歴史書 当時の人たちが
感想を述べてるのを見てみたら

やっぱり こう 時行側の人材難っていう
ことを挙げてるものがありますね。

一方で足利氏は あれだけ内紛もやって
兄弟仲もよかったとは言えないのに

所領裁判の
緻密さというようなことでね

実務家の直義がいたり。
ええ。

もう
武闘派の高 師直みたいなのがいたり

人材が多士済々で。
でまあ 何だかんだ言いながら

尊氏が みんな好きで
固まってるわけですよ。

で この…

…っていうことを
やっぱり思い知らされた気がしますね。

ただ思うのは
この時行が一つだけ持ってる

有利さがあるんですよね。

頼朝みたいに すごい 自分たちの
まさに北条であった頼朝みたいに

その すごい女の子を見つけて
そこの人たちと一緒に

もう一回やるっていうのだって
よかったと思うんですよ。

すごい いじましくなるじゃないですか。
いじましいっていうか 何か

惜しい感じするじゃないですか これ。
いや確かに。

さすが 今になって漫画になって
愛されるだけの人だと思いますよ。

本当これ 企画聞いた時 私ね

時行… なんて
マニアックなことをやるんだと。

ハハハ…。 だけど このマニアックな
針の先のような

時行の窓から見た日本史って
結構 鮮明ですよ。

うん。 今日の議論見てのとおりで。
そうですね。

ぐっと あの時代に
厚みが増した感じがしますよね。

はい。 今日は 皆さん
ありがとうございました。

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