逆転人生「人生“最期の食事”で逆転できる」[解][字] …の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

逆転人生「人生“最期の食事”で逆転できる」[解][字]

人生を通して「食」に向きあってきた管理栄養士の心温まる逆転劇。ロンブー淳が語る「母ちゃんの味噌汁」の思い出。梅宮アンナは、父・辰夫の秘伝レシピノートを披露する。

番組内容
大阪市にある淀川キリスト教病院では、ホスピスで過ごす末期のがん患者にむけて「リクエスト食」を提供している。毎週一回、患者が食べたいメニューを聞き取り、全力で応える取り組みだ。この取り組みを提案したのが、管理栄養士の大谷幸子さん。患者がリクエストするのは、何気ないメニューがほとんど。ただそこには“人生の思い出”が詰まっているという。大切な人たちと囲んだ懐かしい食卓を思い出し、ほっこり心温まる逆転劇。
出演者
【司会】山里亮太,杉浦友紀,【ゲスト】管理栄養士・大阪樟蔭女子大学教授…大谷幸子,【出演】梅宮アンナ,田村淳

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
バラエティ – トークバラエティ

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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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(患者)おいしかったよ~。

私は 長年
病院で管理栄養士を務め

順風満帆な日々を
送っていました。

そんな ある日。

もしもし?

夫に 末期のがんが見つかったのは

あまりに突然のことでした。

夫は腹水がたまり 何も食べられず
日に日に痩せていきました。

最期に 口にできたのは…

私は管理栄養士なのに 何もできず
夫は亡くなってしまいました。

それ以来 私が いつも患者さんたちに
尋ねてきたことがあります。

「あなたの人生…」。

この声に全力で応えることで

私は 悔しかった思いを

逆転させようと
したのです。

やりますからね あの人はね。

最期まで
患者さんが…

そうして
一体 どんな奇跡が起きたのか?

ほっこり温かくて 元気が出るお話を
聞いて下さい。

♬~

今回は 管理栄養士の大谷幸子さんに
お越し頂きました。

よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。

今日のゲストのお二人も

近年 大切な家族を亡くされた経験を
お持ちということでございます。

さあ まずは淳さん。
去年8月ですね

母ちゃんを がんで亡くしましたけど

できるだけ 母ちゃんの思いに
どれだけ寄り添えるかっていうのは

やっぱり 残された男3人

父ちゃんと俺と弟とで
すごく考えましたね。

さあ そして アンナさん。
はい。

私はですね ちょうど2年前に
父を亡くしまして

もう 入退院を
すごい繰り返していたので

結構 大変だったことも
いろいろありました はい。

今回の「逆転人生」は
皆さんの大切な人を思い浮かべながら

ご覧頂ければと思います。

私が生まれたのは
終戦から 5年ほどが過ぎた金沢。

私は 食べることが大好きな子どもでした。

(幸子)ただいま~!

おかえり。

当時は 小さな借家暮らし。

母は 毎日 手料理を
作ってくれました。

いい にお~い。

今日は 幸子が好きな

ポテトサラダもあるよ。

わ~い わ~い!

私が大好きだったのが 母のポテトサラダ。

炒めた たまねぎが入っているのが

「我が家の味」でした。

(一同)いただきます!

家族4人で 母の手料理を囲む。

私にとって
何より幸せな ひとときでした。

そういった…

ただいま~

…って 誰もいないか。

私が 10歳の時
母が病気で亡くなりました。

しばらくすると
姉も嫁いだため

高校生の私が
台所に立つことになりました。

あ~ もう!

でも 部活が忙しく 母のように
手の込んだ料理は作れませんでした。

ただいま。
あ~ 父ちゃん 帰ってきた!

ちょっと待って ちょっと待って。
もうすぐ 御飯できるから。

栄養について学ぶため 私は短大に進学。

栄養士の資格を得て
地元の病院に就職しました。

(看護師)両側に病室があって…

はい。 ここが病室です。

はい!
え~ ベッドが 3床ありまして

ここで 皆さん 食事をとって頂きます。

当時 病院食は「3悪」。

提供する時間が かなり早い

そして
まずい 冷たいと揶揄されていました。

(看護師)ちょっと 幸子さん?

はい。
(看護師)次 行きましょうか。

はい…。

もっと おいしい料理を食べてほしい!

やる気が みなぎっていました。

しかし…。

(幸子)あ~…。

あ~ 次のメニュー どうしよう…。

ま~た追い込まれてんの?
早くしないと 締め切りに間に合わないよ。

人手も予算も限られる中

多くの患者の食事メニューを考えるのは
想像以上に大変でした。

目標や理想はあっても
目の前の現実で いっぱいいっぱい。

患者さんのことを思いやる余裕が
消えていました。

それは 私が宿直で
病院に残っていた日のことでした。

☎

はい 栄養管理室です。

ああ 大谷さん?

患者さんの夕食に出た
みかんなんだけどさ

裏側 腐ってたよ。

すいません。
確か もう1セット余分に

病院食があったはずなんで

それと取り替えて頂いてもいいですかね。
お願いします。

ちょっと あなた!
なに 電話だけで済まそうとしてんのよ!

どれだけ 患者さんが嫌な思いしたか
分かってるの?

ただでさえ 入院で気落ちしてるのに
腐ったみかんなんか出されて。

病棟に来て 直接謝るのが筋でしょ!

こんな しっかり怒られたんですか?

ただただ こちらは

献立を作成して
作るだけっていう立場に甘んじていた。

忙しさにかまけ…

そのころの私は
本当に 管理栄養士失格でした。

う~ん… 特に 当時の病院食は
「3悪」と言われてたっていうのは

これ 現場で働く大谷さんとしても
何か 感じることはあったんですか?

(大谷)はい 特に
「早い」という点では

もう 16時過ぎ
まだ明るいうちから

夕食を出すっていうようなことも
行われたりしていたので

そういった 早い時間に
食事を出すっていうのは

それは全く こちら側の
勝手な都合なんですね。

すなわち 調理師が18時に出すと
時間外労働が増えるわけです。

ですから 患者さんの思いとか気持ちに
全く寄り添ってなく

サービスもなってなかった
もう ありえないことだったと思います。

さあ ゲストのお二人もですね
お母様や お父様がですね

闘病中に 病院食をとられてたと
思うんですけども。

ほんとにもう 数多くの
いろんなエピソードがあるんですけど

一番 いや この人すごいなって
思ったのは

お付きの男の子に…

え~?
(梅宮)ほんとに こう 大好きなものを

いつも自分で
しかも作って食べてた人なので

まあ…

炎上ですよ ほんとに。
まあ 人それぞれにね

思い出につながる味って
いろいろありますけども

淳さん どうですか?
家庭の味って言われたら。

うちは 母ちゃん
おみそを手作りしてたので

で そのおみそは

すごく 母ちゃんの味だなと思って
残ってますね。

で 母ちゃんのおむすびと
卵焼きっていうのを

東京に来た時には
いつも作ってもらって

「もっと 他の作るのに」って言いながら

いや でも 俺は
これが母ちゃんの味だし

このお握りと 卵焼きと おみそ汁
もう この3点セットで

もう 十分 母ちゃんの味でしたね。
へえ~ うわあ 何かいいな。

で あまりにも うまいから
俺 レシピを教えてくれって

若い頃にも ずっと聞いてたんだけど

母ちゃんが…

(笑い)

教えてもらえなかったの。
で 結局 母ちゃんは他界しちゃって

「母ちゃんの みそ汁
食いたかったのにな」って言ったら

うちの奥さんに そのレシピは
ひっそりと継がれていて。

へえ~。
今 この うちの次女ですけど

もう みそ汁が大好きで。
へえ~。

まだ 箸とか お茶わんとか
持てない状況なんだけど

みそ汁の茶わんだけ
自分で持って 飲むっていう。

これ だから
ばあちゃんの みそ汁。 はあ~。

ちゃんと そのレシピを いつの間にか

渡してるっていうのもね 何かいいですね。

アンナさん どうですか?

これは 父が漬けてくれてた
らっきょうなんですね。

わ~
絶対 うまいだろうな。

これが これ ほんとにもう
数日前に撮った写真なんですけど

これが最後のらっきょうなんですね。
へ~。

先週の話なんですけど
引っ越しがあって

大事なものとして 私
抱えて 持ってったものです。

正真正銘の辰ちゃん漬けですか。
(笑い)

そうなんです。
これが本物の。 (田村)これが。

我々は 原宿のタレントショップなんか
行ってましたけど。

原宿といえば 何か ラフォーレじゃなくて
辰ちゃん漬け。 そうなんですよ。

山里さん 何かありますか?
家庭の味で。

うち 家庭の味っていうか 母が
ババロアを作ってくれるもので。

ほんと簡単なやつなんですけども
母の中で決まってまして

僕が仕事で すごく スベった時にですね

家のとこに置いといてくれるんです
冷蔵庫の中に。 へ~。

はい。 僕は 「すべりババロア」って
言ってたんですけど。

まあ 食べるんですけど

一時期 ものすごい頻度で
冷蔵庫に入ってる時期があって。 (笑い)

時には その冷蔵庫を開けて…

大谷さんも だから 大人になられてからの
食事の思い出ってあります?

はい。 結婚してからも
いろいろ 食事の思い出はあります。

私は
25歳の時に結婚。

夫は 会って1週間で

指輪のサイズを聞いてくる
熱烈なアプローチでした。

すてき。

きれいね~! は~ いい香り。

夫は 毎年 私の誕生日になると

歳の数だけ
真っ赤なバラを贈ってくれました。

あ~ いい匂いする!
でしょ~?

そのお礼に 私は 具だくさんの
ビーフシチューを作りました。

あ~ いいですね こういうのは。

うん うまい!
よかった。

バラの花束を贈られて
ビーフシチューをごちそうする。

それが 私たち夫婦の
決まりになっていました。

夫は常々
「幸子が やりたいようにすればいい」と

私に言っていました。

そうなんですね。
(田村)すごい。

49歳の時 夫にも背中を押されて渡米。

ワシントンでの研修に参加しました。

海外の先進的な医療現場で
管理栄養士が どう働いているか

学べる機会を得たのです。

アメリカでは 管理栄養士が
医療チームの一員として

医師とも 対等に渡り合っていました。

帰国後 すぐに 私の思いをかなえる
チャンスが訪れました。

当時 働いていた大学病院の
建て替えが決まり

食堂が リニューアルされることに
なったのです。

あのさ
食堂のリニューアルについてなんだけど

私に アイデアがあるの。
はい。

各フロアに 対面盛り付けキッチンを
作るというのは どうかしら。

えっ? 対面盛り付け?

最後の盛り付けを
患者さんの目の前で行えば

熱々のメニューが提供できる。

これまで 1か所だったキッチン。

新たな病院では 患者さんのいる
9つすべてのフロアに分散させ

出来たての食事を提供したいと
考えたんです。

各フロアって すごい数じゃ…。
そうよね。

「3悪」と揶揄されていた 病院食。

病と闘う患者さんの栄養状態を
改善するため

少しでも 家庭の環境に
近づけてあげたいと考えたのです。

私は 院長に じか談判。

対面盛り付けキッチンを認めてもらい
最新鋭の厨房機器を導入しました。

すごっ。

病棟の…

おいしそう! 見て見て。
本当!

(患者たち)早く食べた~い!

お待たせしました。
どうぞ ごゆっくり。

おいしかったよ~。
やっぱり 熱々はいいねぇ。

ありがとうございます!

患者さんの栄養状態が上向き
手応えがありました。

駅まで お願いします。

お客さん ここの御飯食べた?
えっ?

いや~ 最近
とってもおいしいって評判でね。

へえ~。

この成功で自信を得た私は
更なる改革に取り組みました。

そろそろ 静脈栄養と並行して…。

院内の医師や看護師
薬剤師たちと連携して

医療チームを立ち上げたのです。

職種を超えて結集する試みは
当時 国立の大学病院で初めて。

先進的だと
全国から視察が相次ぎました。

56歳の時
東京大学医学部附属病院から

「管理栄養士の室長として来てほしい」と
白羽の矢が立ちました。

私たち夫婦は 結婚32年目にして初めて

金沢と東京で
離れて暮らすことになったのです。

ところが 単身赴任の3年目。

まさかの事態が起きたのです。

もしもし?

夫の病名は がん。

余命は1か月と伝えられました。

それからは 週に2回 東京の職場と
金沢の病室を往復する生活になりました。

起きてる~?
あぁ… ありがとう。

どう? 食欲は。
うん…。

何か 食べたいものある?
う~ん…。

ビーフシチューでも作ってこようか。

いや… ほんとに食べれないんだ。

そうだよね。 ごめん。

じゃあ 東京に帰るね。
何かあったら 電話して。

うん。

しないと思う。
えっ…?

さみしくなるから。

なに 言ってんのよ…。

じゃあ いってきます。

はい?
お届け物です。

ああ…。

59本のバラ。

夫は こんな状況でも
私の誕生日を祝ってくれました。

(泣き声)

お見舞いに通いながら

私は 夫が食べられるものを
探し続けていました。

メロン切ったよ。 これなら どうかな?

ありがとう。

ありがとう。
すごくおいしいよ。

よかった。

1か月後。

夫は 本当に逝ってしまいました。

(大谷)あと1か月っていうことを
聞かされた時には

もう既に 腹水が ぱんぱんにたまって

ほんとに好きなものの
僅か一さじ

一口も食べれない状況でした。

私が 長年 この
食べることの専門家として

ず~っと仕事を続けていたのに

手も足も出ないという状況でした。

それと こうなるまで離れていた
そばにいてあげられなかったという

申し訳ない気持ちで いっぱいでした。

僕も 母ちゃんの最期は

自分が東京にいて 母ちゃん 下関なんで

ここが
結構な距離で なかなか会いに行けない。

プラス コロナ禍だったんで

僕が下関に行ったとしても
病室に思うように行けないとか

そのつどそのつど
まあ 母ちゃんと 病室を出る時に

あと何回 母ちゃんと会えるんだろうかと
思いながら やっぱ病室出るんですけど

やっぱもう 何もしてあげられない。

もう見守るしかできないし 母ちゃんが
何を今 求めてるんだって聞いても

母ちゃん
オーダーをしてくるわけではないんで。

だから うちの その 男3人で

今 母ちゃん こんなのやったら
喜ぶんじゃないのというのを

ちょっとずつ考えながら やってる
あの時間は

う~ん…
何か 母ちゃんには寄り添ってんだけど

自分たちの その 力のなさみたいなのを
痛感する時間でもありましたね。

病室出る時はね
ほんと つらいですよね。 う~ん。

アンナさん いかがですか。

父は 病室にいても 家にいても
何か書いてるんですよ。

いつも何かを書いてるので。

で ああもう…
まあ 何かこう 明るくね

「何かあった時 私たち大変な思いするから
ちゃんと いろいろ書いてね」って。

「分かった 分かった」って言って

ずっと そういうものを書いてくれてると
思っていたら

亡くなったあとに
その 遺品の整理というか した時に

結局 書いていたのは 最後の最後まで
お料理のレシピだったんですね。 へ~。

多分 いつ自分が死んでしまうか
分からないっていう

恐怖心とともにだったと思うんですけど

やっぱり
一番楽しい時間だったと思うんですね。

今日はですね その梅宮辰夫さんが
書き残した 貴重な このレシピノート。

すごっ。
はい。

特別に持ってきて頂きました。
ずっしり重いんですよね。 分厚いですし。

(梅宮)一部なんですけど
持ってきたんですけど。 あ たくさん。

(梅宮)雑誌の切り取りから
また その切り取ったものを貼って

そこから また
自分で アレンジしてくっていうのを

もう すごい数が残ってまして。
へ~。

そんな難しいのはね
ちょっと 多分 無理ですけど

今 私が ちょっと自分ができそうなものを
ピックアップして

再現 今したりしてます。
へ~!

だから ほんとに生きているときは
何一つ聞かなかったんですよ。 うん。

母も私も嫌いで。

(笑い)

僕 梅宮さん
何度も お仕事さしてもらってますけど

やっぱ 豪快な人だったんですよ。
はい。

だけど 豪快な人なのに
このレシピ開くと すげえ繊細。

全部の料理のレシピのタイトルのとこ
わざわざ全部だよ。

定規で横線引いて
この丸みを付けるのを

後から 丸くしてるのね。
そうだ…。

これ 結構な手間だと思うんだよね。
そうですよね。

(田村)いかに
料理のタイトルが重要かっていうことを

多分
梅宮さんは感じてるんだと思うんだよね。

(梅宮)はい そのとおりです。

あと ここ。 このままでは70点って

自分が気に入ったレシピに 70点って
結構な辛口。

で ここに みそを加えてとかって
書いてんのが。

アレンジで もっとおいしく。
(田村)うん。

仙台みそだったら
70点のものが 81点になりますと。

へえ~。 すげえ。

レシピの名前 変えちゃってるんだから
修正ペンで。

(笑い)

夫を亡くし 悲しみに暮れていた私。

逆転のきっかけをくれた人がいます。

当時 院長を務めていた病院で

新たな病院食の在り方を
模索していました。

私の新たな挑戦の舞台は
大阪の 淀川キリスト教病院。

ただ そこは 私が これまで経験してきた
どの職場とも違っていました。

任されたのは ホスピス。

積極的な治療で
回復を見込めなくなった患者が

穏やかに最期を迎えるための場所です。

あ~! はじめまして。
管理栄養士の大谷と申します。

苦手な食べ物は
ありますか?

就任して 10か月。
私は院長に 思い切った提案をします。

院長。 週に1度
患者さんに好きなものを

食べてもらえるようなことは
できないでしょうか?

そうです。
月に1度じゃ駄目なんです。

この病院では もともと
「イベント食」と題して

月に1度 寿司や しゃぶしゃぶなど
豪華なメニューを提供する

先進的な病院食を提供していました。

しかし ホスピスの患者さんの
平均余命は 3週間。

月に1度では
食べずに亡くなる方もいます。

そこで これを進化させ 週に1度

しかも 患者さんの要望に応えて

食べたいものを何でも作る形に変えたい!
と提案したのです。

もう ただただシンプルに

リクエスト食かなというふうに
思いまして

そういった食事の提供を
したいと思いました。

ホスピスで 私が提案した
「リクエスト食」がスタートしました。

(ノック)

失礼しま~す。
岸上さん 栄養士です。

あ どうもどうも
先生 すんません。

こんにちは。 お元気ですか。
はい。

あの~ 板さんが
腕を振るう日ですけども

明日は
何か召し上がりたいもの ないですか?

(大谷)バッテラ。
はい。

すっと出てくるね。
(梅宮)すごい。

ご存じですね? あの… さばずしです。
さばずしですよね。

岸上道夫さんは
末期の すい臓がんでした。

食事の要望は
調理場に細かく伝えられます。

大変だあ。
緊張するな これ。

そうですよね。 本当に最期の食事に
なるかもしれないですもんね。

聞き取った患者さんの数は
多い時で 15人ほど。

食材は すべて当日集め
調理してもらいました。

たった1日で容体が大きく変わる
患者さんもいるからです。

調理師の高藤信二さん。

一流ホテルの和食部門を
担当していたこともあります。

ああ どうも。

どうぞ お召し上がり下さい。

岸上さんは免疫力が低下し

自分は なま物は食べられないと
諦めてきました。

うん。

(妻)食べられる? 良かったねえ。

患者さんがリクエストする食事は
人生の思い出が隠し味になっていました。

岸上さんは戦後
町工場で働いていたそうです。

食費を切り詰めて食べていたのが
安くて おいしいバッテラ。

家族も それを知り
いつしか みんなの大好物になりました。

人生の最後に 食事を通して
思い出をわかちあう。

それは旅立つ患者にも 見送る家族にも
意味ある時間です。

私が忘れられないのは
食道がんを患っていた 山下幸三さんが

奥様と食べた リクエスト食です。

当時 夫の幸三さんは がんが進行して
ほとんど食べられない状態。

ところが 山下さんから
リクエストされたのは

驚きのメニューでした。

(スタッフ)二人でお鍋。
二人で。

もうほんとに もうあと…

7年間 闘病と看病を続けてきた
山下さん夫婦。

私たちは お二人で
ゆっくりしてもらえるよう

広めの部屋を用意しました。

すき焼きを前に
焼酎を片手に持つ山下さん。

夫婦で鍋を囲み 山下さんは
豆腐を一口 食べてくれました。

喜んでる奥さんの姿を見てですか?
そうね。

夫をみとった奥様にとって
リクエスト食は

お二人で最後に過ごした
大切な思い出になりました。

私たちは毎日
必ず何かを食べて大きくなります。

ふだんから積み重ねる食事が
人生の思い出になっています。

かつて私は 愛する夫の最期を
見送るしかありませんでした。

その悔しさがあったからこそ

多くの人に笑顔になってもらうことが
できたと感じています。

いや~…。

アンナさん いかがでした?

やっぱり あの
ちょっと泣いちゃいましたけど

やっぱり御飯って
1人で食べるよりも

みんなと食べることに
すごく意味があって

うちの父は 自分が食べることも
もちろん好きだったけども

それ以上に みんなに
食べさせたいっていう気持ちが

すごいあった人だったので

ほんとに たくさんたくさん
作ってもらったし

1個1個が やっぱりいい思い出です。
うん はい。

淳さん いかがですか。

最後に元気よく
みんなで御飯 食べた日とか

もうほんとにもう
余命いくばくかの時に

まさか それが 最後の外食になるとは
思ってなかったけど

家族4人 水入らずで行った
下関の天ぷら屋が やっぱすっごい覚え

あ この写真。

これ まさか
外食が最後になると思ってないんだけど

母ちゃんも この写真
すごく大切にしてて

病室に飾ってた写真が これで
うん。

やっぱ食って すごい
家族というか

人と人を つなげてくれるなっていうのは
感じましたね。 うん なるほどね。

大谷さんなんですけれど
大谷さんは 現在大学で

教べんを
とっていらっしゃいまして

どんなことを
伝えようと思ってますか。

人って 生まれてから死ぬまで
ずっと食べ続けるわけです。

ですから そのような長い間の食生活の
その内容しだいでは

これは 最期の
亡くなる時だけでなくって

その内容しだいでは
例えば 生活習慣病になったり

あるいは 病気を
予防できたりするものなんですけれども

そういった大切な人の食生活に携わる。

そして 誠意を持って
携わっていくっていうふうな尊い仕事が

管理栄養士だと自負しています。

それを 後進に伝えていけたらなと
思っています。

大谷さん 食べるってことは
改めて人生において

すごい大切なことってことですよね。
(大谷)はい。

淳さん どうですか。

やっぱり みそ汁かな。
あ~。

母ちゃんから引き継いだ
うちの奥さんが作った みそ汁なのか

うちの娘が作った みそ汁なのか
分かんないけども

口の中に液体だけでもいいから
入れてほしいっていう時は

そのみそ汁でも いいなと思いましたね。

アンナさん いかがですか。
私はね やっぱりほんとに

父が作ってくれた のり弁が。 あ~。

私 中学校 高校
ずっと お弁当だったんですけど

父が全部
お弁当 作ってたんですね。

で 3段になってるんですよ。
ミルフィーユみたいに3段になってて

おのりをペタッて貼ると

お箸を入れた時に
ぺろって取れちゃうから

これぐらいにちぎってペタペタ貼っていく
のり弁なんですよ。 へ~。

何回も何回も 最後まで
のり弁みたいなののことを

ずっと やってくれてたので
やっぱ のり弁かな。 う~ん ですね。

山里さんは どうでしょうか?

俺はね ほんと あの
おつきあいさせてもらって

初めて誕生日に作って頂いたのが
チーズケーキだったもので

そのチーズケーキで
最期は終わらせたいなと思ってます。

(田村)へ~ ババロアじゃないんだ。
いや あれ スベった時のやつだから。

最期に うわっ やっぱ ちょっと待って
俺 最期 スベったの? って…。

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