英雄たちの選択「私には見えている! 福澤諭吉 日本近代化の夢」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択「私には見えている! 福澤諭吉 日本近代化の夢」[字]

福澤諭吉といえば明治日本を代表する言論人であり教育者。いち早く西洋を見て、近代化の目指す先を示したが、明治政府には危険人物視されてしまう。そして迫られた選択は。

詳細情報
番組内容
幕末にいち早く欧米にわたって、西洋の先進文明とその根源にある考え方を知った福澤諭吉。「西洋事情」や「文明論之概略」などのベストセラーで日本の近代化の道筋を示すことに。だが、明治14年、日本が目指す議会政治の在り方をめぐる政変に巻き込まれ、政府から危険人物として密偵を張り付けられてしまう。理想の日本の姿を説き続けながら、実際は挫折の繰り返しだった福澤。そして明治15年、大きな選択を迫られることに。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】真山仁,ヤマザキマリ,都倉武之,【語り】松重豊

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

NHK
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これは 明治20年
政府内で検討された 一通の文書。

「右の者 満3年 帝都 東京の外に
退去を命ず」。

名指しされたのは…。

福澤諭吉。

明治最大の啓蒙思想家にして
教育者。

「天は人の上に人を造らず」で始まる
「学問ノスゝメ」は

あまりにも有名だ。

ところが…。

明治政府は 福澤を危険人物と見なし

周辺に密偵を張り付け

誰と会い 何をしゃべったかまで
逐一報告させていた。

その訳は…。

福澤は…

(汽笛)

幕末 3度にわたって洋行した福澤は
理想的な政治体制を見いだした。

血を流すことなく 政権交代ができる。

福澤は 次々と啓蒙書を出版。

イギリス流議会制の導入を説き続けた。

その前に立ちはだかったのが
薩長藩閥政府だった。

福澤の国民への影響力をそぐために

政府内で ひそかに進められた工作…。

そして 引き起こされたのが

政府から福澤シンパを追い出す
明治十四年政変だった。

時の権力者たちが恐れた
福澤のすごみとは?

現代の論客が迫る。

福澤さんっていうのは 脳内処方箋ですね。
知識や学問や やる気を植えつけて

一人一人に それ発揮してもらうと
国が上へ上がってって独立が可能になる。

このグローバリゼーションと呼ばれている
世界が肩を並べて

討論をしなきゃいけない舞台に
立った時に…

ここで弁論力が問われるじゃないかと。

明治最大の知の巨人 福澤諭吉。

見え過ぎた男に迫られた選択とは!?

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今回の主人公は 福澤諭吉です。

福澤といえば 「学問ノスゝメ」が
ベストセラーになったり

慶應義塾を創設したりと
教育者のイメージが強いですよね。

磯田さん 今回 福澤諭吉
どこに注目しますか?

俗に…

あっ 福澤諭吉は
私が付け加えましたけども。

有名な 一身独立っていう
言葉があるように

福澤というのは 明治という
新しい時代を生きる

一人一人の脳内の近代化を
進めた人だと思いますね。

実は これをやったから
昭和ぐらいまでの

日本の経済の強さ
民間社会の強さっていうものを

私は つくり出して
G7の一角を担うような

日本にした力になったんじゃないかなと
思って

その点は 福澤諭吉のおかげ
っていう面もあるなと思うんですが…。

特に我々 今 現代は 先が分かりません。

明治も先が分かりませんでしたから
先行きが分からない時代に

福澤諭吉さんの話をするというのは
大事だと思ってます。

では 福澤諭吉はいかにして
知の巨人となったのか

その始まり
福澤の幕末を見ていきましょう。

東京 三田の慶應義塾大学。

明治の末に建てられた
図書館旧館に

福澤が生涯かけて目指したことを示す
ステンドグラスがある。

「ペンは剣よりも強し」という
ラテン語の上に描かれているのは

よろいかぶとを身につけた武士が
馬から降り

西洋文明の象徴である
女神を迎える様子だ。

封建時代の旧制度を改め
新しい文明の世を切り開くという

福澤の理想が表現されている。

剣の時代から ペンの時代へ…。

福澤の思想は
いかに形づくられたのだろうか?

福澤と西洋の出会いは 蘭学だった。

緒方洪庵が大坂で開いた蘭学塾 適塾に
郷里 中津から留学 修業に励んでいた。

下級藩士の次男坊だった福澤は

最新の西洋知識を身につけることで
人生を切り開こうとしたのだ。

福澤の修業の様子を伝える史料が
残されていた。

さまざまな図形が描かれている。

何かの設計図のようだ。

西洋式のお城の造り方の本ですけれども

福澤自身は その 築城に
それほど関心があったとは

思えませんけれども それを通して…

が この翻訳に
結び付いてるんだと思います。

福澤は オランダ語の原書を写し
独力で翻訳。

精密な図も添えた力作に仕上げた。

福澤諭吉なる蘭学に秀でたものがいる。

評判は 中津藩で一気に広まった。

安政5年 福澤は 藩士の子弟のために
蘭学塾を開く命令を受け

意気揚々と江戸に向かった。

しかし 待っていたのは
驚くべき現実だった。

開港したばかりの横浜へ
行ってみたところ

苦心して学んだオランダ語が
全く通じない。

英語が 世界の共通語となっていたのだ。

だが 福澤はへこたれない。

一念発起して 英語を学び始めた。

その決断が
人生を大きく開くことになる。

幕府に英会話能力を売り込み

遣米使節の従者として
アメリカに渡航したのだ。

更に文久2年 ヨーロッパ諸国を歴訪した
福澤は 旅の途中

国家のありように対する考えを
大きく揺るがされる経験をした。

あるオランダ人医師から

イギリスの政治について
講義を受けたのだ。

これは 福澤が旅行中の見聞を記した手帳。

講義の内容は 次のように記されている。

「イギリスの政治は 国王 上院 下院

3つの要素から成り立っており

政党は 自由 保守の2つがある」。

福澤を研究する政治学者
小川原正道さんは

この講義が 福澤に与えた衝撃を
次のように分析する。

…であったと 本人は回想しています。

まあ 後に 福澤は 日本に
イギリス流の二大政党制を導入し

また野党の役割が重要だということを
強調していくことになりますけども

その思想的な伏線というべきものが

この文久2年のイギリスでの体験
というところにあったんだと思います。

欧米諸国に追いつくには
政治体制の大変革が必要。

そう福澤は悟った。

ところが
帰国した福澤を待っていたのは…。

(砲声)

元治元年 禁門の変が勃発。

過激な攘夷論を唱える長州藩が
幕府に公然と反抗。

武力衝突を起こす。

その後 禁門の変で
幕府側についた外様の大藩 薩摩も

長州と同盟を締結。

倒幕へ向けた動きが加速してゆく。

慶応2年7月

福澤は
新たな政治体制を作る意見書を執筆。

幕府に提出した。

…っていうことを 非常にリアリスティックに
考えていたんだと思いますね。

しかし その提言が
実を結ぶことはなかった。

幕府は 長州との戦争に惨敗。

翌年 将軍 徳川慶喜は

大政奉還を行って
朝廷に政権を
返上してしまう。

福澤が期待をかけた幕府は
消滅したのである。

そして始まった 明治という新時代。

薩長を中心とする新政府は
文明開化路線を採用。

職を失った幕府の通訳経験者も
数多く採用された。

福澤にも 役人にならないかという誘いが
幾度となく届く。

だが 福澤は それを固辞し続けた。

「武家奉公は もうたくさん。

この後は 刀を捨て

読書渡世の一小民となるつもりです」。

新時代に福澤が
どう向き合ったのかを象徴する絵がある。

旧幕府勢力と新政府軍が戦った 上野戦争。

大砲の音が とどろく中

いつもと変わることなく
平然と経済学の講義を続ける

福澤の姿が描かれている。

福澤が 力を注いだのは
若い世代の教育だった。

明治5年に発表された「学問ノスゝメ」。

「天は人の上に人を造らず
人の下に人を造らずと言えり」。

封建的身分制から脱した 明治の世
学問を身につけ

社会に貢献し 身を立てよという
福澤の考えを表したものだ。

政治と一線を画し
在野の言論人として生きる。

福澤は 新時代に新たな一歩を踏み出した。

今回も さまざまな分野の
専門家の皆さんに

お越しいただいています。
よろしくお願いいたします。

福澤にとって その人生に 大きく
影響したのが 3度にわたる洋行です。

山崎さん この当時に
福澤が 西洋を見ることって

どれぐらい影響があったと考えますか?

大変ショッキングなことじゃないかと
思うわけですよね。

だって 日本で知れる海外っていうのは

本当に向こうから入ってくる

本当に限定的な
情報でしかないわけですよ。

ところが この人は 24から26歳にかけて

2回 大きな渡航をしてるわけですよね。

そんな中で やっぱり 彼が
顕著にあらわしていたのが

アジア圏に対しての
すごい俯瞰的な批判ですよね。

神仏に対する惑溺っていうのは
非常に危険ではないかと。

具体的にならないものに対して
漠然とした信仰をもって

それに対して
祈っていればいいっていう

まず そこから改革しなきゃいけない
っていうのは

強く感じたのではないかと。

多分 一番大きいのは
民主主義ってどういうことなのか。

つまり まあ 結局
国が豊かになるっていうのは

多くの人は 西洋化すれば
豊かになると思うんですけど

国民全体が
自分たちの国だという意識

まあ 今風に言うと

自分事で政治が
見れるみたいなことなんですけども

こうしないと本当の国っていうのは
豊かにならないんだよっていうのを

肌で感じた気がします。

そのために大事なのは…

ということを考えることこそが大事。

これを 多分 人生の
自分の重要なミッションにしたのかな

って気がしますね。

ヨーロッパで見てきたことについても
言えば

まあ 福澤は人民の気力っていう言い方を
非常によくしてると思うんですが

やっぱり
普通にその辺にいる人たちが

みんな 何て言うか
やる気があるっていうか

社会の一員だっていう意識がある。

自分の国だと思ってる
っていうことだと思うんですよね。

自分で 何をやっていこう
自分がどういうふうに参加できるか

っていうことを考えてる社会だと。

その背景には 自分で考える
っていうことをする習慣が身についてる。

それは 何だろうかというと やっぱり…

だから 学問が大事だっていうところに

最終的に行き着くのかな
というふうに思います。

福澤さんっていうのは…

つまり 西洋化が始まろうとしてる時に

どっぷり そうじゃない脳内でいる。
主君には忠義 親には孝行。

これでね 一本やりで
上から ものが下りてくる。

それで 朱子学で…

その処方箋を書こうというところに
気付いたっていう

合理主義者っていうのが

福澤さんの面白いとこだと思いました。

…を植え付けて 一人一人に
それ発揮してもらうと

国が上へ上がってって独立が可能になると
こういう考え方なんですよ。

すごい。 何か 視点が新しいですね。

さあ 帰国後に幕府に提出した意見書は
実現しませんでした。

ある意味で
ここで挫折を経験するわけですけれど

その後 在野の知識人への道を
福澤は選びました。

これ 真山さん どのように考えますか?

多分 彼 日本に帰るたんびに
ショックを受けるんだと思うんですよ。

多分 外国 行く時より。

この差は何だと。
簡単に言うと江戸幕府が滅びましたけど

じゃあ 新しいのは ただ名前の違う
幕府じゃないのかみたいなとこが

どこかにあったと思うんですよね。
そうすると やっぱり 彼は

自分の社会なんだっていうやる気を
まさに起こさせるためにはですね

在野にいて とにかく みんなに
本当の意味の意識を上げさせることを

先にやらないと 多分
いくら彼の持ってる本質を説いても

いや だから西洋かぶれは嫌なんだって
言われるだけに

なってしまうんだろうなって。
この距離を置くっていうのは

ものすごい勇気のいることだと
思うんですよね。

これが できるというのは まさに…

本人は 実行してるからなんじゃ
ないんですかね。

すごく自分が異質だっていうことを
自覚してると思うんですよね。

幕府の中で
翻訳をする立場っていうのは

必ずしも いい身分ではなくて

西洋の野蛮人と
会話をしなきゃいけないから

そのために 自分はいわば
便利なやつだから使ってやろうといって

幕府で使われていただけだ
っていうようなことを書いてます。

そういう中で
明治の世の中になった時に

やっぱり みんなが 学者がみんなそろって
政府に行くっていうのと

おんなじように行ったら
いけないんじゃないかと。

人々に 自分がなんとかしなきゃ
自分が行動しなきゃっていうことを

火つけていくためには やっぱ
同じ目線になっていかなきゃいけない。

そうすると民間の立場で 在野でっていう
選択をしていくっていう…。

その距離感を適切に選んでいる
っていうのが

福澤の非常に興味深いところじゃないかな
っていうふうに思います。

分かってもらえない前提で
出来上がってる人で

僕は 福澤さんの好きな言葉で
「学者は国の奴雁なり」っていう言葉。

で この「奴雁」は なかなか
難しい言葉なんですけど

鳥の群れが みんなでおいしそうに
餌を ついばんでるんだけど

1匹だけ首をピュンと伸ばして

周りから
何か キツネでも来ないかと思って

警戒してる雁が 1匹だけいると。

学者の役割は そういうもんであって
目先の餌をついばむことではなくて

ほかの雁と違うことを考えながら
もっと遠い かなたのこと

あとになって あの時… うわ 来たぞって
警告を発するようなことをやって

あとになって感謝される
っていうようなことが

自分や学者たちの役割である
っていうことを言ってて…

同調圧力から一人だけ外れて
何かね 警告 発したりするのとかって

勇気がいると思うんですけど

その勇気こそを 独立って
言ってるんだと思うんです 僕は。

さあ その後の福澤ですが
在野の啓蒙活動家から

日本の政治の在り方を説く
政治思想家として

大きく踏み出していきます。

幕府が倒れて数年
明治維新は新たな局面を迎える。

明治7年の
佐賀の乱を
皮切りに

従来の特権を
剥奪された士族が
各地で武装蜂起。

内乱は 明治10年の西南戦争まで続いた。

武力ではなく
言論で戦おうとする一派も現れた。

明治7年
板垣退助が 政治結社 立志社を設立。

薩長藩閥の専横を抑えるには
国会開設しかないと主張し

自由民権運動は 大きなうねりとなった。

当時の心境を 福澤はこう書き残している。

激変する時代に対応するには
確固たる政治理論が必要だ。

そう痛感した福澤は

ジョン・スチュアート・ミルを
はじめとする

西洋の最新の政治思想書を
大量に買い込み

1年かけて読み込んだ。

明治8年 福澤が満を持して発表したのが
「文明論之概略」である。

西洋と日本の文明を比較し

今後日本が どのような道を
進むべきかを説いた 渾身の論説だ。

実は この本の草稿には
出版の際に削除された部分がある。

それは 議会開設についての
福澤の提言だった。

国会開設の前に
まず地方議会という

民会優先論である。

福澤は あくまで…

…という そういう問題意識が
あったんだと思いますね。

もう一度
政治と向き合うことを決意した福澤が

明治8年 慶應義塾に建設したのが
日本初の演説会堂 三田演説館だ。

演説や討論という
当時 日本には存在しなかった概念は

この時 福澤が導入したものだ。

門下生たちは
日夜 福澤の前で意見をぶつけ合い

弁舌家としての腕を磨いた。

その後 彼らは
全国で演説会や講演を開き

地方議会開設を訴えていった。

明治11年 政府は 選挙による
地方議会導入に踏み切る。

理想の政治体制へ
その第一歩が刻まれた。

明治12年 福澤は新たな論説を発表した。

国民に新時代への心構えを説いたものだ。

題して 「民情一新」。

そこには 注目すべき一節が
記されていた。

「英政ヲ美ナリトシテ 之ヲ称賛スル」。

日本が 目指すべきは
イギリス型の議会政治だと

高らかに宣言したのだ。

福澤が
評価したのは

イギリスの
議院内閣制の
仕組みだ。

2つの対立する政党のうち

議会で多数を占めた政党の党首が
首相となり 政治を行う。

だが 次の選挙で 野党が多数派となると

首相は 政府から退場し
元の一議員に戻る。

政権交代は
平均して3~4年に1度起こるので

議員は 権力にしがみつくことがなく
建設的な議論が行われる。

初めて知った時には

ぼう然と眺めるだけだった
イギリスの議会政治が

福澤にとって
明確な目標となったのである。

一方 そのころ 政府の中でも
国会開設に向けて 議論が進んでいた。

どのような政治体制を目指すか

国民に示す必要を感じていた政府が
目をつけたのが

民間に影響力のある福澤だった。

明治13年12月 福澤は 政権中枢の参議

伊藤博文 井上 馨 大隈重信に
呼び出され

次のような申し出を受けた。

在野の言論人を標榜する福澤にとって

政府の御用新聞など 問題外。

ひとつき後 申し出を断ろうと
井上 馨を訪れた 福澤。

だが
そこで予期せぬひと言を聞かされる。

「しからば打ち明けよう」。

伊藤と大隈も 議院内閣制導入に
同意しているという井上の言葉に

福澤は 大いに感激した。

「この諭吉 もちろん国のために
全力を尽くします」。

悲願のイギリス型議会制度が
ついに実現する。

福澤にとって 生涯最良の日だった。

明治に入って福澤は

イギリス型の議会政治導入に向けて
民間の立場から動くわけですけれど

都倉さん まず なぜ福澤は
このイギリス型を選んだんでしょうか?

福澤は…

っていう言い方を
「民情一新」という本の中で
してるんですけども

蒸気機関の発明によって
さまざまな技術が発達して

物も 人も 情報も
世界中を こう行き交うようになって

そうすると どんどん どんどん
こう 人間の知識っていうものが

豊かになって発達していく
世界中が発達していく。

これは いいんだけれども 一方で
あっちの国はこうなのに

何で うちの国はこうなんだとかですね

不満な人たちと
権力を持ってる人たちの間で

摩擦が起こってくる。
それを どうやって穏便に済ませながら

進歩していくのかっていうことが
やっぱり

福澤の課題として見えていたことで

その時に イギリス型っていうのは…

だから
イギリス型が優れているというふうに

福澤は考えたようです。

彼が 影響を受けたミルですか。

ミルは あの~ あれですよね

ヘロドトスか プラトンに 非常に

影響を受けたことを
書いてる人ですけども

やっぱり ギリシャっていうのが
ある意味

民主主義の根幹にあるものであって

そして その演説館っていうのも

その後 ギリシャから古代ローマに
継承されていく

元老院のそのままのスタイル
やっぱり とってるわけですよね。

なので もちろん政治家として
上に立つ人たちは

何と言っても
雄弁な人たちが選ばれなきゃいけない。

やっぱり 言論化に慣れていない国
我々 日本のような国に

やっぱり こうした
古代ギリシャ ローマから培ってきた

弁論性っていうものが もう
内在してる人たちのまねをするのは

なかなか これは 容易ならない
ことじゃないかとは思うんですけどね。

でも 彼の気持ちは分かります。

しかも…

要するに… 一国のトップになる人は

議会の中で 多数の政党を

率いている人じゃないといけない
ってところを

やろうっていう話ですよね。
そうすると これ

いろんな反論が来るわけです。
そんなん無理だって。

一番分かりやすい言い方って
「赤ちゃんに刃物を持たせるのか」

という反論が あのころ よく言われた。

福澤は これを
言下に違うって言うわけですよ。

まず 習慣を変えるって言うんですよ。

日本人って 結構 型とか習慣って
こうするんだよって言ったら

割に ついてくる。
それで それをやり始めると…

この順序でやろうというわけですね。

で あの 福澤は その政府機関紙の発行を
了承してしまうわけですけれど

何か ちょっと一個
距離を置いて見るっていうのが

福澤なのかなって思ってたんですけど
ここは もう了承しちゃうんですね。

イギリス型の議会を
つくりたいと思っていたけれども

まさか こんなに 向こうから言ってくる
ってタイミングが すぐ来るとは

今 すごいチャンスだ
っていうことになった時に

やっぱり ちょっと
舞い上がってたっていう部分は

あるような気がするんですよ。
これは やっぱり

福澤っていうのは
政治家になりきれない人だっていうか

政治家のセンスがない人だと
思うんですよね。

そうですね。
それは やっぱり こう

駆け引きで その場で決まっていくような
世界っていうのに

非常に不慣れで ここで
パッと そういうカードを切られて

舞い上がってしまって
それで受けちゃうわけですよね。

こっち側の条件 何も出さずにですね。

福澤の非常に
ある種の甘さみたいなものが

現れた出来事なんじゃないか
という気がします。

真山さん どうでしょう?
たくさん本を読んで

町で いろんな人に話をしてですね
何となく こう

自分は 社会を分かってると
思ってたと思うんですよ。

町にいない人がいるんですよね。
それは権力者なんですよ。

権力者は 町を歩かないので。

恐らく…

更に もう一つ 問題なのは
いいことをしてる時はね

周りが見えなくなるんです。
だから まあ ある意味…

…って 彼らは多分
笑ってたんじゃないかなと ちょっと。

やだ かわいそう…。
そう かわいそうです。

いやこれ 聞いた時にね まず そもそも
なぜ伊藤 大隈 井上なのかっていったら

参議の中でも 力関係があって
薩摩の違う人たちより

自分たちが優位になろうと思った時に
民だとか 言論だとか

福澤先生と一緒にとかいうので
俺に声をかけてるなというふうに

読み切らなきゃ駄目なんですよ。
そうそう そうそうそう。

全くね 本当に行われるものだと思って

印刷機買っちゃうんですよ 新聞の。
高~いやつを。

いや でも すごい本当
全力で頑張りますっていう感じが

すごいピュアだなって思いました。
やっぱり学者ですよ これは。

さあ では 一旦は
政府と手を結ぼうとした福澤ですが

いよいよ 選択の時が訪れます。

明治14年10月 福澤にとって

青天の霹靂ともいうべき事態が起きた。

新聞発行を頼んできた
参議の一人 大隈重信が

政府から追放されたのだ。

いわゆる 明治十四年の政変である。

発端は この年の3月
大隈が政府に提出した

立憲政体に関する意見書だった。

大隈は この意見書で

イギリス型の議院内閣制を
主張していた。

この大隈の動きに
伊藤博文が激しく反発したのだ。

福澤との会談の時には
志を同じくしていたはずの伊藤に

どのような心境の変化が
あったのだろうか?

この謎を解く鍵となる人物がいた。

井上 毅。

後に 憲法制定にも関わることになる
法制官僚だ。

この年の7月
井上は 伊藤に一通の書簡を送っている。

井上は伊藤に 大隈の意見書の背後には
福澤がいると匂わせた。

更に 福澤の思想の危険性を
再三にわたって吹き込み

伊藤の考えを一変させたのだ。

井上の説得に動かされた伊藤は
大隈を呼びつけ詰問した。

10月 大隈の 政府からの追放が決定。

その下で官僚として働いていた

福澤門下生 矢野文雄

犬養 毅 尾崎行雄らも

一斉に官職を去る。

イギリス型議会政治への道は
閉ざされるかに見えた。

明くる明治15年4月

福澤のもとに 予期せぬ来訪者が訪れた。

大隈重信。

自らの政党 立憲改進党を
結成したばかりだという。

政治家となり
現実を変革する道を提示されたのだ。

選択を迫られた福澤
その心の内に分け入ってみよう。

ここは一番 大隈さんの誘いに乗って
政治家に転身する… か。

大隈さんの志は
私と同じく イギリス型議会政治にある。

ブレーンとして
私の知識を役立てられれば

これ以上の喜びはない。

政府は 国家権力の思うままに
国民を引っ張っていこうとしている。

誰かが
政府の強権政治を止めなければならぬ。

矢野や犬養をはじめ 我が門下生も
大隈さんのもとに結集している。

彼らを助けるためにも
ここは この老骨も政治家として立ち

日本のために
ひと働きすべきではないのか。

しかし ちょっと待て。

もともと 私は
政府とは一線を画す立場から

言論を武器に
新しい日本をつくろうと努めてきた。

やはり その道を貫くべきではないか?

英国型議会政治を実現するという
政府の口約束に乗って

一旦は政府機関紙発行を請け負ったが
結局 彼らには手ひどく裏切られた。

藩閥の存在は あまりにも大きい。

政治家として立っても
理想が実現できる保証は どこにもない。

やはり
在野の言論人として戦うことこそ

我が本懐ではないだろうか。

政治家に転身し
理想の政治体制実現に動くか?

これまでどおり
在野の言論人として戦うか?

福澤に 選択が迫られた。

福澤は いよいよ選択に直面しました。

選択を伺う前に 伺いたいんですけれど

明治十四年の政変の背景にあった
井上 毅と福澤の対立

ヤマザキさんは
どのようにご覧になりましたか?

西洋化ばかりに
あなたは固執するけども

それで 果たして本当に解決するのか
っていうことに対して

すごい懐疑的だった思うんですね。
というのは

例えば キリスト教という宗教が
倫理観の中に根づいている

西洋式政治の倫理を
急激に導入するなんてことは

むちゃくちゃなことですよ
はっきり言って。

結局… 世間体を意識したりとか

空気を読んだりとかっていうことが
慣れてる日本人にとって

いきなり 政治家一人一人が正義を持って
責任を 全部 しょう形で

キリストのような自己犠牲の精神を
持って戦うぞっていう

議会的な意識なんていうのは
そんなに性急に

身につけるわけはないわけですよね。

井上 毅が書いてるものの中にですね…

…って書いてあるものまであるんですね。

やはり 秩序がしっかりと
安定的に定まっているというのが

国家のよい状態であると。
上は上だと 下は下だと。

それに対して 福澤という人は
みんなが活発に言いたいことを言い

その中から よい選択が生まれて
社会が進歩していく。

非常にザワザワ ザワザワした
落ち着かない社会っていうのが

ある意味 いい社会なわけですよね。

更に イギリス型っていうのは
政権交代が起こるということで

いわば武力を使わないで
権力者が交代するっていうことを

制度化しちゃうわけですから
それは そういうところが危ないぞって

気付き始めたら
ものすごい危ない選択だっていう。

なるほど。
さあ では 福澤は選択を迫られます。

政治家に転身して
大隈の立ち上げた

立憲改進党に
参加するのか

それとも 今までどおり
在野の言論人として

国民に訴える道を
選ぶのか。

まず 真山さん。
はい。 私は1番の「政治家に転身」です。

世の中を変えなきゃいけないとかですね

今の状況はおかしいと思って
活動しながらですね

影響力を持てるようになった人はですね
戦い続けなきゃ駄目なんですよね。

これは 根気がない人には
いいことを言って

結局 最後は逃げていくのかっていって
この人の話 二度と誰も聞かなくなる。

だから 逆に言うと このいわゆる
議会政治をやろうとして

最終的には 手痛い裏切りに遭ったこと
この経験こそが

やっぱり生かされるために
それを政治に持っていかないと

結局 彼がずっと
西洋を見てきた間に培ってきて

で 日本で
いろんなことやってきたですね 成果は

やっぱり 本当に世の中を変えるための
多分 行為だったと思うんですね。

そうすると やっぱり
行動しなきゃ駄目です。

なので…

ここは やっぱり私は
絶対 戦ってほしいと思います。

私も1番の「政治家に転身」を
選びたいと思います。

はい。 この明治十四年の政変
このころっていうのは

これから日本が
どっちに向かっていくのか

どういう仕組みを
つくっていくのかっていう

分水嶺に 今まさに
さしかかっているタイミングで

ここで引いちゃうと いわば

政府の好きなように
なっていっちゃうわけですよね。

そうした時に…

だから もういっそ 思い切って
政治の世界に打って出てですね

そして その国の仕組みをつくっていく
っていうことに対して

直接的に行動していくっていう
こういうことを選んでみました。

お二人とも政治家転身ということですが
ヤマザキさんは?

じゃあ 私は2で。
はい。 ハハハハ…。

あえて
言論人の方を選択するというのは

結局 どこかで福澤は
もう これは時間をかけなければ

結果が出ないことじゃないか
っていうことを

認識しつつあったんだと思うんですね。

それのためには とにかく…

例えば 政治っていうのは
一過性で 激流に流されてしまう。

また転換していくけども
そのあとに また来るものに対しても

結局 どこかで
絶やさない火種がない限りは

改善していかないんじゃないか
っていう方向に

私は行くかなと。 今じゃなくて 多分
自分が死んだあとかも分からないけど

どこかで役に立つのではないか
ということを

意識し始めていたのでは
ないでしょうかと はい。

さあ 磯田さんはどうでしょうか?
僕は2の「在野の言論人」を選ぶと。

何か 磯田さんっぽい気がします。
うん。 いや~

福澤諭吉さんの書いてるものを読むと

政府に対する態度は
3つしかないように思ってるようです。

一つは 政府に協力する。
例えば 新聞 一緒に作るとか。

これ やってみましたけど
これが駄目になりました。

そうするとね あとはね
2人の人物がやった方法だけ。

2番目 西郷隆盛みたいになる。

要するに 暴力や実力行使でもって
政府と戦う。

これが1。 で そうじゃないやつ。

3番目
佐倉惣五郎になる。

佐倉惣五郎って知ってますかね。
千葉の農民のリーダーで…

言論人になって
何らの実力行使はしないんだけど

正しいことを言い抜くと。

まあ 中正 中立 独立な立場で

世の中は こうなった方がいいってことを
言い続けると。

なるほど。 さあ 果たして福澤の選択は
どちらになったんでしょうか?

福澤の発言を伝える文書が残されている。

大隈の誘いを断り
あくまで言論で立つ道を選んだのだ。

その後 福澤は
自ら創刊した新聞「時事新報」紙上で

政府にも特定政党にも偏ることなく
持論を発表し続けた。

明治15年4月から5月にかけて
連載されたのが

皇室の在り方を論じた「帝室論」である。

「帝室は直接に
万機に當らずして

万機を統べ給う者なり」。

帝室の役割は 学術芸術の奨励や
叙勲などに留めるべきで

政治とは離れ
国民精神の統合であるべきだ。

福澤は あくまで

イギリス型の立憲君主国家を
志向していた。

だが…。

大日本帝国憲法 万歳! 万歳!

明治22年に発布された 大日本帝国憲法。

天皇大権が規定され 議会の権限が弱い

プロイセン型国家とすることが
定められた。

政府と正反対の立場をとる
福澤の周りには

密偵が張り付き 発言は逐一報告された。

例えば 民権運動家の暴発事件についての
福澤の発言は こう報告されている。

過激派に同情的にも見える福澤の姿勢は

政府にとって
見過ごすことのできぬものだった。

福澤は 最大級の危険人物と見なされ

一時は
首都 東京からの追放すら検討された。

生涯を在野の言論人として通した福澤は
明治34年 病により死去。

66歳だった。

あくまで 官と対峙した思想家らしく

死後も
国家からの叙勲を受けることはなかった。

福澤の死から40年

日本は 英米を相手とする
太平洋戦争に突入した。

「堪え難きを堪え 忍び難きを忍び

もって万世のために
太平洋を開かんと欲す」。

そして 敗戦。

明治国家体制は終わりを告げ

大日本帝国憲法は
現在の日本国憲法に改正された。

国民統合の象徴となった昭和天皇は

福澤諭吉の「帝室論」を知り
次のような感想を残したという。

象徴である天皇の下
議院内閣制の政府が 国政にあたる。

福澤の理想は
戦後 ようやく制度化されたのである。

福澤の選択は
「在野の言論人として立つこと」でした。

本当は さっきの選択の真ん中に
いってほしかったんですよ。

つまり 在野にいて
言論人になってもいいんですけど…

福澤さん一人が政治家になっても
単なる一人の政治家ですけど

後ろから いろんな知恵を与え
行動を指示し

後ろに下がってると…
ものすごく冷静に 将棋のように

いろんな駒を打っていけるんですよ。

やっぱり
そういう部分っていうところに

本当は もうちょっと
賢く立ち回ってほしいんですけど

真面目すぎるんですよね ある意味。
だから やっぱり もうちょっと

何か 悪い人になってほしかったなって
思いますね。

悪い人ね。
はい。

政治的になりきれなかったって
いうことだと思うんですけども

まあ なりきれなかったからこそ
ある意味 終始一貫した人で

だからこそ 「帝室論」の話も含めて
戦後 いろんなところで

あ~ 実は福澤が 前から言ってた
ことじゃないかっていうのが

いろいろと生きてきた部分があるのかな
っていうふうに思うんですよね。

そういう意味では 息の長い言葉の力を
持ち得たっていう意味において

その選択っていうのは 正しかった部分も
あるのかなというふうには思います。

これが 「あとになって効いてくる福澤」
なんですよね。

福澤の説教 親の説教 冷や酒は
あとになって効いてくるという。

冷や酒…。
(笑い声)

磯田さんはどう考えます?
今 時代を飛び越えて

戦後になって 福澤諭吉が

もう一回 影響を与え始める
っていう話をしましたけど

実は まあ生きてるうちにも 横へね
日本の津々浦々へ向かって

いろんな手を打っていたのも
福澤の特徴で

まあ私は 新聞と学校と
言ってるんですけど

新聞 「時事新報」で
こういうことをやった方がいいよという

智の交換を進めると。
地方には お金持ちの人たち

名望家っていわれる人たちがいて

本人も読むし 子弟は慶應義塾入れるし
っていうので…

学問は 町をよくしたり
商売が ちゃんとできるようになったり

産業を興したりするために役に立たなきゃ
いけないんだっていう思想を

共有した人たちが配置される状態を
つくったことっていうのが

やっぱり 後年大きくて
これがね やっぱり政治やってたんじゃ

なかなか行き届かなかったかもしれない。
なるほど。

今日は福澤諭吉について見てきましたけど
この令和の今

じゃあ私たちは この知の巨人から
何をくみ取るべきなのか

都倉さんは どのように思いますか?

まさに 個人っていうものが
どうあるべきかっていうことが

根本的に
福澤のあらゆる考え方のもとにあって…

それは 非常に西洋的な
価値なのかもしれないですけども

それが 必ず
日本にも根づきうるはずだっていう

信念みたいなものが
彼を ずっと突き動かしてる。

結局 今日でも
福澤の書いてることっていうのは

その部分が
日本人の本質的には変わってないから

だからこそ
今でも新しいんだと思うんですよね。

そこの部分を もし日本人が

やはり乗り越えて
一人一人が自立してっていうことを

大事にしていかなければ
いけないんであれば…

…というふうに思いますけどもね。

「あ~ 福澤 こんなこと言ってたよね
このころは」っていうふうにならないと

いけないのかなっていうふうに思います。

まあ確かに この日本っていうのは
どちらかというと

社会調和っていうのが
人間の在り方として

正しいものとして思われてるんですね。
個人主義であって

こう… 出る杭になってしまうと
やっぱり それは打たれてしまうという

その風潮があるわけだけども
だから それを今 果たして

このグローバリゼーションといわれている
世界が肩を並べて

討論をしなきゃいけない舞台に立った時に
福澤にしてみれば

「ほら 見ろ」と思ってると思うんですよ。

「ここで弁論力が問われるじゃないか」
って。

西洋的なものっていうのは こうして
やっぱり やがて必要になる時が来ると

彼は予期してたかどうか
分からないけども

何か そういうことを
ちょっと考えてしまいますね。

今の現状を見てると。
確かに 私も

演説館を造ったっていうのを
初めて聞いた時に

あれが あの当時 出来て

いろんな人が演説する 弁論する 討論する
っていうことが

ちょっと広がっていたのにもかかわらず

なぜか日本って 今
そういうこと やんないなっていうのは

すごい思っていて。
ただね 戦後すぐの頃って

結構 政治家って
演説 すばらしいんですよね。

で 自分の思想も言う。

それこそ大平だ 田中角栄だ

恐らく あんまり
国民に話さなかった佐藤ですら

やっぱり 言いたいことを
はっきり言ってる。

「あいつ 駄目だ」ではなくて

「角栄のここは そうかもしれない。

じゃあ ここ どうするの?」
みたいなことをしてたのに

何か それがSNSという
後ろに下がって…

悪口だけ言って炎上することで
誰もが怖くて しゃべれなくなる。

人は 会ってコミュニケーションをして
会話があり 演説があるので

あなたのものである民主主義 ちゃんと
自分で もう一回考える時が来ないと

何か これから 未来
大変なことがいっぱいあるんで

知らない間に 日本が沈んでいく
っていうことに

ならないといいなっていうのは
すごい思いますね。

いや~ 磯田さん 福澤諭吉を通して
いろんな深い議論

今の日本も見えてきましたけど
どんなことを考えますか?

今こそ すごい
僕らが悩んでる課題じゃないですか。

なぜかって言うと 日本というのは

ヨーロッパの西洋にもなりきれず
まして 中国風の東洋でもないですよ。

で 僕らはこれで 21世紀半ばに
悩みが始まってるわけですよ。

これ もう 西欧モデルはありませんね。

我々はこの日本 こんな日本で

どのように生きるのか
っていうことについて

やっぱり本質的なこと 哲学的なこと

一人一人が どのような価値を持って
生きるのかとかいうようなことを

声に出して やっぱり話し合うしかないと。

分かったものから順番に
一応 言ってみる。

で それを聞きながら考えると。

やっぱり 一人一人考えてみるという。

まあ こういうことが
ちょっと 福澤諭吉さんから

見えたんじゃないでしょうかね。
うん。

皆さん 今日はありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。

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