ファミリーヒストリー「中村雅俊~魂を育んだ 故郷への思い~」[解][字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

ファミリーヒストリー「中村雅俊~魂を育んだ 故郷への思い~」[解][字]

江戸時代一族から大スターが出ていた可能性が。雅俊4歳の時に父が亡くなり、女手一つで3人の子どもを育てた母。その覚悟に今田耕司も感動。東日本大震災で価値観が激変。

番組内容
「父方のルーツについてはほとんど知らない」という中村雅俊。江戸時代の先祖の足跡、祖父・父の人となりを初めて知る。また一族に名のある力士がいたという言い伝えも検証する。母方の実家はかつて事業で成功したが没落。母は苦労の青春時代を送り、結婚に至る。しかし雅俊の誕生から4年後に夫が急逝。女手一つで3人の子供を育てることになる。行商、スナックの経営など必死で働いた母の人生を振り返り、思わず目を潤ませた。
出演者
【ゲスト】中村雅俊,【司会】今田耕司,池田伸子,【語り】余貴美子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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そして 明治26年

雅俊の祖父にあたる
幸太郎が誕生します。

尋常小学校を卒業した幸太郎は
思い切った行動に出ました。

こんにちは~。
≪はい。

江島出身で
幸太郎の おいにあたる

中村忠夫さんと息子の武志さんは

その後の足取りを聞いています。

結局だから…

で 幸太郎さんは
船に乗ってるって感じですよね。

三男で家を継げない幸太郎が
向かったのは 女川。

当時 大規模な
埋め立て工事が進むなど

港町として
発展しつつありました。

又兵衛が江島に渡って およそ70年。

子孫の幸太郎もまた
自力で未来を切り開こうと

新天地に向かったのです。

いや~ どうなるんですか この先。
いや ほんとですねえ。

なんかこう 開拓していきますね
なんかね 自らが。

行動力があるといいますか。
ああ そうなんですかね。

もう俺が知ってる おじいちゃんは
もう 老いぼれた人だったんで

だからもう その若い時に どうしたのとか
そういうの聞いたこともないし。

ですよね。 どうですか これまで全く
知らなかった ご先祖様の足跡を知って。

なんか もうちょっと お前
自分の先だけ考えるんじゃなくて

ちゃんと自分のルーツも
ちゃんと考えて知って

まあ それをベースにして
これからの短い人生を

生きていきなさいと言われてるような
感じしますよ。

まだ VTR 5つぐらい
あるんで。 あ そうですか。

その感想は まだ もう少し
お待ちください。 あ そうですか。

ええ。 ちょっと早すぎます。
もう満腹してますけど。

いやいやいや。

明治の終わり頃
雅俊の祖父・幸太郎が移り住んだ女川。

すごいきれいな湾ですね。

天然の良港が
町の発展を けん引していました。

大型のかつお船や
マグロ船の基地となり

多くの人が仕事を求めて集まったのです。

地元の新聞には 女川の発展を期待して

全国から資産家が殺到したことが
記されています。

10代半ばで 江島から出てきた幸太郎は

雇われ漁師として
かつお船に乗り込みます。

一体どんな暮らしをしていたのか?

元漁師の生出太一郎さんは

当時のかつお漁のことを
伝え聞いていました。

≪はい いらっしゃい。
あっ こんにちは。
今日は よろしくお願いします。

地元の水産加工会社を経営する

木村喜一さんです。

当時の雇われ漁師たちは 収入が不安定で
生活は苦しかったと聞いています。

そんなつましい暮らしの中 幸太郎は結婚。

大正4年 22歳の時に

雅俊の父・幸一が誕生しました。

しかし 間もなく大きな悲劇に
見舞われます。

雅俊の姉・弘子さんが
伝え聞いていました。

産んだ母親が そのまま亡くなって。

出産直後なので 一般的には
産後の肥立ちが悪いといいますけど

多分あの~ 出血多量だろうと
思われますけどね。

幸太郎は 生後間もない幸一を
亡くなった妻の実家に預けます。

その後 漁師を続けながら

船に乗らない時期は
かつお節工場で働き始めました。

幸太郎は どんな作業をしていたのか?

大正時代と ほとんど変わらぬ製法で
かつお節を作る工場を訪ねました。

内臓や余計な身を切り落とす「生切り」は

立ちっぱなしで腕力も必要な重労働。

うわ~ ほんとだ。

骨を1本ずつ取り除くのも
根気が必要です。 へえ~!

大変だ。
すごい作業だなあ。

仕事は楽ではありませんが

大正時代は かつお節の需要が伸び
職人たちの稼ぎは良かったといいます。

そっか。

だしも取れるわ。

かつお節職人として腕を磨き

収入が安定した幸太郎は 再婚。

離れていた息子の幸一を
ようやく引き取ります。

7年越しの悲願でした。

幸一にとっても
待ち焦がれていた暮らし。

しかし 弟や妹が生まれてからは

義理の母に
気を遣うようになったといいます。

そのことを伝え聞いている
雅俊のいとこと

連絡が取れました。

幸一が通っていた小学校の映像です。

当時の幸一は
少年ながら 自らに厳しい努力家。

異母きょうだいにも
優しかったといいます。

幸一の妹の子・斎藤正則さんです。

尋常小学校を卒業した幸一は

3人の異母きょうだいを
おもんぱかってか 進学を諦めます。

そして 父・幸太郎と一緒に
かつお節職人として働き始めました。

昭和6年 満州事変が勃発。

日中の緊張が高まる中

21歳になった幸一は 召集されます。

幸一本人が書いたと思われる軍歴が
残されていました。

そこには ハルビンで
警備の任務に当たった後

訓練所の教官として
呼び戻されたことが記されています。

(白石)「初年兵教育のため
東部二十二部隊に一時帰還」。

教育の教官をやるわけですから
見本にならなければならない。 若いのに。

次女の弘子さんが
幸一の遺品を保管していました。

銃剣術とは 銃の先端に短剣をつけて

やりのようにして戦う戦闘術。

幸一は 軍にあっても 自分に厳しく
人一倍の努力を重ねていたのです。

昭和15年 満期除隊で
女川に帰った幸一は

再び かつお節職人として
働き始めました。

そんなある日。

町で偶然見かけた女性に一目ぼれします。

後に 雅俊の母となる木村やい子。

不思議と都会的な雰囲気を
まとっていました。

いかがでしょうか?
お父さんの幼少期からの。

なんか おふくろは そんなに…。

話さなかった?
話さなかったんで

だからもう それでいいのかっていう
自分の中でも あったんで。

もう おやじの情報ってのは ほとんどなく
ずっと生きてきたんで。

あの~ いろんな性格が出てきて

自分と こう照らし合わせる
部分があって。
はい。

意外と俺も こう見えて
真面目なんですよ。

いやいや 見たままじゃないすか。
ああ そうですか。

意外と あの 一生懸命だし。
優しそうで真面目そうっていう

イメージしかないですよ。
ああ そうですか。

ちょっと じゃあ そこら辺
おやじに似たのかもしれないですね。

♬~

恥ずかしい。

雅俊の母・やい子が生前

舞台に立った時の映像です。
え~ すごい。

観客の前でも全く物おじせず
大好きな民謡を熱唱。

でも めちゃくちゃ
うまいですね。

女手一つで
3人の子どもを育て上げました。

続いては もう一つの大切なルーツ
母方・木村家をたどります。

戸籍によると 木村家があったのは
宮城県女川町鷲神地区です。

ご実家があったところが ちょうど
この交差点のゼブラゾーンの辺り

真ん中辺りになります。

江戸時代から この地で暮らし
子孫をつないできた木村家。

かつて 一族から大スターが出たという
話が伝わっています。

こんにちは。

雅俊のいとこにあたる

土井 基さんと
倉持征子さんです。

確か あの~…

お相撲さん?

うん。 あれ…

うん。 みんな流された。

荒熊という力士は
本当に木村家の先祖なのか?

失礼します。

宮城県の相撲の歴史に詳しい
渡辺洋一さんを訪ねました。

いろんな方が
いてはるなあ。

これになります。

その2名のうち
木村家とつながる可能性があるのは

文化11年生まれの力士

荒熊五郎治だといいます。

すごいな
こんな 浮世絵
残ってる。

果たして その根拠は?

これは あの 国会図書館が持ってる

天保14年の上覧相撲 史料なんですけど。

徳川12代将軍
家慶の前で行われた

上覧相撲に出ていた
力士の名簿です。

(白石)こちらの方にですね

「荒熊五郎治」という名前が出てます。

で 生国は 「奥州牡鹿郡鷲神村」。
あっ 田舎だ。

出身は 木村家のあった鷲神。

しかし 五郎治が 鷲神の他の家から出た
可能性もあります。

確かに。

謎の真相に迫る情報を

雅俊のいとこ
三雄さんが教えてくれました。

雅俊の高祖父・八三郎には
八五郎という兄がおり

その人物が
荒熊だというのです。

三雄さんの証言を
渡辺さんに当ててみると…。

名前の中に 自分の名前を入れ込んだ形で
しこ名にするっていう方も

結構 いらっしゃいます。
そういうこと考えると

八五郎の「五郎」取って
五郎治と名乗った

いうことは
いえるんじゃないかな~と思います。

五郎治は 後に力之助と
しこ名を変え 小結に昇進。

度々大関などを破る大物食いで鳴らした
人気力士でした。

(汽笛)

そして 1854年。

ペリーが2度目の来航をした際の催しにも
駆り出されたといいます。

(白石)幕府では 力士連れてきて
パフォーマンスやらせるんですね 今で言うね。

その中にですね
荒熊も入ってたようです。

それで 米俵2俵を持って
ふっと持ち上げてみたりですね

アメリカの水兵さんなんかと
相撲取ってみたりですね

そういうようなこともやった
というような記録ありますよね。

引退後は 伊勢ヶ濱部屋の
親方にまでなった五郎治。

まさに 江戸時代後期の大スターです。

一方
鷲神の先祖たちは

どのような暮らしを
していたのか?

雅俊の高祖父・八三郎の記録が
宮城県公文書館に残されていました。

ちゃんとあるんですね。
はい。

明治8年の時点で記録された
土地の台帳です。

ほんまに残ってるんですよね~。

換算すると
およそ1, 700坪もの
田んぼを

所有していました。
ええ~!

宮城県の歴史に詳しい
三宅宗議さんです。

更に 「女川町誌」に

八三郎の息子・栄治に
関する記録がありました。

大正8年には
かつお節の
製造業で

収入見積金
およそ10万円。

現在の価値に
換算すると

およそ4億円以上の
収入があった
というのです。

すごい。

やり手だった
栄治

その息子が
雅俊の祖父に
あたる 幸三郎。

これは 70代の写真ですが

若い頃は 父の事業を手伝い
裕福な暮らしをしていました。

しかし ある出来事をきっかけに
木村家は没落します。

雅俊のいとこ・三雄さんが
伝え聞いていました。

父のばくちで
豊かな暮らしが一変した幸三郎。

(池田)切ない。
細々と養蚕業をして

何とか家族を養います。

この時代 そうか~。

そして 大正10年に誕生したのが
5女のやい子。

後の雅俊の母です。
5女!

幼い時から負けん気が強く 活発。

男の子と張り合い
一歩も引かない少女でした。

質素な暮らしの中で
たくましく成長していった やい子。

しかし
昭和4年に始まった世界恐慌で

木村家は 崖っぷちに立たされます。

生糸の価格が暴落し
養蚕業を続けられなくなったのです。

やい子は 尋常高等小学校を卒業すると
10代半ばで上京。

良家の屋敷に住み込んで
行儀見習をすることになりました。

行儀見習。

(弘子)経済的に
かなり苦しくなったんだと思われますね。

やい子は 持ち前の負けん気を発揮。

明るく下働きも こなします。

すると 屋敷の主人に気に入られ

茶道や生け花など
習い事も させてもらいました。

とうとう見合い話まで
持ちかけられた やい子。

両親の許可をもらおうと
女川に帰ります。

親の承諾書を やっぱり
もらってきなさいっていうことで

女川に帰ってきたみたいです。

なんか その方が
ちょっと海外出張みたいなのがあって

そこへ住まなきゃいけないっていうので
両親は 大反対だったみたいで。

海外に行くなんて とんでもない
という話だったみたいで。

それで なくなったの…。

結局 両親の反対で
見合いの話はなくなります。

しかし やい子には
すぐに新たな出会いが訪れました。

かつお節職人の中村幸一が
猛烈にアプローチ。

情熱的。

行儀見習いをした やい子の
上品さにひかれた幸一。

ガッツあるな~。

その思いは届き
昭和17年に 2人は結婚したのです。

あの そういえば思い出したんだけど

おふくろが あの 東京で見合いして
その見合い相手っていう人が

まあ 結局は あの 幸一さんと
結婚することになるんだけど

すんごい逃した魚は
大きかったっていう話なんですよ。

(笑い)

実名を もう挙げて。
あ こういう名前の人やったの。

あの会社のっていう。
えっ!?

うわあ そこの? そんなでかい会社の?
みたいなね。

へえ~!

でも それが 逃した魚大きい いうても
そこで 魚捕まえてたら

雅俊さん いないですからね。
そうですね。

ということですよね。
そうですよ。

あと やっぱ ルーツの中に
お相撲さんが いたという。

あの~ 先祖に そういう1人くらい
有名な人がいても いいなという

ひそかな希望がありましたから。
あ そうなんですか 今日は。

ええ 今日は。
いましたね~。

相撲取りっていうのは ちょっとね…。
意外でしたね。

意外な感じもありますけど まあでも…。
でも その身長の大きさとか

雅俊さんの そのなんか
あるんですかね 少し。

そうですかね。
荒熊が少し入ってるのかも。

荒熊が。
もしかしたら。 荒熊 入ってますか。

昭和17年に結婚した幸一と やい子は

木村家の一間を借りて
新婚生活を始めました。

翌年には 長男・利勝が誕生します。

俺の兄貴なんですよ。
ああ~ お兄さん。

昭和19年 幸一は再び召集されますが

国内で任務に就き
戦地に行くことなく終戦。

これ 第2次大戦ですね。

女川に戻ると かつお節などを作る
水産加工の工場で働き始めました。

当時 工場を経営していた人の孫が
見つかりました。

こんにちは~。
≪は~い。

あっ すいません 本日は
よろしくお願いします。

鈴木 浩さんと 妻の栄子さんです。

これなんですけど。

幸一が写った写真が残されていました。

(スタッフ)
これは 何の写真ですか?

天皇陛下が 戦後に

日本全国 回った時の
多分 写真だと思うんですけど

幸一さんが この方だと思うんですよ。

また雰囲気違う… ねえ。

もともと努力家なうえに
軍隊での規律も身に付けた幸一。

32歳にして
30人ほどの職人を まとめ上げます。

このころには 長女・順子も加わり

私生活でも充実した日々を
送っていました。

ところが 昭和22年。

中村家は 大きな不幸に見舞われます。

長男・利勝が はしかにかかり
僅か5歳で亡くなったのです。

その4年後の昭和26年に 雅俊が誕生。

幸一と やい子は 長男の分まで

子どもたちを
しっかり育てようと誓います。

本日は よろしくお願いいたします。

長女の順子さんに 幸一が
どんな父親だったか伺いました。

教育熱心だった幸一。

しかし 数年後 突然 病に倒れます。

後日 母に聞いたのは…

狭心症を患った幸一。

薄れゆく意識の中で
やい子に ある言葉を残しました。

(弘子)…って
母に言ったって言ってましたね。

少年時代 進学が かなわなかった
幸一の いちばんの願いでした。

昭和30年 幸一は
3人の子どもを残して亡くなります。

当時 長女は10歳 次女は7歳
雅俊は まだ4歳でした。

この先 どうやって
生きていけばいいのか…。

当時33歳だった やい子は 絶望します。

そして ある日の深夜。

3人の子どもを
タクシーに乗せて 海沿いへ。

人けのない崖を目指しました。

こんにちは。

この時のことを

親戚の
菅生栄子さんが

やい子から
聞いています。

思いとどまったやい子は 覚悟を決めます。

親戚から子どもたちを 養子に
出さないかと提案されますが

きっぱりと断りました。

その後 やい子は行商を始めます。

働いた経験もない中
手っとり早く始められる仕事でした。

魚介類を仕入れるため
毎日のように漁港へ。

やい子のおい
土井さんによると

あるものを たくさん
買い付けていたといいます。

今 ここ 岸壁ですけど…

自宅に戻ると
ホヤの殻むきに没頭した やい子。

その作業を 加工場で
見せてもらいました。

この突起物を 包丁で切って…。

うわ~ これ もう すごいな。

力 要りそう…。
うん。 硬いんだね 殻…。

それで ぐるんと取る感じですね。

かかりますね。

慣れない殻むきを
夜遅くまで続けた やい子。

そらそうや 素手やもんな 当時は。

翌朝 ブリキの缶に むき身を詰めて

朝一番のバスで 売りに出かけました。

東京で行儀見習をした
かつての自分を捨て去り

必死に生き抜こうとしていました。

あの… まあ おやじが亡くなってから
人生 急に変わって

いろんな あの… どっちかというと

悪いことが増えていく
っていうのがあって…。

だから あの… おふくろの
その 行商してた あのホヤをね

してた姿っていうのは
子ども心に 結構覚えていたんですけど

大人になって考えると

そういう環境で ギリギリの生活を
していたんだなってのが…。

その前に あの
タクシーに乗ってっていう話は

もちろん ご存じないですよね?

ないですね。
まあ それくらい ちょっとやっぱり…。

絶望というか はい。
ええ。 なんか あの

先のこと考えても いいことはないように
思ったんでしょうね きっとね。

そうでしょうね。
ええ。

昭和32年 やい子は 自宅を改装して

小さな店を始めます。

当時 店のはす向かいに
住んでいた人が見つかりました。

写真が ちょっと あの… 津波で流されて
戻ってきた写真なんですけど。

(取材者)流れたものなんですか?
はい。

それが ごそっと戻ってきて

で いちいち これ 外して
洗った写真なんですよ。

こっちは 私と母の写真なんですけど

ここが中村屋さんで お商売やってた時の
ちょっと 写真ですね。

佐々木さん親子の後ろに写っているのが
やい子の店。

そこには…

…と書かれています。

で 「中村」に続くんかな。

とても こぢんまりしてて
間口が狭くって

商品が あんまりね
多かったようには見えなかったですね。

すぐね お店の裏にお部屋があるんですよ。
そこにいたと思います。

茶の間みたいなところがあるので。

昔のお店だな~。
駄菓子屋さんとかも あった。

夫・幸一が亡くなって 2年。

いまだ 必死にもがいていた
やい子でしたが

つらさは 表に出しませんでした。

多忙なこともあり 子育ては放任主義。

いつも笑顔で見守り
好きなことをさせたといいます。

その結果 雅俊は
やんちゃな少年に育ちます。

雅俊の幼なじみの…

みんな 授業してる時

自転車で 校庭を
こう ぐるぐる回ってたっていうふうな

記憶に残ってますね。
授業放棄してんですよ。

忍者のテレビが
すごい はやってたんですけど 当時。

手裏剣を作ってきて
どっかのものに投げて 刺すとか

そんなこと やってましたね。

子どもには 伸び伸び育ってほしいと
頑張る やい子。

しかし 更なる試練に見舞われます。

まだ?

雅俊が中学生の頃
知人の保証人となり

多額の借金を抱えたのです。
え~!

え~…。

保証人のとこに
取り立ても来ますので

で 支払えないと

赤い紙が 一応 貼られます
おうちの中に いろんなところに。

乱雑に貼っていきます。

で それで ちょっと支払いが済むと

それを剥がしていいってことになるので
剥がして…。

やい子は 雑貨屋の片隅で
小さな飲み屋を始めます。

焼き鳥や 豚のホルモンを焼いて
酒を提供。

返済金と生活費を稼ぐのに必死でした。

すげえな お母さん。

焼き豚も やってたんですよ。
豚のホルモンを…。

で それも
うちのおふくろも ガーッて切って

もう それを焼いて 接客して
みたいなことをやってたんで

子ども心に やっぱり
働いてる姿を見てて

おふくろ 大変だなあっていう…。

親戚の菅生栄子さんは

当時の苦しい生活を
やい子から聞いています。

そんな やい子の背中を見て育った 雅俊。

自由奔放な一方で
勉強には 真面目に取り組みました。

中学卒業後は
地元一の進学校 石巻高校に入学。

その中でも成績は良く
大学進学も希望していました。

焦りながら勉強してたっていうふうな
印象はあったですよ ええ。

ほんと 一生懸命もう…
育てるっていうふうな そういう姿勢は

雅俊の母ちゃんにもあったし

だから 気持ち的に あの…

とはいえ 中村家の家計は厳しいまま。

一方で 学業の応援は
夫の遺言でもありました。

やい子は 雅俊のために
思い切った決断をします。

雑貨屋を全面改装し
スナック「BARやえ」を始めたのです。

戦後 女川には 全国から漁船が入港。

漁師たち相手の店が
増えていました。

すごいな 客層。
すごいね!

2階は 2部屋しかなくて

1部屋は ホステスさんがいるっていう
部屋だったんで

ものすごい刺激的ですよね。
あっ そうか。

買い物に行く時に なんか知らないけど
「ま~ちゃん ま~ちゃん」って呼ばれて

一緒に行こうとか何だかって言われて
ものすごい嫌だったんだけど

一緒に荷物なんか持たされて

もう見るからに
「ああ BARやえの息子が

ホステスさんの荷物を持たされてる」
みたいな。

きれいごとだけでは済まない商売。

酔った漁師をいなし
時には けんかの仲裁にも入りました。

めちゃくちゃ
大変だなあ
このころの…。

そんな母の頑張りに 雅俊も応えます。

昭和45年 慶應義塾大学経済学部に

見事 合格したのです。

宮城県内の大学を勧めていた やい子。

しかし雅俊は
東京行きを譲りませんでした。

それに なんか 東京へ出てくと
なんか あるんじゃないかみたいな。

でも ず~っと ここに
いるとこではないな というのが

まあ 正直な気持ちです。

慶應大学に入った雅俊は
英会話のサークルに入ります。

高校時代 旧ソ連や東欧を舞台にした
小説を読み

外交官に憧れていたのです。

そこで英語劇を経験したことが
人生の転機となります。

芝居に興味を持ち
オーディションを受けて…

そして 大学4年生の時
テレビドラマの主役に ばってきされます。

いやあ すごいな 学生時代に。
それが…。

これ 学生の時やったんすか!

(沖田 俊)俺は お前たちが好きだ!

高校のラグビー部を舞台にした
青春ドラマ。

雅俊は 英語教師で
ラグビー部の顧問という役どころでした。

見てた!

(池田)すごいところで ボールやって…。
これが青春やったんすよ 線路挟んで。

ドラマで生徒役を演じた…

きっと すごい かっこいい人が
来るんだろうなって

みんなで 「どんな人だろうね」
「文学座?」 「すごいね」とか

言ってたんですよ。 そしたら

「えっ!
さっき あそこにいた人じゃない?」。

「あの人 スタッフかと思ってたね」
っていう感じだったんで。

なんか 髪の毛もボサボサで
あと 上も なんか…

上は どんな格好してたか
忘れちゃったけど

でも すごい なんか…
主役の方の格好ではないです。

主役を張っても
素朴で 庶民的な空気をまとっていた雅俊。

すてき。

おっ!
モテますねえ。

そこに惹かれたのが
同じドラマで共演した…

母親の背中を見ながら
厳しい環境で 一緒にもがいた日々。

それが俳優としての原点に思えると
いいます。

僕は 雅俊 好きでね。

雅俊は 俳優だけでなく
歌手にも挑戦します。

劇中歌ですよね これね。
そう。

♬~

これが また
大ヒットだもんなあ。

デビューシングル「ふれあい」は

およそ127万枚の売り上げを記録する
大ヒットとなりました。

これには 母・やい子も大喜び。

(弘子)うちの母親は
レコード屋さんに行って

で 買ってきて

で もう知り合いという知り合いに
こう 配りまくってて

実際的には なんか
100枚ぐらい配ったみたいなので

もう すごい
強引に渡してたという感じで。

それにしても
経済的に苦しい環境で育った雅俊が

なぜ 安定の道を進まず
大胆な挑戦ができたのか。

…というのが おふくろだったんで。

まあ 逆に言うと…

雅俊がデビューして 1年後。

やい子は突然 店を畳んで上京し
雅俊の家に転がり込みます。

弟自身が 自分で稼いで
食べれるようになったので

これ以上 まあ 好きでもない水商売
やっていく必要もないだろう

っていうこともあったんだろうと
思うんですけどね。

とにかく 熱心に雅俊を応援。

出演ドラマを欠かさず見ては
コンサートにも足を運びました。

友人の松林光男さんは

やい子から こんな話を聞いています。

息子の活躍で
長年の苦労が報われた やい子。

その後 旅行やカラオケなどに出かけ

ようやく人生を謳歌しました。

(池田)いい写真ですね。
よかった!

う~ん なんか ここら辺くると
自分の記憶にもあることだったんで。

もう ほんとに うちのおふくろって
波乱万丈で

あの 時々 おふくろの人生を
ちょっと こう かいま見ると

ほんとに いいことと 悪いこと
どっちが多いんだろうと思うくらいね。

苦労の連続ですもんね~。

まあ でも なんか
俺がデビューして

で 俺のコンサートが終わると
ファンの子たちに囲まれて

「お母さん! 雅俊さん良かったですよ!」
って言われると

もう 自分がもう… みたいなね。
うれしそうな。

そういうのを姉から聞くと
なんか ほんとに…。

いや そらうれしいですよ もう。
まあ 一つの親孝行だったかな

というふうに 後で。
めちゃくちゃ親孝行でしょ そら。

いやあ でも 改めて今日は
あまり知らない状況から

ご自身の「ファミリーヒストリー」
ご覧になって いかがでしたか?

なんかねえ 俺って
あの 何となく 客観的に

こういうやつってのは
何となく分かるんですけど

やっぱり そういう意味での
培ってきたものってのは

おやじであって おふくろであって

あの 2人から受けた
その ファクターってのは

すごい大きいんだなあっていうのを
ちょっと感じましたね。

すごい貧乏に育ったんですけど

何よりも思ったのは 女川に生まれて
女川に育ったっていう

この自分の その半生っていうか 人生は
すごくラッキー。

すごく… なんか すごく
運の良さみたいなのを

すごく感じましたね。

今度ばかりは わしも

信長様のなされ方に 目を覆いました。

デビュー以来 次々と
映画やドラマに出演し

俳優としての地位を確立した
中村雅俊さん。

♬~

歌手はもちろん
ナレーションや司会にも挑戦し

人気を博してきました。

マルチですよね。

多くの人に愛され続ける理由を
柳生 博さんが教えてくれました。

2011年3月
雅俊さんに 大きな転機が訪れます。

東日本大震災です。

電車の中にいて

ほいで 収まったところで
ホームに出たんですけど

ゾッとしたのが
どこだよって話になって

その 震源地とか… といった時に
もう ちょっと分かんなくて

ほいで ちょっとしてから
まさに 女川の右側なんですよ。

あの 緯度が一緒くらいの震源地で。

ふるさとから逃れようと上京し

その後も
気に留めてこなかった雅俊さん。

しかし
被災した女川の様子を見た時

全く違う思いが
湧き上がってきたといいます。

なんか こう…

なんか 自分が大切にしてるような…
今まで 思ってなかったのに。

もう だから…

雅俊さんは 女川の避難所や
仮設住宅を回り始めます。

時には 東京の友人たちも誘って
定期的に通うようになりました。

そして 震災から3年たった ある日。

91歳になった やい子が
突然 「女川に行きたい」と言いだします。

実家もなければ
私たち 住んでた うちもないし

もう どこに何があるか 分からない状況に
なってるけどって言っても

でも お墓参りもしたいので
どうしても行きたいって言って

連れていったんですけどね。

これは かつて 雑貨屋やバーを営んだ
場所で写した写真です。

やい子は 苦労続きだった自宅の跡を

不思議と いとおしそうに
眺めていたといいます。

実は上京後
やい子の ふるさとへの気持ちは

少しずつ変化していました。

それを うかがわせる資料が
今回の取材で見つかったのです。

こちらはですね…

(テープ音声)「86番です。
『新相馬節』 中村やい子さんです」。

♬~(やい子の歌声)

♬~

逃げるように 女川を飛び出して15年。

68歳のやい子の肉声です。

♬~

熱唱したのは
宮城や福島に伝わる「新相馬節」。

ふるさとを離れた人の
望郷の歌でした。

震災から5年後
やい子は 94歳で亡くなりました。

その必死な生きざまが

多くの人を引き付ける
息子の魅力を育んだのです。

中村雅俊さんの
「ファミリーヒストリー」。

ふるさとの地で 必死に生き抜いた

家族の物語でした。

なんか おふくろは
きっと大変だったろうけど

後悔はしてない
そうですね。 という感じはするね。

Source: https://dnptxt.com/feed/

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