こころの時代~宗教・人生~「“ほんとう”を探して」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

こころの時代~宗教・人生~「“ほんとう”を探して」[字]

小野和子さんは35歳から50年間、口から口へ語り継がれてきた民話を、語り手の人生とともに聞き記録する「採訪」を行ってきた。民話の秘める力に導かれてきた人生を伺う

詳細情報
番組内容
小野和子さん、87歳。半世紀以上、東北の村々で昔話や言い伝えなどの「民話」を聞き歩いてきた。「昔話を聞かせて下さい」とこうて、思い出や生活の話にまで耳を傾けるうち、小野さんは民話には語り手一人ひとりの人生が映しだされていること、そして先祖の切実な現実と生きる知恵が蓄積されてきたことに気づく。1000本の録音テープに残された民話を織り交ぜながら、そこに潜む“ほんとう”に手をのばし続けた人生を伺う。
出演者
【出演】民話採訪者…小野和子,【語り】中條誠子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉

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  15. 昔話
  16. 体験
  17. テープ
  18. 一緒
  19. 絵本
  20. 気持

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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♬~

おはようございます。
よろしくお願いします。

昨日は お天気で よかったね。

♬~

小野和子さん 87歳。

家事や子育ての傍ら
50年間 東北の村々を訪ねては

人々が語り伝える民話を きき歩く
「民話採訪」を行ってきました。

80歳を機にまとめた本には

これまで出会った語り手たちとの
忘れられない物語がつづられています。

むかしあるどころに
じいさんとばあさん すんでてあったど。

むかし あるところにね…。

むか~し むか~し あるところにね

なんだって かんだって
へぇのたれる娘いたんだとさ。

畜生は しっぽを出して
ぱたん ぱたんと…

いい気持ちで 寝たっちもの…。

大ぎつねになって 高窓蹴破って
逃げてった…。

民話。 それは「むかぁし むかし」で始まる
昔話や 各地に残る伝説など

民衆が 口から口へと語り伝えてきた話。

民話は 人々の暮らしとともに
あり続けてきました。

(取材者)あら? この女のスカートはいて。
白いスカートはいて。

これは おばあちゃんが
立ち話から始まってって

じゃあ うちへおいでって言われて
うちへ行って

親しくした おばあちゃんでね

そしたら うち帰ってきたら
たんすが みんな開いてたっていうのね

中の着物なんか出て
どうしたのかと思ったら クマが来てね

たんすの引き出しを開けて
中の着物 出してったんだとかって

そういう山の中なの これは。
クマが来ちゃって。

語り手の暮らしや
人生にも 耳を傾けるうち

和子さんは民話の奥底に潜んでいるものに
気付くようになります。

端的な言葉で 多くを語らないけれども

民話は すごく深い意味を
持ってるなっていうふうに

次第に思わされるように
なってきたんですけどね。

そういう語りが 必ず リアリティーを持つ
現実に支えられてるってことを

きいて歩いて こういう話なんかを
きくとね 教えられるんですよね。

そして ききに
歩かずには いられなくなっちゃって

あっちさまよい こっちさまよいして
あの歩いてきたと。

現在は 仲間たちとともに
民話を記録し続けています。

一人一人の語り手は 人生の師であり
友人だという和子さん。

民話を どのように きくのか
皆で語り合ってきました。

村の暮らしっていうか
その土地の独特の雰囲気っていうか

それを中心に お話をきいてきました。

悦郎さんも
語って下さろうとするんですけど

私としては
なかなか深まらないですけど

前とは ちょっと
違った感じになったかなと思います。

お元気ですか? 悦郎さん。
お元気でした? よかったね。

悦郎さんも
山伏で いらっしゃるからね。

せっかく いい語り手に
巡り会ってるから 頑張ってね。

6年前から 活動に参加する
瀬尾夏美さん。

和子さんの民話を「きく者」としての
姿勢を そばで学んできました。

やっぱり すごく
皆さんに対しても厳しいし

何より 自分に対して厳しくて

「本当の言葉」ってそういうところからしか
出てこないような気がして

ああ すごい こんな女性に
なりたいなって思います。

柔軟さみたいなものも。
かっこいいですよね。

こんにちは~。

仙台市内に住む 和子さん。

大学の教員をしていた夫が
3年前に施設に入り

今は 一人で暮らしています。

こんにちは
ようこそ おいで下さいました。

今日も 雨だって言ってたのよ。
(取材者)ねっ そうですよね。

どうぞ。

玄関を入って すぐのところに
なぜか大きな本棚が。

(取材者)玄関入って いきなり本棚。

だから 私 ここでね
子どもたちに 本を読み聞かせする

文庫をしようかと思ってたんですよ。

それで こんなとこに本棚作って
玄関も こんなふうに ばか広いでしょ。

その夢は ちょっと
飛んじゃったもんですからね。

ここらは 私が訳した本ですね。

翻訳も してたんですよ。
お金のために。

(取材者)小野和子訳。
そうですね そうですね。

とっても いい作品なんですよ。
課題図書になったりして。

この辺は 民話関係ので 私が作った
民話集とか 会が作った民話集とか

みやぎ民話の会で きいてきた話を
こういう一冊にして

皆さんに届けてきたんですね。

これは 山形の私の一番大切な
民話の本なんですけどね。

和子さんが 「何としても」という思いで
初めて出版した民話集。

このおばあちゃんなの。
このおばあちゃんから きいた。

80ぐらい きいた。
いい話ばっかりね。

早くきかなきゃいけないような
気持ちに駆られたりしてね。

このおばあちゃんも そうだけど

自分の昔話が そんな値打ちがあるとも
思ってらっしゃらないし

おばあちゃんは 10歳の時から
夜なべ仕事なさったので

こうやって眠くなると
一緒に 糸繰りしてた おばあさんが…

…って 語ってもらった話だっていうの。

いいばあちゃんでしょ。 この人
そのものが宝みたいな おばあさんで

戸数14戸の村で生まれ育って 嫁に行って
そこで死んでったっていう人ですけどね。

それでも 体の中に
物語を持ってらしたんですね。

毎日の労働とともにあった
とよいさんの民話。

その中には 私たちが よく知る昔話も。

こうしたお話には どうして よく

おじいさんと おばあさんが
出てくるのでしょうか。

老夫婦が育てた桃太郎は
村人を苦しめた鬼を退治します。

人々に感謝されながら おじいさんと
おばあさんは 幸せに暮らしたという話。

この物語に 先祖たちの抜き差しならない
現実が にじんでいることを

和子さんは「しば刈り」という
言葉から見いだします。

何気なく民話の中に昇華されている
言葉が持つ 背景の広さと深さと

そういうものは 実際に話をききながら

あ~ そうだったのかって
分かることが たくさんあるし

民話のじじばばは より多く 山行って
しば刈ってるんですよ そういえば。

木を切ってたなんて
言わないわけですよね。

その しばを刈ってるっていうことの
背景をね

この時 教えて頂いたなって
気はしてるのよ。

その山仕事っていうのは どういう組織で
行われてるのかなと思って

ちょっと ききましたら
やっぱり山を持ってる人から

「ここから ここ」っていうふうに
借りるんだそうです。

そして そこの借りた山の木を保護したり
切ったりする権利をもらって

生計の足しにしてくるわけですね。

昔は 山道っていったって
今のようには ないわけですから

木を切り倒すと そのまま細い道を
その材木を引きずって下ろしてきた。

年寄りにできる仕事じゃないんですね。

跡継ぎのいない年寄りは 年を取ると
この山仕事が できなくなってくる。

それでも 山の持ち主は
年取った その者たちには

しばを刈ることだけは
許したって言うんです。

それは 他の木を育てるためには
しばは 早く刈った方がいいわけなんです。

他の木のためにね。
で しばを刈ることだけは許した。

しかもね 面白いんですけど

それを刈って ひと冬のために
積んでおくってことは 許されないんで

その日に刈っただけしか

うちへ持って帰ることが できないって
いうのが 約束だったっていうんです。

その それは もう
ごく最近までの話ですから

それが 昔話の「おじいさんとおばあさんが
山で しばを刈って」に

直接 結び付くかどうか
私は 分かりませんけれども

その話を きいた時に
「山で しばを刈って」っていう言葉が

ものすごく現実味を帯びて
私を襲ったことが 忘れられないんです。

つまり 田畑も耕す力もないし

山 行って
木を切る力も なくなってしまって

後継ぎを持たない
老夫婦っていう立場は

村落共同体が 成立してた社会の中では
一番弱い立場の人だったと思います。

その人たちは 更に
山へ山へと 入ってくわけですね。

舌切りすずめのおじいさんも
山へ入っていくし

こぶとりじいさんも
更に入っていくって形で

そして つまり そういうふうに…

…っていう
考えがあったんだと思うんです。

非常に あったかい
そこは 日本民族独特のね。

そういう一番弱い立場に立たされた人から
物語を いつも始めたっていうのはね

やっぱり日本人のすごく優しいところじゃ
ないかなって 私は思うんですよ。

民話には 脈々と伝えられてきた

日本人の精神性の土台が
見え隠れしている。

和子さんは
そう考えるようになりました。

ここにはね 収録したテープを
1, 000本くらいあると思いますよ。

佐藤とよいさん なんて 今のね
さっきのおばあちゃんのテープもここに。

とよいさんの語りには 和子さんが
驚くような表現がありました。

例えば 美しい女性を形容する言葉。

「おなつ」と名乗る 悪ぎつねは

ある日 茶屋娘に化けて
嫁入りを果たします。

「影さすように美しいおなご
いたんだとや~」って こういうふうに。

きき漏らせば それまでだけれど

「影さすように美しいおなご」って
この言い方の ものすごい意味。

光こそ影だっていう思想は
私どもの先祖にあった。

だから 影に価値が分かれてたんですよね。
時代を遡れば上るほど。

ですから それを おばあちゃんは
どっかで受け継いでるわけね。

で 「光輝く美しい子」じゃなくて
「影さすように 美しいおなご」って

こういう古い 今では 誰もが
気づかないような言い方を

ぽろっと出してくる人だったんですよ。

私は それが あの山奥のおばあちゃんの
口から出てくる時

ほんとに感激しましたね。 う~ん。

このおばあちゃんはね 会ってみるだけで
価値のある人だったから

私は 子どもも連れていって見せたの。
「おばあちゃん見に行こう」って言って。

友達もね 「もう見るだけでいいから
行きましょう」って言って

山奥に こういう
知性の塊みたいな人がいるわけですよ。

小学校しか出てなくても。

私は そのことをね
みんなが知るべきだと思ったの。

みんな連れて見るだけでいいから
行こうって連れていったの。

1934年 和子さんは 岐阜県高山市の商家に
長女として生まれました。

太平洋戦争が始まったのは
小学校1年生の時でした。

小学校1年生の冬 12月8日に
大戦が始まりましたので

その雪が降っておりました。
高山の町は 雪国ですから。

雪の中を 小さい旗を持って
みんなで軍歌のようなのを歌いながら

行列して歩いたことを覚えてますね。
提灯行列して。

和子さんが暮らしていたのは
飛騨高山の中心を横切る「安川通り」。

商店街には 和子さんの実家の他に
おもちゃ屋や 薬屋などが連なり

とても賑やかでした。

1945年 その安川通りの家々に

建物を取り壊す 建物疎開の命令が出ます。

その壊すべき期日が
8月15日だったんです。

8月15日までに 壊しなさいっていう
命令だったんだと思うんですね。

昔のうちですから
大きな大黒柱なんか立って

そういうのにも縄をつけて
みんなで引っ張って壊すんですよね。

それを 引っ張りながらですね
念仏の声が あがったんですね。

みんなで 「南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏」って言いだしたら

みんなで 「南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏」って大黒柱を引きましたね。

先祖… 一応 先祖伝来の家を 自分たちの
手で取り壊していくわけですからね。

供養の念仏が
あがったんじゃないかなと。

そうやって壊して
ほとんど壊し終わって

そして お昼に
母が すいとんを用意したんですね。

手伝って下さった人たちのために。

壊した家のあちこちに 腰を下ろして
それを食べていた時に

天皇の放送があるっていうことで
みんなで 天皇の放送を聴いたんですの。

11歳ですね。 小学校5年生ですから。

ちょうど夏休みだったので

夏休みが終わって
学校へ行ったわけですね。

そしたら 先生がね 黒板に大きくね
「自治」って書かれたんですよ。

見たことも聞いたこともない言葉だけど

先生自身が 戸惑うようにして
女性の先生でしたけど

「自治」って書いて これからは
これで いくんですよって言われてね

その「自治」っていうことが
どういうことなのかを分からないながら

何かが 大きく変わって
いくんだなっていうことは感じましたね。

衝撃… 衝撃っていうかしら
言葉は おかしいけど…

…っていうような
気持ちがね 芽生えて

子どもなりに何か胸の中に穴があくような
穴があいたようなものを

私は持ってたのかなって
大人になってから思うんですよ。

その穴を埋めようとしながら

例えば 勉強してみたりしたような
気もするんですね。

その後 和子さんは
東京女子大学で学びます。

夢中になったのは

戦時中には触れる機会がなかった
児童文学でした。

大学で 児童文学のサークルを作り
雑誌も発行していました。

24歳で結婚し 仙台へ移り住んでからも

「いつか 子どもたちのために
何かしたい」と 思い続けていました。

飛騨高山では
戦後 両親が店を立て直しました。

必死に働き
ようやく商売も安定してきた頃

母に 病気が見つかります。

母はね 生涯 和服で過ごした人で

病気で寝てても 白足袋
履いてるような人だったんですよ。

病気になってね
ベットに 横になった時に

「はぁ 私は これで初めて楽になれる」って
言ったっていうんですよ。

それで ある時 私 母と話してる時に
母 ちょっと起き上がって

履いてた白足袋を脱いで
こうやって振ったら

長く寝てると 皮膚から粉が落ちるでしょ
皮膚が こすれてね。

で こうやって粉が落ちたのね。
それを こうやって見せながら…

…って笑ったのね。
その白足袋のゴミを振りながらね。

それ忘れられない 母の姿の一つですね。

働き者で 家族の前では
最期まで笑顔を見せていた母は

闘病の末 57歳で亡くなります。

遺品整理をしていた時 和子さんは

母が大切にしていた ハンドバッグの中に
広告の紙の束を見つけます。

裏には 誰にも見せず書きためていた
短歌がありました。

100首に及んだ母の短歌を
和子さんは 歌集にまとめました。

…って この最後の
「寂しくもなし」っていうところがね

母のこう心意気っていうのも
おかしいけどね

あの 気性が出てるなあと思ってね。

母は 母としての
あるいは 人間としての虚ろを抱えて

生き抜いたなって気はするの。

やっぱりね 母を失った年から
私 歩き始めたんです。

既に 35~36になってましたし
子どもも 3人いましたけど

それでも やっぱり
母を亡くしたってことは

心に 大きい虚ろを抱えるような感じでは
私は あったんです。

もうちょっと長生きして
幸せに生きてほしかったし

仙台にも1回しか遊びに来てないの。

私が 一番上の子を産む時に
迎えに来てくれた それだけだったから。

そういう 何にも 母にしてあげることが
できなかったっていう意味での

一種の空洞みたいなものが

私を あちこちへ歩くための
エネルギーになったかもしれないですね。

それを埋めたいっていう気持ちがね

エネルギーに
なってくれたかもしれないと思うし。

母の死を境に 和子さんは 35歳で
民話を訪ねる旅を始めます。

週末になると 夫に3人の子どもを預け
電車やバスで あちこちを回りました。

気がつけば 訪ねた場所は
100か所を超えていました。

民話を語って下さる方に会って

その方たちの
言葉を もらってくるっていうことで

私は すごく支えられながら
生きてきたっていう気はしますよ。

そういうような気は
自分が立つべき場所が

何とか見つかったなというような
気にはなるんですね。

佐藤ヤチヨおばあちゃんのテープ…。
ヤチヨばあちゃんの ええ テープ。

50年以上続く旅の
原点となった語り手がいます。

栗駒山の麓の集落で出会った
89歳の女性 佐藤ヤチヨさん。

あっ 1972年11月5日って書いてます。

50年前の声ですね ヤチヨばあちゃんの。

佐藤ヤチヨさんは 28歳で夫を亡くし
女手一つで 4人の子どもを育てました。

会う度に 必ず語ったのが
「猿の嫁ご」という民話でした。

あの 猿のとこさ嫁に行った娘の話
語っからなって言って

語って下すったんです。
この話 おばあちゃん

ヤチヨさんが 語りたくて
語って下すったっていう格好で。

田に水を引いてもらうのと引き替えに
猿に嫁いだ娘は

猿をだまして 川に落とします。
猿は 流されながら…。

面白い話だね。
面白い話だ。 猿が歌詠んで。

その猿は 流されながら
歌詠むんですよね。

ここが 面白いんだけど

猿が落ちてく。 命は惜しくないけど
お前を若後家にするのが痛ましいって

いじらしい歌 詠んでいくんだけど

娘は それ見て 「ばか猿やい!
誰ぇ後家になるっけや!」っつって

「とっとと うちさ 帰ってきたど~
こんで おしまい」って話は そこで

よんつこ もんつこ さけるわけです。

私は 猿が かわいそうになって

娘 なんて ひどいんだろうと
思うんだけども

それを おばあちゃんにも
言ったんですけどね。

おばあちゃん 猿がかわいいなんて おら
かわいそうだなんて 思ったことないって。

そして 俺だってもや 16の年に
親に嫁に行けって言われて

風呂敷包み一つ持って
山越して 嫁に行って

行ってみたら
やかましい ばあさまござって

箸上げても 下ろしてもって
言われましたね。

おらぁ うちは
そういうふうにやるんでない。

こういうふうだ こういうふうだって
嫁入り先のやりようを教えてもらって

そして 苦労して 何べんも
うちさ戻りたいと思ったかしれないって。

それで 荷物 風呂敷包み持って
とっとっとっと…

山を降りてみるんだけど
途中で足が止まるっていうのね。

こうやって うち帰ってったら
母ちゃん 嘆くべな。

妹 弟の縁談にも 差し支えるべなって
思うと 足が進まないって。

それで 結局 戻れないで途中の川行って
エンエン エンエンって泣いて

また風呂敷包み持って
嫁入り先に戻ってったって。

何べん あそこ行ったり来たりしたんだか
そこの道だ なんて

道を指さして 川の向こうの道を
指さして 言われるんですよ。

ですから この話は やっぱり
おばあちゃんにとっては

私の感覚で言った
そういう話ではないんですよね。

でも これは
よくきく話なんです ほんとに。

猿のところに 嫁に行った話というのは

語る人たちが ほんとによく
あちこちで 私は きいてんですよ。

女の人は 大変だったんですよ。
言うに言われぬ苦労してるから

そして何べんも えいっ とっとと
うちさ帰りたいと思ったと思うんですよ。

でも 実際はできないで 泣き泣き
また戻ってって 苦労をしてきた。

だから この話を ほんとに よく語られて
よく きいたんですよ。

このおばあちゃんも
「おら この話 一番好きだ」って言うのね。

そういう語りが 必ず リアリティーを持つ
現実に支えられてるってことを

きいて歩いて こういう話なんかを
きくとね 教えられるんですよね。

ヤチヨさんの語りに にじむ 女の苦しみ。

和子さんは 民話をきくことの重みに
気付かされます。

語る人だって きく人を見ますよ。 ねっ。

意外に大事なんだと思うんです
きくということはね。

「全身できく」っていう場合が

時には 語る人から ほんとに いいものが
僅かでも引き出せるんですね。

こっちが 全身でぶつかっていった時にね。

そんなこと 私たちだって そうでしょう。

この人なら 言ってもいいぞって
思う時と

もう いいかげんにして 終わらせとこうか
と思う時と あるじゃないですか。

だから そういう意味では

「きく」ってことは
本当に 力の要ることだし

語る人はね ほんとに きく人によって
すごく変わってくるんですよ。

そういう意味では 「きく」ってことは
やっぱり 一つの

受動的ではありますけれども
戦いなんだと思うんですよね うん。

春に出会い 3度目の訪問は晩秋でした。

ヤチヨさんは その時 和子さんに
あるものを見せてくれました。

行李 開けて
行李の底から 取ってこられたです。

ここに 絵本を。

今 探して 持ってきたとこ。

古びた 和とじの絵本。

早くに夫を亡くしたヤチヨさんが

その後 村を訪れた宮大工に
もらったものでした。

「忠臣蔵」の物語が
極彩色で描かれた本は

日々の暮らしの厳しさを慰めてくれる
たった一つの宝物でした。

きれいだこと。

2人で見終わり 別れを告げた時

ヤチヨさんは 和子さんの手に
宝物の絵本を握らせます。

(ヤチヨ)見てくれたから あげっから。
おれも もらったもんでね。

いいんですか? もらっても。

あら~ ほんと いいもの もらって
ありがとうございます。

次に訪ねると ヤチヨさんの部屋は
きれいに片づけられ

家の人から 「ばあちゃん もういないよ」と
告げられました。

消えるのよ それは
きく人がなくて 受け取る人がないと。

たくさんの人が それを持って
生きてるわけなんだけども

それを受け取って
何らかの形に残す人がなければ

全部消えて
消えてったものは いっぱいあって

私が拾ったものなんて ほんの
何て言ったらいいかしら

もう 氷山の一角とも言えないくらいの
僅かなものなんですけれども

それでも それを何とか 力いっぱい
残したいっていう気がしたんですよね。

民話には
深い生きる知恵が秘められている。

和子さんに それを教えてくれたのは…

いっつも こうやって笑ってらっしゃる。

自分が百姓であることに
すごく誇りを持っておられましたね。

小学校は 6年でやめて
一生を百姓で過ごされた方で

この手はね 熊手みたいな手なの。

強い手なの 指も。

人間の手は 本来ね
作業するためにあったんだっていう。

強い手なの 指もね。

この手で 何でも こなしてきたって
言われたけど。

いつも別れる時にはね 私は永浦さんと
握手して 別れてきたんですけど

その 握ってもらう手が うれしくてね
いつも握手してきたの。

すごく温厚なおじいさん 小柄な。

(取材者)優しいお顔。
優しい方です。

永浦さんは
270話余りの民話を語ってくれました。

中でも 和子さんが忘れられないのが
「口のない嫁ご」という話。

仙台伝統の門松を支える
「鬼打ち木」という添え木の

名前の由来を伝える民話でした。

「むがし あるどごろに
非常に欲の深ぇ 若ぇ男あって…」。

飯を食わない嫁を怪しんだ男が
外出を装って のぞき見ると

その正体は なんと鬼。

しかし鬼の腹には 既に子どもが。

人と鬼を親に持つ子どもには
角が生えていました。

母と共に
鬼の国で暮らすようになった子どもは…。

人の世界では 「鬼だ」と避けられ
鬼の世界では 「人だ」と拒まれる。

両親の間をたらい回しにされた末
子どもは ある決断をします。

(拍手)

永浦さんの話ってね
いつも こういうふうに独特なのよ。

考えてみると 悲しい話なんですよね。

そして 永浦さんはね
これを語られたあとにね…

…と言われたんですよ。

どっちさ行ったって
満足のいくような人間は いないんだと。

あっち行って こう言われ
こっち行って こう言われながら

それでも 自分として そこに立って

生きていかなくちゃ
なんねえもんなんだって。

この子は それができないで
頭ぶつけて あの門松に 死んでしまった。

みんなが あの 何と言うかしら
不十分な

足りないものだらけの存在である
ということですね。

そして そのまま生きてるわけなんですよ
何とか隠したり 飾ったりしながらね。

そのことを
お正月の めでたい門松に重ねた

先祖の知恵というのは
私は すごいと思うんですよ。

やっぱり
みんなを どっかで励まそうとしてる

意図はあるんですね 民話の。

頭をぶつけて 死んじゃった

鬼だか 人間だか 両方を行き来しながら
苦しんだ子どもが

一人で生きようがなくなって
めでたい門松に 頭…。

この「めでたい門松に」というところが
ミソだと思うの。

おめでたい飾りが いくら してあっても

この門松には もう一本
ここに頭をぶつけて 死んじゃった

鬼の子も 一緒にいるんだよ
ということを

鬼の 鬼打ち木だよっていうふうに
残したというところがね

すごい知恵だと思うんですよね。

どんな哲学も及ばないような知恵をね。

私は やっぱり 一種の権威主義の中で
成長してきましたから。

小学校出た人よりは
大学出た人が偉いとか

そういう固定観念を
どうしても植え付けられながら

その価値観の中で
自分は生きてきているわけだったけども

民話をきいて歩く中で
それが全部 打ち破られていった。

私の ものの見方や人の見方が
すごく変わってきたってことは

あったと思いますね。

だから 変な話だけど
怖いものがなくなったわけですね。

そういうことを知った… 知ってからね。

例えば うんと お金持ちな人がいても
うんと偉いと言われる人がいても

その偉いとも何とも思わなくなっちゃった
というのも おかしいけどね。

「このおじいさんの方が偉いですよ」って
言いたくなるわけ。 うん。

永浦さんと同じ登米市には
もう一人 類いまれなる語り手が。

正子さんは母から 母は祖母から

語り継がれ きき継がれてきた その調子を
正確に受け継いでいました。

(伊藤)「オオカミのまつ毛」っつうお話ね。

民話の持つ力は 現代にも通ずることを
和子さんは知ります。

中学校の教員を きき手に 和子さんが
「オオカミのまつ毛」を語ったところ

後日 参加していた
スクールカウンセラーの女性から

電話があったのです。

きれいな…。 あ~ きれいだこと。

小野和子さん 87歳。

年々 歩くことが つらくなってきました。

アケビですか?
アケビですよね。

でも まだ青いけども アケビ。
ああ~…。

とっても きれい。
ホオズキまであるし。 そうですね。

この日は 名取市で講演を頼まれました。

「これが 最後になるかもしれない」。

人間が語ること きくことの重みを
教えてくれた人々のことを伝えます。

皆さん こんにちは。
(一同)こんにちは。

ご紹介頂きました 小野和子でございます。

あ これが 吉良上野介に
斬りかかったとこですね 浅野内匠頭が。

堪忍袋の緒が切れちゃってね。

ヤチヨさんから託された絵本を見せ

物語と共に生きた その人生について
語りました。

いつも あの講演なんか頼まれて行く時に
その会場の端の方にね

私に 話をきかせて下さった方が
たくさん来て

並んでるような気がする時が
あるんですよ。 時々ね。

一緒に 話をきいてて下さるような
気になる…

これ 錯覚ですけれどもね
なることもあるの。

そういう意味では 私の言葉は

今は あの世へ行った無数の人たちの
言葉によって 支えられてるかなって

そういう時には思うんですよ。

そういうロマンスを秘めてたとしても
これは いい本だなぁと思ってね

これ 私の宝なんですよ。

そして私は できるだけ多くの方に
これを見せたいのね。

おばあさんが 「俺 死んでも
何にも残らねえと思ったら

あんた 昔 きいてたのが うれしい」って
言われて。

おばあさんの昔話とともに

おばあさんに頂いた この本を
皆さんに お見せして

おばあさんのことを
ここで話してますよって

私は言いたいわけなんですね。

こういうものをこそ
宝と言うべきだと思うんです。

これは 売っても 一文にも
ならないかもしれないですけどね。

(拍手)

こんにちは~。
あ 小野さん こんにちは。
こんにちは。

チナツちゃんが入ってくるところを
撮るっていうから。 あ そうなんですね。

今 撮られちゃったのよ。
すいません こんな…。

和子さんの 10年来の友人…

2人が知り合ったのは 2011年
東日本大震災の直後でした。

当時 仙台市で
学芸員をしていたチナツさんは

和子さんの提案に驚きます。

震災から 僅か5か月後に

あえて海辺で 被災の体験を
語ってもらう場を設けるというのです。

会場は 南三陸町で被災し
ようやく営業を再開したホテル。

ここで 津波に襲われた体験を
語ってもらう計画でした。

小野さんは あえて その人たちに
一緒に海のそばに行って

あの日あったことを教えて下さいって。

なぜなら その語りを 海にさらわれてった
亡くなった人たちに

死者にも届けたいからというのを
おっしゃって。

ほんとに 私にとっては
パンクだなって思うというか

もう ほんとに まっすぐ
話して下さったんですよ。

それは ほんとに驚いたし

実際 やっぱり
すごかったんですね その場自体が。

8月。 「今だからこそ語ってほしい
きかせてほしい」。

和子さんの呼びかけに
海辺で被災した6人が応じてくれました。

ある語り手は言いました。

「形あるものは みんな失ったが
気付けば 胸に民話が残った」。

それまで 民話を語ってきた
庄司アイさんは

家族と共に地震に遭い 家ごと流された
自分自身の体験を語ります。

(笑い)

私は テレビ 触んなくても…

私は ほら…

もう 叫びながら…。

名取市閖上で生まれ育った
鈴木善雄さんは

妻の きよ子さんを亡くしました。

ちょうど ここに同席した大橋さんがね
ちょうど いたんですよ。

(笑い)

地域の中学校に避難した善雄さんは
妻を車に残して 校舎の中へ。

今でも 忘れらんねぇ。

そこでね 「きよ子~! きよ子ぉ~!」。

まずねぇ 10回ぐらい
涙を流してね 叫びました。

あの日から 11年。

震災の記憶を語り続け
きき続ける場を守っていきたいと

和子さんは願っています。

「わたしたちの証言集」という
こういう形で

目黒さんが まとめて下さった

原発からの逃避行の足跡ですね。

ほんとに生々しく
どの方も 何か所も歩き回って

そして今 ようやく
宮城県に落ち着いておられるという

その実態をですね 書いて下さいました。

双葉町出身の…

原発事故のあと 元住人の証言をまとめ
自らの体験も語ろうとしています。

…ということを
私は突きつけていきたいんです。

皆さん お一人お一人にも。

今年1月。

1年遅れで 「あの日から10年」を語る会を
開くことができました。

過酷な体験が いつか私たちの

掛けがえのない
「生きる土台」となっていく。

「民話の種」を 皆で育てます。

(目黒)地震が来ました。 津波が来ました。
そして 原発事故が起きました。

東日本大震災 10年前のことです。

私は今日 皆さんに
この絵を見て頂きたくて ここにいます。

この絵は 3月11日 お昼近く

我が家の南の空で見た 不思議な雲です。

下が我が家です。

2011年3月11日 午後2時46分
震災ですから

震災3時間前の雲です。

紺碧の空に 小さな雲が
縦横 きちんと並んでいて…。

やっぱり 語るっていうことは

どっかで 何かを
浄化していくんでしょうかね。

物語というのは
そうやって 私ね 生まれて

人を生き抜くための力にしてきただろうな
というふうに思うし。

だから 無名の人たちが
無言のままに築いてくれていた

私たちの 実は足元の
土台文化っていうものを

やっぱり 私は 常に考えさせられるし
言いたいのね。

私たちの足元には 土台文化という

無名の人たちが流した汗によって
作られた文化が いつも横たわっていて

それがあって
ようやく私たち 立ってるし。

だから そこんところをね
忘れたくないと思って うん。

(取材者)ありがとうございます。
お粗末でございました。

何か 訳の分かんないこと言ってるでしょ。

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