出典:EPGの番組情報
英雄たちの選択「千年のまなざしで中国をみよ 内藤湖南が描いた日本と中国」[字]
明治から昭和を生き、日本の中国史学の礎を築いた内藤湖南。湖南は中国の歴史を千年さかのぼり、社会に通底する特質を見抜いていった。中国を知るヒントとなる特質とは。
詳細情報
番組内容
ジャーナリストから京都帝国大学教授となった内藤湖南。湖南が生きた時代、中国では革命が起こり清朝が崩壊。湖南は現地に赴き取材するなかで、中国の本質を知る必要があると考えるようになる。そこで歴史をさかのぼって国の成り立ちを探り、今日でも高く評価される学説を打ち立てた。その内容とは。中国、そしてあるべき日中関係を生涯のテーマにした湖南。今日の私たちにも重要な問いについて、各界の専門家が語り合う。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【語り】松重豊,【出演】高橋源一郎,岡本隆司,安田峰俊ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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- 自分
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- 日清戦争
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
♬~
去年 創立100周年を迎えた
中国共産党のもと
経済 軍事 科学技術など
急成長を遂げる中国。
一方 その統治や国家戦略は
国際社会とのあつれきを生んでいる。
日本は この隣国と
どのように つきあえばよいのか。
今から100年前
その問いに真剣に向き合った男がいた。
ジャーナリストから
京都帝国大学の教授となり
日本の中国史学の礎を
築いた人物だ。
湖南が生きた時代
中国は 激変のさなかにあった。
混迷するこの国と どう関わるか。
日本の喫緊の課題となっていた。
湖南は 中国という国の本質
それを見極めることが重要だと
歴史を遡って考えた。
そして 後に
世界的に高く評価される学説を打ち出す。
近代中国の骨格は
実に 1, 000年近い昔に生まれている。
それは 絶対的な君主と
エネルギーあふれる 平民社会から
出来ているとするものだった。
湖南がえぐり出した 中国の本質。
その知の遺産は 日中の未来を考える時
どんなヒントを与えてくれるのか。
…っていうものを知るんだと。
表面だけ見てたら 駄目だと。
中国は こうなってる
日本が こうなってるのは どうなんだ
これから 僕たち
どこに行くのかいっていう…
内藤湖南が説いたような…
日中関係が緊迫した時代
両国の在り方を模索し続けた
内藤湖南の実像に迫る。
♬~
皆さん こんばんは。
「英雄たちの選択」
今回の主人公は 中国学者 内藤湖南です。
内藤湖南という名前に
なじみが薄いという方も
多いと思うんですが
磯田さん どんな人物なんでしょうか。
まあ ひと言で言うと
型にはまらないスケールの大きさですね。
扱う時代の広さが 歴史学者とは…
歴史学者の枠じゃないですね。
空間の広さに制限がないですよね。
更に言えば
学問の分野も制限がないという感じで…
しかも 歴史的な物事から
現代を考えるっていう点においては
まあ 我々の番組としては
何か ご先祖様みたいな
存在でもあるわけで。
今ね 中国が どんどん大国化してきて
それに対して いろんな思いを
持ってらっしゃる方が
いると思いますけど
ちょっと 内藤湖南が捉えた中国
っていうのに戻ってですね
今後の中国と日本っていうのを
読み解く上でも 今日 考えてみたいな。
結構
チャレンジングな回かもしれませんね。
そうですね
ちょっと難しいかなと思っても
しまいまで しっかり見ていただきたいな
というふうに思います。
本当に 中国との関係は 現代においても
大きなテーマですからね。
さあ それでは 内藤湖南とは
どんな人物なのか 見ていきましょう。
中国の本質に迫った内藤湖南。
生前に収集した
中国関連の資料が残されている。
5万点に上る 膨大なコレクションは
湖南が中国へ抱いた
幅広い関心を物語っている。
600年前 明の永楽帝が
当時のあらゆる書物をまとめさせた
「永楽大典」。
度重なる戦乱で散逸し
今日 世界に僅かしか現存しない
第一級の貴重書だ。
こちらは 甲骨片。
刻まれているのは 漢字の起源となった
3, 000年以上前の占いの文字。
貴重なお宝の一方で
なぜか こんなものまで大切に保管。
中国のあらゆるものに向けられた…
江戸時代 盛岡藩の所領だった
秋田県鹿角市。
幕末の慶応2年 湖南は この地に代々続く
儒学者の家に生まれた。
2歳の時 戊辰戦争で
盛岡藩が没落すると
内藤家も禄を失い
貧しい暮らしに転落した。
逆境の中 儒学者の息子として
湖南は幼い頃から学問をたたき込まれた。
儒教の経典の一つ 「詩経」。
細かな書き込みは 湖南の父親が
その父から習った時の筆跡。
それを使って 湖南も学んだ。
父の教えを たちどころに覚えた
という湖南。
8歳で「論語」を
読み終えるほどだった。
その漢学に
湖南は やがて 飽き足らなくなる。
毎月 地元の有志が集まり
湖南について学ぶ勉強会。
読んでいるのは
湖南が 父親に宛てた手紙だ。
17歳で 秋田の師範学校に進んだ湖南は
頻繁に父親に手紙を送った。
折に触れて記しているのは 英語への情熱。
英語学校に通いながら
西洋の学問を独学した。
そのかたわら 生活のために働いた
雑誌社で 湖南は力を認められていく。
初めて編集を任された雑誌「萬報一覧」では
国内だけでなく
海外の記事についても論評。
漢文の素養と西洋の学問。
ジャーナリストとなった湖南は
日本を取り巻く世界情勢に
目を向けていく。
中でも注目していたのが
隣国 清朝。
19世紀半ばの アヘン戦争以来
西洋列強の進出に押されながらも
伝統的な体制を維持し
眠れる獅子と呼ばれていた。
しかし 明治27年に始まった日清戦争で
日本が勝利すると
清のぜい弱な実態が露呈。
日本国内では アジアの盟主としての
意識や優越感が芽生えていった。
当時の代表的な論客…
日清戦争を 文明と野蛮の対立だとして
中国を批判した。
遅れた中国との関係を絶ち
西洋化を急ぐべきとする論が
大勢を占める中
湖南は 文明を相対化して捉える点で
一線を画していた。
「軽率な者たちは
中国を守旧の代表というが
中国は 停滞などしていない」。
西洋と同じく 特色ある文明を持ち
日本以上に西洋と接触しながら
進歩してきた。
同じ東洋の文化を持ち
中国を理解できる 日本ならではの役割を
果たすべきではないかと述べた。
では 日本に何ができるのか。
湖南は 記者ならではのフットワークで
中国に赴き 取材する。
その時 中国の知識人と交わした
筆談記録が 残されている。
いわば漢文で書かれた取材メモだ。
日清戦争の敗北をきっかけに
中国では 明治維新に倣って 政治制度を
改革しようという動きが起きていた。
彼らが目指す改革について
湖南は 漢文を駆使して理解を深めた。
改革論者たちは 目の前の問題を
長い歴史の文脈の中で捉えていた。
その根底には
経世思想と呼ばれる考えがあった。
現実社会の問題解決に
役立てるために
歴史を実証的に検証する姿勢が
培われていた。
明治38年 日露戦争で
日本軍が奉天を占領すると
湖南は すぐさま現地に赴く。
奉天は 満洲族が清朝を興した時の都。
宮殿には 清の成り立ちを物語る
膨大な古文書が眠っていた。
それを実証的に研究することで
湖南は 清という国への理解を深めた。
やがて 自他ともに認める
中国通となった湖南は
京都帝国大学に招かれ 43歳で教授となる。
師範学校しか卒業していない
ジャーナリストから
異例の大抜てきだった。
今日は
さまざまな分野のゲストの皆さんに
リモートでお話を伺っていきます。
まずは 中国史がご専門の岡本隆司さん。
湖南は 儒学者の家に生まれて
漢学を修め
やがて 英語も熱心に学んでいった
ということが
映像で紹介されましたけれど
この生い立ちは どのように見ますか?
内藤湖南って 本当に
明治の年数と
同じ年齢なんですが
その明治日本がですね
たどった在り方っていうのを
体現してる
っていいますかですね…
…作っていく。
いろんな分野を横断 今の目から見て
そういうふうな横断的な存在でしたし
日本の近代を本当に体現してるような
そういう感じじゃないかなって
見ております。
今みたいに 専門分野 型が決まってて
そこだけやる ただの専門家が
大学の先生になる時代じゃないんで…。
まだ… まだ型が決まってないんで
すごい人を集めてくるんですよ。
だから こんな人が出てくる。
ジャーナリストがね
教授になったりするっていうような感じで
堅苦しくないですよね 本当に。
続いて 小説家の高橋源一郎さんです。
よろしくお願いいたします。
湖南は 日清戦争きっかけに
中国情勢に関心を深めて
論説を発表していくわけですけど
この辺りは どのように感じてますか?
僕は この20年ぐらい
明治から昭和の日本の歴史がテーマで
小説を書いています。
いろいろ読む機会が
あったんですけど
やっぱり
日本の近代の半分ぐらいまでは…
そこに映ってくる日本っていうのが
すごく面白いなっていうのが
僕の個人的な関心だったんですね。
で その代表は 内藤湖南なんですけど
実は 内藤湖南の中国 あるいは 清ですね
…への態度の取り方っていうのは
福沢諭吉みたいな
やり方には反対してるんですが
日清戦争が起こった結果
中国が負けてですね
やっぱり 日本が アジアの盟主だ
っていう感覚は
やっぱり 知識人も含めて
持ってしまったところあるんですね。
それは やっぱり 背後にというか
彼の学識があったからだと思います。
さあ 続いて 中国での取材活動が豊富な
ルポライターの安田峰俊さんです。
先ほど 湖南が記者として
中国を訪問した時の
筆談記録が映像に出てきましたけれど
これは 安田さん ジャーナリストとして
どのようにご覧になりましたか?
その当時ですと 人々の言葉が
結構 違うわけなんですよ。
なので 中国人自身であっても
その時代であれば
むしろ文書でのコミュニケーションの方が
大きかったはずです。
特に 知識人であればです。
更に そうなってくると
今度は 知識人同士で
どれだけ上手な文章が書けるかと。
もしくは どれだけ美しい書を書けるか
っていうところで
相手を見るわけですよね。
内藤湖南の場合は
本当に中国の知識人から
ものすごく一目置かれるレベルの
漢文が書けたというのは
恐らく先方から…
安田さんは 実は 秋田を訪問したと
伺ったんですが…。
今回 しかも 一番寒い時に
行ってきたんです。 そうだったんですね。
内藤湖南のおうちの環境であれば
もう恐らく 漢文読むしかできなかった
と思うんですよ。
ひたすら 父と この漢文だけを
読み続けるっていう
「巨人の星」みたいな時間をですね
冬ごとに過ごしてたんじゃないかな
っていう…。
やっぱりね
当時 東アジアのインテリっていうか
そういう人たちにとって…
それは もう ずっと
日本でも 朝鮮でも 中国でも
漢字文明として
広がってるわけですから
その中にいる人だと思えば
割と交流が楽になる。
中国の改革派の中国人と交流する中で
経世思想というものが出てきましたよね。
世の中を治めるのに
非常に実践的なというか 政治行政
そういうのに非常に向き合うような学問。
あるいは スキルというか
湖南は すごい それに着目をして
非常に高く評価をしてるわけです。
それは 彼が やっぱり
ジャーナリストっていうような
非常に 現実を見つめるっていうふうな
立場の職業っていうことも
あったと思うんですね。
やはり 現実…
学問も現実のためにあって
現実から学問をっていう
そういう双方向っていうのは
彼の中には すごいあった
というふうに感じますね。
さあ こうして
京都帝国大学の教師となった湖南は
ある歴史的事件をきっかけに
中国史に対する見方を発表していきます。
1911年 辛亥革命が勃発。
300年近く続いた清朝が
崩壊へと向かい始める。
自分の生きる時代に起きた歴史的事件。
湖南は 注意深く動向を見守った。
孫文を中心とする革命派は
清朝の専制政治に代えて
西洋的な共和制を目指した。
しかし その後 事態は迷走する。
孫文らは 南京で
中華民国 臨時政府を樹立するが
中国北部は 依然
清朝軍閥 袁世凱の勢力下にあった。
国内安定を優先した孫文は
皇帝の退位を条件として
臨時大総統の座を 袁世凱に譲り渡す。
ところが 一たび権力を握ると
袁世凱は革命派を弾圧。
革命の成果を なし崩しにしていった。
中国情勢は この先 どうなっていくのか。
湖南は 口述筆記の形で
見解を発表した。
それが 代表作「支那論」である。
混乱の原因を読み解くために
湖南は当時の中国社会
つまり 近代中国の骨格が
歴史上 いつ形成されたのか
解き明かそうと考えた。
そして たどりついたのは
誰も予期せぬ はるかな昔。
遡ること1, 000年
唐から 五代十国
北宋に至る時代に
近代中国が始まったとした。
唐宋変革論と呼ばれる学説である。
その根拠の一つと考えたのが
宋代に 君主独裁制が確立したこと。
つまり 唐の時代までは 貴族の力が強く
皇帝といえども 権力は
貴族によって制限されていた。
ところが 宋代に入ると
貴族が次第に没落し
皇帝が 絶大な権力を握るようになる。
統治のために置かれた官僚には
権限がなく
税金を集めるだけで 行政は行わない。
官僚は 任地を転々とし
行くさきざきで
金もうけに いそしむばかり。
地域のために尽くそうと思わない。
君主独裁制は 権限を持たない
官僚たちの無責任という
社会の弊害を生んでいった。
社会の不満が 頂点に達する度
王朝交代を繰り返す。
清朝崩壊も
その結果としてあったというのだ。
君主の強大な権力を指摘した湖南。
更にもう一つ より重要な
近代中国の特徴と見たものがある。
それは 人民の力。
北宋時代の暮らしを描いた
「清明上河図」。
荷を運ぶ船 にぎわう店先。
宋代には 貨幣経済が行き渡り
平民の暮らしは 活気であふれた。
反面 官僚が当てにならないため
平民たちは
地縁血縁や職業組合を頼った。
インフラから教育 貧困者の救済まで
暮らしの全てを
自力で 賄うようになる。
湖南が見抜いた中国社会の本質とは
強大な権力を持つ君主と
国家と乖離し
自立した平民たちの社会だった。
この本質を踏まえた上で
湖南は 中国に対して提案を述べた。
時の中華民国 国務総理は
湖南と旧知の仲になっていた。
「支那論」は
中国への助言でもあったのだ。
政治に無関心な国民性が
急に変わることは難しいが
歴史の中で培われた長所を生かせば
目指す共和制の国家に
近づけるのではないか。
湖南は この歴史の底流について
次のように語っている。
「緩く 重く 鈍く 強く
推し流れて居るのである」。
目の前のことを読み解くために
1, 000年も遡るという
スケールの大きさに驚かされますが
岡本さん そもそも 湖南は
なぜ この「支那論」を
執筆しようと思ったのか
何が 突き動かして
書くことになったんでしょうか。
中国が 非常に混乱をしているという
そういう状況の中で こういう…
始まっているところまで遡れば…
彼は そういうふうに考えた。
考えて考えて 考えたあげくに
1, 000年遡って
ここから始まるんだと
時事評論で書くわけですよね。
ちょっと 今の我々には
できないようなことを
やってしまっている
っていうふうなことで。
遡って 歴史から
しかも 対象の仕組みですかね
そういうものを 全部
見ないといけないんだっていうふうな
そういうものだと思いますね。
からくり人形の背中側…
あの構造を パカッと開けてね
どんな歯車が入ってて
鯨のヒゲが どこに入ってて
車が どういうふうな動力でつながってて
これから どこに行きそうかというのを
見るためには 表面の植えてる毛の色とか
見てちゃ駄目なんです。
あの中の構造を見なきゃ
駄目なんですね。
中国っていうのは
始皇帝の時代や ずっと唐の時代まで
人間を 徭役っていって
「お前 俺 皇帝の陵墓をつくるぞ。 働け」
と言ったら
何日間 労役で こき使われてたと。
ところが 宋代になって
お金で 代わりに納めてもいいよって
言い始めたと。
そうすると お金さえあれば
皇帝のくびきから外れるわけですよ。
首輪が外れるわけですよ。
で 湖南は鋭いですよ。
やっぱり そういうふうにお金さえあれば
国家と距離が取れるっていうのは
ここに始まってると。
平民が 国を頼らなくて
自立しているっていう この表記を見て
あ 本当に 私が ずっと感じてきた
中国人のエネルギッシュな感じとか
パワフルな感じって
そういうことなんだなって 何か 今の…。
自立せざるをえない状況なんですね。
規模は大きいし 国家は守ってくれないし。
その中で 自分たちのルールを作って
そこには 非常に
きっちりした秩序があって。
それに関しましても
正直 現代の中国でも
まあ あるよねっていうのは
すごく感じます。
で 貴州省のすごい山奥に
行ったことがありまして
ちょっと名声のある人のおうちに
数日間 泊まったんですけれども
そこで お酒飲みながら
この村には もう泥棒とかいないんだ
って話をしていて その人が。
何で 泥棒がいないかと。
警察力が すごく強いんですかと言うと
真逆なんですね。
泥棒が もし空き巣がいようものなら
近所総出で とっ捕まえて
ボコボコにしてしまって
私的制裁を加えるので
絶対に もう
それ みんな分かってるから
やって来ないんだっていう話を
するんですね。
これなんかも 要は
あまりにも巨大すぎる王朝なのか
人民共和国なのか分かりませんが…
そうすると その土地の人 土地の人で
団結しちゃって
自分たちのインナーサークルで
いろんな資源を融通して
かつ治安を維持して やった方が
よかったりするんですね。
この国家のシステムに頼るよりも。
それは やっぱ 少なくとも…
これはね めっちゃ面白いですよ。
ですね。
これ 僕…
今回で ちょっとびっくりしたのは
中間共同体を重視する
ということよね ひと言で言うと。
この発想って 実は
なかなか出てこないんですよ。
これを 湖南は
この時期に言ってるっていうのが
まず すごいっていうことですよね。
ついこの間 トランプ現象というのを
分析する時に
アメリカの中間共同体が
没落したっていう話になって
西部劇でさ 保安官がいる街が
あるじゃないですか。
ありますね。
タウン。
あれ あの規模ですよ。
保安官がいて
自治をやってるんです。
デモクラシーは ここで
発生するといわれてるんですよ。
つまり ここは
直接民主主義ですよね。
まあ ちっちゃいから。
だから全部 自分で決められると。
やっぱり 中国のすごいところは
これを ずっと やってきたんですよね。
さっき言ってた 1, 000年間。
僕 ちょっと この前 たまたま
元のフビライ・ハーンのことを
調べた時に
元って もう全部
お任せしちゃったんだよね。
国家の方が 漢人に。
要するに 蒙古人ほとんどいないから。
実態を握ってる漢の人に
勝手にやりなさいっていうんで
統治しないと。
統治しなくても 漢の人が
勝手にやってくれるからって。
先ほどから すごい話題になっている
中間団体 それから
自治力 平民社会っていうふうな論点は
先ほど出てきた経世思想とかですよね
その改革論者たちが いろいろ言ってる…
もちろん中国人ですよ。
が 言っていることを…
自治力っていうのが まだ誰も
どう扱っていいのか
分からないっていう段階ですので
湖南自身も
何か こうしたらいいよっていう
マスタープランみたいなのを
出してるわけではない。
なるほど。 さあ その「支那論」で
独自の歴史観を発表した湖南ですが
その後 困難な現実に
向き合っていくことになります。
「支那論」発表後 中国情勢は
湖南の予想から遠ざかっていった。
ヨーロッパで勃発した第1次世界大戦が
日中関係に 暗い影を落としていく。
大陸での権益拡大の好機と見た日本は
ドイツが権益を持つ
山東省の租借地を占領。
大戦後の講和会議で 日本による
山東権益の継承が認められると
中国では 学生たちが
大規模な反日デモを起こす。
更に 学生たちは
近代化を阻むものとして
自らの国の伝統文化を攻撃。
西洋文化を吸収しようと
主張した。
一方の湖南は 中国の文化に
深い思いを抱いていた。
「支那論」を著した年
湖南は 中国書画の鑑賞会を
京都で開いている。
書の大家 王羲之の名品 100点以上を
愛好家たちが持ち寄った。
当時 清朝の崩壊によって
貴重な書画が 宮廷から流出。
湖南は それらの価値を
日本に広めたいと考えていた。
今日 関西一円の美術館には
中国の名品が残っている。
湖南の呼びかけに応えて
実業家などの同好の士が集めたものだ。
その一つ 「読碑石図」。
北宋時代に生まれた
水墨画の技を駆使した傑作。
絵を前にした時 湖南は座布団を外し
居ずまいを正して見入ったという。
東洋文化の理解者を自認していた湖南。
その伝統を否定し 反日を叫ぶ若者たちを
受け入れ難かった。
こうした動きの背後に 湖南は
ある国の存在を見て取っていた。
大正6年 湖南は外務省の依頼で
反日感情が高まる中国へ
視察に赴いたことがあった。
この時 アメリカの資金で作られた
数々の大学を見学し
その充実ぶりに驚いた。
対米信頼 対日恐怖の感情が
広まっていたのだ。
このころ アメリカは中国市場に
強い関心を示し始めていた。
アメリカ主導で行われた
ワシントン会議では
中国市場の門戸開放と
機会均等を定める
九カ国条約が承認される。
中国に対し
露骨に影響力を強めるアメリカを
湖南は警戒した。
「支那論」から10年
湖南は 中国情勢への見解を
「新支那論」として発表。
そこで アメリカを厳しく非難した。
中国市場で アメリカに追い詰められれば
日本は 真っ先に破裂する。
それは
後の日米対立を予言するものだった。
続けて湖南は 日本が中国の政治に
積極的に関わるべきだとして
驚くべき独自の論を展開する。
いまや東洋の中心となった日本が
中国に代わって
その政治や軍事を執り行っても
何ら不思議ではないと述べた。
湖南が記した「新支那論」。
その過激な論の真意は
どこにあったのか。
まあ かなり偏った論に
聞こえるんですけれど
高橋さん この中国が
アメリカの影響を受ける中で
湖南は 日本は この「新支那論」の中では
どういう立場で 中国と接するべきだと
説いたと考えますか。
う~んとね…
これ 困ったもんなんだよね 実は。
困ったもんですか?
すごく困って…。
複雑ですよね。
複雑です。
湖南評価って なかなか難しくなるのは
この「新支那論」の…
かつて中国は 匈奴だったり元だったり
そういう… 形としては 侵略ですよね
でも 刺激を受けて よみがえってきたと。
「支那論」と「新支那論」の間で
やっぱり 一番大きく変わってるのは
東洋の中心を どう考えるか
っていう問題なんです。
中国の中だって 長い歴史を見たら
東洋の中心 移動してると。
奥地の西安の方にあったこともあれば
北京の方にあったこともあれば
浙江だとか上海 南京とか
ああいう 揚子江流域に移ったことも
あるじゃないかと。
で なおかつ 悪いことに 僕らが
ペリーで目覚めちゃってるわけですよ。
侵略に近いような どう喝を受けて。
だから 外から遊牧民族が入ってきて
何度も新しく変わってるから
あれ 恐らくは ペリー来航受けて
西洋の危機で目覚めて
工業化が進んでいった自分たちの国と
おんなじように
日本が中国へ侵略的な行動というふうに
もう言わざるをえないですけど
とったがゆえに中国が変わるのではないか
という論を書き始める。
本当に きわどい話を言い始めたな
っていうのが
僕は 湖南の説に 思いますね。
で この時期に起こった
中国の学生運動も
湖南は
受け入れ難かったわけですけど
安田さん
これについては なぜだと思いますか。
学生運動をやっている…
従来の いい部分を知らないし
逆に 悪い部分を分かってないと。
ゆえに 「けしからん」っていうふうに
言ってるんですね。
これは
確かに 説得力のある主張だと思います。
それが
いかに理想的に きれいに聞こえても
ちょっと何か
どこかで わだかまりを持ってたと。
やはり 中国文化 東洋文化
っていうようなものに
大変なリスペクトを 彼は持っていて
中国が先進国なんだと。
先に 宋代に近代…
現代につながる近代を実現していて
それで 長い時間
そういうのを過ごしているから
政治なんていうですね…
政治とか軍事とかいうと
要するに けんかをするだとか
すごい原始的だっていう
低級なものだっていう
そういう考え方なんですよね。
そういう感じになるんですよね。
ただ そこが
今日的な我々の常識からすると
それが 侵略 帝国主義
まあ いう形になると。
提携すべきというか…
そういう中で書かれた
書物でもありますし
それが また
湖南の評価を決定づけるというのは
ある意味 湖南の不幸でもあるかな
っていう感じはしますね。
何かね つまり
やっぱり せっぱ詰まったと思います。
一つは やっぱり アメリカです。
これは 湖南だけじゃなくて
大正から昭和にかけて
事態が どんどん変わっていく中で
やっぱり
アメリカと戦争するのかっていう機運が
日本の知識人も含めてね
みんな やっぱり 主要敵っていうか
いつか アメリカと
やらなきゃいけないのかなって…
ちょっと無理筋だなとか
ちょっと詭弁なところありますよ。
ただ あまりにも湖南は
正確な歴史知識を持ってるので
いかにも そのとおりに
見えちゃうところが悲しいですよね。
そのアメリカの影響力の前に
危機感を強めた湖南ですけれど
晩年 更に大きな時代の波に見舞われます。
京都と奈良の県境
木津川市の瓶原。
昭和元年 大学を定年退職した湖南は
この地に移り住んだ。
理想的な東洋の暮らしを送りたいと建てた
ついの住みか 恭仁山荘。
何より蔵書を大切にした湖南。
当時のまま残る書庫は
コンクリートの頑丈な土台に立っている。
電気は どこ?
あった あった。
今は 別の場所に保管されているが
かつて ここには
5万冊もの書籍が あふれていた。
そのうち ここは「学問に志す者が
すべて ここへ拝みに来る」
ということを言った…。
それだけ 自分の…。
残された時間を学問に ささげたかったが
時代は湖南を放ってはおかなかった。
昭和6年 満州事変が勃発。
翌年には 清朝最後の皇帝だった
溥儀を執政として
満州国が建国される。
湖南は 史料調査を通じて
ゆかりの深かった満洲へ赴き
歴史研究や出版を行う
日満文化協会の設立に尽力した。
この時 体は がんに むしばまれており
病くを押しての渡航だった。
その返礼に 満州国の総理が
恭仁山荘へ 湖南を表敬訪問した時の
映像が残されている。
軍の謀略から生まれた満州国。
大陸での領土拡大をねらう軍を
湖南は 最後まで懸念していた。
この2か月後 帰らぬ人となる。
亡くなる前
知人に語った言葉が伝えられている。
なきがらは
京都大学に程近い 法然院に葬られた。
その辞世の句。
「私のことを宝と
惜しんでくれる人はいる。
しかし この魂を
どうすればよいのか」。
日中戦争が勃発したのは
3年後のことだった。
さあ 今日は 内藤湖南について
見てきましたけれど
では 現代の私たちが
湖南から 何を学ぶことができるのか
安田さん どのように考えますか。
大いに 学ぶところはあるのかな
と思います。
って言うのもですね…
結局 中国共産党がやったのも
そういうことなんですよ。
で 従来の この皇帝のポジションに
党が存在する。
それが 更に興味深いのは
従来の中国の 近世か 近代かと
皇帝独裁の体制の欠点の部分を
ある意味 改善しちゃってる
というところがあるんですよ。
昔の時代であれば その権威のある
皇帝なり党なりというものが
個々の人民を把握し 支配することは
不可能だったわけですよ。
それは 物理的に無理ですよね。
だったのが 今 ITがあるので
分かっちゃうんですね。
国民 個人個人を
ある意味 最高権力者である皇帝
もとい党というものが
党権力なり最高権力が
個々の国民を しっかり
把握できるようになっちゃってると。
19世紀までであれば
存在した問題点というものを
ITと あと中国共産党の組織力で
改善してしまってると… なんですね。
皇帝独裁2.0みたいになっている
というのが
今の中国だなと思っていまして。
まあ そういうわけで
要するに 今の中国の体制を考える上で
内藤湖南の本
読まなきゃいけないんですよというのが
私の意見かなって気がしますかね。
高橋さん いかがでしょうか。
さっき日清戦争の話が
最初に出ましたけど
あの時に 日本が近代化する。
それに対して 中国は古いよと。
これが 最初の 言ってみれば
日本の自己認識だったわけですよね。
だから 要するに
外に鏡がないと 人間も成長しません。
だから 中国って
日本 あるいは日本人にとって
一種の鏡の存在だったんですよね。
その濃密な関係は
1945年まで続いてたと。
戦後 ちょっと薄くなってですね
今また妙な濃さで迫ってきたんですよね。
ただ その時 どう考えるかっていうのは
やっぱり そのことを真剣に考えた
内藤湖南のような考え方を
一度 通過してみるっていうのは
必要だと思います。
ただ もう一つだけ言うとね。
終戦後ですね
僕一応 作家なので 一番感じたのは
パール・バックの
「大地」という小説があって
これは アメリカ人の
パール・バックっていう女性作家が
中国人民衆を書いて
大ヒットした小説なんですね。
ところが
日本の作家は 驚がくしたんですよ。
なぜ 日本は パール・バックの
「大地」のような小説を書いた人が
一人も いないんだって。
つまり…
でも 中国人の圧倒的多数である
例えば 農民
それについて 詳しく書いた人がいるか
っていう。
つまり 一般民衆のことは
基本的に 無視だったんですよね。
だから…
これが 湖南だったり…
一番知ってる人じゃないですか。
湖南ですら分からなかったかもしれない
って考えると
何かを知るっていうのは
本当に 大変だなって
僕 この湖南のことを考えると
思いましたね 今回。
高橋さんのお話でもですね
我々に対する批判かなと思いながら
聞いておりましたけれども
やっぱり おっしゃってるとおり
なのかもしれません。
やっぱり 知るっていうことは
すごい難しいことで
しかも 中国のような
中国人って くくってしまえないぐらいに
非常に複雑で
しかも いろんな人がいるというふうな
それが すごい大国になってですね
我々も
いやおうなく つきあわざるをえない…
昔から どう変わっているかということで
初めて 今のことが分かるんじゃないか。
今の中国が 何で こういうふうな
パフォーマンスをするのか
あるいは 習近平が
何で あんな存在になるのかというのは
歴史を知らなきゃ
やっぱり 分からないですよね。
変な国だって あるいは
独裁的な強権的な国だって言って
脅威を あおっているっていうことで
今の日本人は
それでいいんですかっていう
そういう問いかけにも
多分 なると思うんですね。
その際に 先人が どういうふうに
中国を知ろうとしてきたか。
それは 知り得なかったっていうことも
含めてなんですけれども
成功も失敗も含めて
そういうのを 我々が いかに生かすか。
そういうことを 多分
内藤湖南の生涯と著述っていうのは
示してくれてるんじゃないか
というところですね。
改めて思ったのは 本当に近い
一番大きな国である中国のことを
本当に 恥ずかしながら
全く知らなかったんだなっていうことと
実は ずっと私たちは
知った顔してるのかもしれないっていう
危険性を思いましたね。
知ったつもりになっちゃってる…。
いや 僕ね 内藤湖南の この本
もう一回 読み直してみて
ちょっとドキッとしたことあるんですよ。
中国で 起きたことは 1度ね
日本で もう一回 似た現象が
起きるようなこと書いてるんですよ。
それ どこで思ったかっていうと…
その時に 僕 ドキッとした。
宋代って 何かっていうと
エリートを試験で選ぶわけですよ。
その試験の内容というのは
四書五経の内容だったり詩だったり
あんまり生産に つながらないこと。
お金持ちが
みんな子供に小さいころから
あまり役に 将来…
それで それを反復していったら
どうなったかっていうと…
ひょっとして そういう予言
彼は したんじゃないかっていう怖さを
ちょっと背筋が 読みながら青くなって。
全然関係ない話だけど
私は これを思いましたね 今回。
皆さん
今日は ありがとうございました。
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