こころの時代~宗教・人生~ 無宗教からの扉(1)「無宗教から開く大きな物語」[字] …の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

こころの時代~宗教・人生~ 無宗教からの扉(1)「無宗教から開く大きな物語」[字]

遠藤周作や三木清など多くの作家や哲学者に愛されてきた「歎異抄」。多くの日本人が自らを“無宗教”だとする現代、そのメッセージをシリーズ6回にわたって読み解く。

詳細情報
番組内容
親鸞門弟だった唯円が著者とされる『歎異抄』は、全ての人を差別なく救おうとした専修念仏の思想を親鸞言行録としてつづった書。自己中心的な人間の本質を見つめ「宗教とは何か」を考える上で重要な道標となる。阿満さんは、日本人の多くが抱く“宗教”への誤解や“無宗教”性は、明治以来の天皇を中心とした“国家神道”が一因だとし、「歎異抄」が紡ぐ「大いなる物語」が、不条理な人生を乗り越えるための新たな扉になると語る。
出演者
【講師】明治学院大学名誉教授 宗教学者…阿満利麿

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉

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  17. 意味
  18. 浄土
  19. 創唱宗教
  20. 無宗教

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

自然豊かな山懐に抱かれた京都 鹿ケ谷。

法然院は 鎌倉時代の僧侶・法然が
草庵を結んだという この地にあります。

法然院では 宗教や宗派を問わず

仏教を学ぼうとする人々が
定期的に集まり 学習会を開いています。

宗教学者 阿満利麿さん。

京都大学で哲学を学んだのち

法然や親鸞の仏教思想や

日本人が持つ独特の宗教観について
研究を重ねてきました。

この日 阿満さんが取り上げた仏教書は

鎌倉時代に書かれたといわれる「歎異抄」。

そこには「南無阿弥陀仏」
という念仏を称えるだけで

全ての人が救われるという
「専修念仏」の教えが息づいています。

それは 法然から親鸞へと受け継がれ

更に 親鸞の門弟となった唯円が
師の言葉を記録することで

「専修念仏」の思想の神髄を
伝えようとしました。

「歎異抄」には 特定の宗教をもたない
いわゆる「無宗教」の人たちが抱く

宗教への疑問に応えるヒントが
ちりばめられている。

阿満さんは 「歎異抄」が
無宗教からの扉になると考えてきました。

♬~

(鎌倉)今日から半年にわたって毎月1回
合計で6回になりますけれども

「歎異抄」という書物をひもといていきたい
と思ってるんですけれども

よろしくお願いします。

「歎異抄」は 13世紀の書物ですね。

何よりも
この「歎異抄」の魅力というのは

法然の説いた その「専修念仏」の教えの
最も大事な点は何かということを

端的に示しているということですね。

やっぱり法然の「専修念仏」の教え

というものを受け継いできた

その受け継いできた者として
唯円という人が

親鸞から聞いた耳底に留まる言葉を
大事にして生きていきたいという

そういうふうな思いで
満ちてる本でありますけど。

親鸞は 法然さんより40歳若いんですね。

で 更に 親鸞と唯円との間はですね
50歳も違うわけです。

ということは
この「歎異抄」の中の話というのは

その法然という人が
「専修念仏」を宣言してから

ほぼ100年後の書物だということですね。

(鎌倉)今 「専修念仏」というお話が
ありましたけれども

「専修念仏」という言葉に
関してはですね

どのように理解したら
よろしいんでしょうか?

「専修」というのは
「専ら」「修める」と書きますね。

それは 何を専ら修めるかっていったら
念仏だけを専ら修めるんですね。

この仏教というのは
非常に多面的な修行がありまして

そういう修行を一つ一つこなしながら
段階を踏んで この悟りへの道を歩むと。

その修行をするためには
出家という形をとらないといけない。

そうすると 出家できない人は
捨てられていくという

見捨てられていくということに
大いに疑問を感じられてですね

つまり一般大衆が置き去りにされる
という問題ですね。

で 法然さんという人は
仏教というのは 全ての命ある人々に

その恩恵をもたらすことができる
宗教であるはずだという思いがあって。

その結果 彼が見いだしたのは
阿弥陀仏の名前を称える。

つまり
「南無阿弥陀仏」と称えるだけで

その称えた人は 将来 必ず
その悟りに到達することができると

そういう道を発見するわけですね。

今までの仏教は いろいろな その修行を
しなくちゃならなかったけれども

自分が発見した その本願念仏というのは
念仏だけでいいわけですね。

私は 幸か不幸か 西本願寺の末寺の
長男に生まれておりまして

「将来 お前は この寺の跡をとるんだ」
ということを言われて

大きくなってきたものですから

「歎異抄」を ひっくり返し
いろいろ読んできました。

その中で やっぱり私が
引っ掛かったのはですね

この火宅無常の世界

「火宅無常の世界は
よろづのこと

みなそらごと たわごと
まことあることなきに

ただ念仏のみぞ
まことにておはします」と

こういう文章があるんですね。

世の中の一切は これは
まことあることがない。

「空言」「戯言」であると。

ただ念仏だけは「真実」だと。
これは気になりましたね。

特に高校生の頃というのは
色気づいてくるじゃないですか。

そうして ある人を好きになったり
その気持ちがね

これ「戯言」かと思うような経験を
し始めるじゃないですか。

そうすると ますますね 「ただ念仏のみぞ
まことにておはします」っていうのは

これ ただならぬ言葉ですね。

これが ず~っと私は その後 念仏とは
何かを問うていく その始まりですね。

ずっと その後の私のテーマになりました。
それから もう一つ。

ある時 檀家の婦人が見えましてね
文句を言いに来られたんですね。

大事な命日の日にですね
「住職が檀家参りに来てくれなかった」と。

「来てもらわないと 私は気色悪くて
気色悪くて」って言ったんですよ。

それがね また私にはショックでね。

自分が住職になるとしたら

檀家の人の気色を悪くしないように
するのが 私の仕事なのかと。

気色が悪いということとね

「ただ念仏のみぞまことにておはします」
というのと

これ どういう関係があるのかと。

結局それで 私は 片方では 民俗学的な
つまり非仏教的な日本人の宗教心ですね

宗教心のあり方に関心を持ち

片方では
浄土仏教の この教えというのは

どういう構造になっているのか
ということ。

その2つの方向に目配りしながら
生きてこざるをえなかったという

そういうきっかけにも
なってるわけですね。

阿満さんは 「歎異抄」が伝える
法然や親鸞の仏教を研究するかたわら

多くの日本人が抱く宗教についての
考え方にも目を向けてきました。

宗教を信じるか聞いた
最新の日本人の意識調査によれば

74%の人が 「信じていない
関心がない」と答え

自らを無宗教だとしています。

しかし 一方で
「宗教的な心は大切か」問うと

半数以上にあたる57%の人が
「大切だ」と答えています。

自分で…

でもね やっぱり…

阿満さんは 人々の無宗教的なあり方を
変えようと迫るのではなく

一人では解決できない
大きな壁に突き当たった時

手を差し伸べようとするのが
「歎異抄」のメッセージだと考えています。

なぜですね 「歎異抄」を

無宗教という立場から
読もうとしてるのかというと

宗教は 今の自分のあり方を

全面的に入れ替えないと
いけないのではないかとか

そういう予断が
どうも一人歩きしてるんですね。

しかし
「歎異抄」を手に取って下さるとですね

少なくとも無宗教である自分の立場を
変える必要はないと

無宗教のままで しかも
次のステップへ進む道があるんだと

そういうことが分かる。

日本の方の多くは 無宗教だと言いながら
宗教心は大事だと。

この「宗教」という言葉を
もっと厳密に定義してみたらどうかと。

で 宗教学の方で 宗教を2つに分ける。

一つは「創唱宗教」ですね。 「創唱宗教」。

もう一つを
「自然宗教」というと。

「自然宗教」というのはね

これは自然を崇拝するとか
そういう意味ではなくて

自然に成立したという
意味ですね。

小さい時から普通に暮らしていて

年中行事とか しきたりとかを
繰り返す中で

いつの間にか身についてきたような
宗教心ですね。

生まれた時には お宮さんに
お宮参りに子どもを連れていくし

結婚をする時だけは どういうわけか
キリスト教の教会でやると。

死ぬとですね やっぱりお寺がいい
というので仏式でやると。

これは一体どういうことなのか。
深い考えはないですね。

こういうことが 日本人の宗教心の
大きな流れをつくっているわけですね。

それが「自然宗教」というものです。

「創唱宗教」というのは

文字どおり 創造の「創」と
「唱える」と書きますから

新しい教えを説いた
教祖がいるわけですね。

そして その教祖の教えが

教義として
明らかになっていて

その教義を信奉する信者たちが
教団というものをつくると。

そういう その教祖と教義と教団という
3つがそろっている宗教のことを

宗教学では「創唱宗教」というわけですね。

「自然宗教」の立場 つまり年中行事とか
しきたりで十分安心が得られるという

そういう立場から言うとですね
なんか わざわざ難しい教えを聞いて

その信者になるというふうなことが
何か不自然な感じがするんでしょうね。

なんか宗教には近づかない方がいいという
そういう雰囲気が大変強い。

しかし それはですね 実は
日本社会特有の理由があるということを

是非 知ってほしいんですね。

我々が「創唱宗教」に対して
非常に距離感を持つというか

「創唱宗教」に対して 非常にこう
用心をするのは なぜなのかという。

それはですね 日本が明治維新以降
日本が近代国家で出発しようとする時に

どのような政治体制をつくろうとしたのか
ということと深い関係があるんですね。

それは 天皇を日本国家の中心にすると。

そういう国家をつくろうとした人たちが
いろいろ工夫をする。

その中で 私から言わせると

「天皇教」と言ったらいい「創唱宗教」を
つくろうとしたと

言っていいと思うんですね。

つまり「天皇教」というのは
これは国家の「掟」であって

他の「創唱宗教」
仏教にしろ キリスト教にしろ

そういう「創唱宗教」は

その「国家の掟の中で
存在が許される」のであって

「天皇教」という国家宗教をつくった
井上 毅という人は

キリスト教の存在は許しても

いわゆる布教というものに
関係するところは全部否定をしてですね

「内想」だけ許すと。

内で想うということは許すけれども

「外顕」 外に現れてくる姿は禁じると。

「内想は許すが 外顕は禁じる」
ということを非常に強く主張しまして

具体的には「聖書」を印刷するということは
禁止する。

それから
信者たちが集まる集会は禁止する

こういうようなことを言うんですね。

それで 憲法を作る時に

「安寧 秩序を妨げない限り」とか

「臣民の義務に違反しない限りでの
信教の自由」なんだと

こういうような
信教の自由の定義をしてですね

近代国家だから
信教の自由は立てるけれども

それは こういう制限付きだ
ということを

明治憲法で打ち立てるわけですね。

だから近代日本の宗教政策の結果ですね

この「創唱宗教」をまともに評価するという
そういう土俵がなくなったと。

したがって 宗教についての偏見というか
近づかない方がいいという

そういうふうになっていったという
歴史があると思いますね。

阿満さんが おっしゃるような
無宗教的な

私自身 まさにそういう宗教意識かな
ということを思ったんですけども

それが その…
自然にあるわけではなくて

明治期に国家によって つくられたもの
としてあったんだというところが

非常に新鮮に感じたんですけれども。

日本社会は まあ 近代社会というのはね

一般に宗教的なものの考え方を排除して
成立していくと

科学技術を中心にして
社会をつくっていくという。

しかし 人間の持ってる
抱えている根本問題というのは

解決できないんですよね。

「人間は何のために
生きているんですか」と。

コンピューターに入れても
答えはないですよ。

一人一人違うんですよね。
人間は何のために生きてるか。

つまり実験によって証明されるような
真理だけでは

人間は生きていけないんですよ。

で そこに 「宗教」というものの
役割があるんだけど

「宗教」って言葉が いろいろ日本では
手あかにまみれているので

私は この番組では使わずに

「大きな物語」っていう言葉にしたいと
思うんでありますけど。

この「大きな物語」っていうものと
であうということは大事なんですが

この機会がなかなか
日本社会にはないんですね。

例えば こういう話があるんです。

私は ある男性に会って
その人から聞かされたんですけど

彼は ある時
まあ 幸せに暮らしていたんだけど

ある時 子どもがですね 7歳ぐらいで
亡くなったっていうんですね。

その子どもさんが
亡くなったのを悲しんで

そのおばあさんが
つまり自分の母親がですね

その日のうちに亡くなっちゃったと。

その男性から見ると
自分の子どもと自分の母親と同時に

2つの棺を出すという
そういう経験が生じたと。

小さな棺と大きな棺を出すと。

その時 初めて 彼は
本当に頼りになるものは何なのかと

そういう問いを持つようになった。

その問いに対する答えは「自然宗教」の
中では 見いだすのは難しいんですね。

日常を私たちは「小さな物語」を
つなぎ合わせて暮らしてるわけです。

そのつど 役に立つような「小さな物語」を
つなぎ合わせて暮らしているんですけど

「2つの棺を なぜ自分は
出さざるをえなかったか」っていうのは

そこには 答えはないですよ。

「大きな物語」っていうのはですね
こういう人生で容易に解決できない

そういう危機に面した私のあり方
というものを いわばリセットして

私に新しい意味づけをしてくれると。
そういう役割があるんですね。

その「大きな物語」の特徴はですね

常識を超えたような時間とか空間軸から
人間と世界のあり方を説明すると。

これは 妙なたとえですけど

セミが夏 鳴きますが
そのセミは 夏の間しか知らないですね。

で 私たちは たまたま
四季を知っているから

その セミは短い期間だけしか
知らないんだなと

こういう評価をするんだけど。

そういう我々も
この一生で人生が終わると思ってるのは

それはセミがですね
夏しか生きていない

生きられないのと
似たようなことでですね。

同じように人間の一生は
もっと大きい目から見たら

また別の意味があるということも
可能なわけですね。

このように
時間とか空間を拡大するとですね

見えなかった問題が見えてくると。

そこで「大きな物語」ですよ。

宗教についての思い込みとか
不信を解消するために

「歎異抄」は 有力な手がかりを与える
ということの一つの例証として

九条 「歎異抄」の九条のお話を
ちょっとしたいと思うんですね。

「歎異抄」を貫く「大きな物語」。

それは 阿弥陀仏が 名号「南無阿弥陀仏」
という自らの名前を称えた者を

苦しみから解放された浄土の世界に導く
という物語です。

厳しい修行をおさめた僧侶や 権力者
寄進ができる金持ちなど

選ばれた者だけでなく

貧しい者や文字が読めない者
社会で虐げられた人々も

あまねく平等に 名号を称えることだけで
救われるとしたのです。

阿弥陀仏は もともと
法蔵という名の人間でした。

彼は 一人残らず全ての人を救えるまでは
仏にならないと誓い

「本願」という厳しい願いを立てます。

想像を絶する膨大な時間
悩み苦しんだ末に

誰もが実行できる
念仏への道を開きました。

「歎異抄」の第九条には そのような
「大きな物語」が 容易には納得できず

無宗教の人々が念仏について抱くような
疑問が記されています。

「歎異抄」の著者 唯円が

およそ50歳年上の師・親鸞に
悩みを打ち明ける場面です。

「私には 念仏を申しましても

躍りあがるような喜びの心は
なかなか生まれませんし

また 急いで あこがれの浄土へ

まいりたいという気持ちもないのです。

いったい
これは どうしたことなのでしょうか。

このように
親鸞聖人に申しあげましたところ

親鸞聖人は 次のように答えられました。

私も同じような疑いを抱いて

今に至っています。

あなたも同じだったのですね」。

親鸞は 念仏を称え続けて
高齢となった自分も

唯円と同じ疑いから逃れられないと
打ち明け

それは 自分もまた
煩悩を断ち切ることができない

同じ愚かな者 「凡夫」であるからだと
言います。

その上で 念仏は
そういう煩悩にとらわれた

「凡夫」のためにこそあるのだと
語りかけてゆきます。

「急いで浄土へ
行きたい
というような

心のないものを

阿弥陀仏は
とくに憐れんで
くださいます。

それを思えば
いよいよ

阿弥陀仏の慈悲と
誓願は頼もしく

私どもの往生は
決まっていると
お考え下さい」。

「天にも躍り上がり

地にも跳び上がる
喜びがあり

急いで浄土へ行きたい
ということでは

かえって
煩悩がないのではないかと

不審に思われるのでは
ないでしょうか」。

これは 普通は何か宗教的な行というか
宗教的に良いことをしたらですね

何か喜びの心が生まれるはずだと
思いますよ。

しかし 一向に
そういう気持ちは起こらんと。

念仏をしたから直ちに喜びの心が生じる
そんなことは起こらない

ましてや浄土に行きたいなんていうことは
起こらない

それは 親鸞によれば 我々が
「煩悩」に支配されているからだと。

この「煩悩」については
いろんな考え方がありますよ。

貪の心とか 瞋の心とか

物事の正しい道理を知らない
その癡とか

そういうものが「煩悩」というものだと。

しかし まあ 私はですね

自分の考え方中心から
免れることはできない。

いろいろ聞いても結局は自分の考え方を
中心に物事を見たり 実行していくと

そういうあり方から逃れられない

そういう状態を「煩悩」に縛られている
ということだと 私は思います。

特別に苦しみを持っていたり
悩みを持ってる人だけが

「煩悩」の虜になってると
いうんじゃなくて

ごく普通の 一般の人間も また

「煩悩」の虜なんだということが
大事な点なんですね。

だから 早く浄土に行きたいと
思うよりはですね

現実の暮らしの中でいかに楽をするかとか
いうことに関心が集中しますよ。

そういう その気持ちに支配されていると。

一直線に純粋に
浄土に向かって歩むなんてことは

それは思い込みであって

我々の人間の実情を見ればですね
そんな簡単なものではないと

そういうことだと思うんですね。

だから 浄土へ行く道の確信と

その道を歩んでいく中で生じる不安とか
揺れ動きとかというものを

ふたつながら認めていくということが
法然の浄土仏教の特徴だと思うんですね。

従来の仏教は
「煩悩」は努力をして修行をすれば

それはコントロールできるというふうに
思っていたわけですね。

それがいかに不可能であるか
というのに気付いて

法然の仏教は生まれてくるわけですね。

だから 法然も親鸞も
自分の煩悩を克服できるなんてことは

こっから先も考えていません。

ですから これは
「徒然草」に引用されている

法然上人の言葉として
有名なものですけど

あるお弟子が法然上人に聞いた
というんです。

「自分は眠くてしょうがない」と。

「お念仏をしていても
眠くてしょうがなくて

お念仏が
途切れ途切れになってしまう」と。

「どうしたらいいですか?」と
法然上人に聞いたと。

そうしたら法然上人は
「眠ったらいいじゃないですか」と。

「眠たさがとれたら また目が覚めたら
念仏を続けなさい」と。

また こんなふうなことを言っていますよ。

「疑いの気持ち いろいろ念仏を疑う
気持ちがいっぱいあって

このお念仏をしていても ほんとに自分は
浄土に行けるのかどうか不安だ」と。

そうしたら 「疑いながらも念仏をしたら
浄土に行けますよ」と。

「疑いは そのままに
疑いのままに疑えばいいんです」と。

(鎌倉)その「徒然草」の例でいいますと

法然の「一百四十五箇条問答」
というのがございますね。

それも非常にこう
宗教というものが

清く正しいものでなければならない
という方々の問いに

答えたものだというふうに
お聞きしていますけれども。

そうですね。 当時はですね
いろいろな仕事をする人の中に

穢れの仕事というふうに言われてる仕事も
たくさんあったわけですね。

例えばモノの命を取るというふうな仕事を
せざるをえないような人たちに対して

それは 穢れているというふうな
言い方をして差別をしていたわけですね。

そういうことに対して
こういう穢れ 不浄とか

そういうものは
法然の仏教では 一切問わないんだと。

もっとその穢れでいえば 女性の場合

「月のはばかりのあるときに お経を読む
そういうことをしてもよろしいか?」と

こういうことを
女性が聞いているわけですね。

そうすると法然上人は 「そんなことは
何のはばかりがありますか」と。

「そういうことは問題にありません」。

そういうようなのは 他にもまだたくさん
ありますけど 何か安心するんですよ。

法然の浄土仏教というのは
本願念仏というのは

何か特別の身構えをして受け止めないと
いけないのかと思う必要はないんですね。

「自分のありのままで
そのままでよろしい」と。

自分を改めなくちゃいけない
なんていうことになると

しんどくなるから
遠ざかってしまいますけれども。

そこが大事な点ですね。

しかし 変なことを言いますが

自分を改めるような そういう努力を
要請するような宗教でないと

自分は信じられません
という人もいるんですよ。

努力をして自分を改めると
自分はちょっと改まったなと そう思う

それを根拠に自分は救われていくんだなと
思いたい人もいるわけですね。

しかし それは人間の「煩悩」を
ちょっと軽く見すぎている。

人間が自分の考えだけで
真実に到達できるんだったら

こんなに人類始まって以来 これだけの
苦しみを何度も同じことを繰り返す

戦争や飢きんや疫病の苦しみから
逃れられないということを

ずっと続けて続けて今に至ってる。

こういうことは とっくの昔に
克服できてるはずではないかと。

ですから自分の考えを入れ替えたら
助かるというんではなくて

やっぱり真実の世界に到達するためには
道というのが必要であって

その道として浄土仏教は阿弥陀仏の名を
称えるという道を教えたわけですね。

念仏の教えを開いた法然から親鸞へ

そして 親鸞の言葉を
「歎異抄」に書き留めた唯円まで

その教えは
どのように伝わっていったのでしょうか。

法然も 法然の教えを受け継いだ親鸞も

もとは 当時の仏教の最高学府である
比叡山で学問を修め

厳しい修行を重ねた僧侶でした。

9歳で比叡山に入った親鸞は

20年間の修行を積んでも 学んだことに
心から納得することはできませんでした。

比叡山から毎晩
100日間にわたって京の都に通い

六角堂にこもった親鸞は

やがて「法然のもとを訪ねよ」という
夢のお告げを受けます。

親鸞は およそ25年前に既に山を下り

京都の草庵で念仏の教えを説いていた
法然に出会い

自らが歩むべき道を見いだします。

親鸞 29歳。 法然 69歳の時でした。

しかし その6年後 親鸞は越後へ
法然は土佐へ それぞれ流刑になります。

時の権力者が 戦乱や疫病に苦しむ
人々の間で広がり始めた

身分や富に差別のない新しい仏教を警戒し
弾圧したのです。

都を追放された親鸞は
流刑の地にも草庵を構え

自らを「僧侶でもなく俗人でもない」として
妻をめとり

2人の子どもをもうけるとともに

人々に念仏の教えを説いて回りました。

4年後 39歳で流刑を解かれた親鸞は
都には戻らず 新天地を関東に求めます。

以後 およそ20年間
還暦の頃に京都へ帰るまで

常陸の国 現在の茨城県に根を下ろし
布教に努めました。

親鸞が いかに人々の暮らしの中に息づく
念仏を大切にしたか。

それを物語る逸話も
各地に残されています。

(鳥の鳴き声)

親鸞は 農民と共に田んぼに入り
稲を植え

阿弥陀仏の慈悲と願いの言葉を
織り込んだ

田植え歌を作っては
皆に伝えたといわれます。

「歎異抄」の著者とされる唯円は

この地に暮らす
そうした人々の一人でした。

親鸞が流刑となり 都を離れたことが
巡り巡って 唯円との出会いをもたらし

「歎異抄」を生むことになったのです。

親鸞は流罪で越後に流されますけれども
やっぱり 法然の専修念仏というのが

当時の支配者層にとって 都合が悪い
ということがあったんでしょうね。

なぜかというと法然が
「浄土宗」というのを名乗るのはですね

国家の承認を受けずに名乗るんですね。

で そこは 当時の諸宗教は

天皇の勅許を得て
成立しているというのに

天皇の勅許を得るというのを
全く無視して

法然の「浄土宗」というのは成立すると。

で その理由は
日本社会の最下層の人々を救おうと。

それが法然のねらいだったと思いますね。

で そういう法然の専修念仏というのは
歴史的に大変な弾圧を受けたわけですね。

現代風に言えば 法然の専修念仏と
反対側の極にあるのは 政治

政治だということですね。
政治と向き合うという

現実の秩序をつくっている政治的権力の
ありようとは真正面からぶつかるという

そういう宿命を持っている。

それで「歎異抄」で大事な要素は

法然 親鸞 それから おもだった弟子が
死刑ないし 流罪に処せられたという

そういう記録をですね「歎異抄」というのは
後ろにくっつけているんですね。

「流罪の記録」を持っているということは
とても大事だと思うんですね。

なぜ流罪ということが生じたのか
ということを

そこで考えさせられるからだと思います。

(鎌倉)そういった意味で 現代の我々も
その「歎異抄」っていうのが

一つの重要なテキストになりうるって
いうふうに考えてよろしいんでしょうか。

そうだと思います。

(鎌倉)今のお話の中で もう一つ
「歎異抄」を書いた唯円の人物像について

それについては いかがですか?
はい。

実は 唯円の人物像は ほとんど
分からないと言っていいと思います。

報佛寺っていうお寺が
茨城県の水戸市にあるんですけれども

そこに伝わっている話っていうのは

もともと唯円というのは
相当な悪党だったそうです。

その悪党であったけれども 妻はですね
親鸞の信者であったというんですね。

で その親鸞の草庵に奥さんは通ってると。

で それを唯円は なんか嫉妬してですね

ある時 怒りに任せて
妻を殺してしまったっていうんですね。

そして竹やぶに埋めたというんです。

ところが 家に帰ってみると
その妻がいるじゃないですか。

で 驚いて じゃあ竹やぶは… と思って
竹やぶを掘り起こしたら

妻が親鸞から授かった「南無阿弥陀仏」と
書いた名号の紙があったということで

自らの悪行を悔いてですね
親鸞に帰依したと。

それは あくまでも伝承でしょう。
しかし 私は この「歎異抄」を見ますと

相当な求道心の持ち主だったと
思いますね。

唯円は どのようにして「歎異抄」を
つづるまでになったのでしょうか。

水戸市にある
報佛寺は

唯円が開いた寺と
いわれます。

そこには 唯円が親鸞に帰依する
きっかけになったといわれる

名号の札が伝えられていました。

妻の身代わりになって
唯円に切られたという名号です。

「南無阿弥陀仏」と
同じ意味でございます。

ちょっと
よく分かりませんけど

傷が見えますけど 「帰命」の
この「命」の下ですね。

ここが けさ懸けに切られた場所だと

伝えられております。

不思議ですね 今までこういうのが

ずっと こう残ってるというのはねぇ。

ありがたいと思います。

自らの愚かさと不明を恥じた唯円は

自分のような者でも救われる道が
あることに衝撃を受け

親鸞のもとに日参し
教えを請うようになりました。

やがて 唯円は親鸞の高弟の一人となり

自らも草庵の道場を開いて 人々に
念仏の教えを広めようと努めました。

報佛寺の近くに
唯円の道場の跡が残されています。

しかし 親鸞が京都に去ったあと

その教えを誤って伝える人たちが
出てきました。

唯円は 親鸞の死後
かつて師と問答を重ねた日々を回想し

「歎異抄」に自らの記憶に残る
親鸞の言葉を書き残そうとしました。

その冒頭 「序文」で 唯円は
執筆の動機を明らかにしています。

「私一人の思いですが

すでに亡き親鸞聖人の時代と
今の世を突き合わせて考えますに

親鸞聖人から
直にお聞きした真実の教えと

異なる了解があるのを
歎かざるを得ません。

教えを正しく受け継いでゆくに
あたって生まれている

数々の障害を思うのです。

幸いなことに 縁あって

すぐれた指導者に
出遭うということがなければ

どうして本願念仏に
帰依することができましょうか。

すべて自分の一人合点だけを頼りとして

本願念仏の
本旨を思い誤ってはならないのです。

したがいまして かつて親鸞聖人が

お話しくださいました御物語の要旨の

今もって
私の耳の底に留まりますところを

記すのです。

ひとえに 心を同じくする
人々の疑問を

晴らすためなのです」。

「歎異抄」というのは
異なるを歎くという意味ですね。

何が異なるかっていうと

耳底に留まってる親鸞の教えとは
遠い考え方が

広まってしまったということを歎くと。

この唯円の基本的な立場というのは

「自分は 親鸞から
こういうふうに教えを聞いてきた」と。

で 「今 仲間たちが言っていることは
こういうことなんだけど

それは親鸞から聞いたことと
違いますね」と。

「なぜ こういう違いが
生まれてきたんだろうか」ということを

唯円自身も自分で尋ねてるわけですね。

「それは お前は 間違った道だから
それはけしからん。 改めよ」という

そういうふうにして
説得にかかるという

そいうふうな姿勢は
あんまり感じられませんね。

他者を屈服させてまで
信じさせようというふうな

そういう姿勢とは
基本的に違うんだと思いますね。

ですから まず 自分が親鸞から聞いた

本願念仏の一番要になると
思われているような

そういうふうに
自分が聞き取ってきた内容を

この十条を
最初に並べて

それとの対比で

同じその専修念仏の

信者だと言ってる
人たちの

異なった考え方についての

批判 八か条と。

その合計十八条に

「序文」があって
十八条があって

「結文」があって
そして最後に

法然 親鸞の
「流罪の記録」をくっつけておくと。

この「序文」の中で
唯円が強調してるのは

「他力」というものを
理解するためには

よき指導者 あるいは先輩というのは
不可欠だということを

強調しているということですね。

それは 彼のこの
「序文」の言葉で言うと…

…という言葉に
出ていますね。

「自見の覚悟」というのは
まあ 独り善がりですよ。

自分一人だけの考えで誤解すると
言っていいでしょう。

そういうことをしてはいけないと。

なぜ その 先輩というか
よき指導者が必要かというと

何せ「歎異抄」は「大きな物語」ですよ。

「大きな物語」というのは
常識を超えて つくられていますね。

常識だけを基準にしていては
絶対 理解できませんよ。

どうしても誤解が生じてくる。

そこで 何度も何度も

その「大きな物語」を自分のものにしている
先輩に質問をして そこで議論をして

自分の常識的な考えが無力だということに
気が付くということは

大事なプロセスだと思いますね。

やっぱり こう お互いに「凡夫」だという
立場で理解していく時に

繰り返しやっぱり その 親鸞も
法然に問うて納得をしていき

その 唯円も親鸞に問答を続けていって

そこを納得していくプロセス
みたいなところがある というのが

ひとつ 「歎異抄」の特徴のように
思ったんですけれども。

それは とても大事な指摘で

それは現代の私たちにも
当てはまる問題なんです。

人間が持っている
それぞれが感じている

真実のイメージっていうのは
ありますから

そのイメージは みんなそれぞれ
違うわけだけど ぶつかり合うことで

「ああ こういうことが真実なんだ」
ということを確認し合っていくという。

だから 最初から違う考えの人だ
というふうに決めてかかれば

説得するとか説教するに
なってしまいますね。

そうじゃなくて 道筋が少々違う
ということを前提にして

しかし クロスする点があるとしたら
それは何なのかというふうな立場で

議論をしていくということが大事で。

だから 「歎異抄」というのは
歎くことはあっても

相手を弾劾するということはないですね。

異なった考え方を持った人と
対話をしながら

対話をする中で
その法然 親鸞の教えの正統っていうか

一番正しいことが はっきりしてくるし
そういう はっきりした教えに立つと

また間違いも見えてくるというふうに
なっていくでしょうから

一対一で やっぱり
議論をしていくというプロセスが

宗教の場合には不可欠ですね。

阿満先生 あの
「他力」のお話のところでいきますと

「他力本願」っていいますと
私たちにとっては

「まあ 誰かが救ってくれるんだから
自分が努力しなくてもいい。

自分は研さんを積まなくてもいい」
というふうに

解釈するっていう向きもあると
思うんですが

ある種の「人任せ」というか
「他の力任せ」っていうことの意味とは

また違う意味というふうに考えて
よろしいんでしょうか?

「他力」という言葉は
なんか「他力本願」とかいう言葉で

普通は あまりいい意味で使われませんね。

自分が努力せずに
なんか適当にうまい汁を吸うような

そういうやり方を「他力本願」
というふうな言い方をしますけど

それは 相当な転用ですね。

間違った転用というか
本来の意味とは違うと。

「阿弥陀仏の本願」という言葉に
限定した「他力」ですね。

ですから「自力」「他力」の
「他力」という言葉は

法然 親鸞の場合
非常にはっきりしているように

「自力」が
自分には似つかわしくないという

そういう その… まあ要は
「実験」があったわけですね。

自分の力で真実の世界を
つくり上げていくという

そういうことに対する絶望が
前提としてあるわけですね。

しかし 私たちは 「自力を尽くす」
ということを しきっているかというと

そういうことを していないわけですね。

で そういう人間に
「自力」よりも「他力」だと言えば

「他力」は安直な道っていうふうにしか
受け止められない。

自分で実際やってみて
どうだったのかと。

そういう「実験」をする期間が
あったかどうかですね。

もっと言えば やっぱり私どもが

「自力」というものに絶望するという機会を
何らかの形で経験しないと だめですね。

ですから この「歎異抄」というのは

最終的には「念仏とは何か」
ということを教えていて

その念仏を誤解する…

その念仏を法然の教えのとおりに
理解するために

妨げになるのは
どういうことかということを

いろいろ教えていくという
そういう構想になってるわけですね。

この法然の専修念仏というのは
教えとしては極めて簡単ですね。

つまり 「阿弥陀仏の名を称えなさい」と
それだけなんですよ。

その阿弥陀仏は 称名を通して

その人の中にある
真実になる願いを燃え立たせて

最終的に真実の世界に連れていく と。

これが その
法然の本願念仏のエキスですね。

最初から分かる人は
恐らくいないでしょう。

それは 人間の持っている不条理とか

そういうものに対する疑いが
まず生じてくる必要がある。

疑いが生じてきても そういうものを
乗り越えるための工夫というのがね

人類は いろんな形で
それは つくってきてますよ。

「娯楽」っていうのは
そういうものの最たるものですね。

その忘却の中で だんだんと
痛みも忘れていくというふうにして

そして 生涯を終わっていくという
生き方もあるわけですね。

しかし「小さな物語」では
解決のしようのないようなことが

起こった時にですね

自分の持ってる根本的な問題
というものから

目を離すことはできないという人も
中には いるわけです。

一番最初に申し上げたように
2つの棺を出さざるをえなかった方が

「今まで自分とは関係がないと
思ってきたけれども

この本願念仏の教えというものが
グーッと近くなってきた」と言うんですね。

ということは 私どもは

直接 その「物語」に
近づくか近づかないかは別にして

どこかで そういう「大きな物語」と

接触できるチャンネルは
あった方がいいと。

私たちは 何か空虚だという思いが
どこかにあるんですね。

真実から遠いという意識は
持つことができるんです。

真実は何かということは
なかなか分からんのですね。

遠いという感覚だけはある。

これが その「阿弥陀仏の物語」が

我々に問いかけてくる
問題じゃないでしょうかね。

で その「念仏」は
無宗教の人間にとっても

大きな真理への道の手がかりになるだろう
ということをお話ししたけれども

じゃあ具体的に
「念仏を称える」ということは

どういうふうにして真実の道に
つながっていくのか ということは

これから一つずつ
押さえていく必要があって

「阿弥陀仏の物語」を…
とは全く無縁にですね

「何か困った時に使う言葉ぐらいだ」という
ふうにして「念仏」を理解していると

その「念仏」は「呪術」になると。

自分を棚上げにして 自分の願望を
こういう手段で実現しようという

そういう立場は「呪術」になるんですね。

一番大きな違いは
「自分を問うか 問わんか」なんです。

自分を問う行為は「宗教」である。

だから 念仏をする中で
自分が問われているかどうか。

後の解説には そういうことも
考慮していきたいと思っております。

あなたは あなたのありのままでよい。

疑いがあれば疑うまま念仏すればよい。

誰にとっても
生きることは たやすいことではない。

そう説き続けた法然の仏教。

この日の「歎異抄」学習会の最後は
集まった人たちによる話し合いでした。

特に…

♬~

6回シリーズ
「歎異抄にであう 無宗教からの扉」。

次回は 「歎異抄」の核心とも言うべき
念仏の教えが

どのような論理によって誕生したのか

そこには どんな仏教の思想が
流れているのかをたどり

念仏とは何か 考えてゆきます。

♬~

♬~

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