出典:EPGの番組情報
先人たちの底力 知恵泉「遣隋使 格上相手どうつきあう?」[解][字]
約1400年前、倭国は大陸に誕生した大国・隋に「遣隋使」を派遣。しかし、皇帝をあきれさせたり、怒らせたりと失敗続き。そこから学んだ、格上相手とのつきあい方とは?
番組内容
小野妹子で有名な「遣隋使」。約1400年前、国としての歩みを始めたばかりの倭国は、海の向こうに誕生した大国・隋に、遣隋使を派遣する。しかし、最初の遣隋使は、皇帝の機嫌を損ね、大恥をかいて帰国することに…。ただ、格上相手の懐に飛び込んだことにより、聖徳太子らは、隋にならい改革を進めていき、国づくりを急速に進めていく。自分より実力が上の、いわゆる「格上相手」とのつきあい方の知恵を、遣隋使から学ぶ。
出演者
【出演】日本ソムリエ協会…田崎真也,今田耕司,大阪大学准教授…河上麻由子,【司会】高井正智ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
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- 小野妹子
- 太子
- 天子
- 当時
- 皇帝
- 日出
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
いやね 小耳に挟んだんですけどね
今田さん 以前 遣隋使で有名な
小野妹子を演じられたことがあると。
どうでした?
やらして頂きましたけど
当時 そこまでの大作やっていうのが
ピンときてなかったですね。
ですよね。
もっくんが主演して 中谷美紀さん
緒形 拳さんと絡んでるんすよ!
たまたまなんですけどね 今日
たまたまですよ?
テープがね あるんですよ。
ありますか。
うわ! 20年前!
「天を仰いでは
そう仰せられたそうでございます」。
(今田)ああっ!
「誰にも光を照らす
そういう天の光のごとき
政を行いたいものだと」。
硬いね~。
(笑い声)
「見かけぬ者だが…」。
(笑い声)
2回やるらしいですよ。
「小野妹子と申します」。
「小野?」。
絡んでるね~!
「隋を見て
痛感いたしましたのは
かの国には
律令があるということです。
すなわち法であります」。
(今田)はあ~!
これ四天王寺で実際 撮って。
河上さん いかがですか?
チャーミングですね。
初々しく チャーミング。
初々しいですね!
なんで2回やったんですかね あれね。
あれ何か そういう作法らしいですよ。
教えられて。
これが またねえ…
今 出したら このVTR
ようウケるんですよ これ。
(笑い声)
という はまり役のね小野妹子で…。
なかなか ないでしょ 小野妹子役。
ないですよ。
今日 だから詳しく分かるんかなと思って
楽しみに来たんですよ。
ということで 今日は とことん
この遣隋使の知恵を味わって頂きます。
いや~ いいですね~。
新しい職場やクラス…。
皆さん 春からの新生活にも
そろそろ慣れてきた頃かと。
でも 上司や先輩など
目上の人との関係は いかがですか?
木村君 今夜どう? これ!
いや~ 今日ちょっと
予定がありまして…。
格上相手とのつきあいって本当 難しい。
もちろん先人たちも例外ではありません。
日本が まだ倭国と呼ばれていた飛鳥時代。
そう あの聖徳太子の時代です。
海の向こうの大陸に
超大国 隋が誕生。
その広大な国土も
高度な文明も
国家としての歩みを
始めたばかりの倭国とは
比較になりません。
そんな圧倒的な格上 隋との
友好関係を築くべく
倭国が派遣した使節が ご存じ遣隋使です。
ところが 度重なるアプローチは失敗続き。
なんてことのない質問への答えが
相手をあきれさせて
しまったり…
敬意を込めて したためた手紙が
皇帝の機嫌を
損ねてしまったり。
まあ それは
いろいろありました。
その時 遣隋使に深く関わった
聖徳太子や小野妹子は
どんな知恵を使い
隋との関係を深めたのか。
そして 倭国のステップアップに
つなげていったのか。
そんな遣隋使に秘められた知恵を
読み解くのは…
1995年
世界最優秀ソムリエコンクールで
日本人として初めて優勝。
日本に 一躍
ワインブームを巻き起こしました。
その原点には 1977年から
本場フランスに渡り 行った
武者修行の経験があります。
ワインの分野では
圧倒的に格上のフランス。
日本から 突然やって来た青年は
当初 相手にもされませんでした。
現在 ワインを中心とした幅広い食文化の
普及にも携わる田崎さん。
格上の相手と よい関係を築く知恵を
遣隋使から読み解きます。
この遣隋使を見ていこうと
思うんですけどもね
何か どういうイメージあります?
今田さん。 いや 分かんないですね。
倭の国って言われてたんや ぐらい。
…で 色が半分 西日本の方は
ピンク色やったんは
何か意味あるんすか?
北日本には まだ倭国の支配が
浸透してなかったっていうことで
色をつけてないんじゃないですかね。
違う国やったんすか へえ~!
まだ国にもなってないような
状況ってことですよね。
はあ~! 想像もつかないっす。
今日は それを田崎さんがね…
間もなくいらっしゃると思うんですけど。
あっ! ちょうどいらっしゃいました!
どうも こんばんは。
いらっしゃいませ 田崎真也さんです。
どうも こんばんは。
どうぞ よくお越し下さいました。
一度 来てみたかった居酒屋さん。
どうですか?
すばらしい。
赤ちょうちんが すばらしいですね。
でも 赤ちょうちんと このワインが
また ちょっと違う雰囲気ですけれどもね。
どんな雰囲気か
分からなかったもんですから
ちょっと お土産に
ワインをお持ちしたんですが…。
ワインの起源っていうのが
8, 000年ぐらい前
ジョージア辺りというふうに
いわれてまして
白ワインですけど 色が
ちょっとオレンジ
褐色がかっていて
渋味の強~いワインです。
もう古代のワインを ちょっと
復活させたバージョンなんで。
ちょっと今日のテーマにね
まさに古代っていう…。
ありがとうございます。
ワインって 今でこそ
日本では浸透してますけれども
田崎さんが
ソムリエを目指した頃っていうのは…。
70年代の後半っていうのは
フランス料理店が
街に ポツポツポツと
出来始めてた頃なんですけど
フランス料理店で
1人 4~5万円ぐらいの
料理を食べながら
飲んでるのは お客さん
テーブルによっては
ウイスキーの水割り
こっちはビール飲んでたり
ですので
まだまだ 今のような
家庭でワインを気軽に
飲むなんていうふうなことは
ほとんどありませんでしたので。
当時 だから単身フランスに
乗り込んでいったということですけど
格上の相手に
立ち向かっていくみたいなところも
あったのかなっていう感じが
するんですけど。 国がね。
だって 「おフランス」ってね
言うてましたから 昔。
最初は格上というか もう絶対的に
知らなければいけないと思って
行きましたんで
なぜ この人たちはワインを飲んで
ワインのある食卓文化が
根づいたんだろう
っていうところを
知ろうと思って。
文化ですよね。
カフェに座りながら
「フランス人たちって
どういう考え方で どういう思いで
道 歩いてんだろう」とか
何でも覚えようと思って
行きましたんで。
その格上の相手と
どう つきあっていくのかっていうのが
今日のテーマなんですけれども
今田さんにも
大物芸人の皆さんとの つきあい方。
い~や つきあってきましたよ!
(笑い声)
おつきあいしてきましたからね~。
後ほど伺ってまいりたいと
思いますけれどもね
まずはですね ちょっと私
あいうえお作文を作ってみました。
こちらです。
言葉に やっぱ文章にして頂かないと
作文ですから。
なるほど。
「けんあくな雰囲気の中」とかね。
「ず」
「ずさんな計画を立て」みたいなね。
メモしておきますね。
そう! そこ やって頂かないと
やっぱり あいうえお作文は。
当時の遣隋使に行った人たち
こんな気分だったんじゃないかなという
思いで書いたんですけれども
今田さんも言わなきゃよかったギャグ
ありません?
女性に言わなきゃよかったことは
たくさんありますね。
私も いろんな失敗がありますけれども
じゃあ 格上の相手と
どう つきあっていったらいいのか
その知恵を今日は この遣隋使の失敗から
味わって頂きましょう。
607年 「群れなす船 遣隋使」といえば…。
ご存じ 小野妹子。
女性のような名前ですが 男性です。
古代 男性の名前の最後に
「子」を付けることは
珍しくありませんでした。
後の奈良時代に成立した歴史書
「日本書紀」には
初の遣隋使の記録として
しっかり妹子の名が
記されています。
すなわち
西暦607年のこと。
妹子は6世紀後半
現在の滋賀県大津市に拠点を置く
豪族の家系に生まれました。
びわ湖のほとりの唐臼山古墳には
妹子が埋葬されていたと伝わる
石棺の跡が残っています。
学者さんによりますと…
この妹子が遣わされた607年の遣隋使。
実は最初の遣隋使ではないことを
ご存じでしょうか。
えっ 本当に?
「日本書紀」には記載がありませんが
その7年前の600年。
既に 倭国は
隋に使節を送っていたというのです。
実は この時
倭国は ある大失敗をしています。
しかし この失敗こそが
倭国が本格的な国づくりを始める
ターニングポイントとなったのです。
遣隋使 1つ目の知恵。
倭国と中国の間で行われた
国家単位の交流は
3世紀 あの女王 卑弥呼が
君臨した時代にまで
遡るといわれています。
倭国は
「三国志」で知られる王朝 魏に
絹織物など 貢ぎ物を
差し出したとの
記録が残っています。
中国に いくつもの王朝が並立していた
5世紀にも
倭国の使節が
何度も海を渡ったとの記録が残るなど
両国は 活発な交流を重ねてきました。
しかし 6世紀に入ると
倭国内部で政治方針の対立から
争いが起こるなど 情勢が悪化。
多額の経費がかかる
中国との交流は途絶えます。
一方 中国では
589年 隋が中国全土を統一。
絶大な権力を誇る王朝を
築き上げていました。
激動の東アジア情勢。
600年の遣隋使は
大国 隋と友好関係を結ぶため
その懐に飛び込もうとする
倭国の命運をかけた試みだったのです。
その時 一体何があったのか。
答えは中国に残されていました。
中国の歴史書
「隋書」に短い記述があります。
倭王アメタリシヒコが
一体 誰を指すのかは
明らかでは
ありませんが
肝心なのは
このあとの記述です。
倭の王は 天が兄であり
日が弟にございます。
使者としては
当時 倭国で
行われていた政治について
包み隠さず
述べたのかもしれませんが
これを聞いた文帝は…。
はなはだ 義理のないことである。
すぐに改めるように。
わざわざ夜中に 政を行い
日が昇ると仕事をやめてしまう。
その不合理さに 文帝は
あきれ果ててしまったというのです。
600年の遣隋使に関する
「隋書」の記述は ここで終わっています。
倭国の摂政 厩戸王
いわゆる聖徳太子は
帰国した使節から
報告を受けました。
ううむ そうか…。 それは困った。
一般的に外交では
自国の文化や財力をアピールし
「敵に回したくない」と
思わせることがセオリーですが
今回の派遣では
「取るに足らない存在」との印象を
隋に与えてしまいました。
完全な失敗です。
それでも
「行かなきゃよかった 失敗だ!」とは
太子は捉えませんでした。
これをきっかけに
隋から ばかにされない
立派な国をつくろうと決意したのです。
目指すのは 皇帝を頂点とする隋に倣い
天皇を中心とした
秩序のある国づくりです。
隋をモデルにした
太子の改革が始まります。
まず 603年 位階の制度を整えました。
天皇によって授けられる位に応じて
冠の色が12色で分けられ
一目で地位の高さが分かります。
太子が 冠位十二階を定めた背景には
各地の豪族たちの存在がありました。
豪族は 武力や財力を背景に
中央政府である朝廷にも
強い影響を及ぼしています。
冠位十二階は
天皇を頂点とする明確な身分秩序の中に
豪族を組み入れ
彼らを天皇のために
働かせようとする試みでした。
続いて604年。
役人の心構えを示す
17条から成る憲法を定めます。
一に曰く…
争いごとが
絶えない中
太子は
和の大切さを
人々に示します。
そして…
詔とは
天皇の言葉を
表します。
天皇に従うよう
命じたのです。
太子は あの手この手で
制度や法令を整え
天皇中心の国づくりを進めていきました。
隋をモデルケースに
急速に国家としての体を
成していった倭国。
もちろん太子たちの
頑張りの たまものではありますが
彼らのモチベーションを
生み出したのは
あの忌まわしき
600年の遣隋使での大失敗。
格上の相手に
失態を演じてしまったとしても
とにかく懐に飛び込んでこそ
物事は動き出すことを
古代 遣隋使の歴史は
示しているのです。
…というわけで こちら。
今日は年表をですね 用意いたしました。
小野妹子が旅立ったのが
この607年の遣隋使ですね。
その7年前にも遣隋使が行われていた。
研究者の中では 結構早くから
共通認識として
600年の使者はあったっていうふうに
考えてたんですけども
もともと戦前 戦中の教科書だと
「日本書紀」にのっとって
記述が書かれていたので
「日本書紀」になかった
600年の遣隋使については
全く触れられてこなかったんですね。
カットしてたんやね。
何で「日本書紀」には
記述がなかったんですか?
その時に皇帝から
「ちょっとそれは 義理がないね」
「はなはだ義理無し」というふうな
注意を受けた。
そこで
「日本書紀」を編さんする時には
その記事は
省いてしまったといわれています。
恥ずかしいから。
恥ずかしいから カット。
1回失敗したから。
(笑い声)
夜に政務をとるというふうな
発言があった。
使者の発言として
あったっていうのが分かっています。
でも夜に政務をとるとなると
どうしても まきや灯明
明かりが必要になりますよね。
その分
国民の負担が増えてしまうので
本来してはならない。
それを なぜ使者が発言したのか
実際 その当時の倭国の状況とも
合っていない発言なので
もしかしたら通訳に
何か問題があったんじゃないか
というふうに考えられています。
だから すごい昔の時代から
空気が変わるとか
リアクション悪いっていうのは
言葉 分からんでも 伝わるんすね。
「むちゃくちゃ…
何 こいつ」みたいな。
「何してんの この国」みたいに
思われたとか。
そこは 分かるんですよ 多分。
そうですね。
まあ あの… ちょっと知恵を
見ていきますけれどもね
ここでの知恵は「格上の相手でも
まずは懐に飛び込め」ということでした。
田崎さんは 若き日に
フランスに単身で渡ってる時に
やっぱり倭国みたいな さんざんな扱い
というのは受けるんですか?
そうですね… 最初に
ブルゴーニュに行ったんですけど。
とりあえず
ブルゴーニュの本屋さんで
ブルゴーニュに
書かれてる本を買って
畑の場所が どこにあるのかが
欲しかったんですね 地図が入っている。
…で 畑行ったんですけど
当時の地図は
相当 アバウトだったので
ロマネコンティの畑を
見てみたいと思って
その地図上 ここだろうと思って
そこで 写真を撮ったんですけど
ず~っと あとに
正確な位置が分かった時に
全く違うところで
写真を撮っていました。
それぐらいのレベルですから。
違うブドウ畑を。
教えてもらおうと思っても
門前払いですし。
門前払いっていうのは
どうなっちゃうんですか?
行って ピンポン押して
「見学したいんです」ぐらいのフランス語は
なんとか言っても
向こうから
ワーッと返ってくるんですけど
何だか 分からないし。
むちゃくちゃ根性あるな…。
ようピンポンしましたね。
もう… そこら中
ず~っとピンポンしながら…。
さっきも ちょっと お話ありましたけど
そのフランスでも
やっぱり奮起あったんですか?
ある時 街を歩いてましたら
空手道場があったんですね。
当時 ブルース・リー
世界的に はやってまして
日本の空手も結構 道場が
あちらこちら 出来始めてたんで
僕も中学校の頃 空手を
少しかじったもんですから
行きましたら 大歓迎してくれて。
日本人に対して 空手という世界の中で
子どもたちが みんな尊敬の目を…。
そうか。 本場の国やと。
その時にフランスナイズしに来たつもりで
行ったんですけども
そうじゃなくて 日本人としてフランスで
学んでいこうというふうに思って。
ほう~ ちょっと
発想の転換があったわけですね。
ここは 日本人をコンプレックスに
思うんではなくて
日本人として誇りを持った上で
フランスから学んでいこうというふうに
意識が変わったのは 変わりましたね。
でも ブルース・リーなんですね。
ブルース・リーだったんです。
ヌンチャクできないと
空手やってないと思われるんで。
ヌンチャクは 確かに でも 日本ですよね。
フランスのボルドーで
初めてヌンチャク練習して。
イメージが変わりました スタンスが。
我々の先輩 後輩でも やっぱり
相手にばっかり合わせてても
上の人は相手してくれないですもんね。
何か自分なりの意見なり
それで興味 持ってもらえて
先輩に
かわいがってもらえたりとかっていう。
上の人にも だから
ある種 メリットっていうか。
メリットっていうか刺激になるのかも
分かんないですね。
でも あとで分かりましたけど
日本人なのに
日本の悪口ばっかり言って
で それで自分は フランスにいる位置を
立場を保ってると思ってるんですけど
実は そのあと
フランス人に聞いてみたところ
自分の国に
誇りを持てないやつというのは
信頼できないというふうに
言ってましたね。
やっぱり 他者と触れ合う時に
自己というものが
すごく浮き彫りになりますよね。
よく分かりました。
フランスと触れ合ったことによって
自己とは何なのかっていうのを
改めて確認されて
それで フランスの文化とのつきあい方が
そこで腹が決まった。
やっぱり 異文化との出会いの
美しさですよね。
今でこそ 本当に技術も発展して
行かなくても いろんな情報が
手に入るじゃないですか。
それでも やっぱり 懐に飛び込む
というのは大事なことですか?
多分 僕は3年近くいたんですけど
3年近くで学んだことって
今 日本の自分の家で
数分 1時間ぐらいあれば
全部 習得できちゃうかな
っていうぐらいの知識を
3年間もかけて学んでいたので
それを同じようにする必要は
全くないと思いますけど
ただ
フランスの食文化を知りたい。
どんな空気の中で生活をして
そこから生まれた食文化なので
それを覚えようとしたら
やっぱり 文字だけでは
知ることができないので
行くべきだと思いますね。
行かないと分かんないことはね。
フランスの このワインが
なぜ この料理と合うって
いわれてきたのかというのは
ここで再現して食べても
なかなか分からないんですよね。
ほんま 海外でヨーロッパで飲んだワイン
おいしくて 銘柄だけ覚えて
日本で同じ物 買って飲んだら
全然 味ちゃうんですよね。
分かる分かる。
ありますよね そういうのね。
風景とかね 見ている。
そう やっぱり自分は その現地に行って
今 レストランで飲んでるっていう
その雰囲気で変わりますもんね。
やっぱ 飛び込まないと駄目でしょう。
さあ そうした中ですね
いよいよ607年 今田さん。
私がね。
小野妹子が派遣された
遣隋使ということになるんですが。
鬼のようなNHKのスタッフに
船が荒れてるシーンを
撮るのに
僕 柱に
ひもで結び付けられて
バンバン バケツで
水かけられましたんで。
思い出したわ。
その小野妹子なんですけど。
そんな思いしたんでしょう
実際にも。
この遣隋使で大失敗するんですけど
ご存じですかね?
誰に聞いてるんですか?
小野妹子ですよ。
(笑い声)
これは よく知ってます。
これは「日出ずる処の天子」と
手紙に書いて
怒らせたんですよね 相手をね。
皇帝を怒らせた
ということなんですね。
この失敗に どんな知恵がですね
隠されているのか 見ていきましょう。
607年 聖徳太子は
2回目の 遣隋使の派遣を実行します。
数々の改革を経て
隋の皇帝の前に出ても恥ずかしくない
国家ができたとの確信がありました。
この時 一行を率いたのが
今度こそ 小野妹子でした。
頑張るぞ!
しかし 妹子たち
またしても 相手を怒らせてしまいます。
記録が残るのは
やっぱり 中国側の歴史書「隋書」です。
時の隋の皇帝は第2代 煬帝。
かなり強気の人物として
知られています。
北京から杭州まで
およそ1, 800キロメートルを結ぶ
大運河を
数百万人を動員して整備したり…。
国外遠征を積極的に行い
隋の領土を
現在のベトナム南部にまで広げたり。
そんな煬帝 妹子が携えてきた国書に
目を通します。
そこには
「日出ずる処の天子が
日没する処の天子に
書を送ります。
つつがなく
お過ごしでしょうか」と
書き出されていましたが…。
何じゃ こりゃ~!
煬帝は 大いに機嫌を損ね 配下の役人に
「蛮夷の書状に 無礼なものがあれば
今後 自分に見せるな」と命じました。
「行かなきゃよかった 失敗だ!」と
妹子は 思ったはず。
ところが 煬帝は 帰路につく妹子たちに
使者を同行させています。
倭国との友好的な外交関係を
続けようとしたのです。
これって失敗ではなく もしかして成功?
煬帝の不可解な対応の裏には
倭国が推し進めてきた
巧妙な戦略がありました。
そもそも 一体なぜ 国書を読んだ煬帝は
機嫌を損ねたのでしょうか。
通説では
「日出ずる処」「日没する処」という表現に
問題があったといわれています。
東にある倭国は 「日出ずる処」。
すなわち上り調子の国。
西にある隋は「日没する処」。
すなわち落ち目の国と例えたことが
煬帝の不興を買ったというのです。
しかし近年 この通説に
異論が唱えられています。
奈良大学 名誉教授
東野治之さんは
「日出ずる処」
「日没する処」は
当時 広く普及していた仏教書
「大智度論」から
引用された表現との見方を示しています。
確かに「大智度論」には
このような一節があります。
実は 煬帝が不快感を示したのは
隋の皇帝と倭国の君主を
それぞれ「天子」と
同じ立場のように表現したことに
理由があるといいます。
しかし この「天子」も
あくまで「仏の教えの前では
隋も倭国もない」という
仏教的な文脈で使用された言葉と
考えられています。
607年の遣隋使で倭国が携えた国書には
実は 仏教への深い敬意が
込められていたというのです。
そもそも 仏教は 紀元前5世紀ごろ
インド北部で
ブッダを開祖として生まれた宗教です。
その教義は 苦の輪廻からの
解脱を目指すこと。
アジアを中心に広まりました。
倭国には 6世紀の中頃
朝鮮半島から伝来したと
考えられています。
今も奈良県明日香村に残る飛鳥寺は
日本で最初の
本格的な仏教寺院といわれています。
さて そんな仏教を
太子は国づくりにおいて
この上なく好都合だと考えていました。
中央集権国家を構築するには
人々に共通した道徳や価値観を
持たせなければならないからです。
国家プロジェクトとして
仏教を普及させていった太子は
憲法十七条にも 仏教について記しました。
しかし 太子の仏教奨励は
なにも
国内統治の都合だけではありません。
そう 隋との外交も
念頭に置いていたのです。
実は 隋も 大々的に
仏教の推進政策をとっています。
国寺として
長安に大興善寺を建立したり
教えを広めるために
僧侶を役人に登用したり
全国に仏舎利塔を建設したり。
仏教を重んじる隋と
共通の価値観を持ってこそ
円滑な外交が可能となる。
太子が仏教を奨励した背景には
まさに「相手の考え方をつかみ
同じ土俵に立て」の知恵に基づく
外交戦略があったのです。
さて 仏教を前面に出した
倭国の国書を受け取った煬帝。
何じゃ こりゃ~!
「天子」という言葉に引っ掛かったものの
やがて 文面に込められた
仏教への敬意に気付いたのでしょうか。
怒りの矛を収めると
帰路につく妹子たちに使者を同行させ
関係の継続を図りました。
当時 朝鮮半島の高句麗と敵対していた隋。
煬帝としては 海の向こうの倭国を
仲間にしておきたい思惑も
あったのでしょうが…。
いずれにせよ
「味方にしたい」と隋に思わせるほどの
存在感を示せたことは確かです。
600年の遣隋使から 僅か7年の間に
飛躍的な進歩を遂げた倭国。
「相手の考え方をつかみ 同じ土俵に立て」。
この知恵によって 両国は
正式な外交関係を結ぶに至ったのです。
「日出ずる処の天子」という表現には
仏教の普及をアピールするっていう
巧みな戦略が隠されていたと。
いい感じに
相手の気持ちをくすぐったんですね。
「おっ こいつ 分かってるがな」みたいな。
今田さん 実家 お寺ですけど 仏教。
仏教書 1行しか読めないです。
(笑い声)
やっぱり 1回目の遣隋使によって
ある程度の状況も伝わっていた
ということもあったと思いますね。
つまり 戦略を練るためのベースが
もとがないといけないですからね。
僕は 下手くそなタイプですけど
うまい人はいる。
その人の好きなもんとか
ある程度 把握しててね。
ちょっと さりげないものを
パッと渡すね。
日本人は それが もともと
うまかったのかもしれないですね。
そうなんですか?
料理屋さんとかで
一見さんお断り。
あれって もともとは
お客様の情報がないと
いいサービスができないので
そのお客様の情報が
ある方だけが
お招きできます
ということなんで。
ものすごい相手のこと考えた
システムやと。
今 おっしゃって頂いたみたいに
情報収集をするっていうのが
すごい綿密に行われていて
隋で ものすごく大規模な仏教事業を
行っていたんですよね。
その情報を朝鮮半島の僧侶から
ちゃんと聖徳太子は入手していて
分析した上で 多分 仏教でいくと
あちらさんにウケがいいっていうの
分かってて やってるんですよね。
「日出ずる処の天子」って
表現を使ったのは
ある種 こう… 隋と自分たちの国は
同格なんだって
大きく見せるためみたいな
考え方ってありませんか?
昔は よくありました。
特に 近代においては
対等な関係を築いたんだというのを
すごく言いたがったんですね。
それが 太平洋戦争の時の
西洋列強と
対等に戦う日本というのが
遣隋使の時の
大国 隋と対等に渡り合った
聖徳太子というのと
オーバーラップ
してしまったために
戦前 戦中には
人口に膾炙したんですけども。
現在は そういった見方は
もう教科書では とらない
というふうになっています。
よいしょ。 はい。
また この年表で見ていきますよ。
この607年の遣隋使の今度 帰り。
また失敗します。
また!?
これなんですよね。
「帰国する途中 妹子は
皇帝からの
返書を紛失?」。
あの海の荒さやと分かりますよ。
なくしても。
船の中 こんなになって?
何か そんな…。
いや でも これ
とんでもないことじゃないんですか これ。
バケツで かけられた水…。
ごめんなさい 忘れられない。
思い出しましたか?
大丈夫です。 これ ちゃんと
事実じゃないというふうに
歴史学としては確認してるので
大丈夫です。
なくしてなかったんですか?
何で こんな話になったんですか?
この妹子が書状を
紛失したというのは
「日本書紀」にだけある
記述なんですけれども。
これが何で
こういう話を
「日本書紀」の中で
作ってしまったのか
よく分かって
ないんですけど。
ただ妹子 このあとの第3回でも
使者として派遣されていますし
妹子自体が そのあと出世が
とどまったっていうこともないので。
それは なくしてたら もうこれ
絶対 出世なんかできないですよ。
じゃあ ここでの知恵なんですけれども
「相手の考え方をつかみ
同じ土俵に立て」ということでした。
ソムリエの方って
お客様相手じゃないですか。
合わせると言ったら あれですけど
どういうふうに
おつきあいしていくんですか?
最初は どんなお客様も全てのお客様も
同じように好きになって接客をする
っていうふうに言われたんですが
それ無理なんですよね。
(笑い声)
嫌いな人は嫌いだし 一目会った瞬間から
嫌なやつは嫌なやつと思うんですけど。
そのうち変わったのは そうではなくて
こっちが好きとか嫌いとかではなくて
会って できるだけ短い時間に
相手から好きになってもらうような
接し方をすることの方が
それによって
すぐに信頼関係が生まれるので
そのような接客をした方がいい
というふうに思うようになって。
どういう接し方なんですか?
このお客様が入ってきて
コートを預ける雰囲気
お連れの方との関係 雰囲気。
持っているものから何から。
テーブルに座って 最初
ひと言 ふた言 会話を交わす間に
今日は どんな目的で来たかなとか
っていうふうなことを感じて
最初のひと言 ふた言から
接していくっていうことなんですね。
なかなか大変ですね。
今田さんが
今日 初デートの雰囲気かなと思えば
ここは ちょっと今田さんをうまく。
大事。 それは店の人。
おしゃれに見せてさしあげて
うまくいって頂くような
アレンジをしたら
喜んでくれるかなという感じ。
相手の情報を
いかに早くキャッチするかという。
会った瞬間から もう情報収集が
始まってるということですよね。
瞬間 歩き方… そうですね。
座り方 コートの銘柄。
そうですね。
逆に こっちは見られてると思って
動かなあかんですね 店行く時は。
さあ こういうふうに
なってきたわけですけれども
河上さん このあと遣隋使は
どうなっていくんでしょうか。
遣隋使 「しっぱいか?」というふうに
失敗って言葉が入ったんですけれども
ボードには 10年 14年というふうに
遣隋使 続いていますので
友好な国家間関係を
樹立するという点では
成功していると考えて頂いた方が
いいと思います。
ただし 隋の方が
国家の経営に失敗してしまって。
隋が失敗する?
そうなんです。 こちらなんです。
618年 隋が滅亡するんですね。
「日出ずる処の天子」の国書を読んで
不快感を示した煬帝ですけれども
殺されてしまって 隋は滅亡と。
反乱を起こされて宮中にも兵が…。
クーデター?
はい そうですね。
クーデターの言い方がいいですね。
クーデターで。
そんな悪いことしたんですか? この人。
あの… 度重なる出兵で
人民が疲弊いたしまして。
ああ~ そっか。
広げてましたもんね さっき。 VTRで。
…で 滅亡してしまって
その後 どうなったかというと
今度は 遣唐使が始まる。
つまり そのあとに成立した王朝と
やり取りが始まると。
それが 唐か。
その遣唐使はね
また改めて 見ていきたいと
思いますけれども。
今日はですね 遣隋使を
ずっと見てきましたが
格上の相手とつきあう知恵
味わってきましたが
今田さん いかがでした?
やっぱ データは大事ですね。
相手のことを やっぱり調べて。
まあ 言うたら つきあいが始まるという
つきあいをしていくということで
行ってるわけじゃないですか。
そういう人に対しては
やっぱり礼儀として
相手の情報とか
そういうものを しっかり調べて
交渉するというのは大事ですね。
最後にですね 田崎さんに改めて
格上の相手とつきあう極意
伺いたいと思います。
まず 謙虚な姿勢で
向き合うということと
その上で ライバル心をもって
相手のすばらしいことを
学ぶっていうところだと思いますね。
つまり その人に憧れて
その人に
ついていこうというんじゃなくて
やっぱり 追い越そうと
思う気持ちがないと
自分自身は
進化していかないので。
まずは 謙虚に接して
でも いつか その人を
追い越そうと思う
気持ちを持ちながら
接するっていうのは
大事かなと思います。
両方 大事ですよね。
両方持ってないと やっぱ。 確かに。
ただ 会社で言うたら 最近 上の人の方が
下の人にビクビクしてますもんね。
ああ…
最近ちょっとね 変わりましたよね。
さっきのVTRみたいな
「コレ行くか?」も もう…。
無理ですね。
怖くて できないですね。
今 上の人 大変…。
上の人が下と どうつきあうかを
ぜひ 特集やってもらいたい。
このあと 改めて
ちょっと また
新鮮な食材を仕入れておきますので。
本当に お願いします。
♬~
格上相手とつきあうか…。
新米店主の私にとって
本当に勉強になった一日でした。
でもね「群れなす船 遣隋使」が
607年ですよね。
今度は…
「無礼」が600。
どうですかね…。
こんなのも ありますよ。
ちょっと無理がありますかね?
でも 600って切りがいいから
語呂合わせなくても よかったか。
今から100年ほど前に起きた
日本最悪の獣害。
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