出典:EPGの番組情報
英雄たちの選択「頼朝暗殺未遂!? 曽我兄弟敵討ち事件の深層」[字]
貧しい兄弟が親の敵を討つ美談として伝えられてきた曽我兄弟の物語。実は「鎌倉殿」源頼朝も標的だった。背景には戦時から平時への移行で高まる御家人たちの不満があった。
詳細情報
番組内容
「曽我兄弟の敵討ち」といえば「赤穂浪士の討ち入り」と共に、日本人に長らく愛されてきた美談だ。しかし兄弟は、親の仇だけでなく征夷大将軍に任命されたばかりの源頼朝も襲おうとしていた。いったいなぜ?舞台となったのは、頼朝が我が子・頼家を後継者として御家人たちに認めさせるべく行った富士野の巻狩り。そして、戦争の時代が終わり平時に向かう中で、鎌倉殿と御家人の関係も曲がり角にあった。美談に隠された深層に迫る。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】創価大学文学部教授(日本史)…坂井孝一,小説家…真山仁,【語り】松重豊ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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- 鎌倉幕府
- 後継者
- 征夷大将軍
- 政子
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
神奈川県の箱根神社。
鎌倉幕府が
あつく敬った神社だ。
ここに 一振りの太刀が残されている。
源 頼朝の命を狙ったと伝えられる
太刀 薄緑丸。
曽我兄弟の敵討ちで知られる
曽我五郎時致が手にしたとされる。
その夜 兄弟は 親の敵
工藤祐経が寝ている宿に忍び込み…
見事に本懐を遂げた。
苦心の末の敵討ち成功は
広く語り伝えられ
やがて「曽我物語」として
読み継がれるようになる。
だが 事件は
敵討ちだけでは終わらなかった。
兄弟は 工藤祐経を討った その足で
源 頼朝が泊まる宿に
討ち入ろうとしたのだ。
征夷大将軍になり 武家の棟梁として
得意の絶頂にあった 源 頼朝。
なぜ曽我兄弟は頼朝を狙ったのか。
事件の背後には 何があったのか?
スタジオでは 各界の論客たちが
鎌倉幕府草創期の謎に切り込む。
曽我兄弟の敵討ちという
美談の奥に秘められた
頼朝暗殺未遂事件。
その真相とは?
♬~
皆さん こんばんは。
こんばんは。
歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。
今回は 鎌倉幕府を開いた
源 頼朝の選択に迫ります。
日本史上初の武家政権を樹立した
頼朝ですけれど
征夷大将軍に任命されて間もない頃に
曽我兄弟の敵討ち
いわゆる曽我事件が起こります。
磯田さん この事件は歴史的に見ると
単なる敵討ちではなくて
何か深い背景があった
ということなんですよね。 そうなんです。
曽我の敵討ちというのは
父親を殺された
不幸な境遇にあった兄弟が
親の敵を討ったという
美談として語られてきたと。
大正時代ぐらいまでは
ものすごい人気の物語で
孝行を重んじた 親孝行な
好きな人物にもですね
この兄弟が挙げられてたぐらいです。
しかし この兄弟が
敵討ちで狙った標的というのは
父親の敵だけではなくて なんと 頼朝。
これ あんまり
意外と知られてないんですよ。
歴史家・学者では当たり前なんですけど。
そうなんですね。
その重大事件は 華々しいイベントの
さなかに起こったんです。
鎌倉に都から勅使がやって来た。
源 頼朝を征夷大将軍に任命する辞令を
届けに来たのである。
この時 頼朝 46歳。
一介の流人が挙兵して12年。
朝廷から征夷大将軍に任命されることで
名実ともに武家の棟梁に上り詰めた。
まさに得意の絶頂であった。
その頼朝が次に考えたこと。
それは自分の後継者として
嫡男 頼家を鎌倉殿にすることだった。
しかし
それは簡単にいくことではなかった。
平安後期から鎌倉前期の政治史 文化史を
研究する坂井孝一さん。
御家人たちにとって 鎌倉殿継承とは
特別な意味があったという。
血筋という点で限って言っても…
その可能性も
捨て切れないのではないかと。
頼家以外の源氏として
坂井教授が挙げるのは
まず 弟の 源 範頼。
平家追討の現場指揮官である。
そして頼朝に匹敵する血筋を誇る
甲斐源氏の安田義定など。
そうした源氏一族よりも
頼家が鎌倉殿にふさわしいことを
示さなくてはならない。
そこで頼朝は ある方法を思いつく。
ここに一つの屏風がある。
頼朝が 駿河国で
およそ1か月にわたり行った
富士野の巻狩の様子を描いたもの。
頼家が鎌倉殿の跡継ぎに
ふさわしいことを示すために
頼朝が打った策が
この富士野の巻狩だった。
この巻狩で 頼家の弓の腕前を披露し
武人としての能力を
広く御家人たちに示そうとしたのだ。
この重要な行事の仕切り役に
頼朝は
妻 政子の父親 北条時政を指名した。
挙兵以前から頼朝を支えてきた
大恩人である。
鎌倉幕府が編纂した歴史書
「吾妻鏡」によれば
時政は 頼朝が
鎌倉を出発する
6日前に
現地へ入っている。
そこで 配下の者たちを指揮して
獲物の状況を調べ
更に頼朝が泊まる館の設営など
入念に準備を進めていった。
建久4年5月8日。
頼朝は 北条義時をはじめ
三浦義澄
畠山重忠 和田義盛など
挙兵以来の重臣や側近
そのほか大勢の御家人を引き連れ
駿河国 富士野へ向かった。
「吾妻鏡」には
矢を射る射手の人数だけでも
数え切れなかったと記されている。
富士野の巻狩は
空前の規模で催されたのである。
頼家が 鎌倉殿の
正統な後継者であることを示す晴れ舞台。
そこでは
一体 どんなことが行われたのだろうか。
フィールドワークを通して
「曽我物語」を研究している
二本松康宏さん。
富士野の巻狩が
いかに行われたのか調べてきた。
ここは こう ご覧いただくと分かるように
傾斜になっていてですね。
こうしたところで…
それを…
…ということが行われたと考えられます。
5月16日。
頼家は
後家人たちが見守る中
生まれて初めての狩りで
見事に鹿を射止めた。
そして そのあと
山神・矢口祭という儀礼が行われた。
それは 頼家が
頼朝の正統な後継者であることを
神に認めてもらう重要な儀礼だったと
二本松さんは言う。
この狩祭は 三色の餅を用意し
そして狩りの達人 あるいは
弓の達人といわれる御家人たちが
何人か出てきてですね…
従って 御家人たちが…
そして そこからですね 狩祭が行われる。
そうしたことを含んだのが
この富士野の巻狩の位置づけだったと
考えられます。
当時の山神・矢口祭の様子を伝えるものは
現在 残されていない。
しかし 室町時代の足利将軍家の
儀式や作法を伝える「弓馬之書」の中に
初めて獣を射た時の儀式に使う
三色の餅が描かれている。
富士野の山神・矢口祭でも
頼家は こうした餅を前に
神と御家人たちに祝福され
鎌倉殿後継者の座を認められたと
考えられるのだ。
ところが 巻狩が終わろうとしていた
5月28日の晩 事件が起きた。
皆が寝静まった
深夜。
曽我十郎祐成と
弟 五郎時致という
2人の若者が
御家人たちが
泊まる
富士野の館に
忍び込んだ。
そこで
頼朝側近の
有力御家人
工藤祐経を
殺害したのだ。
曽我兄弟の敵討ち。
いわゆる曽我事件である。
事の発端は 頼朝の挙兵以前に遡る。
工藤祐経は 伊豆の領地を巡って
有力豪族 伊東祐親と争っていた。
争いの中で 祐経は 伊東祐親の嫡男
河津三郎を殺してしまう。
河津三郎には 2人の息子がいた。
残された兄弟は 相模の貧しい武士
曽我氏に引き取られた。
そして 父親を殺した祐経を
恨みながら成長していく。
一方 祐経は 頼朝に重用され
鎌倉幕府の有力御家人に出世していく。
元服した2人は
そんな祐経を討ち取る機会を狙っていた。
そして 富士野の巻狩の夜
ついに本懐を遂げたのである。
だが 事件は
敵討ちだけでは終わらなかった。
兄弟の標的は もう一人いたのだ。
「曽我物語図屏風」は
右側には富士野の巻狩
左側には 曽我兄弟の敵討ちの様子が
詳しく描かれている。
兄弟は 工藤祐経を討ったあと
別の館へ向かって走りだした。
兄 十郎祐成は 集まってきた
御家人10人を相手に斬り合いになる。
9人までは倒したが
10人目で ついに討たれてしまう。
一方 弟 五郎時致は
目指す館の入り口まで迫っていた。
この館の奥で迎え撃とうとする人物が
描かれている。
源 頼朝だ。
兄弟の狙いは 頼朝の首だった。
幕府の記録
「吾妻鏡」にも
弟は
頼朝に向かって
走っていったなど
同様の記述がある。
実は「吾妻鏡」には
捕らえられた弟の五郎が
翌日 頼朝じきじきの尋問を
受けたことも記されている。
そこで五郎は 頼朝への
恨みがあったと答えている。
この時 頼朝は 五郎の勇猛ぶりをたたえ
勇士として許そうとするが
殺された工藤祐経の幼い息子に
涙ながらに求められて 引き渡す。
五郎は さらし首にされた。
頼朝暗殺未遂とも考えられる曽我事件。
しかし 後の世には
殺された父を思う兄弟の
敵討ちの側面にのみ
脚光が当てられ続けることになる。
嫡男 頼家を後継者として
認めさせようという頼朝と
曽我事件の顛末を
ご覧いただきました。
今回もゲストお二人をお迎えしています。
よろしくお願いいたします。
お願いします。
よろしくお願いします。
まず 小説家の 真山 仁さん。
敵討ちの美談として伝わる
曽我事件の違う説も出てきましたけど。
全然知らなかったんですよ。
なので 「へえ~」というの
驚いたんですが
ただ 大体 美談の陰には陰謀ありだと
私は思っていまして。
陰謀好きの私とすると ああ なるほど
そういうことがあったのかという。
初めての武家政治の冒頭でですね
ようやく一息ついたところで…
後継者を狙うのではなく…
そういう意味では やっぱり…
…みたいなことは
非常に ありがちな感じはしますけどね。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の
時代考証を務めています
坂井孝一さんにも
来ていただいています。
坂井さん
征夷大将軍になっていたとはいえ
頼朝は まだ課題を抱えていた
ということなんでしょうか。
はい。 頼朝自身は
普通の御家人
東国の武士たちよりも
自分の方が身分が高くて
1ランクも2ランクも
上だという自覚は
非常に強く持っている。
しかし かといって…
その中で ここまで のし上がってきた。
頼朝は 息子の頼家を後継者にしようと
頑張っていたわけですけれど
それは何か 息子っていうだけで
後継者に そのまま すんなりなるっていう
世界でもなかったんですか。
そうね そうじゃないですね。 やっぱ…
しかも あれ
偶然性によるところが多いから
あれは…
正直言うと 巻狩で…
でも そうしか 多分できなかったぐらい
それぐらい焦ってた。
これは
ほかに方法はなかったんですか?
やはり 神様からの承認が
必要だったんですかね。
それはですね この当時…
神だけじゃなくて仏も 全部…
平和も そうやって
神仏によって支えられてる時代。
そうすると
統治も神仏によって支えられる。
そういう時代ですから…
神仏が たたえてるっていうことは…
あれ 中世の人たちって面白くて…
B面に チラチラ
チラ見せをしてくるっていうね。
だと思います 多分。
そっちの方が本体の世界で
浮世じゃないけど いいかげんな…
やっぱり 残念な感じは
すごいしますよね。
でも そんな重要な巻狩で
この曽我事件が起こるんですよね。
坂井さん これ
なぜ頼朝まで狙われることになったと
考えられるんでしょうか。
曽我兄弟っていうのは 実は
伊豆の 先ほど
工藤祐経と伊東祐親と出てましたけど
伊東祐親の孫なんですよね。
その伊東祐親というのは
頼朝が流罪になった時に
頼朝を預かっていた平家の家人です。
頼朝が挙兵をして戦った時に
祐親は当然 頼朝に敵対します。
石橋山の合戦とか そういうところでも
頼朝を追い込みます 窮地にまで。
しかし 頼朝が再起して
逆に今度は祐親が捕まってしまう。
そして 死に追い込まれてしまうんですね。
そうすると 曽我兄弟にとって
頼朝っていうのは
祖父の敵ということになるんですね。
…というふうに思われます。
本当はね…
それは分からないですよ。
だけど これ
「お前 天下の大将軍 狙ったら
どうなるか分かってんだろうな」
なんて人前で言った瞬間
やっぱり 鎌倉武士たち…
やっぱり 親戚もいますからね
これ たくさん。
むしろ…
もう そこから 台本を多分 僕はね
頼朝が書いたんじゃないかと
思うんですよ 頭の中で。
嫌なやつですね。 すごい嫌な性格ですね。
(笑い声)
ねっ 性格的にね すごい。
自分のイメージは壊さないように
成し遂げることは成し遂げる
みたいな感じですもんね。
見え見えな気がしますけどね
何となくね。
いや でもね 鎌倉武士は単純なので
これでいけるんですよ。
坂井さん ほかの御家人たちは
どうしたんでしょうか。
もちろん 騒然となりますからね。
この中で じゃあ…
つまり…
何かボ~ンと起きた時に
これは もしかしたら…
…というふうに思ってしまう人が出ても
おかしくない。
そういうような状況だと思いますね。
富士野の巻狩の前年
頼朝が征夷大将軍に任命された
建久3年は
鎌倉幕府にとって
曲がり角とも言える年だった。
戦が終わり
平和な時代になっていく中で
頼朝は 新たな政治体制作りを始めていた。
その中心となったのが
将軍家政所である。
そこで頼朝は
御家人たちに渡す公文書に
大きな変更を加えた。
神奈川県立歴史博物館に
頼朝が御家人に出した公文書がある。
「源頼朝袖判下文」と呼ばれるものだ。
右端にあるのが
頼朝が署名の代わりに
記した花押である。
頼朝は こうした文書を
御家人たちに渡していた。
しかし
征夷大将軍になってからは
将軍家政所の役人の名前と花押のみの
「将軍家政所下文」を渡すようになる。
こうした変更に
御家人たちの中から不満の声が上がる。
声を上げたのは
挙兵以来の有力御家人 千葉常胤。
「吾妻鏡」によれば
「将軍家政所下文」を受け取った常胤は
とても不機嫌になった。
自分たちの棟梁である
頼朝自身の花押がない文書は
信用が置けないというのだ。
頼朝が どんどんですね
偉くなっていきまして…
今度は組織として
御家人が吸収されていって…
頼朝が 少しずつ少しずつですね
御家人たちとの関係というよりかは…
頼朝には もう一つ 御家人たちとの
関係に関わる大きな課題があった。
頼朝は 挙兵以降
戦に勝って没収した敵の領地を
新恩地として御家人に与え
それを朝廷に認めさせる
新恩給与という政策を
実行してきた。
領地をもらったお礼に 御家人たちは
頼朝に奉公するということで
主従関係を成り立たせてきたのだ。
ところが 戦が終わり
御家人に与えるべき
新たな領地が手に入らなくなると
御家人たちの不満が次第に高まっていく。
建久4年になると 正月ごろから
坂東各地の武士団の中で諍いが頻発する。
相模の三浦氏では
一族の長である惣領
三浦義澄の命令に
従わない者たちが
現れた。
頼朝自ら
義澄に従うように
通達したという。
三浦氏は 相模国 三浦半島を中心に
大きな勢力を持つ大武士団だが
惣領の座を巡って
内紛の火種を抱えていた。
それが ここに来て噴出したと考えられる。
更に2月 武蔵国の丹党と児玉党という
武士団の間に確執が生じた。
一触即発の事態にまで
緊張が高まったという。
頼朝が 有力御家人同士の関係に
気を遣わなければならなくなって
いたことを示す例が もう一つある。
建久3年。
頼朝に 次男 千幡が誕生した。
後の三代将軍 実朝である。
その後見人である乳母夫に
頼朝は 妻 政子の父 北条時政を選んだ。
この先
北条家が千幡を支えていくことになる。
一方 嫡男 頼家の乳母夫に
頼朝は 武蔵国の有力御家人
比企能員を選んでいた。
比企と北条に 対立することなく
息子たちを支えさせるには…。
頼朝は 一つの手を打った。
千幡を北条に預けるのと時を同じくして
比企の娘を北条義時に嫁がせたのである。
いかにして 戦時から平時に
鎌倉幕府のありようを変えていくか。
頼朝は 苦慮しながらも
かじ取りを行っていた。
そんな中で起きたのが
富士野の巻狩での事件だった。
曽我兄弟の敵討ちを題材にした
「曽我物語」を研究する小井土守敏さん。
兄弟が起こした事件が
物語として広まること自体に
当時の ある気分が反映されているという。
…というような方向に
向いていったのではないかと
そんなふうに思っています。
戦に明け暮れた時代が終わって
頼朝と御家人たちの関係が変わっていく
様子をご覧いただきました。
結局 武家政治って 今の言い方にすると
軍事政権だと思うんですね。
なぜなら これ…
結局 自分の腕一本で
命懸けで生きてきた人たちが
それを捨てなさいって言われると。
逆に当時の官僚というと
貴族にしか 京都の貴族
彼らが一番バカにしていた人たちになれと
言われているようなものですよね。
一番面白いのは 例えば 杉浦さんが
一緒に みんなで会社をやって
ずっと杉浦さんのために頑張ってますよと
言ってたのが
ある日 杉浦さんが
「明日から社長と呼びな」と言った瞬間に
すごい距離あくじゃないですか。
はい。 はい。
「杉浦さんではなく 社長と呼びなさい
あなた」って言った瞬間に
「お前 許さない」って
今でも思うと思うんですよ。
俺は 役職じゃなくて
人に仕えているんだと。
だから 結局 大変…
何か全体的に この人って…
自分としては
演技はできるんでしょうけど
何か 本当は もうちょっと
大事な絆というか…
所領 土地が欲しくて
しょうがない人たちですから
分け与える所領のパイがなくなってくる。
そうなってくると
増えなくなると何が始まるって
いとこ 兄弟 おじ 甥の間で…
俺のだ 俺のだと。 要するに…
そうしたら 膨大な訴訟が来ますよね。
それで あまりに多いですよ。
京都から法曹官僚と書いた法曹官僚たちが
やって来て 有能な人が裁く だけど…
坂井さん。 頼朝は 新しい平時体制に
御家人たちがついてくると
そこは思っていたんでしょうかね。
そんなに全部を
頼朝が押さえてるわけでもないし
多くの御家人たちが 頼朝を完全に
信頼したりしているわけでもないと。
なるほど。
まだね…
曽我兄弟の系統の人たちも
そうだと思うんだけど
「俺たち 伊豆の東半分で偉かったよな」と。
「何で工藤に取られてるんだよ」と。
「何で あんな三浦や北条みたいのが
偉そうにして 真ん中 座ってんだよ」と。
そうすると この…
オセロゲームみたいに
今 ひっくり返されて底になってるのを…
そんな状況を打開しようと
頼朝は行動に出ます。
曽我事件の直後から
頼朝は恐るべき粛清を始めた。
巻狩に参加していた
常陸国 久慈の武士たちを
曽我兄弟の夜討ちを恐れ
逃亡したとして
所領没収。
また 常陸国の大武士団
大掾氏一族の長 多気義幹からも
所領を没収。
理由は 曽我事件直後
富士野に駆けつけなかったからだった。
更に 相模の有力御家人
大庭景義と岡崎義実を 突如 出家させる。
実質的な追放と見られている。
粛清の刃は 源氏一族にも向けられた。
頼朝の弟 範頼が処分されたのだ。
南北朝時代に成立した歴史書
「保暦間記」によれば
曽我兄弟の
敵討ち事件直後
頼朝も討たれた
という誤報が
鎌倉に伝わり
嘆く妻 政子に
範頼が 私がいるから
大丈夫だと発言。
頼朝は それを
謀反ありと断じ
範頼を幽閉。
殺害したのだという。
更に頼朝による粛清の嵐は続いた。
11月には
頼朝に匹敵する血筋を誇ってきた
甲斐源氏の有力者 安田義定の息子
義資が首をはねられる。
理由は 新たに建立した
寺院の供養の最中に
女官に恋文を渡したからだった。
そして 翌年8月
義資の父 安田義定を
反逆の企てありとして
さらし首にしてしまう。
曽我事件を機に 不満を持つ御家人と
頼家のライバルになりうる者たちを
頼朝は一挙に葬ったのだ。
そんな頼朝には
実は もう一人 気になる人物がいた。
次男 実朝の後ろ盾として
乳母夫に選んだ北条時政だ。
時政は 曽我事件に関わっていた
可能性があったのだ。
暗殺未遂事件が起きた富士野の巻狩では
時政は 仕切り役として
全ての準備に関わっていた。
しかも 曽我兄弟の弟 五郎が
元服した時の烏帽子親が時政だった。
その折 時政は 「時」の一文字を与え
五郎時致としている。
時政と曽我兄弟とは
極めて近しい関係にあったのだ。
そんな時政に
頼朝が不審を抱いても おかしくはない。
しかし 時政を処分することは
今後の幕府運営を考えた時に得策なのか。
一体 どう扱えばいいのか?
頼朝の心の内に分け入ってみよう。
北条時政は 妻 政子の父であり
挙兵前から幾度となく助けられてきた
大恩人である。
しかし 曽我兄弟の敵討ちの一件では
彼らと親しすぎることが
どうしても疑わしい。
もしかして
兄弟を唆したのは時政なのか?
とんでもない野心を
持っていたりはしないだろうか。
そう考えると
次男 千幡の乳母夫としたことも
不安の種になってくる。
我が跡を継ぐ頼家の敵になるようなことは
ないだろうか?
ならば いっそ 時政を排除してしまうか。
万が一 鎌倉殿の継承を巡って
比企と北条が 頼家と千幡を担いで
ぶつかり合うようなこととなれば
幕府そのものを危うくしかねない。
曽我事件を口実にすれば
たとえ舅殿といえど
たやすく排除することが
できるではないか。
さすれば 一切の懸念なく
頼家が鎌倉殿を受け継ぐことができる。
ここは時政には消えてもらうのが
最善の道か。
だが そのあとは どうなる?
この頼朝が 坂東の大豪族たちの上に
君臨していくために
大切なことは 彼らの力の釣り合いだ。
御家人の誰か一人に力が集まれば
鎌倉殿の権威など なくなってしまう。
今 時政を殺して 北条が力を失えば
頼家の代になると 後ろ盾である
比企にばかり力が集まるだろう。
それは危ない。
むしろ時政に 比企と変わらぬ力を
持たせることこそ得策ではないか。
これから先 頼家 そして
その子らへ受け継がれていく
幕府の礎を築いていくためには
今 北条時政を取り立てていくことこそ
選ぶ道ではないだろうか。
頼朝は選択を迫られていた。
頼朝は 曽我事件のあと
次々と厳しい処分を下していきました。
磯田さん あまりに次々と
という感じでしたけれど
この時の頼朝の心境って
どういうものだったんでしょうか。
(笑い声)
いや 甲斐源氏はね 平家追討でも
もう出し抜かれてですね…
武田とか安田とかいう名前 聞くだけでも
嫌だったかもしれない。
ひょっとすると。 あと もう一人
武力で平家を滅ぼして帰ってきた範頼は
力の論理が支配してる関東武士の中では
あっぱれ御大将なわけですよね。
やっぱり
平家滅ぼした時の御大将は範頼だと。
まあ そうすると…
だって 軍隊指揮して
勝利してないわけですから
頼家の方はね まだ子供でね。
ですから これは危機ですよ。
やっぱり もう 不安を解消するのは…
私なんかは 個人的に見てると
「ゴッドファーザー」の…。
すごい思います。
思いましたよね。
マイケルが どんどん粛清して。
完全に マイケル・コルレオーネですね。
そうですよね。
それを思い出しましたけど。
もう ずっと頭のこっちで回ってました。
ああ やっぱり。
猜疑心が湧いてくるんですけど
猜疑心って やっかいで
人を疑い始めると
止まらなくなるんですよね。
これ 見てたら分かりますけど…
ところが ちっちゃいもんから
順番に殺していってですね…
そうでしょうね。
とめどなく もう いくら…
だから どんどんエスカレートしていく。
もう 結局 今まで…
だから やっぱり ここに…
何か 今で言うと
お前 友達いなかったんだねって。
そう思います。
ハハハハ。
とめどない猜疑心。
ものすごい演劇的な人ですよね。
シェークスピア見てるみたいですよね。
さあ 御家人たちに
厳しい処分を下した頼朝ですが
曽我事件の黒幕の可能性も指摘される
北条時政の処遇を どうしたらいいのか。
まず選択1は
「時政を排除する」です。
これは 少しでも怪しい人物は
厳しく処分するという選択です。
そして選択2は
逆に「時政を取り立てる」
というものです。
御家人たちの間の
パワーバランス維持に
使うという考えですが。
ひょっとしたら曽我兄弟をさ 巻狩で…
入場券はないでしょうけど…
あそこ守護だから 会場設営だとか
いろんな管理するんで
あんな狭い社会で
烏帽子親までにもなってて
全く知らないわけはない。
きっと。
ああ そうですか。
怪しいは怪しいんですよ 時政だって。
皆さんが頼朝の立場なら
どちらを選ぶでしょうか。
坂井さんは どちらを選びますか。
私は2の
「北条時政を取り立てる」という選択を
私が頼朝だったらしますね。
はい。
なぜかというと
まあ もちろん 時政というのは
流人時代から
ずっと自分を支えてきてくれた
そういう大恩人であるということは
間違いない。
しかも 今 これは
時政を 一つ取り上げてますけども
実は 政子も義時も
そういう北条の一家が
あるわけなんですよ。
ということもありまして…
…なのではないかなと 私は思います。
真山さんは いかがでしょうか。
私は1番の時政を排除する方に。
おっ 排除する。
ここまで粛清やってるわけですから…
政治的な視点から言うと。
結局 疑わしいというのは すごい重要で…
更にですね この恩人を殺すという
意味があるんですよね。
つまり もう…
政治を自分はやるんで
だから そういう意味では…
更に もう
御家人は みんな震撼しますから
ある意味 父親を殺すのかと。
問題は もちろん
政子が怖かったとか
そういう いろんな人間的な問題は
あるかもしれないんですけど
彼がやりたかったのは やっぱり…
いわゆる
軍事政権ではなく 官僚政治をしたい。
その最後の総決算は
やっぱり そういう 何て言うのか…
逆に言うと 私から言うと…
さあ 2人の選択 分かれましたけれど
磯田さんは どうしますか。
2 「時政を取り立てる」。
はい。 なぜでしょう。
時政ね 排除難しいかなと
ちょっと思いますね。
家のかたまり軍事力という
言い方するとしたら 親衛隊になる。
そうすると やっぱり
北条に頼るしかないというか
まあ 頼朝の家族同然の集団ですわね。
そうしますと
やっぱり 北条離すと大変ですよね。
このころは。
じゃあ そこを討つべきか 討たないのか。
はい では 選択を見ていきましょう。
曽我兄弟の敵討ち事件から
およそ半年後の建久4年12月。
事件直後に所領を没収された
常陸国の多気義幹の弟 下妻弘幹が
頼朝の命によって首をはねられた。
「吾妻鏡」は
その理由を
北条時政に恨みを
抱いていたから
だとしている。
更に頼朝は
時政に新たな力を持たせる。
粛清した安田義定が務めていた
遠江国の守護に
時政を任命したのだ。
頼朝は 時政を取り立てることを
選んだのである。
時政は
伊豆 駿河 遠江3か国の守護として
幕府の中で大きな力を持つ
存在となっていった。
曽我事件から6年後の建久10年1月13日。
源 頼朝が世を去る。 享年53。
跡を継いだのは 頼朝の嫡男 頼家。
18歳だった。
しかし 4年後 頼家が病に倒れると…。
時政は
頼家の後ろ盾だった比企能員を殺害。
更に 比企一族を滅ぼし
頼家の将軍職を剥奪した。
そして 自ら乳母夫を務める実朝を
12歳で三代将軍に据える。
勢いに乗った時政は 実朝にかえて
娘婿を将軍職に就けようと画策。
娘 政子と 息子 義時によって
追放されることになる。
頼朝の死から20年。
三代将軍 実朝は 頼家の子 公暁に
鶴岡八幡宮の境内で暗殺される。
頼朝が力を尽くした源氏将軍は
僅か三代で断絶することとなった。
その後100年 鎌倉幕府は
北条氏が取りしきっていくことになる。
頼朝は 「北条時政を取り立てる」という
選択をしました。
真山さん。
真山さんの選択とは違いましたけれど
頼朝の選択 どう思いますか。
そうですね。
歴史は そうなったでしょうけど
源氏にとって 本当に これが
よかったのかというと
やっぱり
まだ出来たてホヤホヤの幕府の中で
やっぱり やるべきことをやらないと
まあ 運命もあって
まさか 年の若い自分が
先に死んじゃうとかですね
ここまで時政が
いろんなことを ずうずうしくやるとは
思ってなかったと思いますけど。
だから やっぱり そういう…
だから
殺すって いい話ではないですけど
まあ でも やっぱり…
なので 私の言うことを聞いてたら
源氏も もっと長かったのにと
とりあえず私は言っときます。
タイムトラベルが必要ですね。
はい タイムトラベルして
やめなさいって説得に行ってきます。
言えば言うだけ 多分 頼朝は
これでいいって言ったと思いますけど。
そういう人…。
だから こういうふうになって
いっちゃったんだと思いますけどね。
頼朝が 時政より年下ですよね。
ですから 普通 そのまま生きていれば
時政や比企に そんなことは
させなかったはずなんですよね。
歴史って 全部 必然性で
出来上がってるものではなくて…
ここで グッと…
その一つの表れだと私は思っています。
最後に 磯田さん
どんなこと感じましたか。
きっとね この…
だって あの「曽我物語」が
あんなにリアルなのは
工藤祐経が斬られた時も
横には そのおねえさんが
一緒に寝てたわけですね。
それが描かれている。
だから それを ずっとお坊さんとかが
話を聞いて それで書いた。
…何かが 僕はあった気がするの。
当時の…
どこに誰がいるとか
今度 巻狩があるらしいとかいうのは
そういう女性と つきあいながら
収集してたはずで。
芸者さんに取材する腕のいい記者は
昔は 昭和の時代 たくさんいました。
ああ やはり。
うん。
やっぱり それは お金とか恋愛じゃなく
腹立つからですよね 聞いてて。
「何だ こいつら」って
芸者さんたちが思うからで。
そうすると ちょっと 本当
二次会に行くようなレベルで
その辺の居酒屋 飲んでると
もう「腹立つから聞いてくれない?」
というのが特ダネになってた時代が
そうですね 昭和40年代ぐらいまでは
よく聞きました。
ああ~。
そうやって語り継がれていったことが。
何にも悪いことしてない人が
いきなり殺されたりとかで
やっぱり
腹立ててる人はいるわけですよ。
全然まとまらなかったですね 今回は。
意外と そこの話が面白かった。
それでは皆さん
本日は ありがとうございました。
ありがとうございました。
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