出典:EPGの番組情報
こころの時代~宗教・人生~ 無宗教からの扉(3)「悪人とはだれか」[字]
遠藤周作や三木清など多くの作家や哲学者に愛されてきた「歎異抄」。多くの日本人が自らを “無宗教”だとする現代、そのメッセージを、シリーズ6回にわたり読み解く。
詳細情報
番組内容
シリーズ第3回は、「歎異抄」の中で最もよく知られた「善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや」という一節を入口に、「悪人」とは誰のことか、なぜ「悪人」が救われるのか、ひもといていく。読み解くカギとなるのが、歎異抄に登場する「煩悩具足のわれら」「宿業」という2つの言葉。夏目漱石の小説『こころ』や武田泰淳の『ひかりごけ』なども例にとりながら、私たちの存在を問い返し、本願念仏の奥深い世界に分け入っていく。
出演者
【講師】明治学院大学名誉教授 宗教学者…阿満利麿,【語り】髙橋美鈴,【朗読】井上二郎ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉
テキストマイニング結果
ワードクラウド
キーワード出現数ベスト20
- 自分
- 悪人
- 言葉
- 人間
- 煩悩
- 善人
- 阿弥陀仏
- 行為
- 法然上人
- 宿業
- 歎異抄
- 仏教
- 往生
- 本願
- 業報
- 大事
- 意味
- 色眼鏡
- 理解
- 親鸞
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
♬~
「歎異抄」は 700年以上前の鎌倉時代に
書かれた 仏教の古典です。
そこに貫かれているのは
「本願念仏」の思想。
阿弥陀仏が仏になる前
人々を救うために立てた願い
「本願」に基づく念仏を称えるだけで
全ての人が救われるというものです。
法然によって称えられた その教えは
親鸞らによって受け継がれました。
「歎異抄」は その親鸞の言葉を
門弟となった唯円という人物が
正しく伝えようと書き留めた書です。
その第三条には 「歎異抄」で
最もよく知られた一節があります。
「善人ですら往生を
とげるのですから
ましてや 悪人が
往生を果たすことは
言うまでもありません」。
高校の教科書にも載っている この一節。
皆さん どのように
理解しているでしょうか?
(男性)いや 正直 ちょっと…
…とは思ってるんですけど。
となると…
なんか すごい…
やっぱり なんか心にね…
シリーズ
「『歎異抄』にであう 無宗教からの扉」。
第3回の今日は
悪人とは どのような人のことか
そして なぜ悪人が救われるのか
ひもといてゆきます。
♬~
今日は「歎異抄」の中でも 最も有名な
第三条というものを取り上げます。
「善人なをもて往生をとぐ
いはんや悪人をや」という
有名な言葉のある章でありますけれども。
問題はですね この時の
「善人」とか「悪人」という言葉の意味が
私たちの常識の意味とは
全く異なるんですね。
我々の常識で言いますと 救われる人は
あるとしたら
それは よい人なんですね。
しかし この「歎異抄」では
まず救われるのは「悪人」だと
言うんですよね。
「善人」は二の次みたいなもんですよ。
これは どうしてなのか。
これは「善人」と「悪人」の考え方を
決めている基準がですね
我々の常識と異なってる
ということなので
そこを ちゃんと理解するということは
大事だと思うんですね。
善人ですら往生をとげる つまり
阿弥陀仏の国に生まれるんだと。
ましてや悪人が生まれない
わけはないだろうと
こういう言葉ですね。
「しかるを世のひと
つねにいはく」と。
世間では「悪人なを往生す
いかにいはんや善人をやと」。
悪人が救われるんだから
もう善人が救われるのは
当たり前のことと
こういうふうに世間では言うと。
「この条 一旦その
いはれあるににたれども」。
それは もっともなように
聞こえるけれども
「本願他力の意趣にそむけり」と。
阿弥陀仏の本願
そういう他力の仏教の
考え方から言うとですね
その趣旨に反すると。
こういうふうに
始まるわけですね。
我々の常識では
「善人」と「悪人」があればですね
「善人」がよいに決まってるんですね。
で その基準はというと
大体 法律か道徳かを基準にしている。
法律に反した人は「悪人」である。
あるいは道徳的に悪いことをした人。
しかし
ここで言われてる「善人」というのは
仏教の土俵の中での
「善人」「悪人」の問題であって
仏教でいう普通の「善人」というのは
戒律を守る あるいは
瞑想 座禅なんかも
ちゃんと立派にできる。
そして お勉強をしてですね
智慧を磨くこともできると。
こういう人が「善人」なんですね。
それに対して 「悪人」というのは
まるで修行はできない。
戒律を守るといっても 何一つ守れない。
そういう 自分の力で
仏教の教えというものを
実践できない人ですね。
そういう人間を「悪人」と こう言ってる。
ですから 世間で言う そういう
「善人」「悪人」が基準ではなくて
自分が その悟りの世界
自分が 仏になるという
そういう その目標の前で
無力感を感じてしまう。 つまり自分が
仏になる手だてがないというふうに
思ってしまう人間のことを「悪人」と。
そういう その「悪人」のために
阿弥陀仏の本願というのが生まれたんだ
ということが言いたいわけですね。
これ あの 「善人なをもて往生をとぐ
いはんや悪人をや」というのは
私なんかも受験勉強の時とかなどに
歴史で学んだような記憶が
あるんですけども。
その時に いわゆる
「煩悩の深い悪人こそが救われるんだ」と。
「煩悩の深い悪人」と言われた時には
道徳的な意味での「悪人」かなっていう
ふうに理解してきたんですけども。
今 とてもいい言葉を使われた。
煩悩の深い人間って
そう解説してあったわけですよね。
そのね 煩悩が深いというのは
実は この第三章の中でもですね…
…という言葉を そこで使ってる。
つまり 「悪人」という言葉を理解する時に
そのままでは理解が難しいから
「煩悩具足のわれら」という言葉に
一度 換えてみたらどうかという
工夫がなされてるんですね。
「煩悩具足のわれら」。
「悪人」とはどのような存在なのか知る上で
カギとなる この言葉は
「歎異抄」第三条の後半に出てきます。
「煩悩に縛られた
私たちは
どのような修行を
実践しても
迷いの世界から
離れて
自由になることが
できないのですが
その私たちを
憐れんで
阿弥陀仏は誓願を
起こされたのです。
つまり 阿弥陀仏の
根本の願いは
私ども悪人を
成仏させる点に
あるのですから
他力をたのむ悪人こそが 正真正銘
浄土に生まれて
必ず仏となる種の持ち主なのです。
それゆえに法然上人は
『善人でさえ往生するのです。
ましてや悪人が往生することは
言うまでもありません』
と おっしゃったのです」。
この「煩悩具足のわれら」という時の
「煩悩」というのは…
こう言われてます。
つまり 体と心と
両方を悩ます 苦しめる。
それは具足してるということは
それはもう
体にピタッとついていてですね
それを
それから逃れることはできない
という意味合いが
具足ということでしょう。
ですから身を苦しめ 心を悩ます。
そういう精神のはたらきなしに
我々は暮らすことはできないと。
我々の暮らしは
いつでも身を苦しめる一面
心を悩ます一面を絶えず伴っていると。
もう少し突っ込んで言うとですね
その煩悩というのは
世間では普通 よく
欲望というふうに誤解されます。
誤解されるというか
そういうふうに理解されています。
除夜の鐘というのがあって
お正月が近づくと 煩悩 百八つあると。
除夜の鐘は百八つ突く
というふうなことを言って
煩悩は一つ一つ勘定ができるかのように
こうイメージされますけれども
私が見るところ 煩悩というのは
自分中心に欲望が行使されるというか
欲望が使われるような状況を
煩悩と言っている。
つまり 自分が その欲望を使って
自分のためになるように
絶えず計らってるような
この精神状態のことを 煩悩と
こう言ってるんだと思いますね。
で 煩悩がはたらくと
困るのは他の人なんですよ。 つまり
みんなお互いに煩悩をはたらかして
こう接触するわけですから
そこで人を傷つけたり
それから自分も傷つけられたり
苦しみが生まれるというふうなことで
煩悩的状態っていうのは
どちらかというと
苦しみを生む土壌だというふうに
考えていいと思うんですね。
ですから
他者との摩擦が生じてもですね
その摩擦の原因が
自分の中にある欲望の使い方にあると。
あるいは 自分の自己主張の中にある
というふうには
なかなか考えが至らない。
私たちは 自分のエゴのはたらき
ということについて
なかなか 如実にそれを
見るっていうことはないですね。
つまり 自分で自分の顔は
見ることはできないというのと同じで
いつも見るのは他人の顔ばっかりですよ。
自分で自分の顔は見えないと。
自分がどういう人間であるかっていうのは
大体 見えにくいですね。
人間の目は外へ向かって付いていて
うちに向いてないんですよね。
私どもの自我というのは
満腹をしていても
次の食材を手にしておきたい
というようなことも起こるし
それから 他者との関係においても
何か優劣を定めないことには
落ち着かないと。
自分の存在というものを 何か
誇示できるような場がないとですね
なかなか 暮らしの中で
安定が得られないという。
そういう性格が
どうしても あるものですから
他者との関係では
優劣というようなことを競う。
それは 己を安定させるためだと
いうようなこともあると思いますね。
だから エゴというのは
人間にとっては不可欠だけれども
エゴは 予想以上にエゴを主張したがると。
そこが一番の苦しいとこでしょう。
その予想以上に エゴがはたらくことに
それは ちょっとおかしいぞといって
ストップをかける力が
我々にあればいいんだけど
それがないんですよ 残念だけど。
私なんかが こう
仏教というのをイメージした時に
まず何かこう 煩悩っていう
欲望みたいなものがあって
何かこう それを
なくしていけるような道というか
そういうものを修行していくのが
仏教なのかなという
なんか一つイメージのようなものが
あったんですけれども
そういう あり方とは
全く違うっていうことで…。 ええ あの
仏教というのは
煩悩をなくすために修行すると。
修行して
自分の煩悩をコントロールするんだと
そういうイメージを持っておられる方
結構いらっしゃると思うんですね。
実は この法然上人の出現の
意味というのは そこにあるんです。
「歎異抄」は 親鸞が
門弟 唯円に語った言葉を
書き留めた書です。
その中には 親鸞が師と仰ぐ
法然上人から聞いた言葉を
そのまま唯円に伝えている
文章があります。
それは 「仰せ候ひき」。
親鸞が「法然上人は このように
おっしゃいました」と
伝えている部分です。
法然は 当時 仏教の最高学府だった
比叡山で長年修行しました。
しかし
どれだけ修行を重ねても
人間の煩悩を消し去ることは
できないと思い至り
「本願念仏」の思想に
たどりつきます。
どんなに修行しても 煩悩を
コントロールすることはできないと。
ましてや煩悩をなくすなんてことはね
できないと。
そのことに法然は気付いてですね
それで そういう
煩悩をコントロールできない
そういう人間が救われる仏教は
ないのかと。
あるいは煩悩のままで
この救われていく仏教がないのかと。
それを自分は
ここに新たに提示するんだと。
普通の人が抱いてる仏教のイメージを
法然は全部捨ててるわけですね。
その理由は
我々は煩悩をコントロールも
ましてや煩悩を捨てるなんてことは
できないという
そういう断念というか
見定めがあったということですね。
「歎異抄」の中にはね
第一条を思い出して頂きたいんですが
第一条にはですね
阿弥陀仏の本願の前には
「老少善悪の人をえらばれず」と
書いてあるんですよ。
「善人」「悪人」ですね。
そういうことは一切問わないと
こう書いてあるわけですね。
なぜ 善悪にこだわらずに
阿弥陀仏の本願がはたらくという
そういう阿弥陀仏の本願という
救済原理の普遍性をですね
冒頭で打ち出しておきながら
この第三条にくると
「善人」と「悪人」とを区別して
「悪人」が大事で「善人」は二の次だと
こういう善悪にこだわった議論が
なされてますね。
これは どういうことかというとね
この法然上人という方は
その人その人に応じた
弾力的な説法ということを
なさった方でありますけども
普通の人に
その本願念仏を説く時にはですね
念仏が大事だということを
お説きになると同時にですね
できるだけ よいことをしたほうが
いいですよというふうな説き方をしてる。
できるだけ よいことをして 阿弥陀様にも
喜んでもらおうではないかと。
こういうふうな趣旨のことを
説いておられたというんですね。
それは ちょっとおかしいじゃないかと。
念仏だけ説けばいいのにですね
なんで そういう ちょっとした善
よいことをするようにというふうなことを
あえて おっしゃっていたのか。
そこには
それなりの意味があってですね
念仏を実践しながら よいことをしようと
努力してるような人がですね
いずれ よいことをしようとしても
よいことをしきれない自分に気が付く
ということを
前提にしておられるんですね。
この小さな罪も犯さないようにと
こういうふうに教えられて
そして自分も実際 小さな罪を
犯さないように努力してもですね
我々は そういう小さな罪ですら
犯さずには生きておれないわけですよね。
そういう 人は簡単に
善を実現することができないという
いわば大きな壁ですね。
壁というものに ぶつかることを
法然上人は期待しておられた
ということなんですね。
で 私はね この 法然上人が
そういう念仏とともに
善悪のことを おっしゃった
ということの背景には
当時 13世紀の人々の中でですね
「悪人」という言葉を聞くだけで
もう すぐピーンと
自分のことだと分かる人が
たくさんいた ということですよ。
これはね 今の我々と全然違うんですね。
ということは
武士っていうのがいたわけです。
武士の仕事は 人を殺すわけでしょう。
そしてまた 一般の民衆の中にも
生き物を殺して
つまり漁師とか猟とかですね
そういう生き物を殺して それを売って
生活をするという人たちもいたし
そして女性の場合には 身を売るという
非常に悲しいことで生活をする
遊女という人たちもいた。
ですから 法然上人のお弟子には
遊女はいますよ。
それから大泥棒がいますよ。
武士と大泥棒と遊女
これは 法然上人の一番… その
法然上人を慕った人たちですね。
そういう意味で 「悪人」という言葉が
13世紀では すぐに分かる
そういう暮らしがあった
ということですね。
それに比べると どうも現代は
「悪人」というのは あいつのことであって
自分のことではないという風潮は
圧倒的に強いですから。
こういう説明 回りくどしい
ちょっと説明をせざるをえない
ということだと思いますけれども。
(鎌倉)法然上人のですね
主に武士を相手にしたような
例えば その 自分にとっての
悪の意識が強い人間たち。
その時に多分 彼らの感情としては
仏教的な悪っていうことを
最初から理解してるんではなくて
なんか 自己基準の中での悪
つまり道徳的
あるいは法的かもしれませんが
そういった 悪っていう感情から
入り口として
入っていくっていうことになると
思うんですけれども。
それはあれですかね。
その悪っていう段階を経て
その仏教的な悪
いわゆる煩悩に支配された人間たち
というレベルに入っていくっていうことに
なるわけでしょうか?
そうですね。 例えば 熊谷次郎直実のね
この 発心の様子を見てみますとね
熊谷次郎直実は 人を殺してきたから
自分は「悪人」であると
こう思ってるわけです。
鎌倉武士の一人 熊谷次郎直実。
一ノ谷の合戦で 平家の若武者
平 敦盛を討ち取るなど
坂東一の武者として
その名をとどろかせました。
しかし 自分の息子ほどの若者の命を
奪ったことや 領地争いに敗れたことで
世の無常を感じ 出家。
法然上人のもとを訪れ
本願念仏の教えと であってからは
「蓮生法師」と名乗り
熱心に念仏を称えるようになります。
蓮生さんが自分で彫られた仏像です。
お顔が幾分 出家されて
すぐに彫られた自刻像よりは
柔和な 柔らかなお顔になっております。
右手に持った はすのつぼみは
自分のみならず 周囲の人々と共に
極楽への往生を願った象徴と
伝えられています。
熊谷次郎直実
法然上人に会って 教えを聞く時に
熊谷次郎直実は どう間違ったか
腰の小刀を出してですね
ゴシゴシ研ぎだしたというんですよ。
周囲の人がね 慌てたわけですね。
これ ひょっとしたら 熊谷次郎は
何をするか分からん人間だから
法然上人をこれで刺すんじゃないかと。
ところがですね 法然上人は
お前がどのような悪を犯していたにせよ
阿弥陀仏の本願は お前を救われるんだと。
称名さえすればいいんだ
ということも教えたんですね。
それを聞いて熊谷次郎は
さめざめと泣いてですね
それで改めて この小刀を出して。
実は 法然上人からはですね
お前は 相当悪いことをしてきたと。
人を殺してきたんだから。
だから お前が救われるためには 手や足の
一本ぐらい切って ここへ差し出せと
そう言われると思ってたというんですよ。
だから痛くないように
自分は こう研いでいたというんですね。
ところが 手足を切るなんてことは
一切問わない。
そんなことする必要もない。
お前がいかなる悪業を犯してきたかも
問わないと。
ただ あなたが阿弥陀仏の本願を信じて
念仏さえすれば
あなたは浄土に生まれるんだと。
こういう話を聞かされてですね
もう その予想していたのと
まるっきり違う世界に入って
熊谷次郎直実は さめざめと泣いたと。
こういう伝承があるんですね。
ですから 最初は「悪人」だと聞いても
大体 その 道徳的悪
あるいは 宗教的に
人を殺した人間は地獄に行くとかですね
そういうふうに聞いている。
そういう悪の自覚なんでしょうね。
そういう善悪の基準とは
まるで違うところに
阿弥陀仏の本願があるということで
熊谷次郎は 感激したと。
ですから先ほどの 法然上人が
善悪を人に教えたというのは
その善悪を乗り越える
次の段階があるということを
示すためであったということだと
思いますね。
(鎌倉)法然さんも親鸞さんもですね
また「歎異抄」全体もそうですが
自分が「凡夫」であり煩悩にとらわれている
われらであるという
その自覚を非常に強く促しているという。
それと同時にですね
自覚がない「悪人」 自覚のない「凡夫」
これもその救いの対象になるというふうに
考えてよろしいんでしょうか?
そのとおりです。 実はね
阿弥陀仏の救済原理というのは
「無量寿経」という経典の中の
第十八願という
18番目に書かれてるんですね。
阿弥陀仏の名を呼ぶものは
どんな人間であっても
必ず浄土に迎えて仏にすると。
こういうふうに書いてあるんですけど
ただし書きがあるんですね。
ただし その 五逆とか十悪とかという
そういう大罪を犯した人間は除くと
書いてあるんです。
ところがですね 法然さん
驚くべきことは 法然さんは
それ無視するんですよ。
「十悪 五逆を除く」という除外規定を
無視するんです。
それは 阿弥陀仏の対象
救済の対象には
五逆も十悪も含まれてるに
決まってるじゃないですかと。
ですから どんな「悪人」であっても
また逆に 仏教とは何の縁も持ってない
関係のないような人でも
救われるということなんですね。
「歎異抄」が説く「悪人」とは だれか。
それを読み解くキーワードが
第十三条にあります。
「宿業」という言葉です。
人間が考える善悪という行為は
どのように引き起こされるのでしょうか。
「善心が生まれるのも
また悪事が思われたり 行われるのも
ともに『宿業』が はたらくためなのです」。
「親鸞聖人は 常に
『卯の毛 羊の毛の
さきにある
ちりほどの
微細な罪も
宿業でないものはないと
知らなくてはならない』
と おおせでした」。
「宿」というのは 昔のという意味ですね。
で 「業」は行為。 昔の行為。
つまり私たちは 今ある私たちは
昔の私の さまざまな行為の結果の
積み重ねとして この私があるわけですね。
こういう 今の私というものの
あり方を考える時に
昔の行為から今の自分を照らしてみると。
こういう見方が仏教にはあって。
それを この「業」という 行為ですね
行為の連鎖の中で人間を見るという
そういう考え方でありますけれども。
この第十三条で大事なことはですね
私どもは 今の私っていうのはですね
無数の過去の行為の結果として
存在してるわけですね。
その しかし残念ながら
その過去の行為の全てを私は
知る智慧がないわけです。
自分が どういうことを過去にして
今の自分があるのか。
言葉としては 過去の私が今の自分を
つくってるんだろうけれども
その過去が どういうふうにして
今の私につながってるかということを
見通す智慧がですね ないわけですね。
仏教はですね この物事の原因には
2つあるという立場です。
それは 直接的な原因。
これが因の… 原因の因ですね。
直接的な原因。
それに対して
直接的な原因がはたらく
そういう きっかけを
与えるもの
間接的原因ですね。
それを縁というんですね。
縁があって初めて
その因がはたらいて 結果を生むと。
そういう意味では この我々は
因と縁と その結果ですね。
結果というものの膨大な組み合わせの中で
まあ 私の人生があると。
いつも私は そういう
「因・縁・果の大海」の中に
大きな海の中に浮かんでるのが私だと
こういうふうに言うんですけれども。
しかし この「因・縁・果の大海」の中に
浮かんでるがゆえに
私どもには どうしても
自分の力で解決のできない
苦しみとか不安というものが
生まれてくる。
だって因果関係が 自分の都合のいい
ところだけは分かるけれども
それ以外 見えないわけですから。
まあいわば 自分中心という色眼鏡ですね。
色眼鏡で世界のあり方
人生のあり方を見てるから
他のものは見えない
ということなんでしょうね。
私どもは そういう色眼鏡なしには
生きていられないですよ。
私たちが生きてるということは
色眼鏡を掛けて生きるということですね。
色眼鏡を外せないんですよ。
「煩悩具足のわれら」というのは
具足という言葉が示してるように
外せない。
ですから 我々はそれぞれ いろんな
色眼鏡を掛けて生きてるんだけど
その いろいろな色眼鏡がある
ということが
分かるということが
大事なことなんですね。
外せないけども お互いが そういう眼鏡を
掛け合って暮らしてるんだという
そういう理解が大事だということを
まずは認めようということが
出発点だと思いますね。
(鎌倉)「宿業」という言葉っていうのは
世間一般では
例えば あの人は業が深いから
こうなったとかですね
それから あるいは 何ていいますか
前世の報い的な。
ひどい言葉では
「業病」なんて言葉もありますが。
この「宿業論」で大事なことは
他者のことを あげつらうために
「宿業論」を使うのは
仏教では あまりいいとは言いませんね。
つまり「宿業論」は何のためにあるかと。
己を知るためなんですよ。
自分が どういう人間であるか
ということを理解する時に
自分の過去を振り返ってみると。
そこで「宿業」を感じるということは
とても大事なことで。
「宿業」を感じて
自分の「宿業」の感じ方が
いかに自己中心的であるか
ということが分かった時に
その自己中心的な存在を
新しい展開ができるためには
何が必要かということを知るための
この いわば
基盤の役割を果たしていると。
だから 他者を糾弾するための
言葉ではないわけですね。
ですから「業病」なんて言葉は自分に対して
使うのなら いざ知らずですよ。
しかし それでも
おかしなことだと思います。
ですから「宿業」という言葉が
非常に誤解されやすいのは
己の存在が何であるかということを
知るための道具だということを
棚に上げているということだと
思うんですね。
(鎌倉)つまり そうしますと
その 他者に対して「宿業」という概念を
こちら側の色眼鏡から見て当てはめる
ということは基本的に違うということで。
違う。 間違いですね。
間違いだと思います。
ですから 「煩悩具足」と言うけれども
その煩悩を滅ぼすことができない
っていうのは
この「宿業」という言葉から言うと
「因・縁・果」の全てを知る智慧が
見いだすことができないという
意味でもあるわけですね。
そして もう一つは
その膨大な「因・縁・果」の流れの中で
自分の分かるところだけを
切り取って理解する。
この近代以降のことになりますけど
私を私たらしめてる
そういう「因・縁・果」の流れのですね
全部を知ることは…
一部しか知ることはできないという
我々のあり方について
特に深い関心を持った作家の一人に
夏目漱石というのがいますよ。
夏目漱石の仕事は ほとんどその一点に
絞られてると思うんですね。
日本近代を代表する作家 夏目漱石。
小説「こころ」の中に 「悪人」について
書かれた一節があります。
登場人物の「先生」が
主人公の青年に語った言葉です。
世の中には 「善人」という人が
突然「悪人」に変わるということがあるから
恐ろしいんだと。
その なぜ「善人」が
突然「悪人」に変わるかというと
善悪をそれぞれの色眼鏡で
決めてるわけですから
色眼鏡それ自体が 限界があるわけです。
つまり 「宿業」がどういうふうに
はたらくか ということは
あらかじめ予想もできない。
そういうことが その自分の色眼鏡が
正しいという立場に立つから
いつでも そういう
「善人」が「悪人」に変わるという
そういう現実を見て驚かざるをえない
ということになるわけですし。
で 私は 漱石の言葉で面白いのは
どんな人間もですね 自分の心の中に
二辺平行している三角形を持ってると。
そういうことも言ってるんですね。
二辺が平行してたら
三角形になるわけがないでしょう。
しかし本人は 三角形だと思ってると。
こういうわけですね。
つまり そういう矛盾した
この心のあり方が
我々の心の意識の底には ずっと
誰にでもあるというわけですね。
それは この「因・縁・果」の その流れの
一部しか知らないということを
現代風の言葉で無意識の…。
我々には無意識…
自分でも その正体は分からない
無意識を背負ってると そういう言い方で
表してるんだと思いますね。
ですから 近代になってから この精神分析
とかいうふうな学問が発達したりして
人間の通常の意識の底にですね
我々が自分でも知らない自分を
持ってるんだ
という言い方をするようになりましたが
それは この「宿業」ということの
心理学的な表現といいますか
だと思っていいと思うんですね。
人間は 自分では認識できない
「宿業」の中で生きている。
そのことを象徴的に伝える
親鸞と唯円との問答が
第十三条の中にあります。
「またあるとき
『唯円よ あなたは私の
言うことを信じるか』と
親鸞聖人が
お尋ねになったので
私は 『確かに』と
お答えしましたところ
聖人は重ねて 『では
これから私が言うことも
間違いなく そのとおりにする
だろうね』とおっしゃるので
『謹んで承知しました』と
申し上げました。
すると聖人は 『たとえばのことだが
人を千人殺してもらいたい。
そうすれば あなたの往生は
定まることに
なるのだが』と おっしゃいました」。
「唯円は
『私は 聖人の仰せでは
ありますが
我が身の器量を
思いますに
一人の人間でさえ殺す
こともできません』
と答えました。
すると聖人は 『では
どうして先ほどは
私の言うことに背かないと
言ったのですか』と おっしゃいました」。
「『唯円よ これでわかるであろう。
何事も自分の意思で決めることが
できると言うのであれば
大事な往生のために千人を殺せ
と言うのだから
すぐさま殺人に取りかかることも
できるはずだ。
しかし あなたはできないと言う。
それは あなたには
一人の人さえも殺す
『業縁』がないからなのです。
自分の心がよくて
人を殺さないのではありません。
反対に 人を害しないでおこうと
決めていても
『業縁』がはたらけば
百人でも千人でも
殺すことになるのです』と
おっしゃったのは
私たちが ややもすれば
救済は あくまでも
阿弥陀仏の本願の力による
ということを忘れて
自分たちの心がよければ
往生のためになり
悪いことは往生のために
ならないと思いがちであることを
指摘されるためだったのです」。
大事なことは 次の言葉ですね。
あなたの心が立派だから
人を殺さないということでは
ないんだぞと。
また ですから
「また害せじと思うとも」
その 人を殺したりしようとは思わないと
思っていても
「百人千人を殺すこともあるべし」と。
思いもかけず
百人千人を殺すこともあるんだと。
「と仰せの候いしは」 そういうふうに
親鸞がおっしゃったのは
我々 放っておくとですね
自分の心がよいのは 自分がよいから…
よい人間だからだと こう思っていると。
悪いことは 自分の中に
悪いことをする心があるからだと。
こういうふうに つまり 善悪は
自分が使い分けることができるんだと
こういうふうに思ってるという…
その考えに とらわれているのであって
ですから この
我々は自分の中に自由意思っていうか
自分で物事を決めることが
できる力があるんだと
こういうふうに普通は考えてます。
また実際 それがなかったら
我々の暮らしは 成り立たんわけですから。
しかし この 根本的には
我々は 過去の自分の行為
それから自分の行為に関わった
あらゆる人々の行為の影響の中で
暮らしてるという
事実があるわけですね。
その事実を片方で認識しながら
その人間に許されている
その主体性っていうか いうものを
どういうふうに開発していくか
ということを考えるべきであって
最初から その人には
もう一から百までの自由があるんだと
その人の心次第だというふうなことは
やっぱり ちょっとおかしなことですね。
で そういう業に縛られた中で
我々は どういうふうに
自分が主体的な生き方を
貫いていくかということ
それが人間の問題なんですね。
それが 実は この三条に
あるいは この十三条に そういうことは
ヒントとしてあるわけですね。
で 「歎異抄」は面白い本でね
妙な対応関係があるんです。
「歎異抄」は この親鸞の言葉を
唯円が とどめたという前半と
その親鸞から聞いた言葉とは異なる
まあ 唯円からすれば 間違った考え方が
後半に説かれているわけですね。
紹介されている。
そこにね 妙な対応関係があるんですね。
第一条を よく理解するためには
第十一条を見てみると
一条の裏が記されてる。
同じように この第三条の
この悪人こそ救われるという問題を
考える時には
十三条から見てみると
その 悪人こそ
救われるということの意味が
一段と はっきりするという
そういう構造があるんですね。
(池座)あの 今おっしゃっていた
善悪は自分が決められると信じている
っていうことというのが
非常に
ちょっと心に響くものがありまして。
本当に 人間のあり方っていうことを
考えさせられるなというふうに
思ったんですけれども。
私はね 「歎異抄」の第三条では
「悪人」とか「煩悩具足」のわれらとか
「宿業」とか
こういう言葉で盛んに我々の
この 存在の根本的な制約ということを
教えるんですけど
私は 現在の言葉で
それ言えると思うんですね。
それ 何かというと…
私の言葉で言うと
「思い込み」だと思うんですよ。
私どもはね あらゆる局面で思い込みで
暮らしているように思うんですね。
で この 人は 思い込みの中で
生きているという
そういう事実を知るということ。
ですから 自分が どういう人間であって
どうしても この私の言葉で言えば
大きな物語というものがないと
生きていけないということに気付く。
その気付きのためには
自分が どういう人間であるかという
そういう認識が不可欠だと思いますね。
ですから この「歎異抄」の第三条の
悪人の問題というのは
ある… ある意味では
極論を私たちに突きつけてですね
「お前は いかなる人間か」ということを
示そうとしている
教えようとしていることだと
思うんですね。
で 私の好きな作家に
その 武田泰淳というのがいますけど
武田泰淳に この「ひかりごけ」という
小説がありましてね。
この「ひかりごけ」という小説も
極論を我々に突きつけているんだと
思いますね。
これは 武田泰淳が
北海道を旅行した時に知った
実際にあった事件を この…
まあ 使っている
小説だといわれていますけれども。
武田泰淳の小説「ひかりごけ」。
戦時中
物資の輸送船が北海道沖で遭難し
船長以下7人の乗組員が
無人島に漂着します。
次々と餓死していく船員たち。
生き残った者は
その肉を食べて命をつなぎ
最後は 船長一人が生き延びます。
小説では
「人肉を食べた人間の首の後ろには
ひかりごけに似た光の輪が現れる」
という言い伝えが
象徴的に描かれます。
(鎌倉)あの 最後の本当に
クライマックスのシーンなんですが
人の肉を食った者が
ひかりごけが光るようにですね
光の輪が後ろに出てくるんだと。
それで あの 船長は自分の後ろに
そういった光が
光の輪があるということは
自分で言うわけですけれども。
集まった人間たちですね そこに つまり
裁判で裁く側になった人間たちが
全て その光の輪を
背景に背負っていたっていうのが
武田泰淳の最後の文章になってます。
それぞれ気付かないうちに 人を食い
あるいは
人の痛みみたいなものをですね
知らず知らずに人を傷つけたりですね
そういったことを 誰しもが
やってるじゃないかっていうことの
暗喩ではないかというふうに
僕は思ったんですが
それは いかがでしょうか?
そのとおりだと思いますね。
全員の首の後ろに
光の輪がついてるということは
全員 人肉を食ったっていうことですね。
私が面白いと思うのは…
「ひかりごけ」で
武田が言おうとしたことはですね
人肉を食らうということは
これは極論ですよ。
我々 普通の暮らしでは
ありえないことですね。
あえて しかし
そういうことを全面に立てて
あの船長は人肉を しかも
仲間の肉を食って生き延びたんだと
こういう おぞましい そういうことを
素材にしてるという。
それは
何を言おうとしているのかというと
私は 船長の行為
土壇場で 人の 仲間の肉を
食わざるをえなかったっていう
彼の行為はですね
人間のむごさとか… むごさとか
恥ずかしさとか
あるいは悲しさっていいますかね
そういうものの
シンボルだと思うんですね。
で この 人は生きるには
しかし そういう むごいこと
恥ずかしいこと 悲しいことをね
互いに やらざる やらずして
生きていくことは できませんよ。
つまり その 人肉を
人間の肉を食うということは
考えられないけれども
しかし
武田の言わんとしているところは
人肉を食らうという
極論によってですね
人は 誰でも むごいこと
恥ずかしいこと
悲しいことなしには
生きていけない存在なんだと。
そういうことを
我々に伝えようとしているんですね。
悪人であることから
逃れられない私たちは
どのように生きていけば
よいのでしょうか。
その手がかりとなる言葉が
第十三条の後半に登場します。
「善心が生まれるのも
また悪事が思われたり 行われるのも
ともに『宿業』がはたらくためなのです」。
「ですから
よいことも悪いことも
業の結果に任せて
ひとえに阿弥陀仏の本願を
たのむことが
他力ということで
ありましょう」。
「よきこともあしきことも業報」 業の報い。
自分の行った行為が招く結果ですね。
「業報にさしまかせて」 さしまかす。
さしというのは 強調する言葉ですね。
まかせる 「業報」にまかせる。
自分の行為が生み出してきた結果に
この 従ってですね
「ひとへに本願をたのみまいらす」。
自分は本願をたのむと。
「業報」に揺り動かされないと。
私は この「業報にさしまかす」という
そういう生き方が
とても大事なヒントだと思いますね。
つまり 第三条で
「悪人」とは何かということを説明したと。
十三条も使って
「悪人」というものを説明した。
そういう「悪人」である人間が
「悪人」に 要は押し潰されずにね
生きていくには どうしたらいいかという。
普通だったら「悪人」は もう阿弥陀仏の
本願をたのむしかなくてですね
何か この 暗い人生を送るかのような
イメージになってしまうけれども
しかし 「業報にさしまかす」ということは
あるぞということを
こう 言うわけですね。
で なぜ「業報にさしまかす」というふうな
生き方に
明るさがあるのかというと
それはですね 念仏を彼がするからですよ。
念仏をするということは
私が仏になる道
つまり完全なる智慧というものが
身に付くような世界に向かって
歩んでいるということなんですね。
ですから 「業報」
その 私が過去に犯した行為によって
今 私が どのような状態になるか。
そのいかんに かかわらず
私は 仏になる道を歩んでいるという
確信があるがためにですね
その悪業に負けずに
生きていくことができると。
その 「煩悩具足」とか「宿業」とか
そういうマイナスのイメージの
強い言葉の中でですね
そういうものに確かに束縛される一面は
あるけれども
しかし それは それとして
つまり それは
「業報にさしまかせて」ということですね。
「業報にさしまかせて」 しかし
その仏… 称名という行為によって
仏道を歩んでいるという
そういう確信が
その人に解放感をもたらすと。
そこが大事な点なんですね。
で 私は そのことを もっと端的に
述べている言葉があってですね。
この… 近代の…
最初の日本の宗教哲学者という
清沢満之の言葉にですね
世間では「人事を尽くして天命を待つ」と
こういうふうに言うと。
「人事を尽くして天命を待つ」と。
しかし私は 本願念仏に
であったことによってですね…
こういう生き方をとるんだと。
「天命に安んじて人事を尽くす」と。
これは 先ほど言った
「業報にさしまかせる」という言葉を
新しい言葉で
言い直したことだと思いますね。
ですから
これだけの人事を尽くしたんだから
あとは天命を待つというよりはですね
その人事が いいかげんであっても
最初から もう天命に任してあるんだから。
どんな人事であったってね
それは それで
まあ 納得できるわけですね。
まあ私は こういうことでですね
「悪人」という言葉を
煩悩具足のわれらとか
あるいは 宿業的存在
業縁に縛られた存在
更に私の言葉で言えば 思い込み。
そういう その 言葉によって
それ…
つまり悪人的な あり方ということが
人間の事実だということを
教えてるということですね。
もう これは
我々が見ることがなかっただけの話で
これは否定のしようのない
人間の事実である。
その事実に どんなふうに
向き合うのかというところに
まあ 大きな物語の役割があって
この「歎異抄」に即して言えば
そこに阿弥陀仏の本願というものの
この役割があるんだと思うんですね。
で それぞれの人間が
どういう「業報」を抱えて生きているか
それは もう ほんと 千差万別でしょうね。
で 私自身も そういう自分の中で
生涯 振り返って見た時に
自分の人生は なんであったのかと
思うような連続ですよ。
しかし 念仏とであえたということだけは
確かですね。
で そのことは
そういう自分の道徳的破綻とか
いろいろな問題ということに
耐えるっていうか
つまり そのことを以前よりは
客観的に見ることができる
そういう余裕が生まれてくる
ということだと思いますね。
♬~
「煩悩に縛られた
私たちは
どのような修行を
実践しても
迷いの世界から
離れて
自由になることが
できないのですが
その私たちを
憐れんで
阿弥陀仏は 誓願を
起こされたのです。
つまり 阿弥陀仏の
根本の願いは
私ども悪人を
成仏させる点に
あるのですから
他力をたのむ悪人こそが 正真正銘
浄土に生まれて
必ず仏となる種の持ち主なのです」。
「それゆえに 法然上人は
『善人でさえ往生するのです。
ましてや悪人が往生することは
言うまでもありません』と
おっしゃったのです」。
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