徹子の部屋 丹波義隆[解][字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

徹子の部屋 丹波義隆[解][字]

~生誕100年…亡父・丹波哲郎の知られざる素顔を語る~丹波義隆さんが今日のゲストです。

◇ゲスト
俳優・丹波義隆さんがゲスト。2006年に84歳で逝った丹波哲郎さんは、7月17日に生誕100年を迎えた。スタジオでは、黒柳さんがNHKに入った頃からの付き合いで大好きだった丹波さんの思い出を、息子の義隆さんと共に振り返る。
◇番組内容
今日、義隆さんが着ているのは70年以上前に作った父のタキシード。このタキシードに込められた思いとは…。豪快だと言われた父だが「本当は繊細だった…」と語る義隆さん。母の方が大胆で父を支えていたという。孫である、義隆さんの子ども達を可愛がっていた丹波さんの家庭での秘蔵映像を初公開!今日は、懐かしい映像や貴重なプライベート映像と共に、昭和の大スター丹波哲郎さんの思い出を語る。
◇おしらせ
☆『徹子の部屋』番組HP
 http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/

ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
福祉 – 文字(字幕)

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  16. ジャスト
  17. タキシード
  18. ビット
  19. 英語
  20. 結婚

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

「リラックスに
話さなくちゃいけないよな」

「第一 古い古い仲間なんだもの」
(黒柳)「一瞬ごめんなさい」

「『徹子の部屋』でございまして」

「ちょっと ひと言 言わせて…。
もう それで結構です」

ハハハハ…。

私がNHKに入った頃からの
古いお付き合い。

大好きだった丹波哲郎さん。

7月17日は 丹波さんの
生誕100年を迎えました。

今日は 息子さんで俳優の
義隆さんと共に

懐かしい映像や秘蔵映像を交えて

丹波さんのすてきな思い出を
語り合いたいと思います。

よくいらしてくださいました。
よろしくお願い致します。

もう あれだけでも笑える…

面白い方でしたね。
いやー…

まだ生きているみたいですね。
本当ですね。 本当ですね。

ねえ 今のビデオを見ると。
本当。

でも 2006年に… 84歳だった…
お若かったんですね。

今 生きていらしたら
100歳だったのね。

はい。 今年 100歳ですね
あの親父が。

でも 100歳になりたがって
いらっしゃいませんでした?

いや もう 100歳どころか
1000歳ぐらいまで

生きるような勢いでしたからね
父は。 はい。

今日 お召しになっている
タキシードは

お父様の
タキシードなんですって?

そうなんです。 これ…
それも まだ 役者になりたてで

売れてない頃 母が洋裁で

父を…
ご飯を 食べさせてたんですよ。

その時に 母が

自宅の近くのテーラーさんが
すごく腕がいいから

一度 そこで うちの旦那に
作らそうというんで…

もう だから 70年前…。
ええー。

そのままなんですよ。
で 売れてない頃だったもので…

実は黒柳さん 見てください。

丹波の「波」が…。

ああー 「羽」に…。
「羽」になっているんですよ。

で それを普通だったら
直すじゃないですか。

要するに 分割で買って…
お金のない時ですから。

なのに 母は これはこれでいいと。
売れていない時の思い出だと。

「それをバネにして
あんた 頑張んなさい」って言って

親父の尻をたたいたそうです。
あっ そうなの。

どういうお父様でしたか?
お家では。

僕の知っている父は
まず 差別をしない。

もう 誰にでも公平ですね。

それこそ もちろん
仕事場では 監督であろうが

それこそ エキストラの皆さんでも
みんな同じに

監督に 「おはようございます」って
言うんだったら

エキストラさんにも 親父は

「おはようございます」と言う
タイプでしたね。

面白いとこもありました?
いやー もうね

面白い事っていうか…
身内は困るんですよ。

皆さんは
面白いって言うんですけど

身内は もう大変で。

それこそ 親父が右って言ったら
絶対 右ですし。

ああー そうか。
左って言ったら 絶対 左です。

それが まともならいいんですけど
全然…。

車の運転一つですら
違うんですから もう。

もう それこそ 自宅から
東映撮影所まで行く道にしても

親父の言うとおりの道を
行かないと怒るんですよ。

「それ 混んでるよ この時間」
って言っても 駄目なんですよ。

で お前の言った道を行ったら

俺の言った道より
はるかに時間がかかっていると。

俺の言ったとおりだから
まだ この時間に着いたんだ

というような
そういうタイプでしたね。

そこに
桜のお写真があるんですけど。

それは なんでしょうか?

亡くなった母が まず
桜が好きだったっていう事と

それと 父が霊界の前に

宇宙… 星が好きだったんですね。
あっ そうなの。

それで 父と母が…
2人が亡くなったあと

僕は供養を込めて
毎年 桜を追って 写真を撮りに

全国 歩いているんです。
あっ そうなんですか。

それで 今年は偶然に

奈良県の又兵衛っていう
桜なんですけども。

そこで 天の川が偶然…。
本当にね。

撮れたんで。
ええー。

ぜひ 今日は
親父が大好きだった黒柳さんに

プレゼントしたいと思って
持ってきました。

そうですか。
すばらしい写真ですよね。

ありがとうございます。
そうですか。

丹波さんは 『徹子の部屋』に
9回 出てくださったんですけど。

2002年には あなたの…

義隆さんのお話を
していらっしゃいます。

あっ そうですか。
どうぞ ご覧ください。

「奥様 お亡くなりになって
もう4年になります?」

「5年」
「もう5年になります?」

「やっぱり お寂しい?」
「寂しいね」

「やはり 女房殿は
いた方がいいね 絶対に」

「そりゃそうですよね
いい奥様でしたから」

「その話はね 随分伺いましたけど」

「33歳の時から
足が立たないんだからね」

「ご長男 お産みになった時からね」
「そうそう そうそう」

「おみ足 悪く…」
「幼稚園へ行く前から」

「そうです。 だから
お坊ちゃんは 生まれてから

お母様が
歩いていらっしゃるとこは

見た事ないとおっしゃって」
「そうそうそう」

「お母様の昔の水着の写真を見て
びっくりしたって

おっしゃっていましたもんね」
「馬鹿だね あいつは

だけどね
水着を見て驚いたなんてね」

「水着を見て
驚いたんじゃないですよ」

「水着のお母様を見て
こんな時代があったのかと

驚いたんで。 水着を見て 別にね

驚いたわけじゃないと思いますよ」

「お父様に似ていらっしゃるとこ
あると思うんですが」

「似てないよ あいつは」
「水着を見て驚いた… えっ?」

「こっちは水着を見たら
興味を示すんであって

驚く事はないんだから」
「あっ そうか そうか」

「興味を示すのと驚くとは違う…」
「だいぶ違う」

ハハハハ…。
何を… 何を…。

失礼致しました。 ハハハハ…。
いえ。 でも お母様の貞子さんは

あなたが3歳の時に
小児まひを発症なすって。

それから 本当に車椅子生活に
なったんですって?

はい。 だから
僕は記憶がないんですね

母が立っている。

だから 母が立っている
写真を見ると

すごく不思議に感じるんですね。
なるほどね。

だから 周りの方は

お前の身代わりだよ
お母さんは。

要するに 小児まひですから
その頃 子供たちが

よくかかってたみたいなんですね。
そうですね。 そうですね。

「小児まひ」と言いますから。
だから 母がよく言ってました。

まず 親父じゃなくて よかった
この病気が。

で あんたじゃなくて よかった。
私だから よかった。

幸せだっていうような言い方を
していましたね 母は。

すばらしいですね。

でも ご両親が
ご結婚なすったのは

丹波さんが俳優になる前に

サラリーマンの頃
だったんです。

これ そうなの?
そうです。

付き合ってる頃の
写真ですね。

可愛いわね
手なんか つないでね。

ねえ。 ハハハハ…。
へえー。

あらあら。 あらあら。
いやー 息子の僕も

こういうとこは
見た事ないですけどね。

写真で ちゃんと残ってるんで。

俳優だったら
結婚しなかったって

お母様が
おっしゃっていたんですって?

はい。 結婚をした時は まだ
サラリーマンだったんですね。

それで サラリーマンで
毎日毎日 サボってばっかりで

全然 家から出なかった。
で 母がミシンを踏んで

父に
ご飯を食べさせてたんです。

父は何をしてたかっていうと
その横で

『オール讀物』っていう分厚い…
あるじゃないですか。

あれを声出して…
ラジオも買えなかったんで。

要するにBGM代わりに
父が ずっと母のために それを…。

読んであげた。
読んだって。 それで あの声が

出来上がったっていううわさが
あるんですけど。

いい声に?
いい声に。

でも 丹波さんが
俳優になったきっかけは

なんだったんですか?
そこで 母が

「あんた このままじゃ
どうしようもない」と。

「本当は 何やりたいの?」って。

「俳優になりたい」って
言いだしたんですよ。

「やる以上は あなた

日本を代表する俳優に
なりなさい」っていうんで

このタキシードに
つながっていくわけですけどね。

話 違うんですけど

その写真は あなたを
抱いていらっしゃるの? それ。

ハハハハ…。 そうです。
これ 僕です。

それは どこで撮った写真…。

これはですね 多分なんですけど

母方の実家だと思います。
ええー。

この頃は全然 生活できないんで。
そうそう。 仕事もない。

仕事もなく 母方の方に…
おんぶに抱っこで。

母のお兄さんにカメラを借りて

そのカメラを質屋に持っていって
売っちゃってとかって。

それで ご飯を食べてたっていう

そういう生活を
していたみたいですから。

でも あれですよね。
あなたの事を

こうやって
抱いたりなんかなすってね

優しい方だったんですよね。
子供は大好きなんですよ。

子供が好きなの。
はい。

子供はね 好きですね。
でも お父様は繊細な方で

家では
孫が食べるイチゴの毛を…。

イチゴに…
あの赤いイチゴの間に

ちょっと小さい毛みたいなもの
生えていますね。

あれまで取れと。
そうなんです。

あの産毛みたい…
ヘタじゃないんですね。

産毛みたいなのを取れと。
あれが のどによくない…。

フフフフ…。

肝っ玉しょうちゃんって
呼ばれていたんですって?

それは身内だけの話ですけども。

本名 正三郎って 父がいうので。
それで その当時

『肝っ玉かあさん』っていう
ドラマがあったんで

それにもじって
肝っ玉しょうちゃん

っていうふうに
身内では呼んでいました。

皆さんが ご想像している
丹波哲郎の あの大胆さは

うちの母です。
あっ そうなの。

母の方が大胆です 全てが。
ええー。

父は母を演じていたと
思うんです。

フフフフ…。
お母様を演じていた。

はい。 そのくらい
母は大胆な人でしたね。

だって お父様が映画を作る
っておっしゃった時に

お母様が…。
はい。 そうなんです。

だから 「何億かかる」って言ったら
「いいでしょう」と。

「あんたが稼いだ金だから
それを なくすのはいいでしょう」。

「ただ借金はしないでほしい」と。

「それはギル…」。 僕 ギルって
呼ばれていたんですね。

「ギルに迷惑をかけるから」。

「ゼロだったらば どうぞ
ご自由に使いなさい」って

言ったのが母でしたね。 はい。

で お作りになったんですか?
その映画。

作りました。 はい。

あの霊界のやつ?
そうです。

ハハハハ…!
いや 笑わないでください。

ハハハハ…!
そうか。

でも 1本目は お客様のご厚意で
当たったんですね。

当たったんですね。
はい。 2本目から ちょっと…。

フフフフ…。
そうでしたか。

でも 丹波哲郎さんのイメージを
一番大切にしていらしたのが

お母様だったって。
そうですね。

やっぱり 公の人になりましたから
車椅子を押していたり

そういう所帯じみた事を
見せてはいけないというんで

絶対に日本では
押させませんでしたね。

お母様はハワイに行った時だけ

お父様に 車椅子を押すのを
許したっていう。

そうですね。

許したというよりも 親父が
強引に押していましたね。

あっ そう。
逆に。 それは親父の方から

「俺が押す 俺が押す」って言って
押していましたね。

そのVTRがあるそうなんで
ちょっと 見せて頂きます。

ハワイですね。
もう 昔ですけどね。

これが そうですか。
はい。

あっ 本当。 でも 随分 そろそろ

優しそうに
押していらっしゃいますよね。

慣れてないんですよね 押し方が。
本当 本当。

へえー。

でも あれですね。

「死ぬ事は怖くない」って
おっしゃっていた

お父様なんですけども
お母様が亡くなった時…。

もう 本当 嗚咽して

で 隣に僕とか 家内とか
孫たちが立ってたんですけども。

「これからは こいつらと共に
生きていく」っていう言葉を

僕らは待っていたんですけども
「もう こいつらでは

俺の ぽっかり開いた穴は
埋められない」って

きっぱり言われましたね。
本当に。

その時に なんていう事を言うの?
と思ったんですけども

今になって 父に… だんだん
その年に近くなっていくと

自分も今 家内がそうなったら

きっと そういうふうに
言うんじゃないかなって。

あっ そう。
はい。 思うようになりました。

でも その時は あれだったけど

そのあと
そのお父様の言葉を考えると

お父様を とっても好きに
思えたんですって?

そうなんですね。

それまでは 強い親父
っていう感じだったんですね

弱みを見せないし。
それが唯一 隙を見せてくれた。

っていう事は
信用してくれている

っていう事に
つながるじゃないですか。

戦後 GHQの通訳を務めた
丹波哲郎さん。

英語がしゃべれる日本人俳優。
『007』にも お出になった…。

数々の外国映画でも
活躍なすったんです。

でも なんか 本当は

英語は そんなに
しゃべれたわけではないって。

それ 本当なんですか?
それ 大きく言っていました。

隠していませんでした 親父は。
「俺はしゃべれなかった」って

大きな声で言っていました。
あっ そう。

VTRがあるそうで
ちょっと聞いてください。

「だから 外務省の方では
僕が当然 できると思うから

僕を呼んだんだね」

「僕が のこのこと
外務省へ行ったわけだ」

「で “どのぐらいできるんだ?”と
言うから

“ジャスト ア リトル ビット”」
「ちょっとっていうのを…」

「ジャスト ア リトル…」
「ジャスト ア リトル ビット」

「第一 アメリカ人ですから

リトルが… 英語だったら
リトルっていうところが

アメリカ人は…」
「言えない なかなか」

「リトル リトル」
「これじゃあ もう 通訳に…」

「“ジャスト ア リトル ビット”だけで
通訳になったんですか?」

「“ジャスト ア リトル ビット”って。
ハハハハ…」

「それで通訳という
肩書があったために

国際俳優っていうのも…」
「その当時はね

英語をしゃべる俳優っていうの
いなかったから」

ハハハハ…。
リトル ビット…。

もう すごい役者ですね。

通訳の頃は逃げ回っていらした
っていう話でしたからね

相当 面白かったですよね。

でも よく…
そのあとですけどもね。

車の中では 常に英語のテープを

聞いていましたよ。
あっ そうなんですか。

はい。 努力してました それは。
あっ そう。

お父様と共演なすった事は
おありですか?

あります。
どうでした?

いや えらい騒ぎでした。
どうしたの?

父のセリフまで
覚えないといけないと思いまして。

特に 舞台をやったんです

南座で 京都の。
うわー。

あそこは
特に堅いところじゃないですか。

そうです そうです。
そこなのに

2人の場があったんですよ。

すると 親父がニヤッて
僕に笑いかけられた時は

セリフを忘れた時なんです。
フフフフ…。 嫌な人ね。

そうすると 僕は それを聞いて

「こうこうこう
言いたいんであろう」

っていうふうに
言い返すわけですよ。

フフフフ…。
で それが ある日 突然

僕が忘れたんですよ。
フフフフ…。

ニヤッて笑い返してやったんです
親父に。

そうしたら 親父が
ニヤッて また笑い返すんですよ。

しばらく2人で
ニヤニヤ ニヤニヤしていて。

しまいには 親父が あの南座で
「息子です」って言ったんです。

フフフフ…。 本当。
それも 時代劇ですよ

『河内山宗俊』という…。
「息子です」だって?

「息子です」。
フフフフ…。

そうしたら 救いの役者が
入ってきたんです。

そこにいては
いけないような役者が。

助けに?
助けに。

でも お父様が本気でやった作品が
3つあって。

それが 確か『砂の器』と…。

『二百三高地』。
『二百三高地』と。

それから…。
『人間革命』ですね。

『人間革命』。

これは やっぱり 家に台本が…
あちこちに移動していましたから。

移動したっていう事は
親父が読んでいたっていう

証拠じゃないですか。
そうですってね。

その当時は 封筒に
入ってくるじゃないですか。

封筒から出ないですから
大体 台本が。

すごいな。
それが その 今言った3作品は

もちろん 封筒から出て

居間にあったり 寝室にあったり

移動していたっていう事は
ちゃんとやっていたっていう

証拠ですから。
なるほどね。

セリフを覚えないので
有名だったもんね。

諸先輩方は
「お前の親父は こう言ってたぞ」。

「“仕事を
家に持ち込まないタイプだ”

っていうふうに言ってた」。

「かっこいいよな お前の親父」
っていうふうに言われましたね。

要するに
台本を家に持って帰らない

っていう事は セリフを覚えない
っていう事ですもんね。

でも 義隆さんは
1988年にご結婚をなさいまして

一男二女
3人のお子さんがいらっしゃる。

おじいちゃんとしての
丹波哲郎さんの素顔を知る

貴重なVTRを初公開…
あるんだそうで

ちょっと 皆様に見て頂きます。

(女性)「グッパ
宣言してください」

「はい。 今日から…
5月の…

違う違う。
6月の5日で禁煙を致しました」

「今日からだから
今日は吸いますけど

明日からですね。
ええー 禁煙でございます」

「アハハー」

「はい。 誓いのキスをしますから。
うーん!」

「このー!」

あらー。

「キャー」

「やだー。 痛い痛い 痛い痛い…」

「痛え」

本当に子供たち おじいちゃまの事
好きだったのね。

そうなんです。
「親父の事をぶてるのは

うちの子供たちしかいないね」
っていうんで。

よく子供たちから
「ちょっと言っておいで」

「こういうふうに言って
グッパに」。 グッパって

呼ばれていたんですね 親父はね。
グッパって。

だから そういうふうに
「言ってきて」

っていうふうに言った方が 親父は
言う事を聞いてくれたんです。

だから 多分ね
禁煙も そうだと思うんです。

そうですってね。 禁煙は
どうなったんですか? 結局。

大体ですね 「タバコはやめるけど
シガーはする」って言って

葉巻から入るんですよ
数週間すると。

葉巻は特に臭いじゃないですか。
においが。

においがあるんで。
そうすると 子供たちが

「グッパ 嫌だ」って言うと
「しゃあないな」

「お前たちのために
じゃあ タバコにするわ」と。

また戻って 結局。
その繰り返しでしたね。

なるほど。
もう おかげさまで

上が33になりまして。

もう そんなに大きいの。
はい。

それが実は
この間 結婚したんです。

あっ そうですか。
おめでとうございます。

ありがとうございます。

ただ
このコロナ時期だったもので…。

だから 式も挙げず…。

で 今
熊本に住んでいるんですよね。

あっ そうなんですか。
で つい この間 来ましてね

「結婚式っていうのは女性のために
あるようなものだから

写真だけでも撮ったか?」
って言ったら

「撮ってない」って言うから
「よし」って言って

実は このタキシードを
息子に着せて…。

家内が僕に嫁いだ時の
まだ花嫁衣装が残っていたもので

それを…。
お嫁さんに。

お嫁さんに着せて。 で 写真を…。

あっ これ そうですか?
そうです。 これです。

あら いい…
随分 このタキシードは

使い回しにしても…。
いや 使い回しじゃ…。

これは丹波家のものですから。
丹波家の…。

ハハハハ…。
丹波家のものだ。

丹波家の鎧みたいなものですから。
そうですよね。

でも 随分すてきな ねえ
お衣装も。

でもね お嫁さんも
本当にお奇麗な方で。

すてきな… 随分すてきな
ウェディングドレスだったんですね。

手には… 父は やはり 女性の方が
好きだろうというので

彼女に持ってもらって。
なるほど。

で 母のは息子に持ってもらって。
なるほど。

これが彼らの結婚記念ですね。

本当に そうですよね。

まあ 私と丹波さんは
テレビが始まる前から

NHKで
ご一緒の時から仲が良かったので。

『徹子の部屋』で
とても楽しい会話を致しました。

ちょっと VTRを
見て頂ければと思います。

「日光で
すでにね 目をつけとってね

なんとか ものにならないかと
思ったんだけどさ」

「本当? ウソでしょ」
「あんまり 子供子供してたんでさ」

「本当に?」

「どうしようもなかったね
さすがの私も」

「どうして あの人は
遅刻しても叱られないで

私は叱られる…」
「俺に対する嫌みだな」

「違いますよ 私がそうだったから。
嫌みなんて…」

「だから 私は嫌みなんて
言う人間じゃないです」

「わかった わかった」
「私がそうだったから…」

「僕はね その道では第一人者」

「知ってる。
霊界のなんとかっていうのでしょ」

「霊界のね 宣伝使」
「そうなの」

「『僕は霊界の宣伝使』っていう
レコードがあるぐらいだから」

「レコードもあるんですか?」
「レコードも…。 聴かせようか?」

「いらない?」
「歌ってみて。 どういうの?」

「今は ここで歌えないけど
レコードあるよ」

「あっ 本当?」
「おい。 ちょっと聴かせてやれよ」

「いらないよ」
「無理矢理にでも聴かせてやるよ」

「いらない。 コマーシャルです」

ハハハハ…。

丹波さんの最後の出演
亡くなる2年前ですね

2004年でしたから。

でも 全然 お元気でした。
こんなお話をなさっていました。

「『Gメン』
おやりになりましたよね」

「あれは 長くおやりになったのは
なんなんですか?」

「あれは7年間…」
「あれは7年ぐらいやっていたね」

「なんで そんな長く あれ
おやりになったんですか?」

「出番が少ないから。
出番が少ないから」

「出番 少ないから? へえー」

「“では 行ってこい”とか
“ご苦労”とかっていう事で

済んじゃう…」
「それで終わっちゃうの?」

「労を少なくして益多し
というような事も

なさったというような…」
「いやいやいや…」

「まあ そういうような事も
あるのかもしれないけれども

我ながら傑作だと思うものも

たくさんありますよ。
なんていったって…

ええー 1000本ぐらい撮ったと
思っているんだよね 映画をね」

「1000本?」
「うん」

「すごい…。 1000本 撮った人って
いないんじゃないですか?」

「世界にだって」
「実際には そうじゃなかった」

「1000本じゃなくて
実際に克明に調べたら 500本」

「(一同 笑い)」

フフフフ…。
どうなっているんですか?

相変わらず いい加減な…。
ハハハハ…。

いやー
まだ 本当 信じられませんね。

本当ね。 でも 最後にお父様に
ひと言 おっしゃるとしたら

どういう事…。
いやー…。

本当に 今の方が
親父なんです 僕にとって。

あっ そう。
はい。

父が元気な頃は やはり 公の人で

父と2人になるっていう事は
まず なかったですね。

あっ そうですか。
はい。

だから 無駄話っていうのを
した事ないんです。

ああ そう。
今日は何食べたい? とか

今日はいい天気だねとか
そういう…。

とんでもないような
全然関係ない話って

した事ないんです。
あっ そうですか。

逆に 今の方が

「親父 今 徹子さんに会ってるよ」
とかって…。

本当にね 今ね 涙が出るぐらい
そう思います。

そうですか。

結局 いい方だったんですよね
そう思うと。

いい親父でしたね。
そうですよね。

第一 あんなに
みんなを楽しませた方って

少ないですものね。

それで 本当に いい映画に出て
いい役をやっていらっしゃった

いい俳優さんだったんですからね。

本当に
いい俳優さんにお会いできて

私も よかったと思いました。
本当ね。

父も
本当に喜んでいると思います。

僕が…
今日 ここに招いて頂いたの。

そうですよね。

お母様もね きっと 今 一緒に
いらっしゃるんでしょうからね。

本当に 今日
このタキシード着てきて

父も母も
一緒に ここに来てると…。

そうですよね。
本当に丹波さん 写真見ると

なんか
涙が出そうな気がしますが。

でも 色んな人間がいる
っていう事を

教えてくださいましたよね
丹波さんはね。

そうですね。 はい。

本当 いい師匠です 今。

『徹子の部屋』は

Source: https://dnptxt.com/feed/

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