こころの時代~宗教・人生~ 瞑想(めいそう)でたどる仏教~心と身体を観察する6[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

こころの時代~宗教・人生~ 瞑想(めいそう)でたどる仏教~心と身体を観察する6[字]

仏教の原点となった「心身を観察する」瞑想は、心を静める一方で「病」ともいえる負の側面も持っていた。瞑想中に煩悩や辛い記憶に悩まされたときの対処法を仏典からみる。

詳細情報
番組内容
「心の師となるも、心を師とすることなかれ」仏教は、人は自分の心が起こした働きにそれと知らず支配されてしまうことを説いてきた。苦しみから逃れる道としてブッダが見いだした瞑想でも、普段と違う状況が予期せぬ煩悩や幻覚などを引き起こし、悩みが深まることがあるという。シリーズ最終回では、現代を生きる私たちが負の側面も持つ瞑想とどうつきあうのか、仏教学者・蓑輪顕量さん、スポーツ指導者・為末大さんと考える。
出演者
【出演】東京大学大学院教授・僧侶…蓑輪顕量,為末大,【司会】中條誠子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉

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  19. 呼吸
  20. 集中

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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仏教。

その原点は 今から 2, 500年前

ブッダが「苦しみを逃れる道」として
見いだした 「瞑想」にあります。

ブッダの瞑想は
自らの心身を観察することで

苦しみを生み出すのが
己の心だと気づき

そこから離れて 悟りへと至るものです。

仏教が 世界へと伝わる中で

瞑想は 出家者や 一般の人々にも
広く実践されるようになりました。

しかし 瞑想には 意外な落とし穴が
あることも分かってきました。

6世紀の仏典には 「瞑想は 心を
静めるだけではない」と記されています。

煩悩を生じさせたり
逃れられない闇に陥らせたり

瞑想には 負の側面があるというのです。

今や 日常生活にも
取り入れられつつある瞑想。

いわば 副反応をも伴う瞑想と
どう つきあえばよいのか。

仏教の足跡をたどりながら見つめます。

「こころの時代」では
半年にわたって 毎月1回

「瞑想でたどる仏教
心と身体を観察する」と題しまして

仏教瞑想の世界を ご紹介してきました。

いよいよ今日が最終回 蓑輪先生 為末さん
どうぞよろしくお願いいたします。

よろしくお願いいたします。
お願いします。

ところで 私たち
正座をしているんですが。

仏教の原点 瞑想について
伝えてきましたので

今回は まず
今まで学んできた成果としての瞑想を

実践してみたいと思います。

テストですね 今日はね。
テストですね。

瞑想で 心身を観察する
というふうに伝えてきましたが

その方法には 2つがありました。
覚えていらっしゃいますでしょうか。

はい。 「止」ですね。
止まるという

あとは 観るで「観」ですね。

それでは それぞれの観察を
お二人にして頂きたいと思います。

まず 「止」の観察を 中條さんに
お願いしたいんですけれども

「止」は 一つに注意を振り向けて
しっかりと観察することでした。

ですので 座っていますので
呼吸の観察をして頂ければと思います。

為末さんには
「観」の観察をお願いしたいと思います。

「観」の場合には 複数のものを対象にして
観察していきますので まず呼吸と。

今 座っていますので
足が 座布団に触れている感覚

それから ちょっと音がしておりますので
音にも注意を振り向けて

3つのものをですね
観察して頂ければと思います。

観察する時にはですね インド以来

結跏趺坐とか半跏趺坐と
いうんですけれども足を組んで座ります。

足を交差させまして 両方の足を
上に乗せるのがですね

これが 結跏趺坐なんですけども
これは 実は なかなかに大変です。

ですので 片方だけでも。

これが無理でしたら 安座でも結構です。

それで 手はですね 法界定印と言いまして
手のひらを重ねまして

親指と親指を結びつけるような形で
丹田のところに置きます。

それで 目はですね
半分開いているというパターンと

つぶっているというパターンが
あるんですけども

伝統的には
つぶってた方がいいですので

目をつぶってですね
観察をして頂ければと思います。

分かりました。

乗っかりますか?
なかなか こう体が硬いと…。

そうですね 股関節が硬いと大変ですので
無理をしないで…。

それでは 始めたいと思います。

(鈴の音)

♬~

瞑想をしてみて
いかがでしたでしょうか?

まず 足が痛いなってなってきて

それから 自分の位置が どこが正しいとか
目つぶっているので 分からなくて

それを考えているのとか

あとは ちょっと 多分 カメラとか
機械が動く音が聞こえて

機械が動いているのかな?

あれ でも これ こんなこと
考えていいんだっけみたいな

そういう感じっていうんですか それが
ずっと ぐるぐる回ってる感じで

考えないって
難しいなっていうのですね。

私は まあ ほんとに
為末さん おっしゃったように

次から次へと 心が動きまくってるなって
いうのが分かりました。

呼吸って意識してると 私の場合は
とっても浅くなってしまって

空気が足りないって 息苦しくなったり
じゃあ 深く呼吸をしたいんだけど

どうやって 深くやっていいんだっけって
いうふうに思ったり。

瞑想を始めますと
誰もが 体験するところをですね

お二方とも 今 体験してらっしゃったん
ではないかと思います。

実際に それをやってみようとすると
なかなかに 最初は難しいと。

仏教の言葉の中に…

…というのが 出てまいります。
私たちは 自分が思っている以上に

心が起こした働きに支配されていることを
表現した言葉で

もともとは ブッダのお説きになられた

「ダンマパダ」の中に出てくる言葉が
もとではないかと思います。

瞑想の場合もですね
心が穏やかになってくるだけではなく

実際には…

先ほどの為末さんが いろいろと
いろんなことを考えてしまったとか

中條さんも同じように いろんなことを
考えてしまったというふうに

言っていますけれども それを含めて…

実際に 私たちの心の中に生じてくる
マイナスな反応には

どのようなものがあったのか。
そのマイナスの反応に対して

どのように対処したらよいのかというのも
仏典の中に伝えられていますので

それを見ていきたいと思います。

瞑想で生じるマイナスの反応について
詳しく記したのが

6世紀 中国で成立した「摩訶止観」です。

天台宗の開祖
智の言葉をまとめたもので

人の心の奥底が 瞑想によって あらわに
なることを こう言い表しています。

「摩訶止観」の中には…

…というふうに
例えてるところがあります。

実際に 仏教の瞑想をしますと

その川の流れの中に
何か 棒きれをさし込むようなもので

ふだんと異なることを
することになるんだと。

それによって 流れの中に棒きれを
さし込みますと水が盛り上がりますので

その水の盛り上がりみたいなものが

私たちの心に起きてくる
さまざまな反応だというふうに

例えているんだと考えられます。
なるほど…。

そうすると 棒を わざわざ ささない方が
いいんじゃないかと思ってしまいますが。

そうしますと 実は ふだんの心の流れに
任せていますので

ある意味で 煩悩に
身を任せた生活になっていきますから

悩みや苦しみは尽きないと。
その悩みや苦しみを解決するためには

心の観察をするっていうのが
大事になってくるんですけども

その時には
副反応みたいなものも起きると。

それが 恐らく
マイナスの心の働きとして

しっかりと
認識されているということだと思います。

そこから初めて 解決の道筋が
見えてくるということなんだと思います。

マイナスの発想とかって
すごい大きく くくっちゃうと

「戯論」って思っていいんですかね
戯論が まあ湧いてくるような。

そうですね。

私たちの心の持っている働き
お釈迦さんの言葉を借りれば

「第2の矢」と表現されたものだと
思うんですけども

現在の言葉ですと 「心の拡張性」などと
いうふうにも表現されます。

大乗仏教の中では 「戯論」という
言い方をするんですけども

私たちは
外界のさまざまな刺激をとらえたあと

自動的に 私たちの心は動き出して

次から次へと いろんな思いがですね
生じてきてしまいます。

その思いが 悪い方向にいきますと
まさに マイナスの反応でもあり

私たちを苦しめる悩みや苦しみに
なったりするんだと思います。

私たちの心って
いろいろな働きを起こすのが

仕事みたいなところがありますので

行きすぎた反応というのが
起きるんだと思うんですけども

実際には 起きてもよくって ただそれに
支配されないというところが

大事なんだと思うんです。
それが 今日 今回のテーマになります…

…に つながっていくんだと思います。

その練習って感じなんですかね。

では 実際 この瞑想中に起こる
マイナス反応 どんなものがあるのか

それを まとめたものが
こちらなんですが…。

「摩訶止観」に記された 瞑想中に生じる
代表的なマイナスの反応です。

「煩悩」は
欲望や妄執に 心身を煩わされること。

「思覚」は 瞑想中に あれこれと
考えが浮かび 止まらなくなる状態。

「業相境」は 過去の体験などが
ふいに思い出され 心が とらわれること。

そして「魔事境」では
幻覚のようなものが現れ

瞑想の邪魔をするといいます。

「摩訶止観」には
こうした症状に悩まされた時

どう対処すればよいかが
具体的に述べられています。

では その一番上の「煩悩」の対処法から
教えて頂きたいんですが

こちらになります。
これは 「治法」ですか?

煩悩というのは 私たちを悩ませる
一番身近なものとして

存在してると
捉えられていたんだと思います。

普通 私たちが生活している時にも

例えば 貪りとかですね
何かに対する怒りの気持ちとか

愚かさというのが
あると思うんですけども…

実際に そのようなものが出てきた時に

どのように対峙したらよいかというのを
述べているのが その「治法」です。

面白いのがですね…

独特の考え方だと思うんですけれども…

智は 瞑想中に生じる煩悩は

人が もともと持っている気質によって
決まり

そこから
対処法を導き出せると考えました。

「摩訶止観」では 人々の気質を

煩悩の代表的な3つの要素を用いて
分類しています。

1つ目は 「貪欲」タイプ。

食欲や色欲など
「むさぼりの気持ち」が強い人です。

瞑想中には 例えば

つい好きな人のことを思い
悶々としたりします。

2つ目は 「瞋恚」タイプ。

怒りの気持ちが強い人です。

瞑想をしていると 他人の横柄な態度など
腹立たしい事柄が浮かび

イライラしてしまいます。

3つ目は 愚痴タイプ。

愚かさが強く 見聞きしたことや
物事の道理を理解できない人です。

瞑想中も 頭の中で右往左往しています。

そして もう一つ 今 挙げた3つの要素を
どれも等しく持っている人です。

「摩訶止観」では
「等分」というタイプに分類されました。

先生 この貪欲とか
愚痴とか瞋恚というのは

ふだんの性格っていうか
日常の反応の癖みたいな分類ですよね。

そういうことですか?

ところで お二人は このタイプの中の
どれに相当すると お考えになりますか?

何だろうな? まあ でも
「貪欲」は強いと思うんですよ。

そんなんでもないと あんな長いこと
走らないと思うんですよね。

じゃあ オリンピアンは結構…。
もうみんな強いと思うんですよ。

あと瞋恚も まあ
ちょっと強いかもしれないですね。

貪欲と瞋恚の間ぐらいかな。
ああ この辺りですか?

じゃあ ちょっと マークさせて
頂きましたけれども どうですか?

どうですか? 中條さん。
自己申告 嫌ですね。

そうですね。
私はですね 子育て中なので…。

やっぱり 子供の心配なんですよね。
だから やっぱりこう

やらなきゃいけないことを やらずに
なまけてたりすると

大丈夫かって思うので こちらですね。
なるほど。

さあ 蓑輪先生です。
私のも あるんですか?

私はですね そうですね

若い頃は 意外に
貪欲だったかもしれませんが

最近は どれも等しく存在してるっていう
ような感じかなというふうに思います。

少しずつっていうことで

だいぶ 落ち着かれてきたっていう
感じなんでしょうか。

齢を重ねたせいか 少し変わって
きたのかなという気もいたします。

なるほど。

じゃあ まずは 僕のから聞きたいな。
貪欲が強い人は。

貪欲の強い人に対しては 「不浄観」を
修するのがよいと出てまいります。

こちら 不浄観 こちらになりますね。
はい そうです。

この不浄観は
インドの文献の中に出てきますのは

かなり激しいタイプのものが
ありまして

人間の身体が腐敗していくさまを
目の前にして

自分自身の身体も 他者の身体も
そのようなものであるというふうに

確認していくような観察が 不浄観です。

それ以外にも 例えば 爪は不浄である
髪の毛は不浄である

皮膚は不浄であるというふうに
確認していくのも 不浄観です。

この不浄観は 私たちの身体に対する
欲求みたいなものを

静めていくと考えられまして

特に 欲求の中でも
異性に対する欲求が強い方たちには

これを 修するのがよいというふうに
出てまいります。

じゃあ お前みたいなやつは
不浄観をやれっていうのが

まずは 貪欲が強い人は。
そうですね ええ。

実際に その…

確認してるような感じがいたします。

不浄観ですね。

じゃあ 爪とか そういうのを見ながら
僕は 瞑想するとしまして

じゃあ 中條さんの「瞋恚」が強い人は
どんなことをするといいんですか?

瞋恚が強い方に対しては

「慈悲観」を修習するのがよい
というふうに出てきます。

慈悲感の修習として出てくるものは
その相手の方に対して その人が

幸せでありますようにというふうに
念願をすること

そこから 始まっていきます。

これは 今 現在の東南アジアで

「慈悲の瞑想」と言われてるものが
存在していまして

一切の生きとし生けるものが
幸せであれの その先にですね

まだ生まれていないものたちも
幸せであれっていうのが出てくるんです。

これは 現在に
生存してる人たちだけではなくて

未来のものたちに対しても

慈しみの気持ちを ちゃんと
抱きなさいということをですね

述べている箇所があります。

瞑想の時には
怒りが湧いてきやすくなる中で

人の幸せを願うっていうとこに
集中するっていうか

そこに注意を向けるっていう
そういう瞑想のしかたってことですか。

ああ そうですね はい。
そんな小さなことで責めないで

もっと大きく 地球の母として…。

受け止めていくというのが
とても大切ですので。

じゃあ「愚痴」ですね。

この愚痴の中身というのは
先ほども 説明いたしましたけれども

真理や道理が分からない
そのような人たちに対しては

道理を きちんと わきまえる

そういう練習をさせなさいというような
感じなんです。

登場してきますのは
「十二因縁」というのが存在しています。

「十二因縁」とは
仏教が説く真理の一つで

私たちが 存在するに至ることわりを

十二の要素の連鎖で示したものです。

愚かさが強い人は
この十二因縁を確認します。

「無明」 つまり存在の根底にある
根源的な無知から

「行」 何かを形づくろうとする
働きが生じる。

その「行」から「識」 物事を
見分けようとする識別作用が生じる。

「無明」から始まり 心身の働きが生じて
人間の生き死にへと つながってゆく。

この道筋を 一つ一つたどることで
心を整えます。

一つ一つ その言葉の意味とか
そういうものに集中しながら。

こういうふうになれば このような結果が
起きるんだよっていうようなですね

因果関係なんかも 一つ一つ
確認していくっていうようなことを

やっているんだと思います。

違いって どこにあるんですかね?

これ あの戯論の言葉の使い方が
広く使いますと

私たちの心が起こした働きは
全部 戯論になってしまいますので…

例えば 先ほどの貪欲にしましても

欲求というような感じで
考えた時にですね

例えば 悟りを自分のものにしたい
というか得たいという

その菩提心という言い方を
するんですけども

その菩提心を持っているということ自体は
否定していないんです。

ですから 欲望にしてもですね どのような
欲望を持つかというところにも

やはり大事な視点があるんだと思います。
なるほど。

最後の「等分」のところに
私の対応法が まだ…。

これもですね 「摩訶止観」の中では

等分の方っていうのは ある意味で
普通の方だと思うんですけれども

「念仏」を修しなさい
ということが出てまいります。

念仏というのは 声に出す唱名も

仏の姿を観相する
観想念仏も ありましたけれども

実際に自分の心の働きを静めて
観察していくのに

よい手段の一つですので
それをやることによって

「等分」の方たちはですね さまざまな
ものに対応することができると

考えていたようです。

マイナス反応の代表格
煩悩への対処法を見ましたが

瞑想中に 心を惑わす病は
まだまだあります。

次に見るのは 「思覚」。

思いに反して
さまざまなことが 頭に浮かぶ状態です。

瞑想中 どんなに
心身に意識を向けようとしても

あの仕事どうしよう
おなかすいたな などと

考えが止まらなくなってしまいます。

そんな時 「摩訶止観」が勧めるのが
「入息出息観」。

文字どおり 呼吸の際の
息の出入りを観察する方法です。

ブッダの時代から伝わる
瞑想の基本ですが

実は 絶え間なく入れ代わる
空気の流れを意識し続けるのは

なかなか手間のかかること。

呼吸のことで 頭をいっぱいにして

あれこれと考える余地をなくすのだと
いいます。

お次は 過去の記憶に悩まされる業相境。

忘れたい出来事から
懐かしい思い出まで

ふだんは 意識しなくても
記憶の底に蓄積されてきたものが

ふいに現れ 心をとらえます。

業相境への対処法として
紹介されているのが

「十乗観法」と呼ばれる 十の瞑想方法です。

例えば つらい記憶が湧き上がったら

まずは 「観不思議境」で 人の心は
ざわめくのが当たり前だと受け止めます。

そこから段階を進め 「破法遍」では

言葉という仮のもので 過去を評価しても
意味がないことを了解します。

最後の「無法愛」では そうして到達した
境地でさえも 手放すのだと確認します。

過去に とらわれてしまう心を
受け入れたうえで

そこに執着しないことで
心の揺らぎを抑えます。

瞑想中に起こるマイナスの反応
最後は 「魔事境」。

幻覚のようなものが現れるのだとか。

この幻覚は
誰でも見えるものなんですか?

これは 修行の途中で見る人もいる
というように出てまいります。

まあ 煩悩境や業相境に比べますと

魔事境を起こす人は
それほど多くはないと思いますが

起こすと大変でして その人の心を壊す
というようなことが書かれています。

誰でも起こり得る。
ええ。 誰でも起こり得るんですけども

誰もが起こすというわけではないんだと
思いますね。

実際に 一人いらっしゃいました。

この方は 小さい頃から
瞑想をされていた方なんですけども

ある時から 蛇が現れるようになったって
いうふうに言ってらっしゃいました。

やがて
自分で観察をしてる時以外もですね

自分の体に 蛇が
まとわりついている というふうに

感じられるようなったっていうことを
言ってまして

確かに これは 魔事境と言われている
そのものだなというふうに

思ったことがあります。

魔事境の中でも 特に やっかいなのが

突然やって来て 瞑想の邪魔をする
「天魔」と呼ばれる鬼たちです。

例えば 鬼は

ふだんは目に見えない
小さな妖怪。

体にまとわりついて
悪さをします。

時媚鬼は 十二支の動物の姿で現れ
気を引こうとします。

蓑輪さんが相談を受けた 蛇の幻も
この時媚鬼かもしれません。

そして 最も恐ろしい魔羅鬼。

姿は定かではなく

取りつかれると
命を落とすこともあるといいます。

これは あの…

鬼というのは 昔 夜叉であった
というふうに出てくるんです。

ですから 「お前を知っているぞ」
「お前は夜叉であった」というふうに

きちんと把握してあげれば いなくなる

消えていくというふうにいっています。

それから 時媚鬼。

これは 十二支に関係する動物が
全部で 36種類あるんですけども

どのタイプのものなのかというのを
しっかりと把握してあげれば

いなくなるというふうに
言っています。

一番やっかいなのが 魔羅鬼。

それに対しては まず 叱りつけなさい
という言葉が出てきます。

「何で こんなとこに出てくるんだ」
みたいな感じで叱りなさいと。

で それでも駄目な時には

つま先から 頭の上まで
しっかりと観察しなさいと。

それでも駄目な時には 強い心で
拒みなさいというふうに出てきます。

これらに共通する 何か
ものっていうのは あるんでしょうか。

それは…

これは よく考えてみますと

ブッダが述べた
念処そのものなのではないかと思います。

示唆的ですね でもね。

勝手に自分の頭が
生み出しちゃってることって

あるじゃないですか。
はい。 ええ ええ。

道 歩いてて
向こうの人が笑顔になってるのを見て

自分が笑われたって思うのは
自分が作り出してる幻なんだけど

ほんとは その人
ただ笑ってるだけかもしれないという。

それを よく観察してみたら
ほんとは ただ笑ってただけなんだけど

つい 幻覚にとらわれると
ああ 自分が笑われてる

何か 自分が おかしいんじゃないかって
なっていくっていうのを

ちゃんと観察してという。

本当には傷つく必要がないもので
こう 心が病んだり 弱くなったり

疲れたりしてるっていうことを。
そうですね。

自分の頭が作った物語で
傷ついてるってことですね。

その 物語の一番根元に行って
現実を しっかり観察して

把握しましょうという話なんじゃないかな
というのは すごく。

ええ。
恐らく そのとおりなんだと思います。

しっかりと見つめなさいっていうのは

いろいろな問題というのは 多分
私たちの心が作り出しているんですよね。

私たちが そういうふうに 誤って見ていた
世界なんだよというのを

きちんと確認していきなさいと。

それを 強い心で
ちゃんと見ていきなさいっていうことを

言おうとしてるんだと思います。

「摩訶止観」で智は

瞑想を妨げる状況ごとに
対応策を 一つ一つ解説しました。

それとともに どんな瞑想の病にも効く
いわば 万能薬も紹介しています。

この智さんは 中国で
大乗仏教を広めた方でしたよね。

はい そうです。

智さんは 大乗仏教の中でも

一番最初期に登場してきます
「般若経典」

それに対する注釈書であります
「大智度論」…

実は 大乗仏教の理念に基づきます

万能薬のような対処方法を
紹介しています。

それが 「第一義悉檀」という名前で
呼ばれるものです。

まあ ひと言で言えば…

出たっていう感じなんですけれど。

え~? これで全部解決ですか? これ。
はい。

そんな便利なのがあったなんて。
ええ。

実は まあ 大乗仏教の考え方の
一番大切なところは…

それを 「空」という言葉で表現いたします。

私たちが悩んでいる世界も
本来は 実体がなく

私たちの心が作り上げた世界なんだという
了解がありますので

その了解に基づきまして
そのように受け止めることで

瞑想を まあ阻害するマイナスの要因を
越えていこうとしたんだと思います。

つまり…

…ということを
表現してるんだと思います。

この究極の対処法ですね。
いや~…。

全部 空だって言われたら ああ そうか

いろんなもの 考えてたものが
これも幻だと思って 楽になるんだけど

分かっちゃいるけど

でも 湧き上がってくる これ
どうしたらいいんだ みたいな感じは…。

あ そうですね。
それが おっしゃってる…

だと思いますね。

恐らく 大乗の世界の まあ
一つの特徴なんだと思うんですけれども…

そういう了解を まず パンと出して

そこのところを踏まえたうえで 実際に
具体的にやっていきましょうっていう

道筋をとったんだと思います。

これ あの 一切は空である。
はい。

「善悪も空である」っていうふうにも
捉えられる気がするんです。

その時に 既存の善悪から離れた人に
これが新しい善悪だよって

頭の中に入れちゃうことも
できるんじゃないかと思うんです。

要するに マインドコントロールが
しやすい状態に

瞑想って おけるんじゃないかと
思うんですけど。

この 瞑想っていうものが

非常に 苦しみから解き放たれる力を
持っていると同時に

それは
社会の規範からも解き放っちゃうんで

新しい規範を
カポッと はめちゃうみたいなのが

できちゃうんじゃないかと
思うんですけど

こういうものって 瞑想を扱う時に

この辺りの危険性って 仏教は
どんなふうに答えてきてるんですか?

善も悪も 確かに私たちの心が作り出した
判断であるっていうところは

認めるんですけれども でも…

ああ じゃあ そうすると
やっぱり その そういう…

ええ そうですね。 ですから…

それで 別に世の中なんかどうでもいいよ
ってならない。 ならないですね。

そこのところが やっぱり お釈迦さんの
見たところの 一番重要なところで

実際に そういう世界に到達した人が
どうあるべきだっていうのを

きちんと説いてきてるんです。

そこで説かれているのが
他者性で 慈悲なんですよね。

♬~

為末さんにとってのですね
「体験知」の きっかけみたいなものは

どういうものが ありましたでしょうか。

ああ あの うん…。

その 僕らの世界で もう子どもの時から
言われるんですけど コーチが。

「いいか 自分 できないこと

コントロールできないことを
やるんじゃない。

自分で 今日
今できることに集中するんだ。

それが 試合でも大事だし
練習でも大事なんだ」って

ずっと言われるんですね。

それはそうですねと思って
やってたんですけど

北京オリンピックの予選の時に
けがをしてたことがあって

それで すごい
自分が 追い込まれてたんですけど

それで 毎日グラウンドに行ってて
何で 俺ばっかりが けがしちゃって

もう オリンピック これで行けなかったら
最後のオリンピックなのにとか

そういうのを
ずっと思ってたんですけど

その ある日 ほんとに
グラウンドにいて ある瞬間に

「あ 今やること やるしかないじゃないか」
って思ったことがあって。

それは 何ていうんでしょうね

何か 考えるってこととは
別の飛躍があるんです 何かね。

腹に落ちたって感じの。

考えるのは 積み重ねなんですけど
腹に落ちるのは 一瞬なんですよね。

何か 雷に打たれたように ああ
そういうことだったんだっていうのが

あの小学校の時の言葉から
ダーッと全部 腑に落ちるっていう。

だから それが
すごく 私にとっては大きくて。

何か 量の質転化みたいな
感じなんじゃないかと思うんですね。

その 水が… 何ていうんでしょうね

水が ず~っと温度が上がっていって
ずっと水なんだけど

でも 実は
中で こう あったまっていってて

ある日 瞬間に
それが水蒸気になる みたいな感じに

自分の中で いろいろ まあ挑戦なのか
競技をずっと続けてきて

自分は変わってないけど 何か
内側で 何かが蓄積されていって

それが その瞬間に
ああ そういうことかって

腑に落ちたんじゃないかなって
気がしていて。

それを まあ僕らの世界は 何か

「伸びない時には 地面に根を生やせ」とか
言ったりするんですけど

でも 要するに
何かを蓄積していった時に

ある日 質的な転化が
やって来るかもしれない みたいな

何か そんな感じなのかなと
思うんですけどね。

仏教の瞑想は 今 形を変えながら

私たちの生活にも
生かされようとしています。

ここは 臨床心理学の研究室。

瞑想の効果をひもとく実験が
行われています。

皆さんも 嫌なことや不安なことを
思い浮かべて下さい。

思い浮かべたまま…。

画面に 片仮名の「ン」と「ソ」が
1つずつ表示されますので

「ソ」が出てきた時にだけ
手をたたいて下さい。

それでは いきますよ!

はい そこまで!

さて 嫌な気分は どうなりました?

私たちの気分というのが
注意というものに

すごく影響されている
ということを示したかったんですね。

臨床心理学では…

ストレスにつながる心の動きを

呼吸など 今 この瞬間の体験に
意識を向けることで減らそうとするのが

マインドフルネス瞑想です。

この研究室では
マインドフルネス瞑想の有効性や

適切な指導方法を調査しています。

4年前から取り組むのが

瞑想中に生じる副反応についての
研究です。

報告からは 瞑想を妨げる具体的な状況が
見えてきました。

(阿部)例えば 家族が近くにいると
気が散るし リラックスできないとか

集中しようとしたけれども

うまくいかなかった分
イライラしたとか

まあ 最初は やっぱり
その瞑想のイメージとか

こういうふうにするべきみたいなことが

おのおのの参加者の皆さんに
あるみたいで

まあ 集中できないといけないとか

無にならないといけないとかという
イメージに従って

自分が できてないとか
集中できないとか

あとは まあ
瞑想 うまくいってない感じがするとか

そういうコメントが多かったりして。

大切なのは
思いが乱れるのは当然と知り

そこに執着しないことです。

そういう効果を より抑制するには

どういう方法があるのか
ということが明らかになって 初めて

その技法を より適切に 安全に
効果的に使えるようになる

というふうに考えますので
まあ 副作用 副反応に関する研究は

効果研究と同様に重要である
というふうに考えます。

やっぱり 瞑想と聞くと 日本ではね
オウム真理教の事件などもあって

多くの人が 危ないものであるとか

まあ 危険なものだという感覚を
お持ちだと思いますし

一体 何か分からない

また 効果も気のせい
眉唾なんじゃないかって

そういうふうに お思いの方も
多いかなと思います。

それをこう 科学的に その効果を実証して
どういう効果があるのかとか

同時に どういうリスクがあるのか
ということが分かっていくと

選択肢の一つ 日常のストレスと
うまくつきあうための技法として

何を用いるかということの選択肢の一つに
なっていけるかなというふうに

思っているんですね。

脳科学の分野では
瞑想中に 脳で何が起きているのか

メカニズムの解明が進んでいます。

こちらの研究室では

血流から 脳の動きを可視化する
特殊なMRIで

瞑想中の脳の様子を調べています。

瞑想中 顕著な変化を見せたのが
図の青い部分。

考え事など
自らの内面に意識を向ける時に活動する

デフォルトモードネットワークと
呼ばれる領域です。

私たちは 瞑想経験者の方に協力頂いて

瞑想している時の状態を調べました。

瞑想中 青い領域では

内部の結び付きが強まります。

これを応用することで
脳の活動を刺激できれば

うつ病などの治療に役立つ
可能性があります。

一方で 青い領域と

外からの情報を得る際に働く
赤い領域などとの つながりは

弱まっていました。

こうした状態は 瞑想のマイナス反応に
関わるのではないかといいます。

…というふうに
考えています。

これは まあ 一つの可能性ですけれども

心理学や脳科学の観点から
瞑想を解釈することができれば

人の心というのを
より多面的に捉えることが

できるのではないかというふうに
考えています。

現代 ほんとに
この瞑想への関心というのが

高まっていると思うんですけども…

マインドフルネスの観察のしかたを
定義している言葉があるんですけども

それは その 価値判断を入れずに

ありのままに ただ見ることというふうに
定義してるんです。

そういう意味では
観察の技法という観点から見ますと

仏教が行っている瞑想も
あのマインドフルネス瞑想も

まあ 同じものだと言っていいと思います。

ただ 仏教が見ている世界というのは…

…という言い方をするんです。

それから
自分たちの生活を きちんと律していく

これ 戒律というものが存在していて

いろいろなものと一緒になって
心の観察というのが 存在していました。

確かに 悩み 苦しみを超えていく
というのは大事な点なんですけれども…

それを どういうふうに使うかが
すごい大事ってことですよね。

そうですね。 ええ。

これ アメリカの例なんですけども

軍隊で使われてるところがある
というふうにも ちょっと聞いています。

これは 軍人さんたちは
まあ 戦いに行って

さまざまな危機的な状況を
経験してくるわけですけども

PTSDという まあ 後遺症みたいなものを
起こすことがあると思うんですけども

それを起こさないために
事前に マインドフルネスをやる

というようなことがですね
行われてると聞きました。

戦いの現場に行く前に?
ええ そうですね。

つまり それは その 人をですね
殺めるような現場になっても

後で 心的外傷を起こさないように

訓練しておく
ということのようなんですけども

でも これは よく考えてみると

人間を 殺人兵器に仕立ててるような
感覚のところがありますので

まあ 確かに
PTSDを起こさないようにっていうのは

意図としては分かるんですけれども
一面でいえば

本当に 殺人マシーンを作り上げようと
してるようなところがありますので。

マインドフルネスは その 無色が故に
その 苦しみを救うところもあるし

パフォーマンス向上もあれば
多分 パフォーマンス向上の意味合いに

軍のマインドフルネス利用って
あると思うんですけど

だから そこに おもしをつけてたのが
仏教だったんだけど

その仏教が外れて
マインドフルネスだけになると

人が どうも心を乱れないで 集中できる
技術みたいだってことになると

これは 結構 危険なことになりうる
可能性があるかもしれないですね。

あ そうですね。 これは ある先生が
おっしゃっている例えなんですけども

湖の上で ボートをこぐ時の
ボートのこぎ方が瞑想みたいなものだと。

どこに行くかは その人の意図によって
こう 変わってくると。

その意図を きちんと
見つけていくっていうんでしょうかね

大事にしてくっていう点が
ほんとはあるんだと。

まあ それは…

そういうふうに位置づけていいんだと
思います。

やはり 基本的にはですね…

その技術であると同時に…

それが やっぱり
大事なんだと思うんですよね。

例えば 先ほど
軍隊の話をしましたけれども

戒律の中には まず最初に

「人を殺めてはいけない」というのが
在家の人たちに向けても出てきますし

出家者たちにとっても
重要なものとして出てきます。

まあ それは ある意味で…

…というところを
きちんと示しているっていうのが

やっぱり
すごく大事なところだと思うんです。

まあ 個人を超えてですね

人間というのが
一人では存在しえないもので

他者との関わりの中で 社会を構成し

その社会の中で
どうあるべきかっていうのをですね

やっぱり ちゃんと見据えているんじゃ
ないかなという気がするんです。

さあ シリーズ最終回。

ここまできまして
お二人 いかがでしたでしょうか。

はい。 あの~ ほんとに え~…

一番最初は だから インドでしたっけ。
はい そうですね。

インドから こう ず~っと
中国に来て 日本に来て

瞑想が どんなふうに変わってきたか。

危ぶまれたけど やっぱり瞑想だよねって
なったりというのを ずっと見てきて

とても あ 仏教というのは 瞑想が
本当に中心にあるんだなというのは

すごく 腑に落ちたなというのと

逆に 瞑想自体はパワフルで
どんなふうにも使えちゃうところに

仏教というのが 目的を与えて

人を救うためにあるんだというふうに
したんだなというのは

すごく よく分かったなと思います。

すごく 僕が興味深いなと思って
ずっと見てたのは

その 身体的に得た知見を
どうやって伝えるのかっていうこと。

それは スポーツの世界で
次に伝達していく時に

一番難しいことなんですね。

トレーニングメソッドも
トレーニングメニューも

知識も 全部伝達できるんですけど

この 身体で覚えた感覚だけが
伝達できないんですよね。

そういう苦しみの中で よく仏教が

言葉っていう 常に どうしても
外れちゃうというんですかね

どっか 言い間違いが出ちゃうものを
使いながら 伝えてこれたというのは

やっぱ こう 瞑想というのを
最後まで きちんと守ってきたのが

大きかったのかなというのを思っていて。

仏教も 体験したもの 感じたものを

どういうふうに伝えていくかっていうのは
一番大変だったんだと思うんです。

まあ あの~ しっかりと注意を振り向けて
確認するっていうことが

それを可能にしていくんだというのを
見つけ出して

それを伝えていくために
言葉を使わざるをえないっていう

まあ 矛盾したものも
しっかりと理解していて

次の世代の人たちに
残して下さったっていうのが

やっぱり 仏教の
すばらしいところだったんではないかな

というふうに思います。

最後に 先生から
メッセージをお願いいたします。 ええ。

私たちは 私たちの感覚器官を通じて
世界を認識して

そこから生じる心の働きに悩み
苦しんでしまいますが

それが完全になくなるというふうには
仏典の中では書かれていません。

そのような さまざまな働きが生じても
それをこらえることができるようになる

何とかして
きちんと生きていくことができる

その心に支配されないで
それを越えていくことができる

というふうに述べられています。

ですから まさに 「心の師となるも
心を師とすることなかれ」ということで

まずは 自分を整えて

そして 社会の中で どう活躍できるのか。

そこで できることがですね
自分の生きている意味みたいなものを

後で自覚することに
つながるのではないかと思います。

仏教は そうしたことを伝えようと
していたのではないかと考えています。

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