出典:EPGの番組情報
ファミリーヒストリー「田中美佐子~いくつもの母の愛を受け継いで~」[解][字]
家族の謎が次々に明かされる!?美佐子は涙の連続だった。初めて知る実の祖母。波乱の人生にスタジオ騒然。美佐子が俳優目指したルーツが発覚!若き母は人気の村芝居役者。
番組内容
ずっと気かけけていた「家族の謎」が次々に解明される。美佐子が知る父方の祖母は、実は祖父の再婚相手だった。初めて実の祖母の写真と対面。その波乱の人生を知り、驚きを隠せなかった。最愛の母・照子のルーツも明らかに。実は若い頃村の青年団で芝居をしており、踊りも得意だったという。「自分が俳優を目指したのは必然だった」と美佐子は感動。役者を目指すことに大反対だった父が、陰では美佐子を応援していたことも知る。
出演者
【ゲスト】田中美佐子,【司会】今田耕司,池田伸子,【語り】余貴美子ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
テキストマイニング結果
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キーワード出現数ベスト20
- 美佐子
- 照子
- ユキ
- 博通
- 田中家
- 隠岐
- 昭和
- 忠蔵
- 萬一
- お母さん
- トメ
- 仕事
- 自分
- 大阪
- 結婚
- 愛情
- 記録
- 田中美佐子
- 当時
- ヤス
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
(スタッフ)はい!
(カチンコの音)
俳優としてデビューし
今年で40年目を迎える田中美佐子さん。
悟朗! 悟朗!
かわいいですね。
≪でしょ? でしょ?
ごめん!
(スタッフ)は~い カット!
(笑い声)
明るい笑顔と親しみやすさが人気の源。
映画 ドラマ バラエティー番組から
ナレーションまで
幅広く活躍しています。
やった!
<80センチには至らず
ブリじゃなかったんです。
悔しい~!>
実は
美佐子さんには
ずっと 胸に
しまい込んできた
家族の謎が
ありました。
小学校の
校長を務め
厳格だった祖父を
献身的に支えた祖母 トメ。
ある時 優しかったおばあちゃんの
意外な事実を知りました。
自分が大好きだった おばあちゃんが
血がつながってなかったんだよ
というのを 後で聞いて
「ええっ!?」っていうのと
ほんとの おばあちゃんは
ほんとに誰? って感じです。
私 一生 知らないまま?
っていうのも ちょっとね
ちょっと恥ずかしいですよね。
今日のゲストは
田中美佐子さんです。 どうぞ。
(拍手)
よろしくお願いします!
こんにちは。
さあ 田中さんといえば
愛され続ける女優さん代表と。
そんなことない。
謎が ちょっと ご家族に。
そうなんです。
よ~く考えたら
知らないことだらけで。
ちょっと ずっと あったので
知りたいっていうのが。
♬~
田中美佐子さんのふるさと
島根県隠岐諸島。
まず訪ねたのは その一つ
中ノ島の海士町です。
ここで生まれたんです。
美佐子の祖父が育った家が
残っていました。 え~!
田中家を受け継いだ稔さんと
弟の千秋さんです。
五代目 私が稔です。
(取材者)はい。 そして?
双子の千秋といいます。
え~。
うそでしょ?
たまたま探しとったら
出てきてね 写真。
(稔)すっごい昔のもんだな~。
ガラスに焼き付けてある。
初めて見たなあ。
焼き付ける!?
写真に写っていたのは
江戸時代後期から明治を生きた
田中久七 美佐子の高祖父です。
4番目!
久七はね 何だったかいな。
大工だったかな。
あのね 宮大工って
宮大工だな。 聞きましたね。
地元の神社に残されていたのは…
建築や修築を行った大工を記録した 棟札。
田中家の先祖の名がありました。
え~!
ここにも やっぱ… すご~い!
ここに ほら。
天保2年の棟札に
記されていたのは
美佐子の五代前の先祖 寅蔵の名。
五代!
田中家は 江戸時代後期から
宮大工を なりわいに
していたことが分かりました。
うわ~ 初めて知った!
当時の大工の棟梁は 図面を書くため
読み書きや積算ができました。
高祖父 久七も 地域から頼られる
知識人だったと思われます。
ん?
久七の娘として生まれたのが
美佐子の曽祖母 ヤス。
この方?
明治23年 25歳の時に
男の子を出産します。
美佐子の祖父 博通。
えっ!
おじいちゃん!?
その戸籍には
父親の名がありませんでした。
ほんとだ。
どんな事情があったのか?
うちの おやじが作ったやつでね。
稔さんの父が 先祖のことを
書き留めた「田中家の記録」には
博通の出生が記されています。
え どういうこと?
博通の父親は
雲南市 三刀屋町出身の
小村という
医者だといいます。
2人が恋に落ちた いきさつも
記されていました。
近所の酒屋を手伝っていたというヤス。
その店に足しげく通っていたのが
大の酒好きだった 小村忠蔵でした。
ふ~ん 酒好きだったんだ。
妻を亡くしたあと 隠岐に住まいを構え
島々の医療を担っていました。
やがて 結ばれた2人。
博通の誕生を とても喜んだといいます。
田中家の記録には
当時 忠蔵が
暮らしていた場所も
記されていました。
隠岐諸島 西ノ島にある 宇賀。
宇賀。
この地域の歴史に詳しい岡田さんに
案内してもらいました。
この辺りだと思われるんですけどね
150番地というのは。
忠蔵は ここから近隣の島々へ
度々 往診に出向いていたといいます。
すごい時代。
櫓で こいで…。
すっげえ時代だな~。
神様のように思われてたと
思うんですよね。
それまで病気になったらね 拝む…
神様に拝むしかなかったんですけど。
当時の記録を見るとですね 赤痢が
はやったということですのでですね
大変だったろうと思われますですねえ。
海士村の記録によれば…
この時 隠岐で
1, 300人以上が 赤痢に感染。
隔離を恐れて 病を隠す人がいたため
瞬く間に まん延したのです。
なるほど。
忠蔵は 赤痢患者の治療に追われます。
先生!
疲労もたまる中 ヤスと我が子を支えに
往診を続けました。
医師不足の島で頼りにされていた忠蔵。
しかし ある時 ヤスと博通を残し
ふるさとへと帰っていきました。
博通が 3歳の時のことです。
何でだろう?
一体どんな理由があったのか?
訪ねたのは 忠蔵のふるさと…
親族が見つかりました。
こんにちは~。
忠蔵の兄の子孫 三島春臣さんです。
すごいな これ。
すごっ。
すごい!
(取材者)田中美佐子さんのお宅と
つながってるってことは
聞かれたこと ありますか?
いや 初めてですね。
いや びっくりです。 まさかね。
忠蔵は 亡くなった妻の姓を
名乗っていましたが
もともとの姓は 三島。
隠岐から帰り
三島家分家の
四代目となっていました。
三島家は 江戸時代後期から続く大庄屋。
本家と分家で
村を取り仕切っていた
といいます。
名門の子やな。
これは 忠蔵の生家。
三島家分家は
地域の暮らしを支えていました。
兄が 本家に養子に入ったため
跡継ぎとして呼び戻されていたのです。
(2人)え~?
忠蔵は 隠岐から帰って 間もなく病死。
それが 単身で戻った
理由ではないかといいます。
美佐子の曽祖父 忠蔵は 春臣さんが守る
三島家の墓に眠っています。
え~? って感じ もう。 いきなり?
いきなり すごい展開。
いや もう胸詰まる! すごい。
でも初めて知る
ひいおじいちゃんが…。 いや びっくり。
三島忠蔵さんです。 はい。
ねっ。
この時 大変やったでしょうね。
今 ほぼ 私たちが経験した
コロナのような感じだったんでしょうね。
忠蔵さんの存在が…
あっ あの白紙が やっと今
埋まったんだっていう。
見たことは あるんです。
白紙の さっきのやつですね?
でも聞いちゃいけない
コーナーなんだなって。
そうですよね。
あの空白が今 埋まったと思うと
すごくうれしいです。
忠蔵が 隠岐を去った後
母 ヤスに
育てられた美佐子の祖父 博通。
12歳の時 ヤスが結婚し
田中家に婿入りした徳三郎が
新たな父となりました。
小学校の校長を歴任し
教育者として慕われていた徳三郎。
その功績が 村の記録に残されていました。
「道徳や経済の進展を志し
質素な生活を実践し
模範を示した」。
「奨学資金を創設。
地域の改良に
まれに見るような
多大な貢献をした」。
そんな徳三郎の姿に 大きな影響を
受けながら成長していったのが
美佐子の祖父 博通です。
師範学校を卒業後 二十歳の時に
小学校の教師となりました。
博通が教べんをとった海士小学校。
教え子だったという人が
見つかりました。
いるの? そんな人。
えっ 90歳!
中山忠範さんは
教師として貫禄があった
博通の姿を覚えています。 へえ~!
今 思えば 明治の ほんとにいいとこ
持っとる人だなと思いますよ。
もう大正から昭和には おらない。
言ったことは実行する。
間違いは犯さん。
キチッと 決めたことは
キチッとするね。 かっこいい~。
そんな博通に 縁談が持ち上がります。
相手は 松野ユキ。
隠岐では 名の知れた
松野家の箱入り娘でした。
大正4年に 2人は結婚。
博通が 24歳の時のことです。
19歳で結婚。
19歳。
このユキこそが 美佐子の実の祖母。
えっ?
あっ この人か。
隠岐に大きな足跡を残した一族の
末えいです。
ユキが育った 海士町知々井。
江戸時代後期から
イカ漁が盛んな漁村でした。
父の松野長次郎は
代々続く
回船問屋を受け継いでいました。
明治29年に生まれたユキは
村一番の お嬢様として
育てられたといいます。
ユキのことを伝え聞いていた人が
見つかりました。
ユキさんいって
美人がいたいうことだけは知ってるの。
子どもの時から そんなこと
美人がいたっていうことね。
ここの方ではね…
ユキの生家があった場所を
地元の人に案内してもらいました。
ここにあった松野本家は 本店
近くの分家は支店と呼ばれ
海産物の商いをしていたといいます。
そんな松野家が
一族で力を尽くしたのは
本州と隠岐諸島を結ぶ
汽船の運航でした。
隠岐諸島と 本州との往来は
明治中頃まで 帆掛け船が頼り。
遭難も後を絶たず たどりつくまで
6日以上かかることもありました。
え~!?
ええ!?
そんな状況を変えようと
神社の神官が私財を投じて
汽船を就航させますが
財政難から頓挫。
その志を継ぎ 立ち上がったのが
美佐子の高祖父にあたる
松野市三郎です。
市三郎は 汽船会社の設立を目指す
発起人の一人として
出資者探しに奔走します。
自らも財産を投じ
配当の見込みがない株を買いました。
そして 明治28年 汽船会社が設立し
本州への定期運航がスタート。
ほう~ すごっ。
市三郎は 取締役に就任しました。
その後も松野家は 一族を挙げて
航路の継続を支えてきたといいます。
すご~い。
いやあ びっくりしたですよ。
ハハハハハッ。
島の発展を ひたすら願い続けた
松野家に生まれ育ったユキ。
19歳の時に 地域の教育にまい進する
田中博通と結ばれ
長女が生まれます。
そして 大正14年3月
後に美佐子の父となる
長男 皓が誕生するのです。
お父さん。
すごい一族じゃないですか。
いやもう…
頭の中が いっぱいいっぱいに
なっちゃって
ええ~って感じです。
ユキさんって…
えっ? じゃあ 私
血つながってるんですか?
そうです。 本当のおばあちゃんです。
えっ!
この方が評判の美人ということですから
その血は
田中さんに行っての やっぱり…。
いやでも ほんとに
そういう方がいたということすら
今日 初めて聞いたので。
島の英雄みたいな一族じゃないですか。
あのフェリーが関わりがあったなんて。
そうです。
松野家という
その ユキさんの。
もうフェリー乗るときの気持ちが
変わりますね。
違います。
隠岐で 穏やかな家庭を築いた
美佐子の祖父母
博通とユキ。
博通は 27歳の若さで
小学校の校長となり
村で一目置かれる存在になります。
これから 校長先生…。
27歳で 校長先生。
(池田)早いですね。 ね。
ユキは 子どもたちに
精いっぱいの愛情を注ぎました。
しかし そんな平穏な暮らしを脅かす
事件が起こります。
はい! 今 参ります!
急いで立ち去ったユキ。
着物のたもとから落ちたのは
1通の手紙でした。
何気なく手に取った博通は
目を疑います。
それは 妻に宛てた恋文。
えっ!?
熱い思いが つづられていました。
美人やから。
え~?
実は 皓を産んで間もない頃
ユキの心を乱すことがありました。
ユキさん お待ち下さい!
どうか これを。
通院先の歯科医師から
突然 思いを告げられたのです。
読むだけでも。
断っても 度々 恋文を差し出す医師。
はあ~ 時代やな~。
その情熱にひかれる気持ちもありました。
まあ 堅物やからな 旦那は。
しかし 自分は 夫も子どももある身。
忘れようとしていました。
田中家の近所に暮らし 親しく
つきあっていた 山中公子さんは
当時のことを聞いていました。
お元気。
92歳。
博通の誤解は 解けませんでした。
結局 ユキは 2人の子どもを置いて
田中家を去ることになったのです。
え~!? そういう別れ方!?
堅いって!
皓が生まれて まだ 僅か4か月。
断腸の思いでした。
田中家へ嫁いで
10年目の夏。
博通とユキは離婚。
この時のことを
博通が語ることはなかったといいます。
そりゃもう傷ついたんやな
この時代の…。
こんな立派な人やから。
まだ赤子だった 長男の皓は
近所で もらい乳をして育ちました。
もらい乳…。
そんな皓に 再び母のぬくもりを
感じさせてくれたのは
博通の再婚相手 トメ。
あっ おばあちゃんだ。
トメさん。
美佐子が慕ってきた
もう一人の祖母です。
トメは 皓が2歳の時に
田中家に嫁いできました。
10代の頃 大阪で女中奉公を経験。
働き者で奥ゆかしい女性でした。
ほんとに。
自分の子は つくらず
ユキが残した子どもたちを
大事に育てたトメ。
皓の教師が訪ねてくると
姿が見えなくなるまで手を合わせ
見送っていたといいます。
昭和12年 日中戦争が勃発。
太平洋にも戦線が拡大する中
学校での教育も変わっていきます。
小学校の校長として
村の指導的立場だった博通も
連日 訓示に熱を込めていました。
みんな感謝して みんなも強くなれ
いうことを教えるんですよ。
一方の皓は 戦時下の中
大きく心境が変化していました。
一度は教師を志し
師範学校に進んだものの1年で退学。
その理由を 田中家と親交の深かった
大野さんに語っていました。
戦時教育を見限った皓は
新たな目標を見つけます。
昭和18年に 工業学校の土木科に入学。
岡山 行ってたって…。
200年にわたり 大工をなりわいにしていた
田中家に生まれた 皓。
建築の仕事には 興味がありました。
しかし 皓は 学んだ技術を
不本意な形で発揮することになります。
昭和19年に召集され
船舶工兵として
海岸沿いの陣地構築などに
明け暮れたのです。
(玉音放送)
そして迎えた終戦。
戦地に向かった
博通の教え子たちも命を落としました。
博通は すぐに校長を退きます。
一方 復員した皓は
島根県の職員となり
土木事務所で働きます。
学んだ技術を 地域の為に生かせる
待ち望んだ職場でした。
職場での後輩だった 井筒重盛さんです。
案内してくれたのは
皓が工事に携わった 海士町の小さな港。
波が荒くても 船が着けられるよう
防波堤を造りました。
仕事に やりがいを感じる日々。
皓は 見合いで
一人の女性に一目ぼれします。
相手は 木村照子。
え~?
おしゃれで ハイカラな女性でした。
これ お母さん?
照子もまた 気乗りのしなかった見合いで
皓に一目ぼれ。
昭和28年に結婚。
その6年後に
美佐子が誕生することになるのです。
はあ…。
あれ? どうしました?
なんか びっくりして いろいろ。
びっくりして。
私は 正直 父の仕事を
つまんない仕事だなって思ってたんです。
だけど 父も その隠岐のために
そういうことをしたんだな
っていうのと
宮大工さんと 父が… あっ
つながってたんだなあっていう。
でも あの
おばあちゃんの事情ですか
美人がゆえに びっくり~! 何?
恋文ってね。
おじいちゃん 堅いんすよ。
堅いんです。
許してあげれば よかったじゃん。
田中さんの中で すごいですね
つながりが。 もう全部 人生の謎が。
やだ もういい。 もう帰りたい。
(笑い声)
田中家へ嫁ぎ
4人の子どもを育て上げた
母 照子。
育児に追われ
必死に働いていましたが
時折 全く違う姿を見せたといいます。
もんぺをはいて
仕事をしている母しか知らないのに
急に すごいおしゃれで
きれいになったりとか。
女優の道に行ったのは
母方の血なのかなとか
思ってしまうのは何でだろう?
一体 母 照子は
どんな人生を歩んだのか。
そのルーツは 隠岐諸島中ノ島の
海士町宇受賀にありました。
ここで
農家の次男として生まれたのが
照子の父 宮本萬一。
え~!
後に木村家の養子となり
木村萬一となりました。
この人?
また知らない人?
知らない。
萬一の孫 伸一さんを訪ねました。
え~!?
え~と 萬一が 多分これ20代でしょうね。
これは 大正時代の写真。
萬一は 高級品だったスーツを
まとっています。 あ…?
おじいちゃんですねえ。
伸一さんが見せてくれたのは
萬一が 大阪で恋に落ちたという
女性でした。
大正時代も 西日本最大の商業都市として
にぎわっていた大阪。 これ大阪?
すご~。
折しも 男性の洋装が普及し始め
ビジネスマンが オーダーメードの背広を
作るようになります。 かっこいい。
テーラーを目指し
大阪の仕立屋で修業を始めた萬一。
たまたま 良家の娘と知り合います。
2人は恋に落ち
長男も誕生しました。
しかし 2人が添い遂げることは
ありませんでした。
親が結婚を許さず
子どもを残したまま
娘を 実家に連れ帰ってしまいました。
貧しさゆえに 失った愛でした。
必ず 自分の店を持たなければ…。
一念を発起した 萬一。
職人世界の厳しい修業に臨みます。
職人の先輩に どなられながらも
懸命に
仕立ての仕事を覚えていきました。
大正時代に 大阪で創業した
洋裁店を訪ねました。
オーダーメードの背広の仕立ては
とても貴重な技術だったといいます。
苦労の末 技術を習得した萬一は
40歳を過ぎた頃 夢をかなえます。
大阪?
かつて 多くの商店が立ち並んだ
大阪 鴫野の この辺りで
念願の仕立屋を始めたのです。
店は繁盛し
従業員も数人雇うほどでした。
当時 仕立てた背広は
1着 およそ30円。
大卒の初任給
1か月分の値段でした。
戦前 仕立屋は
多くの人が憧れた職業だったといいます。
早いこと縫えるようになりたい。
職人になりたい。
職人になったら 左うちわで
ガッパガッパ入ると 仕事をすれば。
そういう向上心っていうか
それが ある人は 皆
ちゃんと洋服屋になってるわけです。
仕立屋が軌道に乗った頃
萬一は 新たな恋をします。
相手は 従業員だった 野津アイ。
アイだ。 おばあちゃんだ。
隠岐の出身で
大阪へ出稼ぎに来ていたのです。
同郷の2人は 互いにひかれ
間もなく結婚。
そして昭和2年 照子
後の美佐子の
母親が生まれます。
萬一とアイは
照子に かわいらしい洋服を作って
着せることが 楽しみだったといいます。
順風満帆だった 木村家。
え~ これ
お母さんなんだ。
しかし 昭和6年 萬一が病に倒れます。
45歳の若さで 帰らぬ人となりました。
残されたアイは
子どもたちを育てるため
うどん屋を始めます。
夫 萬一が元気だった頃と同じように
照子に
華やかな洋服を着せ続けました。
うわ~ こんなのあるんだ。
へえ~。
こうして照子は
人一倍 おしゃれ好きな少女に
育っていったのです。 うわ~ すごいね
この時代に。
ね~。
ねっ。
昭和18年 戦況が悪化する中で
アイは 隠岐へ疎開することを決めます。
実は 照子が
両親のふるさとを訪れたのは
この時が初めて。
隠岐に渡って しばらくは
親戚の野津さんの家に
身を寄せていました。
あか抜けた照子の姿を
後輩の公子さんは記憶しています。
この人 何でも知ってるなあ~。
しかし 間もなく 戦時下での
離島暮らしの現実に直面します。
物資が不足する中
おしゃれも ままならず
色あせた もんぺ姿で
過ごすようになったのです。
それは 照子にとって
何よりも さみしいことでした。
昭和20年
18歳になった照子は
隠岐の島町に移り住みます。
母 アイが 旅館を営んでいた
田中勝太郎と再婚したのです。
これだ おじいちゃん。
私の知ってる
おじいちゃん。
勝太郎は 木村家に婿入り。
旅館の名まで変えてくれました。
よく行ってたとこだ。
もう一つ 照子の周りに
大きな変化がありました。
終戦後 村に
舞台が つくられたのです。
青年団による村芝居や踊りが披露され
たくさんの人たちが
集まるようになりました。
当時 村芝居が 何よりの楽しみだった
という サダ子さん。
これです。
うわ 持ってるんだ。
青年団に入った照子は
メンバーの中でも
ひときわ 村芝居や踊りに
のめり込んでいたといいます。
何 役者だったってこと!?
えっ 知らなかったんですか?
知らなかったです!
一躍 人気を集めていました。
あらまあ。
あらまあ。 ええ~!?
ちょっと待って。 うっそ!?
一回も聞いたことない。
月が出た出た
月が出た ヨイヨイ
(笑い声)
「掘って掘って また掘って」ってな!
チャンバラ。
チャンバラ。
なあ?
股旅。 うん。
照子の おはこは きょう客や芸人が
各地を旅する人情劇 股旅物。
親分!
俺には 生涯
てめえという 強え味方があったのだ。
(観客)よっ 待ってました!
だけど やっぱ この辺の人は
美佐子さんの名前が出たらな。
うん。 あっ
照子さんの娘だってね。 うん。
木村の姉さんだっていうような
という感じでな。
この辺の村は みんなが
やっぱり ごひいきだから。
初めて聞いた…?
初めて聞いた。
ふるさとの舞台で 喝采を浴びた日々。
照子の青春の大切な1ページです。
いや~ いかがですか また。
もう… もういいわ。
アッハッハッハッハ! ですね。
ちょっと…。
ほんとに ちょっとショックが…。
すごいですね。
ちょっともう…。
お母さんが 女優やってるなんて
びっくりして。
それも知らなかったんでしょ?
写真は?
見たことない? 見たことないです。
あんなに やってたんですか?
好きだったんです。
得意分野です。
人気役者でした。
おじいちゃんも。
おじいちゃんは びっくり。
血のつながりの おじいちゃんは…。
だから 後のおじいちゃんは
私 血つながってないんですよね?
そうです。
そういうことですね。
だから
テーラーの方です。
もう 誰か教えてほしい。
(笑い声)
でも そう考えたら 最初に「お母さん
ミステリー」って おっしゃってたの分かります。
時折 きれいな格好でっていうのは
やっぱりその テーラーの時の名残。
いや でも いちばんのびっくりは
もう母が 女優やってたっていうの…。
昭和28年に照子と結ばれ
新たな家庭を築いた
田中 皓。
仕事にも まい進し
隠岐のインフラ整備に当たりました。
皓が 工事に携わった 日吉橋です。
もともとは
全体的に田んぼでございましたので
この橋が出来たことによって
病院とか
大きなスーパーが出来てですね
この町が
大変良くなったというふうに思います。
この橋のおかげで
遠回りしなくても
対岸に
渡れるようになり
交通の利便性が
一気に 上がったのです。
安全性などに 問題はないか
最終的なチェックをしたのが
工事検査官だった 皓。
同僚の田原さんの印象は…。
(取材者)あっ そうなんですか。
工事やった人は なるべく早く
お金が欲しいわけですから
そういった書類なんかも
すぐに回して
まあ その相手の気持ちを考えて
思いやるといいますか…。
実直な皓と
華やかな照子。
2人の
ほほ笑ましい光景を
近所の人が
覚えていました。
(笑い声)
昭和34年
4人きょうだいの
末っ子として
美佐子が誕生。
照子は かつて
自分がしてもらったように
美佐子に おしゃれな洋服を作りました。
あ~ かわいい!
学校 着てく?
うん!
デザインのセンスと 裁縫の腕前は
評判となるほど。
美佐子と 同じ幼稚園だった
小西さんは
照子に
発表会の衣装を作ってもらい
大喜びしました。
(小西)これが 美佐子さんのお母さんが
作ってくれた
発表会の時の服ですね。
(小西)普通に売ってるような
服とかじゃなくって
こう なんか
ヒラヒラヒラッと付いたような。
きっと うちの母たちとかには
絶対できないと思ってたし
あの… 憧れ的な きれいなおばちゃんと
思ってたと思います。
昭和49年 美佐子が中学生の時
皓が転勤となり
一家は 松江に引っ越します。
トメさん。
皓の育ての母 トメが亡くなってからは
教育者だった祖父の博通も
同居していました。
育ち盛りの4人の子どもたちと
派手なことを嫌う
厳格な しゅうと 博通の世話。
忙しく家事に追われる毎日。
おしゃれを楽しむ
余裕など
ありませんでした。
そんな照子の心を癒やしてくれたのが
美しく育った 娘の美佐子。
(池田)かわいい。
「テレビに出たい」と言いだした
自慢の娘を応援していました。
何となく 物心ついた頃から
これになるだろうっていう意識が
芽生えてきて
歌手になるのか 俳優になるのか
そういうことも分からず
「歌手を受けるには
どうしたらいいの?
どうやったらいいの?」って
ず~っと言ってて…
「お~ その手があったか」って
私は すっかり だまされちゃって
で その時に決まったんですよ
自分の中で。 とりあえず女優。
昭和53年 美佐子は東京の短大に進学。
翌年 劇団に入り
役者への道を歩き始めました。
しかし 父へは事後報告。
堅実な考えの皓は 大反対したといいます。
皓の戸惑いを
親戚の竹村さんは聞いていました。
上京から3年後
21歳の美佐子は ドラマに出演。
念願のデビューを果たします。
しかし 役者としての収入は少なく
アルバイトをして
生活費を賄っていました。
そんな下積み時代を支えてくれたのが
照子から届く荷物でした。
詰められていたのは
懐かしいふるさとの あられと
照子が作った スカートやブラウス。
美佐子が仕事に着ていけるほどの
出来栄えでした。
もう ず~っと
洋服を縫って送ってました。
「美佐子に送るけん」って ずっと。
テレビに出ると
ねえ? 同じ服 着れないですが。
どっかに出るけん 今度は
こういう柄が いいかもしれんとかね
その 出る場所によって
なんか 柄を選ぶみたいなことは
言ってましたけどね。
「よう こんなもん縫ったね」って 私。
だから ここへ来るまで
親は すごい難儀してますよ。
うん だって
この子を その 出すのにね。
そして 昭和57年。
美佐子は 映画のヒロインに
大抜擢されます。
子どもが 大人のふりをしたために
秩序正しい大人の世界を
崩してしまいました。
もう結構! もうおしまいよ!
やめるわ もう…。
弓さん…。
不倫する女子大生役を
オールヌードで演じきりました。
完成試写会には
皓と照子が そろって参加します。
父は もう… まあ なんか 無言でしたね。
こういう形で出てしまって
申し訳ないなっていうのは
ちょっと あったんですね。
大胆シーンとかが すごくあって
その当時 もう それやらないと
デビューできないって言われて。
母は そういうのは全然平気な人で。
好きにやれば?
別に 洋服 脱ごうが何しようが
いちばん大変だったのは
多分 私だろうっていうのは
分かってくれてたみたいで。
まあ 何年かして やっと出れて
もう こういう出方しか
できなかったんだなって
お前 大変だったねっていう顔を
されたんですよ。
その時に もう
ああ もう泣きそうだなと思ったけど
もう絶対… 絶対 将来的には
もう 服 着ていくから みたいな感じの
自分の心の中に決めてね。
映画公開の翌年
うれしい知らせが届きます。
♬~
あら!
え~ こんなのあったの?
(司会)田中美佐子さん。
美佐子の 迫真の演技が評価され
日本アカデミー賞の
新人俳優賞を受賞したのです。
うわ 懐かしい!
晴れ舞台で 美佐子が身にまとった
白いサテンのドレス。
えっ これ? ママ?
そうなんです。
この衣装も
照子が 丹精込めて縫い上げ
送ってくれたものでした。
(取材者)開けた時 どう思われました?
いやいや もう
あっ これならいけるって
ちょっと思いましたけど
その時とかは
やっぱり 相当 救われましたね。
だって ドレスとか買えなかったし。
ほんとに… どうしようっていった時に
必ず 黙って助けてくれてましたね。
今 思えば あれを着て出れて
ほんとに よかったなって。
試写会で言葉を発しなかった皓も
映画が公開されると 娘のために奔走。
映画のポスターを抱え
必死に ふるさとの隠岐を
回っている姿を
同僚の石橋さんは忘れられません。
親だなあ。
ええ!? うっそ~!
親なんですよ。
ハッハッハッハッ!
その後 美佐子は
次々と ドラマや映画に出演し
人気俳優となっていきます。
お父上様
いつに変わらぬ お元気なお姿
お慶び申し上げまする。
うわ 恥ずかしい!
平成7年には
タレントの深沢邦之さんと結婚。
超恥ずかしいですけど。
失礼します。
深沢さんは 田中家へ挨拶に行った時の
照子の心遣いを覚えています。
でも 僕が覚えてるのは ご挨拶行って
用意してくれた食事の中に
お母さんが 箸置きを
なんか 手作りで作ってくれてて
今日の日のために その箸置きを
作ってくれたっていうのを聞いて
「うわ~!」と思ったのは覚えてます。
お母さんから受けた愛情が
相当 大きかった。
で 彼女も感受性が強いから
それを ちゃんとキャッチできた。
それが
いちばん大きいんじゃないですかね。
お母さんのために
多分 頑張ってたから。 うん。
まあ お父さんのためにでもあるけど
やっぱ
お母さんに喜んでもらいたいとか
お母さんに見てもらいたいとか。
結婚から7年後。
美佐子は
43歳で長女を出産し
母親となりました。
これは 幼い娘のために
自分で編んだワンピース。
母から受け継いだ 愛情の伝え方です。
うわ~ すごっ!
孫の誕生を 人一倍 喜んだ照子。
うれしかったろうなあ…。
しかし 体調を崩し
入退院を繰り返すようになります。
それでも 病院から自宅へ戻ると
美佐子のために裁縫をし
パッチワークなどを作りました。
すごいな お母さん。
「娘に幸せがありますように」。
ふくろうには
そんな願いが込められています。
平成22年12月。
父 皓は
がんとの闘病の末
85年の生涯を閉じます。
その翌年
後を追うかのように
母 照子も亡くなりました。
今回の取材で 生前の照子が映る
貴重な映像が見つかりました。
♬~
隠岐の民謡の調べに乗って
優雅に踊る 47歳の照子です。
♬~
若い頃 ふるさとの舞台で
脚光を浴びていた照子。
俳優という 娘の夢を支えることは
何よりの生きがいとなりました。
そして 美佐子は 照子から受けた愛情を
我が子に伝えていきます。
15年間 作り続けたお弁当。
撮影が深夜になっても
欠かしませんでした。
美佐子は 娘が幼い時から
度々 手紙をもらってきたといいます。
決まって書かれていたのは この言葉。
「おかあさん 大すき」。
この子ね 変な子で
いまだに言うんですよ 「大好き」って。
言ったら怒るかもしれないけど
「お母さん 大好き」って言う。
「あ~ ハイハイ」みたいになっちゃう。
「私も大好き」って言ってたんですけど
最近 恥ずかしくて
言えなくなっちゃって
「まあまあ 私もかな」ぐらいで
なんか そんな感じ。
俳優の金田明夫さんは
美佐子の母親としての顔を
度々 かいま見てきました。
娘さんのことも ほんとに愛して
すばらしいじゃないですか。 うん。
いいお母さんだなあと思いますよ。
いつも だって やっぱ すごく
家族のこと思ってるじゃないですか。
今でもね 娘さんのこととか もう常に。
だから 自分のために
生きてるんじゃなくて
なんか 家族のために生きてる
っていうところを
すごく感じるから… うん。
でも それが だって
芝居に見えてんじゃないですか
あったか~くて。 うん。
愛情いっぱいの俳優だから
ファンからも長く愛される
田中美佐子さん。
てやんでい!
こちとら 大奥様だぜぃ!
♬~
デビューから40年たった今も
変わらぬ輝きを放っています。
もう…
ヤバい。 フフッ。
いや~…。
ねえ。
なんか やっぱり…。
ごめんなさい…。
いいえ。 ごめんね…。
いや~…。
もう ほんとに
お母さんの愛情といいますかね。
なんか もう 話し足りないことが
いっぱい あって
父と母を失うっていうことは
こんなことだったんだっていう。
ほんとに ずっと応援して。
父が あんなに応援してくれてる
っていう様子も知りませんでした。
娘 服着てないポスター
みんなに渡して 貼って下さい言うのも
めちゃくちゃ もう…
これは悩んだでしょうね。
あの映画の試写 終わって みんながね
ご両親が 無言やった時に
いつか 服 着ていくからっつって。
それこそ 大河出た時なんて
着物 着まくってるじゃないですか。
そうなんです。
何枚 着るねんいうぐらい 着たでしょ。
大河 来たらね もう 家 帰ったら
なんか 画面を撮ったかなんか
知んないけど
それが 額縁に貼ってあって。
そりゃそうですよ。
ご自身の「ファミリーヒストリー」
ご覧になって いかがですか?
いろんなクエスチョンが
今日 一つになって
私が なぜ女優を選んだのか
勝手に なんか お告げをもらったような
気がしていたんですが
そういったことが
あっ こういう つながりが
みんなが あったから
私 今 ここにいるんだなって。
そうですね。
♬~
美佐子が
これまで知ることがなかった
実の祖母 ユキ。
幼い皓を残して 田中家を後にしてから
ふさぎ込む日々が続きました。
その後 ユキは
知人の勧めで
船舶の機関長だった
井筒福市と再婚します。
嫁ぎ先には 病で亡くなった先妻が残した
娘がいました。
その娘の子である
田鶴子さんは
母から
ユキのことを伝え聞いています。
多分 あの方も…
結婚後 ユキは
外国航路の船で働く夫と一緒に
台湾に渡りました。
ようやく訪れた
穏やかな暮らしの中で
娘の祥江を出産。
しかし 産後の肥立ちが悪く
7か月後に 33歳の若さで
命を落としました。
台湾で生まれた祥江の娘
裕子さんです。
美佐子と同様
ユキの孫にあたります。
生前の母親から
美佐子との関係を
伝え聞いていました。
ええ!?
たまに 美佐子さんを見て
母を見て
ちょっと似てると
感じる時があったり
母も ちょっと
おどけたりするところがあったので
やっぱり
血がつながってるんだなと思って
なんか ちょっと
うれしくなったりすることはあります。
実は 美佐子の父 皓は
二十歳の頃
台湾生まれの妹
祥江との対面を果たし
静かな交流を
重ねていました。
兄と妹のえにしを結んだのは トメ。
生涯 息子に愛情を注ぎ続けた
皓の育ての母でした。
田中家の記録には
トメが ユキの実家にも
心を砕いたことが書かれています。
「松野家との交際復元」。
「子供 兄弟の名乗りなどに努力」。
田中家と親しかった公子さんは
その いきさつを聞いています。
本人も喜んでね。
もう一人のユキの孫
祥江の長男 哲司さんも
駆けつけてくれました。
いろいろ頑張ってる姿を見ると
ああ 頑張ってるなあと思いますね。
それは とてもうれしい。
大事に とにかく
レコードをしてたりとか。
祥江は レコードを何枚も買い
出演番組は見逃さず
美佐子を 陰ながら見守っていました。
台湾の地で 33歳の若さで亡くなった
美佐子の祖母 ユキ。
最期まで 田中家に残してきた
子どもたちのことを
案じていたといいます。
すごい喜んでると思う。
多分ね その え~と…
残した我が子への 母の強い思い。
絆を育み 息子を育て上げた母。
田中美佐子さんの「ファミリーヒストリー」。
いくつもの母の愛が受け継がれた
家族の物語でした。
いや~ ほんとに壮絶でしたね。
娘さんに 絶対 これ見てほしいから。
いや もう 大号泣するでしょうね。
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