英雄たちの選択「戦国ミステリー 千利休はなぜ死んだ?~天下人秀吉との攻防~」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択「戦国ミステリー 千利休はなぜ死んだ?~天下人秀吉との攻防~」[字]

今年は、千利休・生誕500年。戦国時代最大のミステリーと呼ばれるのが、天正19年2月の千利休切腹事件である。最新研究により事件の真相に迫る。

詳細情報
番組内容
秀吉は、利休に蟄居(ちっきょ)を命じ、最終的には切腹を言い渡した。その背景には何があったのか?秀吉にとって、商人上がりの利休の豊臣政権内のフィクサーの活躍をいつまでも許すよりは、石田三成のような官僚を重んじたのではないか? あるいは、天下統一の先の大陸侵攻をにらんだ場合、堺出身の利休よりも博多商人を優先したいという事情もあるのでは?番組では、最新の研究をもとに、利休切腹事件の謎に迫る。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】小和田哲男,千宗屋,橋本麻里,【語り】松重豊

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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(読経)

北区紫野の一角にある 大徳寺の塔頭で

ある人物を弔う 月命日の法要が行われた。

その人物とは 茶聖 千 利休。

今年 生誕500年を迎え

日本の茶の湯に
革命を起こした人物である。

利休には もう一つの顔があった。

武将たちが 天下取りを争う中

信長 秀吉に仕えながら
政治の裏舞台でも活躍したのだ。

陰謀や裏切りが繰り返された戦国時代。

彼のもとには 茶会を通じて
さまざまな情報が集まった。

当時 豊臣政権のナンバー2であった
秀吉の弟 秀長から

「内密の相談は
利休にしてほしい」
と言われるほどの

存在になっていく。

秀吉と足並みをそろえて

天下統一の夢に向かって
ひた走っていた利休。

だが その夢が成就する直前

最大の理解者であったはずの秀吉から
切腹を命じられ

非業の死を遂げる。

果たして 天下人 秀吉の怒りの背景には
何があったのか?

今回も 各界の論客がスタジオに集結。

利休の茶の魅力と
その謎めいた死の真相に迫る。

利休は まず その…

絶対 この人ね…

…すごいな この人。

今回は 戦国の世を駆け抜けた 千 利休。

その死に隠されたミステリーに迫る!

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

今回は 茶の湯の神様ともいえる存在
千 利休が主人公です。

磯田さん 千 利休は
戦国時代に活躍した人物なんですね。

そうなんです。
利休は 戦国時代の人なんです。

ここが大事ですね。
僕 一回びっくりしたことあるんですよ。

利休の鎧が見つかったっていうのにね
若い時 僕 直面したんですよ。

で 新聞記事 読んだら 背が高い。
茶人のイメージとは 程遠いなと。

やっぱり この人 戦国時代の武将っぽい
人なんだと思ったんですよね。

やっぱり 佗び茶の利休という印象だけが
僕らにあったわけです。

何か ストイックな禅僧とか
聖人君子みたいにね

捉えられがちですが

実際は 中世の精神を 僕は持ってた人で…

その鎧を見てから
少しずつ思うようになったんですけど。

僕はね 心の底に
何か 信長と一緒のものを持ってる

秘めた信長っていうかな

何か もう一つの裏利休みたいなものを

今日 ちょっと こう 語り合えればと
思ってるんですけど。

その利休なんですけれど
実は 死については 謎が多いんですよね。

多いですね。
10以上の説があるんじゃないですかね。

今回は なぜ利休が死んだのか
そこに迫りたいですね。

まず秀吉と共に頂点を極めるまでの利休を
ご覧いただきましょう。

戦国の世を揺るがした 本能寺の変。

天下取りの行方を混とんとさせ

歴史のターニングポイントになった
この大事件は また…

日本独自の文化 茶の湯にとっても
大きな転換点となった。

そして この出来事を契機に
存在感を増し

やがて 茶の湯の革命児となるのが
千 利休だった。

利休が生まれたのは
現在の大阪府堺。

かつて この町は
南蛮貿易の中心地として栄え

商人たちによる自治で運営されていた。

利休の実家は 海産物を取り扱う倉庫業。

しかし 父親を早く亡くし
恵まれた環境ではなかった。

だが 当時 宗易と呼ばれていた利休が
17歳から学び始めたものがあった。

それが 茶の湯。

やがて利休は 信長に仕える
茶頭の一人に取り立てられた。

しかし
鉄砲で利益を上げ

その財力で
高価な茶道具を集めていた

今井宗久らに遠く及ばない
ナンバー3の茶頭であった。

なぜなら 信長時代の茶の湯は

茶道具が その中心に置かれていたからだ。

これは 信長が ちょう愛したとされる

唐物茄子茶入 付藻茄子。

当時の茶会では このような
目に鮮やかな中国製の茶道具を

めでながら お茶を楽しむ。

舶来品を手に入れる
財力がものを言う世界だったのだ。

しかし こうした唐物の名品の多くは

信長が茶会を開いていた
本能寺で灰燼と帰し 失われてしまった。

その後 信長の後継者争いが
混とんとする中

利休は 誰よりも早く 秀吉に接近した。

戦国史に詳しい 小和田哲男さんは

利休の素早い決断の背景に
茶の効用があったと語る。

そして 利休は 秀吉のもとで
独自の茶の世界を作り始める。

唐物にかわる
新たな茶道具を生み出していったのだ。

その一つが
庶民の生活に根ざしたものから

ヒントを得て作られた
この竹製の花入れだ。

漁師が使う魚籠を改良

これまでの焼き物にはない

柔らかく繊細な味を作り出した
この花入れは

低い身分から身を起こし

信長の後継者争いを勝ち上がっていった
秀吉の心を捉えた。

更に 利休は
茶碗にも革命を起こしている。

利休は 陶工 樂 長次郎と組み

ろくろを使わず 手づくねで作り出される
素朴な味わいの樂茶碗を

新たに生み出した。

…が お点前で披露してくれたのは

赤樂茶碗 小手巻。

樂家初代 長次郎が作り

利休が活躍していた時代から
使われているものである。

宗屋さんによれば この樂茶碗が

茶の湯の意味そのものを
根底から変えてしまったという。

つまり 道具に心を奪われることなく

人と人が じかに向き合い

心を通じ合うための茶の湯が
生み出されたのだ。

そうした利休の考えは
彼が造った茶室にも表れている。

京都 山崎の利休が造ったとされる茶室…

その広さは 僅か2畳。

極めて小さな空間に
主人と客が ひと碗の茶を挟んで

心と心で向き合う場を
利休は 創造したのだ。

裏切りが 日常茶飯事で繰り返された
戦国時代。

利休が作り出した茶の湯は

乱世を生きる人々の間で
瞬く間に受け入れられ

秀吉にも認められた。

利休にとって
願ってもない大舞台が舞い込んだ。

史上初めて
宮中で開かれるお茶会の仕切りを

秀吉から任されたのだ。

その3か月前
天皇から関白という官位を得ていた秀吉。

それは 武士にとって 前代未聞の出来事。

秀吉は 天皇に対し
茶の湯で返礼したいと考えたのだ。

だが 一つ問題があった。

町人は 宮中には
参内できない決まりがあったのだ。

しかし 正親町天皇が

僧侶に準じる身分を表す

利休居士という号を与えてくれた結果

利休は 無事
宮中での茶会を仕切ることができた。

表千家に伝えられる 利休の書状には

宮中で催された
初めての茶会を
無事につとめ上げた

誇らしい気持ちが
記されている。

「世の中に これ以上
面目が立つことがあるだろうか」。

こうして 利休は

名実ともに
豊臣政権の茶頭の頂点に登り詰めた。

一方で 利休には
茶の湯の革命児以外の顔もあった。

それが 政治の舞台裏を知り抜いた
情報通の顔だ。

当時 大坂城に登城した大友宗麟は

秀吉の弟で
豊臣政権のナンバー2であった秀長から

こう言われている。

茶会を通じて さまざまな情報に
接する機会があった利休。

彼は そこで得た豊臣政権の内部情報を

息の合う戦国武将たちに
内々に伝えていた。

例えば 利休七哲と呼ばれた弟子の一人
細川忠興には

家老宛ての書状を通じて
家康の動向を事細かに伝え

徳川家との
人質交渉の内容についても触れている。

全国に多くの弟子を持っていた利休。

彼は そのネットワークを利用して

各地の戦国武将たちの
豊臣政権に抱く感情や

それぞれの思惑をくみ取ることができた。

いつしか彼は 豊臣政権を陰で支える
押しも押されぬ存在になっていた。

秀吉は 宮中で2度目の茶会を開いた。

その時 持ち込まれた趣向が これだ。

黄金に輝く 組み立て式の茶室。

待庵の対局にあるような
この黄金の茶室の輝きには

天皇から 関白というお墨付きを得て

まさに 天下人に駆け上がらんとする
秀吉の自信が満ちあふれていた。

今回も 多彩なゲストの皆さんに
お越しいただいています。

よろしくお願いいたします。

まずは 戦国史がご専門の
小和田哲男さんです。

よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。

小和田さん 茶の湯は
織田信長によって

意味合いが変わった
ということですけど。

そうですね
まさに 茶の湯を

政治的に利用した 多分

最初の人物じゃないかなと
思います。

といいますのは
当時 戦国時代は

もちろん そうなんですが
武士たちにとって

土地が命なんですよね。

今 我々 一生懸命
一つ生きる命を懸けると書きますが

昔は 一所懸命
つまり 土地を得るがために

戦いに出て
殿様に認められようとしていた。

その土地に代わる恩賞として
茶道具を与えるようになったのは

信長からなんですね。
ですから 信長の家臣たちは

信長によって
茶道具をもらうことによって

茶会が開かれる。

その権利が与えられるということは
もう信長の家臣団の中での もう上位

重臣クラスに
引き上げられることになりますので

もう目の色を変えて 茶道具が
欲しい 欲しいということになりますね。

そして 利休の子孫でもあります
武者小路千家家元後嗣

千 宗屋さんです。
初めまして。

よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。

この利休が考え出した
道具や茶室で

茶の湯というのは どのように
変わっていったんでしょう。

利休はですね
ほとんど

それほど
その当時としては

見どころのあると
思われてなかったような

粗相な唐物の
道具をですね

繰り返し繰り返し 使って
茶会を催していた。

ところがですね その使い方に
いろいろ工夫がありまして。

例えば 持っている花入れに
花を入れずに

水だけ入れて床の間に飾る。

そうすることによって 花入れそのものの
美しさを際立たせるというような

見せ方を工夫したりも
していたわけですね。

そこが 利休のいわば創作の出発点で

その行き着いた先が
恐らく 先ほどのような樂茶碗という

一見 見た感じには
限りなく こう土くれのようなですね

非常に素直な これといって
いわば 中国の天目なんかに比べると

見どころのあまりないものですね。

実は 作為がないように
徹底して作為を入れて作っている。

で その中で 例えば 手に持った時に
ここに指が収まるとかですね

このスッと 口に当てた時に
スッと お茶が流れるとかですね。

そして また茶室というものもですね
それまでは 書院の広間に

それこそ
唐物の名物を飾り立てるような

豪壮華麗な茶会が行われていたところ
利休はですね

膝と膝を突き合わせて
お互いの心の動きまで

見透かされるような距離感の
茶室というものを創造した。

しかも 全部 土で塗り回された
今で言ったら

コンクリート打ちっ放しみたいな
空間なわけですね。

で そこに
この土の素材感そのもののような

茶碗を持ち込んで…

そうすると もう見るものっていうと
人とか心の動きとかですね

そういう むき出しの
人と人の心の交わり

うそ偽りのない お茶の世界では

直心の交わりという
言葉があるんですが

まさに そういう 人と人が
相対する場としての茶の湯というものを

新たに創造していったんじゃないかなと。

そして 今日はですね 特別に
千さんが 利休直筆の手紙を

借りてきてくださったということで。
あ~ 何より。

まず その内容というのは
千さん どういう内容なんでしょう。

はい これは つい最近ですね
再発見された利休の書状でして

宛名はですね
芝山監物という武将。

利休の七哲の一人に

数えられている
人物なんですが

興味深いのがですね
宇治の茶師ですね

上林という 今も続いてられる
お茶の名家ですけれども

その上林から手紙が来たと。

そこによるならば
来る18日に

手初め いわゆる
お茶の初摘みを行うと。

ところが最近ですね 宇治で
新たに 茶室を建てて

そこで 内々に
利き茶をしようとしている人がいて

そちらに 先に
お茶を回されてしまったらですね

自分の手元に届くのが
二番茶になってしまうと。

二番手になってしまうと。
それは どうしても

自分は納得がいかないから
自分からも そのように伝えるけれども

あなたからも よろしく
とりなしてほしいというような

手紙でございます。

で 今までですね
肝心のお茶そのものに関しての

利休との関わりというのは 私は 案外
等閑視されている気がするんですね。

ところが この中でもですね

18日の朝に
たいまつで
お茶を摘むと。

つまり 朝露を
含んだ一番茶を
摘むんだと。

やっぱり 朝露を含んだお茶が

一番おいしいというふうに
言われてますから

利休さんというのは
お茶の味そのものに対しても

なみなみならぬ こだわりがあって

恐らく いい畑であるとか
いい茶師をですね

独占的に押さえてたんじゃないかなと。

つまり
お茶がおいしいっていうことは

誰でも分かるわけですから
いわば 利休は まず…

二番じゃ 絶対駄目なんですね。

今年のお茶の味の情報は
私が 一番最初に入手しておって

…て やらなければいけないっていう。
それは当たり前ですよね。

日本一の茶人になるためにはね。

「上林ぬかり申し候」って
書いてあるんです。

ぬかりだ 迷惑だ 迷惑だ
って書いてますもんね。

そして 美術ライターの橋本麻里さんです。

橋本さん自身も
お茶をされるそうですけれど。

あ 千さんの弟子です。
ああ お弟子さんで。

茶葉によって変わるものなんでしょうか。

多分 それ以前の
闘茶というような

テイスティングできるほど
違うのかどうかというところは

私も分からないんですけれども

濃茶を千さんが
たててくださる時に

千さんが選ばれたお茶を
使われるんですけれども

練ってる時に
ふわっと香りが広がって

茶室中に青々とした香りが
ワッと わき起こって

本当に 空気が変わるんですよね。

で 当時の利休時代のお茶の葉が

そこまでのクオリティーだったかどうか
分からないんですけれども

やっぱり
それぐらいのインパクトっていうのは

あったんじゃないかなと。

でも やっぱり今のでも 新茶に
やっぱり すごくこだわった一つは

香りがあったかもしれませんね。

今ほど 保存技術は発達してないから

やっぱり お茶も
どんどん劣化していって

どんどん
香りが落ちていったと思うんですね。

だから 初摘みの
本当に摘んだばっかりの

いわば ファーストフラッシュの香り
っていうのは

本当に ご馳走だったんじゃないかなと。

ところで 秀吉の黄金の茶室が
映像にも出てきましたけど

これは 何て言うんでしょう

ちょっと語ってきた その
利休の目指している茶の湯と

私の中では ちょっとこう 相反する
派手で インパクトしかないといいますか。

ちょっと違うのかなって
思ってしまうんですが

いかがですか 橋本さん。

この映像で見ると 確かにね
こりゃ ないわって感じなんですよ。

なんですけど
実際に 中に上げていただいて

戸を閉めて
すると まあ見て分かるとおり

緋色のラシャが敷いてあって
入ってくる光は 赤い光。

で それが この黄金に反射して
何て言うんでしょうね

潤んだような赤というか
濃い蜜のような光というか

そういうものが満ちた空間になる。

そういう中に入ると 何かこう…

サイバー空間。

黄金の光の空間に
ポツンと 体だけが

あるいは もしかすると
知覚だけがあるみたいな感じになるので。

その 言ってみれば 待庵の…
さっきのゴリゴリの

土くれのような空間の中で
物が消えて 空間も消えて

洞穴の中で 直心の交わりをしている
ということと

もしかすると すごく
似ているんじゃないかっていう話を

それは千さんとも
何度もしてるんですけど。

この黄金の茶室は なぜ
この黄金の茶室が存在するかという

そもそもを考えると
天皇に献茶をするために

作られた茶室
ということがあるわけですね。

そして 利休の侘び茶というものは

自分の精いっぱい
持てるものの精いっぱいを尽くして

相手に尽くす 相手をもてなすのが
侘びの根本だと。

決して 粗末を装うことが
侘びではなくて

自分の持てる
精いっぱいの趣向を尽くして

客を迎えもてなすのが本来の侘びの精神だ
という考え方があるわけで

そうすると これは 天下を取って

日本中の物質的なものを
手に収めた秀吉ができる

精いっぱいの侘びのもてなしだ
ということも できるわけですね。

いわゆる 表面的な侘びさびが
先行してしまうがゆえに

ついつい その黄金の茶室は
悪趣味だ 成金だといわれるんですが

当時はむしろ この世ならざる光り輝く…

それを尽くした空間に いわば
この世の神様に 最も近い存在である

現人神である天皇様をお迎えして
お茶をするという

これは もう本当
秀吉なりの精いっぱいの侘び茶が

実は 黄金の茶室なのではないかな
というふうに

考えられる一面はあると思いますね。

黄金の茶室の新しい解釈論
この番組から出ましたね。

いや まさにそうですね。

今まで やっぱり私は
成り上がり秀吉が 天下を取って

自分の力を黄金で見せたい。

だから こういう茶室を作ったんだという
理解をしてたんで

今日 いろいろ 話 聞いてて
あ~ そういう解釈があるのかっていう。

これ ちょっとね 勉強になりましたね。

天正15年3月
秀吉は 戦のために九州に向かった。

敵は 北上を続ける島津義久。

その圧力におびえていた

豊後 大友宗麟の求めに応じて決断した
島津攻めで

なんと 20万を超える大軍を率いていた。

秀吉が力を誇示するその裏で
利休は 懐柔策を図っていた。

忠興の父 幽斎と連名で
島津家の家老に書状を送り

秀吉の行動は
天皇の同意を得ているもので

刃向かわない方が
得策ではないかと諭していたのだ。

その結果
秀吉の九州上陸を確認した義久は 降伏。

結局 島津義久は 薩摩一国が安堵される。

九州も平定。

利休の側面支援も受けながら

秀吉は 順調に
天下統一の道をひた走っていた。

だが そんな2人の絶妙な関係に
少しずつ亀裂が生じていく。

それは 秀吉が
天下統一の先に思い描く夢に向かって

踏み出した時に始まった。

舞台となったのは 九州 博多。

島津攻めのあと
この町に立ち寄った秀吉は

ある男と接触している。

明との間で交わされた勘合貿易で
財を成した

神屋一族の血を引く宗湛は
大陸や朝鮮半島の事情に明るい男だった。

どんな目的で
秀吉は 宗湛に会ったのだろうか?

地元 福岡で
中世の貿易史を研究する

内田寛樹さんは
秀吉のねらいを こう語る。

いわゆる その 兵たん商人ですよね。

宗湛は
秀吉が 天下統一の先に見据えていた

大陸侵攻の鍵を握る男だったのだ。

実は 秀吉と宗湛は
前年 大坂城で会っていた。

その仲介をした人物の名が
宗湛が残した日記に記されている。

石田三成は 太閤検地や刀狩りなどで
実績を上げ

当時 急速に台頭していた官僚。

まだ28歳の若さだったが

その実務能力を
秀吉から高く評価されており

もしも 大陸侵攻が実現した暁には

兵の輸送や軍事物資の運搬などを
取りしきる立場にあった。

更に 三成は

島津との戦で荒れ果てていた博多の復興も
秀吉から命じられている。

結果 行われたのが
太閤割りと呼ばれる 区画整理事業。

大陸侵攻の前線基地を整えるために
行われた この町づくりの成功で

博多の町は
急速に立ち直っていったという。

今も博多の町の一角にある 豊国神社。

秀吉の徳を たたえるために
博多の人々が 後に建てたもので

神屋宗湛の屋敷だった場所に
建てられている。

宗湛は 町の一等地に
実に400坪の屋敷を与えられていたのだ。

秀吉は 九州平定を祝して
北野天満宮で大茶会を開いた。

これは その時 掲げられたお触れ書きで

茶会には
庶民の参加も許すと
記されていた。

天下人 秀吉の勢いを

満天下に示そうと企画された
この茶会で

利休も もう一度
堺商人の実力を示そうと

今井宗久らの協力も得て
準備に奔走したとされている。

だが 10日間の予定だった茶会は
僅か1日で終了。

利休たち 堺勢の面目は
丸潰れにされたという。

しかも 堺の自治を象徴していた堀は
秀吉の命を受け 埋められてしまう。

天下統一は 間近。

豊臣の世になれば 外敵の脅威はなくなる
という理由からだった。

そんな中 更なる大打撃が利休を襲う。

利休と共に 長年豊臣政権を支えてきた
秀長が病死したのだ。

そして その直後

利休は 秀吉から 蟄居するように
命じられている。

理由は 京都 大徳寺の山門の2階に
利休像が置かれたこと。

その利休像は せった履き姿で

その下を 天皇や
関白 秀吉が通ることを考えると

甚だ不敬だとされたのだ。

だが 利休像の設置は
山門を修繕してくれた利休に

感謝を示そうとした 大徳寺側の判断。

利休に責任はなかった。

しかも 像が置かれて 1年以上

誰が見ても 明らかに言いがかりだった。

秀吉が 利休を遠ざけた背景には
どんな理由があったのか。

考えられる2つの説を
秀吉の脳内に分け入り 探ってみよう。

低い身分から身を起こし

さまざまな戦を経て
ようやく天下人になった。

だが これからは
身分制度をしっかりと固め

二度と下克上が起きない
体制を築く必要がある。

そのためには
町人出身の利休が得意とする

裏工作に頼る政は
そろそろ改めるべきかもしれぬ。

そして 今後は 実務に優れ

豊臣の世が永続するために働く三成ら
若き官僚たちを

大切にするべきではないだろうか?

秀吉にとって 豊臣政権を
維持発展させていく体制の構築が

どうしても必要だったのではないか。

そして もう一つ 有力な説がある。

それが 大陸侵攻表明説だ。

関東の北条氏も滅ぼしたし

東北の伊達も死に装束をまとって
恭順の意を表してきた。

今こそ 積年の夢である
大陸侵攻に取りかかる時であろう。

だが 武将たちの中には
ひそかに異を唱える者もおり

実は 利休も その一人だという うわさだ。

ここは ワシが大陸侵攻を
本気で考えていることを

明らかにするべきではないだろうか?

そして 利休の堺から
宗湛の博多へ

世は まさに移りつつあることを
天下に示すのじゃ。

果たして 秀吉は どんな思いから
利休に蟄居を命じたのだろうか?

まるで言いがかりのような理由で
秀吉は 利休に蟄居を命じました。

秀吉は 何を考えていたのか
2つの説を 先ほど紹介しました。

一つは 石田三成たち
実務派を重んじて

政治体制を刷新しよう
というものです。

もう一つ 2つ目の説は

博多を重要視して

大陸侵攻の本気度を
広く知らしめる
というものです。

秀吉は どちらの考えに
重きを置いていたのか

小和田さんだとしたら
どちらを思いますか?

私は やっぱり
1の政治体制刷新説という

その方が非常に まあ
強かったんじゃないかなと思いますね。

まあ 要するに それまで 秀吉の実の弟
秀長を いわばナンバー2として

まあ どっちかっていうと
密室政治的な形でやってきた。

それを いわゆる三成たち
まあ 官僚政治への転換。

これを やっぱり 考えたのかなと
思いますね。

で その大きな契機は もちろん
弟 秀長の死というのが 大きいんですが

もう一つ やっぱり
いわゆる 天下統一がなったという。

そういった意味での そこまでの…

まあ そういう判断をしたんだと思います。

一方で 磯田さん あの
秀吉が 大陸に進出するためには

博多という土地は
非常に重要な場所だったんですね。

もう 博多は 大陸の玄関口ですよね。

ですから… しかも このころっていうのは
火縄銃に込める硝石とかは

戦略物資は 博多経由で来ますね。

九州からやって来ます
あれ 輸入品ですから。

だから 最終的に 博多 通ってきたものが
堺で買ってるというような状態ですよね。

で 商人っていうのは さっき出たように
戦略物資を扱ってますから…

だから この人たち
やっぱり 把握しておきたいんですよね。

っていうか そうしないといけない。

そうすると やっぱり
堺の人々 まあ 利休も含めてですけど

堺の堀を埋めたりとか。

やっぱり お前ら
これまでとは違うからなっていう

態度を取り始めたのは
事実だと思うんですよね。

ただ その 何で そんなことされたのか
っていうと…

自分たちが やらなくたって大名
自分の船で どんどん輸入品入れるから

もう 博多にしたって 堺にしたって
商売上がったり。

それは 一時 軍事需要で攻める時に
船 出したりして

まあ 誰か何人か 神屋宗湛のような人は
もうかるかもしれないけど。

ほかの博多の商人からしたら
全然 お金にならないんで…。

「やめてください 秀吉さん」とか
言われると

「けしからん」って言って
すぐ蟄居させられたりとかいうことが

いっぱい起きてたんですよ この当時。

そもそも 秀吉が言ってたのって

既に 明を宗主国にしてる
朝鮮国王に対して

日本に入貢しろみたいな…

こんなに分かってない この人で
大丈夫なのかみたいなことを

博多商人の方では 思ってたと思うので。

まあ 戦争は成功しないよね
みたいな感覚は

あったんじゃないかなということは
思ったりします。

つまり 一碗の中で
それこそ まあ お茶を回し飲む。

そして 同じ香りを嗅ぎ
同じ味を味わうということは

つまり 平等になるっていう
メッセージ性が

非常に強烈に発信されたわけで。

それが可視化された
儀式化されたものだったわけですから

それは 非常に やっぱり こう 秀吉が

この上下関係をしっかりと作り直した
体制を作る時に

ある種の危険思想でも
あったのではないかなというふうに。

それを まあ いわば…

なるほど。 いや 何か
これまで関係性がよかったわけだから

そんな蟄居までしなくてもいいのにって
私は 思ったんですけれど

本当に もしかしたら そこに

恐れみたいなものを感じてた可能性がある
ということですかね。

それとね よく お茶席で
一期一会って言うけど

利休の言葉で言うと 一期に一度の参会。

一生一度の集まりだから
そこまでは分かるんですよ。

その先に書かれてることっていうのは

私はね 読んだ時に
ちょっと恐ろしくなったというのがね

その亭主さんの一挙手一投足を
全部しっかり見ろと。

それで 怖ずべきって書いてるんですよ。

怖ずべきっていうのは
おどおどするっていうか 恐れをなせと。

それはね あの空間に入ったら
俺が 支配者だって言って

この にじり口を こう…
そもそも あれ頭下げさせられますよね

能の文化から来てる…
ねずみ戸から来てるわけですけど。

頭下げさせられて 中入ったら…。
しかも 刀も外すわけですからね

丸腰ですよね。
一生一度の会だと思えと。

俺が やってる手から 作法からを
全部 一挙手一投足 見て

恐れをなすかのように見て

最後まで緊張していろ
っていうわけですから。

偉そうなやつめって思ったって
おかしくはないわけですよ これは。

そうすると もう駄目ですよ これは。
アハハハハ。

橋本さんは どう考えますか?

自分と すごく似てるのに
更に その上を行く人に対する…

では 蟄居を命じられた利休のその後を
ご覧いただきます。

利休の発案のもと 初代長次郎が
手づくねで作り上げた 樂茶碗。

だが 茶の湯に革命を生んだ
この樂茶碗の黒を

秀吉は嫌ったと言われている。

博多商人の宗湛が
残した日記に

こんな記述がある。

「上様 黒茶碗がお嫌い」。

そんな黒茶碗を

利休が とある茶会で
秀吉に出したとされる記録が

後世に残されている。

上様が
黒茶碗を嫌っていらっしゃることは

重々承知しておる。

しかし 私が望む茶の道は

この黒茶碗のように
道具が その存在を消し

碗を手にしていることすら忘れた中で

招かれた客と主人が 狭い茶室の中で
じかに心を通わせるためのもの。

たとえ 上様の勘気に触れようとも

譲れないものは譲れない。

我が道を行くのだ。

京都御所の近くにある晴明神社。

その一角に 利休が暮らした屋敷跡の碑が
置かれている。

このすぐ近くに

秀吉の京都での住まい
聚楽第があり

秀吉の最側近であった利休は
ここに暮らしていた。

蟄居を命じられた利休は
屋敷を出て ふるさと 堺に向かった。

船に乗り込み まさに
都落ちしていく利休を見送る者がいた。

利休七哲の一人 細川忠興。

万一 秀吉に知られれば

そのげきりんに
触れるかもしれない
覚悟を固めた上で

忠興は敬愛する師の旅立ちを
見送ったのだ。

その後 堺に戻った利休に対し

さまざまな武将たちが

秀吉に 詫びを入れるように
説得を重ねたという。

だが
利休は 最後まで首を縦に振らなかった。

いつまでも詫びを入れてこない
利休に対し

いらだった秀吉は ついに切腹を命じた。

2月28日未明。

利休は 潔く腹を切り
70歳の生涯を閉じた。

翌文禄元年 秀吉は大陸侵攻を開始。

時代は 大きく動き出した。

その2年後。

秀吉は 利休が愛用していた茶道具を
利休の遺族に返還。

今日まで続く 表千家 裏千家
武者小路千家の道を開いた。

その後も 秀吉は
しばしば 利休の茶を懐かしむ言葉を

周囲に漏らしたと伝えられる。

(鐘の音)

死後430年余り。

今も 営々と続く月命日の法要。

武者小路千家 第十四代家元は
利休の存在を こう語った。

利休さんは どこのジャンルに入るか。

まあ 一種の マルチ…

信長に見いだされ 秀吉に仕えたあと
切腹して果てた 千 利休。

茶の湯は 日本独自の文化として
今日まで継承されてきた。

その原型を作り
今も「茶聖」として君臨する彼が

その命を懸けて守ろうとしたものは
一体 何だったのだろうか?

利休は 蟄居の末
切腹して その生涯を閉じました。

小和田さん なぜ 利休は

秀吉に謝って 生き延びようとは
しなかったんでしょうか?

そうですね。
利休の方から 頭下げていれば

多分 切腹までは いかなかった
と思いますね。

ただ まあ 利休の方からしてみると
やっぱり 謝れなかったっていうか。

これ まあ 自意識過剰と
言えるかもしれませんけども…

利休の 何て言うんでしょう?
言葉とか行いとか そういうものが

金科玉条のように
伝えられていくんじゃなくて

一旦 切断されて しかも
アンタッチャブルなものになることで

何度も何度も あとの時代の人たちとか
弟子や 更に その先の人たちが

参照し直すとか 考え直すとか
そういうものに なろうとして

未完の死を遂げることを選んだのかな
みたいなことを思ってます。

利休の美 みたいなことなんでしょうかね
それが。

何か そこに空白があった方がいいと
そういうイメージですね。

実は 利休自身が その自分の死
というものを演出した節がある

歌が残ってるんですね。

利休が その娘に
亡くなる前に書いた辞世の和歌

というのが ありまして。

つまり 私 利休は
これほどの果報者であると。

なぜなら
非業の死を遂げて 亡くなる。

これは 菅丞相…
つまり 菅原道真公

自分は 天神様になるんだよと。

…ということを歌を詠んだ
というふうに いわれてまして。

さっきの和歌でもね

「利休めは とかく果報」という言い方と
「とかく冥加」…

これは 一緒なんですけど
そのあとが面白くて

「菅丞相になると思へば」

菅原道真になると思えばっていう
写本もあれば

恐ろしいのが
結構 残ってるんですよ。

「現人神になると思へば」
っていうのもある。

これ 結構 古い写本にも出てくる。

で これ考えると 「俺が神だ」。

皆さん想像してください。
もう一人 いますよね? 信長ですよ。

要するに 俺は神になるんだと。
そこのね 「俺が神」って…

もう絶対
言いだしたら聞かないんですよ。

私ね 歴史上の人物の中で
信長ほど 人を見極める力

人目利きっていうんだけど
人目利きな人 珍しいと思うんですよ。

何せ自分を殺す力のある人間を
選んだんですよね。

あの… 明智光秀。

だから やっぱ ずっと こう 見てて
やっぱり 利休だわって。

この男 深いわって
きっと思ったに違いなく…。

あと 2人とも 新しいこと
極めて好奇心が強い人ですよね。

地球の裏側で 何が起きているかとか
あそこに 何があるかとか

集め尽くし 選び尽くさないと
気が済まない2人ですよ

信長や利休っていうのはね。

これがね
やっぱり あの時代の人だと思いますし

彼なりの 何か大切な守りたいもの
伝説化するんだと。 もういくぞと。

で 謝らなかったことは
大体 過去の彼の発言からも

想像がつくんですよ。

彼にとってはね。
闘う茶人! ええ。

いや 今日は
千 利休の半生を見てきましたけれど

最後に 利休の人生から どんなことを
皆さん 感じたのか 伺いたいんですが。

千さん いかがでしょうか?
はい。

いまだに こうやって 400年たっても
その作り上げた道具 価値観 思想が

これだけ多くの人を
感動させて 動かして

まあ 私も その末端といいますか
いまだに 利休に

いわば 動かされている人間の一人でも
あるわけですけれども。

考えたらですよ
先ほどの利休忌じゃないですけれども

毎月ですね 28日に必ず 日本全国

あるいは 最近は SNSなんか見てると
海外で お茶をやっている方でもですね

利休忌で
利休さんを しのんだりしているわけで。

世界中で 毎月 命日に
自分のことが しのばれている人って

歴史上 よっぽどの王様でも
いないと思うんですね。

宗教家じゃないのにね!
そうなんですよ!

でも これは 多分 利休が
やはり 悲劇の死を遂げた

まあ いわば
その未完成で終わらせたように

結果として見せたからこそ

後に残された人が 必死に
その利休の思いを つなげてですね

残してきたから。

だから 利休さんが
本当に そのまま切腹せずに

天寿を全うしていたら
ひょっとしたら お茶は

残っていなかったかもしれませんね。

うん まさに そうですね。

あのまま 自然に死んでったら

こんなに利休のことを 今の人たちが
ちゃんと受け継ごうなんていう

そういうあれは なかったと思いますね。

やっぱり あそこで むしろ…

そんな側面がありますね。

利休を こうやって 繰り返し しのばれ
学ばれ続けているわけなんですけれども

それだけのポテンシャルが まだある。

形骸化して学ばれているんじゃなくて

やっぱり いまだに 何て言うんでしょう?

黄金の茶室に入ってみても
待庵に入ってみても

すごいな この人って 思うんですけど。

それが あまりにも すごすぎてというか

その利休を超える茶人が
その後 400年出てこれてるのか

みたいなことを考えた時に

創造のビッグバンが大きすぎて
何と言うか

そのあと どうすればいいのか
というのは

結構 難しいなっていうのは思いますね。

利休は 本当に クリエイティブで
いろんな常識を破り

いろんな楽しいことをしたんですね。

で ところが 現在 やっぱり

お行儀作法として
お茶が使われる局面もあって

それは 悪いことでは
むしろ ないんですけれども

そこに とどまったら

本来の利休の面白さを
味わわずに終わることになるから

っていうことはね やっぱり 考えますね。

で あの時代ですから
本当に 中世の人で

もう「一期は夢よ ただ狂へ」みたいな
ああいう精神の中で生きてるから

明日 死ぬかもしれないので

我々も 本当に 恐ろしい疫病の中
生きてるから

それを ものすごくね 感じました 利休の。

やっぱり 思うんですよね。

あの… 「今日は茶があった」
という言い方が好きでね。

でね これがね いい一日なんですよ。
今日は茶があったっていう。

これを目指すっていうのがね

必ず死が訪れる僕らの 深く生きる
っていうことだと思うんですよね。

ここを
多分 利休は 見つめたのではないか。

だから あんなに人を狂わせるんですよ
お茶はね。

ある種 じゃあ 秀吉も狂わされた身だった
ということですね。

しかし 千さんの身としては
かなりプレッシャーが?

はい。 もう皆さんから
たくさんお言葉を頂戴して

思うところ ありますけれども。

ただ 私自身はですね やっぱり こう
特に このコロナ禍で いろいろな

まさに 今 予定調和が狂わされている
時代になっているわけですから…

まあ お茶の世界も
結構 苦境に立たされてまして。

ただ 改めて その濃茶を回し飲む関係
人間関係というのは

本来 もっと濃密で
信頼関係の上で成り立つような

そういう関係性で行われるものでも
あったわけですし

今 この時代に改めてですね
利休さんが 今 生きてられたら

どういうお茶を考えられただろう
ということを まあ真摯に考えてですね

まあ これからの新しい茶の湯
というものを

いま一度 古典を振り返りつつですね
まあ 精進していかなきゃいけないなと

今日 改めて
利休さんの生涯を振り返って

皆さんから しった激励を受けたと
思っております。

ありがとうございました。
いえいえ。

所信表明を頂きまして すみません。
(笑い声)

皆さん 本日は ありがとうございました。
ありがとうございました。

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