出典:EPGの番組情報
ガイアの夜明け 20周年SP【あの主人公&現場は今…】[字]
番組開始から20年。あの主人公&現場のこれまでの闘いの軌跡と今を取材。瀕死の銀行を救った…闘う頭取▽ユニクロ海外進出…あの若き店長は▽追跡!孫正義ソーラー計画
詳細情報
番組内容
2002年4月。日本経済が真っ暗闇の中でスタートした『ガイアの夜明け』。以来、“夜明け”を信じて闘う人々の姿を見つめ続け、今年4月で20周年を迎える。今回は放送枠を拡大し、これまでの番組の歩みを振り返ると共に、この20年とはニッポンにとってどういう時代だったのかを考える。さらに、主人公たちのその後を追跡取材。これからの20年、ニッポンはどこへ向かうのか、そのヒントを探る。
出演者
【案内人】松下奈緒【ナレーター】眞島秀和
音楽
【音楽】
新井誠志
【テーマ曲】
◆オープニング曲
「光~ray of light~」(松下奈緒)
◆エンディング曲
「夜明けのうた」(宮本浩次)
「ガイア」とは
ギリシャ神話に登場する「大地の女神」を意味し、後にノーベル賞作家のウィリアム・ゴールディングが「地球」を指して“ガイア”と呼んだことから「ガイア=地球」という解釈が定着している。「ガイアの夜明け」という番組タイトルには、地球規模で経済事象を捉えることで21世紀の新たな日本像を模索すること、そして低迷する経済状況からの再生=「夜明け」を目指す現在の日本を描くという意味合いが込められている。
関連情報
◆ホームページ
www.tv-tokyo.co.jp/gaia/
◆公式Twitter
@gaia_no_yoakeジャンル :
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
時代を生きろ。 闘い続ける人たち。
いちばん強いのが たぶん
危機感だと思いますね。
株価は こんなに
下がらなかったんだ!
もう五十歩百歩だよ
どうせ ここまで下がっちゃえば。
「ガイアの夜明け」が
スタートしたのは 2002年の4月。
当時は 金融機関が
大量の不良債権を抱え
企業の経営破綻などが
相次いだ時期です。
日本経済は真っ暗闇の中でした。
番組のタイトルに
「夜明け」とつけたのは
この暗闇から抜け出す様を
カメラに残していこう。
そんな思いからでした。
多くの人 多くの現場を
取材し続け
いつの間にか 20年がたちました。
トヨタやユニクロといった
大企業をはじめ
ニッポンのものづくりを
支えてきた町工場。
そして 新しいビジネスに果敢に挑む
ベンチャー企業や個人の人たちまで。
「ガイア」が見つめた
この20年は なんだったのか?
そして ここから探れる
次の時代へのヒントを
今年1年かけて
探っていきたいと思います。
ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
今回の 「ガイア」は
これまで取材した闘う人たちの
その後を追った特別版。
金融大改革のさなか
生き残りをかけて闘った頭取。
そして クリーンなエネルギーを求め
自ら風車を建てた男。
また 日本を代表するアパレルメーカー。
12年前 その海外進出に密着。
現場で苦悩していた若きエース社員。
決断の時。
しかし そこには
預金者の およそ33兆円と
社員2万2, 000人の
後ろにいる家族の運命。
更に この私たちの血と汗の税金。
そして…。
生活が かかってるんです。
2002年 「ガイアの夜明け」
第1回放送の主人公は
この方でした。
大手都市銀行
あさひ銀行の頭取 梁瀬行雄さん。
当時 57歳。
そうですね。 若干 12月は
厳しかったんですけど
今期中には ちゃんと目標どおり
達成できると思います。
<就任早々 梁瀬さんを
突然の株価下落が襲いました。
100円台を維持してきた
あさひの株価が
70円台に落ち込み
信用不安を招いたのです>
<大手銀行のあさひが なぜ
破綻をうわさされる
銀行にまでなったのか?
梁瀬頭取は 正当な評価を
受けていないと反論。
しかし そのかいもなく
預金者は去りました。
その額は 実に1兆円>
2002年は
金融業界の大改革を断行した
日本版金融ビッグバンの最後の時期。
1990年代から都市銀行は
生き残りをかけ 次々と合併。
今の形になっていくのです。
その波に
乗り遅れた銀行の一つが
梁瀬さん率いる
あさひ銀行でした。
そして このとき
話題になったのが ペイオフ解禁。
それまでは
顧客の預金は全額保護。
それが 1, 000万円までなら
守るとなったのです。
<ペイオフ解禁が迫るなか
定期預金の解約に来る
お客さんが絶えません。
これ以上の流出を防ぐため
現場では説得が続いていました>
< こちらのお宅へは
新しい定期預金の契約を
お願いしにきましたが
やはり ペイオフが話題になりました>
新聞にも
そう書いてありますでしょ。
< お客さんからの厳しい言葉。
しかし このお宅では
定期預金の契約ができました>
梁瀬さんは
5, 300億円もの赤字を覚悟し
一気に不良債権処理を
進めることにしました。
変革の180日と名づけて
挑んだのです。
<頭取の梁瀬さんは
あさひ銀行から
会長のポストをなくしました。
頭取室から会長室までは 40m>
まったく今の私の部屋と
同じ造りになっていて
ここに会長秘書がいて…。
<11年前 協和と埼玉の
合併で生まれた 2人のトップ。
決断の遅い体制では 危機を
乗り切れないと判断しました>
ですので まったく同じ
造りになってるわけですよね。
ここに会長がいて
向こうに頭取がいたと。
従って 片方が片方に
話が かりにあるときには
電話のほうが早いと。
(笑い声)
<誰もいない役員室。
役員たちにも
各部署に降りてもらいました>
梁瀬さんは 事あるごとに
私たち 「ガイア」の取材班を
招き入れ
再生へと向かう銀行の姿を
見せてくれました。
その頃は まさに あさひ銀行が
関西にある大手都市銀行
大和銀行グループと統合し
生き残ることを
模索していた時期です。
<1月24日 あさひ銀行にとって
最後の株主総会。
梁瀬さんは
総会の冒頭におわびをし
できるかぎり 株主の話を
聞くつもりで臨みました>
本年度の
赤字決算の見通し および
配当金の実質的な
減額の見通しと併せまして
この場で改めて皆様方に
おわびを申し上げます。
それでは 第1号議案
本議案につきまして
ご異議は
ございませんでしょうか?
(一同)賛成!
<一抹の寂しさを抱えながら
最後の総会は終わりました>
最後 ほら 立ったあと
これが最後だって
言ったときあったでしょ?
ちょっと やっぱり
胸にきましたよね。
それが よくわかりましたんでね
そういう意味では丁寧に…。
できるだけ丁寧にと
思ったんですけど。
株主総会から2か月後の
ここまでで 「ガイアの夜明け」
第1回の放送は終了。
こうして誕生したのが
りそなでした。
しかし その1年後
りそなは経営危機に。
2兆円もの公的資金が注入され
実質 国有化されたのです。
番組が始まった
2000年代の前半っていうのは
やっぱり経済的に厳しいニュースが
多かったんでしょうか?
そうですね 金融危機は
97~98年が 混乱のピークで
番組にも出た りそな銀行が
ここにも ありますけれど
公的資金を受け入れた。
これが 最後なんですね 混乱の。
で この間は
ホントに薄氷を踏むような
経済状況が続いていると。
で 全体として大きな会社
大企業が
正社員を減らしてですね
少人数にして
非正規の人を増やすことで
なんとか コストを減らして
やってきたんですけれど
新しい産業が
なかなか生まれなかったという
そういう状況ですね。
今につながる問題だと思います。
私たちは 梁瀬さんに
再び 話を聞くことができました。
(スタッフ)よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
当時 どんな思いで
銀行の舵取りを
していたのでしょうか。
その信念ですよね。
しかし りそなの船出から1年。
梁瀬さんは 公的資金が
注入される責任を取り
銀行を去ることに。
全く何もできないまま。
その後
数年前まで 経済の第一線で
活躍してきました。
実は 「ガイア」 梁瀬さんら
旧経営陣が退陣したあとも
りそな銀行に
取材を続けていました。
これを放送したのは
番組開始から2年目のことです。
<代わって
りそなの再生を託されたのは
畑違いの経営者>
<JR東日本の副社長
細谷英二さんです>
<国鉄の再生に
実力を発揮した細谷さん。
彼の目に映った りそなの現状は
かつての国鉄にそっくり。
旧態依然の体質です>
就任の際に
< そんな りそなを改革すると
宣言した細谷さん。
まず 目を通したのはお客さんから
寄せられた苦情の数々。
その内容に
改めて がく然とします>
そして 社員にこんなことを。
更に 細谷さんは
予告なしに支店を回る
抜き打ちチェックを繰り返しました。
お客様に 自分たちの顔とか。
今月は
こういったテーマでやってます。
ちょっと くだけてますけど。
へ~。
こういう 小さい 一つ一つの
積み上げでしか ないんですよね。
りそなの東京本社を訪ねました。
りそなホールディングスの今の会長
東和浩さんです。
東さんは あさひ銀行時代は
梁瀬頭取のすぐそばで。
そして 細谷さんが
会長となってからは
その直属の部下として
支えてきた人物です。
今回 改めて
当時の番組を見直したそうです。
1兆9, 600億なんですけれども。
当時 番組でも
言われましたけど…。
番組では
こんな表現で訴えました。
でも 2兆円もの税金が
りそなの負の遺産を
一掃するために使われたんです。
そのお金は 約束どおり
戻ってくるのか?
そして
しかし しっかりと…。
というふうに考えております。
約束どおり…。
りそなは 不良債権の処理を
一気に進め
2004年度から
規模は
メガバンク3行に及びませんが
貸出先を見ると
個人や中小企業が8割以上。
金融業界で
独自のポジションを築いています。
今のりそなを
東会長自ら 案内してくれました。
(スタッフ)ガラス張りの
経営っていいますけど
本当に ガラス張りなんですね。
そうです そうなんですよ。
見通しのよい
会長も社長も
皆 横並びで仕事をしています。
岩永社長。
岩永さん。
で その向こうが浅井さん 副社長。
そうですね ちょっと じゃあ
東さん 私たち
「ガイア」の取材班が来たら
絶対に見てもらおうと思った
場所があるといいます。
そこは いったい…。
これは あの…。
19年前 「ガイア」が追いかけていた
りそな銀行。
改革を進めた 細谷さんは
今 どうしているのでしょうか?
直属の部下で 現在は
りそなホールディングス会長の東さんが
ある場所へと案内してくれました。
これは あの
番組にも出た ずっと
やっぱり
実は 細谷さん
公的資金返済の
道筋をつけたあと
2012年に病に倒れ
亡くなりました。
67歳でした。
そのときの
今も 新入社員の研修で
必ず見せる映像があるといいます。
それが これです。
細谷さんが りそなに
やってきたばかりのとき
社員に語りかけた あの映像です。
それを
お別れの会で 社員が…。
りそなに根づく
それが ひと目でわかる場所が
あるというので
行ってみることにしました。
大阪 枚方市の
商業施設の中にあるのが…。
更に 窓口では…。
始まって りそなショック以降は…。
あれ? 店に
まだ お客さんがいます。
多くの銀行が
午後3時で窓口を閉めるなか
りそな銀行は 全店
午後5時まで営業しています。
一部の店舗では
土日 祝日も開いているのです。
実は この
その第一歩を 「ガイア」は
19年前に取材していました。
<銀行の激戦地 新宿西口。
その りそなの支店で
ある試みが始まりました>
<支店の窓口といえば 通常は
午後3時に閉まるもの
それが 日本の常識です>
<決算が合い いつもなら
これで 本当の閉店となります。
ところが この日は
ここからが本番でした>
今日から 平日の営業時間
延長ということで
まもなく…。
<夜間なので 窓口は
融資係などの男性が担当します>
あぁ。
はい。
はい 大丈夫です。 聞きますよ
また わからなかったら。
<女性行員が教えます>
大丈夫ですよね。
いらっしゃいませ。
いらっしゃいませ。
< こちらも初めてなら
お客も もちろん初めて。
互いに戸惑いながらの
手探り状態>
変革を恐れないのが 細谷イズム。
現在の りそなの経営トップは
どう考えているのでしょうか。
我々は
というふうに思ってまして…。
変えようっていう。
一方 ここにも
細谷イズムを受け継ぐ人が。
りそな大阪本社に勤務する
藤原明さんです。
ところが 入社11年目に始まった
細谷改革が
藤原さんの転機に。
当時 細谷さんが打ち出したのは
地域との連携を深めること。
そこで 藤原さんが
最初に取り組んだのが…。
地元の商店街にある
支店限定の定期預金。
証書を入れる封筒に
住民に愛されている
天満宮の御朱印をおすことを
発案しました。
その御朱印は 一つ一つ
藤原さんが
手でおしていったのです。
これまでの銀行ではありえない
藤原さんの試みに対して…。
話だったんですけど。
しかし 藤原さんの このチャレンジ。
蓋を開けてみると…。
これで したりですね。
次に 藤原さん
キャッシュカードのデザインに
地元の若手アーティストたちの
作品を採用。
これも 大きな評判を呼びました。
このような
地域の活性化につながる企画を
その後 500以上も
立ち上げたといいます。
こうした藤原さんの活動を
後押ししたのが
あの 細谷さんでした。
細谷会長にですね 直接…。
失礼します。
この日 藤原さんが訪れたのは
三重県にある 建築資材の会社。
着くなり 工場へ。
何をするのかと思えば…。
そうですね。
企業の中に入り込んで
業務改善などを
支援しているのです。
お客さん目線の新たなサービス。
細谷イズムが進化していました。
今年
りそなグループに
新たな会社が誕生しました。
藤原さんの
これまでのノウハウを生かし
中小企業の課題解決を
支援する会社です。
細谷さんが残した 新たな銀行像。
これからも受け継がれていきます。
番組開始から20年。
「ガイア」は 海外で闘う人たちも
追い続けてきました。
取材で訪れた国は
70ヵ国以上に上ります。
中でも 最も多く訪れた国が
ここ 中国でした。
ものすごい勢いで発展している
この国の 13億人マーケットを
今 世界中の企業が狙っています。
日本も 乗り遅れるわけには
いきません。
王者トヨタが
総力を挙げて挑む
中国進出の物語。
2002年 世界のトヨタが
中国に初めて工場を建設。
中国 本格進出の瞬間に
立ち合いました。
コンビニ王者 セブン-イレブンの第一歩。
更に あのアパレル王者の進出にも
密着しました。
自信満々だった若きエースを襲った
挫折。
そして 現在の姿も 追跡。
♬~
<世界は 新しい日常へと歩みを進めていく>
<見えない不安の先を 見通す眼が必要だ>
<キヤノンの 社会を見守る映像技術は
カメラから得られる多様な情報を解析>
<より安心で より自由な
新しい暮らしの可能性を 見える化していく>
<ひろげよう まだない視界を>
<今年5月
ユニクロが打って出たのは
中国 上海。
看板には
「上海から世界へ」の文字が>
<店長は この人。
立候補して やってきた…>
<黒瀬さんは
<エースです>
当時ユニクロは…。
積極的に
海外に打って出た時期でした。
< ところが…。
黒瀬さん 着任早々
苦戦していました。
言葉も通じません>
これさ ブラケットのほこりとか
取らせてないだろ ほとんど。
誰が見てもさ この汚れってさ
こんな汚れだよ。
いい? わかる?
<部下となる中国人は
およそ300人。
オープンに備え 半年かけて
研修を積んできました。
それでも まだ
商品を雑に扱う人が多いのです>
なんで… 落としてさ
このまま上げたでしょ。
いいの? それで 商品。
どうしないといけないの?
このまま ダメでしょ。
いいですか これ 高いですからね。
当時の上海は
万博が開催されるなど
すさまじい勢いで
発展していました。
給料も うなぎのぼり。
世界の工場だった中国が
消費大国へ
変貌を遂げていました。
<オープン目前の ユニクロ 上海旗艦店。
連日 深夜まで
作業が続いていました>
<上海では平均的です>
< ところが…。
思いもよらないかたちで
彼らの不満が爆発したのです>
<連日の残業で
辞めたいという人が続出>
その会社には いつ
入らないといけないのか
みたいなところを
聞いてもらっていいですか?
マジっすか。
会社と約束して
今日の午後2時までに
会社に戻るという約束…。
<日本では考えられない事態が
続き
黒瀬さんは
追い込まれていました>
<家族を残しての単身赴任。
誰もいない部屋で
自問自答します>
黒瀬さんは
すぐに行動に移しました。
自分から積極的に現場で動き
見本を示したのです。
そして スタッフの話にも耳を傾け
少しずつ 信頼関係を
築いていきました。
<オープン5日前の朝礼。
これ以上 退職者は出せない。
黒瀬さんは
従業員に問いかけました>
土日前だよね。
< すると 1人の中国人が
語り始めたのです>
(掛け声)
(拍手)
<店が一つになった瞬間でした>
僕のほうからね
ちょっと話したい…。
<オープン2日前 上海に
柳井社長がやってきました>
<地元メディアを集めた
店のお披露目会です>
~
< ここで黒瀬さんは柳井社長に
あることを訴えたのです。
それは…>
はい。
いろいろ 今日は…。
結構…。
いや 直訴やなしに…。
はい 儲け… 利益出しますから。
はい 当然 そのとおりだと…。
<利益を出せる店にしないと
給料は上げない。
社長からは きっぱりと
言われてしまいました>
< そして オープン当日。
中国でいちばんの品ぞろえ
と聞いて
新しいもの好きな上海っ子たちが
殺到したのです>
<日本と ほぼ同じ値段。
中国の人にとっては
決して安くないジーンズが
飛ぶように売れました。
初日の売り上げは
目標の10%増し>
僕たちで取ったんだよね!
明日も取るよ!
(中国語)
ジャーヨウ!
(一同)ジャーヨウ!
黒瀬さんのような頑張りが
世界中で起こり
ユニクロの海外進出は この12年で
7ヵ国から20ヵ国以上に。
売上高は 2兆円を超えるまでに
なったのです。
ところで あの黒瀬さん
今どこで
何をしているのでしょうか?
こんにちは。
そこは どちらです?
お元気ですか?
元気です。
ちょっと
お顔を見せてもらって…。
おぉ お若く見えますね。
いえいえ…。
おいくつに?
12年ぶりに再会した黒瀬さん
更に 驚きの変化が!
(息子)
父さん 引っ越しくらい プロに頼めよな。
(母親)また出掛けちゃったのよ。
これが父さんのお宝…。
あんたのカメラ好きは父さん譲りね。
しかし 風景写真ばっか。
家族でいるより
一人で風景撮りたい人だもんな。
そうでもないのよ。
<かけがえのない「時」を描き出したとき
「EOS」はただひとつの存在として完成する>
<その「EOS」は 世界にひとつだ>
父さん 写真うまいじゃん。
12年前 中国 上海で
「ガイア」が密着した ユニクロの若き店長。
その黒瀬さんが今いるのは
台湾です。
台北の…。
黒瀬さんは
あれからもずっと海外で勤務。
上海の旗艦店を
軌道に乗せたあと
2016年には
海外の重要な戦略拠点である
台湾のトップに就任。
今では
本体の執行役員も兼務しています。
ところで 台湾の店って
どんな感じなんでしょうか?
店内の雰囲気や
売っている商品は
日本と ほぼ同じです。
違うところはというと…。
こちらのほうですね
特に今 皆さんの生活に…。
このロゴは 台湾のコーラ。
そして 地元で人気のカップラーメン。
台湾の人にアピールする商品も
並んでいます。
その一方で…。
日本生まれの
ブランドだということも強調。
黒瀬さん CEOとして
台湾だけで
69店舗まで増やしました。
そして 黒瀬さん。
あれ 黒瀬さん
ずいぶんと中国語が…。
12年前は…。
今 落としただろって
通訳して。
<中国語ができない黒瀬さん
通訳を呼びます>
(中国語)
それが今では…。
(中国語)
すごく流暢。
今 黒瀬さんが力を入れるのが
人材の育成。
世界で通用する人物になれと
直接 語りかけます。
黒瀬さんが
大事にしているものがあります。
それは 柳井さんの本。
『経営者になるためのノート』。
ユニクロ流の経営哲学が
詰まっていて
空いているスペースに 自分でも
書き込めるようになっています。
「経営者の視点で
どう考えるのか?」。
「未来を創造し 未来に集中する」。
そういうときに やっぱり…。
やっぱり 読み返すと…。
今年の
台北市内のホテルの大広間に
現地のスタッフが 一堂に会しました。
冒頭に流されたのが
柳井さんのビデオメッセージです。
更なる成長を遂げるために
一層 グローバル化を進める
という宣言でした。
メッセージを承って…。
新たな
大きなチャレンジをやっていく…。
12年前 海を渡った黒瀬さん。
この先も 世界で闘っていきます。
<忍び寄る危機。
そのためには 何をすべきなのか。
海面上昇が現実化している
南の島を訪ねました。
赤道直下の国 キリバス共和国>
「ガイア」が 番組開始当初から
追いかけてきたテーマの一つが
環境です。
最初に取り上げたのは
地球温暖化で
島が沈むといわれていた
キリバスでした。
<キリバスの
<海岸線には 波風から
家を守るものは何もありません>
この頃 温暖化は 日本にとって
まだ 遠い国の話。
私たちにとって
身近な感じはしませんでした。
< この子たちが
大人になる頃には
大切で大好きな国は
どうなっているのでしょうか>
そして その放送の翌年には…。
今回の日経スペシャルは
風力発電という
クリーンなエネルギーの開発に
挑む人々の物語。
知ってますか?
今 あなたの身の回りに
巨大な風車が
続々と建っていることを。
<風車を
間近で見たことはありますか?
これです。
1枚のハネだけで
長さ 30メートル 重さは 4.5トン。
この巨大なハネで
電気を起こすのです>
今では 再生エネルギーの
本命といわれる 風力発電を
いち早く 取材していました。
<外部の人には 決して
見せることはない ハネ工場に
初めて カメラが入りました>
<一枚一枚 熟練の手作業で
仕上げる 風車のハネ。
軽くすると壊れやすい
重くすると回らない…>
そして このとき
もう一つ取り上げたのが…。
ここ 青森県の
鯵ヶ沢という村にも
風車にとりつかれた男がいました。
安定したサラリーマン生活を捨て
その男は 1本の風車に
人生をかけました。
<今年1月 青森県鯵ヶ沢町では
風車建設が進んでいました。
たった1本のこの風車
実は 市民が出し合ったお金で
稼働しようとしています>
< この事業を思いついたのは
地元 青森の三上亨さん 46歳。
三上さんは
< しかし 事業に専念するため
去年10月
安定した職を捨てたのでした>
冒険する人がいない
っていうことも
閉塞している大きな要因に
なってると思いますし…。
三上さんは 市民による
市民のための風車を作ろうと奔走。
このとき 地元 青森で 1億円の
出資を集めようとしていました。
出資すれば 2%から3%の
リターンがあると
住民に訴えましたが…。
<鯵ヶ沢町 5, 000戸のすべてに
ビラをまいたにもかかわらず
この日の申し込みは
わずか 4人でした>
その頃から 風力発電が
盛んだったのは ヨーロッパ。
三上さんは
デンマークのサムソ島を訪れました。
ここでは 三上さんが目指している
市民の手による風力発電が
すでに 根づいていました。
< この島の風力発電の責任者
ゾーレンさんです>
1基あたりの
風力共同組合の標準的な
出資者の数って
どのくらいなんですか?
我々も青森で
自然エネルギー100%コミュニティに
挑戦をしたい と。
どうもありがとう。
グッドラック!
サンキュー ベリーマッチ!
< しかし
まだ 目標額に達していません>
だから そういう環境でさ…。
あぁ これは やはり…。
<脱サラをし 市民出資型の
風力発電にかけた 三上さん。
夢は叶うのでしょうか?>
<最終金額の集計が行われます。
果たして…>
はい ありがとうございます。
乾杯!
(一同)乾杯。
あぁ うまいね。
(拍手)
まぁ 非常に
うれしいとともにですね
ちょっと ホッとしてるなという
感じがしますね。
職員の皆様には
ご苦労さま と言いたいですね。
ホントに 土曜 日曜も
夜遅くまで働いて
大変 お疲れさまでした
ということでした。
<青森の小さな漁村で生まれた
市民の手による 風力発電。
海風を受け 力強く回っています>
日本にある 発電用の風車は
今では 2, 574基に増えました。
しかし 今や 一から作る
メード・イン・ジャパンの大型風車は
ありません。
かつて取材した
三菱重工などのメーカーは
厳しい国際競争にさらされ
自社開発から撤退したのです。
一方 あの三上さんが人生をかけた
風車の今は…。
あの三上さんが人生をかけた
風車。
19年たった今も
同じ場所にありました。
でも 止まっています。
そこへ 1台の車が
やってきました。
降りてきたのは 三上さんとともに
風車を支えてきた
工藤さんと笹田さんです。
取材した日は 東北地方を
最大震度6強の地震が襲った
次の日だったのです。
安全装置が作動し
一時的に停止していました。
もしもし。
今日中に動くようにならないかと。
そういえば 三上さんは
来ないのでしょうか?
三上さんは
4年前に亡くなっていました。
61歳でした。
三上さんが生前
こだわっていた
ことがあったといいます。
ですから…。
三上さんは 約束どおり
出資者から集めた資金を
利息をつけて返し終えていました。
やっぱり
三上さんの思いは
これからも回り続けます。
この20年間で 大きく
変わったことのひとつとして
環境への取り組みっていうものも
あると思うんですけれども
このあたりは
いかがお考えでしょうか。
そうですね 日本はこの年表の
ずいぶん前ですけれど
2回にわたる
石油ショックがあって
そのときに…。
っていう一種の自信が
あったと思うんですね。
ただ それが…。
そこの
ルールからしたときに日本は
まだ石炭をたいてるんですかと。
化石燃料をこれだけ
使ってるんですかって
いうふうに言われて。
揺れる日本のエネルギー政策。
「ガイア」は2011年 原発事故のあと
にわかに脚光を浴びた
太陽光発電を取材していました。
主人公は この人。
<孫さんは メガソーラー
大規模太陽光発電所を
日本に10ヵ所作ると宣言。
800億円を投じる用意が
あることを表明しました>
< この日の来客は
世界大手の電気機械メーカー
スイスのABB社。
太陽光のシステムを
売り込みにきました>
このように太陽光発電が
注目を集めた もうひとつの理由
それは…。
太陽光発電で作られた
電気の買取額が
大幅に引き上げられたこと。
2011年の4月から
1キロワットあたり
40円になったのです。
このチャンスを逃すまいと
全国の自治体も
メガソーラーの候補地に
名乗りをあげました。
< ここにも候補地があります>
< そこは工業団地。
東京ドーム 2, 200個分もの
巨大な土地が広がっていました>
<苫小牧の岩倉市長。
自ら案内してくれました>
もうホントに
しかし 100日以上に及ぶ
取材期間中に
孫さんが メガソーラーを作ることは
ありませんでした。
ソフトバンクは あの苫小牧をはじめ
全国47ヵ所で メガソーラーを建設。
およそ20万世帯分を
発電しています。
更に ソフトバンクは SBエナジーという
子会社を作り
風力や地熱発電などへも
手を広げています。
孫さんから エネルギー事業を任された
社長の三輪さんは…。
まさに
そして エネルギーの未来は
次の世代へと
引き継がれていました。
それは…。
メガソーラーの近くに作られた
自然環境を学ぶ施設。
地元の子どもたちが
集まっていました。
子どもたちが作った この模型。
未来のエネルギーを生み出すアイデアが
いっぱい詰め込まれています。
ブランコ。
未来を担う子どもたちは
環境について
どう考えているのでしょうか。
「ガイア」の主人公たちが
つないできた思い。
次の世代に受け継がれていきます。
「ガイアの夜明け」が スタートして20年。
激動する経済の現場で闘う
2, 300人以上の人たちを
追い続けてきました。
世の中が または
自分を取り巻く環境が
どんなに悪くなろうとも
それを打開しようと
頑張る人たちが そこにいました。
暗いニュースが多い 昨今ですが
それでも 夜明けはやってくる。
そう信じて これからも
挑戦する人たちの姿を
見つめていきたいと思います。
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