100分de名著 ハイデガー“存在と時間”(3)「“本来性”を取り戻す」[解][字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

100分de名著 ハイデガー“存在と時間”(3)「“本来性”を取り戻す」[解][字]

「世間」において人間は誰でもない誰かとして生きている。すなわち、それは他者と交換可能であることを意味する。しかし「死」だけは交換可能ではないとハイデガーはいう。

番組内容
私は、誰かの代わりに死ぬことはできない。「死」は、それぞれがかけがえのない個人であることを思い知らせる。このように自分の死の可能性を引き受けながら生きることをハイデガーは「死への先駆」と呼び、非本来的な生き方から本来的な生き方へ向かう大きなきっかけであると説く。第三回は、「死への先駆」「決意性」といった難解な概念の意味を解きほぐし、人間が自分らしさを取り戻す生き方をするには何が必要なのかを考える。
出演者
【講師】関西外国語大学准教授…戸谷洋志,【司会】伊集院光,安部みちこ,【朗読】野間口徹,【語り】加藤有生子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格

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  17. 支配
  18. 正解
  19. 責任
  20. 態度

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

空気を読み
周囲と同調して生きているため

誰もが
交換可能になってしまいがちな人間。

しかし 一つだけ
交換ができないものがあります。

それは 自分の「死」。

第3回は ハイデガーの説いた
「死」の概念を入り口に

自分らしく生きるには 何が必要なのか
考えます。

♬~
(テーマ音楽)

♬~

「100分de名著」
司会の安部みちこです。
伊集院 光です。

ハイデガーの
「存在と時間」を読んでいます。

前回は 不安から逃れるために
みんなと同調し続ける

人間という存在について学びました。

世人でしたっけ?
ねえ 世人。

まあ空気を読む 簡単に言うと そういう
周りは どう思うの? みたいのに

無責任に ついていっちゃう。
まあ ここぐらいまでは来ましたね。

はい。 指南役 ご紹介しましょう。

哲学者の戸谷洋志さんです。
よろしくお願いします。

お願いします。
よろしくお願いします。

どうしても 人間は その世人という
いわゆる空気に飲み込まれて

無責任になりがちだというところまで
学んだんですけれども

じゃあ 責任を取って
生きていくというのは

どうしたら できると
考えているんでしょうか?

ハイデガーは
2つのキーワードを示しています。

まず1つ目は 前回 最後に予告した
「死」というものですね。

衝撃的な予告編ですよね。

そうだったんですよ。
えっ えっ 「死」なの? っていう。

ハイデガーは こう書いています。

世人に支配されている 「現存在」。

つまり 人間は
誰もが空気を読んで生きているので

誰がやっても
かまわないようなことをして

生きているわけなんですが
そうした交換可能性を

死に関しては
行うことができないのであると。

従って…

…と ハイデガーは考えました。

ここから…

…と 彼は訴えたわけです。

確かに 僕の死は
もう 僕のもんですよね。

僕以外に経験できないし。
そこまでは分かりますが まだ難しい。

そうですね。
そこからのスタートなんですね。

さあ では ハイデガーの語る
「死」の可能性を読んでいきましょう。

朗読は 俳優の野間口 徹さんです。

難解な表現ですが
簡単に言うと 私たち人間は

自分の死と向き合うことを通じて
初めて

自分を「唯一無二の存在」として

理解することになる
ということみたいです。

でも 自分の死と向き合うって
どういうことでしょうね?

今 はやりの 終活とかかな…?

「いつかは死ぬのだから」と
終活をする態度では

自分の死に向き合っているとは
言えません。

なぜなら 「今ではなく いつか」と
思い込んでいるからです。

ところが 私たちは
常に 死の可能性に さらされています。

突然の病気や事故で 次の瞬間に
死んでしまうことも ありうるのです。

ハイデガーは そうした可能性と
向き合うことを求めているのです。

「死の可能性」を考えるために
こんな状況を想像して下さい。

嫌々ながらも 「空気」を読み合い

誰もが毎日 ハードな残業に苦しむ職場で
あなたは働いています。

無理がたたって 体を壊した あなたは

医者から
余命1年と宣告されてしまいました。

そんな状況でも あなたは残された日々を
職場に捧げるでしょうか?

「死」に向き合った人間にとって
「空気」は

もはや 従っていれば安心できる
唯一の正解ではなくなるでしょう。

「死の可能性」に向き合う時 私たちは

自分の生き方が 世人によって
規定されなくてもいいと気付きます。

死が
本来の生と向き合わせてくれるのです。

ハイデガーは死の可能性に直面することを
「先駆」と呼びました。

うん。 まだ ちょっと難しいですけど

昔 ラジオに行く途中の高速道路で
猛烈な追突事故に遭って

で そのまま 病院に運ばれた時に

あ こんな あっさり死ぬのか
みたいなことを思ったんです 何か。

その時に急に ああ 何か
今日 言うことじゃないなとか

今日 その本音を言って
ぎくしゃくするよりは… みたいのは

違うのかな みたいな。

そこから半年ぐらいは
威勢よくなりましたね。 アハハハ。

で その死を感じている時になると
先ほどのアニメーションにあった

例えば
職場の空気を読んで 我慢するとか

そういうことは 二の次になるだろうな
というのは想像できますね。

ただ 先ほどのアニメーションの
例え話では

ハイデガーの哲学の例え話としては
不完全な面もあります。

というのも 寿命が 残り1年ですよと
言われてる限りはですね

少なくとも その1年間は
死ぬことがないと

約束されていることに
なってしまうからですね。

例えば 今 このスタジオに
隕石が落ちてきたら

死んでしまうわけですので…

ハイデガーはですね この…

…と 彼は考えていました。

まあ ちょっと分かるんだよな。

僕も ずっと長くやるつもりで
人生設計をしてたラジオ番組が

つい この間 終わったばかりで

で しかも それを終わろうって思ったのが
すごい最近だったから。

それ以外の仕事に関しても
果たして この いつか

完成形は こうだ みたいなことを思って
コツコツ積み重ねてたりとか

それこそ 今は やらなくていいことだと
思ってたことに対して

「ああ 何か ちょっと違うな」とは
思うようになりましたね。

あと 師匠が 今 大病で
闘病とかしてるから

弟子が言うと これ見てたら
すげえ怒られるけど

劇的に 話術がうまくなってるんです。

ああいうのを見た時に 恐らく
師匠の中には 何かが訪れたと思う。

私が個人的に ハイデガーの「先駆」に
近いものを感じるのは

例えば 災害が起きた時にですね

ちょっと 逃げましょうよとか
声がけみたいなことは

他人には ふだん しないのに

死の脅威が迫ってきた 災害に直面すると
人々が連帯して 助け合おうとする。

空気を読まないで
自分が 今 すべきことを

一人一人が考えて 行動できている
瞬間なのかなというふうに思っていて

そうした場面でも 「先駆」が
際立って見えてくるということも

あると思いますね。

でも 一つ思うんですけれども
前回までに 私たちは

自分自身と向かい合うと
不安になるから

だから 世人に支配されて 空気を
読んじゃうんだって教わりましたよね。

すぐに不安になるのに

自分が死ぬかもしれないという 死と
向き合うことというのはできるんですか?

おっしゃるとおり それは とても
難しいこと 簡単ではないことですね。

私たちが 「先駆」できるためには
そこに伴う不安に対して

何らかの特別な態度をとる必要があると
ハイデガーは考えていました。

そのカギとして 彼が示すのが

第2のキーワードである
「良心の呼び声」です。

責任を取って 生きていくための
2つ目のキーワードは

こちらの「良心の呼び声」なんですけれども
まず この「良心」というのは

良心の呵責とか
ああいう時の良心と同じですか?

はい。 基本的には同じものだと
言えると思います。

例えばですね 道に迷っている人がいて
何か 自分に用事があって

それを無視して
素通りしてしまった時に

後になってから 後悔することが
人間にはあると思います。

そうした時に 私をとがめているように
感じるものが良心です。

「いや 用事があったんだから
しょうがなかったんだ」と

自分に言い訳をするわけなんですが

良心の呵責は そうしたことをしても
やまないわけですね。

良心は 「いや 私には
別のことも できたんじゃないか」と

「違う可能性もあったんじゃないか」と
私に訴えかけ続けるわけです。

ハイデガーは 単なる「声」ではなくて
「呼び声」というふうに呼んでいます。

「おい!」と こう呼んでくる感じですね。

覚醒させるような声として
捉えていました。

命令とも ちょっと違いますもんね
「呼び声」ですもんね。

呼びかけなんですかね。

自分に言い訳をして
「しょうがなかったんだ。

しょうがなかったんだ」と言って
逃れようとしているのを

「おいおいおい」という感じで
呼び起こすような声ということです。

…と 彼は言っています。

つまり
世人に支配されている私に対して…

そしてですね
こう ハイデガーは言ってるんですね。

お~ 面白い。
呼びかけなのに 黙してるんですよね。

何か具体的な
手がかりを語ってくれるわけではなくて…

こうすればよかったんだよというのを
教えてくれるわけではないと。

何だろう あの ざわって感じなのかな。

今 こう 見て見ぬふりをして
一歩 通り過ぎようとする時の

ざわっていう あの感じ… かしらね。

良心の呼び声を発するのも
呼びかけられるのも 自分です。

呼びかけられているのは

「みんな」の一員として振る舞う
「世人としての自己」。

呼びかけているのは 世人に支配されない
「本来的な自己」です。

だからといって ハイデガーは
良心の呼び声を自ら発して

「良心的な人になれ」と
説いているのではありません。

「良心」は 自分で思うように
コントロールできず

絶え間なく
発せられているものだからです。

例えて言うなら 音楽が かかり続けている
部屋にいるような状態。

何かの作業に没頭していると

音楽に気付かないことは
よくあることでしょう。

発せられているはずの
「良心の呼び声」を聞くには

あえて聴こうとする態度が必要。

つまり 私たちは
「良心の呼び声」を無視するのか

耳を傾けるのかを
自ら選んでいるというのです。

「良心の呼び声」を聴こうと
選択する態度。

ハイデガーは この選択を
「決意性」と名付けます。

うわ~ 途中まで分かったようなだけど

やっぱり 朗読ってなると
この本が難しいってとこが分かりますね。

あの文章は難しい。

野間口さんは すごくゆっくり
丁寧に読んでくれてるんだけど

聞けば聞くほど
また迷子に ちょっとなります。

決意性。 決意性。
はい。

まず あの朗読部分から
見ていきましょうか。
はい。

先生 解説をお願いいたします。

ここでですね
ハイデガーが言っていることを

いじめの例を使って 説明していくと

開示性というのは ひと言でいうと
世界の見え方のようなものです。

例えば…

ところが…

自分は いじめに加担しないことも
できたんじゃないかということに

そこで気付くことができるわけですね。

いじめに加担してしまった。

その負い目を引き受けながらですね

正解が どこにもないということに
耐えながら 自分の生き方を投企する。

これは 言いかえると
自分の生き方を描き出していくと

言うこともできると思います。

自分が どんな人間でありたいのか

どんな人間として
これから生きていきたいのかを

自分で示していくということですね。

それが「決意性」であると
ハイデガーは言っています。

だから 見え方が変わると
自分の人生を 自分で負って

不安になるけれども
そこに 自ら行くぞと決めるっていう

ニュアンスで合ってますかね。
それを決意性と呼ぼうと。 はい。

決意というとですね
一つのことに グッと集中するみたいな

視野を狭めるみたいな ニュアンスが
日本語ではあると思うんですが

ドイツ語では この言葉は
「Entschlossenheit」といいます。

このドイツ語は 「鎖を断ち切る」とか

「鎖から解放される」というような

意味合いを含んでいます。

それまで 狭まっていた視野を
解き放ってですね

さまざまな可能性が見えてくるという
ニュアンスを含んだ

言葉であるということになります。

まあ だから 本来あるべき
自分らしい生き方をするための

キーワードとして挙げた この2つ
「死」と「良心」ですね。

ハイデガーは 「死」から「先駆」
「良心」からは「決意性」を導き出しました。

ここからは ハイデガー
どのように論を進めるのでしょうか?

この先駆と決意性
この2つが あくまでも

一体となって
作用しなければならない理由を

彼は 説明していくことになります。

誰も正解を教えてくれないし
何も確かなことはないのが人生。

しかし 自分自身の人生を選び取るのだと
決意すること

また そうした人間でありたいと
意思することが

「先駆」を 意味あるものにするために
欠かせないのです。

ハイデガーは
次のようにも説明しています。

何か ちょっと
俺に入ってきた気がする。 おお!

パラアスリートたちに いっぱい
インタビューさせてもらう番組をやってて。

自分が スノーボーダーのプロなのに

目の前で 自分の右足が潰れていく
というのを見たところから

さあ 自分に
あと 何ができるという話が始まる。

元には戻れないということが
分かってからの

決断の早さや
思い切りの良さや… みたいなものを

何人もから聞きました。
あの感じかも。

ハイデガーは
先駆と決意性が一体となった

現存在のあり方を
「先駆的決意性」と呼びます。

これが 自分らしい生き方を探るための
人間のあり方だというのですが

そもそも ハイデガーにおける
自分らしい生き方というのは

どういう生き方なんでしょうか?

ものすごく単純化して 申し上げると

先駆的決意性というのは 自分の人生を
自分の人生として 引き受ける

生き方であると言うことができると
思います。

ここで言う…

今 伊集院さんがおっしゃられた
パラスポーツの選手の例でいうと

今まで 当たり前だと思っていた
生き方ができなくなってしまった。

そこから どういう人生を歩んでいくかは
もう 自分で決めるしかないわけですね。

そうすると そこには正解なんてないし
そういう意味では不安なんだけど

でも その…

何か すごく分かります。

力強く 決意を固める感じは
何度も インタビュー中 味わいましたね。

そして ハイデガーは
このように述べています。

ここでいう「負い目」というのは くよくよ
後悔することではなくてですね

自分の人生 全て 私が私である
ということに負うのだと

考えることであると言うことができます。

本来的な現存在は
たとえ みんなの中でですね

過ちに加担してしまうことが
あったとしても

それを 自分事として
引き受けるようになります。

その時 私は…

…と ハイデガーは考えていました。

でも これ だから 自分らしい生き方を
自分で引き受けて 進んでいくためには

まあ つまり過去の負い目と
向き合わなければいけないという

意味であるとすると ちょっと
後ろ向きな考えと言えますか?

確かに 負い目を引き受けることが
重要なんだというわけなんですが

むしろ 自分の過去に対して
責任を負うということは

これからはですね 自分の人生に
責任を負う人間でいたいと志すことで

初めて 実現することでもあると
言うことができます。

私たちは 未来に向けて
過去を引き受けるんだと

ハイデガーは考えていて ここにですね…

何か うちのかみさんが関西人で
よく使う言葉が

しゃあないやん しゃあないやんって
使うんですね。

過去に何も起こんなかったって
言ってるわけじゃないんです。

あったんだけれども
この先のことは分からないんだから

できることをやろうよ みたいなことと
平たくすると まあ似てますよね。

そうですね。 まあ ある意味で
人の目を気にしないで

自分らしく生きていくためには
これまで歩んできた道を

全部 自分の人生として
引き受けないといけない。

そこを 彼は
セットで考えてるということですね。

ところで 人間という現存在は
存在者の中の一つと教わりました。

このあと 他の存在者ですとか
じゃあ 存在とは何かという

根源的な問いに
迫っていくんでしょうか?

そうだそうだ
そういうことですよね。 そこですよね?

存在ってものを考えるために
一旦 人間を分けて

現存在って
やってきたんですもんね?

実はですね 残念ながら
ここで終わりになってしまうんですね。

現存在以外のものを含む
存在そのものに迫ってこそですね

「存在とは何か」という問いの答えに
到達できるはずだったんですが

そうした議論が これから始まりそうだと
読者に予感させるところで

「存在と時間」は終わってしまいます。

そうでした。
言ってましたね。

「お前 本の一冊も出さないで
就職 無理だぞ」って言われて

じゃあ 急いで書きますっていったら
まだ半分しか書けてないけど

とりあえず一冊 みたいなこと
言ってましたね。

ただですね
ハイデガーの やはり恐るべき点は

こうした…

例えて言うと 両腕がない
「ミロのヴィーナス」という

彫刻がありますよね。

腕が欠けていることが

じゃあ この作品の魅力を
損なっているかというと

そうではないと思うんですね。
むしろ…

もう ほんとに柔らかい例えで
申し訳ないけど

その 大人気漫画が
絶筆によって 終わってしまったりとか

週刊誌自体が
なくなっちゃったりとかして

とてつもない想像力を
かきたてられたり

下手すると
それの続き的なことが書きたくて

プロの漫画家になってく人がいたりとか。

この本は そういう存在なんですね。
はい。

ですので ハイデガーを
学術的に研究している人たちというのは

ハイデガーは この先 どんな結論を
描いていたのだろうかというのを

当時の彼の講義ですとか
そして さまざまな文献を読んで

何とか 再構成しようとするということを
一生懸命 やっていますね。

ああ~。
あ それ すごいな。

いや~ 伊集院さん
第3回 いかがでしたか?

世人から解放されるのは 死ですよって
その 第2回目のあとに言われた時は

どんな どんよりとした話になるんだろう
と思ったんですけど

何か今 僕は ちょっと
晴れやかな気持ちになっているし

いつか言おうと思ってることを
今 言うことの大切さとか

ちょっと こう もう一回
かみしめながら 今日は帰りたい。

戸谷さん ありがとうございました。

ありがとうございました。
ありがとうございました。

♬~

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