英雄たちの選択「女子教育のその先へ ~津田梅子・科学への夢と葛藤~」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択「女子教育のその先へ ~津田梅子・科学への夢と葛藤~」[字]

女子教育の先駆者として知られる津田梅子。アメリカ留学時代の新たな一面が明らかに!生物学に傾倒し、研究を高く評価された梅子。女子教育の先に梅子が見ていたものとは?

詳細情報
番組内容
女子英学塾を創設し、日本の女子教育の発展に尽くした津田梅子。近年、24歳の時に行った2度目のアメリカ留学の実態が明らかになってきた。梅子は生物学に熱中し、研究に没頭する日々。後にノーベル賞を受賞する指導教官と共同論文を執筆するなど、その才能は高く評価された。科学の道か、女子教育への志か。苦渋の選択を迫られた梅子。明治という時代と格闘した生き様は、いま何を問いかけるのか?知られざる津田梅子に迫る。
出演者
【キャスター】磯田道史,杉浦友紀,【出演】科学史家/元日本大学教授…古川安,脳科学者・医学博士…中野信子,脚本家…山本むつみ,【語り】松重豊,【朗読】内田真礼

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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  19. 明治
  20. モーガン

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

アメリカ有数の学園都市として知られる
フィラデルフィア。

その郊外に 130年以上の歴史を誇る
ブリンマー大学がある。

図書館の一画には かつて ここで学んだ
一人の日本人留学生の姿が。

日本初の女子大学の一つを設立したと

その功績が たたえられている。

明治時代 梅子は 自立した女性を
育成するための高等教育機関

女子英学塾を創設。

女性活躍の礎を築いた教育者として

2024年度に発行される
新五千円札の肖像にも選ばれた。

梅子が女子教育に目覚めたのは
6歳で海を渡り

11年に及んだ アメリカでの
留学生活といわれている。

しかし近年 24歳の時に行った

2度目のアメリカ留学の詳細が
明らかになり

梅子の新たな一面が浮かび上がってきた。

これは 梅子が
留学先のブリンマー大学でまとめた

直筆の論文原稿。

カエルの受精卵を使った細胞分裂の様子が
丁寧に記録されている。

梅子が熱中したのは なんと生物学だった。

梅子は 後にノーベル賞を受賞する
指導教授と 共著論文を発表するなど

その研究を高く評価され
大学に残るように強く勧められる。

科学の道か 女子教育への志か。

梅子は 難しい選択に直面する。

スタジオでは 梅子の心の内を巡って
論客たちが 熱い議論を交わす。

女性として 数々の壁にぶつかりながら
明治という時代と闘い続けた梅子。

女子教育のその先に 何を見ていたのか。

津田梅子の知られざる実像に迫る。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

今回は 日本の女子教育に
大きな貢献をした

津田梅子が主人公です。

2024年度発行予定の新五千円札の肖像にも
採用されていますが

磯田さん。 津田梅子といえば

女子教育の先駆者として
評価されていますけれど

実は 生物学の研究者という

あまり知られていない一面が
あったんですね。

あったんですね。
明治の女性というのは

高等教育で
理系の学問ということを学ぶには

ものすごく抑制 制限が強い
閉ざされた状態にあったと思います。

で 女性が 例えば
理科系に向いてないという

とんでもないアンコンシャスバイアス
無意識の偏見みたいなものが

今もないかっていうと
やっぱりあるような気もしますよね。

そういう大きな壁に 津田梅子は

日本で初めて立ち向かったと
言えるんじゃないかと。

今日は 明治という時代と格闘した
女性の姿を見ていきたいと思います。

それでは 津田梅子の第一歩
アメリカ留学から始まります。

日本を出航した船が アメリカに向けて
広大な太平洋を横断していた。

総勢100人を超える岩倉使節団である。

その中に 一人の幼い女の子が
留学生として随行していた。

この時 満6歳。

津田 梅
後の津田梅子である。

梅子が派遣されたのは
父 津田 仙の計らいによるものだった。

仙は 幕府老中を多く輩出した
佐倉藩 堀田氏の家臣の出だった。

若い頃に英語を学び
外国奉行の通訳として

アメリカに行った経験もある
開明派として知られた。

ところが 幕末の動乱が

仙と梅子の運命を
大きく変えることになる。

慶応4年 旧幕府軍と新政府軍が
ぶつかった 戊辰戦争。

仙は 旧幕府側として参戦したが
新政府軍に敗北を喫した。

仙は公職を離れ それまでの人生とは
一転した生活を送ることとなった。

そんな中 ある知らせが届く。

明治新政府が計画した
欧米への使節団に随行する

女子留学生の募集だった。

外国体験の貴重さを知る仙は
これを絶好の機会と捉えた。

そこで まだ6歳だった梅子の留学を
決めたのだった。

集まった女子留学生は5人。

いずれも 戊辰戦争で敗れた
旧幕府側についた武家の出だった。

その中には 激戦として知られる
会津の籠城戦に加わった山川捨松もいた。

梅子たちは 日本の女子の
模範となるようにと期待をかけられ

アメリカへと旅立った。

ワシントンD.C.の近郊にある
ジョージタウン。

梅子は 日本公使館の書記官だった

ランマン家に預けられた。

子供がいなかったランマン夫妻は
礼儀作法に始まり

英語や美術など 梅子を熱心に指導し
実の子同様 厳しく育てた。

地元の小学校を卒業した梅子は
明治11年 13歳で私立の女学校に進んだ。

これは 帰国後に作られた梅子の履歴書。

女学校で 合計17科目を
履修したことが記されている。

天文学や数学 生理学など
数多くの理系科目。

梅子は 理系を
得意科目としていた。

長年 津田梅子の研究に携わってきた
高橋裕子さん。

留学生活で芽生えた梅子の考えを
こう指摘する。

教育のために 私は 膨大な投資を
受けていくんですよということを

父親からも しっかりと説明を受けて
日本を旅立ったと思います。

初等教育も中等教育も…

これから日本に帰って…

17歳になった梅子は
女学校を 優秀な成績で卒業。

11年に及ぶアメリカ留学を終えて
帰国の途に就いた。

傍らには アメリカの大学で
学位まで取得して卒業した捨松がいた。

2人は 日本で
女子教育に貢献することを誓い合った。

しかし 帰国した梅子には
厳しい現実が待ち受けていた。

政府は 男子留学生に
官庁や大学の職を与えたのに対し

梅子たち女子留学生には
何のポストも用意していなかった。

更に 梅子は 英語は堪能になったものの
日本語は ほとんど忘れてしまい

日常会話も ままならなかった。

母国で 一人 孤独感にさいなまれていた。

梅子が設立した
女子英学塾を前身とする 津田塾大学。

ここに 帰国後の梅子の心境がよく分かる
史料が残されていた。

これは…

帰国から1年がたとうとした頃
梅子に 衝撃の事実が知らされる。

女子教育の発展を共に誓った捨松が
陸軍卿の大山 巌と結婚したのだ。

盟友の結婚に戸惑う梅子。

もんもんとした日々。

そんな中 転機が訪れる。

明治18年 華族や皇室の女子のために
開校した 華族女学校。

梅子は その英語教師として
採用されたのである。

既に 帰国から3年がたち
二十歳を迎えていた梅子。

ようやく たどりついた女子教育の現場で
期待に胸を膨らませていた。

授業に 真剣に耳を傾ける生徒たち。

しかし
梅子が アメリカで受けた教育とは違い

彼女たちに 自ら意見を述べるような
積極的な姿勢は見られなかった。

華族女学校で求められたこと
「生徒心得」には こう記されていた。

あくまでも 家庭で
良妻賢母となる女性を育てることが

華族女学校の目的だった。

自立した女性を育て

結婚だけではない生き方にも
目を向けさせようとしていた梅子は

生徒たちの姿勢に
大きなショックを受けた。

今後 教師として
生徒たちを どう導いていくべきか。

梅子の前に
女子教育の壁が立ちはだかっていた。

津田梅子の留学と帰国後の葛藤を
ご覧いただきました。

磯田さん。 梅子は6歳
今で言う小学校1年生で 親元を離れて

しかも 11年もアメリカにいたんですね。

6歳ですよ。
やっぱり 常識的に考えてね

留学させるには小さすぎると思いますね。
そうですよね。

しかも 今みたいに携帯電話で 国際電話で
つながってるわけじゃないわけですよね。

それにしても やっぱり6歳で
なぜ行かせるのかっていうのは

私 ちょっと思うのは…

…という気が どっか国家にあったんじゃ
ないかって気もするんですよ。

録音テープも まだない頃ですから。

これ結構 国策留学で…
結構どころか まさに国策留学で

大人たちの思惑が
そんなのがあるとしたら

何か ちょっと僕は
いたたまれない気持ちもします。

この時の同じ女子留学生 全員
戊辰戦争で負けた幕府側だったと。

あ~ そうですね。 まず そもそも

それまで外交をやってたのは
旧幕府側なので…

ですから そのお嬢さんが行く。

その象徴にしたいというような気持ちも
あったでしょうね。

さあ今日も 多彩なゲストの皆さんを
お迎えしています。

皆さん よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。

まずは 脚本家の山本むつみさんです。
よろしくお願いします。

山本さん 大河ドラマ「八重の桜」で

幕末から明治を生きた女性を
お書きになっていましたけれど

この幼くして留学した
梅子について

どのように
ご覧になりましたか?

ちょうど「八重の桜」で
描いた 新島 襄が

岩倉使節団の通訳として
ワシントンに行っている時に

到着して1週間ぐらいの梅子を
訪ねているんですよ。

その時に 襄が手紙に書いた言葉に…

…っていう評価が残ってるんですよ。

はたから見ても利発な女の子で

ハキハキ いろいろ
質問したらしいんですよね。

で この津田 仙という人もですね
アメリカに通訳で行って

近代農業と民主主義と
あと 女子教育に出会って

生き方が ガラッと変わった人物ですよね。

娘にも 3歳から もう
読み書きを教えるという英才教育を

梅に対して… 梅子さんに対しても
してたので

これは 6歳ながらも
かなりの自覚を持って

アメリカに渡ったんじゃないかな
っていうふうには思います。

さあ 科学史家の古川 安さんにも
お越しいただいてます。

よろしくお願いします。
よろしくお願いします。

帰国時の梅子
どんな様子だったんでしょう?

当時のアメリカっていうのは
19世紀の後半

まあ宗教的には 敬けんなクリスチャンは
もちろんですけども

それから 勤勉であると。

まあ禁欲的というところもありますし。

そういうところで 梅子は
人間形成期 育ってきて

そういう価値観を持って
日本に帰ってきたわけです。

しかし…

多くの女性が
19… 二十歳ぐらいで結婚して

子供をたくさん産んで育てると。
で 家を守ると。

それが よしとされていた時代です。

ですから…

あの 女性ならば誰しもというか
当時の話とは とても思えない。

ステレオタイプ脅威というのが
ありまして

あなたは こういう人だ
というのを

有形 無形の形で
明示的に言われる。

それから無意識に そういうふうに
扱いを受けるということによって

本当に その人の能力が
下がっていくという現象があるんですね。

日本では 性別において

それが問題になることが
かなりありますね。

例えば
「女の子なのに 数学がよくできるんだね」。

これは 褒めているつもりでも

女の子は 数学はできないものだよね
というメッセージになるんですね。

山本さん どうでしょう
この 男性側には

変えようという意思が
どの程度あったと想像しますか?

日本っていう国を 世界と
肩を並べるようにしていくためには

女性の力を使わなきゃいけないっていう
理屈は分かってるんですけれども

頭で思ってるようには
行動できていないわけですよね。

例えば 津田 仙も かなり
開明的な人物なんですけれども

この時 ちょうど
同人社女学校っていう… 開校式で

梅の木のね 片側だけ
花が咲いてても駄目だと。

男女両方に花を咲かせないと
木として駄目だ。

だから 今まで
男子教育に力を入れてきたけれども

女子教育にも力を入れるんだみたいな
立派なスピーチが ず~っと続いて

それが終わって 会食ってなったら
女性は別席だったそうです。

さあ 大きな葛藤を抱えた梅子は
思い切った行動に出ます。

ご覧ください。

華族女学校に勤め始めて
しばらくした頃

梅子は 育ての親 ランマン夫人に宛てて
ある願いを書きつづっていた。

教師として向上するために
もっと学問を究めたい。

梅子は 幼少期を過ごしたアメリカに
再び留学することを計画する。

それを後押ししたのは

華族女学校で 英語を教えていた
アリス・ベーコンだった。

ベーコンは
捨松の留学時代の親友でもあった。

女学校開校を機に 来日した彼女は
梅子にとって

日本の女子教育の未来を語り合える
よき相談相手だった。

2度目の留学を決意した梅子。

そのために なんと
3年間勤務してきた女学校を辞めると

辞職願をしたためた。

ところが女学校は
梅子の辞職の申し出を
認めず

在職のまま留学と
書き換えた。

辞職願は 教授法を深く学ぶための
留学の願書として

女学校に受理された。

女学校は 梅子の籍を学校に置いたまま

官費留学を認めるという
異例の措置をとったのである。

この時 梅子24歳。

父親の意向だった
前回とは異なり

2度目のアメリカ留学は
自らの意志で実現したのだ。

新たな留学先は ペンシルベニア州
フィラデルフィアの郊外にある

ブリンマー大学。

当時は まだ創立5年目で
アメリカでは数少ない女子大学だった。

生徒数は100人ほど。

語学系や人文社会学系とともに
理系の学科が設置されていた。

科学者を志す女性が少ない中

ブリンマー大学は 当時としては珍しく
専門的な研究者の養成を目指していた。

それは 女性も男性と同様に
学問に携わるべきという

学部長 ケアリ・トマスの意向が
強く反映されていた。

ブリンマー大学で 最初に建てられた
テイラーホール。

風格ある石造りの外観。

建物の一部は
梅子が留学した当時の面影を

そのまま とどめている。

大学の歴史に詳しい
ルース・リンデボーグさん。

梅子は 意外な学問に熱中していたという。

当時 全米でも先進的な教育で知られた
ブリンマー大学生物学科。

梅子は 教授法の向上という
本来の留学目的よりも

評判の生物学の勉強に情熱を傾けた。

梅子の大学での受講科目をまとめた
履修表。

これを見ると 留学当初から

生物学の授業を受けていることが分かる。

異国の地で 梅子が選んだ生物学。

しかし それは 留学を許可した
華族女学校の方針に背くものだった。

女学校設立に先駆けて下された

明治天皇の「御新喩」には
こう記されている。

それでも梅子が 生物学を受講したのは
強い決意があったからだという。

梅子は 2年ある留学期間の1年目で
生物学の基礎を学び

2年目は 動物の解剖などを行った。

その成績は 専ら優秀。

指導陣も 梅子の才能に一目置いていた。

明治24年6月 留学期限が迫った梅子は
ある決意を固めた。

1年間の滞在延長を
華族女学校に申し出たのだ。

提出した留学延期願には

「あと1年在学すれば
大学を卒業でき

帰国後の
女学校の教育にも

大いに関係する」と
記した。

梅子は 大学で 何を
勉強したかまでは
言及しなかった。

これを受けて女学校は
女子教育の調査という名目で

留学の延長を許可した。

梅子は 更に高度な生物学の研究に
没頭することになる。

留学を願い出て 再び渡米した梅子は
そこで 生物学に出会いました。

あの~ 2度目の留学は
与えられたものではなくて…

大人になった自分の目で
もう一度 アメリカを見てみたいと。

そういう気持ちもあったと思います。

梅子は 出発前は
何か 学問をやってみたいと

そういう気持ちはあったんですけれども…

この時のブリンマー大学の生物学科
非常に充実したカリキュラムで…

梅子は それも知らずに
そのただ中に飛び込んだわけですね。

それで
先端的な生物学を勉強する機会を得た。

日本にいたら…

日本の女性としては。

望んでた 学問を
教えるっていう地位にいたのに…

…とも 私は言えると思うんですよ。

自然科学というのは 言語が違おうが
文化 歴史背景が違おうが

普遍的に通用することが前提の学問で
これ とっても大事なことで

日本人だろうが アメリカ人だろうが
関係ないわけですよね。

これ でも中野さん 当時 欧米では

女性が科学の研究をすることっていうのは
そんなに偏見はなかったんですか?

いや めちゃくちゃあったと思いますね。
うん。

「ピーターラビット」っていう作品
ご存じですよね。 有名ですよね。

あれ書いた人 ビアトリクス・ポター
っていう人なんですけども

この人 菌類に非常に詳しくて
学会に出入りもしながら

何か 最初は かわいがられてるんですね
男の科学者たちから。

なんですけれども 並み居る科学者たちが
できなかったことを

成功しちゃうんですよ。 菌類の培養に

成功しちゃったっていうことが
あってから

手のひらを返されたように
冷たくあしらわれて

学会でも 門前払いを食らう
というようなことがあって

全然偏見がないというのは間違いで。

同様に 欧米も こういうことがあった
というのはありますよね。

そんな梅子は 留学の延長を
華族女学校に申し出ましたが

日本では 梅子が
生物学の研究をしているということは

知らなかった…。
知らなかったですね。

教授法の習得のために送り出して
梅子は そのことを報告していません。

留学延長の願い出の中にも
その報告は書かれていないと。

恐らく
言えなかったんじゃないでしょうか。

言えなかったんでしょうね。
あの~ まだ生物学を続けたいから

延長させてくれとは言えないですよね。

留学延長を願い出たというのは…

先生たちからも高く評価されて
自信も きっと湧いてきたんでしょうね。

そう思ったんじゃないでしょうかね。

中野さん この時代の科学に
はまった梅子について どう思います?

ノーベル賞出来た頃だし

1900年ぐらいって そういう感じの
熱い時代ですよね 科学がね。

例えば 神経科学でも

シナプスは つながってるのか
つながってないのかみたいな

結構基礎的な 重大な発見が
あったりした年もあって

非常に面白い時代なんですよね。

現代になると 100… 100年ちょっとしか
たってないんですけれども

だんだん 職業的研究人といいますかね。

そうですね 論文を書いたり

何本出したりと そういうことを
気にするようになってね。

なりましたね。 ポストのための研究を
しないといけない環境というのがあって…

当時の
純粋に科学をやれた時代というのは

非常に 皆さん
羨ましいと思うんじゃないでしょうかね。

留学の延長を認められた梅子でしたけれど
いよいよ選択に迫られます。

明治25年 留学3年目を迎えた梅子は
ある運命的な人物と出会うことになる。

後に ノーベル生理学 医学賞を受賞する
生物学者 トーマス・ハント・モーガン。

梅子は 優秀な学生だけが履修できた
モーガンの特別研究を受講した。

モーガンは
当時の生物学で最先端とされた

実験発生学の研究を行っていた。

具体的には 例えば…

どのような変化が起きるか。

そういう学問 研究が
実験発生学ですよね。

非常に…

当時 梅子が執筆した論文の
直筆原稿が残されていた。

梅子が モーガンから与えられた課題は

アカガエルの受精卵を材料に使って
細胞分裂の過程を観察することだった。

卵の細かな変化を見逃さないよう

つぶさに そして正確に
スケッチしている。

モーガンは
梅子がまとめた研究成果を生かし

初めての共著論文として
後に イギリスの学術誌に発表した。

2人の研究 「カエルの卵の定位」。

受精卵から形づくられる
体の部位について調べた この研究は

初期の実験発生学で 高い評価を受けた。

日本人女性による自然科学の研究が
外国の学術誌に掲載されたのは

これが初めてだといわれている。

生物学に熱中する梅子。

しかし 延長した留学期限が近づいていた。

学部長のケアリ・トマスや

指導教授のモーガンなど
大学関係者からは

研究を続けるようにと
強く勧められていた。

大学に残って生物学を究めるか。

それとも 帰国して
女子教育のために力を注ぐか。

梅子の心の内に分け入ってみよう。

アメリカは 私にとって第2の故郷。

そのアメリカで 生物学を学ぶ喜びは
何事にも代え難いものになった。

今 日本では 科学は男子の学問

女子は 良妻賢母のための教育だけが
許されているという現状。

果たして 私のように
女子が科学を学べる環境が

今後できるのだろうか。

幸いなことに 大学からも

このまま研究に励むように
勧められている。

更に留学を延長したとしても

奨学金の受給など
経済的な支援も得られるだろう。

モーガン先生をはじめとした
すばらしい方々と共に

アメリカで研究を続ければ

やがて 学位を取得し
研究者への道が開ける。

それは 日本の女性たちが
科学という学問に目を開く

大きなきっかけにも
なるのではなかろうか。

いや しかし
私の身勝手な考えかもしれない。

そもそも 2度も留学できたのは
国の支援があったおかげ。

しかも 留学の期限を延ばせたのは
あくまでも 深く教授法を学び

日本の女子教育のために尽くすという
名目があったからだ。

華族女学校は 校長先生をはじめ
みんな 私の帰国を心待ちにしている。

いつまでも ここにいることが
果たして国のためになるだろうか。

やはり 日本に戻り

華族女学校の生徒たちに
私が学んだことを還元する。

そして 日本の女子教育の発展に
一層 力を注いでゆく。

それが今 私に課せられた使命ではないか。

科学者への道か 教育者への道か。

梅子は 苦渋の選択を迫られていた。

梅子の研究成果
高く評価されていましたけれど

中野さん これは梅子にとっても
うれしかったでしょうね。

それは うれしいでしょうね。
自分が楽しんでやってることが

みんなも喜んでくれて
実際に論文として形に出て

こんなすばらしい世界があったのか
手応えも感じたと思います。

これは だから 梅子自身が

ステップアップしていると
捉えていいんでしょうか。

はい そのとおりですね。
いよいよ3年目に研究に入るわけです。

マサチューセッツ州にある

ウッズホール海洋生物学実験場
という所がありまして

サマーセッションを受けたんです。

これが なんと7週間。
というと2か月近くですね。 そうですね。

朝と晩に レクチャーを受けて
生物学者の授業を取って

それから日中はフィールドワーク。

海に出て採集するんですね。

それで採ってきて 標本を作って
顕微鏡で見たりするという。

恐らく この
フィールドワーク実習というのは

梅子にとって
鮮烈な体験だったと思います。

まさに…

そういう時期だったと思いますね。

それで ブリンマー大学に戻ってきて

モーガンのもとでした研究が
実験発生学と。

まあ 当時の…

結局 梅子は 何だ…

さあ 生物学で成果を上げた
梅子ですけれど

ついに留学期限を迎えてしまいます。

選択1は
アメリカで科学者になるというものです。

そして 選択2は
日本で教育者として生きるです。

皆さんが梅子の立場なら
どちらを選択しますか。

まず山本さん どちらを選択しますか?

はい 今 論文も拝見して
その楽しい夏合宿のような話も聞くと

あ~っていう気持ちもあるんですけれども
日本に戻ります。

あ~ 2ですね。
はい。 日本に… 2の日本に戻ります。

学者として成功したいというよりも

この面白いことをやり続けたい
っていう気持ちは

すごくあったんだと思うんですけれども
それよりは…

これ ちょっと変な言い方ですけど…

常に注目を集められていて

自分の判断というのも
周りが みんな見てるって

例えてみれば…

もう6歳から有名人みたいな。

そうすると その判断というのは
自分の こうしたい ああしたいだけでは

やっぱり できないものだっただろうし。

…って選択かなと思います。

中野さん ご自身も
留学経験があるということですが。

これ 本当 悩むと思うんですよね。

悩むでしょうね。

ちょっと歯切れが悪くて
申し訳ないですけど… う~ん…。

どっち選んでも正解だろうな…。
これまでで一番悩んでますね。

悩んでますね。
これまでで一番悩む…。

2かな。
あ~ そうですか。

でも1を選んでも 何か その世界に
影響を与えた人に きっとなると思います。

この立場にいたら なると思いますけど
う~ん 2かな。

あ~。
悩んだ末に どうして2なんでしょうか?

そうですね 何か
自分が より貢献できる方を

強いて選ぶならというとこですけども。

でも もし 例えば 誰か

「中野さん 私 残ろうか帰ろうか
迷ってるんです」って聞かれたら

「残ったら」って言うと思います。
あ~。

でも…。 でも…。
2。 2… はい。

悩みます。
それでも 自分が梅子だったら2。

うん…。

古川さんは
梅子の立場だったら どうします?

私も すごく悩むと思います。

本当に難しいけれども

2の
日本で教育者として生きるを選びます。

1回目は11年間ですね。 留学した時には…

…があったわけですよね。

使命感を むしろ植え付けられたと。

それに 今回の
ブリンマー大学 3年間はですね

華族女学校の教師として在官のまま
派遣されたわけですから

とりあえず帰って それを 学んだことを…

ただですね もう一度アメリカに戻る
ということも ありえると。

ということでですね
とりあえずという言葉を使いますけど

一旦帰国します。
一旦帰国。 はい。

皆さん 日本に帰って
教育者として生きるを選びましたけれど

磯田さんは いかがでしょうか?

僕はね… 僕も悩むんですけども
2にします。

日本で教育者として生きる。

やっぱり 当時のアメリカでも
女性の置かれた地位

ましてや やっぱり
有色人種の置かれてた地位を考えると

私…
いろんなイギリスだとかアメリカの

古い時代の研究現場の女性の様子
見るんですけど

誰かの補助者として ついてる場合は
比較的いい立場なんですけど…

それでも 多分 恵まれた条件を
出されるでしょうけど 梅子の場合は。

でも やっぱり…

一方で 日本に帰って…

なぜかっていうと…

こんな高温多湿な場所でしょう。

カエルの種類だって
どうったって多いわけで。

ほいで 東の南方熊楠になる
っていうことを考えるわけですよ。

なるほど。

ほいで しかも熊楠さんより
結構 最先端性があるわけですよ。

熊楠は どっかで ゲリラ戦みたいな
やっぱり 科学ですけど 僕からすると。

まあ それでも最先端なんですけど。

皆さんは 選択2
日本で教育者として生きるを選びました。

誰も アメリカに残るは
選ばなかったということですけれど

では 梅子の選択をご覧ください。

梅子が 生涯 大切にしていたものがある。

それは ブリンマー大学で出会った
学友たちお手製のカレンダーだ。

自然や昆虫などの挿絵があしらわれ

梅子へのメッセージと思われる詩も
つづられていた。

梅子の新たな旅立ちを知った学友たちが
プレゼントしたものだといわれている。

梅子は
ブリンマー大学からの要請を断り

日本で教育者として生きることに決めた。

まず最初の官費留学があって
あったからこそ

こうやって また
ブリンマーで学ぶような機会を

自分は つかんでいるという理解も
していたと思います。

日本に戻って…

明治25年 日本に帰国した梅子は

華族女学校に復職し
再び教壇に立つことになった。

しかし 心には深く期するものがあった。

それは 自らが先頭に立って

新たな女子高等教育機関を
設立するという壮大な計画だった。

教員の確保や資金繰りで援助したのは

結婚後も
変わらぬ友情で結ばれていた捨松。

そして アリス・ベーコンだった。

梅子は 教育者として奔走する一方で

実は ひそかに
生物学の研究を続けていた。

その様子が アメリカの恩師
モーガンに宛てた書簡に記されている。

梅子は 日本でも
女子が科学を学べる道を模索していた。

設立する女子高等教育機関の授業に
取り入れることも その一つだった。

そして明治33年 梅子は念願だった

高等教育機関 女子英学塾を創設。

初代塾長に就任する。

しかし 当時のカリキュラムに
自然科学の科目はなかった。

資金面の問題や
女性科学者を養成する社会的ニーズが

まだ整っていなかったからだと
考えられている。

英学塾の授業は
英語教育が
かなりの割合を占めた。

これには 梅子の
大きなねらいがあった。

しっかりと…

高等女学校の教員の採用の試験に
合格できるようなレベルまでの英語教育。

むしろ そこに
こだわりがあったわけです。

梅子が描いた科学教育への夢は
後進に受け継がれていった。

実は 梅子は留学中

フィラデルフィアの実業家の妻たちの
資金援助を得て

日本の女性がアメリカで学べるようにと

奨学金制度を設けていた。

この制度を使い 梅子の後を追って

ブリンマー大学で 生物学や科学を
学んだのが 星野あいだった。

星野は帰国後 女子英学塾の教師となった。

梅子は 星野を後継者に指名し
塾の将来を託した。

晩年の日記に そう記した梅子は
昭和4年 この世を去った。

梅子の死後 女子英学塾の
第2代塾長に就任した星野は

その運営に邁進した。

しかし 戦争が始まると
英語は敵性語とされ

塾の経営は
苦境に立たされた。

そこで星野は 昭和18年

梅子の意志を継ぎ 科学教育の導入を決断。

新たに数学科 物理化学科を創設した。

物理化学科の卒業生からは

戦後 大学の理系学部に進んだり
科学教育の指導者になるなど

科学を志す女性の先駆けとなる人材を
多く輩出した。

女性が科学者として活躍する時代へ。

津田梅子は 一粒の種子となって
豊かな実を結んだのである。

梅子は 日本に帰り
教育者として生きることを選びました。

もしアメリカに戻っていたら
恐らく モーガンのもとで研究を続け

学位 博士号は取ったと思います。

しかし さっき 磯田さんが
おっしゃったようにですね

いろいろ… 梅子は日本人ですからね

当時の白人中心の
アメリカのアカデミズムの中でですね

たとえ成功するにしてもですね
相当な困難や苦労があったはずですね。

梅子は 実は それも
感じ取っていたのかもしれませんね。

ただ日本に戻ってきてからは
先ほど ビデオにも出てきたように

生物学の研究を続けていたことは確かで

実験発生学の手法を学んで…

さあ 本日は 教育者 津田梅子とは
また違った側面を見てきましたけれど

皆さんが どんなことを感じたのか
伺いたいんですが。

英学塾を開いたあと… かな。

お父さんは 平民として
登録してるんですけども

梅子さんは 子供の時に
外国に行ってるから

ちょうど 外国人が見た侍みたいな。

その理想化された武士道みたいなものを

やっぱり… あまりにも困難なことが
人生に多いですから

どうも それを
精神的な支柱に置いたんじゃないかな

っていう気がしてるんです。

大変だったけども まあ基本的には
無駄ではなかったっていうか。

脚本家の立場から言うと

言葉というものを
信用したいっていう気持ちがあって。

女性も与えられるのを待つだけではなくて
自分が強くなれって… ということ。

女性自身が それを頑張ってやりなさい
っていうことを

かなり厳しく言ってますんで

その辺に ちょっとこう
士族を選んだ梅子っていう

何か強さを感じましたね。

梅子は 英語が最終目的ではないと
常々言ってましたね。

英語を通してですね 日本の女性に
広い世界を知ってほしいと。

世界 文化 学問 まあ科学も
入るかもしれませんけれども

そういうものに目を開く
きっかけになってほしい。

つまり 英語教育は
そのきっかけを与えるための教育だと

信じていたわけですけれども。

まあ梅子が目指していたのは
梅子の言葉で言うと…

まあ女性がですね
自立した存在となるように

梅子も そういう教育をしたいと
考えていたようですね。

メンタルローテーションタスクって
有名なタスクがあるんです。

例えば 左手と右手は重ならないですよね。

鏡像の関係で
これ どう回転しても重ならないのを

例えば 左手がいっぱいある中から

右手を1個探してください
っていうようなタスク

メンタルローテーション 頭の中で
図形を回すタスクっていうんですけども

これ 数学の能力と
関係するとされていて

女性で成績が悪いといわれる
典型のテストなんですね。

なんだけれども このテストを
女性にやらせた時に

女性は性別を…
性別欄があるテスト用紙と

大学名を書かせるテスト用紙と
両方作ると

なんと そのグループは そんなに
成績の差がないグループなんだけれども

属性を書かせるという
プライミングをしただけで

なんと 点数が違ってしまう。

自分の性別を意識させると
数学の能力が下がるという…。

え~!
実験があるんですよ。

なので…

自分たちが男よりもできたら
不利益を被るかもしれないというふうに

どっか おびえてるところが
あるのかもしれない。

でも 大丈夫だよって。

仕事が バリバリできても
そんな 迫害されたりしませんよと

示していくことが
やっぱり重要なんだなと思うので

梅子に続いて 我々も 楽しく仕事をして

能力を発揮していけると
いいなと思います。

本当 そうですよね。

さあ磯田さん 今日は 梅子の新たな一面を
見た感じがしましたけど。

見ましたね。
やっぱ つくづく思ったのは…

いや だって 梅子の生物学って
国に隠れてやってたに近いわけです。

そうですね。
ほいで 要するに 把握できないところで

すごい面白い知性っていうのは
孵卵場になって育っていく

っていうところがあると。
でも 先ほど 古川先生に教わった

オールラウンドウーマンって いい言葉で
何でもいける女性。

これ 何でもいける人間が
いいのであって

何々が できないと思わずに
何でもできるんだと。

オールラウンドで
自分は いけるんだと思って

いろんなことができる状態の心持ちね。

自分で自分を制限しないってことが
やっぱり それこそが

本当の自由の根本かもしれないな
というふうに思いました。

皆さん 今日は ありがとうございました。
ありがとうございました。

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