出典:EPGの番組情報
こころの時代~宗教・人生~「生きる根をみつめて」[字]
シリア人の夫と暮らしながら、難民となった人々を撮り続けている小松由佳さん。二人の子どもと共に旅し見つめるのは、人間が生きる根っことは何か。波乱に満ちた歩みとは。
詳細情報
番組内容
フォトグラファーの小松由佳さんは内戦で難民となったシリアの人々を撮り続けている。かつて日本人女性として初めてパキスタンのK2に登頂するほどのクライマーだった小松さん。ある出来事を境に、砂漠や草原といった過酷な大地で生きる人々の写真を撮り始めた。人間が生きる根っこにあるものを小松さんは見つめ続けている。過酷な環境で生きる人々の姿から、小松さんは何を見いだしたのか?その心の軌跡をうかがう。
出演者
【出演】フォトグラファー…小松由佳ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉
テキストマイニング結果
ワードクラウド
キーワード出現数ベスト20
- シリア
- 家族
- 自分
- 砂漠
- 時間
- 生活
- 小松
- 世界
- 難民
- 人間
- サーメル
- 子供
- 日本
- ラドワン
- 土地
- テント
- トルコ
- 経験
- 結局
- 結婚
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
サラーム どこ行くの? サラーム!
<成田空港 出発ロビー。
大きな荷物を背負い 子供を連れた女性>
はい いちに はい いちに。
<2013年から 内戦で難民となった
シリアの人々を撮り続けています。
この日
トルコ南部へ取材に向かいました>
<小松さんの夫は
シリア人のラドワンさん。
ラドワンさんもまた
内戦で国を離れた一人です>
<旅に連れていくのは
2人の間に生まれた息子たち>
お子さん連れでの取材
なかなか大変ですね。
そうですね。 もう
自分のことだけに集中できないので。
常に気を配らなければいけないので。
そうですね もう常にパニックですね。
懐中電灯なの。
サーメル きれいに開けたよ。
懐中電灯は
何のために持っていくんですか?
難民の家族のポートレートを撮るのに
使ってるんですよ。
懐中電灯で照らして
家族写真を撮ってるんです。
子供たちが
懐中電灯を こうやって照らして。
ライト係をやってくれて。
家族写真…。 みんなで撮る写真。
<小松さんが撮り続けているのは
戦乱によって それまで暮らしてきた
土地を離れざるをえなかった人たち>
<彼らが 新たな土地に根を下ろし
懸命に暮らしを取り戻そうとする姿です>
<その姿を通して 小松さんは人間が
生きていく根っこにあるものは何なのか
みつめ続けてきました>
<そんな小松さんは かつて
ヒマラヤやカラコルム山脈など
数々の山に挑んだクライマー。
日本人女性として初めて パキスタンの
K2に登頂という偉業も成し遂げました>
<ですが ある出来事を境に山を下り
麓に住む人々の暮らしを
みつめる旅を始めます>
<草原や砂漠など
過酷な土地で生きる人々の姿を
写真に写しました>
<小松さんは 山で何を体験したのか?
なぜ
人々の生きる姿を記録し続けるのか?>
<小松由佳さんの歩みをたどります>
どうですか 今日は
サーメル君とサラーム君は。
はい 保育園に行きました。
ああ そうですか。
山ね いろんな山 登って 今 八王子で
シリア人の夫と暮らして。 はい。
子供を抱えて 写真を
撮っておられるわけじゃないですか。
まず 小松さんの その
幼い頃のお話 聞きたいんですけど
どういう環境で
お育ちになったんでしょう。
生まれは 秋田県秋田市で
周囲には 田んぼが
ずっと広がっている農村で
祖父母は米農家だったんです。
これが私の原風景で
田んぼのあぜ道に私が座って
向こうで 祖父母が田んぼに立ってる。
その向こうに山が青く見えてた
っていうのが
私の一番最初の記憶なんですよ。
で やっぱり そのころから 山が とにかく
美しいなっていうのは思っていて
すごく山に憧れがあったんですけど
あの山の向こう側を見てみたい
という気持ちだったんですよね。
山の頂に立ったら 何が見えるんだろう
その向こうにある世界を
見たいなと思って
それが山登りをしたいという
最初の気持ちでしたね。
やっぱり そのころは その
自分の暮らしてる世界が
やっぱ 世界の全てだったって
どういう感じですかね。
そうですね。
まあ すごく狭い世界には生きていて
だから 小さい頃から田んぼで
家族が働いてる姿を見て育った。
田んぼが やっぱり 子供の頃の
私にとっては世界の全てのような
はい 記憶ですね。
祖父が やっぱり
田んぼの
仕事に生きた
人だったので
田んぼで働く
姿を通して
生きることを
教えてくれた
ように
思うんですよ。
ご飯を食べる時も 米粒は百姓の涙だと。
一粒も残すなって教えられて育ったし。
田んぼのあぜ道で よく祖父と
おにぎりを食べた記憶があるんですけど
おにぎりを コロンって
田んぼに落としてしまったんですよね。
ベシャーンって
水の中に落ちるわけですよ。
それを こう 祖父は
それを絞って おにぎり 食べたりして。
やっぱり その
米を作るっていうことの厳しさとか
誇りとか喜びっていうのを すごく
教えてくれた祖父がいたんですよね。
そういう中で やっぱり
人間が風土に生きるっていうことを
小さい頃から感じ取ったように
思いますよね。
<山への憧れから
高校で山岳部に入った小松さん。
大学は 東海大学に進学しました。
4年生の時には 山岳部主将として
ヒマラヤ初登頂を果たします>
私は
東海大学に入学したいというよりも
東海大学山岳部に入部したくて
大学に入ったんですよね。
ところが 山岳部の門をたたくと
なんと女人禁制で
女子部員は入部禁止だったんですよね。
やる気があるので やっぱり
トレーニングも しっかりしてきたし
これからもしたいし 入部させて下さい
というふうに言い張って。
ただ やっぱり上の先輩たちからは
こう やめろって言われたんですよね。
で もう私は こう 態度で示すしかないと
思い 男性の1.5倍はトレーニングをして
はい 時間をかけて
態度で示すしかないと思いましたね。
標高6300mの山で
あれが初めてのヒマラヤでしたね。
砂漠を歩いて
ラクダやロバに荷物を載せて
山の上に行くと氷河があって
そして こう 山があって。
一番 記憶に残っているのは 山頂に立った
時に 山々しか見えなかったんですよ。
地球上には こんなに山があるんだと。
それに純粋に驚きましたし で
ほとんどが未踏峰だって聞いたんですね。
で こんなに人が登ってない山がある。
地球って
まだまだ 私たちの知らない領域が
こんなにあるんだと感動しましたね。
大学時代にも
本当に 山に こう 熱中して
まさに こう
日々の生活を山に懸けてたんです。
多い時は
年間260日ぐらい 山に入っていて。
その当時はですね 登る過程でも
山頂に立つことでもなくて
山に行くと
そこにいることが喜びだったんですよ。
生きてると感じられる実感が
どこよりもある世界が山だったんです。
やっぱり こう
自分が一番 時間をかけられる時に
経験を積んでいる時は とにかく
山に向かいたいと思ってたんですよね。
だから就職をしては 今までの その
自分が山に費やしてきた その経験が
もったいないと思いまして。
いや 全く就職の2文字は
頭になかったですね。
やっぱり山に登り続けなければと
思ってました。
もう とにかく やりたいことを やろうと。
私は もうヒマラヤを
20代は もう登ろうと決めてましたね。
それ 不安はなかったんですか
将来に対する不安は。
全くないですね。
あの というよりも
なぜ みんな卒業したら すぐ
就職するんだろうと思ってたんですよ。
その時 やりたいことや
やれることが あれば
そこに向かっていっていいんじゃないかと
思ってました。
<2005年 小松さんは世界最高峰
エベレストへの遠征隊に参加します>
<目の当たりにしたのは
山の頂に立つことを競う
さまざまな登山者の姿でした>
エベレストの時は
正直 初めての8000m峰なので
山頂に登れたら ラッキーだと。
でも とにかく経験を積みたい。
より こう 高い標高まで
経験を積みたいと思ってました。
ところが そこで見えてきたのは
チームとして
いかに登るかというよりも
ものすごく
個人主義の世界だったんですよ。
自分が上に登りたいっていう。
やっぱり エベレストというのは
こう 世界最高峰ゆえに
いろんな登山家が登りに来るんですよね。
いろんな目的を持った人たち。
中には やはり その
名誉のために登る人たちもいたし
いろんな目的のもとに人が集まっていて
そこで やっぱり その
人間の俗的な部分も
ものすごく目にすることが
あったんですよね。
登山って やっぱり
ものすごく人間のエゴが出るし
でも エゴっていうのは裏返すと
生存する力そのものでもあるんですよ。
むしろ やっぱり
そういう強い感情がなければ
ああいうヒマラヤの世界は登れないと
思うんですけども。
やっぱり ものすごく
ドロドロした世界もあるわけですよね。
人間同士の あの
エゴの こう むき出しの世界とか。
エベレストで見たのは やっぱり
その人間の欲望みたいなもので
私は ちょっと そこに違和感を
正直 感じてしまったんですよね。
エベレストのアタック隊から
外された時に
一人で ベースキャンプまで戻らなければ
いけなかったシーンがあって
吹雪の中を一人 下らされたんですよ。
その時に
あまりに吹雪が強くなってきて
ベースキャンプに戻れず
途中のキャンプで
1泊しなければいけなかったんですね。
その時に チベットの村の方から来た
ヤク飼いの おじいさんのテントで
1泊させてもらったんです。
そのテントは 本当に小さいテントで
穴が いっぱい開いていて
風や雪が吹き込んでくるんですが
そこの中央で おじいさんが
たき火をたいて暖めてるわけですよね。
言葉も全然 通じないんですけれども
何時間も一緒に座って
で おじいさんは
お茶を作って出してくれたり。
その時の そのおじいさんの顔のしわが
すごく美しかったことを
覚えているんですよね。
で 私は やっぱり そのエベレストの山頂
こう 華々しい ああいう世界ではなくて
やっぱり
人間の こういう営みが 私にとっては
胸を打つものなんだな… ということを
その時 気付いたんですよね。
<翌年 小松さんは「世界一危険な山」と
呼ばれるカラコルム山脈 K2に挑戦。
そこで人生を変える経験をしました>
<相棒は
大学山岳部の後輩…>
<小松さんは 日本人女性として初めて
青木さんは
史上最年少での登頂を果たします>
<しかし その下山時
2人は深刻な危機に見舞われます>
<すっかり日が暮れてしまった
8200m地点。
酸素ボンベも尽き 進退窮まった2人は
テントも張らず 絶壁にロープで体を結び
朝が来るのを待ちました>
これは今 考えると やっぱり生と死の境の
一つの大きな決断でしたよね。
どっちにしても リスクは高いわけです。
下り続けたとしても もう かなり
判断力が限界に来ているので
体力も限界なので もしかしたら こう
滑り落ちて滑落するかもしれない。
一方で ビバークをしても
疲労凍死する可能性も
あるわけです。
ビバーク地点を作って座った時に
パートナーの青木が 「もしかして
これで死にませんよね」って言ったんです。
で 私もチラッと
実は 不安に思ってたんですが
その時 私はリーダーだったので
不安を絶対に後輩に見せてはいけないなと
思ったんです。
だから そんなことは もう絶対ないと。
絶対に生きて帰れるんだから大丈夫だと。
自分自身にも その言葉を向けて
もう とにかく
信じることしかできないんですよね。
すぐに うつらうつらし
2人とも寝てしまいました。
よく寒い所で寝たら死ぬぞって
ビンタするような映像ありますけど
人は寝るんですね。
ただ 標高が高くて酸素が薄いし
吸ってた酸素ボンベも全部ないので
息苦しいんです。
ビバークした 8200mは
酸素量が地上の3分の1しかない場所で
とにかく息苦しくて
目が覚めるんですよね。
ハアハアハアなってるのに気付いて
目が覚めて 苦しくて。
で 隣の青木を見ると
青木が生きてるかというのを
確認するわけですよね 肩をたたいて。
どれだけ時間がたったか ものすごく
顔が熱くなったんですよね ある段階で。
何だろうと思って目を開けたら
まだ辺りが真っ暗なのに
紫色の雲海が下に広がっていて
そこから まさに
太陽が昇ってくるところだったんです。
その太陽の光が
自分たちの方に さし込んでいて
その光が顔に
ものすごく熱く感じたわけです。
それを感じた時に
もしかして死んでしまったんじゃないかと
一瞬 思ったんです。
それぐらい
荘厳な光の感覚だったんですよね。
まさに夜じゅう 暗い中で 寒い中で
生と死の境に立った夜があって
そして 朝の太陽の光に自分たちの存在を
また感じ取った そうした瞬間でしたね。
だんだんと 自分たちが
生きてるんだということを感じると
涙が どんどん あふれてきて
この世界に生きて帰りたいと
それを強く思いましたね。
そうした中で 生きて帰ってきた時に
実は ただ生きてるということが
ものすごく特別なことを感じたんです。
何か 人間は 特別なことをしたり
何か記録を残さなくても
実は ただ
ここに存在してるっていうことが
それだけで ものすごく特別なんだと。
いろんな巡り合わせの中で生かされてる
ということなんだということを
ものすごく体で感じたんですよね
K2から帰ってきた時に。
それ以来 厳しい登山をすることで
生きる実感を感じたりしなくても
既に自分の周りに開けてる世界の中で
同じものを感じ取れるようになっていった
ということが ありました。
そして
自分が山を登ることで求めていた
つまり その生きている実感や
生きること そのものは
実は その山の麓の人々の暮らしの中に
あったんだということに
気付かされるようになって
だんだんと視点が 山の上ではなくて
麓に移っていったんですよね。
<山の頂にではなく
人々の暮らしの中に
生きることの本質をみつめたいと
思うようになった小松さん。
モンゴル イラン イラク イエメンなど
草原や砂漠といった 過酷な環境で生きる
人々の大地を旅し始めました>
その 人は なぜ便利ではない土地に
住み続けるのか 言葉をかえると
人間は厳しさの中に どんな豊かさを
見いだして生きようとするのか
それを ずっと知りたかったように
思うんです。
そして それは私の祖父母が きっと
そういう暮らしをしてたんですよね。
米農家って やっぱり
ものすごく厳しい仕事で
夏の暑さや冬の寒い時は
出稼ぎに出たりとかして。
そして 雪解け水の冷たい中で
田植えをしたり
ずっと田んぼに立ち続けて そして
得られる収入は僅かじゃないですか。
そういう暮らしの中で
私も生まれ育って
そうした暮らしに生きる人の豊かさを
もっと私は知りたく思ったんですよね。
厳しい自然環境の中で 人間が
どう生きてるかを知りたかったので
私にとっての過酷な自然を
目指したんですね。
その自然が 私にとっては
草原と砂漠だったんです。
旅した時っていうのは それは もう
カメラは持ってたんですか。 はい。
最初は まずは自分が そうした世界を
知りたくて 感じたくて 行きました。
カメラは 記録する目的だけです。
ただ そうした世界に触れるうえで
こういう世界があるんだということを
表現していきたくなって
だんだんと
フォトグラファーを志すようになりました。
自分が出会った世界の豊かさや営みを
やっぱり共有したいなと思ったんですね。
結局 自分が出会って感じて
終わるだけじゃなくて
それを一つの価値として
残したいなと思いました。
今 「共有したい」って
おっしゃったんですけど
「記録する」と「共有する」って
ちょっと違うじゃないですか。 はい。
共有したいっていうのは なぜ…。
共有って 要するに発表するっていうか
人に見せるということですよね。
そのお気持ちは なぜ
それを人に伝えたいと思ったんですか。
根源的な問いですね。
やっぱり人間が生きている そういう姿
生きるということの本質を
私なりに理解したことを…
伝えたい。 で 生きているということの
何か温かい側面を
たくさんの人に共感してもらいたいような
そんな思いがありますね。
<旅を始めて半年。
行き着いたのが中東のシリアでした>
特に砂漠は
私にとっては荒野のイメージがあり
なぜ そんな厳しい大地に
わざわざ住んでるんだろう
それを知りたかったんです。
シリアというのは
8割が砂漠の国なんです。
ただ 特に
シリア中部のパルミラという町が
砂漠のオアシスとして有名で
その周辺には たくさんの遊牧民がいると
いうことで知られてたんですよね。
それで パルミラに行って
パルミラの じゅうたん屋さんなどで
郊外に住んでいる遊牧民を
知りませんかって訪ね歩いたりなどして。
そしたら 町から ちょっと出れば
テントが いろいろ見えるから
すぐ近くにいるよって教えてもらって
それで自分で歩きながら探したんです。
その時に ラクダの群れを連れている
男性を見かけて 声をかけたんです。
<小松さんが出会ったのは
アブドュルラティーフという遊牧民。
3世代が一緒に暮らす 総勢60人ほどの
大家族でした>
アブドュルラティーフ一家の生活は
まず
ラクダの放牧が 彼らの暮らしの生業で。
朝早く起きて 砂漠に行って
ラクダの放牧を1日かけてするんですね。
シリアでは 1人が1つの仕事をしている
というケースは珍しくて
家族で
たくさんの仕事を受け持ちながら
それを季節ごとに回しているという
スタイルが一般的だったんです。
私は 砂漠というのが不毛な大地だと
思ってたんです。 荒野だと思っていて。
そこには ほとんど命も存在しないし
四季もないと思ってたんです。
ただ 彼らと一緒に砂漠を歩いて ラクダの
放牧を見せてもらったら 実は全く逆で
ものすごく命が実は あふれていて
夜になると
いろんな穴から ハリネズミとか
ちっちゃいネズミとか虫が
いっぱい出てくるんですよ。
そして 四季も豊かで
冬になると 一気に雨が降り
1日 2日で
大地が緑色に変わったりするんです。
草が一気に2~3センチ 伸びたりして
そうした変化があって。
やっぱり その
砂漠という土地が 知れば知るほど
ものすごく豊かな大地なんだ
ということが分かったんですよね。
それ以上に実は感動したのが 地図上には
砂漠としか書かれてない土地ですけど
アブドュルラティーフ一家は
砂漠に代々 名前を付けて
識別してきていたことなんです。
砂粒の色や大きさや形
そこに生える草の種類などで
砂漠を見分けていて
それを伝えてきていた。
本当に砂漠という土地に生きる
知恵なんだなと思いました。
そして 彼らにとって 砂漠というのが
閉ざされた世界ではなくて むしろ
彼らを違う世界につなげてくれる
違うオアシスに自分たちを
いざなってくれる 開かれた道なんだ
こうした話を聞きました。
そうした暮らしをしてる彼らの
一番の豊かな時間とされているのが
「ラーハ」という時間なんです。
これは直訳すると ゆとりとか休息と
呼ばれる時間なんですけど。
友達と集って おしゃべりをしたり
家族と団欒をしたり
また昼寝をしたり
こういう時間なんですよね。
要は のんびりする時間。
この時間を どれだけ持てるかどうかが
豊かな人生かどうかって言われるんです。
まさに
アブドュルラティーフ一家の生活も
ラーハの時間が
ものすごく大事にされていて。
とにかく
ゆったり みんな生きてましたね。
ある時
コーヒーに招かれたことがあったんです。
それで まあ 1時間ぐらいあれば
飲んで帰ってこれるかなと思い
向かったわけなんですけど
テントに着いて 1時間ほどたっても
全然 コーヒーが出てこないんですよ。
私は日本で やっぱり
分刻みの生活をしていたので
しびれを切らしてしまって
「あの いつ コーヒーは出てくるんですか」
と聞いてしまったんですね。
そしたら その時点で
「ああ そうだった」と。
「じゃ 買ってくる」と言って
その時点で 砂漠のテントからバイクに
乗って 町に豆を買いに行ったわけです。
で 帰ってきたと思って見たら
今度 その豆が まだ青いんですよ。
豆を煎るために たき火を
たかなきゃいけないわけですよね。
そのたき火をたくための薪を
今度 みんなで集めに行って
集めて 火をたき それから豆を煎って
で 豆を砕いて お湯を沸かして入れて
最後に コーヒーが出てくるまで
結局 3時間ぐらい かかったんですよね。
その経験から 私は感じたことがあって。
つまりは 彼らは
コーヒーを飲みに来なさいと言うけれど
コーヒーを飲む
そのことが目的じゃないんですよね。
大事なのは過程なんですよね。
コーヒーを飲むまでの
その時間を共に共有すること
ゆったりとした時間の流れに
身を置くということが大事なんです。
大事な家族や友人たちと共に
今を生きてるということを
共に味わうということ。
これが ラーハの豊かな時間なんですね。
今 聞いてて思ったのはですね なんかこう
今 僕 日本に生きててですよ
なんか 生きてるって感じるのは
何かを成し遂げた時とかね
達成した時とかにだけ感じるわけですよ。
それと大違いだなと思って。
そうなんです。 人生の価値が違うんです。
日本だと 何か目標を立てて
そこに向かっていく過程だったり
何かを達成したりすることが
人生の価値とされますよね。
努力をし続けなければいけない。
でも シリアの社会では むしろ こう
既にあるものを味わい尽くすというか
それが生きている豊かさなんですよね。
<この時 砂漠を案内し 砂漠の暮らしの
豊かさを教えてくれたのが
一家の十二男
後に夫となるラドワンさんでした>
<砂漠に生きる人々に惹かれた
小松さんは
それから毎年
シリアを訪れるようになりました>
(シュプレヒコール)
<そんなシリアが激動に見舞われます。
2010年から始まった
アラブ世界の民主化運動。
シリアでも反政府運動が起き
やがて内戦に突入>
<砂漠の暮らしを撮るために
首都ダマスカスに滞在していた小松さんの
目の前でも 爆弾テロが起きました>
<アブドュルラティーフ一家も
混乱に巻き込まれていきます。
六男のサーメルが ある日 突然
警察に逮捕されたのです>
<反政府デモに参加していた
という容疑でした>
<この写真は 兄の逮捕を聞いた瞬間の
ラドワンさんを
小松さんが撮った一枚です>
これは ちょうど こう その友人と
会っていた時に ある電話があって。
パルミラで 兄のサーメルが今 逮捕された
という知らせを受けたんですね。
その瞬間を撮った一枚なんです。
その時 あまりのショックで
もう寝転んで
天井を ず~っと見て 数時間 言葉を
発することができなかったんです。
シリアでは一度 逮捕されると もう
戻ってこない可能性の方が高いんですね。
拷問を受けて
生死が もう分からなくなってしまう。
この時
2012年の5月に逮捕されたサーメルも
今 10年がたちますが
全く行方が知れない状態なんです。
その時の苦悩。
この瞬間を私は 写真に撮りました。
で これを撮った時に 私の中に初めて
内戦状態となっていく
そのシリアが迫ってきたんですね。
そして
この写真を撮ったことで 私は こう…
人々が どのように
かつての生活を失って
難民となっていくのか
これを テーマとして
撮っていこうと決めましたね。
私にとっても 忘れられない一枚ですね。
それは もう反射的に撮ったんですか。
いえ。 少し撮るのを悩んだんですよね。
こういう状態の時に
撮るべきかなと思ったんです。
でも 撮らなければいけない
瞬間なんじゃないかと思ったんです。
こうやって こう
人に出会って お話を聞かせてもらって
そして激動の中にある時代を
やっぱり切り取りたいと思った時に
これは自分にとっても
すごく大事な瞬間だと思ったんです。
<この時
兵役についていたラドワンさんは
政府軍の兵士として 市民に銃を
向けなければならない立場にありました>
シリアで 民主化運動が始まるわけです。
その民主化運動を政府が弾圧をして
多くの死者が生まれると
市民が銃を持って対抗するようになり
シリア全土で武力衝突が起きていきます。
そして市民を弾圧したのが
政府軍なんです。
つまり ラドワンは上官の命令しだいで
市民を弾圧しなければいけない立場に
置かれていったんです。
彼としては ただ義務で行かなければ
いけなかった兵役だったんですが
内戦が始まっていく中で 彼は加害者に
なっていかざるをえなかったんですね。
それに ラドワンは
ものすごく思い悩むようになります。
そこで シリアで何を経験したか
というのを 彼は今でも語らないんですよ。
語れない経験をしたんですよね。
彼は一生 話さないんじゃないですかね。
ものすごく
心に傷を負ったように感じます。
結局 夜中に大声を出したり
パニック状態になっちゃったりした時期が
あったんですよ。
彼は やっぱり 人に語れない経験を
したんだなっていうことだと思うんです。
それは 語れないということを
時間をかけて みつめていきたいなと
思うんですね。
<危機の中 絆を深めていった2人は
2013年 結婚します。
しかし 当初
ラドワンさんの父 ガーセムさんは
結婚に反対していたといいます>
夫のお父さんから言われたんですけど
シリアで結婚っていうのは
1対1の関係性じゃないんだと。
結婚は 私と あなたの関係じゃなくて
背後に家族や社会があると。
人間は年を取れば 必ず
自分の文化に立ち返ることがある。
その時に
違うルーツの人同士が結婚すると
お互いに難しいよっていう話を
してくれたことが あったんです。
そもそも 個人の幸福のために
一人一人は生きてるんじゃなくて
みんな 家族の幸福のために
存在して生きてるんだと。
結婚というのも同じで
私と あなたが幸せになるために
結婚があるんじゃなくて
家族の絆を深めて 家族を
大きくしていくための結婚なんだと。
だから 私と夫の結婚は難しいし 反対だよ
ってことを すごく言われたんです。
<その後 シリアでは内戦が激化。
死者は40万人を超え 国民の2人に1人が
家を失い 難民となりました。
「今世紀最悪の人道危機」と
言われています>
<小松さんは 難民として異国で生きる
シリアの人々の姿を撮り始めました>
<向かったのは…>
当時
10万人ぐらいのシリア難民が逃れていた
このキャンプに行ったんですね。
そこで 逃れてきたばかりの いろんな
難民の家族を取材したんですけれども。
ある家族が テントに暮らす
フセイン一家という家族ですね。
この家族との出会いが ものすごく
難民とは何なのかということを
考えさせられる出会いでしたね。
この家族は逃れてきて 3か月ほど
たっていたところだったでしょうかね。
結局 難民キャンプというのは
難民が逃れてきて避難できるように
いろんな物資が整ってるわけですね。
電気やガス 水道があって。
また食料が配布される。
安全で 生きるための最低限のものがある。
ただ そうした中でも
この家族のお父さんが
シリアに帰るという決断をして
帰ったということが あったんです。
彼らだけではなくて 多くの難民たちが
難民キャンプの生活を続けられない
ここには もう いられないということで
戦地のシリアに帰っていく
決断をしてたんです。
彼らが語るのは ここには
生活がないんだと言うんですよね。
私にとっては空爆の可能性もないし
銃弾も飛び交わない
安全があって 食べ物も配布される
そうした生活だと思ってたんですが
彼らに出会って感じたのは
やっぱり人間の生活というのは
どんなに安全であっても
やっぱり生きるための自由がない。
それは やっぱり生活とは呼べないんだ
ということだったんですね。
具体的に聞いたのは シリアにいた頃は
家の隣に小さな畑があって
僅かな食べ物を育てて
自分が好きな時間に庭に出て
野菜を収穫したり 水をあげたり
ひなたぼっこをしたり 昼寝をしたり
そうした自分の行動を
自分で判断する自由があったと。
でも 難民キャンプのテントの生活では
そうした生活の自由がないんだと。
ただ テントに毎日 座り続けて
おしゃべりをするだけの生活。
結局 こう 何を食べるのか 何をするのか
どこに住むのか どこに移動するのか
そうした日々の選択ができること
そうした選択の積み重ねで
自分の人生が成り立っている。
この実感が命の意義
人間の命の尊厳なのではないかなと
彼らの話を聞いて思いました。
<砂漠の豊かさを教えてくれた夫の家族
アブドュルラティーフ一家も
トルコ南部の都市へ難民として
逃れることになりました>
アブドュルラティーフ一家は
シリアでは砂漠で 100頭のラクダを飼って
放牧をしてましたが
今 トルコ南部の
オスマニエという高原の町で
羊と山羊と牛を飼って生活してます。
やっぱり シリアのパルミラで
彼らが そうやって生きてきたように
放牧業で 根を生やしていきたい
というふうに考えてるんですね。
それは ご一家がトルコに行って
どれぐらい たってから
そういうことを始められたんですか。
2016年に アブドュルラティーフ一家の
ほとんどが トルコに入ってきて
羊 山羊 牛を飼い始めたのが
大体 2018年ごろからですね。
それまでは もう 転々としましたね。
トルコとシリアの国境の町にいて
雇われる 工場の仕事をしたり
トルコ人の会社で働いてみたり
いろんな 小さな商店を経営したりとか。
ただ結局 いろいろ うまくいかなくて
最後に落ち着いたのが
やはり放牧業でしたね。
放牧業だったら 知識が まずあると。
そして シリアから
家畜を買うことができるんです。
やっぱり 人間って こう
自分が今までやってきた
持ち得てるものの中から つなげて
それを こう 先の日々に
こう つなげていきたいと思うんですかね。
トルコに移った
アブドュルラティーフご一家も
小松さん 撮っておられるじゃないですか。
はい。
撮っていく中で やっぱり
表情というのは変わっていきましたか。
変わってきてますね。 あの…。
2つの側面があると思うんです。
それは 少しずつ トルコに
根を生やしてきたんだという安堵感と
そして もう一つは やっぱり常に余裕なく
働き続けなければいけない疲れ
両方を感じ取ってますね。
やっぱり ガーセムを取材して
彼は私に あまり言葉として
語ることがなかったんですけれども
ある時
こう言ってくれたことが あったんです。
「この年になって」
彼 86歳だったんですけども
「この年になって
60年以上かけて築いてきたものの全てを
失ってしまった」と。
それは 今 考えると
もう自分の手で 短期間では
生み出せないものばかりだった。
すごく それが悲しいと。
ガーセムは やっぱり
多くを語ろうとしなかったんですけども
語らなかったということが
彼の言葉だったんだなと思うんです。
ガーセムは トルコに来てからは
ずっと家の屋上で たき火をたいて
たき火の火を見ながら シリアの砂漠で
ラクダの放牧をしたり たき火をした
そういう思い出を
ずっと懐かしんでたらしいんですよね。
やはり こう
体は難民としてトルコに来ても
心は ふるさとのパルミラを
離れることがなかったんです。
ただ こうも言ってたんです。
「ふるさとに帰りたいですか」と聞いたら
「もう ふるさとは なくなってしまったよ」
って言ってたんです。
彼らのふるさと パルミラが空爆を受けて
市街地のほとんどが破壊されて
もう住民が ほとんどいないんです。
そうなると そこは本当のふるさとじゃ
なくなったという感覚なんですよね。
結局 彼らにとっての ふるさとは
土地そのものじゃないんだと
感じたんです。
彼らにとっての ふるさとっていうのは
人のコミュニティーなんですよね。
シリア人にとっての ふるさとは
土地じゃなくて人なんだと感じる
エピソードでしたね。
<小松さんが心掛けているのは
難民となった人々が
新たな環境で根を張り
生きていく姿を
長い時間をかけて記録すること>
私は 2015年からトルコのシリア難民を
取材してるんですが
毎年 同じ家族を取材してます。
いくつかの家族がいて
彼らの生活を 毎年 記録することで
生活が どう変わっていってるのか。
彼らの心情が
どう変化してるのかというのが
すごくよく分かるんですね。
そうした毎年の取材をする一家の一つが
カーセム・アウラージの家族なんです。
この一家を なぜ取材してるかというと
たくさんの難民の家族と会うんです。
その中でも やっぱり…
難民として生きるっていうことが
どういうことかということを
すごく見せてくれる
家族がいるんですよね。
このカーセム・アウラージは
シリアのイドリブ県の出身なんですが
2016年に空爆を受けて 家が倒壊して
で お母さんは片足を失って
当時5歳だった息子も
爆弾の破片が当たって亡くなって
で お父さんも手に障害を負って
トルコに来た家族なんですよね。
で 当時の父親の仕事は
路上を 早朝や深夜に歩いて
ビンや缶 段ボールなどを集めて
それを売るという仕事をしていて
ものすごく過酷なんですよね。
過酷なんだけれども
一家の生活をみつめると
厳しいだけではない
人間のしなやかさとか 優しさとか…
やっぱり今日を信じる力みたいなものが
すごくあって
私自身がやっぱり すごく そこに
いろんなものを学んでるんですよね。
私が難民を撮ってるのは
彼らが難民だからではないです。
彼らが厳しい状態にあるとか
そういうことで撮ってるんではなくて
彼らが この先どこに向かうのか。
もっと先を言うと
内戦前に満たされた生活を送っていた
シリアの人々の姿を知ってるからこそ
再び彼らが そこに帰っていくまでを
みつめて
記録したいと思うんです。
そうしたものを
カーセム・アウラージの家族というのは
感じさせてくれるものがあるんですよね。
2021年の4月に
取材に行った時 撮ったんですけども
ちょうどコロナ禍で
トルコもコロナの流行がものすごくて
ロックダウンが行われてたんですね。
で ちょうど土日は
ロックダウンで
人の家に行くことができない。
そうした その
人が来たりしない期間を利用して
壁塗りを家族がしてたんです。
で やっぱり これこそが
こう 何ていうか
家族の絆の中で
生活を こう 家族として深めていく
そういう時間であるように
思われたんですよね。
一家総出で片足をなくしてしまった
お母さんも義足をつけて
また お父さんのカーセムも
動かない左手をかばいながら
手が届かない所は
息子が こう 塗ってくれたり。
また 当時生まれたばかりの赤ちゃんを
長女のアイーシャちゃんが
あやしたりしながら
家族が それぞれの役割を持ち寄って
快適な暮らしのために
壁塗りをしてたんです。
そうした姿 ほんとに
ささやかな光景ではあるんだけど
やっぱり彼らが こう
前に向かって生きようとしてる
そういう姿であるように
感じられたんですよね。
サラーム 食べ終わったのかな?
違う まだ食べてる。
まだ食べてる…。
<八王子の小松さんの家を訪ねました。
シリアで暮らすことができなくなった
ラドワンさんは
2013年
結婚を機に日本にやって来ました。
彼もまた 新たな土地で生きることを
選んだのです>
<9年の間に2人には家族ができました>
前 八王子城に行ったらね…。
あの お店で
あめを買ってっていう話をしてました。
<この日は
近所で暮らす親戚のムハンマドさんが
遊びに来ていました。
彼も シリアを離れざるをえなかった
一人です>
(笑い声)
<ラドワンさんにとって
縁もゆかりもない日本で暮らすのは
苦労の連続だったといいます>
夫は 日本に来て2年ほどは
引きこもりになり
ノイローゼ状態が続きましたね。
やはり シリアと日本の人生の価値の違い。
それから孤独感ですね。
シリアでは 大家族で暮らして
毎日 友人とも顔を合わせていた。
深いコミュニティーの絆に生きていた。
そうしたものが全くない状態で
やっぱり孤独感に
かなり苦しんだようですね。
仕事は 働けるようになってからは
日本の会社を転々としまして
結局 20社ぐらいやって
ほとんど もう続かず
すぐやめていった形でしたね。
で ある時は 品川の方まで
毎朝 始発に乗って通って
内装工の仕事をやった時期も
あったんですけども
結局 始発で行って
終電で帰ってくるような生活で
それを続けているうちに
もうすっかり元気がなくなってしまって。
「内戦下のシリアで
政府軍にいた頃の方が まだよかった」と
「この日本の生活は戦争そのものだ」と
そうした話をしてました。
当初は いかに日本人的な
暮らしができるか。
日本社会になじんで
日本の会社で
働けるかというのを
私も彼も
意識してたんですが
だんだんと どうやら それは
無理らしいということが
分かってきたんですね。
そして じゃあ どうすればいいのかと
考えた時に出会ったのが
今 私たちが住んでる東京都八王子市の
モスクのコミュニティーだったんです。
モスクは イスラムの祈りの場であり
イスラムコミュニティーの核となる
施設で
そこに行けば
同じルーツを持った人々がいて
そして みんな
同じような経験をしてきてたんですよね。
夫と同じように日本に来て苦労していた。
そうした人たちと出会ったことで
彼は だんだん精神的に
安定していったんですよね。
結局 いかに日本社会に慣れるかよりも
同じルーツの人たちと いかに出会って
いかに その 自分が感じる苦しみを
共有できるか
それが大きかったようなんですよね。
よく結婚当初は けんかしまして
「あなた何もしてないじゃない」って
私も言ってたんですけど
子供が生まれてからは…
家事 育児もノータッチだし
収入をたくさん稼ぐわけでもないので
かなり衝突もして 夫に いろんなことを
私も求めようとしたんですけど
でも 気が付けば
それは日本人的な価値観なんだ
ということも思ったんですよね。
やっぱり彼は
シリアというルーツで生まれて育って
日本に来たとしても
彼のルーツというのを書き換えることは
やっぱりできないと思うんですよね。
彼にとって大切なのは
やっぱり その 経済的価値とか
キャリアじゃなくて
いかに時間と心の余裕を
大切に生きるかなんですよ。
ラーハを実行してるんだなということが
分かってきたんですよね。
それが やっぱり彼らしい
在り方なんだということを
だんだん私も理解しましたね。
彼が大切にしてるものを
私もリスペクトしたうえで
一緒にいられたらいいなと思います。
ですので 彼には
家事 育児を負担してもらうとか
たくさん収入を得るとか
そういうことではなくて
彼がシリア人として できることを
できる範囲で 一緒にできたらいいなと
私も ゆったり考えてます。
ラドワンさんとの間に生まれた
お子さんをサーメルと名付けましたよね。
それは なぜですか?
2012年に民主化運動に参加して
夫のお兄さんのサーメルが逮捕されて
その後 行方不明になりました。
夫の家族は みんな
サーメルが生きていて
いつか帰ってくるということを
信じてるんですが
その思いを込めて
長男が生まれる時に
夫がサーメルと付けたいということで
サーメルと名付けました。
サーメルというのは
アラビア語で
「夜の中の光」という意味なんです。
シリアが いつか平和に
なりますようにという祈り
そして 兄のサーメルが
きっと生きてますように
という希望。
それを込めて名付けた名前です。
次男の名前は サラームです。
サラームは平和という意味なんです。
シリアの平和を祈って
名付けた名前です。
サーメルもサラームも
2人の名前の由来は 平和なんです。
いつか子供たちが成長して
大きくなった時に
シリアの状況が
今よりも ずっと安定して
そして こう
かつてのシリアが そうだったように
人々の笑顔が絶えない
そうした土地であればいいなと思います。
今年の5月で
世界の難民数が1億人を超えて
今 地球上の80人に1人が
難民になってますよね。
そういう時代だからこそ
難民となった人々が
どういった苦労の中で生きて
何を求めてるのか。
そうした その難民の抱えているものを
理解することで
この時代についても
考えていけるのかなと。
そうしたきっかけを
私は写真活動によって
作っていけたらいいなって思います。
<難民となった人々の生きる姿を
みつめ続けたい>
<小松さんは 毎年のように現地に通い
撮影を続けています。
旅には必ず2人の子供を連れていきます>
なぜ子供を連れるのかというと
母親として子供を見なければいけない
という理由もあるんですけども
やはり 子供たちは シリアというルーツを
受け継いでる子供たちなので。
今 シリアという国に帰れない分
シリア難民との交流を通して
自分たちのルーツを感じ取ってほしい。
そういう思いがあるんです。
やがて やっぱり子供も大きくなって
私の取材についてこなくなる時が
来ると思うんですが
そうした時は やはり こう
思い返してほしいなと思いますね。
彼らの財産になっていけばいいなと
思います。
私は シリアの人々が
やっぱり 内戦前に すごく豊かで
満たされた暮らしをしてきたっていうのを
見てきたから
また いつか時間を超えて
そこに戻っていくんだろうなっていうのを
願ってるし
そう信じてるんですね。
その過程を やっぱり みつめたいし
それを撮って表現したいなと思うんです。
バイバイ 行ってくるね~。
♬~
♬~
Source: https://dnptxt.com/feed/
powered by Auto Youtube Summarize