出典:EPGの番組情報
英雄たちの選択「森羅万象に挑んだ絵師 画狂・葛飾北斎」[字]
天才浮世絵師・葛飾北斎。近年、国内外で相次ぐ北斎画の新発見を交えながら、絵を描くことに生涯を捧げた画狂・北斎の知られざる苦境とそれを乗り越えた人生の選択を描く。
詳細情報
番組内容
今なお世界的に巻き起こる北斎ブーム。いったい何が人々をそこまで魅了するのか?今回、東京・日本橋でみつかった「知られざる美人画」やイギリス・ロンドンの大英博物館に眠る「幻の作品」など、近年、相次ぐ北斎画の新発見を4Kカメラで撮影&徹底分析。代表作「冨嶽三十六景」出版にいたる北斎の「選択」を描く。さらに北斎の娘・お栄のもうひとつの「選択」を探り、北斎親娘が人生を賭して挑み続けた画の境地に迫る。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】浅野秀剛,中野信子,ヤマザキマリ,【語り】松重豊,【声】松本保典ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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- 北斎
- ベロ藍
- 選択
- お栄
- 絵師
- 作品
- 自分
- 冨嶽三十六景
- 版画
- 磯田
- 人生
- 大衆
- 芸術
- 勝川派
- 世界
- 当時
- 美人画
- 浮世絵師
- 面白
- 可能性
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
「一つの点 一つの線が
生きているかのような絵を
描きたい」。
その一念に生涯を賭した男がいる。
江戸の浮世絵師 葛飾北斎だ。
自らを「画狂」と名付け
90年の人生で
ありとあらゆる絵を
描いて 描いて 描きまくった。
没後170年を経た今も
その魅力は 色あせることがない。
日本のみならず
世界にその名を知られた
天才絵師である。
近年 国内外で
北斎画の新発見が相次いでいる。
東京・日本橋では
北斎の知られざる美人画が見つかった。
イギリス・ロンドンでは
刊行されなかった
幻の作品の研究が進んでいる。
新発見の北斎画を読み解くべく
スタジオには
各分野のスペシャリストが集結。
北斎の脳裏を探る。
北斎は何を目指し
何を我々に残そうとしたのか。
最新研究で その神髄に迫る。
♬~
♬~
皆さん こんばんは。
こんばんは。
歴史のターニング・ポイントで
英雄たちに迫られた選択。
今回の主人公は 浮世絵師 葛飾北斎です。
磯田さん この北斎と聞くと
どういうイメージをお持ちですか?
僕やっぱり 何と言っても
あの構図ですね。 平面構成。
はい。
江戸人の平面構成力って
すごいなと思ってて
まあ構図って当時の言い方でいうと
絵組というのかな。
絵を組む。
うん。 んで あの構図の面白さ
視覚の妙っていうのか
あれ すごいなと
思いますよね。
あとね 描いてる人が
これ 楽しんでるなっていうのが
あるわけですよ。
何となく分かりますでしょう?
はい。 ワクワクしながら
これ こんなふうに描いたの
見せてやろう~ みたいな この。 うん。
うん。 描き手の
ワクワク感が絵を通じて
我々に伝わってくるっていう点でも
あの~ すごく親近感を持つ。
うん。 歴史にワクワクしている自分。
まあまあ この人は
絵なんだなっていうのがあって。 ああ~。
その北斎を 初めて
この「英雄たちの選択」で
取り上げるということで
楽しみなんですが。
まずは 北斎の前半生と
その人物像について
今年 新たに発見された北斎画を通じて
探っていきましょう。 見たい!
今年1月
新たな北斎画が世に現れた。
「青楼美人繁昌図」。
遊郭で働く遊女らを
6人の絵師が
それぞれ描いた
合筆の美人画だ。
いや もう やっぱり
びっくりしましたよね。
北斎が描いたのは
一番手前に座る
遊郭の女将と
見られる人物。
落款から
文化中期
50歳ごろの作と
推定される。
艶やかな着物の娘は 北斎の好敵手
歌川豊国が筆をとった。
更に 美人画を得意とする
勝川派の絵師たちが続く。
当代きっての
人気絵師たちが
腕前を競った
非常に貴重な作品だ。
絵の鑑定にあたった 内藤正人教授は
北斎ならではの 美人画の特徴が
色濃く出ていると指摘する。
更に この絵は北斎研究において
一石を投じることになった。
一番奥に描かれた太鼓持ち。
描いたのは 勝川春好。
北斎が若かりしころに学んだ
勝川派の兄弟子で
通説では不仲とされた人物だ。
明治期に成立した
北斎の伝記に
この春好とのエピソードが
紹介されている。
「修業中の北斎が
問屋の看板絵を描いていたところ
兄弟子の春好がやって来た。
春好は こんな つたない絵を掲げては
師匠の恥だと言い
北斎の面前で その絵を破り捨てた」。
これが原因となり
北斎は勝川派を飛び出したというもの。
しかし 今回発見された絵を見ると
勝川派との不和は感じられない。
実は そうじゃないんじゃないかと。
北斎が勝川派の門をたたいたのは
数えで19歳の時。
役者絵で一世をふうびした
浮世絵師
勝川春章に弟子入りした。
腕前を認められ 入門から
僅か1年という異例の早さでデビュー。
画号は勝川春朗に決まった。
こちらが
デビュー間もないころの作品。
女方の歌舞伎役者
瀬川菊之丞の役者絵だ。
技術はあるものの 後の北斎のような
独創性は まだ見られない。
では 北斎は いかにして
絵師としての個性を
身につけたのだろうか。
それは 和 漢 洋の
ありとあらゆる
絵の技法を学ぶことだった。
「師事する流派は一つ」
が常識の時代。
北斎は 師匠の春章に隠れて
御用絵師の狩野派に出入り。
力強い筆さばきと
大胆な構図を身につけた。
当時 中国・清から入ってきた
南蘋派の花鳥画。
構造の細部に至るまで写実的で
精緻なスケッチは
北斎に強い影響を及ぼした。
北斎は西洋画の研究にもいそしむ。
遠近法をもとに
「三ツ割の法」と名付けた
独自の画面構成を開発。
平面でも
奥行きを感じる絵を描くすべを習得した。
更に コンパスを使った
幾何学的な描画方法にも親しんだ。
こうして古今東西の画法を
貪欲に吸収した北斎は
次第に
誰にもまねできない
独自の画風を
築き上げていく。
そして 35歳の時 師匠の死をきっかけに
勝川派を去ることを決心した。
北斎が
独立を記念して知人に配った「亀図」。
落款に押された印に
その時の志が
表れている。
自分にとっての絵の師は
森羅万象であると。
さあスタジオには 北斎を愛してやまない
多彩なゲストの皆さんに
お越しいただいています。
よろしくお願いいたします。
(一同)よろしくお願いします。
まずは ヤマザキ マリさん。
いかがですか? 同じ絵師として
北斎について。 絵師として。
はい。
ものすごく 観察眼に優れていたというか
あの人 やっぱり 自然が
まず規範にあった人だと
思うんですよね。
物事描く時にも。
で 人間世界にほれ込んで
人間を描いてるというよりも
人間社会をものすごく
ふかんで観察しながら
描いてた人だっていう
ところが
まあ 今の私の
漫画家としての姿勢と
ちょっと似てるなと思うところも
あるんですけど。
また あの 和 漢 洋と
こう いろんな多彩な
その技術や文化を取り入れて
自分の その絵に
生かしてるというところも
面白みがあるなって思ったんですが。
そうですね。
そこがやっぱり 貪欲さというか
業というか。 絵師っていうのは
やっぱり
これで収まらないっていうのが
あると思って。
私 やっぱり 北斎さんの
すごいところっていうのは
一回描いて それで満足してた人では
決してないわけで。
彼は まあ 九十いくつ… 90歳まで
生きてるけども その間ずっと 多分
まだおかしいな
まだ先に行けるかなっていう
葛藤が ずっとあったと思うんですね。
ええ。
それがやっぱり 彼の 何と言うのかな
作品に対する姿勢
作品の中からも 何かこう
うかがい取れるところがあります。 はい。
試行錯誤しつつ 前に進むっていう。
ああ~。
続いて
浮世絵研究者の浅野秀剛さんです。
浅野さんよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
この 流派を出るというのは
当時の浮世絵師にとっては
珍しいことなんですか?
あっ それは珍しいですよね。
ほとんど まあ
我々が知ってる浮世絵師でも
北斎ぐらいだと思いますね。
ああ~。
勝川一門に入ると
勝川何とかって名前を
やっぱり捨てない。
ほとんど捨てないんですね。
歌川派に入ると 歌川何々っていう
まあ
広重もそうですけど 捨てないという。
そういうのが
まあ
99%そうなので。
ええ。
名前を捨てる
流派から出るということは
珍しいことは確かですね。
はあ~。
いろんな流派の
いろんな魅力的なものを吸収したい。
その上で自分の絵を完成したいっていう
欲望が強いっていう
そういう点では結構 近代的な人だなと
思わんではない。
保守的ではないですね。
あの~ 中野さんは 脳科学者として
この葛飾北斎
どのように分析されてますか?
多動的ですよね とっても。
気に入っているものがあっても
次のものに目移りしちゃう
タイプの性格
だったんじゃないかなっていうことは
容易に想像できて。
お引っ越しもたくさんされたと
いうことは
知られてますけれども。
どちらかといえば 目新しさとか
新しく何かを始めるっていうところに
もう非常に 魅力を感じるタイプの
人だろうと考えられる。
で これは
ドーパミンの代謝によるので
あんまり一生のうち
変わることはなくて
ず~っと 新しいものを探し続けて
もう一生を送るんですよね。
引っ越し 全部で93回したって
書いてあるんですけど 北斎って。
90年の人生で。
まあ 俗説ですけど
まあ たくさん引っ越したのは確かですね。
私 あの フィレンツェに
11年間 留学してる時に
26軒 家替えてるんですよ。
26軒!
はい。
替えましたね! 替えましたね。
コロコロと いろんな事情で。
ああ~。
でも替える度に
何か ここで また新しくっていうね。
すごく分かります だから気持ちは…。
やっぱり そうなんですね。
私 あの ホンダ自動車つくった
本田宗一郎さんが
引っ越しばっかりするっつったから
最後に浜松に住んだ
家のお向かいのお店に行って
そんなこと
言ってました? って言ったら
本田さんの奥さんが
「うちの主人は 宗一郎は
引っ越ししたら新しい機械を
思いつくんです」って言って。
あ~ やっぱり。
言ってたっていうから
やっぱり 新しく何かを
新しいものを作りたいと
発明 頭の中から出したいと思って
気分変えようっつうんですよね。
あるある。
う~ん。
さあ 40を前に独立した北斎は その後
当代随一の人気絵師となっていきます。
しかし やがて大きな壁にぶつかり
選択を迫られます。
北斎が人気絵師となったのは
40代になってから。
きっかけは
人気作家 曲亭馬琴と
タッグを組んだことだった。
北斎が挿絵を担当した小説「椿説弓張月」。
平安時代の武将 源 為朝の活躍を描いた
波乱万丈の物語だ。
北斎は 想像力を駆使して
その名場面の数々を描き出した。
墨の濃淡で表現された
その迫力あふれる絵は
さながら 現代漫画の見開きのよう。
この本は 飛ぶような売れ行きを記録。
以降 挿絵は北斎でなければ
売れないといわれるほどであった。
北斎の名声を確固たるものにしたのが
55歳の時に刊行を始めた「北斎漫画」だ。
絵の手本となるよう集められた
北斎のスケッチ集。
身近な動植物から 江戸の風俗まで。
森羅万象を描いた
まさに絵の百科事典である。
庶民も殿様も こぞって買い求め
人気を受けて 全15編が出版。
北斎は当代随一の
売れっ子絵師となっていった。
ところが それほどの
人気絵師だったにもかかわらず
これまで世に出ることがなかった
幻の作品が発見された。
「万物絵本大全図」。
その名のとおり
万物を描いた103枚のスケッチだ。
題材の多くは 中国やインドなど
海外の伝説から取られている。
挿絵で培った
臨場感あふれる筆遣いが見られ
当時の北斎の集大成ともいえる作品だ。
しかし 「万物絵本大全図」は
何らかの事情によって
お蔵入りになったという。
北斎が「万物絵本大全図」を描いたのは
文政12年とされる。
この年 江戸は大火に見舞われた。
北斎宅は
火を免れたものの
懇意にしていた版元は
軒並み類焼。
「万物絵本大全図」の出版中止も
この火災の
影響を受けた可能性が考えられる。
更に この時期
病を患い 妻に先立たれるなど
北斎の身には
次々と不幸が降りかかっていた。
北斎71歳の手紙には こう記されている。
経済的にも困窮を極め
北斎は まさに瀬戸際まで
追い詰められていたのだ。
そんな折
大きな転機が訪れる。
著名な版元の西村屋与八が
北斎のもとに
ある舶来の画材を持ち込んだ。
ベルリン・ブルー。
日本では ベロ藍と呼ばれた
深く鮮やかな 青の絵の具だ。
18世紀初頭 ベルリンの錬金術師が
偶然生み出した この合成顔料は
瞬く間に絵画界を席巻した。
水に溶けやすく その濃淡を使って
美しいグラデーションが
表現できたからだ。
日本では 文政末期から
大量に輸入されるようになった。
浮世絵師 渓斎英泉が
ベロ藍一色で描いた版画
藍摺絵をはじめ その涼しげな作風で
好評を博していた。
ベロ藍を使ったヒット作を目にした
西村屋。
早速 北斎に
新作の相談を持ちかけたのだ。
北斎は この革新的な画材を見て
心を躍らせたに違いない。
だが 日々の銭にも事欠く状況。
失敗は許されない。
人生を分かつ 大きな選択の時。
北斎の心の内に分け入ってみよう。
どうだ このベロ藍は!
鮮やかで伸びがいい。
こいつあ
今までにない面白い絵が描けそうだ。
だが まずは売れなきゃ
おまんまの食い上げだ。
美人画か 役者絵か…。
藍摺にして一番映えるのは何だ?
誰もが驚いて 飛びつきたくなるような
ものにしなきゃならねえ。
いや 待てよ。
絵描きの欲が湧いてきた。
俺の筆一本で描いてみてえ。
ベロ藍なら 生きとし生けるもの全て
本物そっくり 絵から飛び出すくらいに
描けるんじゃねえか?
屏風絵でも 絵巻でも
売り方は あとから考えりゃあいい。
ベロ藍を使った 勝負の一作。
71歳 北斎の選択は…。
今までにない
新しい青の絵の具 ベロ藍を前に
北斎は選択を迫られます。
選択1は「新作版画で大衆の心をつかむ」。
版画は
安価で大量生産する商業作品ですから
市場のニーズを見極め
売れる絵を描くという道です。
選択2は「肉筆画で究極の一枚に挑む」。
こちらは版画と違って 一点物。
いわば 芸術作品ですよね。
個人の購入先を
見つけなければなりませんが
思う存分
筆を振るうことができます。
皆さんでしたら
どちらを選ぶでしょうか?
まず ヤマザキさん
もし 北斎の立場でしたら どうでしょう?
もう 若い時は
ず~っと 究極の一枚に挑んできて
ちっとも食べていけなかったんで
結局 まあ あの 何て言うか
大衆の心をつかむ画法というか
ツールを選んだわけですけど。
でもね さすがに
このベロ藍みたいな
当時のやっぱり
画壇にとっては もう画期的な
あんな顔料が生まれてきてね
あのグラデーション出せるなんて
あれ やっぱり 実験してみたくて
しょうがなくなると思うんですけど。
うんうん…。
で 描いてみて
あっ もしかしたら
こういうものと
こういう大衆的な嗜好性を混ぜたら
何かおもしろいものが
出来るかなっていうのは
そのあとのことだと思うので。 はい。
まあ だから 足して2で割る
ような感覚っていうのかな。
どっちも
今の私の心境からしてみると。
どっちってわけではないと。
ないですね。
例えば 私も 漫画を描いてるけど
漫画が単行本化した時の表紙を
わざわざ油絵にしてみたりとかね。
そういうことを したのかもしれないし
もしかすると。
じゃあ 1でも2でもなく…。
足して2で割る。
足して2で割る。 はい。
さあ 浅野さんは いかがでしょうか?
まあ 私が北斎だったら
やっぱり 肉筆画でしょうね。 ああ~。
大英博物館で収蔵した
あの~ 万物絵本大全が
出版されなかったっていうのは 北斎は
あの 版下絵 つまり出版されないで
ボツになった あの 版下絵
下絵っていうのが大量にあるんですよ。
ほかの絵師に比べて。
へえ~。
やっぱり まあ 版元もいるし
彫師もいるし 摺師もいるし
ほかの人たちもいるので。
確かに。
で それをこう全部ね 自分の思いどおりに
やろうとするわけです。
だんだん有名になってくると。
あの彫師じゃないと駄目 駄目とかね。
摺師は あの人とか。
ええ ええ…。
だから もう十分有名で
別に無理に版画やらなくても
食べていけるはずですから。
やっぱり 好きなことを描きたい北斎が
好きなことを描く
肉筆画 選択したと思います。
ああ~。
中野さんは どうでしょう?
…を選びます。
大衆をつかむっていうのは すごく
その時々で新しい発見があるので。
はい。
その人たちを対象にして
実験したくなるんじゃないかな。
大衆がベロ藍を
俺のベロ藍を どう受け止めるのか
を 見たくなるんじゃないかと
思うんですよね。
そちらの方に
こう 知的好奇心が湧くというか?
まあ もともと
その 商業絵師だっていう
自負も あるんじゃないかなあとも
思いますしね。
私自身はですね 実は こう
打ち合わせをやってる時に
パッと思いついたのは
選択2なんですよね~。
あの ベロ藍を独り占め
したいんですよ 一回。 フフフ…。
あの~ うん 科学者的視点で
ちょっと実験してみたいっていうかね
絵師には そういう気持ちも
働きかけるので
とりあえず どんなものが
現象として起きるのか
やってみたいっていうところが
先行するのかな まずは
というふうに 思いますよね。
あの 磯田さん まあ
こちらのスタジオでは
割れたんですが 磯田さんは
どちらを選びますか?
僕 1番。
おっ はい。 新しいものと出会いました。
新作版画で大衆の心をつかむ。
あんまり大衆の心を
つかむのが目的じゃないんですけど
やっぱりね 私ね
あの~ 新しいものに出会ったら
みんなに見せたい 共有したいっていう
欲あるはずなんですよ。
例えば 音楽家が すごい新しい
いい楽器を手に入れた時とかね
曲作ったら 演奏して
聞かせたいって思いますよね。
ええ。 私もね 昔ね
武士の家計簿っていう
珍しい古文書
手に入れたことあったんですよ。
はいはい。 ほいでね 論文書こうかなと
思ったんですよ。
だけどね 何かね
やってるうちにね これね
どんな内容かね
見せたいって思い始めてね。
で 最初は別に一般向けの
本のつもりじゃなかったんですけどね
あの こんな面白い
古文書があるんだったら
みんなに見てもらいたいなというのが
大きくありましたね。
ですから
その感動を大衆と共有したい。
あっと驚かせたい。 ねえ。
ああ 北斎すげえことやったぞって。
んで まあ
長く人々の記憶に残るような
何か ことになりたいっていうのが
ありますよね。 なるほど。
さあ それでは 北斎の選択を
ご覧ください。
舶来の鮮烈な青 ベロ藍。
果たして 北斎が選んだのは
何だったのか。
天保2年
西村屋与八が出版した本の末尾に
その答えが載っている。
北斎の新作を宣伝する広告だ。
そう 北斎が選んだのは
各地から眺める富士の風景版画。
浮世絵芸術の傑作「冨嶽三十六景」である。
「冨嶽三十六景」に
ベロ藍が いかに生かされているのか
本物の版画をもとに探ってみよう。
「神奈川沖浪裏」。
東海道 神奈川宿の
沖合から眺める 富士の図だ。
この絵の魅力は 何と言っても
力強く立ち上がる 巨大な波。
その細部をよく見ると
3つの異なる青が
組み合わさっている。
深い紺色。
鮮やかな青色。
透明感のある水色。
深い紺の部分は
従来 浮世絵に使われていた 本藍。
青と水色は
ベロ藍を濃淡によって使い分けている。
青の魅力が引き出されているのは
波だけではない。
「凱風快晴」。
この一作では ベロ藍で描かれた
空が大きな役割を果たしている。
赤く染まった富士の山肌。
裾野に広がる緑の樹海。
そして いわし雲がたなびく
鮮やかな青空。
3つの色を
極めてシンプルに組み合わせることで
強烈な色彩のインパクトを
もたらしている。
空の青には 更に一工夫。
天上の部分に 横一直線に引かれた
深く濃い青のライン。
「一文字ぼかし」と呼ばれる技だ。
北斎は「冨嶽三十六景」で
ベロ藍による 一文字ぼかしを多く用いた。
深い青のグラデーションによって
絵の中の空に
吸い込まれるような奥行きが加わった。
ベロ藍と向き合い生まれた 北斎の選択。
それは 浮世絵の世界に
鮮やかな革命をもたらすものであった。
北斎の選択は
ベロ藍を生かした風景版画。
そうして 自身の代表作でもある
「冨嶽三十六景」が誕生しました。
磯田さん なぜ北斎は
版画を選んだと考えますか?
この時の世相を考えますとね
あの~ えっと
美術史と歴史学の
いい対話をしたいと思うんですけど。
庶民消費の成立っていうのが
あるんですね。
ほう。 要するに
それまでの江戸の庶民って
そんなに
もの買えるほど経済力持ってないんです。
ところが 文政のおかげ参りだ
とかいうことんなると
なんと 伊勢参りに
当時人口が
3, 000万人ほどしかいないのに
一説によると あの~ 500万人行ったと。
はあ はあ…。
つまり まあ 日本人口の6分の1が
行ったわけですね。
んで 観光旅行したら何しますか?
そりゃ~ あれですよ。
浮世絵を お土産にしますよ。
ああ~。
もう すごい旅行ブームで 結構 浮世絵が
売れ始めてるところんなったら
そら 描かせに来る人だっていますよね。
う~ん。
…っていう感じですね 私は。
ああ~。
浅野さん 今の磯田さんの意見聞いて
いかがですか?
やはり 西村屋与八から
頼まれたっていう要素は大きいですね。
プルシアン・ブルーが
使えるようになったのは
北斎と西村屋与八だけではないんですよ。
一斉に こう 安くなったので
一斉に皆さんが
みんなが それで 何か こう
新しいものを出して 一発当てて
もうけることができないかっていう
ことを考えたと思うんです。
ですから 歌川 まあ国貞も
まあ もちろん 国芳も
いろいろ みんな それぞれ
その ベロを使う作品を出そうとしたり
出したりしてるんですね。
で 結局 最初に すごく当たったのが
この「冨嶽三十六景」で。
北斎は だから そういう状況を見ていた。
俺が一番になってやるんだと
版画でもね。
そんなふうに思ったかなと
思ってますね。
承認欲求はね 発生するでしょうね。
いや~ 絶対
あったと思うんですよね。
やっぱりね。 そこではね。
承認されたいっていう
気持ちの強さと
その多動性って ちょっと こう
あの メカニズムが
同じところを共有しているので
多動性の高い人は 承認されたい気持ち
強い可能性が高いんですよね。
そうすると
自分で満足するっていうのは
もちろん 大事なことなんですが
何か 多くの人に
受け入れられるっていうことを
より重く捉えた可能性も
捨て難いなと。 まあ 今でいうと
こうちょっと ユーチューバーみたいな。
それを もしかしたら
そのベロ藍を手に入れた時に
俺なら もっと
面白いことができると…。
ああ それは あるかもしれないですね。
思ったんじゃないかな~。
あの~ ヤマザキさん
この北斎の ベロ藍の使い方
どのように ご覧になりましたか?
え~と まあ 先ほどね
ベロ藍っていうのは
まあ 水に溶かしやすくて
使いやすそうな色だっていう体で
話してたんですけど
実は ベロ藍はベロ藍なりの
難しさっていうのがあって
非常に発色が強いわけですよ。
なので あの~
ほかの色を食ってしまうって
これはね 印象派の画家の
ルノワールも 仲間の画家たちに。
まあ 彼は 光と色彩の画家と
いわれていたけど 非常にあれは
扱いづらい色だっていうことは 言ってる。
プルシアン・ブルーっていうのはね。
だけども 北斎は ちゃんと
その藍色っていう
微妙な この日本独特の青と
そして プルシアン・ブルーを
交互で使うっていう あの技がね
すごいな~と思って。
ねえ~。
うん。 ちゃんと こう 色彩の特徴を
分かって描ける
画家っていうのは もう
それは一流だと思うので。
なかなか これ 海外の人は
こういう描き方できないんです。
ふ~ん。
うん。 これは やっぱり あの
日本的な だけども 海外の人にも
受け入れられるような その
3次元的な 描き方ができてる
絵なんじゃないかなと思います。 うん。
そういう意味でも 浅野さん
絵画史に残る ターニング・ポイントでも
あるのかもしれないですね。
この「冨嶽三十六景」が
誕生したというのは。
そうですね。
「冨嶽三十六景」が生まれて
「冨嶽三十六景」が完結したころに
広重の
「東海道五十三次」が出現するんです。
ちょうど こう
最後と最初が一致するんですよね。
で これが まあ 要するに
日本の あの~
浮世絵 風景版画の
完成といわれている現象。
文化現象になります。 それが
つまり版画ですから
大量に生産されたものの一部が
かなりの量が ヨーロッパに渡った。
この… そのあとですけど。 ええ。
そして影響を与えた 及ぼした。
ああ~。
日本の風景画 イコール 青
ベロ というイメージが
結構 定着する… 定着し始めたのは
この辺からかなと思いますね。
それにしても こう西洋と東洋で
ちょっとこう 意味合いが違ったりする
部分もあると思うんですけれども
日本人の青に対する思い入れと
西洋人の
青に対する思い入れとを 比較してみて
どんな差があると思われますか?
ヨーロッパの場合は
やっぱりその マリア様か
幼子 キリストの衣服なんですよ。
それだけに絞られる。
一般の人が
着てはいけない色っていうぐらい。
それぐらい高貴な色なんですね。
だからその背景には
やっぱりヨーロッパっていう社会が
そのキリスト教っていう
一つの宗教によって
統括されていたっていう
背景が見えてくる。
ところが
この「冨嶽三十六景」のように
あの~ 北斎のような まあ
絵師たちが表す青っていうのは
あくまで その自然に対する敬意であり
自然をいかに美しく
自分たちが どれだけ 慮ってるか
っていうことを
こう表現するために用いられてる。
そういう要素が強い。
やっぱり その政治的な
拘束力がない社会で 育まれた青の
活用のされ方かなっていうふうに
感じますね。
それが
一番大きな差じゃないでしょうかね。
面白いですね。
では 次のVTRまいりましょう。
70を過ぎて「冨嶽三十六景」という
新境地を切り開いた北斎。
しかし そこにとどまらず
90歳まで ひたすら絵を描き続けます。
実は その活躍の陰には
そばにいた
もう1人の人物の選択がありました。
75歳を期に 北斎は画号を改める。
新たな名は
画狂老人卍。
一点一画 生けるがごとく
描きたいと
版画ではなく
肉筆画へと傾倒していった。
晩年の北斎が訪れた 長野県の小布施。
ここには 北斎入魂の肉筆画が
数多く残されている。
この町で代々受け継がれてきた
祭り屋台。
その天上画は 北斎が描いた
大波だ。
最も深く濃い青は ベロ藍。
手前の波には
本藍と緑青が使われている。
3つの青を
渦を巻くように配置することで
吸い込まれるような 奥行きを際立たせた。
北斎の絶筆といわれる
「富士越龍」。
富士を越え
天高く昇りゆく龍の姿が
墨絵の筆遣いで 巧みに描き出される。
北斎が亡くなったのは
この絵を描いた 90歳の時。
龍は 死期を悟った
北斎自身の姿ともされる。
北斎は まさに画狂の名にふさわしく
死の間際まで ひたすらに絵を描き続けた。
近年 そうした北斎の創作を陰で支えた
ある絵師の姿が 浮かび上がってきた。
北斎の三女 お栄。
こちらは
弟子がスケッチした 北斎の作画の様子。
背を丸め 一心不乱に
絵を描いているのが北斎。
傍らで見守っているのが 娘のお栄だ。
お栄自身も絵描きで
葛飾応為と名乗っていた。
お栄の作
「夜桜美人図」。
夜 桜の木の下で 短冊に
和歌をしたためる
若い娘の姿が描かれる。
たおやかな線で
描かれた
女性らしい手つき。
細かな花柄まで
書き込まれた
美しい赤の着物。
父 北斎も
美人画では
お栄にかなわないと
うなるほどだった。
お栄は 北斎の創作を
いかに支えたのだろうか。
2人が絵の仕事で訪れた
小布施の豪商
高井鴻山の屋敷に
その手がかりが残されている。
高井家に残る 絵画の購入台帳。
「富士越龍」をはじめ
北斎に注文した絵が
細かく記録されている。
その中に
一つだけ お栄へ注文した絵があった。
小布施に残る
「菊図」。
さまざまな品種の菊が
紙幅いっぱいに咲き誇る
色彩見事な作品だ。
一輪の中でも
色の明暗を使い分け
光の当たっている部分を
巧みに表現している。
「菊図」は北斎の作とされていたが
近年の研究で
お栄との合作である可能性が
指摘されている。
お栄が携わっていると
考えられる
花の絵は ほかにもある。
北斎作
「扇面散図」に描かれた
牡丹と朝顔。
その緻密な色使いや
光と影の描写は
お栄の作風と一致する。
お栄は晩年の北斎画において
細部の着色を手伝っていた可能性が高い。
お栄にとって絵の師は 北斎だ。
幼い頃から父の技を間近で見ながら
お栄は どんどんと腕前を上げていく。
晩年の北斎は そんなお栄と共に暮らし
一緒に絵を描いて生計を立てていた。
しかし 北斎にも老いは避けられない。
87歳の手紙には
病気が再発し
歩くのがつらいと記されている。
90歳の落款には
手の震えの跡が
見られるものもあった。
北斎は残された寿命に
追われるように
創作に没頭。
その父を支え
一枚でも多くの絵を完成させる。
それが お栄の選択だった。
北斎の絶筆といわれる
「富士越龍」。
この作品には
ほかに見られない特徴がある。
落款に
絵を描いた日付と共に
北斎の生まれ年が
記されているのだ。
…っていうふうにも
言えるかなとは思いますね。
この絵が描かれた3か月後
お栄は 父 北斎の最期をみとる。
いまわの際 北斎は大きく息を吸うと
こう つぶやいたという。
もう 最後の最後まで絵師だった北斎。
磯田さん どう感じましたか?
当時としては 90歳って
化け物みたいな長命ですよね。
ああ~。
それなのに 90年生きても
やりたいことを
全てやり尽くすには
時間が足りなかったという
思いなんでしょうね。
その気持ち分かります! 私も。
ヤマザキさんも分かると思いますけど。
(一同)ハハハ!
いや 私は。
え~っと ただ あの~
いや 辞世の句もね 残ってて
私 好きな 辞世の句なんですけど…
浮世の憂さ晴らしをしよう
夏の原っぱで っていうもので。
やっぱり これを見る時に
もう よほど 心の自由
もう前へ進みたいっていう
もう すっごい執念の男だなと
思いますね これ。
いい人生ですよ。 うん。
あ~ ハハハ!
そういった執念もある
描きたい描きたい という
欲もあるから 欲求が
長生きさせたのかもしれないですね。
あと10年あったら 5年あったらと
90の時に思う。
でも 多分 100まで生きたら
また あと5年あったら
10年あったらって
言うと思うんですよね。
ハハハハ! でしょう 北斎は。
ええ ええ。
うん。 で 常に人間… 人間というか
まあ こういうタイプの人は
特になんでしょうけれども
人間って こう 満足している
ポイントっていうのは
実は もう あの~
あまり快感を感じていなくて
もうすぐ
満足が得られるっていうところが
一番 快感が大きいんですよね。
もうすぐ こうなれると。
もうすぐ 真の絵描きに
なれたのにっていう状態を
この時 味わっているとしたら 実は
一番幸せな状態だったんじゃないのかな。
そうですね。
この 北斎の こう 目の前に
ニンジンをぶら下げられた
馬のような人生なんですよ。
フフフ…。
もう こうやって 走っていくんですよ。
だから登れる山があるんでしょうね。
きっと。
こういう人でないと
登れない山だったんでしょう。
彼の芸術は。
う~ん。 う~ん。
さあ 今日は どっぷり 北斎の
人生と作品を追ってきましたが
あの 改めて 私は
まあ日本人としてですね こう
こういった 芸術が
この江戸時代に生まれ
今も その何か DNAとして
ずっと自分の中にあるという
よりそれが 立体的に見えたなっていう
感じがとてもしました。
あの~ 中野さん いかがですか?
う~ん そうですね。
…というものを考える時期に
私たち いると思うんですけれども。
わざわざ明日生きていくために
必要でないものに
私たちは お金をかけるということを
するんですよね。
絵を買う まあ漫画を買うも
そうかもしれない。
あの~
学術書を買うもそうかもしれない。
明日生きてくためには要らない。
けれども それを何で
わざわざ コストをかけて買うんだろう。
不要不急かもしれないけれども
不要不急じゃないっていうことが
私たち 分かったと思うんですよね。
この1年で。
それは 何で 不要不急じゃ
ないんだろうっていうことを
北斎の絵を見てると 何かこう
教えてもらえるような気がする。
みんなが楽しめるものを
共通言語としてつくるとか
何か こう 人々の心が
向かう方向っていうのが
こう 集団として
いい方向に向かうために
芸術があるんじゃないかっていうことの
ヒントが ここにあるような気がして
非常に こう
奥が深いと思うんですよね。
彼の研究をすることが。
あの 芸術というふうに
絵というふうに考えなくても
あの… 食べて まあ排泄して で 寝て。
それは重要ですよね。
それができれば 幸せですか?
っていうふうに
生活できますか? 生きていけてますか?
っていうことを考えると
到底 耐えられない。
ああ~。
そう思いません?
思います。 あの 精神性の
やっぱり 生き物ですから
それだけじゃ やっぱり生きていけない。
もう 心が潤わないですよね。 そうです。
それだけでは。
ここにも きちんと栄養を与えなきゃ
いけないっていうのは ありますよね。
磯田さん。 最後に まあ今日は
北斎について 見てきましたけれど
磯田さん どんなことを思いましたか?
ええと 「神奈川沖浪裏」。
子供のころ 私 衝撃受けたんですよ。
フフフ…。
あの 何せね 世界は
こうも見えるんだと。
いや 固定観念 破壊されるわけですよ。
これはね 自分が千鳥になって
千鳥の意識に憑依した時に
見える風景で。
千鳥に生まれ変わらなくても
千鳥が見た風景が見えると。
ふだん 僕たちは あの~
肉体に縛られたり
空間や時間に縛られ
あと金のあるなし 立場のあるなし
いろんなことに
限定されてるんだけれども
きっとね 固定観念に縛られない
日常でない世界。
あるいは 世界の
こうも見えるよっていう
違った見方を突きつけられた時に
お~ この人の脳内では
こういうふうに
世界は見えているのかっていうのを
見た時に
何回も自分は 自分の人生を
生きられたというふうに思えると。
だから 芸術で感動してる瞬間の
人間っていうのは
深く生きてんだと思うと。
だから その 深く人を生きさせる
こういう人々が現れ始めたのが
もう その 北斎の時代からぐらい
なんだろうってことは
すごく よく分かりました。
あの 本当に
北斎を通して いろんな こう
まあ 芸術そのものについても
分かりましたけれど 何かこう
エネルギーの塊
みたいなものも感じられて。
そういったものを一人一人が
持っていくことっていうのも
大事かもしれないですね。 そう。
う~ん。
パッションというね。
はい。 パッション。
ああ 今日は皆さん
楽しいお話を ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
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