ファミリーヒストリー「薬丸裕英~やんちゃな魅力を受け継いで~」[解][字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

ファミリーヒストリー「薬丸裕英~やんちゃな魅力を受け継いで~」[解][字]

「先祖は薬に関わる仕事をしていたのでは」という裕英さん。予想とは違う驚きのルーツが明らかになる。父方の先祖は豪族に仕えた武将。一族には秘伝の剣術も伝わっていた。

番組内容
父方・薬丸家のルーツをたどると、戦国時代に現在の鹿児島県大崎町の周辺を守っていた武将に行き着く。島津氏と争った有力な豪族の家臣だったいう。明治以降は武士の身分を失い、厳しい状況が続くも懸命に生き抜いた。さらに、寡黙だった父が少年時代はやんちゃ者だったことを知り、びっくり。母方の先祖は、離島から大隅半島に移住し、苦労を重ねたことを知る。たくましく生きた先祖たちを知り「勇気がわいた」と目をうるませた。
出演者
【ゲスト】薬丸裕英,【司会】今田耕司,池田伸子,【語り】余貴美子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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  17. ルーツ
  18. 手紙
  19. 先祖
  20. 当時

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

NHK
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エンスカイ(ENSKY)

♬~

♬「NAI・NAI・NAI 恋じゃNAI
NAI・NAI・NAI 愛じゃNAI」

♬「NAI・NAI・NAI でも止まらNAI」

♬「笑わせるぜ 靴箱に」

「シブがき隊のヤックン」として活躍した
薬丸裕英さん。

中学3年生で芸能界デビューすると
やんちゃなキャラクターでブレーク。

その後 アイドルの
石川秀美さんと結婚し

5人の子どもの父親となりました。

55歳にして まだまだ挑戦を続ける

薬丸裕英さんの
「ファミリーヒストリー」です。

今日のゲストは
薬丸裕英さんです。 どうぞ!

よろしくお願いします!
お願いいたしま~す!

よろしくお願いします。
お願いいたします。

いや~ ちょっと懐かしい映像が
流れてました。

デビュー40周年ですって!
40周年 すごい! そうですね。

何か実感はないですね。

ないですか?
はい。

アイドル時代のことって
いつ思い出したりするんですか?

そう 最近 娘たちが
やはり ジャニーズ事務所のね

今出てる若い子たちに…。
そうだ!

ちょっと憧れてて。
一緒にテレビを見てたりすると

まあ そういう会話になったりしますし。

ヤックン的には ちょっと恥ずかしいとか
嫌だとか どっちなんですか?

いや もう100%恥ずかしいかもねですね。
かもね!

♬~

薬丸裕英さんは 幼い頃から
自らの名字が気になっていたといいます。

薬丸っていうこと イメージだけですと

薬関係の仕事を
ご先祖は してたのかなっていう

ほんとに子どもの頃から
そういうことを まあ 思っていて

人のためになるようなことを

ご先祖様はしていて下さったら
やんちゃな僕は うれしいかなと思います。

しかし 去年亡くなった
父 正英さんは

薬丸家のルーツについて
何も語りませんでした。

ほんとに言葉数が少ない父親で
まあ イメージして頂くのに

一番いい表現とすると
昭和の頑固親父ですね。

ほとんど父と時間を
共にした記憶はないですね。

明治初めの戸籍によると
薬丸家があったのは

鹿児島県
南諸縣郡 大崎郷 假宿村。

現在の 大崎町です。

当時の住所にあたる場所を訪ねると
1軒の家がありました。

失礼します。
≪はい。

あ~ どうも。 連絡させてもらいました。
はい 藥丸でございます。

この家で生まれ育った…

省二さんの祖父と裕英の曽祖父が
兄弟にあたります。

かつて 同じ敷地に家があり

1つの家族のように
暮らしていたといいます。

これは集合写真なんですけど。
これは昭和。 (取材者)あ~ 古い。

(省二)昭和13年の後期か
14年の初めごろだと思います。

ここが ここなんですね。
(取材者)なるほど なるほど。

今 ちょっと違いますけど
この所が この写真です。

(取材者)この床の間を背景にして。
(省二)そう そう そう。

ここに ほら 全部
一族が集まったんでしょうね。

裕英くんのですね ひいばあさんが
この方です。 キミさんですね。

穏やかながら しんの強い
女性だったといいます。

省二さんは 薬丸家に代々伝わる
家紋入りの羽織を受け継いでいました。

父から 一族のルーツについても
聞かされています。

江戸時代に薬丸家があった
假宿村という集落には

薩摩藩の下級武士が暮らしていました。

裕英の先祖は どんな武士だったのか?

失礼します。
ああ どうぞ。

すみません。
連絡させてもらいました。

訪ねたのは 原口 泉さん。
薩摩藩の歴史研究の第一人者です。

原口さんの母方・山下家の先祖は

大崎郷假宿村に暮らす武士の
元締めだったといいます。

山下家には 大崎郷の武士
364人の名簿が残されていました。

寛永17年にまとめられた…

(原口)薬丸本覚坊。

薬丸本覚坊は 薬丸家があった
假宿村に暮らしていました。

その名前から
素性が うかがい知れるといいます。

(原口)薬丸本覚坊なんですね。

(原口)なんとか坊 なんとか坊というのは
山伏なんです。

山伏とは 山岳信仰と仏教が習合した
修験道を修める山岳修行者。

全国を渡り歩いて
他藩の事情を探ると同時に

祈祷などをして 地域をまとめる役割も
果たしていました。 へぇ~。

この名簿によると

假宿村に住んでいた
薬丸姓は本覚坊だけ。

原口さんによれば 薬丸本覚坊が
裕英の先祖にあたるのは

ほぼ間違いないといいます。

続いて 江戸時代以前の
薬丸家のルーツを求め

薩摩藩の古い歴史書をひもときます。

「薬丸出雲入道孤雲
子の弾正は 肝付が将なり」。

戦国時代 大崎郷には

肝付氏に仕える武将

薬丸孤雲 薬丸弾正という
親子がいたのです。

肝付氏とは 平安時代中期に
京の都から鹿児島に派遣された豪族。

島津氏と 南九州の覇権を争い

最盛期には 大隅半島の半分を
勢力下に置いていました。

その肝付氏の末えいが見つかりました。

どうもすみません。
ご連絡させてもらいました。

(取材者)これは何ですか?
昔からの文書を巻物にしたもので

あと4つか5つ箱がある。
「肝付氏宗伝古系図」。

肝付氏の古い系図を見ると
一族の名前に ある特徴がありました。

(取材者)何がついてる?

(取材者)例えば?

(兼達)兼俊ですね。
兼経。 兼益ですかね。

(取材者)兼の字を。
(兼達)はい。

これしかないんですね。
(取材者)あ~ すごい。

かつての家臣 薬丸一族の史料も
残されていました。

薬丸一族の最も古い系図です。

(取材者)兼利… あれ?
こっちの薬丸家も。

(取材者)家臣だから 兼の字も。

薬丸一族は もともと 豪族・肝付氏の
分家だったといわれています。

その後 戦国時代には 肝付氏の武将として
大崎郷周辺を守り 島津氏と戦いました。

(清山)これがそうです。
薬丸弾正兼持のお墓ということで。

兼持公が ここの戦いで戦死された時に
ここに これを まつられている場所です。

薬丸弾正は 20代で戦死。
凄惨な戦だったと言い伝えられています。

戦に敗れた後
薬丸一族はどうなったのか?

肝付家に残された系図から その後も
子孫が続いていったことが分かります。

その中に 江戸時代の人物として
薬丸本覚坊の名前がありました。

本覚坊の もう一つの名前は 兼延。

名門・肝付氏の「兼」の字を
受け継いでいました。

今回の取材で 裕英と同じ先祖をもつ
人物が 鹿児島市内で見つかりました。

お待ちしておりました 薬丸と申します。

戦国時代の武将だった
薬丸孤雲の子孫にあたります。

(掛け声)

(取材者)これは何ですか?
これは薬丸自顕流と申しまして

自顕流の稽古になります。

(取材者)薬丸自顕流。
はい。

兼弘さんの家系が代々受け継いできた
薬丸自顕流という剣術。

幕末 薩摩藩の武士の教育に取り入れられ
広く普及しました。

桜田門外の変で 井伊直弼を斬った
有村次左衛門。

生麦事件の 奈良原喜左衛門など

剣で名をはせた薩摩藩士の多くが
薬丸自顕流を修めていました。

東郷元帥も 晩年まで
この 今 して頂いた

続け打ちの稽古を続けられていたと
聞いております。

裕英のルーツ 薬丸一族。
鹿児島の歴史に深く名を刻んでいました。

(掛け声)

薬丸裕英さん…。
(一同)お待ちしております!

ご家族で。 ご家族で是非。
攻めに行かないと。

自顕流に。 いや~。
もう 斬るだけの!

すごい。
すごいな~。

攻め一択の剣術。
攻め一択。 守りがない! 怖いと思うな~。

いかがでしたか?でも ここまでルーツ。
いや~ ちょっと意外でしたね。

そうですね お薬ではなかったですね。
うん。 武士だったんですね。

由緒ある豪族に仕えた
という意味では

ねえ すごい人たちだったんだな
という感じですけどね。 ですよね~。

だって 大隅半島は
守っていたみたいな ねえ。
そうですね。

ほんとに ちょっとね お墓参りとかもね
伺わないといけないですよね。

ここですね。 これが私の
薬丸家の墓になります。

裕英の遠縁 藥丸省二さんが管理する
代々の墓です。

ここに 裕英の4代前の高祖父
荘太夫と

曽祖父 覺之進が眠っています。

明治維新以降 薬丸家は武士の身分を失い
苦境に立たされたといいます。

財産がないから。
やっぱり あの 貧乏だからですね

財産がないから やっぱり

祖父とか曽祖父なんかも
やっぱり 山の仕事ですね。

昔 きこりと言ったらしいですけど。
食うか死ぬかだよな。

そういう大変な時代じゃなかったのかなと
思います。

裕英の曽祖父 覺之進は
何とか林業で生計を立てます。

そして 明治34年

子どもがいなかったため

妹 ハルが生んだ
男の子を養子に迎えました。

すみません。

東京で暮らす 薬丸義朗さん。
正徳の三男にあたります。

正徳が幼かった頃の話を
聞いていました。

かつて 左の腰に帯刀していた
武士にとって 刀を抜く右手は命綱。

正徳は 明治になっても

武家の教えを守る父から
厳しく育てられたのです。

校長の下吉です。
どうぞよろしくお願いします。

少年時代の正徳の記録が
大崎小学校で見つかりました。

これでございますね。 明治4年からの
卒業生の台帳になっております。

ここですね。 正徳さんですね。
(取材者)あっ! ほんとだ ほんとだ。

正徳が卒業したのは 大正2年。

卒業生の名前の上に
鉛筆書きの印がありました。

正徳の欄は 斜線のように見えます。

教育史を研究している橋本昭彦さんに
印の意味を伺いました。

名簿の鉛筆の文字は 卒業後の進路を
表しているものだと思われます。

「高」は 当時の
高等小学校だろうと思います。

それから あの
棒みたいに引いてあるのは

これは 高等小学校や中学校には
進学しておられないんではないかと。

卒業生の半分以上が進学する中
正徳は林業を手伝い

家計を助けるために必死で働きました。

ところが 卒業から1年後
薬丸家は大きな試練に見舞われます。

大正3年 桜島の大噴火です。

溶岩などの噴出物は30億トンを超え
噴煙は上空1万メートルまで達しました。

30億トン。

(取材者)うわっ! これ桜島?

(若松)そうですね
桜島のジオラマになります。

大正噴火後の大崎町の様子を伺いました。

こちらの大隅半島側には 大崎の辺りで

大体5センチから15センチぐらいの
降灰が記録されております。

火山灰をかぶった木が枯れ
林業は大打撃を受けます。

窮地に追い込まれた薬丸家。

正徳は
都会に働きに出るしかありませんでした。

そんなとこまで。

しばらく神戸で働き
電気工事の技術を身につけた正徳。

大正の終わり 関東大震災の
復興特需に沸く東京に向かいます。

東京に嫁いでいた実の姉
サユを頼ったのです。

こちらですね。
(取材者)それ何ですか?

(竹之内)こちらは祖母の遺品の
アルバムになります。

今回 サユの子孫が保管していた遺品から
正徳の写真が見つかりました。

(竹之内)こちらは祖母になりますね 私の。
(取材者)サユさん。

(竹之内)はい 祖母のサユ。
こちらが弟の正徳さんだと思います。

(取材者)正徳さん? つまりヤックンの?
(竹之内)おじいさんです。

昭和2年
26歳のころの正徳です。

すごいね 貫禄。

正徳の三男 薬丸義朗さんに
見つかった写真を見てもらいました。

これは私の親父ですよね。

正徳の妻 マツは
裕英の祖母にあたります。

生まれたばかりの長女
照美を抱いていました。

その後 正徳は 東京 恵比寿に
自らの電機店を立ち上げます。

このコルシカがそうですよ。
(取材者)ここ? ここにあったんですか?

(義朗)ここですね。

いや 行ってますよ。
(今田 池田)ええ!?

食事しに何度も行ってますよ。
有名ですよね あそこ。

(池田)すごい。
ちょっと鳥肌立った 今。

店の名前は 「照美電機商店」。

間もなく正徳は
電気製品の修理だけでなく

電気工事も請け負うようになります。

そして昭和15年
6番目の子どもとして正英が誕生。

裕英の父です。

初めて見ました この写真。

あ そうなんだ。
はい。

順風満帆だった薬丸家。
ところが 大きな転機が訪れます。

太平洋戦争の開戦前

電気・電力業界が 軍部の統制下に置かれ
電気工事の仕事が激減したのです。

正徳は ふるさとの鹿児島県大崎町に
家族を連れて帰るしかありませんでした。

小さな畑を借りて食いつなぐ
貧しい生活でしたが

正徳には 一度は東京で成功した
プライドがありました。

は~い。 あ~ どうも。
こんにちは。

都内に暮らす正英の妹…

(山野)あら 懐かし~い。

12月に生まれてますから
その よくとしの…

終戦後 大崎町では
電気の普及が進んでいきます。

正徳は 張り切って
電気関連の仕事を再開しました。

働く正徳の姿を覚えている人がいます。

あ 失礼いたします おじゃまいたします。
ああ どうも。
ああ どうも。

正徳は
電気の仕事の収入を教育費に充て

子どもたちを厳しく育てました。

昭和22年には
長男を 後の鹿児島大学に進学させます。

6番目の子どもだった裕英の父 正英も

厳しい家庭で育っていくのです。

いや ちょっと衝撃の事実が…。

いくつも衝撃がありましたね~。

あのレストラン
有名なね 通り沿いにある…。

ですよね。 あれ もう芸能人も
結構 あの店は行かれてますよね。

たくさん行かれてますけど。
あの もともと住んでらっしゃって…。

(池田)もう実家みたいなことですよね。
実家みたいなことです。 ほんとですよね。

いや 吸い寄せられるように行ってたのは
確かなんですよね。

何度も じゃあ ご家族で? 何度も。
え~。

全く知らなかったです。
(笑い声)

いやぁ~。
でも やっぱり厳しい一族ですね。

やっぱ おじいちゃんの あの写真の
気合いと言うんですかね。

いやいや もう伝わってきますよね。
伝わってきますよ。

子どもたちの緊張感が
伝わりますよね。

「写真 撮りたくない!」
みたいな表情でしたよね。

シャンとしてたなぁ!
いや でも たくましいですね。

そうですね。 バイタリティー。
いや ほんとに

たくましいなぁと思いました。 うん。

裕英さんは 父 正英さんが
どんな少年時代を過ごしていたのか

聞いたことがありません。

いやいや もう内気だったと思いますね。

はい。
ほんとに言葉数も少なかったですからね。

もう僕は どちらかというと
目立ちたがり屋だったんですね

子どもの頃。 多分 父は
そうではなかったような気がしますね。

(取材者)あ~ どうも。
はじめまして。

裕英の父 正英の
2歳上の兄です。

あ~ すっごく久しぶりです。

少年時代の正英の印象を
聞いてみると…。

(取材者)ああ そうですか。
うん。

あんまり その…

父親の
厳しい しつけもあり

家では おとなしかった正英。

あ 失礼します。
はい。 あ~ どうも!

ところが
小学校時代の同級生に話を聞くと

全く違う印象だといいます。

(笑い声)

「大胆な人」
「暴れん坊」
という意味。

当時の正英は

かなり
やんちゃだった
というのです。

ハッハッハッ!
やんちゃやな。

ハハハハッ!

中学生になっても
友達の前では いたずらや けんかばかり。

更に 目立ちたがり屋の一面もありました。

え~ 意外。
(取材者)歌が うまかったですか?

そんな正英に 中学3年生の時
大きな転機が訪れました。

一家の大黒柱だった
父 正徳が

脳出血で
急死したのです。

その4か月後 卒業直前に撮った写真を

同級生の高瀬さんが持っていました。

(取材者)横瀬の浜。
(高瀬)はい。

(取材者)あ~ なるほど!

卒業遠足で訪れた
横瀬の浜に案内してもらいました。

ここの砂丘ですね。
(取材者)ここ! この砂丘ですね。

いまだ父を亡くしたショックを抱えながら
海岸に立った正英。

その目に
鮮やかな光景が飛び込んできました。

キバナルピナス 通称ルーピンという
一年草が 海岸に咲き乱れていたのです。

この遠足の終盤

正英は担任に 「ある提案」をしました。

その場に居合わせた…

♬「東京やんちゃ娘
おしゃれでおきゃんで お転婆で」

♬「アプレじゃないわ」

昭和28年公開の
同名映画の主題歌です。

♬「だけど 男とお酒は大嫌い」

♬「ダンスや歌なら大好き」

戦後の 自由な空気をおう歌する喜びが
歌われています。

その時の正英の騒ぎっぷりは
今も忘れられないと

同級生の東さんは言います。

これ以降 「ぼっけもん」だった正英が
急に大人びていきます。

中学卒業後は 隣町にある
串良商業高校に進学。

簿記や会計の勉強に励みながら
母親の農作業を手伝いました。

兄たちは家を出て
男手は自分ひとりだったのです。

妹の
晴美さんは

当時の正英の姿を
覚えています。

卒業前のクラスの寄せ書きには
こんなメッセージを残しています。

「自分の足で歩こう

たち止まっては
いけない」。

まだ やんちゃをしたい年頃のはずが
自立への強い決意が芽生えていたのです。

正英は卒業後に上京し 兄が経営する
麻布の自動車修理工場で働き始めました。

ところが数か月後に
胆のう炎を発症。

療養のため 帰郷を
余儀なくされます。

大崎町へ帰った翌日。

正英は 隣町の病院に向かうため
バスに乗っていました。

そこに
たまたま乗り込んできた女性がいます。

後に裕英の母となる女性でした。

いやぁ~。
あの お父さんの印象が ちょっと…。

違いますね。
全然 違いましたね。

やんちゃだったんですね。
ねえ。

はい。
いや ほんとですよ。

友達の前では やっぱり この ねえ
鹿児島で言われる 「ぼっけもん」っていう。

全然 イメージないですし。
はい。

歌が うまいっていうのも初耳でしたね。
いやぁ~。

いや 全然 きいたことないんですか?
お父さんの…。 ないです。

すごいな やっぱり昭和の頑固親父は
見せませんね~!

見せないんですね ほんとに。

その遠足の時の 何か 先生に
みんなで歌いたいっていうのは。

いや 何か 自分が その先頭を切って
そういうことが言いだすっていう…

何か そういう父を想像できないので。
うん。

でも 何か あの曲

ちょっと何かで見つけて 今度 父に
聴かせようかなと思いますね ほんとに。

「東京やんちゃ娘」。 はい。
いや 喜ばれますね!

しかも 選曲が
「東京やんちゃ娘」ですから。
そう!

やんちゃ。
フフフッ アハハッ!

何か 今見てると やっぱ キーワードは
いろいろ 「やんちゃ」ですね。

「やんちゃ」だなぁ。
ええ。

あ こんにちは~。
どうも。 え!?

初めてですよ
テレビの取材 受けたの。

今回初めて テレビの取材に
応じてくれました。

旧姓は 曽木。
夫 正英さんと同じ鹿児島県の出身です。

曽木家のルーツについて尋ねてみると…。

いや 農家だったんじゃないですか。

そもそも お侍さんとか
そういう話 聞いたことなかった。

(取材者)あ 聞いたことない。
ない 全然なかったです。

自分のところで食べる米も麦も それから
さつまいもも作ってたと思います。

ほとんど自給自足だったですから
向こうは。

え~。

曽木家の古い戸籍を
調べると

明治34年7月まで

肝属郡高山村に

暮らしていたことが
分かりました。

戸籍の住所をたどって 鹿児島へ。

郷土史家の福谷 平さんに

かつて曽木家があった集落を
案内してもらいました。

上之馬場。
はい。 ここはね…

下甑島は 東シナ海に浮かぶ離島。

上之馬場は この島から移住してきた

下級武士の一団が
暮らした場所だといいます。

江戸後期の天保年間
日本列島は 大飢饉に見舞われました。

当時 高山郷のまとめ役だった
武士の日記が 残されていました。

天保9年。

「下甑島より 郷士
四拾家内余り

移住人数
百五拾人ほど

参られ候事」。

その2日後。

「下甑島
移住郷士

曽木源之丞
参られ候て

一剋相話し候事」。

移住者の中に 曽木を
名乗る武士が

いたことが
分かります。

薩摩川内市 下甑島です。

手打地区には かつて曽木姓の家が
軒を連ねていました。

同じ先祖を持つ一族だったといいます。

こちらは 6年前に放送した
「ファミリーヒストリー」。

ゲストは…

母方の先祖が
下甑島の曽木一族だったことを紹介。

え?

裕英さんも 同じルーツを持つと
考えられます。

塚地と…?
≪ほんとだね。 曽木って書いてある。

(池田)あら?

下甑島からやって来た曽木一族は
その後 どのように暮らしたのか?

あ~ どうも!

移住者の子孫でもある歴史研究家の
橋口 満さんを訪ねました。

「鈴木流」は
下甑島にのみ伝わっていた 幻の柔術。

移住者たちも修練を続けました。

「北斗の拳」だ!

(池田)すごい!
ほんとだ!

移住から
十数年後に まとめられた名簿には

門下生80人ほどの名前が
記されていました。 すごい!

(橋口)
曽木家の名前が出てくるんですね。

曽木吉次という人と

諱が季芳と言うんですね。

これなんですが

曽木宅之進
季次という名前ですね。

曽木一族は
移住者のコミュニティーの中で

助け合いながら
子孫を残していったのです。

そして
明治14年

裕英の曽祖父にあたる
愛之助が誕生します。

二十歳の時には
上之馬場から 西串良村

現在の鹿屋市串良町に
引っ越した記録がありました。

一体 どのような場所だったのか?

串良町に来た愛之助は 一から
荒れ地を開拓し 農地を増やしました。

その土地は
今でも親族が守り続けています。

♬~

裕英の母 良子のいとこに
あたります。

愛之助が植えた木が残されていました。

(取材者)この木は何の木なんですか?

戦時中 愛之助は
この木からトリモチを採り

野鳥を捕まえていたと
いいます。

トリモチ? へ~!

おいしかったわけよ。
おいしかったよ。

焼き鳥。 豪快。

この地で 家族を養うために
必死で働いた愛之助。

裕英さんの母 良子さんのもとに
晩年の写真が残されています。

(取材者)あ え~と これが…。
(良子)これが そうですね。

これが愛之助さんですね。 愛之助。
はい。

80代の愛之助です。

良子さんは 幼い頃 愛之助が
ようやく建てた新築の家に遊びに行き

何度も注意されたことを覚えています。

うちを造ったばっかりなので
表で遊べって言うんですよ。

(取材者)え 何でですか?
汚れるから。

汚れる 汚れる。
(笑い声)

おじいちゃん うちに上がると
子どもたちが 汚れるから

外で遊べ 外で遊べって
っていうのを覚えてます。

大正2年 愛之助の次男として
生まれたのが 親男。

裕英の祖父です。

その1年後 曽木家も
大きな災いに見舞われます。

桜島の大正噴火です。

串良町では 農作物の一時的な被害では
済まなかったといいます。

うわ~!

親男は 先祖が開拓した大切な土地が 度々
洪水に見舞われる悲劇を見て育ちます。

すごい状況やな~
もう。

そのためか
成人後は 農業に見切りをつけたのです。

土地の一部を切り売りして資金を作り
製材所と精米所の経営を始めました。

昭和11年には
中島オサチと結婚。

美人で働き者と
評判の娘でした。

4年後の昭和15年に
生まれたのが 良子。

裕英の母です。

そして 戦後間もなく
親男は大勝負に出ます。

廃業した製材所の跡地に
新たな工場を建てたのです。

ここの この辺りですね
この ちょうど目の前ですね。

(取材者)あ! 目の前なんだ。
はい。 はい。

近所に住む…

ここに親男がつくった
でんぷん工場があったといいます。

原料は 火山灰の土地でも育つ
さつまいも。

でんぷん生産は 当時の鹿児島の
主要産業でした。

(取材者)こんにちは!

甫木スミ子さんは 親男を支えた
妻 オサチの姿を覚えています。

工場は軌道に乗り 良子さんは
何不自由なく幼少期を過ごしました。

移住から100年以上。 苦労の多かった
曽木家に ようやく訪れた春でした。

うわぁ また意外ですね。
そうですね。

とんでもない つながりが出てきました。
うんうん。

いや~ 曽木家も 武道を…。

やってました。
やってたんですね。 しかも指1本で!

それも恐ろしいです。
幻の武術!

指1本と 一撃ですよ!

恐ろしい一族ですね 薬丸家。 どんな
子孫が結婚したのかってことですよね。

最強の武術が誕生しても
おかしくないような。 ねえ。

まさか あの 芸能界にも
一人 曽木家が…。 いやいや。

塚地くんがねえ…。
そうですよ!

遠縁にあたるんじゃないかと 塚地くんと。
うん うん うん。

それだけは避けたいですね。
いや いや いや いや。 もうルーツなんで。

え~ そうなんだ。
いや すごいなぁ~。 ねえ。

何回もね 共演してるけど
全くね もちろん 知らなかったから。

塚地くんも これを見たら
びっくりするでしょうね。 ねえ。

昭和28年 移住者の子孫である良子は
地元の串良中学に進学します。

はいはい どうぞ。 あ こんにちは。

良子は人一倍 元気で 根性のある
少女だったと記憶しています。

確かに お元気ですもんね。

とにかく 気性の強い。
人に負けるのは嫌。

でも反面ね 優しいとこも
あったような気がしますよ。 はい。

鹿児島おごじょ。

同じクラスだった 口早知子さんの
印象は…。

輪の中に 入るか どうしようか
迷ってる人たちに 率先して声をかけて

で そういう面倒見がいいっていうか。

自分が 性格上 あんまり こう

出ていく方じゃなかったので

だから 羨ましかったですねえ。

良子は…

前期科とは この当時
存在していた 2年制の学科。

同じ学校の1年先輩に
薬丸正英がいましたが…。

学校 一緒やったんや。

全然 知らなかったです。
あ… え~!?

全然 つきあいは ないです。 だから
いたっていうことも知らないです。

昭和33年

2人は お互いの存在を知らぬまま
同時に高校を卒業します。

これですね。 私 これじゃないかな。
(取材者)あ~ ほんとだ!

(良子)これで… 書いてありますね。

ああ そうか 2年制だから。

あと ここに…。

あ! 薬丸正英。
はい。 あ!

卒業後 2人は友人のデートに付き添い
初めて顔を合わせます。

同じ学校を卒業したばかりだと知り
すぐに打ち解けました。

その年の夏。

正英は 兄の
自動車修理工場で働くため 上京します。

あ… 東京いたんだもんな~。

数か月後。

良子は 鹿屋市内にある洋裁学校に
通うため バスを待っていました。

洋裁学校に
通ってたんだ。

間もなく 隣町 大崎町を経由したバスが
串良に到着します。

懐かしい運転。

バスに揺られること 30分。

下車しようと立ち上がった良子が
何気なく振り返ると…。

なんと そこに
東京にいるはずの正英がいたのです。

いくつもの偶然が重なって
2人の交際がスタート。

しっかり者の良子は 真面目で
大人びた正英に ひかれたといいます。

公園があったんですよ 結構 大きい。
今の公園じゃない?

だ~れもいない公園。 フッフッ。 それで
2人だけで 何か いろんな話しました。

いろんな話したと思うんですよね。 ええ。
とにかく真面目な人だったですから。

あれね 結婚するまでね
ほんと手も握らなかったですよ。

実は そのころ 良子の曽木家は
苦境に立たされていました。

数年前から でんぷんの買取価格が下落。

その後も 価格の低迷が続いていました。

結局 でんぷん工場は倒産。

良子は 正英を追うように上京します。

2年の交際を経て
2人は結婚。

正英の働く自動車修理工場近くの
アパートで 暮らし始めました。

今もあるんですよ ここ。
え~!

そして…

幼い頃から
大層な やんちゃぶりを発揮。

両親の卒業アルバムに
その痕跡が残されていました。

(取材者)これ 結構 べこべこですけど
これは誰が? 何が こんなことを?

裕英ですよ きっと。
ハハハハハッ! 考えられない…。

だから ちいちゃい時に
何か これやったんじゃねえですかね。

もう そこらじゅう破いちゃって何かね…。
フフフフッ。

(取材者)だって この… よく見ると
お母さんの顔にも 何か 鉛筆の線が…。

ハハハハッ!

(良子)おもちゃにしたんですね きっと。
私と主人だけ残ってましたね。 (笑い声)

(池田)よかった
破られてなくて。

一方 父 正英は

兄が経営する自動車修理工場で
経理の他 修理や営業も任されていました。

平日の帰宅は夜遅く
休日出勤も日常茶飯事。

経営者の弟として
小さな会社を守るのに必死でした。

やっぱり 兄弟の会社ですから やっぱり
仕事がたまれば もう終わるまでやるって。

だから 社員の人も何人かいましたが
その人たちは時間に帰っても

主人は きっと残って
いろいろ仕事してたんだと思います。

正英には 家庭に割く時間も

家族に向ける心の余裕も
ありませんでした。

母と姉と3人で

クリスマス 駅の近くのレストランに
行ったっていう記憶はあるんですけども

そこに父がいたっていう
記憶はないですね。

ほとんど
父と時間を共にした記憶はないですね。

父を亡くしてから
自らを律してきた

薩摩隼人の正英。

家族には 弱みを
見せませんでした。

唯一 はめを外したのが
東京にいる ふるさとの友人と会った時。

「ぼっけもん」だった
素の自分に戻れる瞬間でした。

中学2年生になった裕英に
大きな転機が訪れます。

ジャニーズ事務所の面接を受ける友人に
付き添うと

自分も スカウトされたのです。

その社長さんに 帰る時に 「遅くなるから
これで食事でもして帰りなさい。

あと交通費です」って言われて
お金を頂いたんです。

そしたら ジャニーさんが

「YOUも レッスン受けてみない?」って…。
ジャニーさんが。

すごい!

で その時
「YOU」と「レッスン」っていう単語が

いまひとつ
よく分かんなかったんですけど…。

お金に目がくらんで
「行きます」って言っちゃったんですよ。

2年後 裕英は 民放の人気学園ドラマで
生徒役を演じます。

やんちゃなキャラクターが注目を浴び
一躍 人気者になりました。

♬「ジタバタ するなよ!」

♬「世紀末が 来るぜ!」
そして 昭和57年

本木雅弘 布川敏和と共に
シブがき隊としてデビュー。

トップアイドルに
上り詰めます。

「レッツゴーヤング」かな これ。

そうだね 「レッツゴーヤング」ね。
ねえ。

実は そのころから 正英が
意外な行動をとるようになりました。

(取材者)あ~
はあ はあ はあ。
(良子)これとかね。

コンサート会場へ足を運び 裕英の写真を
こっそり撮影し始めたのです。

それほど最初からカメラが
趣味な人じゃなかったと思うけど

この子の… ために
カメラ 買ったんだと思います。

当時も
コンサート会場での撮影は 原則禁止。

それでも 「ぼっけもん」が顔を出したのか
やめる気配は ありませんでした。

(良子)そしたら 「分かりました」って
言ったんですよ。

正英が撮影したコンサートの写真は
300枚以上。

知らなかった。

その一枚一枚に やんちゃな笑顔で
歌や踊りを楽しむ息子の姿がありました。

今の写真 知らなかったんですか?
知らなかったですね。

え~ あんだけあるのに 数。
う~ん。

見たことなかった?
ないです。

何なんでしょうか
やっぱり 家庭を顧みず

今まで だから 自分は
何もすることが できなかったから

今からできることは何だろうって
考えた時に

ああ この写真を残してあげようって
思ってくれてたのか。

すごく頑張ってくれたんだなっていうのは
思いましたね。
そうですね ほんとですね。

今 何か初めて 自分の 何かこう…
こう グチャグチャ絡まってたヒモが

ちょっと解けた ほどけたような気が
しましたね。

でも…。
はい。

外では 何か ほんとに あんなに陽気で
でも家では もう寡黙みたいな。

僕も 似てるとこ あるかもしれない…。
あれ!?

妻にね
ほんと 節目節目で言われますからね。

「何でテレビでは あんなね 笑ってるのに
家では眉間にしわを寄せてるの?」って。

(笑い声)

「もうほんとにね こう 空気が変わるから
やめて」って言われるんですよ。

(笑い声)
一緒じゃないっすか。

ねえ。

ご自身の「ファミリーヒストリー」
ご覧になって?

ご先祖様のことを知れて
すごく勇気をもらいました。

もう いつ何時でも
何があっても めげない。

もう その困難を
乗り越えていこうっていう。

「その血が自分の中には あるんだ」と。
そうですね。 「あるんだ」と思ったら

今後 どういうことが自分の前に…。
そうですね。

立ちはだかっても 乗り越えていけるな
っていう思いに変わりましたね。

思いますね
このVTR見たら。 はい。 ええ。

シブがき隊 解散後の平成2年に

裕英さんは 石川秀美さんと結婚。

トップアイドル同士の結婚は
大きな話題を呼びました。

その後 2人は
5人の子どもを授かります。

え~と これとか これですね。

寡黙だった正英さんも 孫の前では
無邪気な笑顔を見せていました。

かわいいんだろうなぁ 孫。

カメラね。

そう。

正英さんと裕英さんの距離も

少しずつ縮まっていきました。

しかし…

67歳だった正英さんは
脳出血で倒れます。

黙々と リハビリに励みましたが
右半身に 重いまひが残りました。

それから10年ほどして

80代を目前にした正英さんのある行動が
良子さんを驚かせます。

左手だけを使い ふるさとの友人へ
手紙を書くようになったのです。

正英さんが 中学時代の友人
東さんに送った手紙です。

「なんで こんな病気に
なったのだろう」。

家族には 愚痴をこぼさなかった
正英さんが

心の内を 素直につづっていました。

来た手紙なんですけども
こういう手紙が来てたんですね。

やがて
正英さんの現状を知った友人たちから

続々と励ましの手紙が届きました。

あ このアルバムを写真に撮ってくれた。
(取材者)はい はい はい はい。

(良子)写真も入ってます。
(取材者)あ~。

これが薬丸くんで これが僕でって言って。

正英さんは 送られてきた写真や手紙を
うれしそうに眺めていたといいます。

中学卒業前 一緒に遠足に行った東さんは
こんな手紙を書きました。

間もなく 正英さんから返事が届きます。

「ぼっけもん」として
伸び伸びと過ごした少年時代。

体調が悪く 記憶も曖昧になる中

花に囲まれての大合唱は
覚えていたのです。

♬~

♬「東京やんちゃ娘
おしゃれでおきゃんで お転婆で」

♬「アプレじゃないわ」

この手紙から1年後
正英さんは 81歳で亡くなりました。

晩年まで友人に好かれた
「ぼっけもん」の気質は

しっかりと息子に引き継がれています。

薬丸裕英さんの
「ファミリーヒストリー」。

歴史に
翻弄されながらも

たくましく生きた
家族の歳月がありました。

何かね お友達とかにも支えられて。
そうですね~。

まあ 父は いい人生だったと思いますね。

大好き!

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