出典:EPGの番組情報
鎌倉殿サミット2022「源頼朝 死をめぐるミステリー 日本史上の大転換点」[字]
第一線で活躍する研究者たちが一堂に会し、激論を繰り広げる歴史サミットが開幕。謎に満ちた源頼朝の死の真相に迫る。大河ドラマ考証担当も参戦!鎌倉殿の背景が丸わかり!
詳細情報
番組内容
通説では「落馬」で急死したとされる源頼朝。しかい鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」では頼朝の死の前後の記録が、なぜかすっぽり抜け落ちている。しかもその後、2代頼家、3代実朝も相次いで亡くなり、頼朝の血は途絶えてしまう。頼朝の死のミステリーをひもといていくと日本史の大きなターニングポイントとなった鎌倉幕府の真実が見えてくる。鎌倉時代の背景を知れば、大河ドラマの楽しみ倍増間違いなし!
出演者
【司会】爆笑問題,【解説】本郷和人,【パネリスト】井上章一,近藤成一,佐伯智広,坂井孝一,長村祥知,野村育世ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
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- 承久
- 本当
- 落馬
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
日本史に隠されたミステリーをめぐり
第一線の専門家たちが真相に迫る
歴史サミットシリーズ。
2020年
「本能寺の変サミット」で迫ったのは
なぜ 明智光秀は
主君 信長を殺したのかという謎。
2021年 「邪馬台国サミット」では
女王 卑弥呼の邪馬台国は
どこにあったのか?
というミステリーに挑んだ。
そして第3弾となる 今年 2022年は…。
(田中)
もう3回目ですけど いろんな説をね。
(太田)勉強になりますね。
なりますけどね。
日本初の本格的な「武士による政権」
鎌倉幕府を開いた源頼朝。
その後 600年以上続く武士の時代へと
歴史を大きく転換させた人物。
そんな頼朝について
今 さまざまな謎が浮かび上がっている。
中でも 最大のミステリーは その「死」。
幕府を開いて程なく
51歳で突然この世を去った頼朝。
何の前触れもなく
遺言も残していないことから
周囲の人間はおろか 頼朝自身も
予期していなかった最期だった。
実は 頼朝の「死」には
あまりに奇妙な点がある。
鎌倉幕府の公式な歴史を記した
「吾妻鏡」では
頼朝の死の前後3年間の記述が
ごっそりと抜け落ちており
初代将軍 頼朝の死に関して
詳細な記述が全くないのだ。
一体 なぜなのか?
「吾妻鏡」の編纂を命じたのは
頼朝の死後 執権として
実質的な幕府のトップに
取って代わった北条氏。
頼朝の死には 北条氏にとって隠したい
「不都合な真実」があったのか?
頼朝の死のミステリーに迫る中で
見えてきた…
テロ行為を起こしてしまった。
もちろん騒然となりますよね。
頼朝に…
記録に残る 頼朝暗殺未遂事件。
暗殺を謀った黒幕は?
頼朝に恨みを抱いていた人物は
誰だったのか?
そして 頼朝が死んだ後
その跡継ぎたちにも死のミステリーが。
二代将軍 頼家と 三代将軍 実朝も
謎めいた非業の死を遂げているのだ。
いや 頼家は
頼朝と同じようにやろうとしているのに…
それが…
更に およそ80年前に
行方不明になった史料
「承久記絵巻」が発見された。
武士と朝廷の全面戦争で
武士側が勝利した唯一の戦い
「承久の乱」。
頼朝が切り開いた「武士の時代」を
名実ともに決定づける
歴史的ターニングポイントとなった
戦いの真実とは?
今年の「大河ドラマ」の
時代考証を務める
2人も参戦。
今宵 第一線の専門家たちが
頼朝の死の真相をめぐり 大激論。
私は勝手に 頼朝のつくった勢力を…
頼朝の死の真相を通して
浮かび上がってくるのは
頼朝が目指していた
「日本という国」の意外なカタチ。
頼朝の死をめぐるミステリー。
開幕です!
明けましておめでとうございます。
あけおめ ことよろ。
鎌倉ということで。
鎌倉ということでね。
さあ お正月にお送りしてきました
この歴史サミットシリーズも なんと…。
もう恒例になりましたね。
はい。 第3弾でございますね。
本日のサミットで徹底討論して頂くのが
こちらの方々でございます。
よろしくお願いいたします。
(一同)よろしくお願いします。
これ 本郷先生 今日の先生方も…。
すごい方ばかりなんです。
ただ 本当に
命を懸けて研究してらっしゃるので
もう いろんなこと しゃべりたいのは
分かります。
だけど 割と短めに。
(笑い声)
バチバチですからね。
裏で殴り合ってましたよ。
そんなわけないでしょう。
これからお話し合いがあるんですから。
さあ ということで 今日はですね
「鎌倉殿サミット」ということで
鎌倉殿が いまひとつ
よく分かんないんですけどね。
ありていに言ってしまえば
将軍なんですよ。
将軍。 源頼朝 イコールでもない?
後の頼朝の後継者も
鎌倉殿っていう言い方するんですね。
それと
だから もう一つ申し上げておくと
幕府っていう言い方 鎌倉幕府っていう
言い方も 実はないんです。
当時は いわれてない。
当時はね。
江戸時代も
江戸幕府という言い方はしないで…。
してない…。
じゃあ タイムマシンがあって
徳川家康さんに「江戸幕府の
家康さんですよね?」って言っても
「は?」って言われちゃう?
「は?」って言われちゃう。
鎌倉殿っていう言い方が
一番いいのかなと。
なるほどね。
なるほどね。
さあ そんな「鎌倉殿サミット」
一体 どんなミステリーかというと…
太田さん 頼朝の死にミステリーがある
っていうのは知ってました?
いや 知らなかったですね。
謎が多いから
だって だいぶ前の話でしょう これ。
(笑い声)
だいぶ前ですよ。
私も最近 昔のこと覚えてないんです。
いやいや 覚えてるわけがない。
覚えてる人 地球上にいませんから。
さあ それでは 頼朝の死のミステリー
最初の説は こちらです。
何かちょっと聞いたことあるような
気がするね。 落馬で亡くなったみたいな。
一体 どういうことなんでしょうか。
こちらをご覧下さい。
日本の歴史上初の
本格的な「武士による政権」
鎌倉幕府を立ち上げたとされる…
6年にわたる源平の合戦で
栄華を誇った平家を倒し
京の都から離れた鎌倉の地に
武士中心の政権をつくり出した。
その後 武士中心の世は
明治維新まで600年以上 続くことになる。
同じ時代を生きた公家 九条兼実は
頼朝を「威厳・個性
公明公正さ
決断力を兼ね備えていた」
と書き
僧侶 慈円は
「ぬけたる器量の人」
飛び抜けた才能の持ち主
だと絶賛している。
それほどの力量で
武士をまとめていた源頼朝に
1199年 突然 死が訪れる。
1192年に征夷大将軍に任命された
僅か7年後のことだった。
実は 頼朝の死に関しては
決定的な記録が残っていない。
なぜ そして どのように死んだのか。
今なお 謎に包まれたままなのだ。
頼朝の死因の一つとして
古くから語られているのが
馬から落ち 死に至ったというものだ。
鎌倉時代末期
北条氏の命令によって編纂され
幕府の始まりから
発展までを記録した「吾妻鏡」。
年ごとに1巻にまとめられ
起きた出来事が詳細に書かれた
幕府公式の歴史書だ。
この「吾妻鏡」には
確かに頼朝の死因として
「落馬」と書かれているのだが
実は
不自然な点があるのだ。
奇妙なことに 「吾妻鏡」には
頼朝が亡くなった
建久10年以前の3年間が
すっぽりと欠落。
つまり ここにあるはずの
頼朝の死に関する詳細な記述が
存在しないのだ。
亡くなる3年前 建久6年12月22日
頼朝が 若い頃からの友人の家に
遊びに行ったという
何気ない記述のあと…。
突然 建久10年2月6日
頼朝の長男 頼家が跡を継いだ
という記述に飛んでいる。
そして 「落馬」という記述が
唐突に出てくるのが
頼朝の死から13年後
建暦2年2月28日の記録。
幕府の公式記録にもかかわらず
最重要人物である初代将軍
頼朝の死についての記録は
なぜか ここだけ。
一体なぜ 「吾妻鏡」には
死の前3年間が欠落しているのか。
そして 死から実に13年も過ぎたところに
出てくる「落馬」という記述。
果たして
これが頼朝の真実の死因だったのか。
いや これはもう おかしい。
不自然すぎるでしょう。
3年間の間に何があったのか
全く分かんない…。
もう完全に抜け落ちてるんですよね。
さあ それでは 専門家の皆さんに
聞いてみましょう。
頼朝の死因は ずばり落馬説なのか
フリップにお書き下さい。 お願いします。
ただ その「吾妻鏡」というのが
どこまで信用できるものなのか
っていうのが…。
いや 僕は信じてますよ 全部。
いや 何でそんなに…。
いや そもそも そんな「吾妻鏡」自体を
そんな知らないし。
さあ 皆さん それでは
フリップをお出し下さい。 お願いします。
「病」という字と「落馬」という字は
結構見えますけどもね。
佐伯さん 「落馬ののちに
病みついて死去した」と。
さっきの映像にもあったように
「吾妻鏡」が 頼朝が落馬してから
程なく亡くなりましたと書いてるのは
事実なんですよね。
じゃあ 当時の貴族たちの日記には
どう書いてあるだろうって見たら
軒並み 病だと書いてあって。
しかも 「猪隈関白記」という
日記に至っては
具体的に 飲水の病だと
いうふうに書いてある。
飲水の病って
ほかの方も書いてらっしゃる。
これが 要するに
水をがぶがぶ飲んでしまう病だ
ということで 現代で言えば
そういう症状に当てはまるのは
糖尿病じゃないかというふうに
いわれているんですけれども。
長村さん
…も同じ意見ですよね?
更にですね
その日記に 頼朝が死ぬ前に
数日前に出家したって
書いてあるんですね。
いきなり 落ちたことだけが原因で
ぽっくり逝ったっていうのじゃなくて
病気で やっぱりこう そろそろ終わりが
見えてきたなっていうところで
それが一番信頼できるかなと思います。
なるほどね。
ということで 皆さん おおむね
病気が関係している落馬みたいな意見が
多いんですけど 本郷先生
当時 落馬で亡くなる人は多かった?
まあ 今よりか多いでしょうけど。
落馬して死んじゃったっていう人は
僕 知らないですね。
あっ そうなんですか。 武将とか…。
落馬した頭のどこか
打ちどころが悪かったとか
それとも何か 逆に
何か死に至る病があって落馬したか
そういうのは あんまり見たことない。
あのね 僕はね 「吾妻鏡」
ちょっとだけ読んだことあるんです。
それは 太宰 治が大好きで
「右大臣実朝」っていう
小説があるんですよ。
「吾妻鏡」が出てきて
そこには やっぱり 確かに落馬で。
そういうような くだりがあるから。
くだりがあるのね。
俺 太宰 治の言ってることは
全部 本当だと思ってる。
小説家だから フィクションも
いっぱい書いてますから
太宰 治は。
そうなんでしょうけどね。
「吾妻鏡」に書かれた「落馬」という死因。
しかし 京都の公家の日記など
同時代の記録には
病死したと書かれていた。
専門家の間でも…
最重要人物である頼朝の死の詳細が
なぜ書かれていないのか。
その謎に迫る上で
まことしやかに語られている説がある。
続いての説いきましょう。 こちらです。
何かちょっと これは怪しそうですけどね。
これは怪しいですね。
でも どうなんだろう 怨霊説。
一体 どういうことなんでしょうか。
こちらをご覧下さい。
武人としても優れていた頼朝が…
実は
そのことについて書かれた史料がある。
「盛長私記」。
それによると…。
雲の間から 異様な姿をした
人間とは思えないものが現れ
この化け物が起こした雷に
馬が驚いて
急に駆け出したため
頼朝は河原で落馬したと
書かれている。
この突如現れた「異類異形の者」こそ
頼朝を恨む怨霊で 怨霊に祟られ
死に至ったとする説が。
頼朝は 将軍に上り詰める過程で
多くの人々を死に追いやり
恨みを買っていった。
権力をつかんだその手は
血まみれだったといえる。
頼朝の前に
怨霊が現れたとしたら
それは誰だったのか?
1147年 頼朝は…
僅か13歳で 天皇とその家族を警護する
右兵衛権佐に抜てき。 しかし…。
その年 平治の乱で 父 義朝が殺され
翌年 頼朝は命だけは助けられ
伊豆に流刑となった。
20年にわたり
流人として苦しい日々を送った頼朝。
だが 34歳で平家打倒の兵を挙げると
源氏の御曹司である頼朝のもとに
東国の武士たちが結集。
弟の義経 範頼などが駆けつけ
頼朝自身は 鎌倉にいながら
弟2人を大将として動かし
平家を京から追い出した。
そして…
平清盛の孫…
海の藻くずと消えた。
源平の戦いで殺された 数多くの平家
そして 幼くして死んだ安徳天皇の恨みは
深かったはず。
更に 頼朝が…
頼朝は 鎌倉で権力を握る過程で
多くの血のつながった同族である源氏も
死に追いやっている。
平家との戦いのさなか
源氏内の権力争いも起こっており
叔父の源義広と行家
いとこの木曽義仲を死に追いやった。
頼朝の敵意は 平家打倒の立て役者
弟 義経にも向けられる。
壇ノ浦で
平家を滅亡させた義経は
その後も京にとどまり
頼朝に許可なく
朝廷から官位をもらうなど
当時の後白河法皇に近づいていく。
自らを差し置いて 独断で
朝廷と結び付きを強めていく義経を
頼朝は危険視。
鎌倉に入ることを許さなかった。
兄弟の仲は決裂。
義経は…
…と吐き捨てたと
いわれている。
一方 頼朝は 義経の追討 捕縛を
全国の御家人に命令。
その後 奥州平泉の藤原氏のもとに
身を寄せた義経であったが
1189年
自刃に追い込まれるのである。
更に
もう一人の弟 範頼など
次々と血族を追い詰め
死に追いやった頼朝。
ライバルになりうる同族たちを
蹴落としながら
武士の頂点に上り詰めたのだ。
頼朝が買った恨みの数々。
南北朝に成立した歴史書「保暦間記」には
こう記されている。
「安徳天皇 そして
義広 義経 行家の
怨霊が現れ
鎌倉で病に倒れた」。
古くからささやかれる
「怨霊」が頼朝を殺したという説。
ここから見えてくる…
はい ということでね こんな説が
まことしやかに ささやかれている
ということですよ。
これは有力な説ですね。
有力ですか。
現代の我々から見るとね
怨霊説って 怨霊…?
まあ でもね
頼朝と義経の血で血を洗うというか
それは もう有名だし
お芝居にもなってるし。
さあ それでは皆さん
怨霊説 どう思われるのか
フリップをお出し下さい。
さあ ほぼ反対ですけども
賛成の方 それから ありかもという方が
いらっしゃいますけれどもね。
野村さんも「ありかも?」って
ちょっとありますけど。
やっぱり 当時の人たちは まともに
怨霊というものを信じていたんですね。
頼朝は 血塗られた道を
それこそ たどってきたんですが
一方で
非常に繊細な精神の持ち主でもあります。
例えば 妻が出産のために よそに移ると
必ず女性問題を起こすんですね。
恐らく
それは彼の心の不安定さというか
繊細さ ぜい弱さの表れではないかな
というふうに思うんです。
ですので 怨霊への恐怖が
頼朝の病を悪化させるとか
何らかの影響を与えたことは
事実ではないかなと思うんですね。
これは でも
究極 霊を信じるか信じないかで
この怨霊説を取るかどうかは
結局 政子のことを
どんだけ気に病むのか 頼朝が。
私なんかは亭主関白な方ですから。
逆でしょう。 逆でしょう。
何とも感じないと思うんですけどね。
何にも 何にも言えないでしょう。
佐伯さん。 これ 「もり」…。
先ほどのVTRに出てきた
「盛長私記」なんですけど…。
これは偽物だと。
残念ながら偽物で それはもう
江戸時代に バレてるんですよ。
これ もう
でっちあげだよねって
江戸時代の人たちが
気付くようなものなので
ちょっと それは無理だろうな
というのが まず1つ。
そうすると 原因は怨霊だっていう説が
最初に出てきたのは
南北朝時代からっていうことに
なっちゃうので
頼朝が亡くなってからでも
100年以上たっているから
その内容自体は きっと あとの人たちが
こうじゃないかと つくった話だろうと。
なるほどね。
なるほどね。
さあ 一方 近藤先生は賛成ですね。
まあ そうですよね。
(笑い声)
もう それで終わっちゃうんですけどね。
怨霊が現れたという記録は
同時代にはないですよ。
だけれども 頼朝が
常に そういうことを
気に病んでいたっていうことは
ありうると思います。
だから 確かにね
野村さんも おっしゃったように
そういったことが
病んでしまったっていうのが
病気を悪化させるみたいな感覚は
分かるんですけどね。
本当のお化けが殺したっていうことでは
ないでしょうけどね。
井上先生は何かございますか?
あのね ちょっと話ずれるんですが…
太陽暦 太陰暦の違いは
あるかもしれないけど
1月13日 私の誕生日なんです。
(笑い声)
ちょっと 話ずれすぎじゃないですか。
僕 その前 10日 僕…
僕のが先に誕生日 迎えます。
いいよ お前は。
1月10日に。
これも あの…。
人のは聞かないよね。
偉大な先生なんだから。
(笑い声)
(井上)すいません…。
いえいえ どうぞどうぞ…。
おじいさんなので 許して下さい。
1月13日生まれの井上章一さん。
京都大学建築学科出身で
日本文化に関する著作も多数。
ユニークな視点を持った日本史通として
知られている。
これを書いてしまったんですが。
「怨霊対策は ばっちり」。
源頼朝は 結構 信心深い人で
怨霊には ほかの人たち以上に
おびえてるんですよ。
鶴岡八幡宮とか
永福寺とか。 祟らないでくれよ。
これだけお前たちのことは祭ってやるから
ということに神経を注いだんですよ。
同時代の人は 頼朝はそういう人だ
っていうのは見ていたと思います。
頼朝が 怨霊対策を
ばっちりしている人だという記憶が
だんだん薄れていって
100年後ぐらいになって
それこそ南北朝時代 室町時代になって
あの人は怨霊に呪い殺されたという物語が
いっぱい出たんだと思います。
でも 分からないのは 本当に
当時 家族や
あるいは敵を殺すっていうことが
どれほどのメンタルに…。
今だったら相当やられちゃいますよね。
影響を及ぼすことなのか。
でもね 今の感覚では
そうかもしれませんけれども
当時は当たり前ですね。
「兄弟は他人の始まり」っていいますけど
兄弟の対立が 一番激しいです。
あっ そうなんですか。
大体 その当時の武士の
経営というのは 土地経営ですから。
ですけど 大体 鎌倉幕府ができた頃から
だんだん土地が狭くなってくるんです。
つまり その前の100年間 土地の開発が
バ~っと進んだんですけれども
もう開発する余地が
なくなっちゃったんですよ。
そうすると 今まで たくさんの子どもに
土地を分割して相続をさせていたのが
それが
相続させられなくなってくるんですね。
そうすると 兄弟同士で
争わなくちゃいけないんですよ。
それ考えれば 兄弟だから
仲よくしなくちゃいけないっていうのは
実は そうではなくて。
そういうことですよね。
あ~ なるほど なるほど。
「大河」の時代考証 坂井さん。
この血族を殺すっていうことに関しては
どう思います?
そうですね 先ほど
近藤先生がおっしゃってましたけど
一般の武士でも 兄弟で
あるいは いとこで おじ おいで
血みどろの戦いをするっていうのが
あったんですね。
それと同時にですね 頼朝にとっては
血のつながった人っていうのは
自分に成り代わりうるわけですし。
なるほど。 気に入らないんだ。
敵対した以上は 例えば 義経ですよね。
早い段階で始末しなきゃいけない
ということになります。
怖いですね。
実際 義経の愛妾といわれてますけど
静御前。 静御前が捕まりまして
鎌倉に連れてこられて
そのあと 静御前
子どもを産むんですよ 義経の。
ところが 頼朝は 女の子だったら
そのまま育ててかまわないよ。
だけれども 男の子だったら すぐに殺せ
ということを命じるんですよ。
ですから そういうことが
一般的にあった時代なんですよ。
珍しくなかった。
珍しくなかった時代なんですね。
やっぱりね
源氏の血を引く尊い種っていうのは
いつ何時 自分に取って代わるか
分からないというおびえは
常に持ってたんじゃないでしょうか。
あいつも そうなるかもしれへん
こいつだってその可能性があると思うと
一族の者が 一番信用できなかった
ような人じゃないかなと考えてます。
でも よくよく考えたら 今だって…。
今も そうよ。
肉親の方が仲悪くなるってことはね。
一番ね どうしようもなくなっちゃうのは
それこそね。
そうだよ。 近けりゃ近いほど。
近い方が。
今で言う 狩人の兄弟みたいなもん
ですよね。 あの「あずさ2号」の。
うん。 「あずさ2号」の狩人。 はいはい。
解散しましたからね 兄弟なのに。
知らねえけど。
(笑い声)
知らないよ 狩人が。
死に追いやった人々に祟られ
頼朝が死んだとする怨霊説。
当時 怨霊の祟りは
死をもたらすものと信じられていた。
頼朝は 鶴岡八幡宮など
怨霊対策もしており
弟 義経をはじめとする怨霊を
恐れていた可能性自体は
あるようだ。
更に議論は なぜ「吾妻鏡」では
頼朝の死の前後3年間が
欠落しているかに及ぶ。
ただ これ 落馬とか病死だったら
別に死んだ時に ちゃんと普通に書けば。
最後 友達のとこ遊び行ったみたいな
そんな細かいことまで…。
書いてあるのにね。
書いてあるのに そっから3年…。
忘れてたんじゃない?
忘れるか!
友達んち遊びに行ったまで書くのに
「え~?」ってなんてないでしょう。
何だろうね。
本郷先生は これ「吾妻鏡」っていうのは
どういうものなんですか?
基本的に ですから
鎌倉幕府の歴史を書いてあると。
結局 徳川家康が一生懸命集めて
それで読みやすい形にしたと。
それが 今の僕たちが普通 使ってる
「北条本」っていうやつなんですけど。
だから あれ「北条本」じゃなくて
「徳川本」とか何とかにした方が…。
あとから あとの後世の人がね。
そうなんだ。
じゃあ でも そう考えると
抜けるところもあるのは当然っちゃ当然。
そうなんです。 だけど 僕たちからすると
すごく読みたいところが抜けて…。
そうですね。 重要なとこですもんね。
一番重要なところが。
(本郷)この辺りが どうなのかなっていう
気はする。
坂井さん どうですか?
(坂井)そうですね。
先ほどのVTRにもありましたけれども
北条氏の指示を受けて編纂をしている
ということになると
当然 北条氏にとって都合の悪いことは
隠すとか改ざんをする
という形になりますよね。
で ちょうど この頼朝が
亡くなる3年ぐらい前の時って
例えば 朝廷に自分の娘の大姫を
入内させようという交渉を
盛んに行っていたり
貴族の その当時の
後鳥羽天皇なんですけれども
後鳥羽天皇の近辺の人たちに
盛んに贈り物をしたりとか
非常に すり寄ってるように見える…。
その3年間が 朝廷に寄ろうとした
何かの行動をしてた。
はい。 改ざんをするにしろ
改変するにしろ
いちいちやるの大変なんで
もう すっぽり抜いちゃうということは
十分ありうるだろうと。
でも 朝廷に別にすり寄ることを
それほど恥ずかしいと
思うことなんですか。
それが承久の乱のあと 変わりますよね。
何しろ 後鳥羽上皇を
島流しにしてしまうとか
北条義時が
新たな天皇を選んだりするわけですよ。
それは頼朝の方針とは
だいぶ違いますよね。
で その承久の乱のあとに
「吾妻鏡」はつくられていると。
ここが やっぱり 1つのポイントだろうと
私は考えてます。
北条氏が やっぱ いろいろ
変えてるかもしれないと。
井上先生は その辺はどうでしょうか?
(井上)はい。
やや闇から闇に行ったかなと
思わなくもないんですが。
といいますと?
(井上)いや つまり
北条にとって 何か都合の悪い話が
あるのかなとか。
ただね そうは言うものの「吾妻鏡」に
結構 北条や頼朝にとって
恥ずかしい話も
載ってないわけではないんですよ。
だから意図的に捨てられたんだとしたら
よほど恥ずかしい話が載ってたのかなと。
(笑い声)
もう絶対これは…。
どんなんだろうね。
もう絶対駄目。
ちょっと わくわくしますね。
あのね 新井白石がね 言ってるのは
徳川家康は やっぱり源頼朝を
大変尊敬してたので
彼が集めた段階で 源頼朝の
イメージダウンになるところは
捨てさせたって話があるんですよ。
あ~ そうなんだ。
そこの3年間が もしかしたら
家康的には 頼朝のこの部分が…。
何だろう でも
イメージダウンになる死に方って。
それはどうか分かんないですけどね。
野村先生は 何かございますか?
当時 一般の貴族の日記などでは
貴人の死というのは 割と
克明に書かれることが多いです。
それは その 死にざま
臨終の迎え方によって
極楽に行けるかどうかが
決まるからなんですけれども。
例えば 頼朝の妻の北条政子の場合には
雨乞いを成功させて死ぬという
非常に立派な死に方をしているんですね。
しかし 頼朝の場合
それがないということは
ちょっと 病気で悲惨すぎるとか
書き残すに忍びなかったとか
そういうこともあるのかな
なんていうふうに思います。
これから
見つかる可能性とかはあるんですか?
あるかな~。 近藤さん どう思われます?
ないでしょうね。
(一同)ない。
即答でしたね。
(近藤)水を差して申し訳ないんですけど
「吾妻鏡」 未完成なんじゃないですかね。
あっ そうですか。
「吾妻鏡」というのは 将軍の代ごとに
編纂されてるんですね。
まあ 鎌倉幕府
9人将軍いましたけれども
今残ってるのは 六代目までです。
で ですから 六代までの…
やっぱり 頼朝将軍記の
最初の将軍ですから長いんですよ。
ですから 編纂に
時間がかかった。
すいません
つまんない結論ですけど
私はそう思っています。
なるほどね。
近藤先生は そう思うと。
まあ でも どうにもなんないですよね。
そうね…。
なかなか これは立証できないので。
立証できることではないよね。
でも 何か やっぱり隠してそうな
雰囲気はしちゃいますよね。
言ってみりゃ
都市伝説的なことで言うと
今だって あれはっていうのは必ず…。
そうそう 陰謀論とかね
そういうのもあるから。
全然その当事者じゃない人たちが
つくるものだからね。
はい。
え~ さあ 頼朝の死のミステリーに関して
議論してまいりましたけれども
意外に頼朝は恨まれていたという
側面もあると思うんですよね。
そこで浮かび上がるのが こちらです。
はい では こちら 暗殺説をご覧下さい。
頼朝の死後
まことしやかに ささやかれてきたのが…
頼朝を殺すことで得をする
暗殺の動機がある人物は誰だったのか。
考えられるのは 頼朝により…
実際 1185年に 後白河法皇は
頼朝追討令を出し
頼朝を亡き者にしようとしたこともある。
更に…。
武士の頂点 頼朝の座を奪おうと
狙っていた人間。
頼朝の死後 幕府を乗っ取る形になった
北条氏にも動機はある。
とはいえ この頼朝暗殺説を裏付ける
史料や証拠は
今のところ見つかっていない。
だが実は 歴史上 頼朝が
実際に暗殺されかけた事件が存在する。
それは 曽我兄弟仇討事件を舞台に起きた。
「曽我兄弟の仇討」といえば
歌舞伎や浮世絵などで
取り上げられてきた有名な話。
頼朝の側近であった
工藤祐経に
父を殺された
曽我兄弟が
敵討ちを果たしたという
史実をもとにした実話だが
この時 仇討だけでなく同時に
頼朝の暗殺未遂も起きていたというのだ。
1193年
頼朝が富士の裾野で
盛大なイベント
巻狩を行った。
そこに 曽我兄弟と
父の敵である
工藤祐経も参加。
かねてから 父の仇を討とうと
工藤祐経の命を狙っていた
曽我兄弟は
巻狩最終日の夜
工藤の寝床に押し入り…。
念願を果たした。
物語は ここで終わり… のはずが
「吾妻鏡」には なんと
その後に起きた事件が書かれていた。
仇討のあと…
父の敵を討った弟は あろうことか
将軍の頼朝 目がけて走り
殺そうとしたというのだ。
創価大学教授 坂井孝一さんは
「曽我事件」からは
単なる仇討だけでなく
「鎌倉幕府のひずみ」が見えてくるという。
曽我事件は…
その背景にはですね
御家人たちの不満の蓄積というのが
あったと考えられます。
これは 2人の敵討ちというだけでは
とどまらない…
頼朝に対する御家人たちの不満
それが暗殺未遂という形で
表面化したのが
曽我事件だというのだ。
頼朝と御家人の関係
どこで歯車が狂い始めたのだろうか。
1180年 20年もの間
流人として機会をうかがっていた頼朝は
都から遠く離れた関東の地で
平家打倒の兵を挙げた。
当時 関東の武士たちは
領地争いで戦いを繰り広げており
その土地争いを収めてくれる
リーダーを求めていた。
由緒ある源氏の血を引いた頼朝は
うってつけの存在。
千葉・武蔵で多くの武士たちを
取り込んでいった頼朝は
大軍を率いて
鎌倉入りを果たし
南関東を支配する勢力となった。
その後 5年にわたり続いた
平家との戦い。
頼朝のもとで戦えば
御家人は 恩賞として土地がもらえる。
頼朝と御家人は 同じ方向を向いていた。
更に 1185年
壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした後
頼朝は 守護・地頭を設置する許可を
朝廷に認めさせた。
守護とは 各国の治安維持 いわば警察。
地頭とは 税を徴収する役目だ。
守護・地頭を任命する権限を
手に入れた頼朝は
全国各地に
自分に従う御家人を配置することができ
更に御家人も 徴収した税から
分け前をもらうことができた。
武士にとって 頼朝は
自分たちの利益を守り
朝廷と向き合ってくれる
存在だったのである。
しかし…。
1189年 奥州藤原氏を滅ぼし
戦いが終わると
頼朝と御家人の関係が変わっていく。
武士にとって
戦のない平和な時代の到来は
武功をたてる機会がなく…
更に 武士の頂点に
上り詰めた頼朝は
1190年 京へ上り
時の後白河法皇に こう語った。
そして 朝廷から
権大納言・右近衛大将の官職を授けられ
名実ともに「武家の棟梁」として
朝廷に認められたのだ。
「頼朝は 自分たちではなく
朝廷の方ばかりを向いている」。
御家人の中には
不満を抱く者もいたはずだ。
そんなさなか起きたのが…
そして 頼朝暗殺未遂事件だったという。
大正時代 歴史学者の三浦周行は
曽我事件の裏には
頼朝暗殺を狙う
黒幕がいたと主張している。
それが 政子の父であり
北条家当主の時政。
時政が 曽我兄弟をそそのかし
頼朝襲撃も命じたというのだ。
更に 曽我事件の裏で糸を引いた
黒幕として疑われた人物が
もう一人。
曽我事件の直後 鎌倉では…
夫が討たれたかもしれないと嘆く
北条政子に対し
範頼は 何のつもりか こう告げたという。
頼朝が死んでも
弟の自分がいるから幕府は安泰。
そうともとれる この言葉は
頼朝に取って代わろうとする
野心の表れとされ
謀反の疑いがあると 範頼は島流しに。
その後 殺されることになる。
曽我兄弟仇討事件の後 頼朝は
将来 自分に仇をなす可能性がある
有力御家人たちを 次々と粛清していく。
そんな頼朝に
反感を覚える勢力もいたのではないか。
殺し殺される鎌倉の地で
頼朝自身も
その渦に巻き込まれたのだろうか。
はい。 大体 謎の死があると
必ずと言っていいほど
暗殺説っていうのは
現代でも ついて回るんですけども
専門家の皆さんは
どう考えているのでしょうか?
フリップをお出し下さい。
なんと 全員反対…
坂井さんは 曽我事件を
特に研究されているそうですけども。
すいません。 反対で…
この当時 頼朝は もう
前年に征夷大将軍になって
権力を極めてるんですが 逆に
侵略戦争を行わなくなってしまったので
奥州合戦のあと。
もう天下取ったからってことですね。
(坂井)それで天下取っちゃってるので
武勇で名を成してきた武士よりも
事務官的な能力にたけた人の方が
重く用いられるように
なってくるんですよ。
なるほど。 気に入らない。
その頼朝のやり方は
ちょっと変えた方がいいんじゃないか
っていうふうなことを思う人たちも
出てくると思います。 ただ…。
でも それで暗殺されたわけではない
ということですね。
そこで 曽我事件のあとから
次々と粛清をしていくんですよ。
そうなると
そのあとの暗殺をできるような勢力は
もう残ってないというふうに
私は考えます。
説得力がありますね。
当時も 暗殺という評判が 少なくとも
お公家さんの日記には載っていないし
もし これが暗殺なら
相当 巧妙に仕組まれた
完全犯罪だと思います。
仮に暗殺だったとして
1, 000年後の我々に
暗殺だと見抜くことができるでしょうか。
そうですよね。
それはそうですよね。
よほどの決定的なデータが
出てこない限り…。
何かないと無理だということですね。
無理だと思います。
さっきの話で 朝廷にすり寄ることが
恥ずかしいっていう話が
あったじゃないですか。
でも 現に頼朝は そうやって上洛して
「君のためなら私の命を差し出します」
ぐらいのことを言ってるのは
事実として事実?
そうです。 多分 事実でしょうね。
やっぱ 晩年の頼朝っていうのは
「朝廷ばっか見てんな こいつ」と思って
心の中では 「いや 朝廷 関係ねえよな。
俺たち こんな力持ってるんだから
俺たちでやろうぜ」っていう人は
いたと思うんですよね。
でもね 朝廷にすり寄るのが
けしからんっていうのは
多分 近現代の考えで 頼朝の時代の人は
頼朝も御家人たちも
そんなこと考えてないと思いますね。
やっぱり 官職が欲しいんですよ。
1195年に 頼朝 2度目の上洛します。
東大寺の大仏開眼供養の時ですね。
その時に朝廷が
官職の任命権 20人推薦していいよって
言ってくるんですよ。 その時に頼朝が
遠慮して 10人しか推薦してないんです。
だから 北条時政も義時も
それから漏れちゃうんですよね。
いや 私はそれで
その官職推薦に漏れた人が
頼朝に恨みを持って暗殺に走ったとは
全く考えませんけれども
すり寄るっていうか
朝廷を大事にするというのであれば
頼朝だけでなくて
御家人も みんなそうですよ。
(佐伯)すいません 発言の機会を下さい。
(笑い声)
どうぞどうぞ。
どんどん やっちゃって下さい。
常に だから
頼朝は 御家人たちに対しては
俺を通せば 朝廷とコネがつくれるぞと。
朝廷の側に対しては
私が この武士たちを組織しておりますと。
私が この者たちを率いて
あなたたちのために奉仕しますっていう
そういう常に 二面性があるんですよね。
だから 頼朝としては 御家人たちが
朝廷に直接くっついてもらっても
自分の存在意義がなくなる。
で 自分が
朝廷べったりになってしまっても
東国武士たちとのつながりが
切れてしまったら
朝廷の中で自分の存在意義が
薄れてしまうっていう
そこのところの落としどころが
どっちつかずといえば どっちつかず
なんだけど
でも そこに頼朝の値打ちが生まれる
っていうことなのかなと思うんですね。
太田さん ここまで落馬から怨霊 暗殺と
いろんな説が出てきました。
確かに暗殺っていうのは
ちょっと違和感がありますよね。
暗殺 そんなに こっそり殺す必要が
あるのかっていうことですよね。
当時の 頼朝を討って
自分が天下取るなら分かるけども…。
討ってやったぞみたいなことがない。
ただ殺すっていうことの動機は
ちょっと分かりにくいなとは思いますね。
そうですね はい。
頼朝が何者かに暗殺されたという
可能性はないと
専門家は 満場一致で「暗殺説」には反対。
しかし 1190年
初めて京都へ上って以降…
不協和音が響いていた可能性は
あったようだ。
周りはおろか 本人も予期していなかった
頼朝の突然の死。
道半ばとなってしまった 国づくり。
しかし 頼朝自身は何も言い残さずに
この世を去ってしまった。
実は このことが
現在の教科書に大きな影響を与えている。
それは…。
…という問題。
…という語呂合わせで覚えた1192年。
頼朝が征夷大将軍に任命されたこの年を
鎌倉幕府の成立年とする説が
古くから教科書に載っていた。
だが 近年の中高生向け副読本には…。
「1185年の守護・地頭設置
このころに鎌倉幕府が成立した」。
頼朝が日本全国に
警察の役割を担う守護
税の徴収をする地頭を置き
全国を支配下に置いたことを根拠に
成立年は 1185年としている。
語呂合わせは…
しかし 実は
「いいくに」や「いいはこ」以外にも
1180年 83年 84年 90年など
鎌倉幕府の成立年には
いくつもの説がある。
それは 「頼朝が どんな国を
目指していたのか?」によって
幕府が成立したとする根拠が変わり
専門家の意見が分かれてしまうのだ。
放送大学教授 近藤成一さんは
こう考えている。
1180年8月 関東で兵を挙げた源頼朝は
まず 伊豆を治めていた山木兼隆を討った。
この時に 朝廷とは別の国づくりを
歩み始めたと近藤さんは言う。
その直後に 「これから関東の政治を
始める」ということを宣言しています。
そして それから4か月 頼朝は
関東地方をぐるっと回って制圧し
そして 鎌倉の新しい御所に入ります。
その日 12月12日
頼朝の前に東国の武士たちが
ずらっと整列した。
そして 頼朝を鎌倉殿に推戴した。
そういうふうに
「吾妻鏡」に書かれていますから
これは「吾妻鏡」は
鎌倉幕府1180年成立説でいいんだなと
私は思っています。
頼朝が目指したのは 朝廷とは別に
鎌倉を中心とした東国に
「国家」をつくるというビジョン。
その後 江戸時代まで続く
武家政権のかたちを
最初に つくり上げたとする
「東国国家論」だ。
一方 帝京大学文学部准教授
佐伯智広さんは…。
鎌倉幕府は 天皇と無関係に
存在していたのではなくて…
京都の朝廷と分業するような形で
日本という国を治めていたんですね。
じゃあ その分業の仕組みが
いつ決まったのかというと
それは…
…で決まったんだというふうに
考えられているんです。
「朝廷」からの自立を目指した
東国国家論とは異なり
頼朝は あくまで天皇を支える
武家のリーダーを目指していたのだと
佐伯さんは考えている。
「権門」と呼ばれる
力を持った集団である
「公家」と「寺社」が
天皇を支えるという
平安時代から続く
国のかたち。
頼朝は
そこに「武家」も加わり
3つの「権門」で天皇を支えるという
伝統的な国のかたちを継承しよう
としていたとする考えで
「権門体制論」と呼ばれている。
1190年 頼朝は京都へ上り
朝廷から右近衛大将という
由緒ある官職を下された。
佐伯さんは 頼朝が朝廷を支える
「武家」として認められたこの年を
成立年と考えているのだ。
東国に独立した国をつくろうとした…
これまでの国のかたちどおり
天皇を頂点としたシステムの中で
武家の力を確立した…
頼朝は 一体 どんな国づくりを
目指していたのか。
面白いですね。 歴史観が ちょっと
ガラッと変わるような気がしますよね。
東国国家論 それから 権門体制論
いろいろ出てきましたけども。
そもそも頼朝というのは どんな幕府
どんな国をつくろうとしていたのかと。
それでは フリップをお出し下さい。
さあ 頼朝がつくりたかった国
いろいろ
ありますけれども
まずは じゃあ 近藤さんから
聞いていきましょうか。
まあ どっかで聞いたような
言葉なんですけれども
その当時で言えば やっぱり
頼朝は結局 京都に行かなかった。
朝廷は来てほしかったんですよ。
だけど行かなかった。 行かないで
しかも 頼朝の後継者も
150年間行かなかった。
ですから 関東で自由で気ままに暮らして
それこそ逆に
本当の姿を見せない分だけ
相手に対する影響力も
かえって強くなるわけですよね。
それが 鎌倉時代150年間だけでなくて
その経験が 例えば 徳川家康
徳川家康が京都を離れて
江戸に幕府を開くという時の
非常に大きな自信の根拠になったんだろう
というふうに思ってます。
それに対して
佐伯さんは どうでしょうか?
今のお話で言うと 頼朝自身は
計画的な行動というよりは
その時点で ほかの反乱軍に対して
勝ち残っていく上で
あるいは 平家に対して
勝ち残っていく上で
これが一番得だっていう
生存戦略としては取ったはずなんです。
意識的にではなく そこ 別に
結果を見据えてではなく…。
これが結局 最適だったと。
頼朝としては 挙兵した翌年には
もう後白河法皇に対して
いや 私は 平家と和睦して
あなたの下で仕えますっていうことを
もう早速 言ってるんですね。
それを結局
10年間 基本的に彼は言い続けて
最終的に自分がつくった組織を
鎌倉幕府という形で
ソフトランディングさせてしまった。
はあ~ なるほどね~。
それに対して 坂井さんが…
まあ 同じ意見ですよね。
どういうことなんでしょうか?
私 ここに書きましたのが
権門っていう言葉ですよね。
朝廷の方としては もちろん
治天の君という上皇がいます。
それから 天皇がいます。
この家柄は
日本の王の家なんですよね。
王の家ですから
それはもう 血筋で決まっていると。
で 動かしがたい。
あとは 貴族だろうが武士だろうが
僧侶だろうが 臣下なんですよね。
それで その中で ずっと
平安時代から やってきたわけですよ。
それをもう 天地を
ひっくり返すようなことっていうのは
そう簡単に人間の知恵の中では
そういう発想は できないですよね。
頼朝が挙兵してから
征夷大将軍になるまででも
12~13年ぐらいしかないわけですから。
そんなフランス革命みたいなことは
なかなか発想できないですね。
ですから 天皇を守るということに
意義を見いだしていたと
私は考えてます。 頼朝自身が
そういうふうに考えてたということを。
そういうことですよね。
なるほど なるほど。
ひと言 補っていいですか?
はい。
頼朝や御家人たち 武士たちに
京都への憧れがあったんじゃないか…
あったと思います。 ですけれども
憧れっていうのは 一方で
ちょっと あそこじゃ やっていけないな
という劣等感もあるわけです。
彼 旗揚げの時 34歳ですよね。
もう 公家社会で34歳っていったら
もう そろそろ終わりかけなんですよね。
そうすると 34歳で上洛して
宮廷社会の中で
相当な やっぱり儀礼に習熟し
おつきあいをしていかなくちゃ
いけないわけですよ。
こんなところに行きたくない
というのが本音だったと思います。
自由で気ままに暮らして
それで朝廷のことは
別に見苦しく ああだこうだ
考えるということではなくて
それでいいと
考えてたんじゃないでしょうか。
なるほどね。
(近藤)ということです。
本郷先生は どうですか?
あっ 僕 今の近藤先生の意見に賛成です。
(笑い声)
2人の関係が ちょっと…。
上司です。
いえいえ… とんでもございません。
上司です。
(井上)あの~ 学説が
お家元の 何か こう 伝授みたいに
つながってるところが
ないとは言えないですよね。
あ~ そうですか。
ものすごく平たく言うと
東側の先生方は
東大とか日大の先生方は
関東の独立性を高らかにうたいたがる。
そういうことですか。
東京が大好きなんですよ。
西側の京都大学を中心にするような
歴史家たちは
いやいや そんなことはない。
公家や坊主も まだまだ頑張ってるぞ
という見立ての歴史を…。
なるほど。 いや ちょっと
別の話になってくるから。
いまだに そういうことが…。
(井上)学説が
地場産業になってると言ったら
いいのかな。
(笑い声)
でも あれですよね
東大としては裏切り者ですよね。
えっ そういうの…
そういうのあるんですか?
近藤さんには申し訳ないですけど
ちょっと違う考え方をしていると。
野村さんも「軍事担当の権門」
っていうことは
権門体制論ということなんですか。
はい。 私は早稲田なんで
在野の精神ということで。
東大 京大の闘いとは また違うんだと。
(野村)はい。
早稲田は。
もし 本当に朝廷潰して
独自の政権を打ち立てるのであれば
まず やっぱり
烏帽子をみんなで取るべきですね。
烏帽子ね。
(野村)それが身分制度の象徴ですから。
象徴だから。 はあ~。
当時 武士が身につけていた 烏帽子や冠。
これらは公家社会を頂点とする
身分制度を象徴する側面もあるという。
やっぱり当時の社会の秩序
身分制にしても ジェンダーにしても
やっぱり朝廷の官職体系っていうのが
すごく もとになってるので。
やっぱり それを潰しちゃうっていうのは
かなり難しい発想だと思うんですね。
なるほどね。
多分 歴史の学会では
受け入れてもらえないだろうなと
思ってるんですが
考えてることがあるんですよ。
はいはい。
頼朝の血筋とサクセスストーリーで
彼が大親分にのし上がっていくんですが
その時に結んだ契約の概要はね
「安達 あの土地はお前に任せる。
千葉 あそこの縄張りはお前に譲る。
そのかわり もしものことがあったら
俺のために働けよ」という
大親分なんですよ。 だから 私は 勝手に
頼朝のつくった勢力を…
(井上)いや ひょっとしたら…。
なるほどね。 まあ分かりますよ。
これを朝廷に持ち込んで
朝廷の親衛隊にしてもらおうと。
「後白河さん あなたを守るのは
この頼朝だけです」。
だから これは 西側の見方ですね。
西側のね。
本郷さん 別々の意見が
あったと思うんですが。
あっ いや だから 客観的に言って
権門体制論の方が
圧倒的に支持されている。
これは もう間違いないことです。
だけど中世にも
常識的に考えて国家はあったよね。
で その王様は天皇しかいないよね
っていう
そこから始まってるんですよ。
だけど
例えば 藤原定家っていう
歌詠みがいるんですけど
この人が抜群の歌人であることは
僕も否定しません。
だけど彼は一方で中納言だったかな。
だから 今で言うと大臣なんですよ。
大臣クラスなんですよ。
その人が 寛喜の大飢饉っていう
とんでもない飢饉が起きて
それで その飢饉の結果として
疫病がまん延して
人が ばたばた死んでいく。
その時に 彼は日記に
何て書いてあるかっていうと
「臭くてかなわない」って書いたんですよ。
それって 今の新型感染症で
そんなこと言ったら
とんでもない話じゃないですか。
とんでもないですね。
それって 当時の政治って
そんなもんなんですよね。
東国国家論っていうのは あれは
東国に国家があるっていう
そこではなくて 京都を中心とする朝廷が
国家であるとすれば
ほかにも国家は
複数あったんじゃないのっていう。
東国 あるいは もっと言うと
奥州平泉の藤原氏の政権っていうのも
国家だったんじゃ…
国家と言えるかもしれないよ。
今から考える そのね 我々が言う
国家って 当時の人たちは
どういう捉え方してたかも
全然違うだろうからね。
(本郷)っていうことなんだと
思うんですよね。
これ だけど 今 我々が
歴史を こうね ずっとたどっていくと
この国の一番不思議な部分って
かなりの武力を持ってる人も
やっぱり朝廷を立てるっていうか
それは ず~っと歴史上 続いている。
その朝廷のイメージを
どう捉えるかによって
頼朝が どう思おうが
そんなことは対抗できるはずもない
朝廷の意識が この日本という国に
かなり働いてたという気も
しないでもないんですが。
いや あのね
またしゃべって申し訳ないんですけど
おっしゃるとおりだと私も思います。
もしね 本当に京都や朝廷は
どうでもいい
関東で自立しようと思ってるんなら
後白河が 源義経を親衛隊にして
西国国家をつくったとしても
気にする必要ないじゃないですか。
あっ どうぞ 西側で好きなように
おやり下さい。
でも 頼朝には
耐えられなかったんですよ。
義経が後白河にかわいがられてる
っていうことに
彼は耐えられなかったんですよ。
実際 頼朝は後白河に
あなたは… 要するに
義経へ浮気をしたことを捉えて
「日本一の大天狗」だと言うんです。
つまり頼朝は
日本というまとまりを信じてるんですよ。
東国には あなたのような天狗はいない
という言い方はしないんですよ。
あの お言葉ですが
頼朝は日本というまとまりを
意識してると思いますよ。
それから朝廷も天皇も
大切にしてると思いますよ。
で そのことと 関東で自立する
ってことは 全然 彼にとっても
それから鎌倉時代の武士にとっても
矛盾しない。
あの今度の「大河ドラマ」何だっけ?
「鎌倉殿の13人」?
はい。
「鎌倉殿の13人」。
鎌倉殿っていう言葉は
鎌倉時代に使われていた言葉。
例えば
鎌倉幕府の判決書は
鎌倉殿の名前で
出してます。
鎌倉殿は 同時に
征夷大将軍ですけれども
征夷大将軍としての
名前を名乗ったのは
第六代の将軍の時は
名乗りますけど
それ以外は「鎌倉殿の仰せによって
命令する」と。
征夷大将軍は
確かに天皇に任命されてます。
だけど鎌倉殿は 天皇に
任命されてなくても鎌倉殿なんです。
だから NHKは
朝廷から自立した鎌倉殿の存在を
今年 認めるんだなというふうに 私…。
ちょっと 対NHKに対して。
もう撮り直しもできないからね もうね。
「大河ドラマ」。
面白くなってきましたね。
激論が交わされた
「東国国家論」と「権門体制論」。
頼朝が目指したビジョンは
「自立した国家」か
それとも 平安時代から続く
「国のかたちの延長線上」に
あったものだったのか?
しかし どちらを取るにしても
頼朝に朝廷を滅ぼす意思はなく
日本というまとまりを意識していた
という点では 一致した。
♬~
♬~
♬~
初代将軍 頼朝の死の
ミステリーに迫った
「鎌倉殿サミット」前半戦。
実は 頼朝の死後 跡を継いだ
二代将軍 三代将軍にも
死をめぐるミステリーが
付きまとっている。
二代将軍 頼家は
僅か23歳で謎の死を遂げ
三代将軍 実朝は
28歳という若さで暗殺。
頼朝の血筋は絶えた。
その一部始終を記しているのが
幕府の公式記録
「吾妻鏡」のはずなのだが…。
これをまとめさせたのは
源氏三代に代わり
執権として幕府の実権を握った…
「吾妻鏡」には 北条氏にとって
都合の悪いことを隠す隠ぺいや
改ざんがあるという。
果たして「吾妻鏡」に記されていることの
何が真実で 何がうそなのか?
「鎌倉殿サミット」後半戦は
頼朝の死後 鎌倉幕府で
本当は何があったのか大激論。
「吾妻鏡」が欠けている3年間
北条氏としては 都合が悪いですよね。
私は それが やっぱ
書けなかったんじゃないかと…。
そもそも13人全員集まって
内閣のように合議したなんていうことは
1つも書いてない。
ドラマ どうなる…。
ドラマ どうなるか…。
(笑い声)
源氏の血筋が断絶していく裏で
糸を引いていたと疑われているのが…。
北条氏の当主であり
頼朝の妻 政子の父親でもある
北条時政。
時政を中心とする
北条氏の暗躍はあったのか?
専門家たちが…
さて 頼朝の死によって 歴史は
大きく変わっていくわけですが
最も大きな影響を受けたのが
二代将軍 頼家 そして 三代将軍 実朝。
本郷さんは 頼家とか実朝
この辺も やっぱり 歴史的に見る…。
本当に興味深いですね。
よく あの 北条時政って
政子のお父さんなので
すごく鎌倉幕府の中で
発言権があったと
割と思われがちなんですけど
頼朝の後期の時代には
何にも力がないんです。
要するに政子のお父さん
っていうだけなんですよ。
そこのところは
しっかり踏まえておかないと
このあとの動きが分かんなくなる。
なるほど。
さあ ということで 二代将軍 頼家
そして 三代将軍 実朝。
2人とも若くして
謎めいた死を遂げることになります。
日本史上 最初の
本格的な武家政権の記録である…
頼朝の死から100年後の1300年頃に…
頼朝の死後 鎌倉殿を継いだのは
嫡男である頼家。
しかし 彼に関する「吾妻鏡」の記述には
不可解な点が多い。
僅か18歳で
鎌倉幕府のトップになった頼家。
だが「吾妻鏡」には…。
…と 将軍にとって最も大事な
御家人たちの土地紛争の調停を
頼家がいい加減に行っていたことや
蹴まりなどにうつつを抜かし
政治を疎かにしたことで
母 政子から 厳しい叱責を受けていた
ということが書かれている。
将軍であるにもかかわらず
公式の記録「吾妻鏡」には
頼家を殊更に貶めるような
記述が見られるのだ。
将軍としての能力が
疑問視されたゆえなのか
有力御家人13人が宿老として
頼家を補佐することになった。
いわゆる「13人の合議制」である。
その筆頭には 北条政子の父 時政。
更に時政の息子 義時が名を連ねている。
同族から2人も選ばれているのは
北条氏だけであり
しかも 義時は 宿老の中で
突出して若いのだ。
将軍 頼家の実権を奪う形となった
13人の宿老たち。
更に頼家を過酷な運命が襲う。
1203年 22歳の頼家は
命に関わる病に倒れたのだ。
これを好機と動いたのが 北条時政だった。
頼家が 生死の境を
さまよっている間に
その跡継ぎを無断で
頼家の嫡男 一幡
そして 実朝の2人と
決めたのだ。
時政にとって実朝は
自分の娘が 乳母を
務めたこともある
深い間柄。
通常なら嫡男である
一幡が
継ぐべきところを
時政が 実朝を
ねじ込んだ形となった。
そして 一幡は 東日本
実朝は 西日本と
東西を分け合うこととしたのだ。
ところが その後
頼家は 奇跡的に病から回復。
跡継ぎの決定を聞いて激怒し
北条時政討伐をもくろむ。
そのはかりごとを聞きつけた
母 政子が動いた。
政子は…
更に 北条時政 義時 親子の兵が
頼家の長男 一幡を
屋敷もろとも
焼き殺した。
北条氏によって 将軍の地位
更には長男の命まで奪われた頼家は
翌年 幽閉先で謎の死を遂げた。
享年23。
二代将軍 頼家の死について
「吾妻鏡」には…
…と短く
書いているだけだ。
頼家亡きあと 三代将軍には
弟の実朝が就く。
まだ12歳だった実朝には
執権に北条時政が立ち
北条氏は 御家人の中で
突出した力を持つことになるのである。
頼朝の死後 着実に実権を握っていった
北条氏。
二代 頼家の時代に
「吾妻鏡」に書かれていない
どんな真実が隠されているのだろうか?
はい ねっ 二代将軍の頼家。
そのまあ「吾妻鏡」が さっきから
いろいろ出てきますけども
改ざんされていたとするとですよ
そもそも この二代目の頼家は
本当に駄目な将軍だったのか。
でも 普通に信じちゃいますけどね
あそこに書いてあったら 「吾妻鏡」に。
この辺が その「大河ドラマ」でもね。
どう描かれるんですかね。
どう描かれるのか
ということなんですけども。
それでは ここで皆さんに
お聞きしたいと思います。
頼家は どんな将軍だったのか
フリップをお出し下さい。 お願いします。
さあ いろいろありますけども
じゃあ 佐伯さんは「名君」だと。
名君の 少なくとも素質はあった
というふうに考えています。
というのは「愚管抄」という藤原氏出身の
お坊さんが書いた歴史書があるんですが
頼家のことを評して
世に並びがない腕利きだ
っていふうに
評してるんですね。
先ほどあった
息子の一幡
彼が討たれたということを聞いて
頼家は 病み上がりの身でありながら
傍らに置いていた太刀をつかんで
立ち上がって
それを政子が必死で止めるという場面が
描かれているんですが
やっぱり そういう覇気っていうのは
鎌倉幕府という
武士たちの集団のリーダーとしては
やっぱり得難い資質だと思うので
重病のことがなければねという意味で
まあでも名君の資質はあると。
資質はあったと。
はい 坂井さん どうですか?
いわゆる 頼家は
どういうね 人だったのか。
「欠点もあるが 一応名君」だと。
ただその
「『13人の合議制』はなかった!」。
13人の合議制なかった…?
あの その13人の合議制で
研究上いわれてるのは
頼家のそういう採決権をとどめて
13人で決定したことを
幕府の決定にしようという
体制だったというふうに
これまでいわれてきたんですけども
必ずしもそうではない。
訴訟の案件を処理するのは
鎌倉殿の責任なので 重要な責務なので
実際に頼家が署判を押した
袖判下文みたいなものとか
それから
いろんな文書が実際に出されています。
合議制で 全部が
仕切られていったわけでもないですし
そもそも13人全員集まって
内閣のように合議したなんていうことは
1つも書いてない。
「吾妻鏡」にすら書いてない。
なるほど。
でも ドラマ どうなる…。
ドラマ どうなるか…。
時代考証をやってる坂井さんが
「いや なかったよ」と言われちゃったら。
大丈夫です。 大丈夫です。
(本郷)とりあえず
せっかく13人の名前が
出てきてるわけですから
これは「なかった」っつって
無視しちゃうのはもったいない。
ということは 先生は
頼家には実権はなかったと。
だって 代々の将軍で 文書を出せなかった
将軍っていないんですよ。
だから このあとの鎌倉幕府の
第四代将軍 第五代将軍でも
ちゃんと袖判下文っていう
文書は出します。
だけど 特に五代将軍なんて
その人に実権があったなんて言う
研究者は 今のところ
多分 1人もいないと思いますよ。
つまり周りが
やっぱり決定していたという。
それは だから
文書を書くぐらいはやるけど。
やるけれども はんこを押すぐらいのこと。
そうそうそう。
だから それをもって
彼がやってたっていうふうには言えない。
はあ~。 坂井先生は それで?
「吾妻鏡」には いくつか写本がありまして
先ほど「北条本」とか
いろいろお話出ました。 そこではですね
頼家の訴訟の
取り次ぎをする決断を
「北条本」では
「決断を停止する」
「禁止する」っていうふうに
書いてあるんですが
「吉川本」の中では
「聴断」って書いてありまして
それは訴訟の案件を
直接に頼家が
13人以外の人たちから聴いて
判断するということを
禁止すると。 訴訟の判断を
しちゃいけない
って言ってるわけじゃ
ないんですよね。
ですから 頼家を支えるための…
まあ若いですからね。
経験豊富な宿老たちが支える。
サポートしてた。
(坂井)サポートするということですね。
つまり最終決定は頼家だけど
知恵を授けてたのは その13人の…。
(坂井)そういうことになりますね。
北条氏寄りの「吾妻鏡」が
13人の この時政を筆頭に…。
時政が筆頭になってるんですよ
その時にね。
で まあ 宿老たちが やっぱり何らかの
合議をしてたことは確実です。
ただし 13人そろって
やってるわけでもないし
制度的に そういうものが
出来上がってるわけでもない。
更に そのうち3人は
翌年 死んじゃいますから。
そうですか。 10人になっちゃう。
(坂井)そうなっちゃうんですよ。
頼家が非業の死を遂げる中 結果的に
幕府の中心に躍り出た北条時政。
頼朝の義理の父というだけで
もともと何の役職にも就いていなかった
北条時政が
なぜ突然 13人の宿老の筆頭になったのか。
北条氏が権力をつかんでいく中で
謎の死を遂げた 二代将軍 頼家。
その死後 跡を継いだ三代将軍 実朝もまた
28歳の若さで暗殺されてしまう。
鶴岡八幡宮に参拝した実朝。
付き従う武士は
1, 000人もいたにもかかわらず…。
僧侶姿の男たちに襲われ 斬り殺された。
手を下したのは頼家の息子 公暁。
しかし 奇妙な点もある。
実は この時の太刀持ち すなわち
実朝の護衛を担当するはずだったのは
北条義時。
しかし 暗殺の直前
体調不良を訴え
引き返しているのである。
実朝を暗殺した公暁も
数時間後に何も語らず討ち取られ
事件の真相は闇に消えた。
その後 何の責任も
問われることのなかった北条義時は
実朝の死後 執権として
鎌倉幕府の実権を握ることになる。
28歳で 非業の死を遂げた実朝。
実は 彼についても「吾妻鏡」に
暗君であることを強調する記述がある。
中国の宋から来た技術者から
自分の前世は 中国の位の高い
僧侶だったと聞かされた実朝。
それを信じた実朝は 宋へ渡るために
巨大な…
だが出来上がった船は
海に浮かぶことさえもできず
浜で朽ち果てたという。
二代将軍 頼家亡きあと
北条氏の後ろ盾のもと
12歳で跡を継いだ実朝。
和歌に明け暮れ
文人将軍と
呼ばれた彼は
北条氏の傀儡であり
暗君としてのイメージで
長く語られてきた。
果たして実朝は 本当に暗君だったのか?
その真実の姿とは?
すごい世界だね。
太田さん どうですか?
その僕が読んだ「右大臣実朝」で言うとね
実朝なんていうのは
いわゆる和歌というか
「古今和歌集」であるとか
京都の教養みたいなことって
ものすごく兼ね備えていたわけでしょう?
だから そこが
実朝理解に関わってくるんだけど
僕なんかは 本当に関東の武士たちの中で
すごく安定した立場にいたら
そんなに
京都に憧れる必要がないですもんね。
そういうことですか。
実朝はね あんまり政治の実務には
携わらせてもらえなかったんですよ。
その鬱憤が 彼の場合
京都への教養に走ったんだと思う。
そういうことですか。 はあ~。
(井上)頼朝と同じぐらいの将軍の仕事を
仰せつかってたら あんなふうに
「古今和歌集」とかに向かう情熱は
湧かなかったと思います。
もちろん それに関する
反対意見っていうのは
この出席者の方の中にも
いらっしゃると思います。
私も その一人なんですけれども
実朝は やはり
幕府のトップなわけじゃないですか。
征夷大将軍ですから。 朝廷と やっぱり
それなりの友好関係つくって
幕府が潰されないようにするためには
相当な力を持っていないといけない。
政治力…。
(坂井)政治力持っていないといけない。
したがって 政治から離されていた
っていう そういう考え方は
やっぱり成り立たないのではないかと
私は考えております。
政治の実務に就いていたら
今の大学の仕事と一緒ですよ。
ほとんど研究の時間ないじゃないですか。
(笑い声)
それはあれだと思います。
あの 結局 和歌っていうのは
単なる遊びだと
思ってしまうからなんですよ。
当時は 朝廷のトップにいて
ものすごく忙しいですよ
後鳥羽上皇は。 治天の君で。
ですから その彼が「新古今和歌集」を
自ら編纂してるわけですから
政治と和歌の編纂っていうのは
ほぼ一体化してるんですよ。
なるほど。 はい。
う~ん。
実朝は 「新古今和歌集」を
編纂したことで知られる
時の後鳥羽上皇と
深く関わり
27歳で 父 頼朝よりも高い官職
「右大臣」に武士として初めて就いている。
実朝を貶める「吾妻鏡」の疑わしさ…。
更に佐伯さんから注目すべき説が。
二代 頼家の死後
実朝が北条氏の後押しにより
三代将軍に選ばれたことが
「吾妻鏡」の空白の3年間に
関係があるのではないかというのだ。
佐伯さんは…
これまたちょっと 面白い説ですね。
先ほどあった息子の一幡。
これが僕は
キーパーソンだと思ってるんですが
彼が いつ「吾妻鏡」に
登場するかというと
頼家が失脚をする
直前にならないと
出てこないんです。
でも 彼が生まれてるのは もう
頼朝が生きてる間から生まれてるんです。
で じゃあ いつの時期に
重なるのかというと
最初に話があった「吾妻鏡」が欠けている
3年間の部分なわけですね。
自分から見たら初孫ですよね。
待望の男子の男子であるってなった時に
頼家とか実朝の場合も そうなんですが
生まれて何日かの区切りで
誕生祝いみたいなことをするんですよね。
で そこの場面で頼朝が 一幡を
自分の跡取りの跡取りだと。
これが未来の嫡孫だというふうに
意思表示をする あるいは
それを見ている方が そうなんだと
思うような大々的なことをしていたら
北条氏としては 都合が悪いですよね。
私は それが
やっぱ書けなかったんじゃないかと…。
なるほど。
何か僕は すごい卓見だと思います。
それがために
欠けさせてしまったかどうかは
僕は そこまでは言えないなと思うけど。
それは不都合なんだ。
北条氏にとっちゃ不都合ですよね。
やっぱ それはまずい。
実朝の…。
(本郷)出番がなくなる。
あ~ そういうことか。
面白いね でもね。 そういう こう
どこまでがね 本当かは分からない…。
想像するだけでも。
だから 要は 一番分かんないのが
北条家がね いわゆる
どういう立場なのかが
政子の北条と また ね?
そっか…。
いや これは ちょっと どういう…。
難しいよね。
いや この点に関しては 私も素人ですから
話が すごい高級なところにいったなと
感心しながら聞いていました。
だけど 要するに
最終的に得られた印象は…
(笑い声)
そうですね 確かに。
頼朝の死から
100年後にまとめられた「吾妻鏡」。
「13人の宿老」が
権力を握った実態はあったのか?
頼家と実朝は 本当に
「吾妻鏡」に記されたような
暗君だったのか?
更には 鎌倉幕府の創設者
頼朝が思い描いたはずの跡継ぎを
隠ぺいしたという可能性。
北条氏に都合の悪いことの…
頼朝の血筋 源氏三代が
僅かな期間に断絶する上で
カギを握ったのが…
頼朝の妻であり 頼家・実朝の母
一方で 北条氏の娘という
複雑な立場にいた政子。
彼女は何を考え どう動いたのか?
「吾妻鏡」には
政子の2つの面が描かれている。
1つは 頼朝の妻としての顔。
それも 夫の死後 後家として
鎌倉幕府を背負った政子の姿だ。
北条政子を長年研究してきた
野村育世さんは こう語る。
歴史上 鎌倉将軍は源氏三代のあと
京から来た頼経が四代目とされている。
しかし 「吾妻鏡」の目録には
将軍 頼朝 頼家 実朝のあとに
政子の名前。
その政子のあとに頼経の名前が出てくる。
これは 実朝の死から
政子の死までの間は「政子の治世」であり
頼朝の遺志を受け継ぐ
実質的な四代目として
政子が幕府を
動かしていたことを示している。
事実 承久の乱の際には
「鎌倉殿の後家」として
関東武士たちをまとめたのも政子だった。
一方 「吾妻鏡」には
北条氏の娘として動く政子の姿も。
息子 頼家が
父 北条時政を討とうとした時
いち早く その情報をつかみ
逆に頼家を伊豆修禅寺に幽閉。
息子 実朝が暗殺されたあとは
弟 北条義時と共に実権を握り
その後 実質的な幕府のトップ 執権を
北条氏が世襲するという流れをつくった。
果たして政子は 頼朝の遺志を継ぐ
源氏側の人間だったのか?
それとも北条氏側の人間だったのか?
さあ それでは
皆さんにお聞きしたいと思います。
北条政子は 源氏側か北条氏側か
何を考えていたのか。
フリップにお書き下さい。 お願いします。
さあ いろいろ出ましたけどね。
坂井さんは「源氏の家長」。
あの 当時 その当主が
その家の当主が亡くなって
次を継ぐ当主が若い場合には
前の当主の未亡人
後家って 当時 呼んだんですけれども
が 割と取りしきるというのが
一般的に見られる傾向だったんですよ。
自分の夫の遺産を守るという気持ちは
やっぱり非常に強いと思うんですよ。
それは
嫁に入った先を大事にするっていう…。
まあ あの いわば嫁に入ったところが
相撲部屋みたいなもんなんですよ。
で 相撲部屋のおかみさんなんですね。
それで 親方をもちろん支える。
それと弟子たち
それが御家人ですよね。 との間を
こう やっぱり 取り持つということも
盛んにやっています。
ですから まあ 相撲部屋のおかみさん
みたいなもんかな
というふうに思ったりはしてますけどね。
さあ それに対して
北条政子の専門家である野村さんは…
まあ やはり彼女としては
頼朝は 常に自分と共にあって
頼朝の遺志を体現していきたい
っていう思いは
あったと思うんですけれども
逆に例えば承久の乱が起こった時に
政子は将軍の立場として
「京都に向かって進軍せよ」というふうに
命じていますけれども
頼朝が生きていた時に
それができたかどうかは
ちょっと疑問です。
あ~ なるほどね。
だから 要は 時代によって
北条と源家でしたっけ?
それは こう スライドしながら
政治を政子はやっていた。
そうですね。 最後は 幕府そのものを
背負ったわけですので。
政子は やっぱり 実朝が亡くなったあとに
源氏の一族を皆殺しにしてるんですよ。
そうなんですか。
ええ。 要するに
頼朝が政子との間じゃなくて
産んだ子であるとか
近い血筋の人を
根こそぎ殺しちゃってんですよね。
それ考えるとね あんまり源氏のことは
どうでもよかったんじゃないかなと
思いますね。
はい。 近藤先生はどうですか?
はい。 先ほど 後家っていう言葉が
出ましたけれども
鎌倉時代の武士一般の後家と
同じ発想だと思うんですね。
それは何かって 亡くなった人の
菩提を弔うことが
ずっと永続することを
義務と考えるわけですよ。
で そうすると
それを行うことができる人に
家を譲っていくというのが
当時の発想です。
ですから 一般の武士でも
たとえ実子がいても
その実子に ちょっと能力が足りない
ということになると
実子を差し置いて養子を取ります。
で 養子に跡を継がせるということを
普通にやります。
そうやって考えると
確かにね 一般の武士と
将軍家と多少違うところは もちろん
あるわけですね。 ですけれども
血筋がつながってなくてもいいんですよ。
なるほど。
あの 野村先生に実は これの件に関して
一つ お伺いしてみたいことが
あったんですけど
「吾妻鏡」でもそうだし
「愚管抄」で描かれてる
頼家が失脚していく構図の中で
必ず政子が主要な役割を
果たしているわけですよね。
でも政子にとって 一幡は一幡で
自分のかわいい
孫なんじゃないのかと思う心が
一方では 私はあるんですよね。
あの時の政子の思いというのを
野村先生は
どのようにお考えなのかなというのを。
政子が大切なのは
頼朝の血というよりは
頼朝と自分の子孫だと思います。
ですので…
政子と頼家は 政治的なビジョンが
違っていたというふうに考えています。
あえて言えば
政治路線の対立がある上で
もう 一幡と頼家は
切り捨ててもしかたがないと。
そうですね。 「吾妻鏡」は
ちょっと必要以上に彼を暗君として
描いてると思うんですけれども
ただ それを読むと 非常に あの
暴力的でマッチョですね。
御家人の愛する人を奪い取って
御家人が恨みを持ってるっていうと
それを討とうとして 政子に叱られる
というようなことをやっています。
どうも その 頼家が目指していたのは
昔ながらの狩猟と戦争に明け暮れた頃の
武士の親分になろうというような
イメージで。
政子は もう幕府を次の法治主義
っていう方向に
持っていこうと考えていた。
そこで 2人の対立が
のっぴきならないものに
なってしまったのではないか
というふうに考えています。
あの だから まあ割と
問題になるのは 政子っていう人が
個人として どれだけの力を
持っていたのかっていうこと。
だけど そのことに関して言うとね
義時が死んだあとの政変が
伊賀局っていう人の
政変があるんですけど
義時がいなかった時に
政子はもう 1人なんですが
見事に その政変を解決してます。
ということは 彼女自身の
力量というものは
やっぱり 相当なものがあったんだろうな
ということは
疑いがないのかなっていうふうには
思いますね。
さあ 気になるのは井上さんですけど。
北条政子は…
もうずっと極道論ですよね。
そうです。
あの御家人と あの御家人と あの御家人。
親分衆同士の中に いがみ合いがあれば
調停役を務めたのは
結局 政子なんだろうなと思います。
どうして それができたかというと
頼朝の妻だ 極道の妻だということが
結局 その組という形で 今日に残る
原型をつくったのは鎌倉なんですよ。
息子に 別にそれを望んだわけではないと。
結局 息子たちを見て
私が今やってる親分衆の調停役を
この息子たちにはできないだろうなという
諦めはあったと思います。
自分が引き受けたと。
「私がやらないと誰がやるの」みたいな
思いはあったんじゃないか。
その意味で 私は頼朝の
極道はやめて 頼朝の妻という人生を
全うしはったんじゃないかと思います。
書いてますからね 「極道の妻」って。
「私が頼朝だ」ということですか。
今回「大河」で 誰がやるんですかね。
小池栄子さん。
あっ そうなんだ。 小池栄子がやるの。
じゃあ やっぱ極妻…。
(笑い声)
鎌倉時代 武士の家では
夫亡きあと 妻は「後家」として
家を背負う責任と力を持っていた。
源氏 北条氏の思惑とは関係なく
自分と頼朝が残した幕府のために
政治をした政子の姿が
専門家たちの話から見えてきた。
「鎌倉殿サミット2022」。
締めくくりは 鎌倉殿に深く関係する
実に…
世界遺産に登録される…
日本仏教の聖地の一つである。
その一角にある霊宝館には
貴重な文化財の数々が
保存管理されている。
昨年 ここに 鎌倉殿を語る上で
欠かすことのできない
重要な史料が加えられた。
鎌倉時代に起こった歴史的大事件
「承久の乱」を描いた…
1939年の展覧会から ちょっと
行方不明になってたんですけれども
去年ですね 80年ぶりに発見されて
しっかり管理してもらおうということで
こちらの方へ入ってこられたという
大変貴重な絵になってると思います。
承久の乱は
鎌倉幕府と後鳥羽上皇との全面戦争。
そして…
6巻からなる絵巻には
その節目節目の戦いが
克明に描かれている。
発見したのは 本日の出席者…
(長村)いろんな人に聞いてですね
見つけたと。
本当にうれしかって すごい感無量でした。
中でも 目を引くのは
上皇側の最後の防衛戦での戦い
宇治川での攻防だ。
増水した危険な川を
騎馬のまま渡る鎌倉武士。
これまでありえなかった
上皇に弓を引く戦いに及んだ彼らは
決死の覚悟だったことが伝わってくる。
だが この歴史的大事件は…
きっかけは 承久元年に起こった
天皇の住居 内裏の焼失だった。
後鳥羽上皇は 再建のために…
これに激怒した上皇は 承久3年
幕府の実質的なトップであった
北条義時を追討せよ
という命令を下したのである。
当時 朝廷を敵に回すことなど
考えられない中での「追討令」。
鎌倉に動揺が広がったが
立ち上がったのは政子だった。
後鳥羽上皇が鎌倉に攻めてくることを
御家人に伝え
こう げきを飛ばしたという。
政子の言葉に 結束した関東武士は
京に攻め上がる。
その数 10, 000。
対する上皇側の軍勢は 僅か1, 700だった。
数で圧倒する幕府側は
攻勢を強め 戦いは…
後鳥羽上皇は
降伏するしかなかった。
上皇側は…
後鳥羽上皇は…
「承久の乱」は 朝廷に武士が勝利した
史上唯一の戦いとなり…
今回 長村さんが
80年ぶりに見つけたという
「承久記絵巻」の複製。
これ鮮やかだね でも。
ねえ。
(長村)ちょうどですね
左上の北条義時のところに
三浦義村が手紙を持ってやって来てる
っていう場面。
もっと言うと 何かというと
後鳥羽院が 京都で
「北条義時を追討せよ」
っていう命令を出した。
このあと さっきの
政子の演説みたいなんがあって
もう鎌倉から軍勢を出して
攻め上がるべきだろうって言って
承久の乱が始まるっていう
まさに その劇的なシーンを
描いている…。
じゃあ びっくりしてるとこって感じ…。
(長村)そうですね。
自分 追討対象になってる…。
「まじかぁ」って話ですよね。
(本郷)僕は あんまり
そういうの詳しくないんですけど
北条義時という人が顔が出てるのって
これだけなんじゃないですかね。
今まで 要するに
描かれたことがないんですよ
北条義時って。 写実的に
描かれているわけではないんですけど
でも 少なくとも北条義時っていうのは
完全に黒子なんですよ。
そっか。
(本郷)だから その意味で言うと
面白いなと思って。
長村さん
どこで見つけたんですか こんなもの。
(長村)ずっと学生の時から
承久の乱のことを研究してて
ずっと探してたところ
たまたま ちょっとある人から情報を得て。
すごいですね。
そうですね。
めちゃめちゃ興奮したでしょ それ。
めちゃくちゃ興奮しました。
(笑い声)
そうですよね。
さあ それでは 皆さん
この承久の乱の歴史的な意義について
まずはね 「承久記絵巻」を発見された
長村さんからお話聞きましょう。
あの まあ やっぱり
この乱の結果として
後鳥羽上皇 順徳上皇 土御門上皇と
3人の上皇が隠岐とか佐渡とかに
流されるっていう
前代未聞の出来事になり
じゃあ 鎌倉幕府 朝廷とか院政とか
廃止したかっていうと
そんなこともなくって
やっぱり後鳥羽院の兄を
新しい治天の君にして
院政は継続させたわけですね。
政治の形式は変わってないけども
実権は変わったと。
で そういった武家の優位の体制が
その後も長くずっと続いたという意味で
やはり日本史上の画期だろうなと
考えております。
特別ですよね ここだけ…。
(長村)そうですね。
上皇を流すっていうことですからね。
ねえ。
近藤さん 何が分かってきましたか?
先ほども言いましたけれども
「東国に自立した政権」という形が
日本にできたわけですね。
しかし 一方で言うと
朝廷を残してしまったわけですよね。
もしも 頼朝が あるいは
頼朝の後継者が
京都に上っていたならば いったんは
王朝に取り込まれたと思います。
だけど その王朝の中で軍事政権としての
力を蓄えていったら
いずれ天皇と対立することになり 結局…
…という方向に
進まなければならなかっただろうと。
そういうことですよね。
鎌倉時代に150年間 幕府は鎌倉にあった。
で その朝廷とは別に存在した
それでいいじゃないか
という伝統ができてしまった。
これは ちょっと…。
さあ 野村さんは どうですか?
今日の議論の中では
一般の人々というのが
登場してこなかったんですけれども
承久の乱は 一般の人たちにとっても
非常に大きな戦だったというふうに
記憶されたようでして
「沙石集」という説話集の中に
東海地方だと思いますが
一般の人々が「承久」という言葉を
戦の意味だというふうに考えていて
「今回の承久はひどかった」とか
「同じ承久でも宝治の承久は
もっと大きかった」とか
そんなようなことを
言っていたと書かれています。
そういった視点も掘り下げてみると
面白いのではないかと思いました。
さあ ということで 源頼朝の謎の死から
鎌倉幕府について
いろいろ議論してまいりましたけども。
先生方 ここから見えてくることは
一体 何なのか。
長村さん どうですか?
はい あの「吾妻鏡」って
すごく面白いんですけれども
一方で「ほんまかな」って
思うようなところが
一人で読んでたらあって
それを いろんな人と議論すると
「やっぱり ここ うさんくさいよね」
っていう話と
「やっぱり これ 本質ついてるよね」
っていう話が
結構 見えてきたんじゃないかなと。
それは 恐らく「吾妻鏡」だけじゃなくって
日本史の面白さなんかを
みんなに知ってもらえる
いいきっかけになるんじゃないかなと。
たまたま 自分が ちょっと詳しいところで
こんな華やかな場に呼んで頂けて
すごい恐縮してるんですけども
とてもいい機会を頂いたなと
思っております。
私は ここでも何回か言ってきましたが
やっぱり
鎌倉は怖いところだと思うんですよ。
だけど 我々が学校で教わった日本史は
こうなってるんです。
お寺と神社と公家が
世の中をろう断していた。
そこに頼朝は 新鮮な息吹を与えて
新しい時代をつくった。
私はね その
「ゴッドファーザー」の町になるのが
ほんまに歴史の進歩なのか
という思いが抜けないんですよ。
そこが どうしても
ちょっと違うんじゃないかと。
(井上)これを言いたくて…。
これを言いたかった?
これを言いたくて いろいろ
広域暴力団ネタをしたんですが。
京都は ずるいところもあったけれども
一応 平和を保っていた。
そのことを重く受け止めようよ
というような歴史観も
教科書などを通じて
語って頂きたいものだなということで
この場を去らさせて頂きます。
どうも申し訳ありませんでした。
ありがとうございました。
さあ 野村さんは どうですか?
今日の このいろんな議論で
何が見えてきました?
持統天皇とか光明皇后とか政子とか
明らかに政治をやってるとしか思えない
人間というのは悪女であると。
ただ一方で 例えば 徳川家康は
明らかに長男を殺していて
妻も殺していますね。
武田信玄も長男を幽閉して
自刃に追い込んでいて
お父さんも追放しています。
でも 一方で 彼らは英雄であって
政子は悪女っていうふうになるのは
明らかにジェンダーの不均等というか。
だとすると 本当に歴史的な解釈を
ガラッと変えないと
今の時代から見た歴史っていうのを
もう一回 日本の歴史を
全部考え直す必要がある
ということですよね。
歴史上の人物に対しても
フェアにですね 評価していく必要が
今すごく求められてると思います。
日本だけじゃなく世界史的にもそうだと。
あるかも分からないね。
(野村)そうですね。
佐伯さんは どうですか?
全体的に 武士の世になりつつあったのは
間違いない。
でも それが最終的に どこにどういう形で
落ち着くかっていうのは
恐らくリアルタイムに生きてた彼らは
ほとんど予測しえなかった。
それこそ 承久の乱で鎌倉幕府は
売られたけんかを買った結果
何だか知らないけど 朝廷の上まで
行ってしまったっていう
それぞれが自分たちの立場で動く。
その結果 思いも知らない方向に
将来の形が決まっていくっていう
その全体像が
やっぱり歴史のドラマであり
魅力なのかなというのが
見えてくるんじゃないかなと思います。
やっぱり群像劇なんですよね。
いろんな人が いろんな思惑で
現代の我々も来年どうなるか
コロナが こんなに
世界のパンデミックになるなんて
誰も予想しませんでしたよね。
それと同じように その1180年代から
1200年代ぐらいに生きていた人たちも
来年どうなるかすら分からない。
これ「大河ドラマ」の三谷幸喜さんが
しょっちゅう使われることですけど
予測不能なんですよ。
予測不能なんですけれども
その中で いろいろな人たちが
葛藤を繰り広げる それが歴史なんだな。
結果だけ分かってるので
その結果から推論していくよりも
ずっと迫ることができるんじゃないかと
今日 お話をさせて頂いて
その点も再確認をいたしました。
ありがとうございます。
さあ 太田さん いろんな議論が
たくさんありましたけどもね。
でも そうですね 何か こう
ところどころ
今が全部入ってるというか。
例えば 野村先生のおっしゃった
ジェンダーの問題っていうのは
今まさに。
でも ジェンダーって言ってるかぎり
それは外来語ですよね。
だから そこから 欧米から輸入された
思想で変えようとしても
実は 何か 難しいのかなっていう。
だからといって これをどうやって
歴史の評価をし直していくのか
っていうのは 僕には
ちょっと分からないですけれども。
だから歴史を見る見方っていうのも
自分たちの目で見ることは大切で
で 歌舞伎や何かが ねじ曲げるんですよ。
まあまあね いろいろと。
今回「大河ドラマ」が
恐らく ねじ曲げるんですよ。
(笑い声)
ねじ曲げるかどうかは別として。
それがまた歴史になっちゃうから
そこはそこで
真実を追求するのって
本当に難しいことだと。
それは難しいでしょう。
鎌倉時代の真実なんて それはね。
でも こんだけ長いスパンで見ると
すごいドラマチックだなと思いましたね。
鎌倉殿を考えることで
知らなかった歴史の裏側が
ちょっとだけ見えてきたような
気がします。
本当に今日は もうたくさんのね
歴史的な 皆さんね…。
刺激的でしたね。
お話をして下さいまして
ありがとうございました。 長時間。
(一同)ありがとうございました。
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