英雄たちの選択「“円”はこうして生まれた! 大隈重信 通貨改革の七転八倒」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択「“円”はこうして生まれた! 大隈重信 通貨改革の七転八倒」[字]

明治初め、新政府の大きな課題が通貨改革だった。江戸の通貨から新たな「円」にいかに移行するか。担当する大隈重信には偽金、新政府紙幣の暴落など次々と難題が降りかかる

詳細情報
番組内容
明治初め、新政府の財政責任者となった大隈重信。最大の課題は新たな通貨制度の確立だった。生まれたばかりの新政府が発行した紙幣「太政官札」は信用がなく値崩れ。さらに戊辰戦争のために各地で偽金が作られ国際問題に発展。貿易決済は金銀どちらをベースにすればいいのか、海外での動きもにらんで決めてゆくが、幕末の両替レートの不備と輸入超過で肝心の金銀が不足。国内の通貨は紙幣のみに。「円」誕生の悪戦苦闘をたどる。
出演者
【司会】磯田道史,中山果奈,【出演】飯田泰之,江上剛,山口真由,【語り】松重豊

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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  20. 政府

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

春の大阪。

よく知られる桜の名所といえば
造幣局の通り抜けである。

560メートルにわたって続く
八重桜の並木道。

その傍らに建っているのが造幣局だ。

ここで 我々が日常使っている

100円 500円などの硬貨が
製造されている。

日本の通貨 円。

この円というお金が誕生したのは
明治の初めだった。

明治を生んだ戊辰戦争。

膨大な戦費を賄うため
贋金や紙幣が乱発され

経済は大混乱に陥った。

この混乱の収束を任されたのが
明治新政府の若手官僚 大隈重信だった。

早速 大隈は 日本に
新たな通貨制度を確立する仕事を始める。

ところが 次々に問題が発生。

江戸時代の通貨を
どうやって新たな円と交換するか。

海外との取り引きに使う通貨は 金か銀か。

貿易に金銀を使うと
国内で使う貨幣の材料が足りない。

スタジオには
さまざまな分野の専門家が集結。

大隈の通貨改革を徹底分析する。

その結論が 先に見え過ぎちゃうから…

彼の眼目にしてるのは。

これ 大隈は…

「英雄たちの選択」
今回は 円を作った男 大隈重信。

通貨改革の苦闘に迫る。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今日は 杉浦アナウンサーに代わって
私 中山がお伝えします。

さあ 今回 取り上げるのは
明治4年に誕生した通貨 円と

その生みの親 大隈重信です。

磯田さん 今回の見どころ
どんなところでしょうか。

今日はね 明治維新の
一番 本当に大事なところ。

その話をしたいですね。
はい。

実はね 大隈の話なんだけど…

はい。
あの坂本龍馬っていうのは こう

うわ~って斬られる直前に 実は
「やらなきゃ! やらなきゃ!」と思って

やってたことがあるんですよ。
それは何か。

要するに 通貨を統一したり
外国と やり取りする時に

大丈夫な状態にしてないと
駄目だって言ってる。

銃で 政権をとったりしたとしても…

経済制度が ちゃんとしてないとね
この政権 もたないっていうのが

分かってた龍馬は 通貨をやろうと。

今日はね それを 是非
専門家の先生方を呼んで

分かるようにしたいと思っています。
はい。

では まず
戊辰戦争最中の新政府の懐事情から

見ていきましょう。

慶応4年2月15日

錦の御旗を掲げ
新政府軍が京を進発した。

目的は 江戸の徳川慶喜討伐。

しかし 大きな問題を抱えていた。

資金難である。

江戸時代を代表する豪商
三井の史料を保存する三井文庫。

ここに 新政府の台所事情を物語る
史料が残されている。

新政府が発行した
1万両の受取書である。

…って書いてるんですけれども。

新政府の恩に報いるためにですね

この書面のとおりに
お金を献金いたしますと。

軍資金不足に苦しむ新政府は
豪商たちに 多額の資金を出させ

その金で 軍を進めていたのだ。

4月11日 新政府軍は
江戸城へ入城を果たす。

すぐさま 金座 銀座など
幕府の貨幣鋳造所を接収。

軍資金として 幕府と同じ貨幣を造らせた。

だが 新政府発行の貨幣には問題があった。

これは 新政府が発行した金貨
二分金。

幕府が鋳造する二分金は
金の含有率が23%だったが

新政府の二分金は 18%に落としたものが
多くまざっていた。

材料の金が不足していたからだ。

そのころ 東北では
新政府に抵抗する

奥羽越列藩同盟が
結ばれようとしていた。

そして 東北の戦いが始まる。

戦争に参加した諸藩では
敵味方を問わず

贋金づくりが行われた。

銀や銅の台に金メッキした
贋の二分金で

武器を買っていたのだ。

金がなくては戦争はできない。

当時 新政府の財政を担当していた
福井藩出身の三岡八郎は

一つの策を思いつく。

江戸・上野で彰義隊との戦いが行われた
慶応4年5月。

新政府は
全国で通用する新たな紙幣を発行した。

政府の最高機関
太政官の名が印刷された

いわゆる太政官札である。

竜や皇室の象徴である菊の紋をあしらい

格式の高いデザインとなっている。

三岡は 太政官札を
産業を興す資金という名目で

各藩や大商人に貸し付け
広く普及させようとした。

しかし 戊辰戦争の先行きも定かでない
この時期

新政府が発行する紙幣を
人々は信用しなかった。

受け取りを拒否する者や
すぐに 金貨や銀貨と交換する者が続出。

結果 太政官札は大きく値崩れする。

例えば 大坂の両替商の場合

太政官札100両が 金貨 僅か
54両にしか交換できなかった。

財政難を補うため
太政官札を乱発したことも

値崩れに拍車をかけた。

太政官札は 人々の悪評の的だった。

三岡は この問題に対する
有効な手を打てず 財政担当を辞任。

代わって財政担当となったのが

これまで 新政府で外交畑を歩み
その剛腕ぶりが評価されていた

佐賀藩出身の大隈重信である。

大隈は
太政官札の値崩れを解消するため

強引とも思える政策を
矢継ぎ早に打ち出した。

まず 商品の仕入れ
売買には

金銀の貨幣ではなく
太政官札を使うよう命令。

続いて 太政官札の相場を
立てることを禁止。

額面どおりに
通用させるよう命じた。

更に 租税や政府への上納物は
太政官札で納めるよう指示。

違反した者を厳しく取り締まり 罰した。

その強引さは 政府内で
大隈の暴政と批判が出るほどだった。

それに対し大隈は こう言い放った。

明くる明治2年5月18日。

蝦夷地 箱館で
最後まで抵抗していた旧幕府勢力が降伏。

1年5か月にわたった戊辰戦争は
新政府軍の勝利で 幕を下ろした。

大隈は すぐさま布告を出させる。

3年後の明治5年までに 太政官札を

政府が新たに発行する貨幣と
交換すると宣言したのだ。

新政府軍の勝利と
この宣言をきっかけに

太政官札の信用は高まり
値崩れは次第に解消。

明治3年 ほぼ額面どおりに
通用するようになる。

大隈は 見事に
新政府の財政を救ったのである。

今回も さまざまな分野の
専門家の皆さんをお迎えしています。

皆さん よろしくお願いいたします。
(一同)よろしくお願いします。

さあ 太政官札の話をする前に
明治初めの時点で 日本国内に

どのような通貨が流通していたのかを
ご紹介しようと思います。

こちらをご覧ください。

まず左上。

これは 両を単位とする小判など
金貨や銀貨。

そして 重さ 匁を単位とする銀貨。

更に 文を単位とする銅銭。

そして お札にいきますね。

各藩が 独自に発行した藩札。

これ およそ230の藩が
発行していたということなんです。

で 最後が 右下にあります
新政府が発行した

太政官札などの紙幣と。

もう混乱。 言うだけでも
混乱してしまいそうなんですけれども。

僕 このね 寛永通宝ね 懐かしいですよ。
懐かしい?

子供の時に この…
ひもで くるんで

家にありましたね。
あ~ 銭さしですね。

ええ。 ありましたね それは。

今 見て 思い出しましたよ。

いずれにしても 僕は
この時代の人は

すごいなと思うんですよ。
要は 地域ごとに

価値も違ったりするわけでしょう。

で 四進法ですよね。
僕の頭の中には そんなものないしね。

そうですね…。 そして 飯田さんは
経済の専門家からすると

これだけの種類のものが
流通しているというのは どうですか。

庶民にとって
そこまで不便だったかというと

実は そうでもないところがあって。

それぞれの取り引きで
使われる通貨というのが

ほぼ決まっていて。

例えば まあ やっちゃ場。

青物の売買をして
生計を立てている人は

恐らく寛永通宝 せいぜい

天保通宝ぐらいまでしか
縁がないわけですね。

そしてもう一つ やはり この近年

急速に その再評価が進んでいるのが
藩札の分野で

結構 その幕府の直轄地以外だと
この藩札が 普通に取り引きされていた。

ちょうど今 出てきた 三岡八郎

彼が 初めての江戸出府
江戸詰めになった時に

上司から せん別に
一分銀をもらうんですね。

それを見て
「こんなお金があるんだ

初めて見た」っていう
感想を書いてる。

そのぐらい 地域によっても
藩札が当たり前の

お金になってたりという意味で
もう お金ごとに…

まあ 一つの国って言っていいのか…。

いろんな身分とか いろんな地域とかの
寄せ集め 集合体みたいな

特徴があったんだなぁと思いますね。

…で その混乱に拍車をかけたのが

その 太政官札の発行
ということですけれども。

その値崩れ解決のために 大隈は
さまざまな布告を出しましたけれども。

山口さんは どうでしょう。 大隈の
この政策っていうのは どう見ますか?

何か 私 大隈重信を
今回 調べてて すごい思ったのは

落としどころを直感的に見極めるっていう
感性が もう天才的で

その結論が先に
見え過ぎちゃうから

過程が非常に強引。

最終的に ここに落ちるんだから
行けばいいだろうといって

それがもう ブルドーザーみたいなんで

嫌いな人は やっぱ嫌うんですよね。

あまりにも性急すぎる
あまりに過激だっていうふうに。

この人の
一番最初の そういうところが

すごく表れていると思うな
…っていうふうに思いました。

はい… 飯田さんは どうですか。

これ 税金を この紙っぺらで納めなさい
っていうふうに言ってるんですね。

これ 重要なところで。
現代においても そう。

現代の主要国の紙幣って
もちろん不換紙幣なわけですけど

不換紙幣の価値って
最終的に その紙っぺら…

今だったら 福沢諭吉が描いてある紙で
税金を納めていいですよと。

で それこそですね この命令ですと

税金は この紙 太政官札で
納めなきゃいけませんよということで…

で やはり これが合わさって

やっと 結構 この強引な政策っていうのが
通っていったのかなぁとも思えますね。

大隈重信の資質という点からすると
やはり その…

まあ 武士なんだけど
戊辰戦争は やっていない。

長崎で外国貿易
外国との交渉事をやってた。

で そういった時から もう ドルとか
いろんなものに対する

経済感覚っていうのが やっぱり
その当時の人よりは

ちょっと数段優れていたというのも
あるんですかねぇ。

こういう方針を立てるにしても。

長崎で 英語のテキストで
次世代の藩士を教える

お世話役の係を
大隈は やっていた人で。

よく国際制度を知ってるわけですね。

留学しなくて
外国と同じ頭になれた稀有な人ですから。

さあ いよいよ大隈は 通貨制度の
抜本的な改革に取り組み始めます。

戊辰戦争終結から3か月後の
明治2年8月。

信州の上田藩で
新政府を揺るがす大騒動が起きた。

数千人の農民が上田城下に乱入。

城に押しかけ 強訴するとともに
商店を打ち壊し 火を放った。

被害状況を伝える史料が残されている。

上田城下の被災図である。

この赤く塗られている一帯は
焼き打ち…

まあ 壊した家に火をかけた時に
たまたま風が強くて

延焼が城下町じゅうに広がってしまって

商店が87軒ほど
打ち壊しの被害を受けています。

それから 火がかかってしまって
焼けてしまった町家の数は

214軒あったというふうに
記録がされています。

騒動の原因となったのは 贋の二分金。

繭を生産する上田の農民たちは

生糸問屋に売って
二分金を受け取っていた。

しかし その二分金が
諸藩が偽造したものであることが発覚。

農民たちは大損害を被っていた。

そこに 藩が御用金を課したため
農民たちは激怒したのだ。

贋金の被害を受けたのは
日本人だけではなかった。

外国商人が受け取った
貿易の代金の中にも

大量の贋金がまじっていた。

上田の騒動のひとつき前

東京・高輪の応接所に
イギリス公使 パークスなど

列強の外交官が集まり
明治新政府への談判が行われた。

列強の公使たちは
大隈たちに詰め寄った。

諸藩が鋳造した贋金をどうするのか!?

我が政府の関知するところではない!

なんとか責任を回避したい日本側。

しかし 公使らは
新政府も品質の劣る金貨を

製造していたではないかと
厳しく追及した。

新政府は 贋金を
本物の貨幣と交換することを

約束せざるをえなかった。

通貨に関する混乱をおさめるには

一刻も早く 近代的で整理された
新しい通貨制度をつくる必要があった。

実は この談判の少し前 大隈は

近代的な通貨について
太政官に最初の建議を行っていた。

新しい通貨は
江戸時代以来の 両などの単位ではなく

新たな単位にすること。

金一両は四分であるというような
従来の四進法をやめ

十進法を採用すること。

四角形が多かった
硬貨の形を

円形に変更することなどを
建議した。

大隈は指で輪を作り こうすれば
誰もが通貨と分かると言ったという。

やがて 新単位は 圓とすることに決まる。

大隈は大阪に近代的な造幣工場を創設。

明治4年2月15日
工場の創業式が行われた。

式典には
政府高官と
内外の貴賓が出席。

新通貨の発行は
明治新政府の威信を
示すものだった。

大阪市北区に
創業当時の建物が残されている。

工場の正面玄関だ。

ヨーロッパ風の重厚な外観は
イギリス人建築家の設計によるもの。

イギリス領香港から購入した
当時の鋳造機械も残されている。

この中の方に
丸い穴が開いているんですけれども

こちらに 貨幣のもとになる
丸い金属を置きます。

…で その金属を強くプレスしまして
貨幣の表と裏に模様をつけていました。

この機械で 大体1分間に50枚ぐらいに
模様がつけられたといわれています。

工場では
多くのイギリス人技師が雇われ

日本人の指導に当たった。

旧淀川沿いに誕生した
ヨーロッパ風の工場は

文明開化の象徴として錦絵にも描かれ
大阪の新たな名所となった。

その一方で
このころ 大隈は新しい通貨について

一つの決断を迫られていた。

1円の価値を金や銀で示す 本位貨幣を
決めなければならなかったのだ。

例えば 当時
国際的に通用していた1ドル銀貨は

銀が およそ24g含まれていた。

日本も貿易のためには 金銀いずれかで
1円の価値を決めなくてはならなかった。

このころ イギリスの銀行
オリエンタル・バンクは

明治政府に 通貨制度についての意見書を
提出していた。

1ドル銀貨と同じ価値の銀貨を発行し
それで貿易の決済をせよという。

つまり
銀貨を基本とする

銀本位制の採用を
強く進言するものだった。

当時 インドや中国など
アジア諸国では銀を主に用いており

貿易の便宜を考えれば
日本も これに従った方が得策である

という意見だった。

この進言に基づき
大隈は銀本位制の方針を固めた。

ところが そこへ アメリカの通貨制度を
視察中の伊藤博文から 意見書が届く。

当時 金本位制を採用していたのは
イギリスとカナダ。

しかし ほかの欧米諸国も

金本位制の採用に向かって
検討を始めていた。

銀本位制か金本位制か
大隈は選択に迫られる。

その心の内に分け入ってみよう。

既に 銀を本位とすることで内定し

造幣工場では
一円銀貨の製造も始まっている。

今さら 金本位制に変えるなど
混乱を生むだけではないか。

現実的に考えるなら やはり銀だ。

アジアの国々との貿易の決済は
銀で行っている。

金銀の為替相場の
変動があっても影響されない。

貿易も大いに
発展するであろう。

しかも 銀本位制は ほかでもない

あの 世界の貿易を牛耳る
イギリスからの進言でもある。

しかし… 金本位制という
伊藤の主張も分かる。

西洋列強が金本位制を採るなら

いずれ 列強との取り引きは
金貨での決済に向かうはず。

我が国が列強と肩を並べていくためには

ここで金本位制を先取りしておくのが
得策ではないか?

日本の経済史や経営史を研究する
粕谷 誠さん。

金本位制を採用した場合の利点を
こう指摘する。

日本は 鉄道…
東京・横浜間の鉄道をひく時の資金を

イギリスからの外債で
調達いたしましたので。

イギリスが世界の中心ということで

世界の資本市場に
なっていたわけですけれども

そのイギリスから
資金を調達するというような場合に…

…ということもあったと
言えると思います。

とはいえ
アジアの国々との貿易は銀で決済が現実。

いつになるか分からない金決済のために
金本位制にすることは

本当に我が国の利益になるのか?

日本の進むべき道を思い
大隈は選択を迫られていた。

はい。 銀本位制か金本位制か。

私たちの時代には
ちょっと ピンと来ないところで

大隈は悩んでいましたけれども
磯田さん これ

当時としては 大事なことなんですよね。
うん。

世界で ドルだと
今 大体 基軸通貨と呼ばれて

決済が 結構広くできる。

だけど そういうものって
あんまり ないと。

それで 貴金属に裏付けられてないと
やっぱり 政府の信用とか

そういうのでね 為替で
取り替えてみたいなのは 無理ですから。

太政官札 受け取ってってね。

イギリス人に言ったって
絶対 受け取ってくれるわけないんでね。

現在でも 発展途上国って
少なからぬ国が ドルだったり

または ユーロ ポンド辺りと
固定相場を引きますよね。

うちの何ペソが 1ドルなんですよ
って言って 価値を明らかにする。

それと同様に 途上国 日本も…

さあ 一度は 銀本位制で動き始めていた
明治政府なんですけれども

伊藤博文からの意見で 金本位制が
改めて検討されることになりまして

大隈は 選択を迫られます。

はたまた…

皆さんが 大隈の立場だったら
どちらを選択されますか?

まずは山口さん どちらにされますか?

はい。 私だったら 選択2。

金本位制にしたいです。

イギリスなんかからすると

その世界の欧米列強が
みんな 金本位制になって…。

一方で 銀の需要って下がっていって
銀が安くなっていくと。

この銀を なんとか買い支えてほしいと
イギリスが思って…。

じゃあ 第1グループ 欧米列強は 金ね。

じゃあ 二等国のアジアは
銀の需要を保っといてねみたいな

グルーピングをしているとしたら

私は やっぱり
ものすごく悔しいなって思うんですね。

大隈は 本当に欧米列強の圧力を
一番 その舳先に立って受け続けた人で

パークスみたいな ものすごい
高圧的な人に じゃんじゃんやられて

二等国! 二等国! 二等国!
ってやられて 不平等条約も結ばれて。

また 今 このグルーピングされるのか
っていうのは 絶対に悔しい。

いつか必ず名実ともに
金本位制になってやるっていう

そういう思いを込めて
金本位制 背伸びしたいなって思います。

さあ では 江上さん
選択1 2 どちらにされますか。

私が 大隈だったら
まあ 1の銀本位制ですね。

通貨とか まあ 経済については
あまり よく知らない

いろんな政府の要人たちを前に

まあ この銀本位制っていうか

この通貨の新しい貨幣制度を
説得したわけでしょ。

いろいろ こう 説得するのに
いろんな こう 過去にあったものとか

ちょっと なじみのいいものとかを
いろいろ考えて説得したと思うんですよ。

現実的に そういう職人さんとか
機械とかも採用したし。

まあ そういう意味では ここは
銀本位制をやるのが

一番 まあ もう説得した状態であれば
そうかなと。

こんなふうには 僕なら思いますけどね。
現実的な江上さんのご意見ですね。

そして 飯田さんは
どちらを選択されますか?

では 私も 2の金本位制で。

正直ね 私は 1 2
どちらを選ぶのかっていうのは

むしろ先延ばしした方が
いいんじゃないのかなと

思っているところもあるんですけれども。

やはりですね 当時の国際情勢を見ると

もう だんだん 金本位制の方に
寄ってきてるんですね。

そういった中で あえて…

つまり10年後に もう一回 通貨改革を
しなければならないと思うと

しっかりと体制が固まってくれば
固まってくるほど

通貨改革は 大変になってくる。

高度成長期の中小企業経営なんかでも
そんなとこありましたけれども

借りてきたもん勝ちなんです。

ですから 途上国。

しかも これから 成長がかなり高い確率で
期待できる途上国であればあるほど

どうやって借金をするか
カネを借りる才能…

と思うと まあ 金本位制なのかなと
思ったりもするんですよね。

ちょっと 金が優勢となっているんですが
江上さん どうしましょうか。

う~ん… いや そりゃね 明治の人たちは
坂の上の雲をね

やっぱり 早くつかみたい
と思ってたから

確かに 西洋と並ぶようなことを
こう 考えたと思うんですけど

やはりね こう 常識って…

いわゆる 大隈が 常識人かどうかって
ちょっと別なんですけど。

だけど 常識的に考えたら
もう 全て 投資もしてるし

上層部も説得したし 一回 決めたんでしょ
銀本位制に さっきも。

もう 山口さんに聞きたいですよ。

今の役所なんて 絶対に無理でしょ。
本当にね。

そもそも やっぱり 経路依存性
っていうのが こう 出てくると思うんで。

一回やり始めた政策って
それに執着するってあると思うので

普通に考えたら 私は 銀本位のまま
行く方が 極めてまっとうだと思います。

そうして 積み上げてきたものがある中で
大隈は どちらを選択したんでしょうか。

造幣工場の創業式典から3か月後の
明治4年5月10日。

日本の新たな通貨制度を定めた
新貨条例が発布された。

大隈ら政府は
伊藤の意見を
採用し

金本位制を
選択したのだ。

こちらは 明治初期に
造幣局で造られていた

20円金貨になります。

特徴は
竜がデザインされているところです。

新しい貨幣のデザインには
当時 造幣寮の首長を務めていた

イギリス人のキンドルが
天皇の肖像を使うことを提案しました。

しかし 当時の日本人にとって
多くの人が手にするものに

天皇の肖像を使うことは
畏れ多いという理由から

この案は採用されませんでした。

代わりにデザインされたのが
天皇を象徴する こちらの竜になります。

金貨を通貨の基本としたことは
国内経済の安定に役立つことにもなった。

新貨条例では 1円金貨に含まれる
金の量を 1.5gと定めた。

これは アメリカの1ドル金貨の
金の含有量と同じ。

このため 1円は
1ドルに相当することになった。

また この1ドルは 幕末以来 二分金2枚
すなわち 1両と交換されていたため

結果的に 1両は
1円に等しいことになった。

分かりやすい交換比率が決まったことで

両から円への切り替えに伴う
民衆の混乱は 最小限に抑えられたのだ。

大隈は 金本位制の採用を

アメリカ視察中の伊藤に
興奮とともに伝えている。

「東洋の一小島の日本が
世界に先べんをつけることができた。

まことに痛快である」。

だが 実は この時 大隈は
金貨とは 別の硬貨も製造させていた。

貿易での決済を目的に造られた
いわゆる 貿易銀である。

アジアでは 銀貨が貿易で使われている
その現実に適応した貨幣だった。

政府の文書には

「従来 1ドル銀貨が
占めていた地位を

我が貿易銀で
取って代わり

東洋の至る所に
流通させる」と

国際通貨への夢が
記されている。

構想から2年余り
日本の新しい通貨制度を担う

新たな硬貨が誕生した。

しかし 通貨制度の改革は
これで終わりではなかった。

大隈が次に取り組んだのが 紙幣だった。

当時 流通していたのは

江戸時代のままの両という単位を持つ
太政官札。

4, 800万両分が
世に出回っていた。

明治政府は これを明治5年までに

全て新貨幣と交換すると
布告していたが

財政基盤が不安定で

4, 800万両分の金貨 銀貨を
用意できていなかった。

加えて 新たな問題も発生していた。

ニセ太政官札が登場したのだ。

こちらが 本物の太政官札

こちらが 偽物だというふうに
思われるものです。

よく見ると 紙の厚さですね
これが 全然違う。

大体 普通 この 太政官札は 非常に厚い。

ところが これはね 多分 見ていると
何枚も 重ねてる感じ。

しかも 薄い。

で この 紙の違いもあるし
印刷の方は 特に違いますね。

このシャープさ。

太政官札と交換しようにも
金貨 銀貨が足りない。

偽札も出てきた。

太政官札の問題を
どうしたら解決できるのか?

大隈には 一つのアイデアがあった。

金銀の新貨幣は
貿易の決済に使うのが最優先だ。

その新貨幣を 太政官札との交換に
回すことはできない。

いっそのこと 貿易や海外との
取り引きには 金貨や銀貨を使い

国内では 金銀と交換できない
円紙幣を流通させる。

国外と国内で
通貨を使い分けるのはどうか?

しかし 太政官札のような
値崩れを起こしたら

国民は 納得するだろうか?

そして 偽札への対策はあるのか?

立ちはだかる難問に
大隈は どう対処したのだろうか。

さあ スタジオには 明治4年に制定された
新貨条例によって 誕生した

当時の硬貨を ご用意しました。

上の段はですね
20円から1円までの5種類の金貨。

表の面には
竜がデザインされているんですよね。

そして 下の段は
銀貨で 1円から5銭までの5種類です。

左の一番大きいものが
貿易銀と呼ばれる 1円銀貨。

何か 先ほど
すごく高いものだって伺って

ちょっと
恐れおののいてるんですけれども…。

それにしても 精巧な造りなのと

何か これ 日常で取り引きするような
額じゃないよなっていうのは

印象として抱きました。

江戸時代から流通していた
まあ いわゆる貨幣って

コインとは 全く趣が違って。
やっぱり こう西洋の息吹を感じますよね。

これは やっぱり 新しい時代になったな
ということは

やっぱり この コインからも感じた人も
多いんじゃないかとは思いましたね。

さあ 大隈は 伊藤博文の意見を取り入れて
金本位制を選択しました。

これが できた時に ああ…

まあ それは 金融政策の面ですけど。

大隈は 頭の中で…

って思ったんじゃないかなって
思いますね。

ただ その金本位制と言いつつも
貿易用の1円銀貨も造っている。

これ 山口さん
これについては どう評価されますか。

イギリスからの強い推しもあって
銀貨 使え 使え 使え って言われていて

当時の力関係で
イギリスの許可を得ずに

まあ 勝手に金本位っていうような
形ではなかったと思うので

うちも銀貨造りますし 実質的には
イギリスさんのおっしゃるとおり

銀の需要を一定維持しますよ
っていうふうに言うっていう

目的があったのかな
という気がしますけれど…。

本当ね この大隈とか…
まあ 明治の人たちっていうのはね

発想が 壮大だったなと
こう 思うんですよね。

この銀貨を使ってですよ。

アジアの中で国際通貨の基軸通貨になろう
って言ってるわけでしょ。

少なくとも アジアの貿易で
ヨーロッパやイギリスと

並び称される 並ぶぐらいのですね
立場になろうというような

まあ ある意味じゃ やっぱり
この明治の人たちっていうのは

やっぱり すごいねと思うね
そういう意味では。

まだ 何の発展途上国だって
さっき飯田さん おっしゃったけど。

それが もう 世界を席巻するぐらいの
国になろうというイメージは

まあ 持ってたんですな。
そんなふうに思いましたね。

すごく大きな野望を持ってたんですね
飯田さんね。

もう一つ 注目しなければいけないのは

この銀貨発行の実利的な側面なんですね。

確かに 対外的には
金本位制になりましたよと

金本位制の国ですよということが

すごく対等な外交関係をアピールする上で
重要だと。

しかし その一方で 銀貨の持つ有益性
というのも否定できない。

そして 貿易銀を発行しているので

これ
事実上の金銀複本位制という制度に

どんどん近づいていっているんですね。

この金銀複本位制って その時々で
銀が有利な時には 銀が本位通貨になり

金が有利な時には
金が本位通貨になるという意味で

極めて まあ 都合のいい制度で。

そして次は紙幣の改革に移ろうと
思うんですけれども。

今は この貨幣とか お札
どちらも普通に使いますから

海外の取り引きは硬貨
国内では紙幣という

この使い分け
すごく新鮮に感じるんですけれども

磯田さんは どう感じますか。
いや もう それはそうでしょう。

出来たての政府で
海外からとか信用されていないから

まあ やっぱり
貿易用の きっちりした銀が必要だと。

ただ それだと 貴金属 足りませんから。

そうすると国内向けでは もう
天皇の信用で

紙幣も含めた発行を行っている
っていうことなんだと思うんですよね。

江戸時代 まあ 多くの藩で…

藩内では藩札っていう この 何か
内と外の使い分けみたいなのを

もう何百年もやってきたので
当時の日本人にとっては

「ふ~ん 普通」っていう
感覚かもしれないですね。

そう考えると 私たちが
地域通貨 使ったりするのに

あんまり抵抗ないのも そういう…。
(笑い声)

始まっちゃえば
抵抗ない気もするんですよね。

さあ 大隈の考えは どのような形に
なっていったんでしょうか ご覧ください。

明治5年4月
明治政府は 新たな紙幣を発行した。

明治通宝札である。

紙幣の製造は
偽造防止のため ドイツに依頼された。

新紙幣には 太政官札にはない
複雑な印刷技術が使われていた。

凸版で刷られた
鮮やかな青の地模様の上に

凹版で精密な図柄が重ね刷りされている。

この辺の細かい…

これだけ拡大しても はっきり
見えるようにですね なってる。

それを この原版を彫って…
造ってるんですね。

これはね ものすごい… すごい技術。

当時は やっぱり ヨーロッパでもね
一二を争うような印刷技術で 実は…

ここで発注をしまして
造っていただいたわけです。

円や銭を単位とする明治通宝札は
太政官札と順調に交換され

日本全国に普及していった。

文豪 森 鷗外は小説「雁」の中に
明治通宝札を登場させている。

「お玉は
こわくて泣き出したいのを我慢して

そのころ通用していた
骨牌のような形の青い五十銭札を二枚

見ている前で出して
紙に包んで

黙って
男の手に渡した」。

こうして 海外との取り引きには
数が限られた金銀の硬貨を使い

国内では紙幣を流通させるという
体制が生まれる。

後に大隈は この状況を

「紙幣専用の時世」という言葉で
振り返っている。

しかし 平穏は長くは続かなかった。

明治通宝札の発行開始から5年後
明治10年。

新たな紙幣を最大の危機が襲った。

西南戦争の勃発である。

西郷隆盛率いる薩摩軍に対して
新政府は およそ6万の兵を動員。

大量の武器・弾薬が買い集められた。

大隈は 戦費を捻出するため
明治通宝札の大量発行に踏み切った。

戦費の総額は およそ4, 200万円。

これは明治10年度の政府歳入の
およそ8割にあたる金額だった。

結果 国内の紙幣流通量は激増。

深刻な価値の下落 つまり
大インフレに悩まされることになる。

明治10年から14年にかけて

米 味噌 塩など

生活必需品の値段は いずれも
およそ2倍になり

庶民を苦しめた。

大隈は これに
有効な手を打つことができなかった。

そして明治14年の政変。
大隈は政府を追われる。

後を継いだのは 大隈のもとで
大蔵官僚を務めてきた松方正義。

松方は デフレ政策をとるとともに
中央銀行である日本銀行の設立に尽力。

明治18年 日本の紙幣は

日本銀行が発行する
日本銀行券のみとされ

明治通宝札は役目を終えることになった。

現在に続く日本の通貨制度は
こうして整ったのである。

さあ こちらに 大隈が生み出した

新紙幣 明治通宝札 ご用意いたしました。

これ 十円札なんですけれども。

色は淡いブルー
竜と鳳凰が印刷されています。

裏側も見てみますと…

裏は赤なんですね。

これは 今の我々と同じように
紙入れっていうか 札入れに入れて

くしゃくしゃに してたんですかね?

どうやって使ってたんですか。
これ 大事に 何か こう…。

本当に みんな
手渡ししていたんですかね こうやって。

もう うまく考えましたよね。
やはり 偽造が

そこまで問題になってるんだったら
海外で刷ってしまえばいいと。

ドイツの最新鋭の印刷工場で
印刷したもの。

日本に そんな印刷機ないですから
これ 偽造できないわけですよね。

これで やっぱり偽造問題が片づいた。
この意味は大きいと思います。

はい。 西南戦争によって
こう 貨幣の乱発 大インフレと。

この失敗については
山口さんは どう思いますか。

西南戦争が起こったあとに
彼は それでも

貨幣の流通量が多いっていうことを
認めようとはしなかった。

そこは執着したんですね 珍しく。

そのインフレを
ある意味 まあ 放置したわけですよね。

そこはね 何か 大隈重信って
経路依存性が全くないというか

あっ 落としどころが違ったって思ったら
すぐ変えられる柔軟な人なのに

ここは 終生 生涯の中で
珍しい過ちなのかなという気が

私は しましたけど。
なるほど。

だけど これ 今に続くと こう
財政均衡とね いわゆる積極財政と

確かに
そのインフレを抑えるためには…

太平洋戦争が終わった時には
ドッジさんが来てね

日本のインフレをこう ガ~ッと抑えた。

でも それで失業者がいっぱい出て
自殺者もいっぱい出るような

時代になったことは 事実だし。

だから 何が間違いで
何が正しいのかっていうのは

僕は 一概に言えないんじゃないかと
思うんですよ。

この西南戦争のあとの
インフレを抑えるために

じゃあ 彼は まあ外国から お金を
借りてもいいじゃないかぐらいなことも

発想しますよね。
少し 例えば時間を持ってやらせれば

また違った国家像が
あったかもしれないとは思ったりする。

なるほど。
西南戦争
負けるわけにはいかないんですよね。

これで負けたら
明治新政府 おしまいですから。

…という状況ですから
財政支出するのは もう しかたがない。

これはもう制約条件として決まってる。

じゃあ それが インフレに
つながらないようにするには

どうしたらいいか 方法は2つ。

まあ もう この大隈がとったように
インフレを容認するか

もう一つは ご指摘のように海外から
お金を借りてくるかなんですけど。

内戦を戦うために
外債を立てなければならない国って

もう 一流国っていいますか 独立国として
かなり怪しいレベルですよね。

まあ これね インフレは
内戦で短期間で潰す自信が

西郷軍を潰す自信がありましたから
明治政府は。

まあ 一時の武器買いに起こすのは
やむをえないっていうのが

実際のところだったでしょうし。

このあと鉄道がね
明治20年代に入って 届けば

日本国内での ものすごい商取引量が
バ~ンと上がるわけですよ。

商取引量が多いってことは
もう スピードも速いということは

やっぱり それだけ
貨幣数量が要るっていうことですから。

まあ ちょっと
早かったかもしれないけど 10年近く。

これも 10年我慢すれば
そんなに悪い政策じゃなかったかもと

僕は思っています。
なるほど。

さあ 今回は
大隈の通貨制度改革を見てきましたが

現代の私たちは
ここから どんなことを

くみ取ることができるでしょうか
山口さん。

私は やっぱり
この大隈重信の一番好きなところは

生涯を通じての楽観ですよね。

彼は もう本当に無邪気に
自分の道を信じて突き進んでいた。

そうすると 周りも何となく
「あっ この人についていったら

よくなるんじゃないか」みたいに
信じさせるだけの力があって。

周りを全員 楽観に変えるだけの

大きなパワーがあった人じゃないかな
って思いますね。

私は もう生また時から ず~っと
失われた20年 30年って言われて

日本の力が そがれていくようなことを
ず~っと聞いていて。

…で どんどん どんどん
日本に悲観的になっていくから。

この人 一人いて
日本は絶対よくなるぞと言って

全部をひっくり返してくれるんだったら
何か 今の日本にこそ

こういう楽観論の人って
必要なんじゃないかなって思います。

あ~ なるほど。
僕 今 思い出したんですけど

大隈の家の玄関には
何か置物が置いてあって

それで… そしたら
みんながくれって言うんだそうです。

それで持って帰らせるんだそうです。
それで大隈は

「あれ 高いもんなんですか」って言ったら
「いや 違うよ。 安もんだよ」と。

「でも 俺の家の玄関にあったら
みんな 高いもんだと思うんだ」と。

若い人に
これが大事だと言ったという。

だから…

あっ 信用… そっか。

だから 大風呂敷とか
よく言われるんですけど。

大隈が生きた時代は まあ
本当にこう 危機の真っただ中でしょう。

その中で 何を優先すべきかね
何を捨てるべきかっていうのを

きっちり 見えてて 分かって
それに向けて 大胆にこうやっていく。

まあ 朝令暮改もあったとは
思うんですけど 大胆に踏み込んでいく。

こういうところがね
やっぱり学ぶべきだなと思いましたね。

「名を捨て実を取る」とか
「実を捨て名を取る」みたいな

言い回し ありますけれども。
山口さん 指摘された

大隈の楽観さって
いつでも両方を取ろうとするんですよね。

そうでしたね!
そういった何か 欲張りさと楽観さって

結構 表裏一体なところがある。

そういうのを見せつけられる感じですね。
なるほど。

では最後に磯田さん。
今回 大隈重信とお金の話でしたが。

要するに 国家は信用がなければ
通貨の信用もなくなるし

通貨の信用もなければ
国家の信用もなくなる。

でも大事なのは やっぱり…

保障されてない国も いっぱいありますよ
今 世界中を見たら。

それをやっているうちは 絶対みんな
真面目に働いて 真面目にお金ためて

発展させていこうという気が
起きないわけですよ。

国家は 国民に対して
あなたの財産を保障する。

国民は ちゃんと
努力して生産力を高めて

労働価値は自分たちが高いんだ
っていうので国家が進む。

そうすると労働価値で
通貨の価値を高めるみたいに

こうやって一歩ずつ 車の両輪で上へ
山を登っていくというのが

本当は 国家と国民の間の…
いや 国家と通貨の間の

幸せな関係かなぁと思いますよね。

龍馬が 国家は
通貨が ちゃんとできなきゃと言った

その背景が
今回 分かったような気がしますね。

はい。 今日は
皆さん ありがとうございました。

(一同)ありがとうございました。

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