こころの時代~宗教・人生~ 無宗教からの扉(2)「念仏とはなにか」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

こころの時代~宗教・人生~ 無宗教からの扉(2)「念仏とはなにか」[字]

遠藤周作や三木清など多くの作家や哲学者に愛されてきた「歎異抄」。多くの日本人が自らを“無宗教”だとする現代、そのメッセージを、シリーズ6回にわたり読み解く。

詳細情報
番組内容
シリーズ第2回は、「歎異抄」の核心ともいえる阿弥陀仏の「本願念仏」とは何かを探る。阿弥陀仏という仏が生まれた背景には戦争や疫病が頻発する「五濁悪世」の世相があった。それが、どのような動機と論理で、この世で苦しむすべての人の救済という悲願を背骨に持つ「専修念仏」の思想へと発展していったのか。法然の『選択本願念仏集』や親鸞の『教行信証』という原典も参照しながら、単なる「呪文」ではない念仏の深みを描く。
出演者
【講師】明治学院大学名誉教授宗教学者…阿満利麿,【語り】髙橋美鈴,【朗読】糸井羊司,井上二郎

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉

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  17. 問題
  18. 名前
  19. 悲願
  20. 法蔵

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

♬~

「歎異抄」は 700年以上前の
鎌倉時代に書かれた 仏教の古典です。

そこに貫かれているのは

阿弥陀仏が 仏になる前
人々を救うために立てた

もともとの願い 「本願」に基づく
念仏を称えるだけで

全ての人が救われるという
「本願念仏」の思想。

法然によって始められた その教えは

親鸞らによって 受け継がれました。

「歎異抄」は その親鸞の言葉を

門弟となった唯円という人物が
正しく伝えようと書き留めた書です。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。

宗教学者 阿満利麿さんは

「歎異抄」の核心ともいえる
「念仏を称える」という教えが

なぜ どのようにして成立したのか
研究してきました。

その教えには 私たちの日々の生活では
推し量ることのできない

常識を乗り越えた
大きな物語の裏付けがあります。

「阿弥陀仏の本願」とは 何か。

念仏を称えるという教えは

どのような論理から
生み出されてきたのか。

シリーズ「歎異抄にであう
無宗教からの扉」。

第2回の今日は
「念仏とはなにか」 探ってゆきます。

♬~

今日は この番組の第2回目の

「念仏とはなにか」という
テーマでありますけども

世間では お念仏といっても
お葬式の時に 死者に向かって称えたり

あるいは 墓参をした時に
念仏を称えるっていうふうに

何か死者に手向ける言葉のような
イメージがありますけれども

この「歎異抄」で取り扱う念仏は
阿弥陀仏の本願に基づく念仏である。

自分で答えが出せないような問題を
前にして 苦しんでいる人間

自分の考えが中心で
自分の考えから離れた世界については

それを信じることはできないという
そういう心の持ち主に対して

その阿弥陀仏の誓いというのは
大きな救いの手を差し伸べているんだと。

我々 日頃 そういう苦しみとか
不安があってもですね

適当に あしらって生きているわけです。

しかし
あしらいきれなかった時にですね

初めて苦しみや不安というものと
向き合うわけでありますけれども

苦しみとか 不安の原因をたずねても
我々の手では究明しきれないと。

例えば 「私は どこから生まれて来て
どこへ死んでいくんですか」と。

そういう質問を 仮に持ったとしたら
それに対する答えはないわけですね。

こういう人生の苦しみとか
不安の多くっていうのは

その原因を明らかにする智慧がない
というところから生まれていると。

ですから 仏教というのは

そうした人間の根本的な不安とか苦しみを
解決するための

智慧を与える宗教なんですね。

特に その智慧の中でもですね

仏教が強調するのは
因果の関係なんですね。

原因と結果 因果の関係ですね。

特に仏教が面白いと思うのは
直接的な原因と思われることと

その直接的な原因を動かす
間接的な原因ということを

分けて考えているということですね。

直接的な原因は「因」という
原因の「因」ですね。

それに対して間接的な原因を
「縁」と言うと。

つまり 「因縁」という言葉ですね。

原因の中には はっきりと分かる
原因もあるけれども

原因を動かしている 間接的な
原因というのは たくさんあると。

仏教は そういう間接的な原因

つまり「縁」というものに
注目しているんですね。

何か自分に不幸が生じたり
あるいは不安が生じた時に

その原因をたずねてもですね
せいぜい 一つか二つ思い当たるだけで

更に その奥 ましてや
そういう原因を動かしてる

間接的な原因っていうようなことに
なるとですね

ほとんど お手上げ状態になってしまうと。

ですから「歎異抄」が問題にしているのは
そういう「因」「縁」「果」の連鎖を知る

この智慧というものから
遠い人間の苦しみとか

その苦しみから どういうふうにしたら
脱却できるのかといったことを

背景に置いてる古典だと。

生きていくうえでの
よりどころになるような

仏教の智慧というのは
何かということを教えるための

一つの手がかりを与えている書物だと
いうふうに言っていいと思うんですね。

人間を苦しみの連鎖から救う
阿弥陀仏の「本願念仏」とは何か。

「歎異抄」の最初の条文 第一条を

唯円は 次のような
親鸞の言葉から書き始めています。

「阿弥陀仏の誓いによって
浄土に生まれることができると信じて

阿弥陀仏の指示どおりに
その名を称えようと思い立つ

その決断の時 阿弥陀仏は ただちに
感応して その人を迎えとって下さり

全ての人々を 仏とする働きに
参加させておいでなのです」。

「阿弥陀仏の本願は 老人か若者か

善人であるか 悪人であるかを

お選びになることはありません。

ただ 信心を要とすると
よくよく知らねばならないのです」。

「そのわけは 深く根を張った罪悪と

激しい煩悩を抱えた衆生を助けるための
本願だからです」。

「歎異抄」の第一条 ここに
「誓願不思議」という言葉があります。

「誓願」というのは 阿弥陀仏の名前を
称するものは どんな人間であっても

必ず わが浄土に迎えとって
仏とするという

そういう誓いの文章であります。

その「誓願」に
「不思議」という言葉がくっついている。

わざわざ「不思議」という言葉が
ついているというのは

これは常識では考えられない
ということを 確認しているわけですね。

我々の常識を超えていると。

この念仏を称えようと思い立った
その瞬間に

既に 「摂取不捨」にあるんだと。

摂取の「摂」というのは
一つの枠を設定するという意味ですね。

そういう つまり 具体的に言うと
阿弥陀が設定している枠。

その設定している枠の中に

つまり浄土の枠の中に取り込んで
「不捨」 捨てないと。

そして 次の「あづけしめたまふ」ですね。

私は この「あづけ」という言葉にですね
ちょっと こだわっておりまして

「あづく」という言葉は
参加させるという意味があるんですね。

ですから 「あづけしめたまふ」という
ことは 主語は阿弥陀仏です。

阿弥陀仏が 念仏をする我々を

その阿弥陀仏の事業に
参加 おさせになるんだと。

こういう積極的な意味合いが
この文章の中に あると思うんですね。

そして そのあとはですね「弥陀の本願には
老少善悪のひとをえらばれず

ただ信心を要とすとしるべし」と。

ここで面白いのは ただ念仏を要とすと
しるべしと言わずにですね

「信心を」とこう述べているところがですね
少し面白いと思いますね。

「歎異抄」の念仏というのは

そういう阿弥陀仏の本願に
裏付けられているという

それを確認するということは
とても大事なことで

この道理に納得しなかったらですね

念仏というのは
どんどん呪術化していくんですね。

何か困ったことがあった時に
ちょっと お念仏して

その急場をしのぎたいと思って 念仏を
ぐちゃぐちゃっと称えるというのは

それは呪術であって

自分が 自分の苦境を何とか脱するための
手段になっている言葉ですね。

単に個人的な欲望の実現を図る
手段になっているだけだと。

この第一条だけでもですね 「信じる」
という言葉が 3回出てくるんです。

ですから 信ずるという言葉を
非常に大事にしている。

この信じるという言葉はですね

世間では 今の私どもは
大体 あまりいい意味で使わない。

この ことわざを使って言えば

「鰯の頭も信心から」という
言葉がありますけれども

鰯の頭みたいな訳の分からんものでも

信ずれば
ありがたくなるというわけですね。

そういうことじゃないんです。

そういうことではなくて
「本願念仏」における信心という言葉は

いくつかの契機があってですね

阿弥陀仏の本願というものを正面に立てて
それを決断して選ぶという

そういう働きがあって
初めて「信心」ということが成り立つ。

念仏を称えようと思い立った
その瞬間という

こういう ぎりぎりと 我々の心の動きを
追い詰めているという

こういう表現のしかたですね。

ここが その「歎異抄」の大きな特徴。

そこで大事なことは 思い立つという

称えようと思い立つという
その決断が 不可欠である。

この場合の信心は
いろいろ誤解がありますから

私は「納得する」という言葉に
置き換えたらいいと思っているんですね。

決断して選んで
その自分で 心の底から納得すると。

それが 信心という意味だろうと
思いますね。

この納得するということは

ず~っと これから「歎異抄」を
読んでいく場合に 大事なことなんです。

阿弥陀仏は いつ
どのようにして生まれてきたのか。

その原点は 仏教の開祖
ゴータマ・シッダールタが

この世を去って
およそ5~6世紀後のこと。

インドで成立し
中国に伝わった経典に遡ります。

それによれば この世は さまざまな
穢れと悪にまみれた「五濁悪世」。

戦争や疫病 飢饉が頻発し
邪悪な思想も はびこり

人々が 欲望のまま生きる
煩悩に支配された世界。

そのような 苦しみの真っただ中に
登場してくるのが 阿弥陀仏です。

阿弥陀仏の来歴を記した
「無量寿経」によれば

阿弥陀仏は もとは
「法蔵」という名の人間でした。

彼は この世の苦しみを背負う
全ての人を救おうと

48の悲願を立てます。

そして「五劫」という 長い年月をかけて

悲願が実現するまでは仏にならないと誓い
苦行を重ねました。

仏教で言う「一劫」とは

7キロ四方の巨大な立方体を
小さな けしの実で埋め尽くし

百年に一度だけ 僅か一粒ずつ
取り出して 空になるまでの時間。

一説には
43億2, 000万年とも言われます。

法蔵は その5倍にもなる時間をかけて
およそ実現不可能な

しかし 人間誰しもが 心の奥底に持つ
悲願を全て引き受けて

阿弥陀仏となったのです。

この「阿弥陀仏の物語」の
大きな特徴はですね

我々は 五濁悪世の真っただ中に
生きているんだということを

強調するんですね。

五濁悪世という時代を背景にして
阿弥陀仏が生まれてくると。

「五濁」というのはですね
具体的に言えば

戦争とか飢饉とか
疫病が流行し続けている。

これは 今をもって
コロナに苦しんでる我々ですから

疫病が流行してるっていうのは 決して
昔の話じゃなくて 今のことですね。

つまり 現代の我々の問題でもあると。

そういう時代のひどさ 戦争や飢饉や
疫病が流行してるっていうのが 第一。

第二は 我々の思考力の劣化
ということが言われている。

3つ目としてはですね 人間の考え方が
自己中心になっていると。

4つ目に挙げていることは
人間の身体的資質が低下して

多病になって精神を病むと
こういうんですね。

現代の病気の多様さっていうのは
驚くべきものですね。

それから5つ目に
人間の寿命が短くなる。

だから 阿弥陀仏が
五濁悪世を説明する時に

単に 経典の中の話として
受け止めるんじゃなくて

今の話が説かれているんだと
思わざるをえない。

つまり 「阿弥陀仏の物語」の本質は

そういう 五濁の世界を生き抜く智慧
というものを教えるというところに

この「阿弥陀仏の物語」の
最も大事な点があるわけですね。

「阿弥陀仏の物語」で
私 興味を持つのはですね

阿弥陀仏の前身は 法蔵という
名前の人間であったという

設定になってることですね。

面白いことに その「無量寿経」はですね
人間であったというけど

どういう人間であったかという説明は
一つを除いて 全く何もないんですね。

どういう説明してるかというと

「法蔵は 元国王であった」と
書かれてるだけなんですね。

それは一体 何を物語っているか。

国王だったら
何の経済的にも

不安も不満もない
暮らしでしょう。

なぜ 人は そういう最高の幸福な暮らしを
捨ててまでも求めるものが

なぜあるのかという そういう問題ですね。

それは恐らく 幸福という価値よりも
真実の生き方が大事だという

そういうメッセージが そこに
込められているんだと思いますね。

私は 人間にとって真実とは
何かということを考えるうえでですね

「悲願」というものは
とても大事だというふうに思うんですね。

つまり 悲しい願いというのは
その願いが 実現できないから悲しいと

こういうわけでありますけれども

その「悲願」というのは どういうことか。

例えば すぐ思い起こすようなことを
ちょっと申し上げますと

例えば 私の命が
こうして日々維持されてるためには

どれだけの命をですね
犠牲にしているか。

自分は 確かに
他のものの命を奪って生きている。

しかし できたら お互いに
命を全うできるような在り方が

あってほしいという願いが どこかに
あることに気が付くと思うんですね。

それが 「悲願」の一つの姿ですね。

あるいは もうちょっと
身近なことで言うと

我々 肉親の間で いろんな憎しみが
生じてきたりですね

お互いに無視し合ったりして

ぎくしゃくするっていうことは
少なくないと思います。

この短い人生でですね どうして互いに
仲よく暮らすことが できないのか。

それも なかなか実現しないから

「悲願」の一つだと
言ってもいいと思いますね。

そういう悲しみの中で

なおかつ 人間として
生きていくという時の苦しみですね。

もう どれだけ 今までたくさんの人間が
いろいろ いろいろ苦労してきても

一向に戦争はなくならないと。

人間の心の中に起ってくる
他者よりも優越したいとか

そのためには この暴力を使っても
辞さないとかいう気持ちが

完全になくなるということは
ありえないと。

それを前提にしたうえで

「阿弥陀仏の物語」というのは
単なる おとぎ話ではなくて

その苦しみに耐えながら

しかも その戦争という
悪に立ち向かうことができるような

この最終的な よりどころとして

阿弥陀仏の この「本願念仏」というのが
提唱されてきている。

そういう悲願を積み重ねてみると

何か真実というものの具体的な姿が
見えてくると思うんですね。

私は かつての旅人における
北極星みたいなもんだというふうに

例えて考えることがあったんですけども

旅人にとって 北極星はですね
自分は行けないですよ。

行けないけれども その北極星がある
おかげで 自分の位置が分かるわけですね。

同じように
悲願というものがあることによって

気付いてくるような
一面が生まれてくる。

何かの折に 自分の中には こういう
悲願があるんだというふうに思うと

適当に生きていっていいという
気持ちとは ちょっと離れるようになる。

ですから 「阿弥陀仏の物語」の中で
大事なことは

法蔵の目から見るとですね
人は 一人で生きているのではないと。

人は巨大な いわば
網の中の一つの結び目であってですね

互いに いろいろな命の関わりの中で
今の自分というのがあるんだと。

私ども 一人一人だけではなくて

あらゆる存在が
お互いに侵し合うことなく

生きていくことができるであろう
世界をつくるという

そのことを実現するために ものすごい
時間をかけているわけですね。

そのために これは
大きな物語ですから

我々が驚くような なかなかついて
いけないような話が展開するわけです。

それは 我々の日常生活を
紡いでくれている

さまざまな小さな物語と
根本的に違うのは

今 申したように 時間軸と空間軸が
もうめちゃくちゃに巨大なわけですね。

そういう巨大な時間軸 空間軸の中に
人間を置いてみると

我々が ふだん考えているような
人間の問題も

違った色合いを帯びて見えてくると。

神話的時間と 神話的空間の中に
人間を置いて

人間の生き方とか
人間の価値というものを論ずるという

そういう仕組みになっている物語ですね。

その 大きな物語っていうことの
ご説明の中にですね

今 我々 コロナの時代もありますし

世界では
いろんな厳しい問題もありますし

個人の問題としても 非常に大きな
悩みとか苦しみを抱えている中で

そういった 大きな物語っていうのが
果たして これは何なんだと。

何で大きな物語なんだっていう

反応っていうのが
あるかと思うんですけれども

「五劫」とかですね 我々の想像を絶する

いわゆる非常識な世界っていうのが
展開されるわけですけれども

その中には 一つ
宗教っていう問題が抱えている中に

ある種の神秘体験であったりですね

あるいは 神や仏と自分が
つながったというような

そういったものが
大きな物語を裏支えするような

発想っていうのがあると思うんですが…。

宗教は 神秘的体験だと
…をすることだというふうに

思っておられる方も
結構 いらっしゃると思うんですね。

しかし 法蔵という人間が
なぜ仏になろうとしたのか。

それは 人間の悲惨とか
愚かさとかいうことを

何とかしたいという
そういう動機があるわけですね。

その動機が分かるためには
神秘的体験は 必要ないですね。

法蔵が そういう
とてつもない時間をかけて修行して

阿弥陀仏になったということは
何を言ってるかというと

我々の修行では この問題は解決しない
ということを教えてるわけですね。

そのことに納得するために 途方もない
例えを出して教えてるわけです。

だから その途方もない例え
そのものよりも

その例えで 経典が 我々に伝えようと
しているメッセージは何なのかを

読み取るっていうことは
大事なことなんですね。

そうして見ると 我々の この能力では
答えようがないという

そういう問題を抱えている。

つまり 「人間存在というのは未完成だ」
ということに気付かせるために

ある意味では
「阿弥陀仏の物語」があると。

「阿弥陀仏の物語」の中で
最も重要なのが

専ら念仏を称えることであると解釈し
論証したのが 法然でした。

その根拠を記した「選択本願念仏集」。

法然は 阿弥陀仏となる前 法蔵が立てた
48の誓願の18番目に出てくる

「乃至十念」という言葉に注目しています。

法然は 中国の僧侶 善導の解釈を
引きながら

「念」とは 単に
阿弥陀仏を念じ 思うだけでなく

「声」のことであり

口に出して その名を称える「称名念仏」。

誰もが容易に称えることのできる
念仏こそが

阿弥陀仏の本願だとしたのです。

「だから はっきりと分かる。

念仏は 実践が容易であるために
一切の人々に通用する。

諸々の行は 実践が困難なため
全ての人々に通用することができない。

だからこそ 一切の衆生を
平等に往生させるために

難しい行を捨てて 念仏を称えるという
容易な行を採用して

本願とされたのであろう」。

「もし仏像を作り 塔を建てることをもって
本願とされたならば

貧しく困窮している者は 往生への望みを
絶つことになってしまう。

しかも 世には富貴の者は少なく

貧賤の者は 極めて多いではないか。

だから 阿弥陀如来は 法蔵であった昔

平等の慈悲の心を催されて

あまねく一切の衆生を救うために

仏像を作り 塔を建てるなどの行いを
掲げるようなことを

往生の本願とは
なされなかったのである。

ただ 一つの念仏を称えるという
行のみをもって

その本願となされたのである」。

法蔵という人間が
全ての人間を救うために立てた誓い。

その一点に注目して 中国で
「浄土仏教」というのは生まれるんですね。

その中国の「浄土仏教」が
日本に やって来て

そして 法然に至ってですね

無条件で 「阿弥陀仏の名前を呼ぶ者は

必ず浄土に呼ばれて
仏になるんだ」という

そういう教えを
発見するに至るわけですね。

念仏を称えることが 一番大事な
教えなんだということを主張した。

それが 法然の革命的な役割であるし

「念仏集」というものが生まれる
ゆえんなわけですね。

仏教は 慈悲の宗教だと言われるけれど

法然にとって 慈悲というのは

全ての人が救われて
初めて慈悲になるのであって

一部の人だけが救われて
たくさんの人が置き去りになるような

そういう教えは それは慈悲とはいえない
という思いがあったんですね。

ですから 彼は
その人たちが仏になることもできる

そういう道を
自分は提示したいと思って

その結果が 念仏をするという一番簡単な
方法として 実を結ぶわけですけど。

だから 法然が一番大事にした人は
「室津の遊女」という例があるように

そういう遊女という生き方でしか
生きていくことができない

そういう人とか
そして その大泥棒ですね。

まともな暮らしでは
生きていけないような人たち。

そういう人たちが 念仏してくれることを
一番喜んだんですね。

全ての人が救われないことには

自分は 本当に救われるということには
ならないだろうと。

ですから 「因」と「縁」と「果」という

そういう網の中で
我々は暮らしているとしたら

そういう 大きな「因」「縁」「果」の網の
一つの結び目として

自分が生きているとしたら

例えば
その網が 海の中に沈んでるとしたら

一つの目だけが 海から浮かんで 乾く
というようなことはあるかもしれないと。

しかし それは次の大波が来たら
すぐ それは沈んでしまうと。

つまり網全体が やはり救われるという
そういう道が確保されないかぎり

自分が救われるということは
ないだろうと。

だから 法然さんは
己の救いを求めるよりは

その網全体が
どうしたら救われるのかという

そういう論理というか 道筋を探すために
すごい苦労をしたんだと思いますね。

「歎異抄」の第十条。

そこには 念仏とは どういうものか

親鸞が 法然から聞き

更に 唯円が親鸞から伝えられた言葉が
記されています。

「『念仏においては
はからいを捨てることが

道理に かなっているのです。

そのわけは 念仏は
私たちが量ることもできず

説明もできず 思いめぐらすことも
できないものだからです』と

法然上人は おっしゃいました」。

その 「無義をもて義とす」という時に

「はからいを捨てる」という
お話があったんですけども

その「本願念仏」について
考えていくということについて

阿満先生 どういう…。

「無義をもて義とす」と。

「義」というのは
この 義理の「義」ですね。

この 「無義」である。

「義」という漢字は
日本語でいえば 「はからい」と。

人間が いろいろ はからう
ということでしょう。

何の「はからい」かというと
仏になるための

仏になるための「はからい」です。

この仏教の教えを聞いて
私が いろいろ工夫する

お教えのとおり 修行をすると
そういうことは はからいですね。

しかし 念仏においては
はからいを捨ててですね

はからいを捨てることが
その念仏の道理に かなっているんだと

こういう意味合いですね。

念仏というのは 阿弥陀仏が工夫して
人間に与えたものであると。

人間が工夫した行ではないということが
そこで 一番大事なことなんですね。

従って 念仏は 人間が あれこれ考えずに
ただ称えればいいだけのことである。

ただ念仏すれば よろしいというのが
法然の教えなんですね。

人間の努力を…。
ええ。

仏になるための努力ですね
それを否定しているんです。

そういう 人間が努力して
仏になることは できないということを

教えてるわけですね。

ややもしたら やはり 自分が努力をすれば
真理は手に入るもんだと。

もし 真理が手に入らないとすれば
自分の努力が足りないんだと

こういうふうに思いがちです。

しかし それは法然の仏教では

人間は 努力をして 真理に近づくことは
できないという前提に立ってるわけです。

そういう人間が
もし 真理に近づく道があるとすれば

それは 阿弥陀仏の本願というものに
乗じるしかないと。

だから この「無義をもて義とす」
という言葉は そういう意味では

あの法然の仏教の本質を伝えていると
言っていいと思うんです。

大事なことは 法然上人の仏教は

人間にですね
人間変革を迫らないということですよ。

つまり 「あなた 変わらなきゃ駄目よ」
ということは ひと言も言わないですよ。

変われないということを前提にしてる
仏教なんですね。

ところが 僕たちは ややもすると

宗教というのは
何か難しい修行なり 努力をして

自分が 少しでも よい人間になる
ということを期待するわけですね。

それが宗教だというふうに
思い込んでる節がある。

ですから 念仏をしてもですね

必ず どこか自分が変わるはずだと
いうふうな思い込みがあるんでしょうね。

でも そういうことは 法然上人の
仏教においては全く意味がないんですね。

我々は 変わりようのない存在だと。

その完全な智慧を目指しながら

完全な智慧というものが
身につけることはできない

そういう悲しい存在だというのが
法然さんの基本的な立場ですね。

そうしますと あなた自身は
自分の力では変わることができない

あなた自身の努力では なかなか
それは突破できないんだという

人間というのは こういうものなんだ
ということの否定といいますか

まあ 否定とまで言うと
あれですけれども

そういった 何か厳しさみたいなものを
感じるんですが そこは いかがでしょう。

それは あの 仏になるという
目標のための話であってね

「因」と「縁」と「果」の全ての流れを知る
智慧が身についていると

そういう存在になるということのうえで
私は無力なんだと。

そういう意味では 非常に厳しいですよ。

何か 科学的な真理を発見するために

人間の努力は無駄だと
言ってるわけじゃないんですね。

だから 我々は世間的に
日常的な生活を営むために

他力的であるなんていうことは
ありえないですね。

それは 自力を尽くしていかざるをえない。

しかし
無力なままでは 我々は生き切れない。

その無力な人間のために 浄土仏教
というのは生まれてきたわけですね。

比叡山で厳しい修行を積んでもなお
従来の仏教に納得できず苦しんだ親鸞は

法然の説く念仏の教えに
深く心を打たれ

それを受け継ぎ
発展させてゆきました。

親鸞が 20年間暮らし
布教を続けた関東地方。

そこには 唯円はじめ
数多くの信者が生まれました。

しかし やがて
親鸞が 京都へ帰ったあと

誰にでもできる念仏の行に対して
疑問を持つ信徒も増え始め

中には 京都まで 親鸞を訪ねて
問いただす者も現れました。

その時の親鸞の答えを

唯円は 「歎異抄」第二条に
こう書き留めています。

「皆さま方は 常陸から
十余りの国境を越えて

身命を顧みずに 私を
訪ねてきてくださったのですが

そのお心は ひとえに
『往生極楽の道』を問い

また 聞くところに
おありなのでしょう。

しかしながら 親鸞が念仏の他に
往生に効果のある特別の方法や

また 一種の呪文や 難しい経典の
言葉を知っているのではないかと

皆さま方が
気にかけていらっしゃるとしましたら

それは大きな誤りと言わねばなりません」。

「もし そういう期待がおありならば

奈良や比叡山の大寺院には 立派な
学僧たちがいらっしゃることですから

その人々をお訪ねになり

『往生の要』を
よくよく お聞きになるのが

よろしいのではございませんか」。

「私 親鸞におきましては
『ひたすら念仏して

阿弥陀仏に助けられてゆくのがよい』
という

『よき人』 法然上人の教えを受けて

それを信じる他に
特別の理由はないのです」。

「念仏以外の修行を試みて
仏になることができるはずであったのに

わざわざ 念仏をしたがゆえに
地獄に堕ちたということならば

法然上人に だまされたという
後悔も生まれるでしょう。

しかし私は
念仏以外の いかなる修行にも

堪えることができない人間です。

とうてい 地獄を免れることは
できない人間なのです」。

これは研究者によると 親鸞88歳の時で。

親鸞は 90で亡くなるわけですけど 88歳で
これを記録した唯円は 39歳。

まあ
死を もう近くに控えた親鸞がですね

この 念仏するということに
絶対的な価値があると。

念仏。 念仏は何かの手段ではなくて

念仏をするということに
意味があるんだということを

自分の体験から 切々と語るというのが
この第二条の醍醐味なわけですね。

はるばる関東から
この 上京してきた門弟たちがですね

親鸞に詰め寄らんばかりに

「果たして こんな簡単な念仏だけで
往生できるんですか」と

「きっと 親鸞聖人は 何か
隠してらっしゃるんじゃないですか」と

こう 詰め寄るわけですね。

「ただ念仏するだけでは
あまりにも簡単すぎて

ちょっと おかしいんじゃないか」
という気持ちが

この質問者のバックにあるわけですね。

親鸞が面白いのは
そういうことが分かったうえでですね

何か隠してるんじゃないかということに
直接答えずにですね

「よき人」 法然上人に

自分は どういうことを教えられたのか
ということを話すんですね。

ただ念仏すれば
浄土に生まれることができるという

そういう簡単な教えを
自分が信じるに至ったのかという心を

まあ 熱く語るわけですね。

そして 「自分は もしも
その法然の教えを受けなかったら

いずれの行も 及び難き身であるから
もう地獄しかないんだ」と

こういうふうに語りかけて
その 関東から来た人たちが

それぞれに自分を振り返ってみてですね
何が大切かと。

その 念仏せよということの背景に

どういう せっぱ詰まった問題があるのか
ということに気がついてほしいと。

念仏をすることによって

自分が どういう存在なのかという
問いが出てくるわけですね。

結局 自分って こんな程度かとか
いうようなことも

まあ 見えてくるということがある。

それは 仏教というのは
「覚」の宗教だという言葉があります。

自覚の「覚」ですね。

「覚」というのは
普通の自分のありようを

もっと違う角度から
見ることができるという。

それが 「覚」ということでしょう。

だから その念仏は
やっぱり そういう

「覚」の働きをしている
ということだと思いますね。

もう それで十分なんです。

ところが 我々は欲が深くて

「それじゃ
こんな いけない問題のある自分が

この念仏によって 変わることが
できるんではないか」という

そういう
その思いに とらわれてしまうんですね。

でも 先ほど言ったように
私どもは変われないんですね。

世間ではですね 易しいことは
あまり価値がないと思うわけですね。

難しいことほど値打ちがあると
思っている。

ところが 阿弥陀仏の物語では
易しいことが 最高の価値を持っている。

確かに「南無阿弥陀仏」は たやすいですよ。
他の修行は 全部難しいです。

だから その念仏に対する不信を拭う
唯一の方法は

自分が どういう存在であるのかという
自己吟味ですね。

自分が どれだけの仏教の修行に
耐えられる存在なのかという

そういう自己吟味が もう 絶対必要だと。

ですから 自分は努力すれば
変わることができると思ってる人には

浄土仏教は 遠いものになるでしょう。

それは 何か 敗者の宗教みたいに
負けた 負け犬が言う宗教ではないかと。

でも 努力してみると

自分が いかに努力できない
存在であるかが見えてくるわけですね。

その見えてきた時に そういう
人間のための仏教というのがあって

それが阿弥陀仏の仏教だ
ということになるんだと思います。

親鸞は 生涯をかけて

「教行信証」という書の執筆と
推こうを重ねました。

そこからは 親鸞が
自らのありようを厳しく見つめ

問い続けた姿が浮かんできます。

「本願と出遭うことによって
はじめて わかった。

悲しいことに 私 愚禿親鸞は
愛欲の広い海に沈んだまま

世間がいう名声や利益に心を奪われて
歩むべき道を失っているのだ」。

「煩悩のままでも
念仏すれば 必ず浄土に生まれ

仏になることが
定まっているにもかかわらず

そのことを喜ばないのだ」。

「なんと恥ずかしいことであろうか。
なんと傷ましいことであろうか」。

これは あの親鸞がですね
自分の「本願念仏」に至るまでの

思想的遍歴っていいますか
そういうものに応じて

その生まれる浄土にも 少しずつ少しずつ
変化があるということを言ったあとで

自分の本質というのは
こういうものだとして

この 「愛欲の広海に沈没する」と。

「愛欲」や この「名利」というものの中で

まあ いわば泥まみれである方が うれしい
というふうな気持ちが どっかにあると。

ですから 悟りなんていうことを
言ってもですね

そういうものに近づくというような
気持ちも あんまり起こってこないと。

だから 実に恥ずかしい 傷むべしと。

阿弥陀仏の本願と出遭わなかったら
こういう表現はしてないと思いますね。

普通の修行者であれば
これほど 自分のありよう

自分の内面の この愚かさを
世間に明らかにするという

そういうことは しなかったと思いますね。

本願に裏付けられてるから
こういう言い方ができるので。

ですから 本願の裏付けのある人間は

自分の中の その醜い点というものに
恐れをなすこと

それを認めて なおかつ
それを超えて生きていくことができると。

そういう力を
示してるんじゃないでしょうかね。

ここで一つ 言葉として 「愚禿鸞」
という言葉が出てますね。 ええ。

この「愚禿」というのは
どのような意味でしょう。

これは やはり
この「愚禿」の「愚」というのは

これは 「本願念仏」の信者の
本質をついている言葉ですね。

自分は凡夫として
自己中心の世界に生きていて

その仏教の真理というものを
頭では分かっても

それを体得するということはできない。

そういう存在というものを 「愚か」と
こういうふうに表現しているわけですね。

そして 次の「禿」というのは

法然上人のお弟子になったということと

それから 流罪にあって
俗人にされてしまうわけですね。

出家者から 俗人にされてしまう。

そこで「禿」という こういう
中途半端な毛の生え具合ですね。

だから 在家でもなし
さりとて もはや出家でもないと。

そういう中途半端な在り方を 「禿」という
字で表しているんだと思いますね。

ですから 「愚禿」という姓名
姓自体が 彼の生涯を表していると。

自分の本質が 無明という愚かさから

一歩も出ることのできない存在だ
という意味の愚かさですね。

そういうものが この言葉の中に

「愚禿」という言葉の中に
示されているんだと思いますけど。

そうしますと
親鸞ほどの人が その 自分のことを

「恥ずかしい 傷ましい」って言ってる
ということに関しますと

これを受け取る弟子たちっていいますか
その周りの人間は

絶望的だなというふうに考える
というのがあると思うんですが

それ いかがでしょうか。

あの~ あるんでしょう。

あるんでしょうが
念仏を続けることによって

つまり 念仏をするたんびに そういう
心の在り方を考えるというふうな

自分の在り方に
疑いを持つようになるでしょうね。

つまり いつも清らかで
落ち着いた気持ちで

念仏をするなんてことは
ありえないということは分かる。

念仏することによって 自分の在り方が
こんなに自分というのは

頼りのないものかということが
分かってきますから。

そういうことがあってですね
法然上人は

「ただ ひたすら念仏せよ」としか
言われなかった。

それを親鸞は いろいろ
法然上人の教えは これだけ

仏教の本道そのものにあるんだ
ということを

仏教学の膨大な知識を動員して
いろいろ論証して 皆に教えると。

ですから ああいう「教行信証」という
極めて難しい本を

お書きになるということにも
なっていったわけですね。

「本願念仏」の教えを体系化し 論証した
親鸞の「教行信証」。

そこには 親鸞が 「念仏とは何か」

その核心について
つづった文章があります。

「阿弥陀仏は
『名』をもって人々と交わる。

だから その『名』を耳に聞き
あるいは 口に出して称えると

阿弥陀仏の尊い功徳が 私たちの
心の奥底にまとまって入って来る」。

「そして
久しく仏になる種となり

知られざる はるかな過去から
積み重ねてきた重罪が

すみやかに除かれ
悟りを得ることができる」。

この文章は 中国の12世紀の僧侶
元照という人が書き残した文章ですけど

親鸞は その文章を引用することで

恐らく その念仏の価値というものを
確信したんだと思いますね。

念仏するということは 仏道

つまり 仏教の教えの本道そのものである
ということを

元照という人は明らかにしていて
それに 私は接した時にですね

なぜ その阿弥陀仏の名前を呼ぶという
こういう単純極まりない方法がですね

我々を その真理の世界に導くと
こういうふうに言うことができるのか

それが
まあ はっきりしたと思うんですね。

それは
どういうことを言ってるかというと

その阿弥陀仏という仏は 名前をもって
自分の名前をもって 人と交わる

そういう仏であると。

声に出して称える
そうすると 阿弥陀仏の心が

全部 私の心の奥底に届いてですね

そして それが いわば種になって
その名前を呼んでいる人に働く。

その働きは 称名する人を
仏たらしめる道を歩ませてくれると。

そこで その阿弥陀仏というのは

どこに存在してるのかということは
気になると思うんですね。

どこか 宇治の平等院でも存在…

あそこで
阿弥陀さんが いらっしゃいますから

ああいう仏像の形で存在してるのかと。

どこに行けば会えるのか これ 皆
どこかで疑問に思ってるでしょう。

しかし 阿弥陀仏の場合はですね
非常に はっきりしてるんです。

阿弥陀仏がですね どこか
西方極楽浄土にいらっしゃるというのは

それは物語の中の話であって
実は 阿弥陀仏という仏はですね

「南無阿弥陀仏」という
名前になってるんですね。

「名号」と言いますけれども
「南無阿弥陀仏」という名前になっている。

ですから その人が 「南無阿弥陀仏」と
称える時にだけ その人に存在すると。

もしも その人が
「南無阿弥陀仏」と称えずにですね

阿弥陀仏は どこにいるのかと言っても
それは答えがないんですね。

阿弥陀仏というのは
その名前を称える人にだけ

あるいは 称えた時にだけ
その人に存在すると。

これが 阿弥陀仏の正体なんですね。

ですから 阿弥陀仏は
どこかに存在してるんではなくて

働きですね。
あえて言えば 働きである。

私が「名号」を 「南無阿弥陀仏」という名を
称える時に 私の中で働く。

その働きは 私を真実の存在たらしめる
道に導くためであると。

その阿弥陀仏というのが
どこかに存在したり

仏像ではなくて
その称えた時に その働きとして

その人の中に働くんだっていうことを
おっしゃったと思うんですけども

つまり その 阿弥陀仏という
何か対象物があって

そのものを こう信じたり

そのことに 願をかけるということでは
ないということなんですよね。

向こうの方が入ってくる もう
私の中に入ってきてくれるんですね。

だから 阿弥陀仏の名を称える
ということは

阿弥陀仏の価値観と私とが
一体になってるわけですね。

だから 祈る必要はないわけです。

もう全部 向こう側が用意して
私の中に入ってくると。

ですから ただ その名前を称えるだけで
よろしいということになるんでしょうね。

つまり
もし 自分の外に阿弥陀仏がいたら

「阿弥陀さん
私の方に 目を向けて下さいね」と。

「こんなに私は困っていますから
助けて下さいね」という

そういうことに なっちゃうでしょう。

しかし 阿弥陀仏が 私の中に
念仏とともに入ってきてしまうんだから

今更 阿弥陀仏に
お願いする必要もなにも ないんですね。

だから いわゆる その「祈願」ということと
「名号を称える」ということとには

大きな やっぱり違いがありますね。

「教行信証」の中にある言葉でですね

阿弥陀仏の心が
我々の心の中に 「攬入」するという

難しい言葉を使ってるんですね。

「攬入」の「攬」というのは

まとまって 形 本質を変えずに
流れ入ってくるという意味なんですね。

つまり 阿弥陀仏が あなたの

あなたのところに伝わってくる時には
少し手加減をして

「あなたは こういう人だから
あなたに ふさわしいように

私の教えというものを伝えましょう」
というんではなくて

阿弥陀仏の全ての力をね
どんな人間に対しても

いささかも この 変えることなく
入ってくるというんですね。

ですから 私がですね
その 念仏をしたからといって

特別に 何か変わるんではなくて

大事なことは
そういう私の中に 阿弥陀仏の全部が

私の無意識の奥底に
沈んでくれているという

そういう
ある意味での自信といいますかね

そういうものが 何か 時には
落ち着きをもたらしてくれたりとか

コンプレックスのままでもいいんだとか
いうふうな自己肯定ですね。

その阿弥陀仏の名を称えるという

そういう行為を
繰り返していくことにおいて

一つの道筋ができているということが
大事なんだと。

その道筋があって 初めて

私たちは 生きてる間に
この道をたどっていけば

自分が 真実なる存在への道に
これが つながっているという

そういう思いが生まれてくる
ということが大事じゃないんでしょうか。

親鸞による念仏の教えが広がった
関東地方。

埼玉県蓮田市には 法然や親鸞が生きた
鎌倉時代に建てられた遺構が

一つ残されています。

法然の没後 およそ100年。

唯円と同じく 親鸞に学んだ真仏法師を
追悼して作られた 名号の碑です。

「本願念仏」の精髄というものを

力というものを
示すものはないかということで

ずっと いろいろ見てきたんですけど
その時に これに出遭ったんですね。

この板碑を中心にして
当時の念仏者たちが

それこそ 他力とは何かとかね
阿弥陀の誓願とは何かとか

そういう議論を
いろいろ してたような気がしますね。

一つ一つ こう ゴツゴツしてるでしょ。

一字一字 もう 実に
ものすごい力を込めて書いてるんですよ。

ここからね 感得するというか
感じるということが大事であって

ここから エネルギー もらうんだぞと。

ここに 「本願念仏」の精髄が
伝わってきてるんだから

ここから もらわないと。

それ以外から もらうと どうも その

理解が難しくなるぞという
思いがあるんです。

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