英雄たちの選択「不平等条約を改正せよ! 陸奥宗光の外交戦略」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択「不平等条約を改正せよ! 陸奥宗光の外交戦略」[字]

日本外交の礎を築いた明治時代の外務大臣・陸奥宗光。明治国家の悲願だった、欧米列強との不平等条約改正に奮闘。日本を世界に開いた“カミソリ大臣”の外交戦略とは?

詳細情報
番組内容
日本外交の礎を築いた明治時代の外務大臣・陸奥宗光。今回は陸奥が挑んだ「条約改正」に迫る。幕末に欧米列強との間で結んだ不平等条約の改正は、明治国家の悲願だった。陸奥は「対等条約」を掲げて、列強の中心イギリスとの交渉に臨む。国内の排外感情の高まりという難局を乗り越え、陸奥はいかにして条約改正の道を切り開いたのか。カミソリ大臣ともいわれた陸奥宗光。明治日本を世界に開いた、その外交の真実に迫る。
出演者
【ゲスト】薮中三十二,真山仁,佐々木雄一,【キャスター】磯田道史,杉浦友紀,【語り】松重豊

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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  19. メキシコ
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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

東京・千代田区 外務省。

その中庭に
歴代外務大臣の中で ただ一人

後進たちの仕事を見守っている
銅像がある。

日本外交の礎を築いた人物だ。

明治時代 日本には大きな課題があった。

幕末に 欧米列強と
結んだ

不平等条約を
改正し

文明国の一員として
認められること。

だが
歴代外相の交渉は

思うように
進展しなかった。

明治25年に外務大臣となった陸奥は

列強の中心だった
イギリスとの条約改正に挑んだ。

目指すは 不平等な条項を一気に解消する
対等条約の実現。

しかし その前には
幾多の困難が立ちはだかった。

政府内では 実現できそうもない
対等条約を主張する陸奥に

「誇大な表現は有害無益」との反発が
噴き出した。

更に当時 国内では
排外主義がまん延。

外国人への暴行事件が
多発していた。

激怒したイギリスは
交渉の中断をほのめかし始めた。

難局を乗り越えるため
陸奥は 議会で大演説を行い

国民に強く訴えた。

近年の排外主義は
維新以来の開国の国是に

反するものである。

政府は断固として これを排斥する。

イギリスに残る 当時の外交文書。

陸奥の奮闘は 条約改正交渉の流れを

大きく変えることになった。

陸奥が 外交の表と裏で
繰り広げた駆け引きに

論客たちが鋭く切り込む!

現代にも通ずる。

…みたいなことを 僕は思う。

カミソリ大臣ともいわれた陸奥宗光。

明治日本を世界に開いた
その外交の真実に迫る!

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか?

今回の主人公は 陸奥宗光です。

今 こちらに肖像が出ましたけれど

彫りが深くて ひげも立派ですね。

細面で 目力がありますよね。

陸奥の異名は…

肖像からしても
賢そうな 切れ者の印象ありますね。

でも 実は 僕は そうじゃないなと
思ってるとこもあるんですよ。

カミソリなんて ひと言じゃ
この人は語れない。

え~?
坂本龍馬のですね

薫陶を受けたというか
坂本龍馬の分身並みな人なんですよ。

よく 龍馬が生きてたらと
言われますけど

私に言わせれば 龍馬は
明治にも生きてたんですよ 何割か。

龍馬っていうのは 大体
商社をやり 海運をやり 政治をやりで

一人で できるわけがない。

ある一定の部分は
陸奥がやってたんです 実は。

そういう人が生き残った話を
今日はやりますから 見ないと損なんです。

今回注目する その陸奥なんですけれど
外務大臣として挑んだ

不平等条約の改正について
注目していきます。

明治時代っていうのは 列車にも
1等車 2等車 3等車なんてあるように

国にも 一等国 二等国なんて表現が
もう あからさまにされるわけですね。

もう 目に見える差別があるわけです。

一等国に アジアは
一か国も入ってないと。

だから 陸奥は 条約改正によって

なんとか 1等列車に
日本国民を乗せようという

そういう 人類史上初めての試みに
挑んだといってもいいと。

これ 非常に
我々の現代日本にも重要ですよね。

はい。 では まずは
陸奥宗光の波乱に満ちた前半生から

見ていくことにしましょう。

天保15年 陸奥宗光は

徳川御三家 紀州藩の
勘定奉行の子として生まれた。

学識豊かな父のもとでの
何不自由ない生活。

だが それは
9歳の時 突如終わりを告げた。

父が お家騒動に巻き込まれ
失脚したのである。

同じ頃 日本も
大きな転換期を迎えていた。

嘉永6年 黒船来航。

アメリカの圧力を前に
徳川幕府は開国へと かじを切り

欧米列強との間で 相次いで
不平等条約の締結を

余儀なくされた。

幕府の弱腰外交に 国論は沸騰。

天皇を尊び 外国人を排斥せよという

尊王攘夷運動のうねりが
日本中を席けんした。

そんな中 陸奥は
自らの才覚だけを頼りに

動乱の世を生きていくことを決意。

和歌山を離れ 志士活動に身を投じた。

そして 二十歳の頃
生涯にわたり 大きな影響を

受けることになる人物と出会う。

土佐脱藩浪士 坂本龍馬である。

弁舌が立ち 才気あふれる陸奥を
龍馬は 大いに気に入った。

一方の陸奥にとって
藩や身分から自由に振る舞う

龍馬の存在は 目指すべき目標となった。

慶応3年 陸奥は
龍馬が 土佐藩の肝入りで創設した

海援隊に参加する。

この年 陸奥は 龍馬に
一通の意見書を提出した。

題して「商方之愚案」。

集団が商取引を行うこと
つまり 商社である。

当時 翻訳されていた
西洋の経済書を参考に書き上げた

この意見書を 龍馬は大いに評価し
陸奥を 商事部門の責任者に抜てきした。

これは 海援隊が 薩摩藩の依頼で
オランダから調達したライフル銃。

陸奥は 長崎で
オランダ商人との交渉にあたり

1, 300丁もの調達に成功している。

陸奥は
龍馬の懐刀ともいうべき存在に成長し

共に未来を語らえる同志と
目されるようになった。

龍馬が 陸奥に宛てた書簡が残されている。

しかし この書簡を記した 僅か8日後

龍馬は 京で刺客に襲われ 暗殺された。

僅か4年にすぎなかったが

龍馬との交流は
陸奥を 次のステージへと導いた。

龍馬の死から1年後の慶応4年

薩摩や長州を中心とする

明治新政府が成立した。

陸奥は 新政府で…

海援隊で身につけた
商才や交渉力を武器に

治水や税制の近代化に腕を振るった。

このころ 陸奥が
親交を深めた人物がいる。

兵庫県知事を務めていた
長州出身の伊藤俊輔。

後の伊藤博文である。

年齢や任地が近い2人は
すっかり意気投合。

伊藤の家に泊まり
国家の将来について

夜通し
語り合うこともあった。

だが 伊藤と身近に接するうちに

陸奥は 藩閥の後ろ盾を持たない
自らの限界に直面する。

明治4年 伊藤は
岩倉使節団の一員に抜てきされ

欧米諸国を歴訪。

実力者 岩倉具視や大久保利通の
信頼を得て

着実に 政府中枢への道を
駆け上っていった。

一方 陸奥に与えられたのは
大蔵省の一役人の地位。

中央政府に職を得たものの

藩閥出身者より一段低い待遇に
不満をため込んでいった。

これは明治7年 陸奥が記した意見書。

藩閥出身者に
才能面では引けを取らない自分は

もっと重く用いられるべきだ。

強烈な自己主張を 政府にたたきつけ
陸奥は 大蔵省辞職に踏み切った。

将来への展望が開けず
焦りを募らせる中

陸奥は ある事件に関わってしまう。

明治10年 西南戦争。

西郷隆盛を戴く
薩摩の不平士族が決起した。

これに呼応し 反政府グループによる
クーデター計画が動き出した。

陸奥は当時 元老院に勤めていたが

知人から聞いたその計画を
政府に知らせず

かえって唆している。

積極的に反乱に加わる気はなかったが

万一 クーデターが成功した場合
乗り遅れないようにという思いもあった。

だが 西南戦争は
西郷の敗北によって終結。

クーデターは失敗に終わった。

陸奥も逮捕され 山形監獄に収監された。

時に35歳。

陸奥にとって 大きな挫折だった。

陸奥が 獄中で着た囚人服が残されている。

びっしりと書きつけられているのは
自ら作った漢詩だ。

しかし 与えられた獄中の時間を
陸奥は無駄にしなかった。

西洋の政治思想書や法律書 歴史書などを
大量に送ってもらい

一日12時間以上かけて読みふけった。

この先の日本で
いかなる役割を果たすべきか…。

獄中での思索の時は 4年半に及んだ。

陸奥の前半生を ご覧いただきました。

まず あの 龍馬との出会いについて
皆さんに伺いたいんですけれど

薮中さんは この龍馬との出会いは

どのようなものを
もたらしたと思いますか?

あの 陸奥にとって
非常にラッキーだったと
思いますね。

今の時代に もし
陸奥が生きてたら

これは もう
全然 相手にされない
世の中からですね。

あんなに才気走って
理屈っぽいと。

だから 2人の性格って違うんですよね。

何か 龍馬って
人を魅了するじゃないですか。

陸奥は
そこは あんまり そういう感じはしない。

ただ あの 非常に共通してるとこは
あったと思うんです。

20代の初めですよね 陸奥だって。

それが 目は 世界を見てると
そういうこと。

割と自由な気持ちで世界を見てると。

そういうところを
スパッと見抜いたんでしょうね 龍馬は。

陸奥の何て言うんですかね

まあ ちょっと個性的な
独特の力もあったのかなと。

彼は やっぱり
あの 非常に

独特の吸収力を
持った人だなというのは

今 映像見てても
思うんですけど

坂本龍馬との やっぱり
その 出会いっていうのは

彼の中に…

つまり 日本にいて ず~っと
どちらかというと攘夷だった時代に

日本の国内と海外 敵だったという中で

日本を地球儀の中に置いて
日本を見てみようみたいなことを

まあ 彼の吸収力の中で 養ってきたと。

この若い時代には
非常に大きかったんだと思いますね。

では もう一人の明治政府に入って
親交を深めたのが

伊藤博文ということなんですけど…。

伊藤と陸奥は こう
近代国家建設とか 中央集権化みたいな

目指す方向性は
合致してたんですよね。

ただ2人は
立場が違うんですよね。

陸奥は 寄って立つ基盤がないので…

っていう意見書を出すんですけれども

それ裏返すと…

そういうふうに国政の形を変えて
自分が力を持ちたい 発揮したい。

こういう意識が とても強いわけですよね。

大体 和歌山藩出身で
実家が 800石も禄があるわけですよ。

ほいで お母さんと一緒に
家が潰れて 流浪してるわけですよ。

それで
ようやく認められる世の中が来たと。

彼は 口癖が才力って言葉を
よく使うけど

まあ あの 才能の「才」の「力」。

自分は 特別な知識と能力を
持ってるから

あるいは こういう人が
政柄を執る 政治のつかを

操縦する時代が来たんだっていう
気持ちになってるわけですよ。

ところが 蓋を開けてみるとですね

みんなの日本なのに
何で あの連中だけが優遇されてるんだと。

伊藤より 俺 上だよなと思うとですね

やっぱり むかつくんですよね。

陸奥にとっては
実家の挫折はあったけど

本人の挫折は まだしてないので

そこで 伊藤への嫉妬心みたいなものが
めらめらしてたと思いますよ。

そのめらめら嫉妬心がなってるところで

陸奥は 投獄生活に
入っていくわけですけれど

薮中さんは この生活が
どのような影響受けたと…。

僕は すごいなと思うのは
本の読書量ですけども

3つのことをやったと思うんですね。

一つは 政治哲学のようなものを
勉強したと。

スチュアート・ミルとか
モンテスキューの本を読んでいる。

政治体制 憲法 議会
どうやってやっていくんだという

そういう体制のことが 2つ目ですよね。

3つ目は それじゃ
具体的な法律 民法とか刑法とか

これも勉強してるんですよね。

この時の4年半というのは
非常に大きな

まあ 結果的には 彼の財産になって

かつ 日本が進む上でも 非常に大きな
役割果たしたのかなと思いますですね。

真山さん どう考えますか?

やっぱり 何より 4年半の間に
陸奥が発想を変えた。

ろう屋にいると
考えることしかできないんで

それで まあ 自分の中で
大物になるためには

何をしなきゃいけないか。
つまり その カミソリだって。

つまり たたく たたく たたいて

やっぱり その ちょっとや そっとじゃ
折れなくなることっていうことを

目指すことで やっぱり 再起を期す。

そういうところを 自分の中で
こう 熟成していけたっていうのは

彼の本物感っていうのを
すごい感じますね。

なるほど。 では その獄中生活を終え

いよいよ陸奥は
外交の表舞台に立つことになります。

明治16年 陸奥は 5年の刑期を
半年短縮され 出獄した。

背景には 参議として 政府の中枢にいた
旧友 伊藤の働きかけがあった。

伊藤は 陸奥の才能を認め
共に政府で働いてほしいと考えていた。

伊藤が陸奥に期待した役割は

持ち前の交渉力を
国益に生かせる外交だった。

明治21年 陸奥は 特命全権公使として
アメリカに派遣された。

この時 生涯のテーマとなる
条約改正問題に直面した。

当時 日本が 諸外国と結んでいたのが
いわゆる 不平等条約だ。

そこには 3つの問題点があった。

1つ目は…

日本で…

領事は 法律の専門家ではないため
不当に…

2つ目は 関税自主権がないことである。

外国の主張する
低い税率をのまされていた。

安い輸入品が 大量に入ってくることは

日本の近代産業育成に
大きな障害となっていた。

更に…

一方的な最恵国待遇が定められていた。

近代国家として自立するためには

不平等条約は
何としても改正しなければならない。

歴代の外務大臣は
条約改正に力を注いできた。

例えば 井上 馨外相時代の鹿鳴館外交。

洋館を建設し 舞踏会を開くことで

日本が文明国の一員であると
必死にアピールした。

だが 欧米列強は
議会や法律が整っていない日本は

まだ その段階にないと判断。

日本は 幕末以来の不平等条約を
改正できないでいた。

ワシントンへの着任早々 陸奥は

条約改正への足掛かりとなる交渉に
取り組むことになる。

メキシコ公使 ロメロが接触してきたのだ。

条約締結に積極的なロメロに対し
陸奥は こう告げた。

陸奥は 交渉にあたって
領事裁判権のない対等条約を前提とした。

引き換えに提示したのが
内地開放である。

日本国内を自由に通行し
商売ができる内地開放は

諸外国に
大きなメリットがある。

この条件でメキシコと
条約を結ぶことで

欧米列強が追随してくることを
ねらっていた。

と訴えるロメロに対し 陸奥は…

…と巧みに説得した。

明治21年 陸奥は メキシコと
日墨修好通商条約を締結した。

メキシコ人は 日本で
居留地外に住むことが許されるが

そこでは
日本の法律に服することが求められる。

領事裁判権がなく
一方的な最恵国待遇もない。

関税についても メキシコと対等な内容で
税率が設定された。

初の対等条約の締結という
輝かしい成功を手に

陸奥は 次なるステージへと
踏み出していった。

明治25年8月 伊藤博文を首班とする
第二次伊藤内閣が発足。

陸奥は 外務大臣に抜てきされた。

就任早々 陸奥は
ヨーロッパに派遣していた外交官から

ある報告を受けた。

「ポルトガル政府は
新たな条約について 談判を開くため

日本公使が来訪するのを
待っているそうです」。

もし ポルトガルに今までの条約を破棄し
新たな条約を結ぶ意思があるならば

メキシコ同様
対等な条約にできるかもしれない。

ポルトガルは ヨーロッパの一員
これは 大きな一歩となる。

陸奥は 早速…

ところが…。

現地からもたらされたのは

「ポルトガルに 新条約締結の
意思はない」という

全く正反対の報告だった。

一体 何があったのか?

在日イギリス公使が
本国に送った報告書からは

交渉の背後で 列強が さまざまな思惑で
動いていたことが分かる。

…と示唆しています。

その後 イタリアだけでなく
フランスも介入したことで

ポルトガルとの交渉は 暗礁に乗り上げた。

陸奥は 改めて 条約改正の難しさを
知ることとなった。

陸奥は
いよいよ 外交の世界にデビューし

メキシコとの間で 初の対等な条約を
結ぶことができましたよね。

メキシコ いいところへ目つけましたね。
あっ そうですか。

いきなり列強相手じゃ 無理ですよね。

外交っていうのは 何をっていうより
どこから入るかっていうのが大事ですね。

商売と外交って似たところがあって

松下幸之助さんの言葉だと思うんだけど…

ということでってなことを
よく松下さんは おっしゃってたけど

似てるんですね。 私ね あの…

何かっていうと
よい先例を まず ここでつくりました。

ほいでね あの いいところ
入りやすいところが入って…

これね よくね 外交で有効な手だと
僕は見てます。 歴史見ててね。

まあ 私は 地球儀の目を持っていたって
陸奥のことをいってますけど

やっぱり 彼が その メキシコが
どういう国かっていうのをですね…

まあ そういう意味では 列強じゃない。

…とかも できてしまう。

駄目なら 別に 結ばなくていい。

もう一つあるのは 逆にここで

本当のターゲットである列強に
何か 次の手を もし…

そういう意味では この…
彼が やっぱり すごいのは

この練習台を 徹底的に利用してるな
っていう感じは すごいしますね。

このメキシコとの条約締結というのは

もともと まあ メキシコ側の担当者
ロメロの方が 積極的であったとか

あと まあ 日本本国 外務本省が
よく考えていたんですね。

そうすると…

で それに対して いや…

…というふうに日本としては主張しよう。

まあ こういう
なかなか巧みなことを考えてたんですね。

それは 陸奥が考えたわけではなくて
外務本省 あるいは

大隈外務大臣が考えていたことなので

結果的にはですね 陸奥一人の力で
成し遂げたことではないんですけれども

しかし 功績は
陸奥のもとに与えられるわけですよね。

初の対等条約を結んだ担当者である。
まあ それは紛れもない事実ですから

後々…

そんな実績を上げて 伊藤内閣では
外務大臣を陸奥に任せるわけですけれど

就任早々に直面した
ポルトガルとの条約交渉には

列強の妨害もあったりして
失敗してしまうんですよね。

これはね さっきの
メキシコと 大きな違いがあるのは

ヨーロッパの一員
なんですよね

ポルトガルっていうのは。
小なりといえどもっていったって

昔はね 世界に向かって羽ばたいていった
ポルトガルですし

そうすると ヨーロッパの国々がみんな
ポルトガルの動きも見てるわけですね。

まあ 初めの情報が
甘かったんでしょうけれども

やれるんじゃないですかと言われて

さあ やろうと思ったら
とんでもなかったと。

そこには やっぱり
ヨーロッパのストップがかかった。

結局は 本丸はイギリスだなと
陸奥は改めて

そこで思い知らされるんだろうと
思いますですね。

明治26年
陸奥のもとに予期せぬ知らせが入った。

ポルトガルと日本の交渉を受けて

イギリスが条約改正に
前向きな姿勢を見せ始めたのである。

実は イギリスとの交渉は
これまでも徐々に進展を見せていた。

明治22年に 大日本帝国憲法が発布され

日本の司法制度や法律が
整備され始めたことは

イギリスでも
条約改正の機運を高めていた。

憲法発布の翌年 当時の青木外務大臣は

関税には
手をつけず…

…するという
方針で

イギリスからも
よい感触を
得ていた。

ところが 正式な交渉に臨む前

来日していたロシア皇太子が

警備の警官に襲われるという
大津事件が発生。

青木が責任を取って外相を辞任したことで
交渉は打ち切りとなっていた。

そのイギリスが
再び条約改正に前向きになった。

どのような戦術で交渉に臨むべきか?

陸奥の心の内に分け入ってみよう。

ポルトガルとの交渉は
不調に終わったが

イギリスが
条約改正に前向きなのは朗報だ。

ここは一気に
イギリスと新たな条約を結ばねばならぬ。

既に 青木さんの時に

領事裁判権の撤廃については
折り合いはついている。

関税の面では 依然不平等ではあるが

とりあえず できることから改正する
段階的改正を方針として交渉に臨むのが

外交の常道というものか…。

これまでの経緯を踏まえての交渉だから

説得は たやすいだろう。

イギリスとの条約改正を突破口にすれば

ほかの列強との交渉も一気に進むはずだ!

だが… 対外的には それでよいとして

国内世論の方は どうだろう。

外国に対してあくまで対等を求める声が
近年 高まっているではないか。

大きなきっかけとなったのは

明治19年に起きた
ノルマントン号事件だった。

難破したイギリス船から
イギリス船員だけが避難し

日本人乗客が全員水死した この事件。

領事裁判で
船長に無罪判決が下されたことで

不平等条約撤廃の世論が高まった。

明治22年には 条約改正問題で

外国に大幅な譲歩をしようとした
大隈外相への爆弾テロが発生。

交渉自体が中止に追い込まれていた。

やはり ここは
最初から対等条約締結を目指すと

ぶち上げるしかないのではないか?

列強と対等の条約だと主張すれば
世論も納得するはずだ。

国内の意思を固めて 政府一丸となって
外交に当たることもできる。

だが… 対等というからには
関税の不平等にも目を向ける必要がある。

イギリスが いきなり
日本の関税自主権まで認めた

対等条約を受け入れてくれるなど
ありえないだろう。

それに ポルトガルとの交渉の時のように
列強が口を出すおそれもある。

だが 国内感情を考えると
対等とでも言わなければ

交渉を進めていくことはままならぬ。

う~む…。

陸奥に選択の時が迫っていた。

イギリスとの条約改正交渉を前に
陸奥は選択に直面します。

これまでの路線を引き継いで
段階的改正を目指すのか。

それとも
対等条約を掲げて 交渉に臨むのか。

まず 薮中さんは どちらを選択しますか?

僕は もう断然 2番のね 対等条約ですね。

これはね いくつか
いろんなことがあるんですけども

イギリスとか あるいは
欧米といってもいいと思うんですけどね。

相手にした時には
僕は 基本的には原理原則っていうのを

ぶつける必要があると思うんです。
原理原則。

で もともとの対等条約でなかったのは
こっちが その準備ができてない。

こっちが そういう態勢がないでしょう
というのが 向こうの理屈なんですよ。

うちは もう十分に
そういう準備ができたんだと。

だから どうして これができないんだ
ということで言うとですね

原理原則をぶつけて 当然のことながら
対等の条約にしなきゃいけないと。

それは両方ともだということで…

ああ。

だから もう絶対に
対等条約で進むべきだと思いますですね。

まあ 私は
1の段階的改正ですね。

まあ 青木の取り組みを適宜修正して
ということを考えますかね。

あの 明治日本の外交担当者たちは

こう 外交というのは
相手がある世界であって…

せっかく 青木の時に イギリスが

まあ 領事裁判の問題に関しては
日本の側に歩み寄ってきて

折り合えそうな兆候が出てきたと。

じゃあ そこに必要な修正は加えて
まあ 踏襲していこうというのが

常識的な発想だったかなというふうに
考えています。

う~ん。 では 真山さんは
どちらを選択されますか?

はい。 私は
2番の対等条約なんですが

ハッタリとして。
ハッタリ。 ハッタリですか?

ただ 多くの人が勘違いしてるのは

ハッタリって
相手にするもんだと思ってるんですけど

一番重要なのは 味方の方です。
ほう。

こういうシビアな ハードな交渉の時は

我々は一丸になってますっていうことを
見せない限り 必ず切り崩してくるんで。

「国内が統一されてないんじゃないか」
…って言われるわけですよね。

我々は別に 多くを望まないんですけど

でも これによって我々は一丸となって

交渉に前向きで ものすごく一生懸命
成立を望んでるんですという

そういう説得もできるようになるんで

ここは 宣言するなら
対等条約の方かなと思います。

あの ハッタリ論というのも
出てきましたけど

磯田さんは
じゃあ どちらを選択しますか?

う~ん… 悩む。 これ どっちもなあ…。

悩む! 難しいとこだな。
いつも割と即答なのに。

うん。 1 段階的改正にします。

あ~ 結構 意外でした。 うん。
はい。

やっぱり 入りやすきから入りましょうか。

はい。 あの~ 多分ね これ国内ではね

これ 内容がばれると 土下座外交とか
言われてね 大変なことを言って もう

一気に全部要求すりゃあいいじゃねえか
とか言われる。

それで まあ 秘密にやろうと思ったって
イギリスだからね。

外交担当者か
新聞から漏らされる可能性もあるしね。

やっぱり その危険は怖いんですよね。

それで… ただ 国内の論理で
外交をやるなっていうのがあるので

まずは 段階的改正で
取れるところから取ってっていう…。

本当は2をやりたいんだけど 1です。
おっ 分かりました。

さあ 陸奥の選択は
どちらだったんでしょうか?

明治26年7月5日。

陸奥は 内閣に
自らの条約改正草案を提出した。

そこには 両国が互いに
同一の基礎をもって成り立つ

対等条約であると記されていた。

陸奥の選択は
対等条約を掲げることだった。

だが この大胆な路線変更は
政府内で大きな論議を呼んだ。

文部大臣の井上 毅は
3日後の閣議で陸奥にかみついた。

陸奥も即座に反論する。

そこにおいては 陸奥は…

…というふうな形にして

むしろ 段階的な あるいは
過渡的な不十分な案というのはよくない。

対等の方が望ましいんだというふうに
むしろ…

こうして 陸奥は政府内を説得した上で

交渉の実務に 元外相の青木を指名し
イギリスでの事前交渉に当たらせた。

ところが 思わぬ壁が立ちはだかった。

国内では 当時 外国人に対して

暴行したり 侮辱を加えたりする
事件が多発していた。

内地開放によって 外国人が
自由に往来することへの国民の恐怖は

陸奥の予想を はるかに超えていた。

これは フランス人画家 ビゴーが描いた

「条約改正」という風刺画。

明治の日本人の 外国人に対する意識を
研究するイ・ヨンスクさんによれば

排外意識は
当時 日本全体を覆っていたという。

非常に 険しい顔をしてる男たちが
西洋人らしき人を 殴りかかる。

ほとんど裸に近い

かなり下層階級の人であることが
分かるんですね。

後ろの「JAPANESE CIRCUS」
っていうところを見ますと…

彼らは 全部 立派な服を着ていたり

上層階級の人たちですよね。

やっぱり ちょっと…

こうした国民感情に乗じて 議会では

外国への強硬政策を唱える対外硬派が
勢力を拡大。

条約改正について
独自の強硬案を提出するに及んだ。

日本の排外感情の高まりに
イギリスは強く反発

交渉の中断を表明し始めた。

このままでは 悲願の条約改正が
頓挫してしまいかねない…。

陸奥は 議会や国民に強く訴えかけた。

自ら演壇に立ち 対外硬派を批判する
大演説を行ったのである。

外交政策というのは 多くの場合
国民の気性を反映するものであります。

幕府は鎖国攘夷の気風に影響されて

外国人との接触を制限する
方針をとりました。

近年の対外硬派の動きは
維新以来 我が国が目指す

開国の国是に反するもので
政府には断固として

これを排斥する責任があるのです。

これに応じ 首相の伊藤も
即座に議会解散に踏み切った。

日本政府として断固たる決意を示した

陸奥と伊藤の姿勢は
イギリスに大きな影響を与えた。

当時の在日イギリス公使館員の報告書は

日本への対応について
次のように主張している。

このような強力な政府に対し…

イギリスは
日本との正式な交渉のテーブルについた。

交渉が始まると
陸奥は 条件面での交渉は

ほぼ 青木に任せ
その忠告に積極的に従った。

そして…。

明治27年7月16日 イギリスとの間で
日英通商航海条約が調印された。

この条約で
領事裁判権の撤廃は明記されたが

関税自主権の回復は持ち越された。

対等を掲げたものの
結果的には段階的改正にとどまった。

しかし 陸奥の結んだ新条約は
条約改正の歴史に大きな風穴を開けた。

その後 ほかの欧米諸国とも
改正条約を調印。

そして…

日本は
条約の上で列強と対等の地位を獲得した。

幕末の不平等条約から
実に半世紀の道のりだった。

晩年の陸奥が過ごした別邸が
残されている。

国民や議会の強硬意見に
外務大臣として対峙し続けた陸奥。

その激務は
もともと肺に持病のあった体を

確実に むしばんでいた。

晩年 陸奥は療養生活を送るかたわら

外交の在り方を国民に啓蒙すべく
最後の力を振り絞った。

死の1年前
陸奥は1冊の雑誌を創刊させた。

題して「世界之日本」。

その第1号の巻頭論説で
陸奥は次のように記した。

国民が外交に関する知識を持つことこそ
重要である…。

この言葉に 陸奥は
どのような思いを込めたのだろうか。

はい 陸奥の選択は あくまで
対等条約でいくというものでした。

薮中さんは
どう思いますか? それについては。

いや だから 見事だと思います。
対等条約でいこうと

ド~ンと ぶつかっていくと。
その時っていうのは…

それは やっぱり迫力とプレゼン力ですね
現代にも通ずる。

実際の交渉というのは
青木に かなり任せるんですよね。

それも やっぱり 政治家として
あんまり細かいことっていうのは

変な話ですけれどもね そこは
実務的に よく知っている青木に任せると。

自分はむしろ 堂々と国内に
いろんな格好で自分の決意を

見せるというのに 非常に
意を配ったんだろうと思いますですね。

陸奥は 条約改正事業の全体像を
一回 眺めてみて

この問題の一番のネックは 何なのか
というところを考えたわけですね。

陸奥が分析した結果
これは国内世論であると。

対外的な問題より 対内的な方が
問題であると考えたわけですね。

今まで 何で
国内で もめてきたかというと

交渉途中の案とかですね あるいは その
政府内で検討しているものが流れる

情報が流れてしまうわけですよね。

そうすると ここは おかしいじゃないか
みたいな感じで批判される。

そこで 陸奥は何をしたかというと
草案を政府内で審議する時には

当然 見せないと
いけないわけですけれども…

それを持って帰らせない。 で それも
勝手に そういうことはできないので

例えば 枢密院議長の山縣有朋であるとか
そういった政府の重鎮たちと

うまく調整をして 政府内を固めたという
ところは あったかなと思いますね。

あの まさに真山さんが選択の時に
おっしゃっていた ハッタリ論。

あのまあ でも
外国人に対する悪い感情が

ずっと社会にまん延しているのって
コンプレックスなんですよね。

結局 俺たちは 二等国じゃないかと。
その時に…

結果的に答えは おんなじだったんです。

どっちでやっても 恐らく
答えは一緒だったと思うんですけど

けど やっぱり
その挑んだことこそが重要で

ハッタリでもいいから
対等をやるっていう宣言したことは

まあ この結果を
生んだんだと思いますけどね。

初めからね…

これは日米のね 貿易摩擦でも
しょっちゅうあったんです。

もうね これだけで許してくださいって
初めからいくとね

向こうは どんどん どんどん
つけあがっていく。

なぜ駄目なんだって 最初に言ってね。

原理原則があれば
我々も もう自由貿易でやってるんだと

一回 言ってみて その上で こう
次の段階に行った時には

もう少しお互いの立場というのは それは
現実の外交でもよくあることですよね。

僕がアメリカと交渉しててね
いくらガンガンいったところで

むしろ それは仲がね 良くなるんですよ。

お前 そういうことで言ってるのかと
もちろん理屈があればね。

なぜ こう考えるんだということで
ガンガン言い合うと

相手も そうかっていうふうになると。

そこにはね
人間と人間との けんかじゃないんです。

外交交渉に 私が行く場は
多分ないと思うんですけれど

家庭内交渉で そのすべは
使わせていただこうと思いました 今。

あの 外交ってさあ YES NOって
まず バ~ンと言うんだけど

そのあとに YES NOと言ったら
BUT しかし

だから その次に来る しかしが
外交の中身なんですよ 本当は。

YES BUT。 うん。
確かにな~。

陸奥自身も言ってるよ。
NOって いきなり言ってから始める

交渉っていうのが あんまり
日本人にはないと息子の廣吉に言ってる。

あの ここがね やっぱ あの~
いわゆる西洋だとか ヨーロッパの

あの 論理外交っていうのかな

それと ちょっと違う感じがあるってのは
自覚しといた方がいいかもしれないよね。

いや 面白いですね。

…という陸奥の言葉。

これまでの経緯を分かった上で聞くと

本当に この国民は どのくらい
この外交について知るべきなのか

ということを突きつけられるなという
感じがするんですが。

まあ そもそも まず陸奥は 今で言う
民意が怖いと思ってたと思うんですね。

最初のうちは そうやって
その国民感情をあおるって

すごい追い風になるんですけど
すぐ怪物になっちゃう。

これ 今のSNSなんかでも すごく
思うのは 強烈な意見が多いですよね。

でも 本当は…

だから やっぱり
彼が言いたかったことは…

つまり 学んだら 我々が
置かれていることが分かるだろうと

お前たちが怒るのは筋違いだと
意見を言う前に まず学びなさいと。

それが その まあ
いわゆる両方のウィンウィンになると。

だから それから言うと 彼は…

薮中さんは外交官として 改めて この言葉
どのように感じましたか?

喝采を浴びる外交って
あるじゃないですか。

それで あいつは よくやったとかね。
これが 一番危ないんですね。

陸奥のあとに
小村という外務大臣が出て

そのあとに少し だいぶあとですけれども
松岡洋右っていうのが出ますですね。

小村の場合には日露戦争のあとに

ポーツマス条約というのの講和条約を
結びに行くんですけども

すごくいい仕事したんです。
もう あの中ではですね

本当によくやったというぐらいの成果を
持つんですけど

一つ…

そうするとですね…

何だ お前は? という話ですよね。

ところが 松岡っていう人は

あの~ まさに満州事変のあとの
国際連盟での

対日非難決議っていうのを
やめさせようと思って行くんですね。

でも 結果 失敗する。

で そこで 国際連盟さらば
という演説をするんですね。

英雄ですよね。

だから 世論っていうのが
難しいなあっていうのがね ある。

そういう中では この陸奥っていうのは
よく考えてですね

どうやって世論っていうのを

教育するっていう気持ちもあったと
思いますけれども

世論のことを思いながら
国民の声を聞きながら

こういうふうに打ち出すんだとかね
考えていた。

それを最後に言ってるんだろうと
思いますですね。

なるほど。 今日は陸奥について
見てきましたけれど

いろんな外交のこと
そして 国民の感情のこと

いろんなことを考えさせられましたが
磯田さんは いかがですか?

これが一番大事なところで

この国民の外交リテラシーっちゅうことに
なると思うんですけど

多くの外交交渉が行われる場合
強い国民の外交感情っていうのがある。

それで これはもう
特に明治日本なんかは すさまじいもの。

で この外交感情を
どう使うかっていう問題ですよね。

これ大事なのは 国民の声っていうのは
悪いことばかりでもない。

ただ…

やっぱり 外交っていうのは
本当に難しいもんで

外交は冷静と情熱の間で踊る
みたいなことを 僕は思う。

理性と感情の間で やっぱり出来上がって
論理だけでも出来てないですよね。

で 主観的な感情にのまれず
それを追い風に 味方につけながら

論理的に こう
理想としたものへ近づけていくっていう。

非常に あの 難しい技なんですよね。

やる人によっても変わる
アートなんですよ。

勉強させられました 本当に。

皆さん 今日は
どうも ありがとうございました。

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