徹子の部屋 作曲家・服部隆之&ヴァイオリニスト・服部百音親子[解][字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

徹子の部屋 作曲家・服部隆之&ヴァイオリニスト・服部百音親子[解][字]

~4代にわたる出演…華麗なる音楽一家の父娘が登場!~作曲家・服部隆之さん&ヴァイオリニスト・服部百音さん親子が今日のゲストです。

◇ゲスト
『東京ブギウギ』『青い山脈』などの国民的作曲家・服部良一さん、『ザ・ベストテンのテーマ』や『昴』(編曲)などの服部克久さんに続いて、何と4代にわたる出演。『半沢直樹』など人気作の音楽を多数手がける服部隆之さんと、娘で世界的ヴァイオリニストの服部百音さんがゲスト。
◇番組内容
現在22歳の百音さんは10年間にわたって世界各地を転々とした驚きの「ヴァイオリン修業」の日々を明かす。一方、父の隆之さんは20代の頃、パリ国立高等音楽院へ留学していた。当時、祖父である良一さんから送られた手紙を黒柳さんが読んで紹介すると、隆之さんは涙を浮かべながら在りし日の偉大なる祖父について語る。また、良一さんが自分の葬式にかけてほしいとした名曲『蘇州夜曲』を貴重な親子共演による演奏で披露する。
◇おしらせ
☆『徹子の部屋』番組HP
 http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/

ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
福祉 – 文字(字幕)

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  17. 服部良一
  18. ホール
  19. 関係
  20. 手紙

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

♬~『徹子の部屋のテーマ』

(黒柳)「克久さんと 息子さんの
之さんに おいでいただいて」

「初代の… 服部家初代…」

(之)「少しかじってます…」
「そうですって」

知らなかった…。
本当に その百音さんが

音楽家になって
今日 来てくださいました。

華麗なる音楽一家
という事でございますが

作曲家の服部之さんと

それから ヴァイオリニストの
服部百音さんに

今日は おいでいただきました。

よろしくお願いいたします。
(2人)よろしくお願いいたします。

服部之さんは 作曲家で
いらっしゃいますけれども

日本を代表する作曲家として

『半沢直樹』とか 大河ドラマとか

いろんなものを たくさん
作っていらっしゃるんですけども。

百音さんは
ヴァイオリニストとして

国内外で
本当に 演奏活動なさって

まだ22歳でいらっしゃいます。

まあ それにしても 残念な事に
一昨年 服部克久さんが

83歳で お亡くなりに
なったものですから…。

残念でしたね。
そうですね。

祖父が… 祖父の服部良一が

85で
亡くなってますものですから…。

父は
83で亡くなったんですけども

やっぱり 祖父と同じ
85ぐらいまではね…。

それか それを超したいなって

本人は思ってたと
思うんですけども。

そうでしょうね。

この方が
服部良一さんっていう 一番…

初代の方でいらっしゃるって…
変だけども。

それから あの…
克久さんなんですけど。

克久さんは あれですよね
あの… 『ベストテン』…。

♬~「ダダダダン ダダダダン
ダン ダダン…」

『ベストテン』! って言う時の
あの「ダダダダン」のところを

お作りになった人…。
オープニングのテーマですね。

あれ 全部 終わりまで
聴いた事あるんですけど

とってもいい音楽なんですよね。
いつも 頭しかやらないから…。

いやいや…!
終わりまであるんだっていう事が

わかって
ビックリしたんですけど。

あと 谷村新司さんの
『昴-すばる-』ですとか

そういうものを
克久さんは お作りになりまして。

克久さん
4回出ていただいたんですけど

残念ながら 一昨年ですか
83歳で お亡くなりになって。

でも 克久さんが亡くなる前年に
3代で協演なさいました

あの… ちょっと
『ル・ローヌ』という

内容のものがございますので
ちょっと ご覧いただきます。

♬~(演奏)

♬~

♬~

克久さんは 百音さんの事は
とても可愛がってらした…?

可愛がってたと思います。
もう 本当に それこそ

目に入れても痛くない
っていうのは

そういう事なんだなと… ええ。

この小さい時から
こんな関係ですもんね

年関係からすると。
そうですね。

そうですね。
全然記憶にないけれど

これ 始めたてですね
ヴァイオリンをね…。

でも ちゃんと
持ってるところがね すごい。

本当に 温かく優しく
見守っててくれてたので…。

私の演奏会にも
忙しい… 合間縫って

聴きに来てくれたりとか。 本当に
よく聴きに来てくれてました

体調悪くなってからも。
百音さんは

どなたに ヴァイオリンを
お習いになったんですか?

5歳で始めて 8歳になった時に

ロシア人の
ザハール・ブロン先生っていう

私の 今でいう
恩師なんですけれど

彼に 日本で出会って

初めてレッスンを受けた時に
その瞬間から

「君は 僕に付いて 一緒に
ヨーロッパに来ないか?」って。

「弟子にしてあげる」と
言っていただいて

私が 正式に弟子入りをして
「お願いします」と…。

何歳? その時。
8歳です。

8歳?
そう。 で それから…

8歳から18~19歳ぐらいまでは

先生が
海外に定住なさってないので…

回遊魚みたいに
動き回ってらっしゃるんですよ。

だから 先生のレッスンを
受けるためには

先生が行く先々に
付いていかないといけなくて。

そういう だから その…

世界中 先生と共に
転々と回るという

修業の十数年間を…。
それがね 日本だったらいいけど

ロシア行ったと思ったら
ヨーロッパ行ったりとかって

そういうのですって?
ええ。 ロシアかと思えば

イタリアだったり
スイスだったりって

いろんな所を 本当に転々として
月2週間ぐらい いないっていう

通い留学みたいな形を
とってたんですけど。

本当に なかなかにカオスな生活を
ずっとしてました。

相当だわね。 でも そうすると

随分 いろんな事に慣れたでしょ?
いや もう だいぶね…

本当に 生きていれば
どうにかなるもんだな

というようなところに
なったりとか

本当に
いろんな目に遭いましたけれど

日本みたいに
治安も良くないですから

スリにも遭うし 泥棒もいるし
犯罪だってあるし

いろいろ危険な事ありますけれど

でも 本当に
学んだ事はね 大きくて

今でも 自分の財産に
なってる事ばかりですけど。

でも あれですよね
本当の事を言うと

飛行機代っていうの? その…。

授業料も そうだし
あと 旅費とか そういうのは

随分 お父様としては
大変だったんじゃない?

何が大変かと
申しますとですね

一人で行けないんですよ
まだ若すぎて。

小さいからね。
ですから 必ず

家内が
一緒に付いていくわけですから

飛行機代が
ダブルになっていくっていう。

あっ そうか ダブル…。
だから もう

探せる限り 安い便っていうのを
探しまくって

本当に格安で行くんですけど。

ただ 飛行機代が安くて
例えば じゃあ

宿泊費も… 宿も
あんまり安いとこっていうと

今度は 治安の問題ありますから。
そうですよね。

そこも じゃあ
どうするかっていう

ちょっと 兼ね合いのね
問題が なかなか…。

なんか もう 之さんは
給料っていうか

作曲料を前借りしてた事も
あったぐらいだったんですって?

いや あの…
まあ ちょっとだけ早く

振り込んでいただけないかな
という事は…。

その話 私 初耳だったので 本当に
その節は すみませんでした。

そんな事を 娘に
いちいち話しませんよ あなた。

本当に ごめんなさい。
ありがとうございます。

そんな事も… でも まあ
2~3回ありましたね はい。

そうですか。
で 百音さんは 初舞台は11歳?

えっとね 初舞台は8歳でした。
8歳?

うん。 8歳で
初めてオーケストラと協演して…。

それ すごかったですよね 随分。
その時ですね。

そう… このお写真は
私が11歳の時に初めて…

海外でのリサイタルデビューを
したのが11歳で。

この時 それこそ
ブロン先生のもとで

しごかれまくっていた
時代だったんですけれど。

2000人規模の
このヴェルディホールっていう

由緒正しい
大きなホールで

弾かせていただける事に
なったという電話を

レッスン中にブロン先生が
電話を受けて

電話しながら ブロン先生
真っ青になって 顔が。

電話切ったと思ったら

「百音 一大事だぞ」って
言われて

「会場が こんな
大きなホールに

なってしまったぞ」って
言われて

たたき直されまして
そこから

大慌てで曲を決めて 満身創痍の
プログラムだったんですけど

人生で一番緊張しましたね。

この時 父も祖父も 日本から
駆けつけてくれたんですけど。

心臓が口から飛び出るかと
思いました この時は。

心臓が口から飛び出るのは
僕の父と 僕ですよ。

もう…。

ミラノ音楽院の
ヴェルディホールって

一番 大ホールで。
ええ。

もう いろんなクラシックの方が

もちろん そのミラノ音楽院の
そこで演奏されるって

かなり由緒ある
ホールだったんですけど。

そこで 本当に
11歳のね 女の子が

たまたま
先生が企画してくださって

やるわけですから。

もう これ しくじったら

どんな事になっちゃうんだろう
って思いながら

ほとんど見る事できなかったです。
ずっと こう…。

「ジェットコースターみたいに
なってた」って

おじいちゃまが言ってたよ。
なんか 祖父が

父が こうやって

ジェットコースターに
乗ってるみたいにね

震えて固まってて見てないから
「いいかげんにしなさい」って

祖父が小突いたりしてた
っていう話を

祖父から聞きましたけど。
でもね それはね

おじいちゃまもね
結構 こんな 固まってたと思う。

まあ そりゃ 固まるでしょうね。
どうしたってね。

お客さん
そんな小娘が弾くんだったらね

名もないような小娘が弾くのに

お客さん 絶対入ってないだろうと
思ってたんです。

そしたら 満席だったんです。

見上げるような この なんか

階段状になった客席が
上まで びっしり 人で…。

ホールと客席が
結構 近いんですよね。

あっ そうなの?
意識が飛ぶかと思いましたね。

意識が飛ぶかと思った?
思いました。

私も意識が飛ぶかと思いました。
わかりました うん。

いい経験なさいましたよね。
そうですね はい。

ここの胸のとこ
ヴァイオリニストって そうなんだけど

どうしても そこのとこ
赤くなっちゃうのよね。

そうですね。 痛くないんですけど
見た目がね 汚いんですよね…。

でも そこのとこ
ヴァイオリンの角が

どうしても そこに…。
当たるんです 金具の部分が。

そう だから 左の鎖骨だけ
へこんでたりするんですけど。

やっぱり 鎖骨も へこむ?
へこみますね 当たるんで。

でも 11歳ぐらいから
まあ そうやって

海外とか日本で演奏活動…
本当に

場数を
たくさん踏ませていただいて…。

服部家は90年近く

日本の音楽界に貢献してらした
って事になるわけですもんね。

良一先生から始まればね。

でも 服部家の教えっていうのは
いろいろ あるんだけど

1つ 「来た仕事は全部断るな」
っていうのがあったんですって?

それは お父様に伺った方が
いいかもしれないけど。

父は そうでしたね。
本当に どんな…

ジャズもクラシックも演歌も

もう あらゆるジャンルの
仕事をやってましたし

どんな歌手の方から
仕事が来ても

それも
絶対断らなかったですけど

なかなか 僕は それは
守れてないかな どうかな。

まあ どうしても
物理的にね 間に合わないと

お断りする事しか
できない時はね…

なってしまうんですけども。
でも すごいのは

関わった楽曲
全部で6万曲って… ですけど

6万曲って伺ってますが
そうですか?

レコーディングした
自分のオリジナル

あとは さっきの谷村新司さんの
『昴-すばる-』のように

アレンジしたもの。
それから CM

映画にドラマに…。

あと
例えば 五木ひろしさんの

お正月公演とかあれば そこでも
ずっとね やったりとか。

そうすると
もう あっという間に

6万… 5~6万
なってしまうんでしょうね。

すごいですよね。

それが… 「来た仕事は断るな」
っていうのがあって

次に 「音楽は楽しむもの」
っていうのが。

そうですね。
音楽は楽しむものであり

あとは まあ 美しい。

音楽は美しくないとダメ
っていうのが

おやじの一番の信念といいますか。

だから うーん… なんでしょう。

どういう形… それは
ただ美しいっていう事よりも

どんなスタイルのものでも
そこに 人が聴いた時に

美しさが しっかり残ってる
っていう事が大事なので

そういう事を踏まえながら

自分は いつも 音楽を
やっているんだっていう事を

僕は… 僕に話してましたね。

あと まあ 音楽っていうか
先ほどの…

父の性格にも関係あるんですけど

「柳に雪折れなし」っていう格言が。
そうですってね。

「柳に雪折れなし」っていうのが
2番目にあるんだ。

ええ。 それが
おやじの一番好きな格言で。

まあ 要するに 肩の力を
抜いていこうよっていう事ですね。

バッて こう 頑張ってると

上から雪が降ってくると
ポキッて折れてしまうけれども

柳の… 柳ですとね
こう たわむじゃないですか。

だから 雪が降っても

雪が スタッと下りるっていう…
落ちるっていう。

そういう心構えで音楽をやる
仕事をやるっていうのは

もう まさに 父の
音楽をやってる様っていうのは

そういう感じでしたね。
そうですね。

祖父の方が すごく こう 柔軟な
なんていうんだろう…

生き様だった感じが
するんですけど。

父と 特に 私もそうなんですけど

真反対の性質を なんか
受け継いじゃったんですよ。

だから すぐ折れちゃうんです
なんかあると。

雪折れ大ありなんです。

ボキッときちゃう?
そうそう そうそう。

本当に しなやかに
なりたいものなんですけど

私も 肩に力を入れまくって
生きてるので

何かあると 本当に ポキッて
しょっちゅう

折れちゃってるんですけど…
ダメなんですけどね。

若いうちは
いいんじゃないですか?

ねえ。
でも うん… まあね はい。

でも あれですよね。
戦前 戦後と ご活躍になった

まあ 一番最初の
天才作曲家っていわれている

服部良一さんという方は

百音さんは
お会いになった事はない?

そうですね はい。

本当に
一度もお会いした事がなくて

声も聞いた事がなくて
っていう方なので

自分の家族ですって
言われてもな… って

思ってた時期もあったんですけど。

ちょっと 服部良一さんがですね

『徹子の部屋』にご出演の時の
貴重な映像がございますので

ちょっと
ご覧いただいていいですか?

素晴らしい。
うわー!

「激動の昭和の中で
歌が はやるといってもですね

時には戦争があり
戦後の事がありましたけど

一貫して やはりね
僕の考えていた事がね

ちょうど 戦後に やっぱり
通じましたからね」

「それは どういうお考え?」

「昔から 僕は 非常に
ジャズが好きだったんでね」

「3000曲を超えるそうですね
お作りになった…」

「いろいろなリズムを…
『ブルース』なさいました」

「それから 今度 高峰三枝子さん
『湖畔の宿』っていうのは

また違うでしょ?」

「それから 今度
『銀座カンカン娘』

『東京ブギウギ』っていう
これも いろんな…」

「『タンゴ』もありますしね」
「『タンゴ』もある」

「ガラッと変わったものを
随分 作曲なさって」

「それ やっぱりね
私の生活の中にね

ジャズ…
ダンスホールとかですね

キャバレーで演奏してる
リズムの音楽がね

非常に 自分の…
なんですか もう

血となり 肉となって
出てくるものですからね」

「だから バラエティーがあって
割合 他の人よりもね

たくさん書いてるというのはね」

ふーん…。
ビックリする…?

ちょっと…。
72歳なんですね ええ。

貴重な映像で
ありがとうございました。

之さんは パリ留学時代に

この良一さんから お手紙を
おもらいになったんですって?

はい。 2回もらいました。

そうですってね。

ここに1枚あるので

ちょっと ご紹介していいですか?

「人生は一日一日が修業なのだ」

「おじいちゃんも
大阪から 一人で東京へ出て

親の面倒も見て
今日までになった」

「あとになって見ると
全てが楽しい思い出になるだろう」

「服部家の3代目が今日 パリで

勉学中というのは
皆が知っている」

「どうか 無理をせず 健康中心に
しっかり人間修業をしたまえ」

「焦らず 全て 之スタイルで
やりたまえ」

「また 手紙を書いて出すように」

「服部
おじいちゃま おばあちゃまより」

…という お手紙。
いいお手紙ですよね とっても

内容が…。
これは もう 涙が出てしまいます。

本当 そうですよね。

もう… これ 僕は
受験に パリ行って失敗…

1回 浪人してるんですけど。
その浪人した時にくれた

手紙なんです。
そうなんですか。

だから すごいんですよ
之の好きな…

「之のスタイルでいけ」って
言ってるけれども

「3代目がパリで勉強してる事は
みんな知ってるぞ」って…。

これ どっちに
軸足を取っていいのか

わからなく
なっちゃったんですけど。

まあ でも ありがたかったです。
東京にいた時は もちろん

祖父から
いただいた事ないですから。

お手紙はね。
だから 2通もらいましたけども

本当に貴重な2通です。

ただ もう 原稿が…

自分の専用の原稿に
書いてくるんですけど。

原稿用紙?
ええ。 すごいんですよ。

昔の… 「フランス」も全部
漢字で書いてきちゃうんで

俺 難しくて 読むのに
すごい時間がかかって…。

そういう思い出があります。
なるほどね。

この「おじいちゃんも 大阪から
一人で東京へ出て」っていうのは

これ 私の父にも ちょっと
関係があるんですけど

うちの父が ちょうど N響の
コンサートマスターしてる時に

私の父のヴァイオリンを
ご覧になって

東京行って
オーケストラに入ろうと。

それはね
『徹子の部屋』の中でも

お話ししてくださいました。

それでね 大阪から東京に出て

それで オーケストラに
お入りになったんで。

それから だんだん
作曲するようになったって。

だからね 関係がある事はある…。
そうですね そのご縁が

大きくつながってるよね…。
それで 音楽葬の時にも

黒柳さんに司会していただいて。
おじいちゃまのね。

そうですね。
そう おじい様の音楽葬は

盛大でしたね。
盛大でした。 芝の増上寺で。

そう 増上寺で。 淡谷のり子さんも
お歌いになったりしたんだけどね

淡谷のり子さんは その時ね
歌い終わってからね

「私 下手だね。
先生 また 勉強し直して

また やりますからね」って。
あれは もう

本当に 忘れられませんよね
あんな事があったなんて。

それは… 本当ですね。
志が高すぎて 本当に。

では この辺で
演奏していただきますので

ちょっと ご準備をいただきます。

それでは 服部良一さんが
ご自分のお葬式の時に

ぜひ この曲で送ってほしいと
指定をなさった

思い出深い 『蘇州夜曲』を

今日は この親子で
ご披露いただきたいと思います。

じゃあ
よろしくお願いいたします。

♬~(演奏)

♬~

♬~

♬~

♬~

♬~

♬~

(拍手)

ありがとうございました。

どうも。
(拍手)

きっと あっちで
喜んでらっしゃるでしょう。

いや もう…
祖父は絶対来てますね。

そうですよね 絶対ね。

でも 之さんは 映画やドラマで
多忙な日々だし

百音さんは コロナ禍で
今 日本に ずっといらっしゃる?

そうですね。
今 情勢も情勢でございますから

日本での演奏会メインですけれど

コロナ真っ最中の時に
全部 演奏会がなしに…

飛んでしまった時の演奏会とかが
今 しわ寄せがきている状態で

もう なんか
ひっきりなしっていう感じなんで。

でも あなたの奥様も
音楽やってらしたの?

そうです。 父の『音楽畑』って…
『音楽畑』っていうのを

ずっと 父は やってたんですけど。
そうですよね。

それで… 父のオリジナルの
インストゥルメンタルを

ずっと入れてるCDで…。

そのライブをやる時の…

当然 音楽畑オーケストラ
っていうものがありまして

その時に そこで

コンサートマスターをやってたのが

僕の妻ですね。
そう。 じゃあ お母様も

本格的なのね。
だから 小さい頃はね

右も左もわからない時は
手ほどきを受けて。

ブロン先生に付いてからも
先生が言った事の

間違った解釈を 私がしないように
ずっと付きっきりで

教えてくれていました。
まあ でも 家でね

家内が教えてる時っていうのは
やっぱり

そんな 優しいばっかりでは
いられないので

なかなか
結構厳しい事も言ったり…。

また 小さいと
泣いたりもしますしね。

そうですよね。
なかなかね。

ヴァイオリンの時は
母が怒るじゃないですか。

怒るから
父がなだめに来るんですよね。

今度 私が副科で
ピアノをやってる時に

今度 ピアノは父の方があれだから
父に習うんですけど

今度は 父が怒りだしちゃって

父の怒鳴り声が飛んでくると
今度 母親が飛んできて

「あなた やめなさいよ」とか…。
そんなに怒鳴ったかな?

幼稚園の『白鳥の湖』の時
すごく… 怖かったよ。

そうか…?
でも やっぱり そうなりますよね。

私も うちの父が
ヴァイオリンやってましたから

お弟子さんとか来るじゃない。
まあ 弟もやってましたけど。

もうね… もう 母がね

「もうちょっと
なんとかならないの?」ってね

言うんだけど やっぱりね…。
お弟子さんの子がね

まあ ガンガン怒ってたら
帰る時にね 靴履きながら

「先生 今日 天気いいですね」
って言ったのよ。

そしたら 父が すごく怒ってね。

「ヴァイオリンの事
考えたらどうだ」って。

でも 今日は…
服部家4代の皆さん

『徹子の部屋』に
ご出演いただきましたよ。

本当に ありがとうございました。
ありがとうございます。

またね。
どうも ありがとうございました。

『徹子の部屋』は

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