出典:EPGの番組情報
あさイチ「逆境を乗り越える人生のヒント!これが私の生きる道」[字]
不安・悩み・葛藤…からの大決断!「これが私の生きる道」▽福島の原発事故から11年…帰還困難区域の避難指示解除へ!動き始めた女性たち▽逆境を乗り越える人生のヒント
詳細情報
番組内容
不安・悩み・葛藤…からの大決断!「これが私の生きる道」▽福島の原発事故から11年…帰還困難区域の避難指示解除へ!動き始めた女性たち▽逆境を乗り越える人生のヒント【ゲスト】はるな愛【キャスター】博多華丸・大吉、鈴木奈穂子
出演者
【ゲスト】はるな愛,【キャスター】博多華丸,博多大吉,鈴木奈穂子,【リポーター】武田健太ジャンル :
情報/ワイドショー – 暮らし・住まい
情報/ワイドショー – 健康・医療
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
テキストマイニング結果
ワードクラウド
キーワード出現数ベスト20
- 双葉町
- 武田
- 大熊町
- 女性
- 敦子
- コミュニティー
- 大吉
- 解除
- 山本
- 場所
- 亜紀
- 決断
- 仕事
- 真澄
- 避難
- 福島
- VTR
- 移住
- 家族
- 自分
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
佐藤≫もう下ろしていい?
いきます。
武田≫少し不慣れな様子で
畑を耕す女性。
山本≫委員長?
んなわけないじゃん!
仲間との何気ない会話を
楽しむ女性。
彼女たちが
生活の拠点に選んだのは
東京電力福島第一原子力発電所が
立地する町です。
原発事故から11年。
最も帰還が困難といわれた
町の一部で
まもなく避難指示が解除され
人が住めるようになる見込みです。
私たちは、不安や葛藤の末
自分なりの一歩を踏み出した
方々に話を聞きました。
厳しい状況の中でも
しなやかに生きる女性たちに
逆境を乗り越える
人生のヒントを教わります。
生字幕放送です。一部、字幕で
表現しきれない場合があります。
鈴木≫きょうの「あさイチ」
9時までの放送です。
ゲストははるな愛さんです。
はるな≫おはようございます。
鈴木≫はるなさんも震災後
福島に何度か行かれたようで。
はるな≫そうですね
1週間後に福島の相馬にお邪魔
して
うちの
スタッフが、もともと
相馬市出身で
震災前とかもよく
お邪魔していたので
友達もその直後
いろいろね、行かせていただいて
避難所とか仮設とか
行かせていただいて
知り合いがいっぱいいて
家族のように迎えてくれるので
今、いろいろ皆さんの顔を見て
うれしかったです。
鈴木≫いろいろ
帰還困難区域が、いよいよ
解除される区域とかもあって
きょうはその辺りの皆さんの
生き方、それから声を聞いて
いきたいと思います。
リポーターは福島放送局の
武田健太アナウンサーです。
武田≫今回、私たちが
出会ったのは
こちらの4人の女性たちですね。
東京電力福島第一原子力発電所が
ある
町で生きていくことを決めた
方々です。
けさはこの皆さんの生き方を
見ていきます。
コロナ禍で生活する
私たちにとっても
何か逆境を乗り越える
ヒントがあったり
人生のヒントになるのではないか
ということで
お伝えしてまいります。
改めてなんですけれども
私たちが取材を行った場所です。
東京から
およそ200km離れました
福島県の海沿い、
双葉町と大熊町というところを
取材しました。
ここは原発事故が起きて
町の広範囲が放射線量が
高くなって
人が住めなくなりました。
今でもこのように
ピンクで示した地域というのが
帰還困難区域に
指定されていまして
今も人が住むことが
できていない状況なんですね。
そうした中で、あす1つ
動きがあるんです。
大熊町のかつての町の中心部
このピンクの斜線で示した
地域というのが
避難指示が解除されて
人が住めるようになるということ
なんですね。
さらに双葉町の駅の周辺なども
ちかぢか、避難指示が解除される
見込みとなっていまして
人が住めるようになると。
はるな≫行けることは
行けるんですよね。
住むことが
困難ということですよね。
武田≫行くことや一時的な滞在は
できますが住むことはできないと
いう状況なんですけれど。
はるな≫いよいよ。
武田≫この双葉町は
福島県内でも唯一
全町民の避難が続いている
場所ですので
避難指示が解除されるという
ことになりますと
震災と原発事故以降、初めて
人が住めるようになると
いうことなんですよね。
はるな≫待ちに待っていた
感じがしますね。
華丸≫でも11年
たっているんですよね。
武田≫時の流れというのも
あったりして、
悩みを抱える方も
多いんですけれど
きょうはその辺りも
見ていきたいと思います。
まず双葉町から
見ていくんですけれど
先ほどはるなさんも
おっしゃったように、双葉町
2年前から
復興を加速させるために
一部の施設では人が
働き始めてるんです。
そこに通う女性に話を聞きました。
(VTR)
双葉町の東側です。
壊れた建物や荒れた田畑。
震災から11年たった今も
その爪痕が色濃く残っています。
その一方で、復興関連の企業や
工場などの誘致が進み
産業の復興拠点として
位置づけられています。
その一角にある真新しい建物に
復興を支える人たちから
人気の飲食店があるんです。
店長の山本敦子さんは
おととし店をオープンさせました。
人気メニューは
このスペシャルサンド。
600円で、このボリューム。
お昼どきには
多くのお客さんで、にぎわいます。
この辺りはコンビニもなく
町の復興に携わる作業員たちが
よく足を運ぶそうです。
敦子さんは今
双葉町から50kmほど離れた
いわき市で暮らしています。
車で片道1時間ほどかけて
店まで通う毎日です。
本格的な復興は始まったばかり。
食材を調達するところもなく
店を営む環境は
まだ十分に整っていないそうです。
この店は、もともと敦子さんの母
岑子(たかこ)さんが
双葉町の駅前で営んでいました。
地元の学生に20年余りに
わたって愛された名物店。
悩みの相談にも
乗ってきたといいます。
敦子さん自身は店を継がず
23歳のころ
町でピアノ教室を開きました。
多くの生徒に囲まれ充実した日々。
このまま、ふるさとで生涯を
過ごしていくつもりでしたが…。
2011年、東日本大震災による
原発事故が起き
39年間、過ごした双葉町を
離れることになりました。
敦子さんは家族とともに避難した
横浜での新しい生活に
徐々になじんでいきました。
転機が訪れたのは、その7年後。
双葉町が建設する施設で
飲食店を募集していましたが
出店者がなかなか集まらない
という話を聞いたのです。
敦子さんは悩んだ末
横浜を離れ、ふるさとで
再出発することを決めました。
店の再開から、およそ2年。
今ではふるさとに立ち寄る人々の
よりどころに。
この日は、学生時代の後輩が
千葉や栃木の避難先から
訪ねてきました。
きょうも50kmの道のりを通い
ふるさとで店を開く敦子さん。
選んだ生き方に
後悔は一切ないといいます。
はるな≫ちょっと
実は私お店に
行ったことあるんですよ。
敦子さんからもきょう
緊張するって連絡ありました。
こうやって放送されるの。
こうやって、明るい方なんです
けど
行ってオープンするというのは
すごい不安もあったし
全然先行きが見えない中で
私もお店してるけど
人がいないところで
お店を始めるという
やっぱり決意ってすごかったと
思うんですよね。
大吉≫しかも毎朝片道50km。
大変なお仕事だと思いますよ。
武田≫きょうは山本敦子さんと
リモートでつながっています。
おはようございます。
山本≫おはようございます。
はるな≫敦子さん。
大吉≫うわさの敦子さんですね。
はるな≫緊張してる?大丈夫?
山本≫
もうこんなふうになって。
大吉≫間に合わないと思います
けど。暑いですか。
山本≫いいお天気で
朝から暑いです。
大吉≫楽しそうに働かれている
VTRを拝見させて
いただきましたけれども
ご家族の皆さんとか
ふるさとでお店をやると
なったとき
何か、おっしゃっていました?
どうする?みたいなそういう話は。
山本≫先に、私よりも先にですね
弟がですね
ガソリンスタンドを、
父がやっていた
ガソリンスタンドを
再開させたんですよ。
2017年に。
それで私の旦那も
一緒にやるということで
2人で先にこちらに
帰ってきたので
やっぱりそのことを見ていたので
家族も全員、みんな同じ方向を
向いていたのかなとは思います。
はるな≫そのガソリンスタンドも
復興作業の車とかがガスを
入れなければいけないということ
で
やられたんですよね。
いつもSNSとかで
メニューを、おいしそうな
メニューを
アップさせているんですけど。
華丸≫カツサンド
だけじゃないの?
はるな≫いろいろあるんですよ
私も
いろいろ食べさせてもらいました
胃袋は男の子なので。
すごくおいしそうで
学生さんがね、私たちもやりま
せんでした?
帰り道、集まるお店みたいな。
懐かしい方が、たくさん
来てくださると、おっしゃって
いらっしゃいましたね。
集まってくれてます。
山本≫双葉町に
帰って来られたときとかは
必ず寄っていただいて
やっぱり昔の話とかで
盛り上がって
大笑いして帰ります。
大吉≫ただね、今
、
いわき市にお住まいということで
毎日50kmの通勤というのは
なかなか大変だと思いますけど。
鈴木≫解除後ですね
例えば、双葉町に戻って
住んでということは
考えていらっしゃるんですか。
山本≫先ほど、愛さん
おっしゃっていただいたように
うちの店、たくさん
毎日日替わりみたいにして
出しているお弁当とかもあって
そういった仕入れとかが非常に
やっぱりこの辺では毎日、
仕入れというのが難しくて
いわきのほうから
仕入れてきます。
そういった仕事の面では
非常に難しいですかね。
はるな≫まだまだですかね。
鈴木≫考えることがありますね。
華丸≫予想がつかないと
おっしゃってましたよね
どれくらい売れるか。
パンをどれくらい仕入れるか。
はるな≫双葉町に帰ってくると
いう声を聞いたりしますか?
住もうと思ってるとか。
山本≫はい、おります。
やっぱり、お仕事をされている
方もいますけれど
やはり、もっと
年配の方だったりとか
帰ってくるというふうには
おっしゃっている方も
いらっしゃいます。
大吉≫僕ら同世代なので
敦子さんとはね。
見てきたテレビとか。
華丸≫ちなみに物件は空いてるん
ですか、隣の物件は。
山本≫まだ
オープンしていないんですよ
時間がまだ早いので。
はるな≫いろいろお土産屋さんが
あったり。
いろんなお店がありました。
食べ物屋さんも並んで。
大吉≫同世代なので
僕ら何ができるか
分かりませんけど
応援していますので
皆さんにお伝えください。
朝の仕込み
お忙しいときに
ありがとうございました。
はるな≫また食べに行きます。
武田≫本当にパワフルな
方ですよね。
華丸≫頭が下がりますね。
武田≫敦子さんが双葉町で
先陣を切ったわけですけれども
その姿に勇気をもらって
町に帰ることを決めた女性も
いるんです。
(VTR)
敦子さんの店に
双葉町で暮らしていたときからの
友人がやって来ました。
高野麻里(あさり)さんです。
原発事故の前
地域のバレーボールチームに
所属していた2人。
家族ぐるみで
仲がよかったそうです。
麻里さんにとって
ふるさとでの人とのつながりは
特別なものでした。
震災前、双葉町で夫と一緒に
ふれあいクラブという団体を
運営していた麻里さん。
スポーツや
レクリエーション活動を通じて
町民どうしのつながりを
強めようとしていました。
しかし、原発事故の影響で
町民は全国各地に避難し
離れ離れになりました。
麻里さんも
見ず知らずの土地に避難し
強い孤独感にさいなまれた
といいます。
避難指示が解除されれば
町に戻りたいと考えている
麻里さん。
しかし、11年で
町は大きく姿を変えていました。
かつて住んでいた
アパートは荒れ果て
解体されることが決まっています。
近所の人が野菜を育てていた畑も
草木に覆われていました。
ふれあいクラブの仲間と
集った場所も取り壊され
復興に携わる人たちの
駐車場になっていました。
それでも麻里さんは
ある計画に希望を抱いています。
やって来たのは、町の中学校。
体育館を改装して
ここに、もう一度
ふれあいクラブの事務所を
開こうと考えているんです。
まずは、町で暮らす準備のため
夫と交代で週の半分は
双葉町で寝泊まりする予定です。
もう一度、双葉町で
みんなと集まりたい。
コミュニティーの再構築に向けて
行動を起こします。
はるな≫すごい
荒れ果てていましたよね。
私が双葉町にお邪魔したときも
本当に洗濯物がそのままで
いっぱい干したそのまま
家を出られたんだなというのが
至るところにそういう風景が
残っているんですよね。
大吉≫もう一度ここでという
気持ちがあったとしても
どうしてもそういうのが
視界に常に入ってくるわけだから
本当に強い気持ちがないと
これはできないことだろうね。
武田≫麻里さんのような方が
いる一方で
こんなデータもあるんですね
復興庁のアンケートによりますと
町に戻りたいと回答した人は
双葉町で11.3%
大熊町で13.1%に
とどまっているんです。
そうした中、きょうは専門家の方
ともリモートでつながっています。
福島のいわき市を中心に
活動されています
小松理虔さんです。
小松≫よろしくお願いします。
武田≫こうした難しい状況も
ある中でどういったことが整うと
また町ににぎわいが
戻ってくるんでしょうか?
小松≫来月、再来月になって
急に人のにぎわいが出て
皆さん戻り始めるということでは
ないと思いますので
本当に時間がかかると思います。
僕は大事だなと思いましたのは
VTRを見ていて、やっぱり人々
の心のつながりだったりとか
コミュニティーというものが
そこに暮らす人々にとって
本当に大事なんだということを
改めて感じたわけですけれども
逆に言うとそのつながりを
作っていくということがすごく
大事なんだろうなと思います。
先ほどもありましたけれども
先に帰る人がいる。
そこに少しにぎわいができたり
人の交流ができる。
そういうものを見て自分も
帰れるんじゃないかな
新しいところに住んでみたいなと
人のにぎわいが
出てくると思うんですね。
実は僕がいる場所も震災後
いわきの小名浜いうところで
1か月後にテナントを借りて
仲間たちと一緒に借りたんですね。
そうすると、そこに
仲間たちが集まってきて
そこが楽しそうだなということで
実は僕もそこに来た女性と
結婚して、今では子どもも
生まれたんですね。
そういうふうに友人が家族になり
家族からまた
新しいコミュニティーができる
これは断ち切られてもまた
作ることができると
僕は思っています。
ですから、やっぱりそこに
まず先に帰った人が
いると思うんですけれど
そういう人を
盛り上げていくように
外からも積極的に
関われたらなと思いますし
直接行けなかったとしても
電話で元気?とか
LINEでメッセージを
送ったり
とかいろいろな形で
外からの関わりを作っていくこと
が何より大事なんじゃないかなと
思いますね。
武田≫今コミュニティーという
話もありましたけれども
福島でも避難指示が解除されて
人が住めるようになっても
仕事とかコミュニティー
というのは整っていない。
どうしていけばいいのかと
迷う方もいらっしゃるんですよね。
そうした中で
次にご紹介するのは
大熊町の大川原地区
というところなんです。
ここは3年前に避難指示がすでに
解除されて
人が住み始めている場所なんです。
この大川原地区に住んでいる人は
どんな思いで過ごしてきたのか
ある女性の3年間に密着しました。
(VTR)
福島第一原子力発電所から
南西に7km。
大熊町の大川原地区です。
3年前、田んぼが広がる
郊外の地域を切り開き
新しい町が作られました。
役場庁舎や、100軒の
災害公営住宅が建ち並び
現在、およそ370人が
暮らしています。
こんにちは。
町の一角に
人が集まっていました。
こちらは、森山真澄さんです。
3年前、避難先から
ふるさとの大熊町に
戻ってきました。
この日は、多くの町民が
避難していた地域にある病院に
近所の人を連れて行った
真澄さん。
片道100kmを
1人で運転しました。
今でこそ笑顔で答えてくれた
真澄さんですが
夫婦で帰郷したころは
苦労が耐えなかったといいます。
ふるさとでの暮らしを前に
当時こんな目標を掲げていました。
というのも実は真澄さん
避難生活の中で気分が落ち込み
ほとんど家に籠もりきりの毎日を
送っていたからです。
生き生きとした自分を
取り戻すため
新しい町では
原発作業員の食事を作る
給食センターで
正社員として働き始めました。
しかし、避難生活でできた
ブランクは大きな負担となって
のしかかりました。
毎朝5時から昼の2時まで
働く生活に体調を崩し
1年ほどで、仕事を
辞めざるをえなくなりました。
真澄さんには、もう1つ
取り戻したいものがありました。
かつてのような
町の人たちとのつながりです。
母子家庭で育った真澄さん。
仕事で忙しい母親に代わって
面倒を見てくれたのは
大熊町の人たちでした。
しかし、新しい町には
もともとの知り合いもごく僅か。
住民どうしの交流も
ほとんどありませんでした。
涙を流した日々から3年。
真澄さんは今
毎朝6時に自宅を出ます。
向かう先は
15km離れた職場です。
去年から、道の駅にあるパン屋で
週に5日
パートとして働いているんです。
仕事終わりには
楽しみもできました。
森山≫はい、乾杯!
近所の人たちと食卓を囲む
ひとときです。
この町で知り合った人とも
少しずつ交友関係が広がりました。
森山≫ね、キイちゃん。
ね、セイコウちゃん。
大吉≫3年間の映像だったので
どんどん表情が明るくなられたの
がうれしかったですし。
はるな≫ビールに合う
おかずばかりだったね。
大吉≫一からこうやって
コミュニティーを作る感じに
なるんですねきっと。
武田≫真澄さんの場合
隣の家の方が
ああして食事会とかを開催して
くれたからこそ、人との
つながりというのができてきて
精神的にも安定してきた
という話をされていました。
鈴木≫真澄さんのことばなんかを
聞いていると
今コロナ禍で
特に人間関係も希薄に
なっている中で私たちも
すごく参考になるなと
思ったんですけれども
小松さん、今いる自分の
コミュニティーの絆を
強くするために
私たちが今できることは
どういうことがありますか?
小松≫シンプルに
すぐにできることは
声かけだと思います。
きょうVTRに
出ていらっしゃった皆さん
すごく大きな決断をされて強いな
パワーがあるなと感じられたと
思うんですけれど
その決断の裏には
とても苦労があると思いますし
皆さんだって
とても大変だと思うんですよね。
そんなときに大丈夫?とか最近
どう?とか声をかけてあげるだけ
でも力になると思うんですよ。
これは、実はすごくインフラが
整っている都市部でも
近所に誰が住んでいるか
分からないとか
孤立感を強めている方
コロナ禍で多いと思うんですね。
そういうときに、ごみ捨て場で
会ったときにおはようございます
と声をかけるだけでもいいですし
もしかしたら会社の中にもつらい
思いをされている方がいるかも
しれない
もしかしたら自分の所属先に。
今回は双葉に戻るという
決断をされた方が
フィーチャーされています
けれども、まだ戻れない人
福島から避難されている方がいる
かもしれないという
想像力を持って
今自分が元気だなと思える人から
声をかけていけると救われる方
多いんじゃないかなと思いますね。
武田≫ここまで3人の方を
ご紹介してきましたけれども
皆さん大きな決断を
されていました。
最後にご紹介する女性も、
大きな決断をされたんです。
それが移住です。
コロナ禍で全国でも移住する人が
増えてきて、皆さんにとっても
身近になってきているのでは
ないかなと思いますけれども
福島でも
震災後、移住してくる人の数が
増えていまして
2006年の統計開始以降
昨年度が最も多くなったんです。
特に40代以下の世代で
7割を占めていたそうなんです。
若い世代の方が復興に何か
力になりたいということで
移住してくる人も増えている
ということなんですよね。
こちらの女性は東京から大熊町に
移住することを決意しました。
どんな思いで
やって来たんでしょうか。
(VTR)
町の人に教わりながら
少し不慣れな様子で畑を耕す女性。
2014年に東京から
移住してきた佐藤亜紀さんです。
まだまだ農業は初心者。
もちろん、この町に来てから
トラクターに乗り始めました。
千葉県出身の亜紀さん。
祖父母の家が、この地域にあり
幼いころ
何度も遊びに来ていました。
震災当時は東京の法律事務所で
働いていましたが
時間がたつにつれて
自分に対する怒りや葛藤が
湧いてきたといいます。
突き動かされるように
大熊町にやって来た亜紀さんは
復興支援員として働き始めました。
各地に避難した町の人たちが
孤立しないよう
支援するのが仕事です。
亜紀さんは
住民どうしのイベントを
積極的に企画。
夏の盆踊りに
新年の餅つき大会。
気が付けば、とてもたくさんの
大熊町の人たちと
ともにいる自分がいました。
今では町の人たちも、亜紀さんに
大きな期待を寄せています。
大熊町と関わる中で
すてきな出会いもありました。
こちらは夫の信康さんです。
5年前、仕事で出会ったことを
きっかけに結婚しました。
この土地で生まれ育った信康さん。
東京から移住してきた亜紀さんに
新鮮な思いを抱いたといいます。
亜紀さんには、大熊町を
少しでも知りたいという思いで
足を運ぶ場所があります。
それは町の東側に広がる
中間貯蔵施設。
福島県内の除染で取り除いた土や
放射性廃棄物を
30年間保管する場所です。
その広さは
およそ16平方キロメートル。
渋谷区とほぼ同じです。
かつて、ここには
およそ700世帯もの
家々が建ち並び
人々の確かな暮らしがありました。
しかし、多くの人が
先祖代々受け継いできた土地を
手放すことになりました。
大熊町の人たちにとって
当たり前だった日常の景色。
失われたものを
共有することはできなくても
この町の現状を見つめ
向き合い続ける覚悟です。
はるな≫すごいですね。
亜紀さん本当に頭が下がりますね。
武田≫町を力強く後押ししている
なと感じますけれども
亜紀さんが訪れていた
中間貯蔵施設
この地図の
黄色いエリアというのが
すべて中間貯蔵施設に
なっていまして、除染で出た土や
廃棄物などを貯蔵しておく
場所です。
2045年までに法律で
福島県外で最終処分する
ということが
決められているんですけれども
ただその具体的な場所というのは
現時点で
まだ決まっていないんですよね。
大吉≫ピンクの斜線のところが
今回、解除されるということで
いろいろ見せていただきました
けれどももちろん
帰るという決断をされた方には
本当に頑張ってほしいなと
思いますし
帰れない、戻れないという決断を
された方も
それはそうだしという。
はるな≫皆それぞれの思いという
のが人は分からないので
一歩踏み出せても、踏み出せなく
てもそれはいいと思いますよね。
ただこうやって頑張って地元に
戻るという人の気持ちに
ちょっと動かされるというのが
あればいいなと思いますけれどね。
武田≫私たちも知ろうとし続ける
ことが大事だと思いますけれども
きょう4人の女性を
紹介してきました。
皆さんに共通するのかなという
コミュニティーの課題も
出てきましたけれども
これからの私たちに求められる
ことは何なんでしょうか?
小松≫きょうの話は
中間貯蔵施設なんていうことばが
出てくると、福島大変だなと
思われる方
多いと思うんですけれども
コミュニティーが
薄れてきていたり人が
いなくなっているというのは
全国の地方で起こっていることだ
と思います。
皆さんの地元だったり
ふるさとにも関係することだと
思うんですよね。
きょう登場された方年代的にも
30代、40代、50代の皆さん
おじいちゃんおばあちゃん世代
親世代、子どもたちの世代を
つなぐ間の人だと思うんですよね。
仕事は大変だと思いますけれども
われわれのような世代が今一歩
おせっかいをしながら
コミュニティーを
なんとかつなぎ合わせていく。
その力になるのは実は
外側の人たちだと思います。
きょう決断した方の
ああいうことはまねできないと
思う方
いらっしゃるかもしれませんが
実は遊びに行くそこに食べに行く
おはようと声をかけ
に行くだけでも救われる
方は多いし
そこにコミュニティーは絶対に
生まれてきますので
ぜひ皆さん、福島に限らず
たまにお気に入りの地域や
ふるさとに足を運んで
地元の人のところにぜひ
飛び込んでほしいなと思います。
それでコミュニティーが
再生していくきっかけになると
思いますね。
鈴木≫小松さん
ありがとうございました。
皆さんからのメッセージを
ご紹介します。
千葉県50代の方です。
皆さんの生き方に感動。
洗濯物もそのままに避難された
ときの心境を思うと涙が出てきて
しまいました、どれほどの
無念さ恐怖を感じて過ごされた
こと
でしょう、
私自身コロナでいろいろ
ありましたけれども負けずに
頑張りたいですというメッセージ。
それから神奈川県50代の方
ことし会社が倒産してなかなか前
に進むことができない毎日でした。
新しい世界に行けるのか不安に
押しつぶされそうですが
私も頑張ろうと思いました。
皆さんすてきです。
それからはるなさんに福島県60
代の方。
はるなさんが福島への思いを
温かく話されている姿を拝見し
11年前に相馬市の避難所で
励ましてくれたことを
思い出しました。
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